2012年01月25日

カンボジアの悲劇

世界遺産である、アンコールワットにある町、シェムリアップに出掛けた。

今回の旅の、言葉・・・
私は偽善者である。
支援は、糠に釘である。
日本人は、余りにも、恵まれ過ぎた。
日本人の意識は、グローバル化に、対応出来ない。
東日本震災の規模の災害が、もう三度起こらなければ、日本人の意識は、変わらない。

実に、悲しいことであるが、日本人は絶望を知らなければならない。

貧困の極みを知らない、忘れた日本人は、罰が当る。

私の母は、敗戦間際に、樺太から、逃れて来た。
そして、極貧の生活をした。
だが、それを、真っ当に語ることをしない。

七十代以上の人の話を聞かない、日本人は愚かである。

更に、天皇陛下の存在に関して、無関心な日本人は、実に哀れである。

未来は、過去に、含まれている。
何故、歴史を学ぶことを、しないのか。

試験に受かるための、歴史ではない。
歴史の本来の姿を、学ぶべきである。

そうすると、日本の天皇の存在が、明らかになる。

宗教の開祖、教組、更に、霊的能力者が、天皇の存在を、霊視できなければ、その人は、何も見えていないということである。

日本は、特別な存在の国である。
しかし、昭和天皇は、民族として、特別な存在であるということは、無いと、断定した。
民族は、皆、大切な存在であるから、日本民族が、優れているとは、過ちであると・・・

当時の、軍部の教えを、否定した、昭和天皇である。

それは、明治天皇の、八紘に通じる。
八紘とは、世界である。
世界は、一つの家族である。

見事に、天皇は、世界を捉えていた。
世界の君主で、そのように、考えた者は、日本の天皇のみである。

私は、その天皇の存在する国に生まれて、幸せである。

大君の
おわす御国の
民として
静かに垂れる
心静かに

民族の優越を、論ずることなかれ・・・
皆々、同じ人間である。
それを、昭和天皇は、共産党に踊らされた民衆をも、あれも日本人であろうと、仰せられ、皇居に侵入した、過激派に対して、あはれ、を、抱いたのである。

この、天皇、大君を、戴く日本という国を、私は特別な国だと、確信したのである。

前ローマ法王が、他宗教との、対話を試みた。
だが、それは、失敗だった。
何故か。
それは、法王に帰依することを、求めたからである。
和解と、平和を唱えつつも、法王は、彼らの上に立つ者であることを、示したのである。

しかし、天皇は、そうではない。
あなたの民族を、貴い存在だと、表明し、私の日本民族と、共に、歩みましょうと、発言するのである。
つまり、あなたは、あなたで、いいのです・・・

カンボジアの、シアヌーク殿下は、王位を父親に譲り、自ら政党を創り、ポルポトと、組んだ。
そして、その、ポルポトは、人間とは思えない、虐殺を自国民に行った。
何故、シアヌークは、それを止められなかったのか。

カンボジア放送で、シアヌークが国民と、対する場面を見た。
そこでは、シアヌークに、腰を低くする、国民を見たが、あれは演技である。
誰も、シアヌークを、崇敬しているとは、思えなかった。

30年前、つまり、今の、45歳以上のカンボジアの人たちは、あの、虐殺の悪夢を見ているのである。

静粛
殺す

知識人たちを、皆殺しにした。

あらゆる、分野の知識人たちである。
私の出掛けた、シェムリアップでも、千人以上が、簡単に虐殺された。
そして、その遺骨が、積み重なって、慰霊塔となっている。

共産主義・・・
人類史はじまって、以来の、悲劇である。

中国の毛沢東は、一千万人の、自国民を殺し、ポルポトは、三百万人を、殺した。

誰が、支配者を、為政者を、信じるか・・・
誰も、信じない。

ところが、日本人の、九割は天皇を支持するのである。
その、権威をありがたく思う。
天皇は、国民を虐殺することはない。
誰が、天下を治めても、天皇は、国民の側に立っている。
日本史を、俯瞰すれば、それは、明らかである。

陛下を敵にする者は、民を、敵にする者である。
だから、日本人は、今の今まで、天皇の権威に対して、崇敬の思いを抱いてきたのである。

私は、その国の、国民であることを、誇りに思う。

天皇とは、皇祖皇宗、つまり、祖先の象徴である。
私の先祖も、天皇に対して、崇敬を抱いて生きたのである。

陛下は、24時間、公人であらせられる。
ただ、ただ、深くその存在を、ありがたく思う。


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2012年01月26日

カンボジアの悲劇2

バンコク経由で、シェムリアップに向かう。
何故か。
その方が、安いから。

二人で、90キロ程度の支援物資である。しかし、シェムリアップには、40キロのみ、持参できる。
だが、搭乗手続きの際に、46キロと出た。
しかし、何も言われない。つまり、許可してくれた。

対応したのは、男の子といってよいほど、若い。
コータがその対応に、ゲイであろうと、言う。
タイ語を聞けば、ゲイとか、カトゥイ、レディボーイとかが、解るという。
私には、その微妙な語感は、解らない。

兎に角、オーバーしたが、持参できると、喜んだ。
一時間で、到着という、これまた、早い。
国際空港であったから、入国が必要である。
勿論、タイからも、一度、出国する。

あらかじめ、ビザをネットで取っていたので、スムーズである。

シェムリアップは、バンコクより、暑かった。
ホテルまでの、トゥクトゥクを捜す。
空港の前は、タクシーの勧誘が煩いが、ここでも、同じく。

私は、一言
トゥクトゥク・・・
大声で言うと、誰も、それ以上は、勧誘しない。

そして、トゥクトゥクの止まる場所まで進む。
そこにいた、トゥクトゥクは、すべて予約済みであり、誰かが、あちらに止めてある、トゥクトゥクを呼びに行ってくれた。

遅いので、遅いと、大声を出すと、皆、真似して、オソイ、オソイと、言う。

やってきた、トゥクトゥクのお兄さんに、7ドルと、言うと、オッケーと答えた。
そして、荷物を積み、乗り込む。
その時、あれっ、7ドルは、タクシーの料金だと思い、もう一度、料金を尋ねた。
すると、解ったらしく、タクシー料金と同じと、答える。

そこで、やり取りするのが面倒で、良しとした。
その、運転手が、今回の私たちの支援に、関わるのである。

世界遺産、アンコールワットの町。
観光客が多い。

だが、私は、観光は、一切しない。
勿体無い・・・折角、出掛けたのに・・・
そんなことは、無い。それ以上に価値のあることを、するために、来ている。

ゲストハウスの安い所に向かう。
四泊する予定である。

私は、今日、明日と、休憩時間にした。
そして、三日目に、支援活動をする。

二日も、休むのである。
疲れるから。
前回の旅で、いよいよいと、私の体力の衰えを感じたのであり、更に、足に負担がかかり、無理は禁物。

町の中心部から、少し離れた場所にある、ゲストハウスである。
到着して、運転手に、私たちの計画を話した。
協力出来るか、否か。
二時間で、10ドル、と、提案した。
すると、オッケーであり、ありがとうと、言うのである。支援に対する、ありがとう、である。

町の外れから、貧しい人たちの部落を案内するという、約束をして別れた。

ゲストハウスに入る。
あらっ、何と、チェンライで、出会った、韓国人の青年がいる。
あーーー
と、互いに、驚き。

彼は、あれから、ラオスに入り、川を下って、カンボジアへ来たと言う。
ただ、そのゲストハウスは、大半が、というより、全員、老いも若きも、日本人客である。

ドミトリーという大部屋があり、そこに寝泊りする、若者たちである。

個室を使う、客は、少ない。

ツインルームを頼む。
従業員は、皆、無愛想である。
その訳が、後で解る。

階段の下で、寝ている従業員もいた。

兎に角、部屋に入り、一息である。
荷物の整理をする。
手荷物を入れて、四つ。
それらを、開けて、まとめる。

男女、子供用と、均等に入れて来た。
そして、靴と、文具である。
まあ、後で忘れることも、多々あるが・・・

兎に角、後は、休むのみ。
で、私は、早速、マッサージの店を捜す。
ガイドブックを見る。
マッサージ店のある場所には、多くの店があるのが、普通だ。

コータは、バンコクで、二時間ほど、受けたので、その日は、行かないと言う。
私は、盲人のマッサージ店を見つけた。

早速、そこに行くことにした。
盲人は、技が勝負であるから、旨い。
一時間、5ドルである。400円。安いのも、いい。
そして、案の定、上手かった。

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2012年01月27日

カンボジアの悲劇3

盲人マッサージの話である。
着いた当日、私は、若い男のマッサージ師がついた。

巧い。
ツボを抑えている。
そして、丁度良い、圧力である。

そして、二日目は、女の盲人の方であり、年配である。
少し、心配した。
しかし、年の功である。
これも、巧い。

この盲人のマッサージ店は、ここだけのようである。
障害者の多くは、乞食をしている。
特に、戦争による、負傷と、地雷による、足の切断である。

ずるようにして、移動する。
その姿は、痛ましい。

更に、子供を連れた、片足の無い父親である。
子供が先に進み、物乞いする。
その後から、お礼を言いつつ、子供に着いて行く。

子供の姿は、着の身着のままである。

タイのように、乞食商売ではない、物乞いである。

プノンペンの最初の旅日記に、私は、ポルポトの悲劇を書き綴った。
本当は、まだまだ、話しがある。
共産主義黒書という、本から、抜粋して、紹介した。

300万人の死者である。
自国民が、自国民を虐殺するという、悲劇である。

30年前のこと。
だから、当時、少年兵だった人たちは、今は、45,50歳あたりである。
だが、その話しは、タブーである。

殺した方も、殺された方も、被害者なのである。
ポルポトという、一人の人間による、共産主義の妄想の被害者なのである。

知識人を皆殺しにした。
このシェムリアップにも、その慰霊塔がある。
プノンペンと同じく、遺骨を積み上げている。
キリング・フィールド、という。

今回は、慰霊をしなかった。
コータに、止められた。
あの状態に耐えられないと、言う。
プノンペンでの、不調である。

それで、私も、霊的な情報は、すべてシャットアウトした。

だから、支援を終えた後でも、マッサージに出掛けた。
400円で、一時間であるから、日本で受けない替わりにと・・・

そこで、今度は、マッサージ店が立ち並ぶ、街中のマッサージ店に行き、ボーイを指名した。
オーナーが、ボーイを呼ぶ。
目を閉じて待つと、目の前に、顔があった。

フットマッサージである。
私は、言った。ストロングオッケー・・・
オッケーと、彼が繰り返した。

英語が出来たので、少し話しをする。
18歳である。
高校生の年である。

彼のマッサージは、男の子らしく、強く、心地よかった。
足裏をどのように揉むのか、興味があった。
いい線いく・・・
足裏は、どんなに強くても、事故にならないのである。

しばし、まどろんだほど、良かった。
そして、最後になった。
脹脛を、強く、押し続けて、筋を伸ばす。

終わって、目を開けると、オーナーも、誰もいない。
と、そこで、彼が、私の顔を近づけてきた。

スペシャル・・・
と、言う。
えっ・・・
スペシャルオッケー・・・
と、私の股間を指した。
ああ、売り込みである。

いくら・・・
30ドル・・・
高い、と日本語で言うと、日本語で、安いと、返してきた。
つまり、日本人を相手にしていたのである。

ボーイを指名したので、ボーイが好きな奴だと、思ったのだ。

彼は、しつこく迫る。
高い・・・
その繰り返しで、ついに、彼は、20ドルと、言ってきた。
私は、いつもの手を使う。
トゥモローね・・・
ノー・・・トゥデー・・・トゥデー

明日という客は、来ないと、とても感がいい。

それでも、明日来ると、言っていると、オーナーの奥さんが戻って来た。
すると、彼は、ぴたりと、話しを止めた。
矢張り、禁止事項なのである。

そこで、私は、付近のマッサージ店に行き、女の子を捕まえて、尋ねた。
スペシャルオッケー・・・
頷く。
幾ら・・・
30ドル。

30ドルで、射精に導くと、知った。
だが、それは、あくまで客との取引であり、店では、関知しないのである。
これは、タイでもそうだが、暗黙の了解なのである。
マッサージ嬢の、手取りは、少ない。それで、スペシャルに、導くのである。
果ては、売春まである。

彼らには、1ドル、2ドルが、大金なのである。
1ドルが、4000リアルであり、日本円では、80円程度。

朝、地元の人たちが食べる、お粥は、2000リアルである。
つまり、40円。
私も、それを毎日食べた。
その屋台は、昼間前に終わる。

私は、いつも、地元の金銭感覚に馴染むために、屋台で、食べるのである。
衛生的・・・
そんなことは、関係無い。
とても、美味しい。

東南アジアの屋台の、洗い場を見るな・・・
と、私たちは、言い合う。

コータは、それで、何度も、あそこには行かないと、言った。
洗い場を見たのである。


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2012年01月28日

カンボジアの悲劇4

支援の日である。
必要な人を訪ねて・・・

それが、どんなに大変なことか・・・
しかし、それは、私が選んだこと。
他の人には、勧められない。

突然、訪ねて、日本からの、プレゼントです。

全く予期していなかったことが、そこで、始まる。

そのような、無謀なことが、出来るのは、私の性格。
決して真似をしては、いけない。

その前に、私は、ゲストハウスの隣のゲストハウスを見に行き、今夜から、部屋を変えることにした。
日本人ばかりで、面白くないのである。

日本人と、韓国人と、中国人は、まとまって、行動する。
そして、喧しい。
更に、見苦しいのである。

朝、十時に、トゥクトゥクが来る。
その前に来ていた。さすがである。

行くのに、30分、帰るのに、30分。支援に一時間と、考えて、二時間とした。
トゥクトゥクの運転手に、行き先を任せる。
部落を回るということで、発車する。

街中を抜けて、東に進む。
街中を過ぎると、道路が、極端に悪くなる。

更に、乾季であるから、埃が凄い。
そして、乾燥している。

次第に、農地が広がって来た。
そこで、トゥクトゥクの運転手が、バイクを止めて、言う。
私の部落も、貧しいので、最初に行って、いいですか・・・
ああ、いいですよ・・・
その喜んだ顔。

そうか、トゥクトゥクの運転手は、頑張って、トゥクトゥクを手に入れて、暮らしを立てているのだ。

右の道に入り、ゆらゆらして、走る。
小屋が、見えた。
ここが、彼の部落・・・

小屋が並んでいる。
トゥクトゥクが入るが、目に入るのは、数人の子供たちだけ。

私は、日の丸を掲げて、言う。
フラムジャパン・・・プレゼント・・・

子供たちが、唖然とする。
しかし、私が、バッグを開けて、子供たちに、衣服を渡し始めると、表情が変わる。

なに、なに、なに・・・

ぞろぞろと、小屋から、出て来る。

運転手が、通訳する。
すると、どんどんと、人が出で来る。

どうして・・・
何で・・・
皆の、顔が、そのように見える。

私は、衣類を地面に置いた。そして、言う。
好きな物を、取ってください。
運転手が通訳する。

小さな歓声・・・・
そして、子供たちに、ペンを取り出して、スクールボーイ、ガールというと、子供たちが、歓声を上げた。
私は、一人のおばさんに、ペンを渡して、子供たちに、配るようにと、身振りで示した。
子供たちが、おばさんに、群がる。

ところで、ノートは・・・
見当たらないのである。
あらっ・・・・

だが、捜す暇は無い。
兎に角、渡せるだけ渡すが、運転手が、まだ、他にも、ありますから、今辺でと、アドバイスする。

そうか・・・
ここだけでないのである。

私は、再度、日本からのプレゼントです。そして、また、来ますよ、と声を掛けた。
運転手が、皆、ありがとうと、言っていますと、言う。

写真を撮る。
子供たちが、いい。
突然の、プレゼントに、嬉しさがこみ上げている。

ジャパニーズ・テン
私は、そう言い、日の丸を掲げた。
その、日の丸は、支援の間、皆それぞれが、持っていた。

大きな、ボストンバッグが欲しいと、男がコータに言ったらしい。
コータは、そのまま、バッグを、渡した。
それで、いい。
皆、支援物資である。

それを見ていた、運転手も、もし、貰えるなら、バッグが欲しいと、コータに言った。
運転しながらである。
私は、いいですよと、言った。

次に、向かったのは、一軒の農家である。
ポツンと、小屋が建っていた。


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2012年01月29日

カンボジアの悲劇5

最初の部落を出て、更に町から遠退く。
畑が広がる。
しかし、緑は無い。枯れている。

観光客には、良い季節といわれる。
11月から、2月まで、乾季なのである。
しかし、現地の人たちは、大変な時期である。
特に、農家の人たちは、何も育てる物がないのである。

シェムリアップ川から、水を引き、畑に取り込む、灌漑設備を作る。
すると、乾季の時期でも、野菜が栽培できる。

農家の人たちの、収入は、そこで採れた野菜を町に行き、売って、お金を得るのである。

現在、シェムリアップでは、日本人のボランティアの人たちが、障害者の自立のために、農業指導をしている。
今回は、そこまで行くことは出来ない。
何せ、限られた支援物資である。

トゥクトゥクが、速度を落とした。
運転手が、右側に見える、家を指した。
農家の家であるが、家というより、矢張り、小屋である。

オッケーと、私が言うと、その家の細道を入った。

子供が二人いた。
何事かと、注目する。
運転手が何か言うと、中から人が出て来た。

おかあさん、少年二人・・・
更に、もう一人の女の人・・・

早速、バッグを開いて、衣服を出す。
子供二人は、男の子で、上半身、裸である。

早速、二人に、シャツと、上着を上げた。
すると、母親が、二人に即座に着せた。

どんどんと、出して、渡す。
少年二人にも、ズボンを上げた。
二人は、腰巻のようなものを、巻いているだけ。

女物も・・・
静かな感動が、伝わる。

男の子が着た状態で、写真を撮る。
英語は通じないから、運転手が私の言葉を、訳して皆に伝える。

家の中に、男の人がいる。
私は、その方を、引き連れて、ズボンを上げた。
とても、申し訳なさそうである。

だが、もう、上着が無い。
次に来る時に、持ってきますね・・・
運転者が何か言うと、私に、ありがとう、と、言っていると、教える。

あっという間に、支援物資が無くなる。
運転手の言うとおり、次ぎも行きますから、この辺りで・・・
オッケー、そうしましょう・・・

と、その時、バッグの底に、ノートの束があった。
あれっ、ノートがあったんだよ、と、独り言。

私は、運転手に、先ほどの村の子供たちに、上げてくださいと、渡した。

そして、皆さんに、さようならと、言い、また、トゥクトゥクに乗り込む。
私たちを、見送る皆さん。

道路に出ると、自転車、歩いている子供たちである。
学校帰りであろうか・・・

と、運転手が、あの子供たちに、ノートを上げて下さいと言うのである。
先ほど、差し上げたものを、再度受け取り、子供たちに声を掛ける。

一人の女の子が、振り向いて、近づいてきた。
そして、ノートを渡すと、大声で、皆に知らせるのである。

子供たちが、走り出して来る。
自転車に乗った子も、急いで来る。

ノートが、どんどんと、皆の手に渡る。
すると、近くの家から、赤ん坊を連れた母と、近所の人たちが出て来た。

そこで、また、衣類を出して、渡すことにした。
赤ん坊の物は無かった。
裸で、ヨチヨチ歩いてくるのである。

何も上げる物が無い。

ただ、女たちには、充分に上げることが出来た。
先の子供たちも、見ている。

また、来るよ・・・
私は、ジャパニーズ・テン・・・

子供たちが、テン、テンと、呼ぶ。
実に、楽しそうだ。
ノート類も、すべて無くなった。

半数の子が、裸足である。
靴が必要だ。
サンダルでもいい。

それで、支援物資が、すべて無くなり、支援活動は、終わり。
あっという間の出来事。

一時間もかからないのである。
ゴーバック・ホテル・・・
トゥクトゥクの運転手も、実に満足そうである。

だが、私の心は、次第に、絶望に変わってゆく。
この活動は、何だ。
偽善だ。
偽善者である。

周囲の風景にあるものは、絶望である。
ここで、人が生きているのだ。
この乾いた地で、雨季まで農業は、出来ない。
一体、彼らは、何を食べているのか・・・

そして、私の行為は、何だ・・・
この、糠に釘のような、活動。
考えると、腹立たしくなってくるのである。
無力であることが、偽善なのである。

支援物資は、日本に山ほどあるのに・・・

ゲストハウスに着いてから、少し運転手と、話しをした。
意外なことを、聞くことになる。


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2012年01月30日

カンボジアの悲劇6

シェムリアップは、単なる町である。
ただ、アンコールワットという、世界遺産のお陰で、有名になり、更に観光客が多い。

救いは、バリ島のように、ゴミに覆われていないということである。

観光業を経営している人だけが、富裕層に入る。
そして、公務員である。それは、どこの、貧しい国も、同じ。

町の一角が、歓楽街の形相になっている。
当然、売春、麻薬がある。
一時間ほどのタイ国境の町、ポイペトでは、危険が一杯である。

人々は、実に貧しい。

さて、トゥクトゥクがゲストハウスに着いて、運転手と、少し会話した。
皆、英語である。

一番、驚いたとこは、孤児院の話しである。
支援してはいけない。彼らは、商売で孤児院を経営していると言う。

特に、お金などは、孤児たちのために、使われないのであり、衣類の支援も、横流しされる可能性大である。

これは、海外からの、支援による孤児院ではなく、カンボジア人によるものである。

だから、と、運転手は、言う。
あなたの、やり方が、一番いいのです、と。

直接、手渡しすること。

それでは、次に来た時、また、案内してください・・・出来る限り、多くの衣類を持ってきます・・・
私が言うと、オッケーオッケー・・・と、繰り返した。
そして、ありがとう・・・である。

実は、到着した夜、私は、食堂で物乞いに来た、少年に、その食堂で作ってもらった、麺類を上げて、更に、ゲストハウスまで連れて行き、衣服と、靴を上げた。

私は、食堂で食べさせたいと思ったが、少年は、入らないのである。
当然か・・・
そこで、作って貰い、それを上げて、服も上げると、連れて帰った。

そして、ゲストハウスの玄関の前の椅子に、座らせようとしたが、首を振る。
すると、ゲストハウスから、おばさんたちが何か少年に言うと、少年は、漸く座ったのである。

服と、ズボンを上げて、靴を履かせてみるが、合うものが無い。
すると、ハウスのお上さんが、出て来て、私のこれを履いてごらんと、差し出すのである。

その時、皆々、子供たちのことを、気に掛けていると、感じた。
しかし、普段は、それが当たり前で、ただ、見ているだけだった。しかし、きっかけがあれば、出来ることをして上げたいのだ。

トゥクトゥクの運転手も、私たちの、活動に感謝する。
自分が直接、受け取る訳ではないが、感謝する。

勿論、運転手にも、小さな子供がいて、靴が欲しいと言うので、一足差し上げた。

全体の中に、私がいると、感じる。
これが、要するに、国家意識、地域意識、村意識なのである。

カンボジアは、王国であるが、タイの王様と違い、それほどの、尊敬は無い。
何せ、シアヌークは、ポルポトと一度組んだのである。

現代のカンボジアの悲劇の、幕開けをした人物が、王室にいるのである。
現在の、国王は、シアヌークの息子であるが、シアヌークの写真が掲げられる。矢張り、国の象徴なのである。

だが、シアヌークによる、国家意識は、低い。
政府が、権威付けを行うが、儀式の際だけの、権威である。

日々の生活に裏付けられたものではない。

カンボジア国民としての、アイデンティティは、実に難しい。

一度、自国民が、滅茶苦茶にした、国である。
更に、その人間性の、悪を、嫌と言うほど、見せ付けられたのである。

子が親を裏切り、友人が裏切り、親類が裏切り・・・
誰も、信じられなくなった・・・

まだ、30年前のことである。
生々しく、思い出す人が大勢いる。
だから、その話しは、タブーなのである。

どのようにして、無辜の人々が、虐殺されたか・・・
真っ当な神経ではなくなったはず。

ただ、殺すのではない。
何の罪も無い人たちが、拷問され、虐殺されてゆくのである。

慰霊など・・・
とても、無理だろう。

それに、向き合うには、30年以上かかるだろう。

そこで、私は、飛躍する。
その物乞いの少年と、私とは、何の関係もない。
だが、私が、何故日本に生まれて、このような事態に合わなかったのか、ということと、何故、私が、この少年ではなかったのか・・・
という、問題には、答えが出ない。
偶然・・・

私が、この少年だったかもしれない。
これが、私の哲学になった。
何故、私でなかったのか・・・
誰も、答えられない。
饒舌な宗教家や、霊能者は、妄想を、言うだろうが、そんな問題ではない。

存在の問題である。
妄想では、解決しない。

少年が私で、私が少年・・・

それは、至る所で、感じることになる。


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2012年01月31日

カンボジアの悲劇7

二日目の朝も、ゲストハウス並びの、屋台のお粥屋さんに向かった時、母親と、二人の男の子を見つけた。
ダンボールを集めて、生活をしている様子。

私は、声を掛けて、カムカムと、言い、親子をゲストハウスまで、連れた。
すべて日本語で、話すが、雰囲気で、通じるようである。

子供たちに衣服を渡す。
そして、母親にも、一枚、長い毛糸の服を渡した。
日焼けを防ぐために、母親は、顔まで覆っていたからだ。

その時、警官や、トゥクトゥクの運転手たちが、オーッと歓声を上げて見ていた。
良かったな・・・
とでも、言っているようである。

二人の子に、靴を上げようとしたが、見つからない。
荷物は、受付前と、部屋に分散して置いていたので、どこにあるか、すぐに、思い出せなかった。

こうして、いつも、アンテナを張って見ている。

母親は、掌を合わせて、正式の挨拶で、私に何度も、感謝していた。
その時、写真を御願いしたのは、そこに寝泊りしていた、日本人の青年である。

彼は、初めての体験だったらしく・・・
こういうこと、されているのですか・・・
と、感心していた。
だが、それ以上、深く関わってこなかった。

誰かが、手伝いたいと言えば、歓迎するつもりだったが、誰一人いなかった。

更に、驚いたことに、高齢の日本人の方々は、興味を示したが、若者たちは、全く、無関心だったことである。

別の世界のこと。
ちらっと、見るが、全く、見ぬ振りをしていた。

四日間の滞在で、二時間の支援・・・
違う。
毎日、必要な人を捜していた。

街に出ると、見るものが違う。
服装や、子供の顔を見て、その状況を想像する。

制服を着ている、裕福な子供たちもいるが、その裕福とは、その町での、裕福であり、日本の富裕層の裕福ではない。

更に、小道を入ると、スラムのような長屋がある。
だが、スラムではなく、それが、普通なのである。

さて、三日目に、隣のゲストハウスに移動した。
1ドル高い、13ドルの部屋は、ホテル並みであり、実に、静かだった。
ドミトリーが無いからである。

ラオスや、カンボジアでは、ホテルと、ゲストハウスの境界線が、曖昧である。
ゲストハウスでも、ホテルと変わらない所も多い。

ただ、川沿いの部屋で、小川が流れているが、汚水をそこに流すので、匂いがする。下水道の設備がなっていないのである。

カンボジアには、北九州市の支援で、水道の施設、管理の技術提供を受けている。それは、まず、プノンペンから始まっている。

それでも、まだ、水道の水は、飲めない。
水道の水が、飲めないということは、歯を磨いた後で、口を漱ぐことも出来ない。だから、ペットボトルの水で、漱ぐ。

更に、野菜に注意なのである。
現地の水で洗うから、食べられない。

タイでは、もうそんなことはない。
口に入るものは、日本の水道水と同じ水を使う。
その水は、自動販売機で、買うことが出来る。
一リットル、一バーツである。2,5円。

焼き飯に添えてある、野菜は、食べなかった。
ただ、食堂でも、水道の水ではなく、殺菌した水をしようしているところの、野菜は、食べる。
それは、厨房の中が、見える食堂である。

屋台は、作る場面が、見えるので、逆に安心である。
ただ、食器を洗う場面を見ると、アウトである。

水が足りないから、洗う水と、漱ぐ水の、二つのバケツで、何度も使うのである。
流している水で、すすぐことはない。
これが、衛生的に受け入れられなく、食べられなくなる。

だから、私は、高級レストランを信じられないのである。
厨房が見えないからである。

屋台は、丸見えであるから、安心する・・・
それに、安い・・・

さて、様々な、事を見聞して、シェムリアップという町を、理解する。

夜、私は、出歩かないから、夜の繁華街は、知らない。
だが、今回、最期の夜に、コータと、繁華街、歓楽街に出て、食事をし、一通り、見て回った。

そこでも、屋台で、食事をした。
レストランと名のつくところの、三分の一以下の料金で、同じようなものを食べられるのである。

チェックと、言うと、会計がされて、紙が出される。
それを見て、こんなに安いの・・・である。

更に、屋台は、楽しい。
呼び込みの人たちが、様々な国の言葉を使うのである。
商売のために、必死で、聞いて覚えるのが、解る。

おいしいよ・・・
安いよ・・・
早く来て・・・
日本人、こんにちは・・・

あちらでは、韓国語、英語・・・
逞しい根性を見せられる。


posted by 天山 at 06:51| カンボジアの悲劇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月01日

カンボジアの悲劇8

トゥクトゥクのお兄さんには、バンコクへ戻る日の、空港行きも、御願いした。
5ドルである。
矢張り、5ドルで良かったのだ。

彼は、私たちと知り合いになり、次も、会うということで、満足したようである。
今度は、更に回りたいと、私は告げた。
ありがとう・・・
と、彼が言う。

さて、翌日の夜である。前回も書いたが、書き足りないので、書き足す。
最後の夜なので、街中に出ることにした。
歓楽街といってもいい。

そこは、別天地である。
ネオン煌く、華やかさ。

屋台が立ち並ぶ通り。
まず、そこで食事をすることにした。
カンボジア名物、いや、シェムリアップ名物である、鍋物。

ジンギスカンの鍋に似たもので、その上に肉を置き、下の空間に水を入れて、野菜を入れる。
その他に、焼き飯も頼む。

多国籍の人たちが、そこに集う。
そこだけが、賑やかな街。

食べ終えて、チェックすると、5ドルである。安い。
しかし、私たちは、いつも、もっと安いものを食べている。

それから、夜の街を見て回った。
三本ほどの道に、レストランから、バーまで、びっしりと並ぶ。

世界の料理が食べられるようである。
一軒、一軒を、見て歩く。

そして、芸人たちが、演奏する道に出た。
そこには、韓国人のグループが大勢いる。

民族楽器を演奏する、五人の前に出た。
その前に置かれた、英語、韓国語、日本語の説明の、日本語を読んだ。

地雷被害の人たちである。
私たちは、もう、物乞いはしません。
演奏という仕事をして、家族を養い、子供を学校に通わせます、という、内容が書かれてある。

私は、2000リエルを出して、箱に入れた。
すると、真ん中にいた、中心人物なのか、その人が、手を合わせて、感謝する。

その時である、後ろにいた、一人の男性が、服を上げて、私に見せた。
えっ・・・
あっ・・・
あの部落にいた人である。
私が差し上げた、服を掲げて見せてくれたのである。

コータが、すぐに写真を撮ろうと言うので、彼の横に行き、写真を撮った。
コータが、習い覚えた、カンボジア語、クメール語で話した。

とても、嬉しかった。

すると、演奏が始まった。
何と、韓国民謡の、アリランである。

そこで、世界一歌の上手い私が、韓国語で、アリランを歌った。
途中から、韓国人たちが、歓声を上げた。
私は、自分の肩掛けバッグの、日の丸を見せた。
すると、拍手はするが、私を見ないのである。

要するに、無視する訳である。

折角の、友好のチャンスと、思ったのに・・・
私の、考えが、甘いのである。

特に、国旗をつけた、韓国人のグループは、そうである。

まあ、いいかっ・・・
演奏の皆さんに、手を振り、そこを去った。
そして、ゲストハウスに向かう。

服の一枚で、知り合いになれるのである。
私は、忘れていたが、相手は、覚えている。
何度も来るうちに、そうして、多くの知り合いが出来る。
私の宝である。

部屋に着くと、八時を過ぎていた。
寝る用意である。

コータは、また、出掛けるらしいが、私は、もう、充分に見た。

思い出したが、帰る道で、女二人に声を掛けられた。
そこで、彼女たちのところに行くと、どうも、変だ。
カトゥーイと、尋ねた。

一人の女が、違うという、仕草である。
しかし、後で、コータが彼女たちに、確認したところ、カトゥーイだった。
カトゥーイというのは、タイで、カンボジアでは、カトーイという言い方をするらしい。

まあ、カンボジアも、レディーボーイが多くなったらしいとのこと。
コータが彼女たちと飲んで、色々と聞いたという。

また、ゲイたちも多くなり、また、観光客のゲイたちに教えられて、ゲイになる、男子もいるという。

いつも、後進国に思うことだが、先進国の進み方を超えて、発展しているようである。
例えば、携帯電話である。
固定電話は持たないが、皆、携帯電話を持つ。
アイホォンという形のものを、持つ人も多い。

情報が、先進国並みに届くということだ。

ゆっくりと、発展するのではなく、急速に発展する。
レディーボーイ、ゲイのことも、そうである。

そして、若者が多いから、いきなり物凄い力で、未来に向かう可能性がある。
アセアン、東南アジアを、馬鹿に出来ないのである。


posted by 天山 at 00:09| カンボジアの悲劇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月02日

カンボジアの悲劇9

シェムリアップで、初めて感じた絶望に似た感情から、偽善という、言葉が出た。それは、無力という言葉とも、つながり、私を悲しくさせた。

私は、偽善者である。
人に言われる筋合いはないが、偽善者であろう。
それは、絶望の叫びだった。

一体、私は、何が出来るのか・・・
ほんの少し、気分を晴らすために、衣類を配る程度・・・

自己満足で、良かったのであるが、今回は、その悠長さが、無くなった。

それとも、野心なのか。
国連がやるような、大きな、支援活動をしたいのか。
それは、無理である。
不可能である。

莫大な資金がいる。
そんなことは、出来ない。

そんなことを、考えつつ、空港に向かった。

ちなみに、トゥクトゥクのお兄さんは、忙しく、その仲間の若者が来た。
観光の仕事を得たのだろう。
その若者も、初めから、私たちに好意的で、空港で別れる時、何度も、ありがとう、ありがとう・・・と言う。

それは、私の支援に対する言葉であると、すぐに、解った。

彼は、何も、貰っていない。しかし、同じシェムリアップの人が、衣類を貰ったことに、感謝するのである。

その、感謝の言葉が、私の心に、次第に、息吹を与えた。
他人が支援を受けても、ありがとう・・・
自分でなくても、ありがとう・・・

ああ、出来ることしか、出来ないのだから、しないより増しであり、矢張り、行為して、絶望を感じ、偽善を感じるべきなのだ。

バンコクまでは、一時間である。
隣の国に、一時間で行けるという、陸続き。

もう一度言う。
日本の支援により、ミャンマーの町から、タイのカンチャナブリを通り、バンコクに至り、シェムリアップに向かい、そこから、二つに分かれて、ベトナムの、一つは、ハイフォンへ、一つは、ホーチミンへ向かう幹線道路が、出来る。
アセアンが、つながる。

三年後、アセアンでは、ビザか必要無くなる。
その、中に、日本が入る。

この一帯は、親日である。
更に、日本のパスポートが、世界的に一番信頼される。

日本人であることが、自然に僥倖になっているのだ。

中々入国を許可されない国でも、日本人は、スムーズに行く。
パプアニューギニアの空港で、長く足止めされていた、中国人・・・

今は、アフリカでも、日本と日本人に来て欲しいと、言う。
ブラジルの経済復興は、日本人の支援の賜物である。

日本の民間企業も、昔と一変した。
単なる、利益追求ではない。
その地の人たちに、何が出来るのかを考えて、行動する。

工場を建てる前に、インフラ整備する。
現地の人たちに喜ばれ、感謝されて、更に、職を与えるということで、日本の名声が高まる。

日本は、素晴らしい国に、成長しているのである。

バンコクに着き、最初のホテルに一泊して、預けていた荷物を持って、スクンウイットに向かった。
そこで、一泊して、その辺りのカンボジア流民、更に、ミャンマーの難民の人に支援するために、留まる。

私たちが、泊まる、ゲストハウスの従業員は、皆、ミャンマーからの出稼ぎであるから、彼らから、情報を得ようとするが、曰く、少数民族の人たちは、言葉も違い、解らないという。

何処に、住むのかも、解らないのである。
ではと、私たちは、路上に向かい、物乞いたちに、聞きまわる。

タイ人の、物乞いの、おばあさんに、尋ねた。
ミャンマーの物乞いは、何処に・・・
ああ、あっちに、沢山いるよ・・・
でもね、ミャンマー人とは、言わない、皆、カンボジア人という・・・

本当にそうであり、ミャンマー語でも、クメール語でも、通じないのだ。
つまり、少数民族の人たちである。

ところが、一日に、何度も居場所を変えるのであるから、かくれんぼ、である。

私と、コータは、別々に歩き、確認するが、支援物資を持っていない。
うまい具合に、見つけると、小額のタイバーツを渡すのみ。

そのうちに、夜になる。
すると、もう大変な混雑であり、その中に、埋没してしまう。

必要な人を捜して行く・・・
とんでもない、支援方法を考えたものである。

夜、食事をして、少し見回り、ホテルに戻り、八時半である。
もう、諦める。

私は、シャワーを浴びて、寝る用意をする。
そして、ベッドに横になると、出掛けていた、コータが戻り、タイアイ族の母子が、衣類が欲しいと言うと、伝えに来た。

浴衣を取り出して、急ぎ、その場に向かう。


posted by 天山 at 06:31| カンボジアの悲劇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月03日

カンボジアの悲劇10

そのタイアイ族の、母子は、陸橋の下にいた。
子供は、知り合いなのか、タイ人の二人のおばさんに、あやされていた。

急いで、走り、バッグを開けて、必要なものを尋ねる。
タオルも、子供衣服も、彼女のものも、欲しい・・・

私は、取出して、渡したが、手に荷物があり、持てないようである。
更に、子供を抱えて、帰るのであるから・・・

そこで、ビニール袋を出して、その中に入れて、車が来るまで、待った。
タイ人のおばさんたちも、協力してくれ、母子を、送る。

私が心配なのは、母親が、気が弱いことだった。
よくぞ、ミャンマーから出て、バンコクで、暮らしているものだと、思った。
それでも、バンコクにいた方がいいのだ。

食べて行ける。
それを、あからさまに見たのは、次の祖母と孫の二人である。

私は、部屋に戻り、時刻が、12時を回ったことを知り、もう、今夜は、終わりだと、ベッドに入った。
しかし、コータは、また出て行く。

そして、うとうとし始めた頃・・・
先生・・・
コータである。

ゲストハウスの前に、カンボジアの婆さんと子供が、いる・・・
えっ・・・

その二人のことは、ゲストハウスの人たちも、気に掛けていたらしい。
従業員が、コータに、あの二人は、父親と母親が、不法滞在で強制送還されてから、二人で、物乞いをしたり、ダンボールを集めて、生きている。
そして、寝る場所が、ゲストハウスの下、丁度、店の玄関前の、少しの間なのであると、教えたと言う。

また、急ぎ、私は浴衣を着て、出た。
本当に、隣の店の前に、子供が寝ていた。

お婆さんは、その子供を見つめて、座ったままで、眠るのだろう。

すぐに、子供用の衣服を取り出し、更に、靴があったことを、思い出した。
丁度合うものだった。
更に、お婆さんも、靴が欲しいと言うので、大きめのシューズを上げた。
更に、余りに、二人の姿が凄まじくて、私は、300バーツを差し上げた。

この生活でも、国に帰らないのは、何故か・・・
国に帰っても、食べられない。だから、バンコクにいると言うのである。

当局に、申してで、帰国させるべきだと、私は思ったが、違った。

難民である。
ミャンマー、カンボジアが、いかに、貧しいか・・・

両国ともに、最貧国である。

ゲストハウスのフロントでは、従業員が待っていた。
そして、皆が、私に感謝する。
フロントの女性は、ガッツポーズまでした。

皆々、心に掛けていたのである。
しかし、出来ることは、少ない。
自分たちの、お金さえ、ミャンマーにいる家族に送金しなければならないのだ。
だから、二人に、共感するのだろう。

部屋に戻ると、一時半を過ぎていた。

本当に、疲れた。
そして、疑問を考える間もなく、眠った。

帰国して、ミャンマーが、急速に、民主化に進んでいるという、情報である。
兎に角、このままでは、国民が死ぬ。
国民が死ねば、国が終わるという、意識に目覚めたようである。
経済制裁を解くためにも、民主化が必要だと、大統領が決定したのである。

アウンサンスーチーさんも、補欠選挙に出馬するという。
ヤンゴンでは、民主化により、取材も、スムーズに行くようになり、警官に後をつけられることもなくなったと、言う。

更に、私服警官も、いない。

それを聞いて、心から、喜んだ。
だが、まだ時間は、かかる。
その間に、少数民族の人たちは、祖国を後にする。

私たちの、帰国の飛行機にも、前回と同じく、ミャンマーの少数民族の人たちが、アメリカへ移民として行くために、30名ほど乗っていた。

この、糠に釘の行動・・・が、いつか・・・

ミャンマー独立の父は、アウンサンスーチーさんの、父親である。
独立記念日の歌に、日本と共に・・・という、歌詞がある。
凄いことである。

アウンサン将軍は、日本と共に・・・なのである。

ミャンマーが民主化し、自由に発言できるようになると、国民は、日本に対して、どんな態度になるのか・・・

ビルマは、日本によって、独立を勝ち取った・・・
と言う人たちが、多々いるであろう。

更に、日本人が、ビルマの人の、苦しさを理解してくれた・・・

一番、信頼される、国、日本である。

日本企業の誘致は、スムーズである。
そして、市民も、日本企業大歓迎なのである。

日本人の大多数は、それを知らない。

下賎な話をする。
最も、最下層にいる、売春地帯の人たちが、優しくて、金払いの良い、日本人を最も歓迎すると言う。


posted by 天山 at 00:01| カンボジアの悲劇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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