2011年08月07日

がんばらなくていい東北 松島被災地の旅(事務局長代筆) 1



 4月ごろから、震災アレルギーがつづいていた。

 テレビやラジオで、新しく見つかったご遺体の数をきくたび、耳をふさぎたい気分だった。

 そのうち新聞も手にとらなくなった。どうせ見たって、昨日と今日と矛盾したことを読まされて目が疲れるだけ。

 そうして一ヶ月ほど過ごした。余震も数え切れないほどあった。もちろん今も続いている。映像や文章、写真で知る大震災関連ニュースには、心底いや気がさしていた。芸能人やスポーツ選手が避難所を訪れた話も、右から左にききながした。

 大震災のことを忘れるように、海外活動にうちこんだ。
 6月の終わり、パプア・ニューギニアから帰った後のことだ。
 原因不明の頭痛に襲われた。

 耳の付け根あたりから、首ねっこのところが、万力でしめつけられるように痛む。こらえるため、床によつんばいになって、喘息患者が息を必死で吸うように、身体全体で呼吸して、やっとこらえられた。

 熱を測っても微熱で、帰国後原因不明の下痢もつづき、もう体力も精神力も、保つのが精一杯だった。

 そんなさなか、もうろうとした意識の中で、心が決まった。
 被災地へ行かねばならない。
 そうしないとこの症状は改善しない。
 何故かそう確信した。

 そのころ不可解なことも身に起きた。
 いちばん辛いとき、東北の民謡をやたらとききたくなった。
 三味線や尺八、こぶしのきいた歌をきいて、大粒の涙をこぼした。
 明らかに、まともではない。

 そうしているうちに、宮城の被災者の方から、テラの会にメールが来はじめた。札幌で犬の調教をやっている知人が、被災地で迷子になった犬のための支援活動をしていて、私たちを紹介したという。

 それから宮城県矢本の「あったかいホール」という震災支援に使われている施設に、夏物の衣類などを送るようになった。受け取りの相手は、永松美幸さんという方で、東松島の人だという。

 外から来たボランティアではなく、地元の有志であり、「笑顔プロジェクト」を立ち上げた女性だった。

 永松さんのおかげで、7月31日から8月2日まで現地入りすることが、とんとん拍子に決まった。

 はじめはあったかいホールに宿泊できる、ということだったが、ただの倉庫みたいなものなので、寝泊りの設備はなく、諦めた。つぎは永松さんのご実家が、ご両親ともに仮設住宅へ移られており、空き家なので、嫌でなければ使って欲しいといわれた。

 夜、被災した集落の空き家で過ごす気分とは、どんなものだろう。
 幽霊が怖いということはない。余震も怖くない。
 ただ、誰もいない被災地のただ中で、ひとり過ごす夜は、考えすぎて内に入り込みそうで不安だった。まだ見ぬ震災の爪あとがどんなものかもわからなかった。

 だから、松島海岸に宿をとることにした。少々高くなるが、被災地の人の食べ物を横取りしたくないので、13.600円の、夕食・朝食付きのコースにした。

 古くからある大松荘である。こんな時期に松島にいく人など、いないだろうと思っていたら、どっこい、31日は満室だという。その9割が震災復興関連だとは、後で知った。1日は月曜日だったのもあり、予約がとれた。

 これで宿は確保できた。
 あとは用意して行くだけである。
 きっと被災者に渡す機会もあるだろうと、少年用のズボンや、ハンドタオルを、持っていけるだけかばんに詰めた。

 テラの会代表の木村は、「自分のやることじゃない」といって、同行しなかった。
 被災地では何より体力がいるだろうし、行って熱中症で倒れていては、逆に迷惑がかかると。

 そういう成り行きで、8月1日わたしは東北の被災地へ向けて出発した。
 支援の名のもとに、自分の震災アレルギー改善をはかる腹づもりもあった。

 またどんなボランティアが来ているのかも知りたかった。
 とあるラジオ関係者からオフレコの情報をもらっていた。
 被災地ボランティアは、昔のW大学のスーパーフリーみたいだと。

 そういう混乱もしっかり見届けたかった。

2011年08月08日

がんばらなくていい東北 宮城松島被災地の旅 2(代筆・事務局長)


 はじめ、被災地入りは、2泊3日の予定だった。
 しかし7月31日の宿がとれず、8月1日のみ空きがあった。
 現地に食堂があるかもわからなかったので、二食付で予約した。
 
 震災後いち早く営業再開した、「大松荘」である。
 松島海岸駅の目の前にあり、JR仙石線で被災地入りする場合、至便である。
 仙石線松島海岸駅〜矢本駅間は、津波で線路がめくれ、運行できない。

 いまはおよそ一時間に一本、代行バスが出ている。
「大松荘」はそのバス発着所からも、目と鼻の先だった。
 むろん予約するときは、そんな事情はわからない。たまたま電話をかけただけである。一泊二食付きで13.600円は、観光客ではない私には正直高かった。それでも、お金を使うことも復興支援になると思い、迷うことなく決めた。

 さて宿も決まり、あとは行くだけという段になって、永松さんより連絡があり、31日に東名(とうな)で炊き出しがあるという。その時に衣服支援をしてはどうか、ということで、夏物のズボンや、ハンドタオルをバッグ2個分詰めた。

 8月1日。朝8時に事務所を出た。
 くもり空で、それほど暑くはなかった。
 通勤客で満員の東海道線で東京駅に向かう。

 東京駅で東北新幹線に乗り換える。
 ホームでは、停車中の新幹線の周りに、人だかりができていた。
 駅員にきくと、人気のある「はやて・こまち号」だった。
 鉄道マニアが群がっていた。
 全席指定なのであきらめ、隣のホームで、山形の新庄まで行く便の自由席車両に乗り込んだ。仙台出身の友人に、仙台止まりの便より、もっと先まで行く便の方が速いときいていた。

 自由席はがらがらで、三人分の席を一人占めできた。
 一人分のスペースが広く、椅子の背中もその分ながながとリクライニングできる。
 ボタンが二つついていて、Bボタンを押すと、座椅子部分も前の方にスライドする。
 楽ちん至極。

 自由席車両に乗る前に、指定席車両の中が見えたが、かなり席は埋まっていて、きゅうくつそうだった。高い指定席より安い自由席の方がいいとは、盲点である。ひとり、得した気分になって、思い切り身体を伸ばし、終点の仙台まで高いびきをかいた。

 途中、福島に止まった。
 原発事故がいまだ収束しない福島である。
 くもり空であったせいか、どことなく沈うつに見えた。

 横須賀に住んでいる知人の話だ。
 家の近くに、核燃料の倉庫がある関係で、放射能測定器があるという。
 ふだんは、基準値以下の、ゼロ近くを這っている測定線が、震災の後、いきなり急上昇して、上限をふりきってしまった。2日、3日と経つうちに、半分に減り、4分の1に減りしていったが、いまだ震災前の数値にはもどっていない。

 放射能量計の針がふりきれたとき、テレビでは福島の原発建屋が爆発する映像が流れていた。どう考えても、放射能量の急上昇は、その爆発と関係があるとしか思われない。それなのに政府は、人の一年に浴びる放射線量以下の数値だの、X線検査で照射する程度だのと繰り返す。
自分たちも被爆させられたのだ、と彼は思い知った。

 そう、私たち、震災のとき関東にいた人間は、被爆したのである。
 広島・長崎と同じ被爆者になった。
 だからといって、どうという話でもない。
 30才以上の成人は人生を自分で決めるべき、という考えに私は賛同する。
 ただ、乳幼児や、子供たちとなると、話は別である。

 主にヨーロッパから来た在日外国人が、本国からの緊急通知で、あわてて被爆圏外に逃げたのも、今から思えばあながち間違ってはいない。外国の政府やメディアは、日本国民との利害関係が薄いので、ありのままを発表したのだろう。

 もし自分が外国に出ていて、同じ目に遭ったら、もちろん脱出する。
 ただ今回は他でもない、自分の国の領土内でのことだ。
 何が起きても、どこへ脱出する場所もないし、そんな気もない。

 福島のことから横道にそれた。
 旅の先を急ごう。
 仙台に着くと、在来線に乗り換え、松島海岸駅へ向かった。
 地図で見るとよくわかるが、JR仙石線は、今回津波の来た海岸線をずっと石巻までつづいている。松島の海岸線を通っていく。
 松尾芭蕉があまりの美しさに、俳句をつくる気にならなかったというほど、日本で有数の風光明媚な路線なのだが、今回はそれが災いした。松島海岸駅から矢本駅まで、復旧に5年はかかると言われている。また、観光資源でもある、松島の島々が、津波から人々を護った話しも、後にきくことになる。

 仙台の街並みは、震災など何もなかったように、普段と全く変わらない。
 本当に自分は被災地へ向かっているんだろうか。
 キツネにつままれたような気分だった。

 それが、塩釜を過ぎたあたりから、少しずつ津波の爪跡が見えだした。
 窓の外の海ぞいの風景が、じわりじわりと異様さを増してくる。
 いよいよか。肌が粟立つのを感じた。

がんばらなくていい東北 宮城松島被災地の旅 3 (代筆・事務局長)




 仙石線のどんづまりまで辿り着いた。
 正確には次の駅まで開通しているが、その先へ行く者は、ここで降りなくてはならない。
 松島海岸駅である。

 代行バスは改札を出てすぐの駐車場から出ていた。
 乗ろうとすると、ちょうど満席になり、次を待ってほしいと言われた。
 仕方なく、バス待ちの列に並んだ。

 後に知ったのだが、代行バスは1時間に1本か、2本しか出ていない。
 逃せば次をじっと待たなくてはならない。
 それを知ってか知らずか、乗り遅れた中年の男が、バスの係員にくってかかった。
 ものすごい剣幕で「納得がいかない」と怒りをぶつける。小さな孫を連れていた。地元の人だろうか。しかしいくら怒鳴ったところで、かいはない。係員は黙ってきいていた。やがて運良く臨時バスが到着した。

 バスに乗ると、こんどはがら空きだった。
 前のバスは満員だったのに。
 怒鳴っていた男も孫と一緒に乗った。

 バスの乗客数がまちまちである以上、本数を増便すれば、それだけ赤字バスが出るだろう。
 JR東日本も、赤字覚悟で代行バスをやっているのは、一目瞭然だ。客も会社も苦しいところだ。互いに痛み分けである。私のような旅行者には、しかし無いと困る。タクシーを使えば、東名まで2千円はかかる。

 バスの窓から、今夜の宿である大松荘が見えた。ほんとうに駅の真ん前である。てきとうに選んだのだが、幸運だった。

 走りだしたバスの客をそれとなく確かめる。
 何国人かわからない、おしゃれな服を着た黒人青年。ばっちりヒップホップ系のファッションで決めた、不良っぽい若者。ボランティアらしい女の人もいた。
 
 山と海が接している。日本一の名勝、松島の絶景が窓の外に展開する。観光客の姿もちらほら見える。西行法師もひき返したという、陸奥(みちのく)へ入っていく。
 かつての仙石線の盛り土が見えた。これは、ダメだ、と思った。津波の来た海岸線にぴったり寄りそい過ぎている。運行再開の見通しが立たないのも道理だ。もう一度津波が来たら、どうするのか。いまはJR東日本社内でさまざまに検討しているらしい。

 うねりながら続く山道が、いくつかの峠を越した。とつぜん視界がひらけた。そこがその日の活動場所、東名であった。

 永松さんに携帯電話で連絡すると、活動場所はバス停留所のすぐ近くだという。永松さんのご実家の庭である。走って迎えに来てくれた。1時に着く予定だったが、代行バスの遅れなどで、2時ごろについた。炊き出し開始は3時である。

 東名に来るのはもちろんはじめてだ。予備知識は全くない。国道が集落のあいだを一本通っていて、山側と海側を分けている。どうやら港もあるようだが、バスを降りたところからは分からない。津波がほんとうに来たのか、ぴんと来なかった。山側の集落は一見して無傷に見える。

 永松さんに連れられて活動場所に着いた。二階建ての一軒家である。一階は、たたみがはがされており、床下が丸見えである。冷蔵庫やガスコンロの他は、家財道具はいっさい取り払われている。ご両親は仮設住宅に移った。

 荷物は二階に置いて下さい、と言われるままに二階にあがった。以前、来た人が下に荷物を置いていると、支援物資と間違われたのか、誰かに持っていかれたのだとか。二階にはたたみが残り、テーブルや、テレビもあった。バルコニーに荷物を置かせてもらう。二階の窓から見える近所の家は、そこかしこが崩れて半壊の有様だった。珍しく思い、デジタルカメラで写した。まだ私も現実が見えていなかった。

 3時の活動開始まで、少し時間があったので、永松さんにことわって、辺りを視察に行った。川の向こうに行くといいですよ、いろいろ見れますから…、永松さんはさらりという。かるく返事をかえして歩き出した。
 
 川のほとりに駅らしいものがあった。
 被災地では、○○らしいもの、にたくさん出会う。
 線路はなく、草の茂るにまかせてある。まさか、かつての仙石線東名駅じゃないよな、と訝しく思いつつ、通り過ぎた。そこがれっきとした駅だったのは、後に永松さんから知らされた。

 橋を渡った。欄干がひしゃげ、竣工昭和39年とある石が、横倒しになって、川におちる寸前で止まっている。そこから先の光景は、果たして正確に描写できる作家が日本にいるのか、疑わしいものだった。

 いろいろ見れますから、という一言の重みがじわじわと感じられてきた。

2011年08月09日

がんばらなくていい東北 松島被災地の旅 4



 この稿を起こすにあたって、非常に悩んでいる。
 自分の見た光景を、正確に表すことはできるとは思えない。
 雰囲気を知るためなら、写真を見た方がはやい。

 しかしこれだけは言える。
 テレビのニュース、ネット映像、雑誌の写真、そのどれ一つも、被災地の真の姿を伝えきれていないと。
 それがメディアの限界であり、もし情報発信者が限界に気付いてないとするなら、それは傲慢というものだ。
 それから、もう一つ。
 どんなメディアも、大手になればなるほど、あらゆる利害関係が絡んでくる。視聴者、読者に提供する情報にも、バイアスがかかる。震災に限らず、報道とはそうしたものだ。自分はなにも偉そうなことを言うわけじゃない。
 ただ、個人的な体験において、これまで持っていた被災地のイメージと、じっさいに目で見、肌に感じたそれとは、全く異なっていた、と言いたいだけだ。

 東名の活動場所、永松さんの実家付近から、橋をわたり、川向こうに出た。
 視界はどこまでも開けている。
 沖合いの小島まで見える。
 北東を向くと、どこまでも干潟のようなものがつづいていた。
 佐賀県の有明海を、どことなくほうふつとさせる光景だった。
 てっきり、もともとそういう土地なのだと思っていた。
 実のところは、その干潟らしき広大な浅瀬は、水田だった。
 水田が、ずっと矢本の方まで広がっていたようだ。

 言葉が見つからず、もどかしい。
 どう見ても海辺の浅瀬にしか見えないものを横目に、両脇に半壊、全壊した家屋の立ち並ぶ未舗装の道路を歩いて奥に入りこんだ。二階の屋根が地面に落ちている。電信柱が横倒しになっている。鉄のかたまりになったトラクター。農耕用なのは、自分の育ったのも米どころだったのでわかる。
 漁協の庁舎があった。
「解体OK」と貼り紙のある廃屋。「見かけました」、「探しています」の貼り紙。飼い猫の三毛猫をよく見かけるので、誰か飼い主を知っていたら連絡下さい、とある。また、自分の飼っていたシャム猫をさがしている、もし見つけたら連絡を。

 ペットも被災したのだ。
 飼い犬や、飼い猫のための、ドッグフード、キャットフードも、支援物資として届く。
 札幌で犬のしつけサービスの店をしている知人も、ペット支援で被災地入りした。
 誰しも、まず自分の大切にしているものを手がかりに、被災者のことを心配するのだろう。
 子供のいる人なら、子供は大丈夫か、と思うはずだし、車が好きな人なら、車は大丈夫かと思う。

 そういった意味で、私がどうしても気になったものがある。
 それは、神社である。
 東名の集落の奥は、港になっていた。
 へりは海に没しており、使いものにならない。
 その中に、赤い小さな鳥居があった。
 海に面と向かって、八大龍王の石碑がある。
 江戸時代の年号が刻まれているので、よほど古いものだとわかる。
 誰かが津波のあとに建て直した形跡はない。
 鳥居と石碑が、これだけ海に面していながら、倒れなかったのは、今から思うと不思議でならない。
 
 さて、集落の人が散り散りになった今、誰が祀り事をするのか。
 気がかりだった。

 もっと気になる神社も近くにあった。
 そちらの方が由緒ある古社のようだ。
 平らかな集落の中で、そこだけ団子を置いたように、丸山と呼ばれる山がある。
 そこが鎮守の森になっていて、後で調べたことだが、塩竈神社があった。
 山の参道へつづく道の前に、古い石の鳥居があった。
 げたの歯のような、ニの字の鳥居の上の一本だけ、消えていた。

 神様も被災したのだ。
 東名集落の、祖霊社のようなものだったはずだ。
 つまり村を切り拓いた先祖を祀る神社である。
 漁師町というのは、神事や祭りを大切にするものだ。
 先祖の祀りを絶やすということは、自分の足首から下をなくすようなもの。
 放っておいていいはずはない。

 集落の中心あたりに、墓地の残骸もあった。
 墓石はみな倒れ、どれが誰のかもわからない。
 初老の女性が、ぼんやりと入り口あたりにたたずむのを見た。
 無縁仏がたくさん出ていないといいが…

 塩竈神社跡に入ろうとすると、くもの巣が頭に絡み付いてきた。それ以上なかへ踏み込めなかった。そうしたものを目にするにつけ、ふつふつと、被災地でやるべきことが浮かんできた。

 神社は、必ず系統がある。たとえば八幡様なら、その大本は大分県の宇佐八幡である。全国に4万社を数える八幡社も、すべて宇佐八幡から分祀され、さらに分霊し、と分かれたものだ。

塩竈神社と名があるなら、きっと塩竈市の大社、塩竈神社からの分祀であろう。

 何百年前に分祀したのかはわからない。それでも祀る人がいなくなり、とうぶん戻って来ない以上は、いちど本社へお返しするべきではないか。神様も、迷子になると、荒れる。妙な神がかりなど起こすのは、たいてい迷子の神様である。戦前に、国家に叛旗をひるがえし、弾圧を受けた大本教の教祖にかかったのは、祀られなくなったアイヌの神だと言われている。

 大量の無縁仏も、どこかの寺が引き取った方が無難だろう。
 目に見えない世界のすじを正すべきだ。
 どうして、目に見える家屋の解体も済んでいないのに、目に見えないものまで気にかけるのか、と言われるかもしれない。ぴんと来ない人は、来ないだろう。それでいい。それぞれこだわるものは違う。人の食べ物も行き渡ってないのに、ペットフードを配ることが、問題ではないのと同様だ。

がんばらなくていい東北 松島被災地の旅 5



 われ言はん言葉もなくていたづらに口を閉じたり、いと口惜し―――『笈の小文』の一文である。松尾芭蕉が旅の第一の目的地、松島についたときの心中を吐露したもの、と言われる。

 芭蕉は松島の風光明媚さに心をうばわれ、このように思った。
 私は、松島海岸から一本道を奥に入った、東名の被災ぶりを見て、同じことを思う。
 表す言葉がないのである。美しさの極みも言葉にならないが、もの凄まじさの極みも、同じく言葉にならない。

 言語化の野心を今はあきらめ、率直に旅の先をしるした方がいいだろう。
 東名の集落を一周したあと、川を渡って、活動場所である永松さんの実家へもどった。
 すでに炊き出しははじまっていた。
 それまで人を見るのがまれだったのに、どこからともなく現地の人々が集まってくる。
 庭にはブルーシートがひかれ、キャベツやチンゲン菜などの野菜、台湾から来た台湾茶などの支援物資が積まれている。ひと家族一個まで、と立て看板がある。とはいえ決まりはゆるやかなようで、人によってはいくつも持って帰っていた。活動の最後に、少し余りが出るほど、野菜類は豊富だった。

 山形の新庄から来たらしい、そばの炊き出し隊がそばをゆでる。中華そばのような麺である。大鍋もあり、手馴れた様子だった。

 ゆで上がるまでに少し時間があった。
 永松さんが、子供たちとすいか割りをやるという。
 道の真ん中にビニールシートが敷かれ、すいかが置かれた。
 そこで問題が起きた。すいかがあっても、叩く棒がない。
 
 何かかわりになるものが無いか、探し出す永松さんだった。
 木刀のような、ちょうどいい棒…
 いざ探すとなると、見つからないものである。
 庭の脇に、角材があった。長すぎるので、ボランティアの男の人が、ひざを使ってへし折った。少し細すぎて、すいかが割れるか、心もとなかったが、仕方ない。すいかと棒がそろい、すいか割り大会がはじまった。

 子供たちが、大盛り上がりしている。
 一列に並び、自分の番をいまかいまかと待っている。
 両脇には親御さんが立ち見している。

 活動のはじまる前、永松さんから、かるく今回の目的をうかがっていた。
 何とか人の集まる機会をつくりたい。互いに情報交換ができる場が欲しい。
 情報交換が、被災地において、どれほど重要か、翌日にくわしくきいた。

 炊き出しや、支援物資の手渡しを通じて、散り散りになった人と人をつなげようとしている、と私の目にはうつった。

 すいか割り大会がはじまった。
 子供たちの歓声があがる。
 しかしふと、何かが足りないと思った。
 盛り上げ役が永松さん一人しかいない。
 催しものにつきものの、司会役などがいないのである。永松さんは主催者、場所の提供者、さらに司会の、一人三役以上やっている。そこで私は思いついて、二階へ上がり、手荷物から笛を取り出した。

 超初心者なので言うのもおこがましいが、私はお祭囃子の笛吹きである。
 こういう子供たちの賑わいには、BGMがあるとなおよい。
 もちろん無いなら無いでいい。しかしあると、ちょっとは雰囲気が出る、はず。
 
 おかめ、ひょっとこを踊らせる、ノリのいい曲を吹き出した。永松さんは、やってくれとも、やるなとも言わない。もともと笛を吹くのは私の日課なので、自然とそれをやったまでのこと。

 きかせるでもなく、子供たちの、棒を振り上げ、振り下ろすに合わせて、笛を吹く。太鼓のばちの上げ下ろしと同じなので、何のことはなく合う。まさかこんなところでお祭囃子の経験が生きるとは。

 てきとうなところで吹き止め、笛を手にして立っていると、おじいさんが寄ってきた。「あんた、神楽やるのかい」ときた。神楽というか囃子をやります、というと、「神楽の囃子かい」と、うなずいている。少し違うが、まあいい。こちらにも神楽あるんですか、ときくと、あるある、という。意外なところから、現地の人との交流がはじまった。

 おじいさんは笛を手に取り、穴は七つか、と眺める。その一言で、祭りのわけ知りとわかった。日本の祭笛には、大きく分けて七つの穴があるものと、六つのものとがある。たとえば大阪のだんじり囃子だと六つである。それぞれの地域によって、七つと六つの違いがある。
 つまりおじいさんのやる神楽(?)では、笛の穴は六つなのだ。
 仙台のお祭でやるという。笛はやるんですか、ときくと、やらないと言いつつ、穴をふさいで息を吹きこむ。音が出た。普通、笛は、多少なりと経験がないと、少しも鳴らないものだ。おじいさんは笛の経験があるのが、それでわかる。

「長いね」とおじいさん。
「ええ、うちの方では、長くて大きい方が音が大きいというので」
「いやいや、そんなことはない。短くても、高い音がよく鳴るもんだ」

 大先輩から言葉をもらい、嬉しくて何度も相づちを打った。

 芸というのは、こうして人との交流のきっかけになる。そばがゆで上がった。おじいさんは、「いい匂いがしてきた」と、笛を返してそばを食べにいった。花より団子。やっぱり万人を喜ばすのはおいしい食べ物だ。

2011年08月10日

がんばらなくていい東北 松島被災地の旅 6



 永松さんの実家の庭で、活動がはじまった。もし名付けるとするなら、「総合奉仕デー」とでもいうふうだ。そばの炊き出し、すいか割り、かき氷、衣服や野菜に文房具の手渡し。炊き出し隊の他は、永松さんの知り合いの地元の方が手伝う。

 ぞくぞくと集まって来る被災者の方たち。
 混乱はなく、そばを食べるのも、列を並んで待っている。
 そばは十分な人数分あり、食べそびれることはない。
 子供たちが割った、というか、ちょっと叩いて傷つけたすいかも、包丁で食べやすく切り分けられた。
 集まる人たちは、子供とお年寄りが多い。それから子連れの母親。月曜日の昼間だったので、父親は働いていて、来れなかったのかもしれない。めずらしく、若い人がいるな、と思うと、アメリカのサンディエゴから来た、ミッション系の奉仕団だった。

 家の軒先を使い、衣服の手渡しも行われた。
 さまざまなところから届いたものが、混在している。
 もちろん、テラの会の木村天山から届いたものもある。
 永松さんと知り合ってから、毎日必ず一箱は送っていた。

 私も、持参したバッグの荷をとき、ハンドタオルを並べた。
 ハンドタオルありますよ、と大きな声で呼びかけると、主婦の方たちが、わっと集まってきて、一瞬にしてなくなった。また、クーピーも1セット、寄付されたものを持ってきたが、女の子がめざとく発見し、すぐになくなった。
 そうするなかで、自然と役割分担が決まった。
 私は衣服を、相手の要望をきいて一緒に探し、手渡す係りだ。
 海外で6年も同じことをやってきているので、馴れたもの。
 
 被災地では、衣服は中古はダメ、新品しか受け入れない、という噂も耳にしていた。
 私は経験上、そんなことはないと踏んでいた。
 必要だったら、人の使ったものだろうと何だろうと、関係ない。
 いわゆるお下がりというイメージではない。なぜなら、寄付する人たちが、綺麗に洗濯して、十分使える状態で送ってくるからだ。
 衣服は新品も中古も豊富にあった。しかし、その中から、それぞれ欲しいものを探し出すのが、たいへんである。だから探している人に声をかけ、話し合いながら、一緒に探す。その会話の中から、被災者の「いま」を感じることができた。

 80過ぎの老母といる、50代の女性。母親の着替えがないという。80才以上の人が着れるような、ゆったりした衣服は、どこへ行っても一着も見つからない。
 
 ああ、そういう服なら、うちの事務所の倉庫にたくさんあるのに、と悔しかった。
 結局その日も見つからずじまいだったようだ。

 LLサイズの作業着が欲しい、という男性。
 これは永松さんが事前に要望をきいており、用意していた。

 ジャージや下着類はないか、というおじいさん。
 一枚のズボンを長いことはきっぱなしだという。
 成人男性ものは少なかったが、何とか見つかった。
 ランニング・シャツも渡した。

 ふと今思う。衣服にしても、「あったかいホール」のような、支援物資の集積地から、被災者の徒歩で来れるところまで、持って来るのがまずたいへんである。ネット上では、効率的な支援をうんぬん、と議論かまびすしいようだ。しかし現場で何が起こるかは、わからない。その時その時に応じて、臨機応変に動くしかない。どうあれ最後は、マンパワーにかかっている。

 衣服を手渡しながら、被災者から直接きく話は、貴重だった。
 テレビも新聞も通さない、一次情報である。
 それをきくために、被災地入りした面も大きい。

 日本人の特質のせいなのか、自分の苦労話を、他人に話すことがあまりない。
 きかせて相手の気を滅入らせるのが嫌だからだ。
 本当の苦労は、会話のはしばしに、少しだけ顔をのぞかせる。
 マイクとカメラを近づけて、「いま、どう感じますか」ときいて出てくる話ではないのだ。

 アメリカから届けられた、鉛筆の束もある。
 座りこみ、ためつすがめつする、文字を習いたての子供たち。
 鉛筆は、すぐに使えるように、削られていた。

 活動場所の東名は、海と山の接する町である。
 津波に遭った町中には、理容店もあった。
 赤と青の渦まきの看板が倒れかけていた。
 
 髪を切るボランティアのブースがあった。一人の女性が、もくもくと髪を切っていた。希望者は多く、ほとんど休みなく、次から次へと調髪していた。女性にとって美容室で髪を切ることは、ただの生活上の必要のみではない。最高の癒しだ、と言った女性を知っている。

 しかし圧倒的に人手が足りない。次から次に来る客を、相手するのはただ一人。
 さすがにボランティアの方の顔にも疲れが見えた。

 そばでお腹を満たし、野菜や衣服をビニール袋につめた人たちが、三々五々帰っていく。
 それでも、ぽつりぽつりと、新しく人がやってくる。
 そばやかき氷の方も、まだ設備を片付けられない。

 衣服の方は、ようやく手があいた。
 何することなく立っていると、ボランティアの人から声をかけられた。
 
「いつも笛ふいてボランティアしてるんですか?」

「いえいえ、今日はたまたまです」といいつつ、テラの会のチラシを取ってきて渡す。

 プロテスタントの人だった。2泊3日で来ている。主に側溝の泥かきなどをやっている。テラの会のチラシを見ながら、木村天山ブログの項目、「神仏は妄想である」を指さして、苦笑いしていた。

 とはいいつつ、うちの代表(木村)はクリスチャンなんですよ、と言うと、わかったような、わからないような顔をしていた。あえてそれ以上説明はしなかった。数分の立ち話しで、木村天山のことをわからせることは、まず無理だから。

 被災者より汚れた格好をしている一団を見かけた。サンディエゴのミッション系の人たちだ。日本語の達者なものも数人いたが、まったく話せないおばさんもいた。ガムテープで「テレザ」と名札をはった、そのおばさんに声をかけた。

 2週間の予定で来ていて、持ち物はほとんどない。服も一枚着てきたのみ。それではと、テラの会の衣服の中から、作業着になるものを選び、持っていっていい、と言った。

 現地の人にあげなくていいのか、としきりに気にする。
 現地の人にもあげているし、それだけではなく、被災地で作業する人にも使って欲しい、というと、やっと受け取る気になったようだ。Mサイズはあるか、これは日本製か中国製か、と会話が弾む。

 軍隊はどこに行ったのか、あなたはどこから来たのか、と質問責めにあった。
 どうやら、サンディエゴから飛んで来たはいいけれど、現地の人との交流もなく、被災地のこともほとんどわかってないようだ。それ以前に、日本のことを、どれくらい知っているかも怪しかった。
 どうして英語を話せるの、ときくので、日本では中学校と高校で英語を教えているのだ、と教えると、はじめてきいたような顔をしていた。私も、海外で日本語が話せる人に出会うと、不思議に思って必ず同じ質問をする。
 となりにいた日本人のボランティアまで、私に英語で話してきたのは、ヘンだったが…

 海外における、日本の被災地への関心が高いことが知れた。もしかしたら日本人自身よりも高いかもしれない。

 情報交換の場として、今回の活動を催した永松さんの思惑は、うまく当たったようだ。
 ある意味で、東北の被災地は、いま日本でいちばん国際的な場である。
 世界中から寄付が届き、ボランティアがやってくる。

 そうした歓迎すべき影響は、どんどん受けた方がいい。
 若い人が、世界へ目を向けるきっかけになりうる。
 
 人が減り、ほとんど近所の人ばかりになってから、永松さんが、お父さんにサプライズがある、と言いだした。二日前が誕生日だったそうで、ケーキが魔法のようにあらわれ、みんなで誕生日おめでとう、と盛り上がる。お父さんは照れくさそうに笑っていた。娘に誕生日を祝われて嬉しくない父親はいない。

 じつは私は、お父さんに、早々と誕生日プレゼントを渡していた。
 それも、もしかすると、ケーキよりうまいかもしれないものを…
 永松さんには、今もって内緒である。

 着いてすぐ、二階に荷物を置いていると、お父さんがやってきた。煙草もってないか、という。一箱、未開封のものを持っていた。

「みんな流されちまって…」

 と遠い目をする。煙草吸いの気持ちは煙草吸いにしかわからない。
 あらゆる雑事にふりまわされ、神経が疲れ切ったとき、一服の煙草がどれほど救いになるか。私はインドネシアで買った煙草のさいごの一箱を、まるごと渡した。好きなだけ吸って下さいとまで言った。
タール39ミリ、ニコチン2.3ミリの、禁煙傾向の日本ではめったに売ってない、うまいかわりに特別濃いやつだ。ライターも渡す。そして部屋を出た。忘れ物をして扉を開けようとすると、内から閉まっている。ハテナ・マークが目の前をとびかった。

 お父さんが肺気腫もちだと、次の日永松さんからきかされたときは、冷や汗が出た。

 なにも津波のせいではなく、病気のせいで煙草が吸えなかったのだ…
 そうとは知らずに、医者が見たら卒倒しそうな煙草をあげた自分のバカ。
 そんな事情を全く悟らせず、しっかり欲しいものを手にした、お父さんのしたたかさと、茶目っけには、脱帽。
 この場を借りてあやまる。
 永松さん、ごめんなさい。

 結論からいって、女の欲しいものは、女がわかりやすい。
 男の欲しいものは、男がわかりやすい。

 ほとんど日が暮れた。
 宿に7時に行くと告げてあったので、その場を辞した。
 代行バスの停留所で、せまり来る蚊の大群とたたかい、やがて来たバスに乗った。
 お金を払おうとすると、着いてからでいいという。
 松島海岸駅についたが、誰もお金を徴収しに来ない。
 不思議に思いつつも、ちょっと得した気分だった。
 今夜の泊まりは大松荘である。

がんばらなくていい東北 宮城松島被災地の旅 7



 山海の珍味を目の前に、名勝松島を窓の外に。
 一杯やれたら、まるで観光客である。
 低刺激性の温泉に入った身体はゆるくほぐされている。

 大松荘は、古くからある旅館だそうな。
 いまは、9割がた復興関係者が泊まる。
 観光で来てくれた客は、その日2、3人に過ぎなかった。

 震災ボランティアにしては、ずいぶん豪勢な食事だ。
 それでも、一日の終わりに、おいしいものと、あったかい風呂があるのは、ありがたい。
 一月前はパプア・ニューギニアで、毎日おいしくもない焼き飯を食べていた。
 ぜんぶ平らげて、米びつの残りは、おにぎりにした。
 中身は牛タン。ぜい沢なおにぎりである。

 酒がのみたい。
 何となく落ち着かないのである。
 このまま眠れそうにもない。

 予は口を閉じて、眠らんとしていねられず。
 松尾芭蕉は松島で眠れない夜を過ごした。俳句をつくる口も閉ざしたまま。
 私は事情も時代もだいぶ違うけれど、眠れない。
 夜の松島を見るのも一興と、ホテルを出た。
 たんにコンビニで安酒を買いたかっただけ。
 新月で月は見えなかった。松島の朧月夜は見逃した。
 布団を敷きに来た塩釜出身の青年にきいたのだが、スナックは震災後、みんな閉めた。
 
 温泉街にスナックがないのは、淋しいと思うのだが。
 ホテルのロビーにも、がたいのいい、肉体労働のおじさんたちが、行き場もなく座っているのを見た。復興の現場には、男がこんごも集まってくる。酒と、相手をしてくれる女性がいたら、どれだけ彼らの元気の源になるだろう。
 
 しんとした松島海岸を、端厳寺の方まで歩いた。
 バスから見えたコンビニは、歩くには遠すぎた。
 2軒、開いているレストランを見つけたが、お腹はいっぱいだ。
 自分の求めている雰囲気ではない。
 仕方なくホテルまでもどった。
 
 ふと見ると、食堂の明かりがついている。
 窓から中が見えた。テーブルの上に、一升瓶がのっているじゃないか。
 発見だ。迷わず中に入った。
 おかみさんが、もう閉めたよ、と言う。
 酒を一合だけ飲ませてもらえないか、と頼むと、よしの一言で座らせてくれた。

 カウンターに座る私の前に、一合のコップが置かれ、一升瓶からなみなみと、日本酒が注がれた。「おっとっと」とおかみさんは、こぼれるほど注ぐ。サービス精神おうせいな性格が知れた。それが、小舟のおかみとの出会いだった。

 松島海岸駅前の、かきが食べれる食堂「小舟」。
 銀髪で、細身のおかみは、ほぼ一人で食堂をやっている。
 店の中にも津波は来た。壁に水位をしめすしるしがあった。
 私の胸の高さか、のどもとくらいだ。

 3月11日、地震の後、小舟のおかみは車で東松島へ向かっていた。
 働いている女の子の子供が2人、そちらにいたからだ。
 渋滞する車の列を、津波が襲った。
 たまたま、小道に入っていたから、助かった。
 水が上がってきたので車から降りると、瓦礫が流されてきた。
 その上にとびのった。女の子も引き上げ、瓦礫から瓦礫へ飛び移って、高いところへ逃げた。おかみ は陸上をやっていたので、後ろを振り向けば、それだけ遅れるのを知っていた。とにかく前を見て走った。
 民家が見えた。一階はもう水が入っていたが、二階のひさしの部分は、まだ大丈夫だった。やっとそこまで辿り着いて、女の子を先に上げると、自分の足が1センチも上がらない。

 小舟のおかみの話をききながら、一合の酒を一口ずつ腹に納めていった。
 おかみの話は強烈だ。聞く方にもパワーがいる。
 午後10時をまわった新月の松島は、深閑としている。
 心理療法の心得が役にたった。

 人の辛い話をきくとき、ぜったいに自分の意見をはさんではならない。
 同時に、相手の話に飲み込まれてはならない。
 ちゃんとききながら、決していっしょになって嘆いてはならない。

 さて小舟のおかみの話はつづく。

 瓦礫をとびうつり、民家の二階の前までたどり着いた。
 女の子を先にあげ、自分も上がろうとしたが、1センチも足があがらない。
 というのは、着ていたつなぎが、ぐっしょりと海水をかぶっていて、鉛のように重くなっていたからだ。
 自分ではどうしようもなかった。
 先に上がっていた男性が、瓦礫の上に降りてきて、後ろから押し上げてくれた。
 それで助かった。

 その夜は、2階で明かした。他人の家だったので気がとがめたが、毛布を探してきて、身体に巻いた。ずっしりと重くなったつなぎは、申し訳なく思いながらも、その場に捨ててきた。

 女の子の子供2人は無事だった。
 次の日、開放された寺の中で再会した。母親の顔を見たとたん、疲れていたのだろう、そのまま眠ってしまった。寺の中は暖房がきいていて、あたたかかった。震災の日は雪が降っていた。

 小舟のおかみが、津波の中でみたものは。
 木に抱きついている女性。その人の助かったことがわかったのは、52日めのことだった。
 それから、渦にまかれ、車の中でぐるぐるまわっている男性。

 店の中は、電化製品も、テーブルも、何もかも流されていた。
 再開できるのか、と途方にくれたが、震災前から、会議で使うお客さんの予約が4月19日に入っていた。店の中がめちゃくちゃなので、と断ろうとしたが、どうしてもと言われた。2階を片付けて、何とか4月19日に営業再開できた。

 観光名所松島の海岸は、ヘドロだらけだったという。端厳寺の雲水たちが、ヘドロかき作業を行った。それでも、他の地域に比べたら、被害は軽かったそうだ。 

 松島湾には、260もの大小の島がある。古くから日本一の名勝といわれる由縁である。
 その島々が、津波を分散させて、松島海岸に来るまで、だいぶ勢いを弱めていた。
 観光資源として現地の人びとを助けてきた島々が、津波からも住民を護ったのだ。
 津波は湾の端の方をまわり込んで、横ざまに入ってきた。
 浮き桟橋が、考えられないようなところで発見された。
 どんなふうに水が動いたのか、今もってわからない。
 
 小舟のおかみの説はこうだ。1020年前の地形を見ると、塩釜神社の高台より低いところは、海である。そこを、人間のエゴで開拓し、住みなしてきた。それが津波でみんな元にもどった。1020年前の海岸線と、今回の津波の上がった線は、不思議なほど一致する。

 私は酒のさいごの一口を飲みおわった。
 おかみは、ボランティアの人には、本当に助けてもらった、という。
 本当に危なかった瞬間が、3回はあった。
 それでも生き残った自分は、何かでお返ししなくては、と思った。
 復興支援の人が来ても、食べ物がない。そんな人たちのために、日替わり定食をはじめた。最初はワンコイン、500円でやろうとした。しかしそれでは電気代その他、まったくもとがとれないので、600円とした。
 もともとかきで商売していた。しかし津波でかきの養殖場も流されてしまい、今年は例年の半分以下しかとれない。つづけていくので精一杯だが、つづけられるうちは、やろうと思う。

 被災地でもっとも深刻なのは、職がないこと。
 若い人は、他県に出て仕事を見つけることもできるかしれないが、おばさんたちは、本当に職がなくて、困っている。いま必要なのは、雇用を生み出すことである。
 小舟のおかみは、震災のあった当初から、誰にもがんばれとは言わない。みんなぎりぎり一杯でやっている。これ以上がんばれるはずがない。壁には、ただ「前進」と筆書きがあった。
 そう、瓦礫の上を後ろを振り向かず走った小舟のおかみだから言えること。
 前へ、前へ、前進あるのみ。

 その場では口に出さなかったが、雇用に関しては、アイデアがある。
 もともと松島は観光地だ。いまも、少しずつだが観光客がもどりかけている。
 私は、旅行会社が「被災地支援観光ツアー」を企画するといいと思う。
 被災したところに、観光で行くのは…と普通は思うだろう。しかし、地元の人は、遊びに来て欲しがっているのである。そしてできれば、松島だけ見て帰らず、その先まで足を伸ばし、180度、360度何もない現実を、その目で確かめてほしい。

 あまりほめられたものじゃないが、誰にだって怖いもの見たさ、がある。
 ハリウッドのパニック映画など、全くお話にならないほど、圧倒的な光景が、被災地にはある。地元の人が受け入れ態勢をつくって、どうぞ来て下さいと歓迎すれば、見てみたい人は星の数ほどいるはずだ。
 そして、ガイドとして地元のおばさん連中を雇う。体験者から直接話しをききながら、車で被災地をまわるツアーである。ボランティアを体験したいなら、それをオプションにして付けてもいい。

 具体的に、ホテルが部分的に再開している、松島を拠点にする。その先、矢本までは、むこう5年は電車が開通しないから、見てまわるのは、その周辺が適当だろう。一日見てまわっても、夕方までには宿まで戻られるのも利点である。

 そうして、宿でゆっくり温泉を楽しみ、宴会をやって、その日のことを話しあえばいい。観光地としてやってきた松島だから、すぐにでも受け入れ体制はつくれる。国内だけでなく、海外にも売り出す。世界中に流れた津波の映像は、まだ海外の人の記憶に残っているから、客はどんどん来るだろう。

 それが被災地の復興をうながす。傷ついた人たちを見世物にしている、と批判する者も出るだろうが、その時は地元の人が、はっきりと意志表示をすればいい。よけいな同情よりも、大切なのは雇用の拡大である。

 大松荘の風呂は11時までだったね、と小舟のおかみは、話を切った。いつの間にか10時半をまわっていた。一合の酒は600円だったが、夜遅くまで開けてくれたこと、もしスナックだったら一時間半も座れば、2千円ではきかないことを思い、千円札を置いて帰ろうとした。

 待って、と呼びとめられた。おつりの400円が、手のひらの上にのせられ、その上からぐっと両手でにぎりこまれた。震災のあと、10キロやせたというおかみが、気丈な笑顔をみせる。

「この400円を、また持って来ておくれ」

 …カッコよすぎないか、小舟のおかみ。私はまた必ず来ると約束し、宿にもどった。そのままぐっすりと眠り込み、8時半前に起きたときは、永松さんから電話が来ていた。

2011年08月11日

がんばらなくていい東北 宮城松島被災地の旅 8

 いよいよ活動も最後である。
 永松さんから、塩竈の子供たちにと、クーピー(クレヨンのような色鉛筆)と、画用紙を頼まれていた。150セットというので、事務所の近くの文房具屋や、ネット通販で、何とか50セットは用意できた。画用紙も用意した。
 
 朝9時すぎに、永松さんが松島海岸駅まで迎えに来た。
 愛車はほこりまみれで、数ヶ月間の苦労がしのばれる。
 地震の後、津波が来るまで1時間ほどあったので、永松さんは東名の峠の高台に避難した。その上から、集落が飲み込まれるのを目撃した。わるいことに、津波は集落の上で渦を巻いた。これはダメだな、と思った。

 今日は塩竈へ、事務所から送ったクーピーと画用紙を届けにいくのだ。
 木村代表は、50セットほど送ったはずだったが、25セットしか見つからない。
 いちど、矢本のあったかいホールまで取って返した。
 松島海岸から矢本までは、海岸線を通る道と、山側を迂回する道とある。行きは山側を通った。途中で、助手席に座っていた旦那さんを降ろした。旦那さんの実家は、家丸ごと津波に持っていかれた。基礎工事部分さえ残らなかった。
 
 旦那さんと永松さんの会話の中で、部外者には分からない言葉がひんぱんに出た。
「水がのった」という。水がのるとは、どういう意味か。つまり、床下浸水にせよ、少しでも津波が家屋に上がったのなら、その家は、「水がのった」。その他、家屋の損壊の程度をあらわす専門用語が、日常会話の中に混ざっていた。非・被災者には通じない会話である。

 あったかいホールに着いた。荷物の集積所のようなところだった。あらゆる団体が入り混じって使用していて、荷物がかたまりごとに別に置いてある。しかしどれもこれも似たような段ボール箱なので、もしかしたらどこかにまぎれこんでしまったのかもしれなかった。

 クーピー探しはあきらめ、何となく、塩竈まで行く途中の被災地を巡ることになった。
 海までひらけた平野の中を、鳴瀬川がまっすぐに山の方へつづく。
 震災直後、橋げたには瓦礫がひっかかって、つまっていたという。
 川沿いに河口まで降る。右手に鳴瀬第二中学校の校舎が見えた。かんぽの宿もある。すっかり何もないので、永松さんの説明がないと、住宅街だったことや、松原だったことが、全くわからない。
 
 この原稿を書いているのは、くしくも8月6日の原爆の日である。
 たぶん、原爆のおとされた後の広島、長崎と、石巻から松島あたりの被災地の見た目は、あまりかわらないと思う。360度すっかり何もない。
 このあたりの事情は、もう自分の目で見てくれというしかない。
 自分の筆の力では、全く追いつかない。
 鳴瀬第二中学校の校門あたりに車を止めた。
 原爆の爆風を浴びてこうなったのだ、と説明されれば、素直に信じただろう。
 窓は吹き飛び、中はもう、ぐちゃぐちゃだ。ボランティアの人だろう、片付け作業を行っている人たちがいた。本当は体育館を見せたい、と永松さんは言ったが、作業中の人に気兼ねして、それ以上中に入らなかった。
 校庭らしい空き地に、どこから流れてきたのか、巨石がのっている。
 誰かが机を置き、その上に熊の置物や、沖縄のシーサーを飾っていた。
 せめてもの祭壇のつもりだろうか。
 
 とはいえ幸いにして、鳴瀬第二中付近では、亡くなった人はいなかった。
 車にもどりかけ、私の母校です、という永松さんの一言に、言葉もなかった。
 
 だだっぴろい中に、盛り土がしてある。作業車両のための道路である。瓦礫の山が見えた。ごみの山、また山。それでもまだここは少ない方だという。もっとすごいところがある。

 海の中道というのが福岡にある。両側が海で、そこだけ砂が盛り上がった海中道路である。まるでそんな風に、盛り土の道路の両側は海である。その中に奇観の島がある。きれいな浅瀬だな、と思っていると、ここ田んぼだったんですよ、と言われた。

 何度見ても田んぼには見えない。どう見ても海。盛り土の道路をずっと行くと、昨日散策しに来た東名の集落に出た。家の裏手まで海になっている。昨日はもとからそんなもの、と思ってみていたが、そこも田んぼだったのだ。

 かつての海岸線まで車をとばした。ずっと端の方だった。
 
 海沿いの国道にもどり、塩竈まで走る。
 塩竈につくと、今日のもう一人の案内者、永松さんのおばさんを車に乗せた。 
 行き先は保育園だった。0才3ヶ月や5ヶ月の乳幼児から、就学前の子供まで、94人ほど保育している。ちょうど塩竈神社の下あたりだ。おばさんからの差し入れのすいかも持っていく。

 保育園は、急な坂の下にあった。塩竈は坂が多い。山あり谷ありの複雑な地形だ。そのおかげで津波の被害も軽かった、とおばさんは言う。ふだんは坂ばっかりでいやだなと思っていたけれど…

 それでも、交差点にどこからか船が二隻着いていたり、被害はあった。また地盤沈下や、地盤上昇(?)がひどく、道ぞいに段差がかなりできていた。

 保育園に着くと、子供たちがなかで遊んでいた。クーピーと画用紙の入った段ボールを運ぶ。かなり重い箱なのに、かるがると運ぶ永松さん。さすがに違う。被災した直後の数日は、ストッキングで泥水をこして吸い物をつくった。

 園長先生が出迎えて下さった。何度も何度も感謝された。
 これからは、矢本に送らず、直接この保育所に支援物資を送ることにした。
 支援物資は、あるところには大量にある。しかしそれを受け取るには、しちめんどくさい手続きを経なくてはならない。避難所の中にいるうちは、そこで物資を受け取ることができるが、一度出てしまえば、もうおにぎり一つもらえない。もらうならば登録からはじめる必要がある。

 避難所にいる人と、出る人と、どう違うのか。
 簡単に言うと、避難所にいるのは楽なかわりに、プライベートが全くない。
 避難所から出ると、プライベートは確保されるが、何もかも自前で用意しなくてはならない。ペットボトルの水1本もらうのに、役所をたらいまわしにされ、自転車で走りまわらされた。

 保育所は、震災前は43人ほどの児童数だったのが、震災後、今では94人ほどに増えている。というのは他の保育所が閉めたので、受け入れるところが減ったからだ。保護者の中にも被災者が多い。

 避難所から出て、10数人単位で暮らしている、小集団の人たちには、支援物資はなかなか届かない。役所のまわりだけ、ものが豊富にある。

 菅野園長に、また来ますと告げて、車にもどった。
 ちょうど塩竈神社の下だったので、せっかく来たなら、と参拝することにした。
 塩竈神社は陸奥総鎮守の大社である。
 境内は広く、高台になっており、塩竈の港から海の島々まで見える。

 そこで、亡くなった方たちのため、黙祷させてもらうことにした。
 海に向かって頭を下げる。
 胸の内には何も浮かんで来ない。ただ気の済むまでそうしていた。
 背中で、鳥のとびたつ音がした。
 境内の鳩の群れが、いっせいに飛び立ち、海へ向かってはばたいている。
 目を閉じているが、音でわかる。
 なんともいえず、すがすがしい瞬間だった。
 これで、今回やることは、全て為しおえた気がした。

 塩竈神社の立派な本宮に参拝する。右側に別宮として、塩竈の名の由来になった、製塩法を伝えたという塩老が祀られている。本宮の方は、江戸時代ごろに、何が祀られているか名もないから、というので、適当に祀った神様がある。

 つまり別宮の方がもともとの信仰だった。同行の二人にきいたところ、創建はいつかもわからないほど古いという。本殿の門の前、海から見ればちょうど反対側に、二百数十段の階段がある。のぞくと、目もくらむような急坂だった。下の道路は、はるか谷底に落ち込んでいる。

 まるで天然の防波堤のようだった。
 じっさい津波は塩竈神社までは「乗らな」かった。
 はるか古代に想像がふくらむ。
 かつてこのあたりは、大和朝廷の影響の及ばない、蝦夷の土地だった。
 いわゆる大化の改新の後、蝦夷征伐が国家事業化したあとも、長いこと抵抗をつづけた。
 ただ文献は制服した側の方にしか残っていない。
 みちのくの古代文明については、遺跡をのぞいて記録がない。
 塩竈、松島から東北は、8世紀ごろまで原住日本人の高度な文化があった。
 塩竈神社を祀りだしたのも、そんな人々なんじゃないか。
 彼らは、もともと中央の政権を必要としていなかった。
 それは土地が豊かだったからだ。海があり、山がある。

 想像は一気に現代にとぶ。
 中央政権はかつてないほど無能である。
 たとえば、震災担当大臣のようなポストを、国会議員から選ぼうとせず、東北の有能な誰かに任せたらどうか。その方が、ことはさっさと進む気がしてならない。国会が決め、それを地方自治体に下ろし、さらに最小の行政単位へと下ろしていくうちに、政策はバカバカしさを増す。ときには現地の住民の生死さえ左右する。行政の不手際のせいで、生き残れたはずの命を落とす、それほどの無念はないだろう。

 東北のことは東北の人にきけ。
 被災地のことは、基本的に被災者にまかせよ。
 そんな英断が、いまの政権に出来るか。
 それだけの肝の据わった政治家がいるか。
 いやしない。 
 これ以上、国会議事堂の茶番劇に、被災者を巻き込むのは、二次災害である。
 木村天山に代わっていう。
 おわかりか。

2011年08月12日

がんばらなくていい東北 9



 宮城松島の旅のリポートもこれでさいごになる。
 被災者からは、いろんな話をきいた。
 あまりにもむごい話も。
 
 それを書くかどうか、今日この日まで迷ってきた。
 だが、書くことにする。
 別に誰かを告発するわけじゃない。
 それにこのブログの閲覧者が、何人いるかもわからない。
 おそらく、ほんの少しだ。
 ジャーナリスティックなことを言うのではない。
 ただ、亡くなった人に口はないので、その無念の思いをしるす。

 むごい話とは、野蒜小学校のことである。
 地震のあと、行政の指定避難場所である野蒜小学校に、被災者がたくさん避難して来た。
 津波が来ることがわかっていたので、学校の二階に逃げようとした。
 すると、行政側の誰かが、スマトラ島の地震で倒壊した建物のことが、頭をよぎったという理由で、避難者を2階に上げなかった。あまつさえ施錠までした。そのことは体育館に避難していた中学生が言うことなので、嘘ではないだろう。

 私はスマトラ島の地震が起きた一ヶ月後に、被災地パダンに入った経験がある。
 二階以上ある建物は、確かに倒壊していた。
 しかしそれは、いっぱつで壊れたわけではない。
 数日間、大きな余震がつづき、その横揺れにゆすられて、少しずつ倒壊していったのだ。
 地震の直後、津波が来るのに、体育館に押し込められたのでは、溺れ死ねと言われているようなものだ。
 なお悪いことには、大塚というところで高台に避難していた人たちが、そこは避難場所ではない、と行政側から指導があり、野蒜小に集められた。津波で亡くなったのは、そんな人たちだった。

 校長以下、教員はみんな助かっている。施錠をしたのは、そのうちの誰かだ。
 責任追及をするわけじゃない。そんなことをすれば、当人は自責の念にかられて自殺しかねない。

 体育館は津波に襲われ、溺死者は20名弱。
 溺死は免れたが、低体温症で亡くなった人は、10名弱。
 その他、野蒜小学校の周り5キロメートルであがったご遺体は、200名弱。

 施錠された学校の校舎に、なんとか入ろうとしているうちに、津波にのまれたのではないか。

 何という無念か。助かるはずだった命なのに。
 野蒜小学校の悲話は、いつの間にかうやむやになり、秘話となった。
 今では、現場で助かった数人が知るのみである。
 
 こういった話は、野蒜小学校だけではないはずだ。
 今後くわしく調べれば、行政側がシステム通りに、四角四面の対応をしたために、助かる命も助からなかった事実が、ぞくぞくと出てくるだろう。
 
 私も、ついこの間、市役所の役人を、喧嘩ごしで働かせた。
 節電の名目で、区民を入れなくして、職員だけ涼んでいた地区センターの、ロビー立ち入り禁止のバーを除かさせた。ただそれだけのために、市会議員から、市民局、区役所とたらいまわしにされながら。

 震災のひっ迫した状況の中で、行政を動かすのが、どれほど骨の折れることかは、想像できる。誰も責任をとらず、逃げまわり、マニュアルどおりの言い訳を繰り返すばかり。現状に即した臨機応変の対応がとれない。

 震災と津波は、想定外の事態だったと政府は繰り返しているが、自然災害だけではなく、人災で被害が拡大したということだ。

 震災後も、行政は役立たずであった。
 このようなことから察するに、現政権が解散も、辞任もしたがらない理由がわかってくる。
 政権を維持するあいだは、上からの命令で緘口令もしける。知られたらまずい震災関連の事実を、たくさん隠しているのではないか。政権交代して、全部洗いざらい調べ尽くした方がいい。

 被災地の復興のメドがたつまで辞めない、のではなく、証拠隠滅が済むまで辞めない、ということなのではないか。これは、ただの勘ぐりだろうか。

 もしも私の勘が当たっているなら、木村天山風に言えば、そんな政治家と、役人どもは、バカ、アホ、間抜け、くそったれだ。自害して果てよ、だ。

 助かるはずだった人々の無念を晴らすため、犯罪ならば起訴しなくてはならない。
 被災者の優しさにつけこませてはならない。
 住民のために存在しながら、住民を見殺しにし、その罪の意識もなく、のうのうと今も住民の税金で食べているような行政は、終わっている。

 バカに上に立たれてはたまらない。
 東北の人たちも、私たちも、生き残らなくてはならない。
 被災地復興はこれからが正念場だ。

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