2012年02月19日

霊学51

次に、小此木氏は、
日本的な自己愛は、お互いが自他未分化なまま自己―対象になり合って暮らしていることを意味していますが、この認識は日本社会が母性社会であるという考えにも対応するとらえ方です。
と言う。

そもそも母親は子どもを自分の延長とみなしてしまうし、自分の子どもであるというだけで、理想化してみています。ところが母親が子どもをかわいがるのは自己愛の最たるもので、自分と分化しないものとして子供をかわいがるわけです。子どもにとって母親が自己―対象であると同時に、母親にとっての子どもも自己―対象なのです。しかも女性の自己愛は、現代ではもっとも尊重されるものの一つです。性的な自由だけではなく、母親の子どもに対する母性本能も全面的に美化されている。
小此木

一般の読者を対象にしているせいか、実に、回りくどい説明が続く。

結果は、母と子の世界は、社会以前の感覚的自己愛的な世界である。
そこに、父親が入り、三者関係が成立するとき、初めて自己愛的な世界ではない、第三者が入り、理性的な世界が成立する。

だが、現代は、その第三者としての、父親の存在が希薄である。
よって、子どもは、母と子の、自己―対象の結びつきから、離脱しないまま、思春期まで、成長してしまうことが、起こる。

そして、
自己愛的な人間関係しか子どもにもてない母親に育てられると、子どももそういう自己愛的な関係しか身に付かないわけです。自己愛的な人間関係様式が母親から子どもへと再生産されることになるわけです。するとそこでは母と子の関係の水準で誇大自己がつくりあげられてしまって自我理想が身に付くようなエディプス・コンプレックスを克服する段階に達しないことになります。
小此木

だが、それは、本当かと問えば、人によりけりである。
それだけではなく、思春期前後に、友人、知人などによって、母親との関係を、切る、離脱することが、多々あり、その方が、多いといえる。

分析の通りに、進めば、問題ない訳である。

これでは、多くの人、近親相姦の様子になる。
こういう、一見して、冷静な分析により、逆に、まとまるものも、まとまらなくなるのである。

一理はあるが、三里も、五里もある訳ではない。

ある程度の、水準の家庭では、限定しない方が、間違いない。
これを鵜呑みにし、理解しては、事を誤る。

自我理想は、別の形でも、成長する。
父親不在でも、別の男性、例えば、年上の男子などにより、刺激されて、育つこともある。

母子家庭で、立派な子どもに育ち、15歳にして、自殺するというも悲劇は、確かにある。母の理想に応えて、努力したが、途中で、息が切れて、死ぬ。

それならば、それは、母と子の、自己愛的人間関係様式によって、死を選んでしまったということで、そこに、第三者が介入していればと、思うこともある。

母と子の関係の水準で、誇大自己が作り上げられるという人は、多くは、無い。

人の心を、暴露して、悦に入るという、心理学というものにも、罪があるのである。

そんな意識が、全然無かったが、分析により、知恵を与えられて、解ったつもりになるという、賢い馬鹿が多い。

読み物としては、面白い。
だが、以下は、どうだろうか・・・

そもそも自己愛人間は、相手を愛するからその人と付き合うのではなく、自分の自己愛をみたすために付き合うということができます。
小此木

性生活さえもお互いの性的な欲求や愛情の満足のためというよりは、相手と自分のかかわりを自分たちの自己愛をみたす道具に使うわけです。・・・・
それぞれが、TV、CMや女性雑誌のグラビアの主人公になったような思い込みの中で自分の自己愛をみたすために相手と付き合っているわけです。
小此木

それで、いい。
それくらいが、普通の人の、恋愛なのである。

何も、問題はない。

性の解放以前には、男女関係の基本は性の満足だった。ところがいまのように性の満足が自由に手軽に手に入るようになると、性の満足のために男女関係をもつのは当然であって、それだけでは男女関係がみたされないものになってきました。性の満足の上にさらに男女関係の中で価値をもつものは、お互いの自己愛をみたす関係ということになります。
小此木

矢張り、小此木氏の、分析も、古いものになってしまった。

今では、性の満足を求めることもしない、男たちが増えた。
草食系といわれる。

だが、私は、日本の男子が、性の満足を放棄したとは、思えないのである。それは、つまり、マスターベーションの中に、籠もったと見ている。
世界中で、日本の男が一番、セックスの回数が少ないという、統計が出た。
しかし、マスターベーションの回数は、一位である。

つまり、人間関係全般に渡り、希薄になったと、いえる。
それは、男女関係も然り。

疲れる、面倒だ・・・
更に、同性同士でも、満たせる・・・

ガールフレンドがいるという、男子は、飲み会の後で、彼女に、セックスを求められるのが、嫌だという。
より、病的になったのか、健全になったのか・・・
誰も、解らない。
分析不可能な、時代が、到来したのかもしれない。

posted by 天山 at 00:01| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月20日

霊学52

アイデンティティをまっとうすることが、人間の社会化された自己愛のみたし方になっていた時代は、男性アイデンティティとか女性アイデンティティとかよばれるような役割行動様式、自己像にふさわしい自分を全うすることが期待されていました。
小此木

そして、
つまり男性として(女性として)の自分はかくあるべきだという自我理想があったのです。日本人、ユダヤ人、黒人それぞれについて、同じように民族同一性(民族アイデンティティ)という言葉が用いられました。
小此木

と、続く。
この、アイデンティティについて、少し見ると、自己認識、自分が自分を知るという意味がある。
そして、自己認識とは、自分ひとりでは出来ないものという、考え方が包含されている。

他社に対して、自分は、何々である、という、形で、存在していることを、知ることにより、可能になる、自己認識である。

宗教で言う、神との対話とか、禅による、自己認識ではない。
それは、一人で、自己内省してのものである。

発達心理学で言うところの、父母の目に映る、自分を通し、自分を知る、認識するもの。

更に、その自己認識は、価値規範が伴うものである。
それが、アイデンティティという、大まかな概念になる。

この、自己認識体験は、一歳六ヶ月くらいで、確立するとされる。

それから、自己アイデンティティの生成発展が行われる。

たとえば男か女かということも、自分で選んだわけではなく、たまたまそう生まれてきてしまったわけです。あるいは日本人に生まれたということも、それを、自分の自己価値にして、自己愛をみたすものにするかどうかは、アイデンティティ論の重要な問題なのです。
小此木

ここでは、それにより、性同一性障害などの、特別な例を省く。それは、後に書くことにする。

その社会環境において、自分にとって、不利益であり、パーソナルな自己愛を脅かすものであっても、それが自分である、それ以外に、なりようがない、という、自我の自己選択の決意が、期待されていたのである。

そのような、自己の態度こそ、自己愛を傷つけるものであっても、アイデンティティ感覚を満たす上で、必要なものだった。

だが、そうすることが、出来ないときに、人は神経症的になる。

そういう意味で、幸せな状態は、生まれつき与えられたことが、自己愛と一致する場合なのだ。

ヒトラーにより、ユダヤ人虐殺の当時、ユダヤ人たちは、そうとうに、煩悶したことだろう。そして、黒人である。
徹底した、人種差別の環境にあっては、苦悩以上のものがある。

ただ、小此木氏は、
歴史的、民族的に自分に与えられたものと、自己愛が一致することが、人間にとって幸せなことであるのはいうまでもありません。
そして、
しかしそこで問題なのは、眼の前の周囲の評価にただ一致することで自分の自己愛をみたすことがすなわちアイデンティティとはいえないということです。
と、言う。

現代の自己愛人間は次第にこうしたアイデンティティ感覚を失い、男も女と同じというイリュージョン、あるいは、ユダヤ人、黒人もみな平等という平等幻想の中で自己愛をみたすようになりました。
小此木

これは、恐るべきことである。

30年以上前に書かれた、この本では、そのように分析したが、それで、現在では、どうか。
更に、それが、甚だしくなっているということだ。

当時の、精神医学の新しい認識に、トランス・セクショナリズム、性転換症、という言葉が生まれた。
症であるから、病気である。
しかし、今は、逆の考え方が、現代の思潮になっている。

小此木氏は、
現代人のアイデンティティの喪失の一つの現れです。
と、言うのである。

それは、古い考え方になっている。
コマーシャル・・・
日本に限らず、東南アジア、その他の国で、白人が登場するものが多い。
CMの半分くらいは、白人、ハーフ、黒人イメージで占められる状態。

つまり現代の自己愛人間は自分に与えられた自然の生まれを運命として受け入れ、それを美化したり理想化したりしてアイデンティティに高めるよりも、もしそれがパーソナルな自己愛を傷つけるものであれば、たちまち幻想の中で、自己イメージをつくりかえることで、手近な自己愛の満足に浸るのです。
小此木

相変わらず心の深層にもっている欧米人に対する人種的劣等感を、彼らと同じであるかのような幻想や、もう自分たちの方が経済的に優位だという幻想によって解決してしまうのもその一つです。
小此木

幻想が、許される、時代。
それは、時代性と言うのか。

日本が、経済的に豊かになり、第一次産業に従事する人が少なく、人間が、自然の中で、生きるという、意識と価値を忘れた・・・

鳥や、ブタを殺して、食べるという、原始的ともいえる、実は、貴重な体験をせずに、生きられるようになった。
これは、幸せなのか。

イリュージョン、錯覚と、幻想によって、生き続けることが、本当の幸せというものを、手に入れられるのか、と、考える。

更に、小此木氏は、現実原則感覚が失われた時代、というのである。

次ぎに、続ける。

posted by 天山 at 00:15| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月21日

霊学53

現実原則感覚が、失われた時代ということで、小此木氏が、書いている。

自然から与えられたものは、何でも自分たちの思う通りに変えることができるし、自分に都合のよいように動かしつくり変えることができるという全能感を誰もがもつ時代になってしまいました。
小此木

確かに、そのようである。
そして、それは、西欧の思想に依る。
神の被造物である、自然は、人間の手によって、好きなように、使用するという、考え方である。

それによって、小此木氏は、現代人の全能感は、我々が現実原則に従うより、むしろ操作原則によって、暮らす時代を迎えたという。

この、操作原則について、書く前に、昨年の大震災により、現実感覚が、少しは、取り戻せたのではないかと、思える。
勿論、すぐに忘れて、また、元に戻るだろうが、あの震災は、強烈な印象を与えた。

自然を思うがままに、扱うことは、出来ない。
更に、これから、大地震が起こる確率は、10年以内で70%という。
全くの無力なのである。

それでも、長年に渡り培ってきた、全能感は、消滅しない。

赤ん坊は、快を求め、不快を回避する快感原則に支配される。
しかし、精神身体機能の発達と共に、快感原則を克服し、現実原則に従う事が出来るようになってゆく。

現実感覚身に従うとは、欲求不満に対する、耐久力、迂回行動・・・
それらを、含んだ、自我の適応能力の発達を意味する。

フロイトは、人間が自然環境に対し、適応して生きるために従わなければならないことを、現実法則と、呼んだ。

ところが人類は、これらの現実原則の支配力を大幅に緩和してしまいました。たとえばこの観点からみると、現代の日常生活はすべて、自然環境の直接のストレスから人間を守る間接的な人口環境の中で営まれています。
小此木

それにより、
フロイトの説いた「断念の苦痛に耐える心」つまり、現実感覚であるという、根源的な認識を失わせてしまった。
のである。

それが、
人類全体としての自然の法則に対する自己愛幻想が、想像以上に肥大した日常の中で暮らしているのです。
小此木
ということになる。

アメリカの哲学者、ヘルベルト・マルクーゼは、人間が生活する上で、守らなければならない人為的・社会的なルールを、「執行原則」と呼び、フロイトの、現実原則と、区別した。

マルクーゼは、現実原則の支配が緩和されると、それに代わり、執行原則の支配が、より大きな役割を占める時代が来ると、預言したのである。

それに対し、小此木氏は、
現実感覚が支配する代わりに執行原則が支配する時代がくるというマルクーゼのこの預言は、確かに社会が管理社会化し、その機構が大衆を支配する時代になったという点では当っているのですが、個々の大衆の心理についていえば、このリアリティを直接経験するよりはむしろ、そのリアリティに気付かないまま執行原則を過小評価して暮らすようになったからです。
と、言う。

つまり、現実原則に従う感覚が失われ、執行感覚に従うという感覚も、希薄なままになったといえる。

実際には現実感覚に従うべき局面でさえも、人々はそれを人為的・相対的な執行原則にすぎないとみなすようになりました。
小此木

更に、恐ろしいことは、根源的な、病、死の問題まで、すべて相対感覚で、受け取るようになったことであろう。

この本の発行から、30年を経て、状況は、益々と、それ、になってきた。
これを進化と呼ぶべきか・・・

また、私は、時代感覚が、このように移行し、変動するのは、当然だと、思う。

それで、操作原則感覚の、肥大が起こるのも、当然である。

ボタン、スイッチを押すだけで、生活の必要なことの、大半が、意のままになる。
そして、
われわれは旧来の現実原則感覚を急速に失ってしまいました。
小此木

ここで、学者の、分析がはじまる。
つまり、操作は、主体の個性を必要としない。没個性的な操作により、成り立つというのである。

この事実が、逆にこれらの違い(性別、年齢、教育程度)を意味づけてきた伝統的な価値観を排除する大きな動因になっています。・・・
現代社会の平等幻想というのは、実はこのことと関係が深いのです。
小此木

これは、平等幻想であり、没個性であり、最終的に、私は、誰、私は、何という、意識を生むと私は言う。

そして、それを問う行為が、繰り返されるのである。
つまり、新しい哲学、言葉の世界である。

だから、安易な言葉の数々、稚拙な宗教などの言葉に、乗せられてしまう危険性もある。
生まれた時から、その状況の中で、育ち、個性を知らない、知る必要もない人たちが、愕然とする事態に出遭った時、人生力を発揮する。と、信ずる。

さもなくば、ぼんやりとした、人生の時間を過ごして生きるしかない。
更に、妄想に浸りきるのである。
知らないということを、知らない人間が、妄想の価値観に没頭して生きるのは、悲劇である。

大震災は、それを、教えた。


posted by 天山 at 00:00| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月12日

霊学56

自己愛人間とは本当の意味で自己愛の満足を知らない人たちだともいえるし、病的な自己愛の肥大した人たちともいえるわけです。
小此木

自己愛人間は、存在しないだろうと、私は言う。
小此木氏が言う、自己愛人間は、病的自己愛人間のことである。

大変、参考になった。

もう少し、説明すると、非常に苦痛なことや、恐ろしいこと、醜いことを直視するとき、その現実を否認して、それをとても、良いものとみなす、理想化して、良いものと思い込む、心の防御作用がある。

自己愛パーソナリティは、この理想化のメカニズムが、異常に肥大して、恐ろしいこと、苦痛なことを、排除することで、幻想的な自己愛を満たし続ける、パーソナリティという。

更に、理想化のメカニズムは、さらに、躁的防御のメカニズムになる。

正常な自己愛の場合は、母親が可愛がってくれるときには、喜び、可愛がってくれないときには、腹を立てるという、現実との相関関係が細かい。
しかし、病的な場合は、現実との微妙な関係ではなく、非常な一方的な思い込みでいる。

更に、思い込みの中にいると、調子がよいが、思い込みが外れると、たちまち相手との関係性を断ち切る。自閉的になる。

続けて、小此木氏が言う、健康な自己愛は、
自己愛を満たしてくれるときには、それなりに相手に対して感謝や愛情を感じる。
自分の要求が、叶えられる範囲で、要求する。
自己中心の態度には、相手も自己中心であると、認め合うところがある。
周りの人から、愛されること、誉められたいと思うことが、具体的である。
ということになる。

病的な自己愛の場合は、すべて、その逆になるというもの。

幻想的なものを、要求する。
自己中心性は、非常に冷たい。当然と思う。
抽象的で、具体的ではない。

そして、病的な自己愛の人たちは、被害的な攻撃性があらわれたり、他の人が、自己愛を持つことを、認めることが出来ない。

他の人が、自己愛的に喜ぶと、途端に、不愉快になる。
そして、それを許容すると、離人感に陥るのである。

解りやすい例は、自分がその場で、人気者にならなければ、行かない人。
そして、激しい攻撃性。
それを処理するために、猛躁的になる。

一般に「気むずかしい人」といわれている人の中にはこのような病的な自己愛人間が多いのではないでしょうか。
小此木

人から、本当に理解される、共感される、ということが、本当の意味での健康な自己愛の満たし方であるということ。

この当たり前のことを、いうために、小此木氏は、延々として、語り続けた。

そして、
ところが、現代ではそういう人間同士の温かい理解や共感によって自己愛がみたされるということが失われていく傾向があります。お互い同士が競争相手になって、誇大自己をぶつけ合っている。そしてお互いに相手を道具にして利用したりし合っているわけです。
小此木

自己愛人間になってしまうと、人間的な触れ合いを避けてしまうということになる。

自己愛人間は主観的な思い込みによる楽観主義者であるといえます。
小此木

小此木氏の、個人的研究の成果を、見てきた。
実に、狭い世界のお話しである。
ところが、これを、全体に広げて考え、更に、人を分析するという、愚かな人がいる。

端的に言えば、こういう人たちを、嫉妬の人たちということが、出来る。
世の中は、多く、嫉妬によって、感情を左右される。

または、女性、特に、若い女性たちに、このタイプの自己愛人間が多い。
勿論、年を経ても、そういう人がいるが、老いには、適わない。
そして、誰も相手にしないという状況になり、孤立する。
若い頃は、若いというだけで、誰かが相手にした、老いると、終わりである。

老いても、イリュージョンの中にいて、死ぬことも、錯覚だと、幸せである。

そろそろ、限界に近づいたので、
ですから自己愛人間の病理としては、登校拒否のように一見してわかるおちこぼれと有名なスターやエリートの人間、世間的には失敗者と成功者にみえますが、その両方ともが病的な自己愛パーソナリティであり、自己愛人間の病理としてあげられるわけです。
と、言う。

それで、結局は、イメージの中で、自己愛を満たすという、未来の人間が描かれる。

つまり、死ぬこともなければ、生きていることもない、純粋に、イメージだけの愛の対象と主観的な思い込みの中でともに暮らすようになるのではないでしょうか。
小此木

これにより、小此木氏が、病的自己愛人間の一人であることが、解る。

心理分析、精神分析が、まだまだ、未熟であり、更に、研究が進んでも、ゆくべき先は、おおよそ、予測できる。
どんな人間像を描いても、その時代のものであり、普遍的なものではないこと。

対処療法の域を出ないのである。

更に、世間を混乱させる、言動である。
学問の世界にいるというだけで、世間に発言力がある、心理学者、精神科医である。

最も、それは、本人に必要なものだった。
彼らこそ、それが、必要だったのである。
だから、徹底した、心理学、つまり、他の学問を取り入れ、模索する、心理学の学者がいることが、救いである。

だから、心理学を批判出来る。
批判出来るものこそ、批判に値する学問である。


posted by 天山 at 07:00| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月13日

霊学57

心理学の大海に正しいダイビングを行おうとする試みは、その飛び込む人の居住地や国民性が彼の心にいろいろな限界を与えているということから、ときどき批判されることがある。・・・ニーチェは次ぎのような疑問を提出した。すなわち、ロックよりこのかたイギリスに生まれた哲学者たちが、心の単一の普遍的な原理を、“彼らの民族の知的自尊心がそれを認めることを最もいとうような一角“に求めてきているのはなぜか。”たとえばそれを、習慣の慣性とか、忘れっぽさとか、観念の盲目的で偶然的なからくりと連合、あるいはまぎれもなく受動的で、反射的で、基本的にはくだらないような要因のなかに“求めてきた”のはなぜかというのである。

ウィリアム・ジェームズは、ドイツの高名な科学者の「精神物理学」を評して、退屈することを知らぬような民族の国でなければ起こりえない「微視的」心理学とよんだ。
ジョン・コーエン

このような、話しが延々と続く、心理学を学ぶ人のために、という、コーエンの序章である。

最初に、心理学というものを、めためたに、切り捨てている。

勿論、人間性の心理学、という、タイトルであるから、心理学の講義に入っててゆくのだが、既成の心理学というものの、定義を、撹乱させている。

一体、心理学が、この世に果たす役割は、何か、である。
プロも、素人も、同じ位置に立つ事が出来る、心理学という、一見、学問に似たもの。

更に、多くの統計を集めて、それを基にして、何やら分析めいたことをする、輩。
更には、奇想天外な人間の心理を披露して、皆を、素人を脅かせる学者。
最も、最低なのは、占い師の如くに、先を預言してみましようと、ノタマウ、心理学というものの、怪しさ。

心についての理論を作るにあたって第一歩は、特に理論家の個人的性格と彼の社会的相続財産によって影響される。これらニ種の影響は、それぞれ思考の心理学および知識の社会学によって研究される。またこれらは、心を限定する特徴を示しているが、それは、心が自身の性質を吟味する際に明らかになるものである。しかし、これらの限定のタイプを、ここで追求するつもりはない。
コーエン

ここで、追求するつもりは、無い。
ところが、それを追求する者を心理学者と呼ぶ人の多いこと。

心が自身の性質を吟味する際に明らかになる・・・
一体、心理学を学ぶ者は、どうして、心理学を選ぶのか。
他者を理解するのではなく、私自身を理解したいがために、学ぶといえる。

それなのに、ああそれなのに・・・
それで、他者を心理学の枠に嵌めて判断するという、誤りを犯す。

最初に、コーエンが書いたように、心理学とは、他の学問の基礎的知識があり、理解があって、はじめて、成り立つものであることを、書いていた。

心理学、唯一つでは、如何ともしがたいのである。
心理学は、もぐら叩きに似るものである。

こちらを叩けば、あちらに出る。あちらを叩けば、こちらに出る。
どうも、せん無いものなのである。

人間の心を扱うということは、その心が、いつも、流動的であることを、知る以外に無い。それでも、傾向という意味では、まあ、何とかなる程度である。

いくつかの仮定が、ときどき、次の文章におけるように、とまどうほどの率直さで表されることは注目してよかろう。
わたしは、将来の研究では、仮にネズミなら、かくかくの食欲に結びついたかくかくの要求と、かくかくの程度の分化などの結果として、どのように行動するだろうかを、さらに想像し続けてゆくつもりである。とーーー
いわば、この理論家は、初めに彼らネズミであったならどう行動するかを想像し、そこでこれに基づいてネズミの行動を解釈し、終わりに、このことから、彼のような人びとが実際に行動する仕方を立証することを提案しているのである。
コーエン

これは、心理学を学ぶ者が、知らずに陥る穴、大穴である。

上記の文を、笑う心理学者がいるだろうか。
しかし、彼らのやっていることは、これと、同じなのである。

セックス分析のことで、相手の気持ちになり、相手がして欲しいと思うことを、するべき。相手、女の気持ちになり、どのようにされたいか・・・
さて、女の気持ちになり、考えてみましょう。
自分が女であれば・・・
どのように乱れるだろうか・・・

実に、馬鹿馬鹿しいが、心理学者が、それをやるのである。

ゲイの女役であれば、考えられる限りのことは、考えるが、ノーマルな男が、女になって云々など、考えようがないだろう。

ところが、心理学は、平気でそのようなことを、やる。

お笑いになるのである。
そして、お笑いは、心理学の最高の批判でも、ある。

エール大学のクラーク・ハル博士の入念の体系は・・・
彼は一つの摩天楼を打ち立てようと努めたのであるが、それが砂上の楼閣と化してしまったことは確かである。彼は、あらゆる人間の行為は、「動因解消」の快を通じて獲得された習慣族階級によるということを自明のこととする。その結果、われわれの思考と感情、夢、目的、そしてその他の心のあらゆる創造物は、神経系という墓の中に永久に葬られるのである。
コーエン

時代に迎合すれば、何でも、心理学で、解決されると思う心の哀れさ、である。

日本語で、読むと、心のことわりの学、である。
訳語が悪い。
心霊学と言うと、げーーーとなる者が、心理学だと、げーーーと、ならないのは何故か。

心流学であろう。
心が、ながれる学である。

心理家で、定義を持つことは、危険極まるのである。
定義みを当て嵌めて、ハイ、一丁上がり・・・

幼児期に、糞をするたびに、叱られた。
ゆえに、私は、糞をするたびに、嫌悪感と、罪悪感に苦しむのです。

高学歴の、エリートが、浣腸セックスを好むのは、幼児期の、糞をする快感が忘れられず、それを繰り返すことにより、自己のアイデンティティを取り戻すのです。

こうなれば、何でもありの、心理学である。
更に、パーソナリティーとなれば、百花繚乱の形相である。

あたかも、人生を悟ったような、心理学者の、お説を後生大事と抱き続けている、アホの多いこと。

心理学が、世のために働くのは、臨床の場である。
机上の空論ではなく、実際の現場における、理論を忘れた、人間性によるものである。

posted by 天山 at 06:34| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月15日

霊学58

パーソナリティの研究においては、攻撃開始の根拠地を見つけることがむずかしいために、そのほとんどは、すでに棄てられてしまっている、暗い荒れ果てた老朽理論の奇妙な陣立てに頼ることになる。
コーエン

日本の心理学愛好家たちは、それを無批判に取り入れて、騒ぎを大きくし、何ら、それを日本的に解釈しなかった。

今でも、賢い馬鹿たちは、老朽化した理論で、何やら言うのである。
そして、心理的には・・・

それに対して、コーエンは、明確に、
かなり気のきいた陣立てのうち二つのものは、全く簡単に「inter personal」という表現にハイフンがあるかないかによって、それと見分けることができる。「inter-personal」と「interpersonal」かである。
ハイフンで結ばれている・・・にあっては、人はおのおの個人的な行動の「法則」に支配され、そして事情によっては他者に関係をもつ、一つの自己充足的な存在であると考えられる。これはたんに、J、S、ミルのいう個人主義にすぎない。彼によれば、社会のなかの人間といっても、それは、個人的に人の法則に由来し、またこれに帰着させることのできるもの以上の性質をもつものではない。そしてこのようなドグマが、いわば独立独行の人間についての心理学の礎石を与えたのであった。
ハイフンのない・・・は、反対に、個々の人という概念は形而上学的なものであって、このような単一の存在についての経験的知識は得られないのだ、という態度をとる。
われわれは、単に人と人との間の関係について知りうるにすぎない。したがって、「interperson」から始めるべきであり、個人から取り掛かってはならないのである。
と、言う。

心理学が、何故起こりえたのか・・・
物理学、化学、地質学、数学、発生学、それと伝染病学、これらがおのおの心理学への刺激の源となったのである。
コーエン

経済学でさえも、その効用をもったのである。

心理学の歴史は、そのような類推に基づいた、着想の流れと考えられる。

だが、一つの領域で妥当する考えが、別の領域に影響を与えるようになるまで、時間的遅れがある。その時、すでに、その考えが、本家本元で棄てられてしまっていることがある。

日本の心理学者で、早くから、それに気付いていた一人に、岸田秀がいる。

パーソナルとは、日本語では、性格と言われる、
その、性格の傾向と対策・・・

性格分析が、いかにお粗末であるかは、知られた事実である。
大雑把なことを言えば、遠からず、当るのである。

占い師と、変わりないのである。

岸田秀のエッセイの中に、
要するに、性格とは当人の「大袈裟に言えば」世界認識における盲点を表しているのであって(したがって、もしすべてを見通す全知全能の神が存在するとすれば、彼は無性格であろう)すなわち、ポジティブなもの「実体」ではなく、ネガティブなもの「欠落」であって、彼には何が見えていないかを知ることが、彼の性格を理解する鍵である(そして、言うまでもないことだが、他人の性格を判断するわれわれ自身の世界認識にもどこかに盲点があるのだから、他人の性格を判断してその「歪み」を正してやろうとするのは、馬鹿が馬鹿を指導するようなものである)。したがって、ポジティブなもの「実体」ではない性格を、血液型とか、リビドーの内向または外向とか、いろいろな衝動の力関係とか、大脳皮質に形成された条件反応とかの実体的なものによって説明しようとするのは、何かが欠けていることでできている穴という現象を「穴とはいかなる物質でできあがっているのか。丸い穴の物質組成と四角い穴のそれとはどう違うか」という観点に立って研究しようとするのと同じであって、まさに荒唐無稽である。
と、ある。

これを、大真面目に、学問として、取り扱う人たちの、神経が知れないのである。
実に、神学に似た、妄想であるとしか、いいようが無い。

心理学を学ぶと、何かが、解った気分になるというのが、いい。
解った、つもりである。

そして、そこから、生まれる臨床心理士という、人たちも、解ったつもりで、人の悩みを聞いている。
そして、回復に向かいつつあるなどという、妄言を吐く。
本当は、彼らではなくても、誰でも、出来ることなのである。

要するに、話しを、よく聞く。
それだけで、人は、その人なりの、人に成ってゆくのである。

少しばかり、道に迷ったのであり、専門家といわれる人たちの、存在などは、いらないのである。

暇な、爺さん、婆さんでも、できるのである。

心理学の方法によって、立ち直ったという学者が、事例を書くが、治らなかった人の方が多いのである。

そして、治らなかった人は、二度と足を運ばないから、解らないのである。

昔、精神分析で、うつ病を治療するのに、どれほどの時間を費やしたか。
しかし、治らないのである。
ところが、坑うつ剤、一粒で、めきめきと、改善に向かった。

何のことは無い、脳内物資のゆえであり、いくら精神分析をしても、治るわけがない。
ただ、それに意味があるとしたら、暇をもてあました、金持ちの奥様くらいであろう。

そんな暇の無い人たちは、早々に、病院に行き、坑うつ剤を処方されて貰った方が上々である。

親はなくとも、子は育つ。
実に、明言である。

心理学がなくとも、人間は、成長するのである。
しかし、もし、心理学を学ぶとすれば、そこに、大海に船出するほどの、覚悟が必要であるということ。

常人には、出来ないことである。
いずれ、無意識について、書き始めるが、ユングは、狂う寸前までいった。
そして、その狂いを止めるために、東洋思想と、オカルトに目覚めた。

心理学というもの、単独では、知りえないものである。
つまり、心理学書だけでは、危ういのである。

人間の心などという、魑魅魍魎の巣に、入り込むなど、よほどの馬鹿でない限りは、しない。


posted by 天山 at 05:50| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月16日

霊学59

心的事象を、物理的事象を支配しているのと同じような法則に従うものとして考え始めた人びとのなかに、トマス・ホップスがいた。ニュートン誕生の年、1642年に出された「市民論」のなかで、ホップスは次のように書いている。「だれしも自分にとって善なるものを追求し、悪しきものを避けるよう強いられているが、これは、石が落下しなければならないのと変わりないくらいの必然性によるものである。」このニュートン流の比喩的表現は、物理科学によって刺激された、心理学における以後の多くの類推に先駆であった。これらの類推の一つが、連合の原理を生み出したのである。こうしてこの原理は、初めから物理学における重力に対する心的な対応者として考えられてきたように思われる。
コーエン

その他、諸々の心理学の発生がある。
心理学が初めから、心理学としてあったのではないということ。

心理学は、生まれたてのものである。
しかし、それは、それ以前の学問の多くから、ヒントを得てきたものである。

心というものを捉えるには、古代バビロニアまで、遡ることが出来る。

最たる、古いものは、天文学的心理学である。
つまり、星占い・・・
今でも、星占いは、人間分析をしている。
分析に明け暮れて、星占いは、ついに、心理学と競合するようになり、しまいに、合体して、心理占星術とまで、至った。

それほど、心理学というものは、どうにでもなるものなのである。

コーエンを続ける。

心の力学、つまりその静力学や動力学という考えは、ヘルバルトによって心理学に導入された。彼は、観念とは、完全に自由な状態と完全に制止の状態との両極の間を移動できるものであり、そして常に自由の方向に向かおうとしているものであると考えた。重力が物理的力学の基本的原理であるのとちょうど同じように、心的力学の根本原理は観念の「運動」である。同じようなもくろみを抱いて、オストヴァルトは、エネルギー論の考えを人間の幸福についての科学的研究にまで拡張しようと試みた。
コーエン

このようにして、心理学を解体してみると、より一層、心理学の位置が明確になる。

単なる、思いつきの心理学が、いかに多いかがわかるというもの。
更に、ハウツー物による、適当な心理学の著書の数々である。

占いと同じように、当るか、当らないか・・・
これでは、終わっている。
しかし、真面目にそのようなことを、大学などで、教えている学者という、教授たちは、何を教えているのだろうか。
大半は、習ったことを教えている。
哲学者と同じように、海外の学者の著作の紹介をしているのである。

何の発見も無い、無能な人たちが、心理学という、学問として、学者と思い込んで、教えている。また、習う学生も、知った風な気分になって、おしまい。

何せ、・・・心理学の多いこと。
誰がどのように名付けているのか、兎に角、心理学の前に題名をつける。
題目のように、それを繰り返しているのである。

一々上げる必要もないほど。

心理学という学問には、ベースがあるということだ。
ベースの無い心理学というものは、皆無である。

面白いのは、宗教心理学・・・
笑ってしまう。
そのうちに、瞑想心理学、セックス心理学、ゲイ心理学、果ては、レディーボーイ心理学・・・
いくらでも、出る出る。

という心理学の、商売化である。
更には、それをマスターして、心理カウンセラー・・・
ちなみに、私も、家庭生活総合カウンセラーという、肩書きを持つ。
一体、何・・・

カウンセラーと、クライアントとは、心理カウンセラーとしての、言葉だったが、今では、何でも、カウンセラー、つまり、相談員である。
クライアントとは、相談者である。

これほど、世俗に侵された学問も珍しい。
科学的という、言葉で人を惑わせるモノ多数。そして、心理学では、云々・・・

学者たちは、笑うだろうが、身から出た錆びという。
そして、皆々、それに影響されて、分析の嵐である。
分析をよくする者、分析に溺れるのである。

「心的化学」の考えは、J・S・ミルを魅了し、彼はこれをもってその父J・ミルの好んだ心的力学に代えた。観念は化学に似た仕方で結合する、と彼は考えた。このようにして、観念は、水素が酸素と結合して水になるように、なにか新しいものを生み出す。プリズムの分光色が、すばやく連続して見せられると、一つ一つの光線が白ではなくても白色を「生じさせる」のと全く同じように、単一の諸概念が混ざり合うことによって、より複雑な観念を生み出すのである。
心的化学は、中世紀以後の錬金術者の治金術的心理学を思い起こさせる。錬金術者にとって、金属とその諸性質は、象徴的な霊的意味をもっていたのであった。こうして、ジョン・ボーディジは、その「ソフィア」のなかで次ぎのように述べる。

「したがって、また、わたしがあらゆる毒害と俗悪さを根本から完全に浄化するべく・・・
わたしの空虚なつまらぬ欲望と、この世の享楽の毒害が、その火によって燃え尽きてしまい、わたしの鉄や錫や不純物のすべてがこの炉の中で完全に溶かされてしまうまで、自分の意志を、潔めの火であるその「賢者の」溶鉱炉に全くまかせきった。こうしてわたしに純金としての精神が現れ、わたしのうちに新しい天と新しい地とが創造され、形づくられるのを知ることができたのである」

それが、先に書いた、古代バビロニアの天文学的心理学に通じるのである。

心的生活についての「地質学的」類推は、児童発達に関する成層化理論に例示される。この説は、心は、養分摂取過程、感覚過程、運動過程に対応する低い層と、記憶や推理のような機能に応ずるより高い層とから構成されており、子供が成長するにつれて形づくられてゆく連続的な層をなしていると考える。
コーエン

それは、また、フロイトにも、用いられた。

更に、パーソナリティーが、地質学的層に比較しうるような層の構成されたものとして述べられている。

あらゆる手法を取り込んで、心理学というものが、成り立ってきた。
そして、臨床として、用いられて、その面目が立ったのである。

勿論、最初は実に、単純なものだった。
例えば、心理カウンセラーの原理は、共感と受容である。

そんなことは、言われるまでもないことであるが、学問である心理学が言うのだからと・・・
その言葉を崇めた。

相談員が、相談者と、共感せず、話しを受容しないで、どうする・・・
理解せず、受け付けなければ、何も始まらない。


posted by 天山 at 00:15| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月17日

霊学60

彼は、ダブリンのムロスにあるセント・ニコラス寺院に属するセント・メアリ教会付属の牧師であったが、「天国の算術」を見出すことに熱心で、1859年に出された彼の論文は、代数とその計算法を、形而上学的、道徳的、社会的、そして政治的な問題、さらに教会に関する事柄にまで適用しようと意図したものであった。彼は詩篇第18番を計算法の用語に翻訳し、次のようなことを論証した。

ダビデの教育上の優秀さとか資質―――彼の敬虔さ信心深さ、謙虚さなどーーーの増加量は非常に大きなものだったので、彼の生来の才能と地位とに乗ずると、その積は、量において王位や名誉や権力などに、つまり天上の属性に匹敵するほど偉大なものである。
コーエン

面白いのは、それを、家庭問題にも、及んだという。
例えば、女中の行為の変化が、この家庭の色々な成員に与える影響を、計算するという・・・

ところが、グレック氏のこれらの功績は、パーソナリティーの「測定」においてもっと大きな手柄をたてようとして躍起になっている今日の熱狂者たちによって、とっくに追い越されてしまっている始末である。
コーエン

ところが、である。
蒙昧は、続く。

真っ当な人も現れたが、真っ当ではない人の方が多い場合は、真っ当ではないものが、正しいとされるし、心理学に、真っ当か、正しいかなど、問うこと自体が、誤りなのである。

簡単に言えば、どうでも、いいものに作ることが、出来るのである。

アメリカの牧師である、マフィーという人の、法則がある。
有名である。
それを真っ当か否かと、論ずることは、出来ない。
ただ、信じる人たちが、信じている。

マフィーが、とても、偏屈で、人の、ど肝を抜く、逆説の主であるかが、よく解るのである。
そこに、ベースになるものが、新約聖書である。

それで、愛好家たちは、当っていると、占いのように、使用する。
そうだ、そうだ・・・
そして、マフィーの法則にすっぽりと、自分を嵌めてしまうのである。

それで、一丁出来上がりになる。

一世紀前に、プールは、数学的概念を借りて、次いでこれを新しい対象に適用する場合に、その用法を支配している法則が不変のままであると考えるのは、誤りであると警告した。パーソナリティーを統計学的な武器でもって征服しようとする見当違いの試みにあっては、この警告はひろく無視されてきているのである。
コーエン

つまり、パーソナリティーについて、というものが、いかに、偏狭であるかということだ。

心理学用語を多用して、パーソナリティーを語る人たちが、後を絶たない。
統計学的な武器で・・・
その通り、統計学なのである。

その統計に、人を当て嵌めようとする、馬鹿な心理学愛好家たちである。
児童心理、発達心理には、それなりの、統計的な考え方が、ある程度、当てはまる。しかし、それが、すべての人にということは、無理がある。

だから、それらの心理学的考察には、誤りがある。
統計学的判断により、通常と違うとして、異常と判定された場合に、どうするのか・・・
矯正が必要なのか・・・

私は、必要ないと、思う。

この、必要ないは、確信である。
新しい子供たちが、既存の心理学の枠に入り切れると思うか・・・

それは、時代性と、時代精神を、無視していることになる。

まだ少年であるものが、企業を作る時代である。
それを、どのように解釈するのか。

心理学で言うところの、成長の過程を、超越して、成長する、子ども達である。
つまり、私は、心理学というものは、いつも、流れている、流動的であるという。

解ったような、解説は、もう、無しである。
人間を扱う、特に、心を、扱うものは、常に流れているのである。

ということは、心理学というものは、定説が無いという学問であるということだ。

定説を作らない、作れない学問、それが、心理学である。
基準も、設けられないのである。
だが、基準も設けられないということは・・・

困る。
それで、学者となって、大枚な金を得ている、大学の教授などは、どうする。
それは、それでいい。

百年前の、心理学を講義していればいいのである。
そういう時代もあったという・・・

学問は、謙虚でしか、有り得ないし、また、学問は、変容するのである。
解らないことは、解らないのである。

新しい世界を、生きる人の、心理など、誰が解るのか。
解るというのは、単なる、傲慢である。


posted by 天山 at 00:08| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月18日

霊学61

心理学の、もっとも新しい「類推的」な研究方向のなかに、特に目につくものが二つある。知的発達に関するピアジュのきわだった学説は、「発生学的」心理学といってよかろう。この説は心的構造の出現と発達および成熟を、発生学者が身体構造の発達を記述するような仕方で跡づけるからである。
ピアジュは動物学からその研究を始めた人である。彼は自伝のなかで、動物学で得た心の習慣は、彼が心の研究に転じたときもよく役に立ったと語っている。ここで彼は「一種の知識の発生学」を発見したのである。
コーエン

実に、面白いことである。
別の部門からの、心理学への、挑戦が、新しい画期的な心理学理論を生み出すという・・・

最初から、心理学に取り付かれると、視野の狭い、心理学至上主義になる。
そして、世の中に、心理学用語を多用させるようになり、更には、それが、混乱を引き起こす原因になる。

心理学を信じてしまう人たちに、多い。
その分析をもって、すべてを知っていると、勘違いする人たち。

心理学の専門家を、マスコミが上手に使えないこともある。

ライオネル・ベンローズ教授が心理学に導入した「伝染病学」からの類推にもまた、一方における感染の伝播と他方観念の伝達との間の類似に基づいた、かなりの関心をひく新奇な考え方がある。身体的な伝染病学における三つの主要な要因、すなわち、感染源、伝播の媒体、およびこれにさらされた住民の感受性に対応して、心の伝染病学には、1、観念の質、2、伝達のいろいろな媒体、3、受け手の心の状態がある。このような心的伝染病は、熱狂、流行、信仰の復興運動、戦争熱、ダンス熱とか、学界の成長の形で現れるであろう。
コーエン

これで、宗教、カルトなどの、心理学的アプローチが出来る。
このような、教養が、脱洗脳などの、手法に生かされるはずだ。

この分析により、数多くの宗教の、誤りも、指摘することが、出来るようになる。
更に、逆に、宗教の拡大路線に関する、考察もである。

更には、商法に関する、アプローチもある。
心理学が、人間の生活全般に渡って、如何様にも、利用できるものになるのは、その心理学以前の、教養である。

心についての「経済学」は、意識を一定量の物理的エネルギーの生産と分配と消費によって統制されるものとする、フロイト流の考え方に明らかにみられる。この統制は、最小の努力で最大の利益を得ようとする経済学的な原理に従うものとされる。この観点はいろいろな心的現象を説明し理解するのにあずかって、きわめて大きな助けとなることが明らかにされてきている。
コーエン

この時代に、明らかに、されてきているというのだが、現代は、もっと明らかになっているだろう。
更に、細分化して、心理学の、あらゆる分野で利用されているはず。

意識を、物理的エネルギーの生産と消費と、捉える考え方は、実に有意義だろう。
それを、心的現象を説明する方法にする。

それが、説得力を持つのである。

だが、これは、あくまでも、心理学のみに限る。
それ以上の分野、例えば、精神病理学などと、一緒にしないことである。

今は、心理学というものの、定義である。

限りなく、学問としての、心理学であり、占いに似たものではない。
つまり、簡単に人の心理を分析するな、ということである。

コーエンは、最後に、と、
「神経生理学」があるが、これは心についての類推の完全なよりどころと考えられるまでになっているものである。
と、言う。

これは、主観的経験のあらゆる形式、つまり、意識、意志、感情、情動、欲望、思考など。それは、単なる副次的現象であり、それを「科学的」に研究するためには、神経生理学にあますところなく「還元」されなければならないのである。
と、している。

ところが、心理学的世界がそれみずからの権利で、そして自身の言語でもって研究されうるということを否定しているのは、じつは神経学者ではない。罪があるのは、ラッセル・ブレーンが、「自身の心の非存在をこと細かに説明することで生計を立てている」と表現した哲学者たちにそそのかされた、自称「心理学者」たちである。
コーエン

現在も、この自称心理学者が、多く、世に憚るのである。
大学で、心理学を講義しいてるから、心理学者なのではない。

彼らは、誰かの、考え方を、伝えているだけである。
それなのに、心理学者であると、信じている。

教訓的なことは、フロイト自身が、初めは生化学的な、そして神経生理学的な還元主義に傾いたが、後にこれをやり遂げる望みを棄てて、純粋な心理学である彼の体系を発展させたということである。
コーエン

それは、心の研究は、大脳の解剖学的研究から完全に分離されなければならないということである。
と、なるのである。

大脳の解剖学的研究・・・
それは、精神医学によって、生かされるべきものである。

すでに、脳と、心との区別を持っていたということである。
つまり、脳は、心ではないのである。

フロイトは、平衡の考えを、自己の体系の基礎に置いた。
それは、クロード・ベルナールが最初に、示唆した、平衡の概念である。

ベルナールの、還元主義が、心理学に持ち込んだものである。

ベルナールは、身体が安定した状態を維持しようとする傾向をもつという、意味において、厳密に生理学的なもの以上の意味をそれにもたせようとしたのではなかった。フェヒナーが、その「恒常性の原理」において、この平衡の概念に心理学的な内容を与えたのである。

そして、デルブフが、「緊張の法則」として、生体が適応している最適な刺激水準の何らかの変化によって、平衡の喪失が起こると述べて、これと、緊張―弛緩の連続をあげるヴィトンの説と、同じ言葉を少し変えて、述べたものである。
と、いうことだ。

1895年、フロイトが、プロジェクトに、慣性の原理として、現れたものが、後に、快原則となり、それは同じ考え方である。

平衡の原理は、それが起こってきた生理学でどんな価値をもとうとも、恒常性、安定性、ホメオスタシスあるいは負のフィードバック、その他何と呼ばれようとも心の領域におけるその説明的価値は限られている。個人的行動、あるいは社会的行動いずれについても、完全な説明を与えることはできない。それは、安定性と、変化に対する抵抗という重要な要素を言い表すのには役立つが、不安定性と変化への衝動が人間の生活において果たす役割については何事も伝えはしない。
コーエン

これは、とても、大切なことである。

人間の行動は、恒常性に対してまさに対立命題となる原理を認めずには理解されない。
コーエン

つまり、人間は、いつも、不動ではない、不安定であり、更に、多くの衝動を抱えて、それが、行動を促すのである。

更に、人間は、今までの殻を破り、新たに、生まれようともするのである。

コーエンは、実に烈しい否定と烈しい言葉で、過去の研究を裁断する。

行動を説明しようとする、還元主義者は、人間の、恒常性の原理ではないと、言う。

そして、還元主義に対して、決然として、反論する。

人間は、人生において、不安定を求め、更に、平衡を去ろうとする。
つまり、観念の枠では、捉えられないものなのである。

コーエンは、心理学を学ぶ前に、として、延々として、過去の心理学に対する、蒙昧を叩き潰しているのである。
だから、もう一度、コーエンの最初の、心理学に対する、烈しい、書き込みを読み直して欲しい。

まだまだ、コーエンの文を続けるが、私は、心理学が、時代と共に、変転して行く様を見る。
過去の事例が、必ずしも、現在に当てはまるのではないということ。
その観念により、人を分析するのは、誤りであると言うことだ。

心理学が、学問として、認知されるならば、学問に必要な、進化し続けなければならない。

日本の心理学者のように、文献を紹介して、少しばかり何かを付け足して、終わるようなものではないのである。

人間は、常に、新しい者なのである。
平安時代の、物の怪を笑えないのである。

100年後に、現代の心理学が、平安時代のもののように、笑われる・・・かも


posted by 天山 at 06:52| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月12日

霊学62

還元主義者の代弁者は何というであろうか。まず初めに、彼は、大脳の大まかな名称として「心」ということばを使うのはまだ許されるが、それとは別の実体を表示するにもはやこの語を用いてはならないと説く。こうして、直接経験についてのすべての問題が全く無視されてしまう。
コーエン

心的なものは、物理的なものから、間接的に、推論されるだけに過ぎないと、考えるのである。

コーエンの烈しい批判が続く。
実に、面白い。

心理学・・・
そこに至るまでの、道のり・・・

心理学とは、何か。
傾向と対策である。
とすると、占いと、変わらない。
複雑にすれば、複雑に、簡単にすれば、簡単になるのである。

ところが、馬鹿な、心理療法家などが、何やら、解ったような、言葉の羅列で、患者を混乱させる。

その言葉の、概念を知らない者は、はぁーと、聞くしかない。
それでも、症状が緩和した。
癒えた。
ウソである。

誤魔化したのである。

「還元主義」の司祭長ルドルフ・カーナブである。彼の最近の著作から受ける第一印象では、彼は心理学的現象の解釈について、初期の固執な立場を和らげているようにみえる。いまや彼は、ほかの人々が疑ってみることが必要だと思いもしなかったこと、つまり、行動主義が内観を全く拒否するのは、全然必要のないことであり、また、想像や感情など、自己の状態についての人の意識は、原理的には外部からの観察と違わない一種の観察であることを認めなければならないということを、容認するのである。
それゆえに内観は、その主観的性格によって限定されはするけれども、正当な知識源である。
カーナブルがまた今日認めているのは、行動主義理論の偏狭さは、一つは、彼とその一門がかつて真理の旗印として掲げた完璧の経験主義の影響によるということである。
しかしカーナブルたちは、もはやこの旗印が自分たちと同一視されることを願っていない。しかしながら、たちまち明らかになることは、これらの譲歩が実質を伴っていないことである。・・・
カーナブルはなお従来と同じく熱心に、微視的生理学「すなわち、細胞、分子、原子、そして場による解釈」によって、心理学を究極的に微視的物理学にまで還元することを信じている。これは、古い時代おくれの物理主義を磨き直して、新しく見せかけたものである。
コーエン

要するに、人間の外的な行動の研究により、得られた知識は、内部経験から得られる知識に、取って代われることは、できないということだ。

実に、烈しい攻撃的、否定的、発言である。

それが、一見そのように、見えないのは、文体のせいであろう。

こうして、心理学者の戦いは、同じ心理学者に向けられる。
そうして、延々と続けて行くと、患者などの、治療・・・そんな暇は無い。

だから、どこかで、エィと、切り捨てて、試験に合格して、何やら、世の中に、はばかるのである。

心理学の、実験、調査などがあるが、信用するに足りない。
その日の、気分で、人は変化、変容する。
ただし、過去の事柄については、正しい。

性意識調査を行った、アメリカの、あの人のような・・・

心理学者の、課題は、物理学者が捨て去ったものから、取り掛かることだと、コーエンが言う。

もしも心理学者に、神経生理学の言語に翻訳できるように記述を行うことしか許されないのであれば、心理学者は何も言うことができなくなるであろう。
コーエン

心理学における、歴史的考察を批判して、心理学を学ぼうとする人たちに、コーエンは、警告を発しているのである。

だから、過去の、心理学もどきにある、学問的分野からの、発言を徹底的に、攻撃している。

何度も言うが、これは、心理学を学ぶ人のために、という、序文である。

そして、心理学の定義づけを、行う。

心身の全体性という概念は、病気を特殊な単位としてうち建てる、もろもろの仮定を一掃する。独立した実体としての病は消えて行く傾向を持ち、病というものが症状に対して、ある自然な種としての役割をになわせることもなくなり、また生体に対して、ある異物としての役割をになわせることもなくなった。反対に、今や個人の総体的反応ということに特別な地位が与えられている。病的過程と、生体の一般的機能との間において、病はもはや自律的な実体として介入しない。病とは、病める個人の生成過程において、ある抽象的な断面を切りとったものとしてのみ、考えられるにすぎなくなった。
精神疾患と心理学 ミッシェル・フーコー

上記は、哲学入門という、シリーズの一冊として刊行された、フーコーの処女作である。

心理学には、哲学が、欠かせないという見本である。
哲学の素養の無い者が、心理学を学んでも、泳げないのである。

精神科医の文が、味わい深いのは、哲学が種にあるからである。
そして、心理学者の、味わい深いものも・・・

ただし、それには、中々、お目にかかれないのである。
何故か。
哲学が無いからである。

深い哲学的洞察と、心理学の深い洞察・・・
人の心は、哲学に結びつくのである。

だが、人生は、短い。
学んでいるうちに、死ぬ。

だから、どこかで、線引きをして、心理学者が、生まれる。

霊学に、至るまで、延々とこれを、続ける。

哲学は、霊学に向かって進むのである。
いや、これは、心理学か・・・


posted by 天山 at 00:02| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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