2007年11月13日

キリスト38

夕暮れになったので、イエスは十二人をつれていかれた。みな席について、食事をしていたとき、「まことに私はいう。私と一緒に食事するあなたたちのなかに、一人、私をわたす人がいる」とおおせられた。彼らが心配して、それぞれ「私ですか」とたずねた。イエスは「十二人の一人で、私と一緒に鉢に手をかけるのがその人だ。人の子は、自分について書かれてあるとおりにいくが、しかし、人の子をわたすその人はのろわれたものだ。この人にとっては、むしろ生まれないほうが、よかったものを」とおおせられた。

この箇所は、完全に創作である。
たとえ、神の子と言えど、それは、決して口にしてはいけない言葉がある。

むしろ生まれないほうが、よかったものを
とは、全くの、出鱈目である。

裏理切り者のユダの存在がなければ、新約聖書の、大切な役者がいなくなるのである。ユダは、イエスの最大の功労者である。
実は、このユダの書物も、残っている。
ユダの福音書と呼ばれる。

ユダは、イエス集団の経理係りのような世話をしていた。
いくらイエスでも、毎日奇跡を起こして、食べ物を得ているわけではない。
食事の世話から、寝泊りする場所の確保などを手配していた。

生まれを否定する者は、悪魔以外にない。
つまり、存在の否定は、無い。あってはならない。
まして、神の子であるならば、それを言えば、神の存在さえも否定することになる。

ヒットラーも、ポル・ポトも、毛沢東も、その存在を否定できない。彼ら一人で、殺した人の数は、星の数になるとしても。

福音書のユダの裏切りは、下手な芝居より悪い。

ユダは、周到に計算して、自分の役回りを演じた。
他の弟子たちは、アホだが、ユダは違った。
アホは、何人いても、アホである。アホに、11人掛けてもアホである。
しかし、ユダは、現実をしかと見つめていた。そして、イエスのメシアであることを、遂行させた。
イエスがメシアなら、ユダもメシアである。

最後にユダは、木に首を吊って死ぬことになっているが、違う。
イエスとの対比である。同じく、木で死んだとした。
ユダは、生き続けて、最後まで、その真偽を見つめていた。

新約聖書の中で、イエスの次に存在感を持つ者、それは、ユダである。

イエスの弟子のほとんどは、後に殉教する。
イエスの胸で甘えていた一番年下のヨハネだけが、長生きである。

宗教的天才は、身の回りに男しか、集わせない。
仏陀も、女を遠ざけた。どうしても、弟子にという女が現れた時も、仏陀は、許可しなかった。修行の妨げになるからである。
女には別の生き方があると知っていた。
しかし、仏陀も、弟子たちに懇願されて、女も弟子に加えることになる。

孔子も、弟子は、皆男である。
思想集団に女は入れない。
入れると、乱れる。
女を集団に入れたら、確実に分解してしまう。
つまり、女は、思想集団に向かないのである。

イエスにも、大勢の弟子の集団があったが、女を近づけなかった。

思想集団に内助の功は、いならない。それが、命取りになってしまうのである。
女は、過ぎるから、墓穴を掘る。
女は、人や子供を救う時に、我を捨てて行動する。しかし、そうすると、冷静な判断ができない。助けようとして、自分も死ぬのがオチである。

男の思想集団に理想的なものは、同性愛感覚である。

男同士が愛し合っても、冷静でいられる。
それでも、アレキサンダー大王は、男の愛人に裏切られたのである。
実に、ここのところは、微妙である。
女性性の強い男と、愛し合う時、男も注意を要する。
男として、男を愛するという強い意識のみが、同性愛を確固たるものにする。

ユダは、イエスを精神的に愛した。それは、徹底していた。この人のためになら、鬼に悪魔にもなろうと、腹を決めた。それほど、賢かった。

最も愛されたヨハネは、ユダの愛と違う。
多分に情緒的なものである。が、逃げ出した弟子たちと違う。最後の最後まで、愛してくれた師匠を見つめ続ける。それも、また、一つの愛である。
イエスの母マリアと、イエスの最後を見つめ続ける。

イエスの唇の温かさを知るヨハネの心は、最後を遂行した師匠を、哀しみつつ、誇りに思ったであろう。
そして、確信する。
神の子であったと。
ヨハネだけは、その宣教の仕方が、他の弟子たちと、違う。

イエスの肌の温かさに眠ったヨハネにしか解らない人間イエスの、真実である。

女の体は、円やかで柔らかい。しかし、男の体は、硬く冷たい。
少年が、男の体に抱かれて眠ることを覚えた時、それが実に安定した安らぎを得ることを知る。少年は、生涯、男の体に安らぐのである。

そして、思想集団には、それが必要だった。

女人禁制は、意味がある。

親に愛されて育つ子供は、人を愛することができる。
同じように、男に愛された男は、人を愛することができる。

イエスは、できれば、独身で生きる方がよいという。
それは、多くの人のために生きられるからである。
一人の女を愛することもよし。しかし、多くの人を愛する男は、男に愛された方が易い。
これ以上、説明しない。

女のように男に愛されることを望む男の話をしているのではない。
男として、男に愛される男の話をしている。
理想に生きる男は、皆、男に愛されて、生きる。
古代、男衆、女衆に分かれて作業をしていた意味が解る。
男は、男によって、男になる。
女は、女によって、女になる。
そして、その男と女という、性差のある、違う者同士が家庭を作る時、その経験が生きるということを、古代から知っていた。

ある部族では、男の成人式に、成人男性の精液を飲む。
また、年上の男に愛されて、一人前になり、部族の中に戻り、女と結ばれる。

イギリスの騎士道も、年上の男に愛され、成長して、また、今度は、年下の男に、それを伝える。それを同性愛趣味とする、また判断することの愚かさといったらない。

ユダと、ヨハネの生き方に、男の生き方を観る。

ユダの裏切りを、小説仕立てにして、福音書は、文学として、最低線をいった。

生まれるものをして、生まれぬ方が良かったという言葉は、自然界の激怒を買う。
神の怒りより、自然界の怒りの方が恐ろしい。

もう一つ言う。
誰がイエスかを、ユダが教えるために、ユダが先導してイエスを捕らえたというが、そんなことがある訳が無い。
イエスは、当時すでに有名である。
誰がイエスかを見極めるために、ユダがそんなことをする必要は無い。
イエスを知る律法学者が一人付き添えば、簡単なことである。
それによっても、福音書の、浅はかな、カラクリに愕然とする。
芥川賞も、取れない。
矛盾だらけだからだ。




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2007年11月14日

キリスト40

イエスは、捕らえられる前に、ゲッセマニという所で祈る。

「アッバ、父よ、あなたにはどんなこともおできになります。このさかずきを私から遠ざけてください。しかし、私の思いのままではなく、あなたのおぼしめしのままに」

これを持って、キリスト教徒は、祈る時、最後に、「あなたのみ旨のままに」と付け加えて、人殺しに行くのである。
その、み旨が、人殺しでも、み旨である。

戦勝祈願という行為がある。

昭和天皇も、行った。
しかし、天皇は、即座に、その誤りを知る。
「私は、間違っている。皇祖は、平和の神である」
深く天皇は傷ついた。
だが、戦争に反対すれば、自分の命まで危うい状態であることを知る。
もし、万が一のことを考えると、殺されては、日本のためにならない。

終戦の詔がなければ、確実に日本人は、一億総玉砕していた。そして、今は、日本に、日本人ではない、他の民族が暮らしていた。

この私の考え方を、右翼、右派と呼んでもいい。
真実を言うのである。

アホは、どうしても、あちらは、白、こちらは、黒と決めて、安心したいようである。
何度、私は、右でも左でもなく、上、カミであると言っても、理解できない。つまり、右と左しか、無いのである。
哀れである。
360度など知らない。
度数は、30度程度であると、信じている。
哀れである。

福音書の最大の矛盾がある。
このさかずきを遠ざけてください、とは、下手な歌舞伎であろう。
源の義経が安宅関を越えるような、芝居に近い。
弁慶が、関所の役人の前で、義経を打つのである。
「主のせいで、あらぬ嫌疑をかけられたのだ」と、義経を打つ。
見せ場である。
客は、それに泣く。

実際にあったことである。
これで、義経と弁慶が、どれほど愛し合っていたのかが解る。
打つ程に愛していた。
大切であれば、打つのである。
日本人は、である。
師匠は弟子を打つ。
大切であれば、あるほど、打つ。サド、マゾの世界ではない。

あの、野蛮な民族でも、日本人の心情を少しは、持っていたという、驚きである。

イエスに、それを言わせて、どうする・・・

あの権威ある説教と、布教を繰り返し、奇跡を数多く行った、イエスに、何を言わせる。

聖書解釈は、さもさもしく解説する。

やがて起こる受難と死の苦しみは、イエスの魂と感情に強く響く。神の子イエスは罪を取り除くすべての点において、われわれと同じ人間性を取り、人類のあがないのために自ら進んで貧困、苦行、宣教などによってこれまでにも多くの購いをしてきた。そして今、最後の償いを受難と死去によって果たし、救世の大業を成就しようとしている。イエスが世のあがないのために自分に要求される受難と死に直面してあとずさりしようとするその人間性の弱さに対して示した内的戦いをさす。

人類のあがない、というが、世界人類のことではないと、はっさきりさせるべきだ。
イスラエルのあがないだろう。ユダヤ人のあがないであろう。

ここで再度言うが、教会は、旧新に関わらず、原罪という説を取るが、イエスは、一言も、原罪のあがないなどということは、言わない。
信者を支配するために、創造した、教義としての、原罪である。
生まれ持って、罪人だとは、実に、愚かしい。

それなら、人間を創造したことを、後悔した、旧約の神と同じであろう。
全知全能の神が、後悔するか。

これも何度も言うが、イエスは、旧約からの、脱却を図ったのである。
嫉妬深く、人を殺すのが好きで、試みを好み、感情的で、同性愛を嫌う、神、神もどきである。そこからの、脱却である。

それから、実際、この時の弟子たちは、イエスの祈りの言葉など聞いていない。皆、というか、三人の弟子は、寝ていたのである。
どうして、イエスの祈りの言葉が、解るのか。
聞いてもいない言葉を書くのは、嘘偽りであろう。

それなら、イエスは、なんと祈ったか。
自分がイエスならば、なんと祈るか。
考えてみよ、キリスト教徒。

イエスキリストを信じるということは、イエスキリストになるということである。
それは、仏陀も然り。
さあ、イエスになるのか、仏陀になるのか。
なれないものならば、素直になれませんと言え。

私は、人間で、神でも、仏でもありませんと言え。
人間に内在している、神性、仏性とは、妄想、モウソウである。

人間の魂は、何にも限定されない、自由を有する。
言葉で限定することができない、融通無碍で自由偏在の魂を有する。

つまり、神も仏も超える。
観念を超える。

イエスは、それを知っていた。

お解りか、アホども。

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2007年11月15日

キリスト41

実は、この41は、二度書くことになった。
というのは、書いたものが消えてしまったのだ。
機械の操作ミスはしていない。
保存したものが、出ないのである。これを、魔という。
しかし、今、再び書く。

人々はイエスを、大司祭のところにひいていった。司祭長、長老、律法学士たちもみなそこに集った。はなれてついてきていたペトロも大司祭の中庭にはいり、下男たちといっしょにすわっていた。

司祭たちは、イエスを死刑にするために、計っていたのである。しかし、中々、統一した意見が出ない。
子供騙しのような場面である。

最後に司祭が問う。
「あなたは、キリストか。祝されたものの子か」とたずねると、イエスは「そのとおりである。あなたたちは、人の子が、力あるものの右にすわり、天の雲にのって来るのを見るであろう」とおおせられた。そのとき、大司祭は、自分の服をひきさき「どうしてこれ以上の証人がいるだろうか。あなたたちも冒涜のことばを聞いたろう。どう思うか」といった。かれら一同は、死刑に値すると決定した。

アホは、10人いても、アホである。
司祭たちの、アホぶりは、たまらないほど、アホである。
イエスは、それに「天の雲にのって来るのを見るであろう」と言う。

天の雲にのってというのは、世の終わりの譬えのときも、出てくる。

天の雲、とは、実に霊系正しい心霊が、乗るものである。
旧約には、一度も出てこない。
ここで、ああっと、思い出す人もいるだろう。
日本の神話である。
12000年程度前に、大陸から、日本列島が切り離される前後、私は、その後だと思うが、天の雲に乗って、ニニギの命が、天孫降臨するのである。
ちなみに、旧約の神は、4500年ほど前である。

天の八重雲を伊豆の千別きに千別きて天降りよさしまつりき
その時、磐根樹立草の片葉をも語止めて、つまり、自然界すべてのものが、語ることを止めて、天孫降臨を見守ったのである。

私は、この妄想の方が好きだ。

いわねきねたち くさのかきはも ことやめて
何と言う良い音霊の響きであることか。

これが、カンジーザ゛イボーサツ ギョウジンハンニャハーラミータとか
ニジセソン ジュウサンマイとか
ジガトクブツライ ショコショコッシューとか
やられては、たまらない。
仏典により、大和言葉が、破壊された。

それならば、ナムカラタンノートラーヤヤというように、梵語そのままの読みにした方がいい。
これについては、また、いつか書く。

さて、

自然淘汰は、親や部族の長老の言うことは何であれ信じるという傾向を持つ脳をつくりあげる。そのような、「疑いをもたず服従する」という行動には、生存上の価値がある。ガが月によって進路決定するのと似たようなものだ。しかし、「疑いをもたず服従する」という態度は、裏を返せば、「奴隷のように騙される」ことにつながる。そのような姿勢の逃れられない副産物として、その人物は心のウイルスに感染しやすくなる。ダーウィン主義的な生き残りに関するいくつかのすばらしい理由があるがゆえに、子供の脳は親と、親が信じよと教える年長者を信じる必要がある。そこから自動的に導かれる結果として、信じやすい人間は、正しい忠告を区別する方法をもたないということになる。「ワニの住むリンポポ川に足を踏み入れるな」は正しい忠告だが、「満月の夜には子羊を生贄にしなければならない。そうしなければ雨が降らないだろう」はせいぜいよくて、時間とヒツジの無駄遣いにしかならないという、この二つの違いがわからない者が出てくるのだ。
「神は妄想である」より。リチャード・ドーキンス。
心のウイルスとは、宗教のことである。

また、彼は言う。
宗教指導者は子供の脳の脆弱さと、早い時期に脳を教化することの重要性を十分に理解している。と。

だが、と、私は言う。
日本人の脳は、幾つになっても、子供のようであり、その脆弱さゆえに、教化されると、途端に、洗脳されるという。
それは、新興宗教を見れば、よく解る。
何故あのような、馬鹿馬鹿しい教義に、騙されるのかと言っても、知る術を知らない。そして、あまりに、無知なのである。
学問にあらずの勉強をしていると、簡単に洗脳される。

私は、多く、若い人の入信の様を見たが、実に、無知であった。
いとも簡単に騙されるのである。
それらの相談を受けた時、私は、その信仰を否定することはなかった。
入信の相談も受けたが、私の答えは、あなたが必要とするものである限り、あなたの自由であると、アドバイスした。
そして、面白いことに、老若問わず、一つの神を捨てると、別の神を欲するということである。

拝むものを欲するのは、人類の、抜き難い定めである。

宗教のもつ多数の側面のうちの一つとして、一人の超自然的な人格、すなわち神に集中する強い愛、プラスその人格の偶像への尊敬の念というものがあげられる。人間の生活はおおむね、私たちの利己的な遺伝子と、心理学的な教化の過程によって衝き動かされている。正の教化の多くは宗教に由来する。すなちわ、危険な世界にありながら自分は愛され、保護されているという温かく心地よい感情、死の恐怖の消失、困ったときに祈りに応えて、山からやってくる助け(詩篇)といったものである。同じように、自分以外の現実の人間(普通は異性)を対象とする、いわゆる恋愛も、他者への同じような強い集中とそれに関連した正の強化を見せる。こうした感情は、相手のイコン、たとえば手紙、写真、そしてヴィクトリア朝には髪の房さえも引き金となりえた。恋に落ちた状態は、火のように熱いため息といった、多くの生理学的な随伴現象をもっている。
ドーキンス。

イエスを裁いたのは、誰か。それは、キリスト教徒と同質な性格を持つ者たちである。
権威と奢り高ぶりである。
自分たちは、神に選ばれた民であるという、選民意識。

イエスは言う。
主よ、主よというものが、天の国に入るのではない。父のみ旨を果たすものが入る、と。

イエスはキリストだと、宣言しても無駄である。
イエスは、父のみ旨、つまり、敵を愛することを、掟にしたのであるから、それを実行しない者が、天の国に入るはずがない。それを、キリスト教徒は知らない。

残念ですが、キリスト教徒は、イエスの言う天の国には、入れません。
それでは、どこへ行くのか。
それは、キリスト教霊界という、三次元と、四次元の隙間である。
そこに、イエスは、いない。

カトリックでは、煉獄で苦しむ霊魂のためにと、祈るが、それより、その煉獄に入るであろう、自分のために、祈る方が、得策である。

キリシタン弾圧で、殺された多くの騙されたキリシタンの霊が、ハライソを求めてさ迷う姿は、哀れすぎるのである。
世界有数の拷問であった、キリシタン迫害は、目に余るものがある。
私は、それを調べて、絶句した。
これほどまでに、残忍な拷問を考えることができるという、その人間の残忍さを、である。
その拷問を考え出した者を、私は、呪ったものである。

キリシタン弾圧は、両者を共に、地獄に叩き落した。
その種を撒いたのは、イエズス会という、プロテスタントに巻き返しを狙った、戦闘的なカトリック信者の男子の集いである。
イグナチオ・ロ・ヨラ、そして、日本にキリシタンを伝えた、フランシスコ・ザビエルである。
今では、彼らには、聖がつく。聖人になっている。

最強な、同性愛集団といえば、殺されかねないが、言う。
ローマの直轄地といえば、いいのか。ローマ法王の支配する土地を広げるべくの布教である。
前、ヨハネパウロ二世も、自国のポーランドの反共運動に大枚の資金を投じて、今は、その九割が、カトリックに立ち戻っているというから、仰天する。
大陸の人間は、野蛮であると知っているが、実に、やることが、野蛮である。
宗教戦争を起こす程に、狂っているのである。

ちなみに、日本の場合は、宗派の争いはあるが、程度が違う。
歴史では、信長、秀吉、家康が、門徒との、戦をしているが、宗教が、兵を持つという思想に、反対したものである。
宗教の政治的位置付けをするために、戦った。
宗教が、政治に関与してはならないという、思想である。
それは、つまり、ローマ法王のような存在は、戦の元になるというものである。
彼らは、そこで、天皇を掲げた。天皇の平和的存在意義を見抜いていたのである。

何故、近代を拓いた信長が、天皇を破壊しなかったのかと考える。もっとも、亡ぼしやすい相手である。何も持たないのである。兵力もない。皇居は、丸裸である。
しかし、信長は、天皇を打たなかった。不遜な態度で臨んだが、天皇を叩けば、今、敵ではない者もを、敵にしてしまうことを知っていた。そして、未来永劫、この国の人々から、裁かれることを知っていた。
つまり、天皇という存在が、支配者の存在ではなく、国の心に、関する存在であると知っていたのである。
今に至るまで、天皇は、民主的である。
天皇は、国民の総意に基づき、認証するだけである。
天皇制を欧米の専制君主制に似たものであると、考えるのは、誤りである。欧米の思想では、解釈できないのである。
多くの人は、それをする。

国家の共同幻想に持つ、精神的支柱というものは、実に、必要不可欠である。
だから、欧米では、そこに宗教を入れる。
政治的手法では、支配し得ないものを、宗教が持つ。
アラブのイスラム指導者を見れば、よく解る。

一時期、日本には、宗教が無い。神不在だなどと、まことしやかに言われたが、皆々、欧米の思想を持っての、解釈である。
日本には、彼らの言う宗教はいらない。また、神もいらない。
日本には、天皇に象徴される、御祖、御親、みおや、の考え方がある。
それが、精神の支柱としてある。
そして、最大の特徴は、宗教指導者と違い、天皇は、国民の総意によるというものである。
国民の総意が、天皇退位を望めば、そのようになるのである。
あちらは、殺しあう。
見て解る通り。

さて、イエスを亡き者にしようとする、クライマックスが、この程度の、子供騙しであるから、人生は、この程度と、考えておいた方がいい。
キリスト教徒は、である。

私は、宗教も言語と同じように、十分に恣意的な発端から十分なランダム性をともなって進化し、いま私たちの目の前にある、あきれるほどのーーーそしてときには危険なーーー豊かな多様性がもたらされたのだと推測している。同時に、ある種の自然淘汰が、人間心理の根本にある均一性と結びついて、多様な宗教がいつくかの重要な特徴を共有するようにとりはかったということはありうる。たとえば多くの宗教が、私たちの肉体が死んでも人格は生きる延びるという、客観的には信じ難いが主観的には魅力のある教義を教えている。不死という観念そのものは、人間の「願望本位の思考法」に迎合するがゆえに生き残り、ひろまっていく。そしてこの「願望本位の思考法」というものが無視できない。なぜなら、人間の心理は、信念を願望で潤色するという、ほとんど普遍的な傾向をもつからである。「ヘンリー四世」の第二部で、ヘンリーが息子に向かって、「そなたの願いがやがては信念になるのだ、ハリー」と言ったように。
ドーキンス。

知性と理性は、宗教の迷いとなるのである。
欧米の思想では。

幸い、日本には、そのような宗教概念がない。観念も無い。
誰だ。
小さな親切、余計なお世話をするものは。

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2007年11月16日

キリスト42

マルコ第15章である。
ピラトが「あなたが、ユダヤ人の王か」とたずねると「そのとおりである」とお答えになった。

この訳は、別のものもあり、「私ではなくあなたがそういっている」というものもある。

要するに、ピラトは、イエスの罪を、ローマ法では、無実だと思うのである。
ユダヤ人の王というが、武器も、騒ぎも起こしていないのである。

他の福音書では、「私の国は天にあり」とも言う。

革命分子ではないことは、確かである。
しかし、ユダヤ人、その司祭、長老、律法学士たちは、イエスに死刑を求める。死刑にするめには、ローマの許可が必要だったからだ。

ピラトは、司祭長たちがイエスをわたしたのを、ねたみのためだと知っていた。
と、マルコは、書く。

そして、群集である。
ピラトは、イエスの死刑を回避しようと、一人の囚人を慣例に従って許すことにすると、群集に問う。すると、群集は、ピラトの意思に反して、バラバという人殺しの暴動者を許せというのである。

ここが、ユダヤ人を差別する根拠になっている。
イエスキリストを十字架刑にしたのは、ユダヤ人であると。
しかし、違う。
イエスは、旧約の預言通りに、死ぬのであり、ユダヤ人も、役者の一つである。

これで、ユダヤ人が、イエスを許せと言えば、新約の成就が無になる。

ピラトは、再び、群集に「あの人は、どんな悪事をしたのか」と、群集に問うと、彼らは、ただ、「十字架につけよ」と叫ぶばかりである。

勿論、司祭長たちが、画策したことであろうが。

ここで、私の見解を言う。
何度も言うが、当時は、メシアと名乗る者、多数。
イエスも、その一人であり、一派であった。

イエスが、十字架刑につき、死んだ後で、弟子たちが、変容したと言った。それは、共同幻想である。
当時のメシアを待ち望む人々の、共同幻想の中に、イエスの存在が、嵌ったのである。

福音書は、イエス死後、50年から100年を掛けて、伝言ゲームで書き継がれたものである。パウロの書簡より、後になる。実に、パウロが、初期キリスト教の教義の元になるという。

しかし、パウロは、イエス集団の迫害者だった。
そして、パウロの書簡には、一切、イエス在世当時のことに、触れられていないのである。それで、パウロは、共同幻想の、総まとめ役をしたと言える。
パウロの改心は、迫害していた時に、イエスが現れて、何故私を迫害するのかという言葉を聞くのである。
イエスの幻を見たのである。
その真偽については、省略する。
それよりも、イエス死後に、パウロが改心して、何故、あれほどの救世観を持っていたかである。イエスに、触れたこともないパウロが、多くの書簡を残し、さらに、教義の元になるものを、書いているということは、パウロは、すでに、救世観を持っていた。それを、学んでいたということである。そこに、イエスの存在があった。そして、その男は、罪もないのに、十字架刑になり、死んだ。
ここに、パウロが、自分の救世観を投影することが出来るイエスの存在が、突如として啓示のように起こった。イエスを慕う集団の共同幻想に、加担したのである。

イエス集団を迫害しているうちに、あることに気づいたのである。
迫害をするということは、相手を知るということである。落馬して、呆然として、しばしの時間を経た後で、ここに、自分の救世観を投影することが出来ると、悟ったのである。
落馬を、イエスの幻出現と、関連付けた。

ローマ支配にあり、部族間の対立があり、ユダヤ教の官僚的信仰形態に、人々は、ある種の絶望を感じていた。
しかし、メシア観はある。何となく、あやふやな時代に生きて、人の心は、不安である。その不安に、幻想が起こる。そこに、一人の男が、登場する。その男は、権威ある者の如くに、説教をする。
司祭や、律法学士たちに対する不満と、貧しい人のストレスである。金持ちは、神に選ばれた者であるという。いつまでも、日の目を見ない生活である。
それが、爆発したのは、イエスという男が現れてからである。
汝の敵を愛せよ。神は愛である。
部族間の対立のストレスや、異教徒に対するストレスは、最高潮に達していた。
村が違えば、口もきかないのである。異邦人として、対処するのである。
そこへ、神は愛であるから、あなたたちも互いに愛し合えという、説教である。
そして、ユダヤ教の指導者たちへの、批判と、非難は、極まった。イエスは、偽善者たちと呼ぶのである。

イエスは、その死後、変容し、キリストとして、認知される。すべて、共同幻想である。

ピラトは、群集の目の前で、手を洗う。それは、このことに、私は、関与しないという印であった。
そして、群集の望むままにさせた。

ローマ法でも、十字架刑は、極刑である。
死期を早めるために、石打の刑を与える。
いよいよ、イエスの受難物語がはじまる。
なんとでも、後で、意味をつけられる、十字架刑である。
イエスの勝利である。
私は、そう思う。

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2007年11月17日

キリスト43

ローマ人は習慣として、鞭打ってから十字架につけたという。
その死を早めるためである。
ローマ人の処刑のしきたりによれば、裸にして柱に縛り、先端に鉛のついた皮ひもや鎖で、容赦なく鞭打ったようである。

十字架刑は、政治犯に課される最高刑だった。

ピラトは、イエスに、何の罪も見出せなかった。しかし、群集が、それを求めるのである。だから、鞭打ちも、皆の同情を引くために行わせたようであるが、群集、つまりユダヤ人は、益々、感情的になり、エスカレートさせて、いった。
それほど、この頃のユダヤ人は、ストレスを感じていたのである。
ローマの支配か、ユダヤ教の律法か。
出口の無い、不満である。

政治から、私生活に至るまで、縛られる生活である。

十字架刑には、磔と、くぎづけの二種類あった。
イエスは、くぎづけされた。
くぎづけの方が、苦痛激しく、死も早かった。
両手を、そして両足は、揃えて、くぎを打つ。

昼の十二時になったとき、全地は暗くなり、午後三時まで続いた。そして三時ごろに、イエスは大声で「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは、「わが神、わが神よどうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。近くに立っていた人々のうち、これを聞いて、「見よ、エリアを呼んでいる」と言う者もいた。すると、ひとりが走って行き、海綿にすっぱいぶどう酒を含ませ、それをよしの棒につけ、イエスに飲ませようとして言った。「エリアがかれをおろしにくるかどうか見ようではないか」イエスは大きな叫び声をあげて、息を引き取られた。

その時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。

エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニとは、詩篇の言葉である。
ダビデの詩、詩篇22章である。

わたしの神よ、わたしの神よ
なぜわたしをお見捨てになるのか
なぜわたしを遠く離れ、救おうとはせず
呻きも言葉も聞いてくださらないのか
わたしの神よ
昼は、呼び求めても答えてくださらない
夜も、黙ることをお許しにならない

その中の一節に、こうある。

犬どもがわたしを取り囲み
さいなむ者が群がってわたしを囲み
獅子のようにわたしの手足を砕く
骨が数えられる程になったわたしのからだを
彼らはさらしものにして眺め
わたしの着物を分け
衣を取ろうとしてくじを引く

まさに、十字架刑を受けた、イエス、そのものである。

兎に角、旧約聖書の成就であり、また、それの凌駕である。

人類の罪の贖いのために、神は、その一人子を、世に遣わして、その死によって、人類の罪を許すという、キリスト教の最大の教義が、ここで、完成する。
しかし、ここに最大の欺瞞がある。

罪の最初を、原罪として、制定するという、あまりに愚かな考え方である。
つまり、人間の存在そのものを罪とするという、傲慢である。
それが、人間の生殖の性を、罪とするという、最低最悪の観念を作る。
人間の生存を支配する、その考え方は、一体、どこからのものか。

旧約聖書の最大の矛盾は、人格神ということである。
神に、人格を有するという。
あまりに愚かである。
それで、墓穴を掘る。

神に人格を認めれば、それは、神もどきであろう。
神ではなく、単なる人霊のことであると、認めているのである。
嫉妬と、試み、そして、殺し合いの神である。差別と、偏見に満ちた神である。

この一神教と、仏陀の思想や、日本の古神道を対比させて、考えると、よく解る。
それは、いずれの機会に書く。

今は、イエスの死である。
イエスの死が、世界に与えた影響は、大きい。
それは、ヨーロッパの歴史から、世界の歴史に関与したのである。
勿論、それは、イエスの思想である。
主なる神が愛であるように、互いに愛し合うこと。汝の隣人を愛すこと。そして、極めつけは、敵を愛すこと。
敵は、殺すべきものである。しかし、イエスは、それをも愛せよという。
しかし、ここに、非常に大切な問題がある。つまり、敵という観念である。イエスでさえも、敵という観念から、逃れることができなかったということである。

敵を想定して生きるという人生である。
結果、キリスト教は、イエスの愛を実践できたかというと、全くの逆である。
今もって、それを実行できずにいる。
異教徒は、矢張り、敵である。
つまり、キリスト教も、イエスの教えを実践出来ず、旧約の神観念のままであるということだ。それは、つまり、イエスの死を無駄にする。

簡単に言う。
あるカトリック教徒に、天照大神という言葉を発すると、同じ日本人でありながら、そんなもの、と言う。そんなものである。
ここに、彼らの、最大の欺瞞と、その信仰の嘘八百が見て取れる。

もう一つ言う。
キリスト教の宣教に、現地の信仰形態に乗せて、布教するという方法が取られた。
例えば、スペインに亡ぼされた国、現在の南米である。ペルーやブラジル等々。
そこには、地場の信仰対象を、聖母信仰に重ねて、キリスト教信仰を打ち立てた。その欺瞞である。

そして、最大の嘘は、従わない者は、皆殺しである。
カトリックは、この反省を一度たりとも、行っていない。
日本が、植民地化したことに、戦後始終しているが、キリスト教の国々の植民地化は、甚だしいのである。
しかし、一度たりとも、それを謝罪しないどころか、当然だと思っているという、傲慢である。
一神教のよって、世界は、救われないどころか、益々と、混迷を深めるのである。
それが、イエスの思想であったのか。

イエスは、十字架にて死ぬということを、受け入れた。つまり、言動一致である。
汝の敵を愛せよと言ったように、敵によって、殺された。それを、受け入れた。
しかし、キリスト教徒は、全く、逆のことをして、この2000年を生きている。
アイルランドなど、カトリックと、プロテスタントが、対立し、平気で、汝の敵を殺すという、愚かさである。

彼らの、言い分を一分も、私は、聞けないのである。

私は言う。
滅びよと。
その唯一の神、もろとも、滅びるがよい。
イエスの死を、最大に利用して、最大に、人類を欺くもの、それは、イエスの名において、罪を許すという、彼らである。
彼らとは、偽のキリスト教徒である。

彼らの言う神は、妄想である。

救いとは何か。
それは、自然との共生、共感に他ならない。
他の理屈は、妄想である。
人類の救いは、宗教ではない。宗教的なものによって、救われる。それによって、自然との、共生、共感が行われる。

それをやまと言葉で、言えば
なにごとの おわしますかは しられども かたじけなさに なみだながれる
ということになる。

信仰は、知性と理性を嫌う。それは、信仰が知性と理性によって、暴かれるからである。
無知を、神や仏に棚上げして、惰眠を貪るのである。

もう一つ言うが、彼らの救いに乗れば、確実に、魔界に通じる。何故なら、それは、妄想だからである。

私は、自分の霊的感覚や、霊界に関する思いを、妄想であると、突き放している。
死ねば解ることを、今更であると、思っている。

人生は、実に、空しく、愚かしく、冗談に満ちている。
なんとなれば、この人生が、たった一度だからである。
後戻りなど出来ない、一度だけの人生だからである。転生輪廻によって、もう一度、生まれ変わって生まれても、今の、私には、ならないという絶望である。

はじめから、絶望の存在なのである。
言葉遊びをするのではない。
最初から、生まれた時から、絶望の存在なのである。
何を、恐れることがあろう。
すべては、絶望から始まっている。

絶望から出発したのである。
生きているだけでも、私は、特上だと思っている。

そして、もっと、最悪なことは、皆、死に向かって生きているということである。
絶望からの開放が、死なのである。
つまり、死は、救いとなるのである。

あらゆる人生の諸相は、ゲームであると得心すれば、生きられる。どんな絶望にあっても、生まれた以上の絶望は無い。この絶望を原罪などという、誤魔化しに、私は、一撃を食らわすのである。

私は、実に宗教的であり、信仰深い者である。
それを、知るからである。

神も仏も、この私には、適わないのである。
先祖も、私の一存で、縁を切る。
祟るような、先祖に用は無い。

新しい時代、新しい世紀は、宗教という妄想からの開放である。


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2007年11月19日

キリスト44

安息日が終わったので、マグタラのマリア、ヤコブの母マリア、およびサロメは、香油を買った。イエスに塗りに行くためであった。そして週の第一日の朝早く、日が出るとすぐ、墓に行った。彼女たちは「墓の入り口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるのでしょうか」と話し合っていた。ところが、顔をあげてみると、石はすでにわきへころがしてあった。それは非常に大きな石であった。

マルコの福音書、第16章である。

死体は、通常洗い清められるはずだったが、イエスの場合は、安息日が迫っていたため、洗い清められず、血みどろの死体を、もつ薬と香料とともに、白麻布に包んで葬った。
トリーノの聖堂に収められている聖骸布は、そのときのものだと言われる。

墓の中に入った彼女らは、右手のほうに衣をまとった若者がすわっているのを見て、非常に驚いた。すると、若者は言った。「驚くことはありません。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているのでしょうが、ここにはおられません。復活されたのです。ごらんなさい、ここがお納めた場所です。さあ行って、弟子たちに、特にペトロにこう言いなさい。「イエスはあなたがたより先にガリラヤに行かれます。かねて言っておられたとおり、そこで、あなたがたはイエスに会えるでしょう」と。婦人たちは墓を出て逃げ去った。我を失うほど恐れおののいていたからである。そして誰にも言わなかった。それは、恐ろしかったからである。

イエスの復活である。
キリスト教の最大の教義が、この復活である。

金曜の昼に死んで、月曜の朝には、復活していた。
三日後に復活すると言ったイエスである。

イエスの復活がなければ、その信仰は、空しいと、パウロが言う。

ここで、霊学より言う。
人が死ぬということは、肉体から、霊が出るということである。しかし、死後、その直後は、幽霊である。つまり、幽体を有する。肉体に似せた姿である。
中陰と仏教では言う、死後の直後の幽体である。まだ、この世から、完全に去っていない状態である。
キリスト教も、煉獄という、霊的空間を想像した。迷える霊のいる場所、空間である。それは、正しい。
それでは、イエスの復活とは、幽体の姿を見せたものであろうか。

墓にいた若者とは、誰か。
天使と言うであろう。

霊的能力の非常に高いイエスが、幽体のままでいると考えるのは、不自然なのである。
即座に、霊に変容したと言う方が正しい。
しかし、幽体のままでも、その姿を現すことは、簡単である。

私は、肉体のままに、現れたとは、言えないと言う。
それでは、その肉体は、どうしたのか。
墓の中には無かったという。
誰かが、持ち出したのか。違う。イエスは、肉体を消滅させたのである。

そして、墓にいた若者は、イエスであった。
幻を見せることは、簡単である。

ある、芸能人が、自殺した友人が、部屋に訪ねて来て、一緒に食卓で、お茶を飲んだという。まさに生きている時のようにである。
そして、言った。あなたの右脳に語り掛けていると。
右脳である。
右脳の後頭部は、魂の場所である。霊は、脳全体の側頭部にある。
霊は、光であるから、後光という光が射すのである。

翌朝、彼女は、死んだ友人が飲んだ、茶碗を確認した。夢ではないと。

その死の意味について、友人は語ったと言うのである。

私は、イエスが、復活したというのではなく、死後の世界を見せたと解釈する。

人は、死んでも、死なない存在なのである。

霊的存在になると、自由自在である。どのような姿にもなれる。ただし、この世に未練があればである。
実に、多くの人は、この世の未練を捨てる。
幽霊で残るというのは、余ほどの、捕らわれ、未練である。
ただし、時には、死後、死の苦痛により、気絶してしまい、この世で言う、眠るということになる。それが、目覚めるのは、人それぞれである。
中には、百年、二百年と、眠る場合もある。
目覚めて、祟ると、その子孫は、原因不明の、云々ということになる。
また、祟られる場合もそうである。

さて、復活を最大の教えとして、信仰を築くキリスト教であるが、霊学から見ると、特別なことではない。

イエスの最大の奇跡であるが、霊の世界を知る者には、当然であって、当然のことである。

ちなみに、仏陀は、その死後、姿を見せることがなかった。その必要が無いのである。

再度言う。
霊的存在になると、光の存在になり、光のみを見せる。
それは、青い光だったり、黄色だったりと、その人の好きな光を発する。
そして、それは、数秒である。
亡くなった直後に、霊体になった場合は、数分見せる場合もある。それは、昼間でもである。

イエスの復活の有様を書く、福音書は、そうであれとの願いを書いている。
弟子たちの中に現れて、皆、その姿を見たということも、正しい。そのようなことは、出来る。

私の知り合いで、祖母が亡くなり、家族で食事をしつつ、祖母の話をしていると、祖母の顔が、浮かんだという。
皆、それを見ている。皆に、見せたのである。
私は、在ると。

イエスの奇跡と同じように、弟子たちは、別次元に移行されていたのである。

ただ今、アメリカでは、量子力学の学者たちが、同じ場所で、別空間が存在するとの、証明を始めている。
まだ、翻訳されていないが、私の知り合いが、その書籍を取り寄せて、訳している。これから、私の手元にもくる。
それによると、同じ場所で、別次元が存在し、そこでは、多次元の生き物、人間、つまり霊的存在者が、生活、生きているとする。

それを、ある人は霊界と呼び始めているという。

数学では、楽々と、五次元の世界を説明している。
五次元とは、神と尊称される霊界の次元である。勿論、六、七、八次元が存在する。

日本上空には、八次元の霊界、高天原、タカアマハラ霊界が開けてある。勿論、その霊界は、世界で唯一である。
ヒマラヤ霊界も五次元までである。

何故、日本上空に、八次元の霊界が開けるのかは、人類の正しい太陽信仰を続けていたからである。
太陽を神と仰いできた民族の末裔である。
しかし、選民意識は無い。そんな程度のレベルの低い意識ではない。


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2007年11月20日

キリスト45

復活したイエスの現れた記述が、マルコ第16章に書かれる。マルコの最後の場面である。

そののち、イエスはかれら十一人が食卓についているところに現れ、その不信仰とかたくなな心とをおとがめになった。復活した自分を見た人々の言うことを、信じなかったからである。それから、イエスはかれらに仰せられた、「全世界に行き、造られたすべてのものに福音を述べ伝えよ。信じて洗礼をうける者は救われ、信じない者は罰せられるであろう。信じる者には次のようなしるしが伴う。かれらは、私の名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語る。へびをつかみ、毒を飲んでも、決して害を受けない。かれらが病人に手を置けば、その病人は回復する。」

まずこれは、彼らの願望である。
復活したという、願望が復活したという、信念に変わり、ついに、復活したイエスを描いたのである。

食卓についているところに現れたというのは、イエスの言葉、私の名において、二人以上が集えば、そこに私がいる、という言葉による。
実際、イエスの霊は、弟子たちの場にいたであろう。
そして、弟子たちが、自分たちの、信仰の薄いことを嘆く。
何度も、イエスから、言われた言葉、信仰薄い者たちよ、を思い出す。

そして、弟子たちは、イエスの言葉を反芻して、納得し、ついに、上記のイエスの言葉となる。
しかし、実に、この頃、すでにに教団としての活動の一歩が始まっていたことを、推測できる。
それは、洗礼である。
水による洗礼も、信じることで、変容するという考え方を持った。
当時は、洗礼など、多々あったからである。

イエスを信じる洗礼である。
しかし、主イエスは、水による洗礼ではなく、霊による洗礼と言った。それは、どんなことか。霊による、洗礼とは、古神道の禊である。
禊祓いである。
だが、ここで、キリスト教徒は、躓く。

ただ今の教会の洗礼は、水による洗礼であり、それを秘跡として扱う。
いくらアホが、水につかっても、アホである。
人間が変容するには、それ相応の経験と体験が必要である。
その人生経験を、霊による洗礼という。
信じて洗礼を受ける者は、救われる、と言うが、その救いが原罪からの救いというから、救いにならない。
救い、救いというが、誰も、救いの意味を知らない。
神学などは、妄想一辺倒のものであるから、一人相撲を取るようなものである。

救いとは、その妄想からの脱出である。

助けてくれ、と言うのは、助けて欲しい、問題が発生している時である。
神は、助けてくれると言っても、何をどう助けてくれるのかを、誰も知らない。
何からの救いかを、教会は、ハイ、原罪からの救いですというが、原罪自体、妄想の産物であるから、終わっている。
自分で盗みをして、自首して、自分で裁くような、滑稽な漫才のようなことをしていると、気づかないのである。

イエスの言葉と言うのは、弟子たちの願望である。
信じない者は罰せられる。つまり、ここで、教義の根本が出来上がっているのである。信じない者は、罰が与えられる。
イエスは、一度も、神の罰を言わない。
世の終わりの譬えの時だけ、罰に関する言葉があるのみ。罰に似たものである。

キリスト教徒の神の罰は、キリスト教徒のみに言える。だから、本当に、キリスト教徒は、注意すべきである。しかし、それ以外の宗教や、無神論の人には罰は当たらない。
日本では、罰の変わりに、祟るという神がいる。
罰と、祟りは違う。
罰は、自らが罰だと認めてなる。祟りは、降ってくる。突然、祟りがある。人生とは、そのようなものである。
罪と罰が、凄く好きなキリスト教であるから、何も言うことはないが、死ぬまでの暇つぶしには、ご苦労なことですと、言うしかない。

私の名によって悪霊を追い出し。
これが、キリスト教の最大の特徴である。
エクソシストという、悪魔祓い専門の司祭がいる。
悪魔、悪霊との戦いである。実に、戦いが好きな者たちである。
追い出しという観念には、悪いもの、嫌なものを、追い出すという、単純素朴、悪く言えば、稚拙、お馬鹿である。
霊を追い出して、それで、めでたしめでたしだと、解決には、なにらない。
キリスト教の中に、悪魔や悪霊の場所はない。
これが、仏教系や、我が神道系ならば、必ず、その場所を定める。
仏教では、地獄とかである。そこが、仏教の愚かなところであるが、まあ、地獄を悪魔の場所と定めるから、まだいい。魔界というものを、知らないのである。
神道では、荒ぶる神として、祀る。その場所を設ける。
ちなみに、東南アジアなどでは、仏教と、精霊信仰が交じり、小さな悪魔、悪霊の祠を用意する。そして、そこに、水や花を置く。
タイでは、ピーという霊の祠が、至るところにある。
バリ島では、道端に、花や食べ物をのせた葉を置き、祈る。
皆々、浮遊霊の場所になっているが、あれは、良いことである。その存在を認められているという霊に安心感を与えることにより、あまり、変な悪さをしない。

悪霊を追い出して、どうする。その悪霊は、どこへ行く。
キリスト教は、未だに、この問題の解決をしていない。
対立の思想は、ここでも始まっている。
聖書は、実に対立の思想である。愛の思想を言うイエスも、矢張り、敵というものを想定したのである。
敵を愛せよと、敵を想定している。
これが、仏陀になると、敵はいない。想定しない。

今、キリスト教徒が、へびをつかみ、毒を飲めば、害を受けて倒れる。
かれらが病人に手を置けば、その病人は死ぬ。

このマルコの復活のイエスの言葉は、弟子たちが、頭の悪い弟子たちが、一生懸命に考えて、主イエスなら、こういうであろうということを、言葉にして確認したのである。
勿論、イエスは、その場に霊としていた。
そして、呟いた、信仰薄い者たちよ、と。私の言葉で言えば、頭の悪い者たちよ、になる。

この福音には、その後の記述あるものもある。しかし、私は、それを紹介しない。
聖書の言葉は、あまりに漠然として、捕らえどころなく、混乱するからである。
例えば、私は道であり、真理であり、命である。と、主イエスが言うが、それ一つとして、明確なものはない。どうでも、解釈出来るのである。
道であり、真理であり、命である。
どうすればいいのか、この解釈を。
それをキリスト教は、すべてのすべて、とか、全知全能とか、永遠の永遠とか、しまいに、言葉に出来ない、神の偉大さ等々、皆、言葉にしているではないか。

仏陀もイエスも書き物を残さなかった。何故か。書き物によって、その言葉の意味を探ることに始終し、現実を生きないからである。

無益な議論に始終して、耕しも、捕ることもせず、人の物を貰って、のうのうとして生きるのである。
総称として、宗教家と言われる。
イエスは、彼らを、偽善者であると、言い切った。
モルモン教という、キリスト教新派があるが、教祖は、妄想により、アメリカの始まりを経典として書いた。嘘八百であるが、それを奉じる州があり、大統領まで出そうという勢いである。
単なる創作の夢物語を経典にするという仰天であるが、モルモン教徒は、真剣である。
しかし、聖書も、それに劣らず、である。

ここで、はっきりさせるが、経典というものは、文学である。それ以下でも、以上でもない。信徒は、その経典の信者である。
虫は、人間をどのように認識しているか。
次元の高い世界を、人間は、虫に劣らず認識できない。別次元のことを、この世の言葉にできない。ゆえに、高い次元を知るものは、書き物を残さない。残せば、嘘になるからである。

何でも経典にすることが出来るのである。
兎に角、人間は迷い、苦しみ、呻きたいのである。
それで、人生の本当の苦しみを忘れるという、アホなことをして、死ぬ。
ご苦労サンです。


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