ミャンマー難民の孤児たちへの、衣服支援と、カンボジア流民親子への、支援である。
しかし、バンコクに送ったはずの、二箱の支援物資が、手違いにより、返送されるという、アクシデントである。
それは、主に、カンボジア流民親子に、差し上げるものだった。
兎も角、旅の記録を書いておくために、話しを進める。
バンコクに到着し、二日間、慣れるために、余裕を取った。
そして、三日後、ミャンマー国境の町、メーソートへ向かう。
日本のマスコミでは、メソトと、表記するが、本来は、メーソートと、呼ぶ。
その町の近くには、メラキャンプという、ミャンマー難民の有名なキャンプがあるが、そちらは、多くの支援団体がある。
私は、誰にも知られない、孤児たちの、施設、学校を四つ廻った。
そして、難民の医療を無料で行う、メータオクリニックである。
今回の、同行者は、コータと、テラの会理事の辻友子さんである。
三人分の持参する物資と、すでにメーソートに送っておいた、四つの箱、総量300キロ近くある、分量を支援する。
タイ国内線には、一人の無料荷物の枠が、少ないため、追加料金を支払う。それは、すでに予約の段階で、済ませていた。
それでも、追加料金が、かかった。
兎に角、支援活動は、お金がかかる。
個人活動では、限界がある。
寄付を募るのは、訳があるのだ。
荷物の受付は、メーソート在住の日本人の方、広倉さんに、お世話になっている。
支部ということで、お手伝いを頂く。
メーソート到着時も、広倉さんが、迎えに来て下さり、荷物を積む、車も用意されていた。
丁度、昼の十二時過ぎに、着いた。
そのまま、いつもの、ホテルに向かう。
広倉さんは、バイクで、私たちの後を追った。
ソンテウという、乗り合いバスをチャーターしての、ものである。
自分の持ち物は、機内持ち込みの物のみという、いつもの、ことである。
後は、すべて、支援物資である。
ホテルに着いて、荷物を下ろし、いつもの、ラーメン屋に向かう。
タイ、ラーメンのことである。
ラーメンを食べつつ、明日の予定を相談する。
私は、出発を十時にして、孤児たちの施設を最初に、そして、慰霊をして、メータオクリニックである。
今回は、いつもの施設のみならず、新しい、施設一つ、学校一つを廻る。
前回、何も渡すことが出来なかった、学校の子供たちに、である。
車も、前回と、同じく、最後の日本兵で有名な中野さんの、お孫さんが、担当してくれる。
更に、中野さんのご長男の、奥様も、加勢してくれることになった。
その奥様は、タイ語、英語、カレン語の多様な、言葉を使える。
であるから、通訳としても、絶好である。
また、それぞの、場所もよく知り、大変に助かるのである。
食事の後は、明日のために、無理せず、のんびりと、買い物などをして、楽しむ。
市場に出掛けて、買出しする。
果物・・・これが一番。
日本には無い、果物を食べる。
楽しみの一つである。
更に、とても、安い。
そして、水の用意である。
何は無くても、水が大切。
三泊四日の滞在で、使う水を用意する。
更に、今回は、孤児たちに、お菓子を用意するために、廻った。
お菓子類は、禁止であるが、地元のお菓子で、安いものなら、問題はないと、考えた。
普段は、その安いお菓子でも、食べられない子供たち。
私の、願いだった。
そして、施設の責任者は、誰も、それを拒まなかった。
ジュースと、お菓子のセットを用意した。
60人分と、お菓子は、更に、一箱用意した。
森の中にある、施設の他に、もし、必要なら、子供たちに、上げるためだ。
それも、正解だった。
最初の、森の中にある施設の孤児たちに、逢うのは、三度目である。
皆、見るたびに、成長していた。
今回も、大きくなっているだろう。
さて、私たちの、食事は、ホテル並びにある、地元の人が通う、食道である。
ほとんど、ミャンマーの女の子が、働く。
朝から晩まで・・・
ホテルの、ベッドメークの仕事も、そうである。
3kといわれる、仕事を、ミャンマー難民の子たちが、引き受けている。
住み込みで、働くから、一日の大半は、仕事である。
労働時間などというものは、無い。
三人で、夜の食事をして、部屋に戻り、明日のために、早めに、休むことにする。
兎に角、終わるまで、続けるので、いつ、昼ご飯を食べられるか、解らないのである。
出掛けて、みなければ、状況は、つかめない。
ちなみに、私のこの旅の間、一滴も、酒を飲まなかった。
日本では、毎日、日本酒を飲む私が、酒を口にしたくないのだ。
いつも、それを、不思議に思う。