2007年11月01日

キリスト30

新約聖書の記述に、奇跡がなければ、無に等しい。
聖書になる意味が無い。

イエスの奇跡は、無かったと簡単に言う者たちがいる。聖書学者と言われる者にも、そういう者もいる。

それでは、聖書の価値は無い。

イエスキリストの神は、奇跡の神である。

そして、教祖の多くは、奇跡を行った。
奇跡は、何も不思議なことではない。

今、現在も奇跡を行う者は、多い。
私も、数名知っている。

奇跡が無いという者には、奇跡は、起こらないだろう。必要ないからだ。

一時期、普通のサラリーマンが、手のひらで病を癒す力を得た。
映画にもなった。

奇跡とは、今、現在の時点では、ありえ得ないことを言う。
キリスト教布教に、最新の物を持って当たった宣教師は、神と思われた。要するに、考えに及ばないことが、起こると、人は奇跡と言う。しかし、それを得た人に取っては、当たり前のことである。

イエスの奇跡は、当然あった。
ただし、重大なことは、その力が、どこからのものかということだ。
彼のサラリーマンが得た力は、どこからのものだったのか。偶然に与えられたと、考えるが、決して、そんなことはない。前世に原因がある。
前世、そのための修行をしていたのである。しかし、前世で、その力を得ずして、死んだ。今世で、それが目覚めたのである。
と、そうだとすると、まだ、マシである。
しかし、特別な霊団によって、それを得たならば、非常に危険である。

それを、古神道では、サニワするという。要するに、霊の審判をするのである。
マルコ福音の第10章46節にも、めくらの乞食が現れる。

めくらは、上衣を投げ捨てて、おどりあがってイエスに近づいた。イエスが「あなたは、私になにをしてもらいたいのか」とおたずねになると、めくらが「先生、見えるようにしてください」と答えた。イエスは、「行け、あなたの信仰があなたを救った」とおおせられた。めくらはたちまち見えるようになり、イエスについていった。

病気治しは、教祖の教祖たるところである。
イエスの奇跡に無いものは、天候を左右するものである。
天の様を変えることは、病を癒す奇跡より、簡単である。
例えば、台風の進路を変える。曇りを晴れにする、とか。

イエスの奇跡は、最も、厳しいものである。
自分にである。
福音宣教を言うならば、奇跡の力があって、言えるのであり、奇跡を成せない者は、福音宣教など出来ないのである。
何と無ければ、イエスは、弟子たちに、悪霊を追い出し、病を癒す力を与えている。
世界のキリスト教徒に言う。奇跡を成せない程度の信仰ならば、無いと同じである。

奇跡を精神論で、云々することなかれ。
そんなものではない。
奇跡は、奇跡として、成って、奇跡である。精神論の入る隙は無い。

奇跡を成せない者が、苦し紛れに作ったものが、教義である。
そんなもので、誤魔化されない。

からしだね一粒の信仰があれば、山をも動かすとイエスは言う。

祈りは叶えられる。
叶えられないならば、叶えられない力しかない。

インド、バラモンには、呪術がある。それが、ヒンドゥーにも、引き継がれ、しまいに、密教に引き継がれた。勿論、魔界の力である。
バリ島などにも、それが伝わり、今でも、ブラックマジック、ホワイトマジックというものがある。
ブラックマジックは、相手を不幸にし、病に、果ては、殺す。
それを、ホワイトマジックで、解消する。

陰陽師安倍清明は、矢張り、式神を用いて、マジックを掛けたり、解いたりした。勿論、式神とは、インド系の魔界に縁するものである。

魔界系は、使いやすいのである。
しかし、その後が悪い。

イエスは、言葉で癒した。
凄まじい、言葉の力である。
これを、古神道で言えば、言霊である。

立って行け、あなたの信仰があなたを救った。
これ程の、権威ある奇跡を行った者は、イエス以降いない。

狂いのエネルギーでも、無理である。
矢張り、次元のマジックを使用した。
それは、一度、別次元に連れて、そこで癒し、現実に戻すのである。
それを、周囲の人は、見抜けなかった。

簡単に言う。
肉体の病は、この次元のものである。それが、霊的な病によるものであれば、霊的な病を癒すことで、肉体を癒すのである。
ただし、霊団による病の場合は、その霊団と対決する。ゆえに、祈りが必要になる。

多くの霊に憑かれた人という場合が、そうである。

悪魔祓いというものがある。
それには、霊界の力が必要になる。

イエスには、アブラハムからエリア、モーゼ等が、援軍に当たった。

大陸を支配する霊界、ヒマラヤである。
その下に、それぞれの地域の霊界がある。

イエスの言う父なる神も、ヒマラヤ霊界である。
それでは、ちなみに、日本には、高天原霊界、タカアマハラ霊界という。
その主宰神として、総称して、天照大神が存在する。

イエスの奇跡の大本が理解出来れば幸いである。




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2007年11月02日

キリスト31

マルコ福音、第11章からは、イエスの受難が描かれる。
エルサレムに近づき、イエスは、小ろばに乗って、入城すると、人々は、自分たちの上衣を敷き、あるものは、木の枝を野原から取り、道に敷いた。
そして前を行く人、後を行く人も「ホザンナ、賛美されよ、主のみ名によって来るおん者。祝福あれ。今ぞ来る、われらの父ダビデの国。いとたかきところにホザンナ」と叫んだ。

ホザンナとは、ヘブライ語で、私たちを救ってくださいという意味。この時は、歓呼の叫び、万歳との意味になる。

イエスはエルサレムに来て、神殿にはいり、まわりを見まわされたが、もう夕ぐれになっていたので、十二人をつれてベタニアに出ていかれた。

イエスを歓迎した人々は、イエスを、この世の王になるべくある人だと信じていた。
しかし、と、すると、大変、お目出度い人々である。
イエスには、軍隊も、国を作る何物も持たないのである。
貧乏な、宣教の一派だった。

当時は、イエスのように、メシアだと言う者、多数。
要するに、新興宗教の形相である。
しかし、それらの人から、抜きん出たのは、十字架刑である。

神殿に入り、周りを見渡したが、夕暮れになっていたので、ベタニアに出ていかれた。
この、何でもない記述を説明する人はいない。

イエスが、神殿で教えを説いたが、神殿で祈るという、記述は、一つも無い。
イエスが祈るのは、すべて、人里を離れての、山である。

ここに、重大な意味があることを、知らない。

神殿は、イエスにとって、祈りに相応しい場所ではない。

神殿とは、その名の通り、神の住まいである。イエスも、神の玉座という。
しかし、そこで祈ることはない。

祈り、とは、何か、である。

隠れたところに、おいでになる神には、隠れて祈れと、イエスは言う。

ただ今、教会がある。
チャーチは、カトリックに、チャペルは、プロテスタントの教会をいう。

祈りにも、ピンからキリまである。
ピンは、イエスの祈りのように、人里を離れての場所である。キリの祈りは、建物の中で行われる。

建物の中で行われる祈りは、妄想、自己催眠程度のものになる。

イエスは、弟子たちに、どのように祈るのかと問われて、天にまします我らの父よ、との、祈りを教える。
それは、今でも、すべてのキリスト教徒が、唱える主の祈りと言われるものである。

ユダヤ教で、さんざん、祈りについてを、教えられても、実際は、祈りを知らなかったのである。

祈りとは、自己対座、自己観照である。それが、第一である。
そして、レベルが高くなると、祈りは、語り合いになる。誰と、語るのか。霊人とである。

祈りという言葉を、もっとも解りやすく言うには、言霊の古神道の祈りを言うと、解る。
イ、ノ、リ
イを宣べるのである。
イとは、意識の意である。
祝詞は、宣る言葉である。

言葉にすることは、成就するというのが、言霊である。
沈黙することを、黙祷といい、それを、意識的に、あるレベルの心の状態に置くことを、瞑想という。
座禅の座るという行為も、瞑想に近い。
しかし、この瞑想とは、何かというと、非常に難しい。

インドのヨガから、瞑想が始まった。
それが発展して、チャクラを開く等々の、怪しい、教えというか、妄想がはじまった。
七つのチャクラ、または、九つのチャクラ等々、皆、嘘である。
体は、すべての部位がチャクラである。

三蔵法師玄奘は、このヨガ、つまり、大乗仏教におけるユガ論を、求めて天竺に旅した。
だが、実際、ヨガは、インドバラモンから発したものであり、それが仏教にも、受け継がれて、修行の一つとなった。

ヨガで痩せるという程度のヨガならば、大したことはないが、それで、妄想の悟りなどというと、おかしなことになる。

玄奘は、理屈攻めで、その教えを学んできた。
ただ今、日本で読経される、仏典の翻訳も、玄奘のもの多数である。

私は、下手な小説で、玄奘を書いたが、玄奘の創設した、法相宗の教義にまで至ることろまでは、書くことが出来なかった。

玄奘は、晩年、自分は、学を為してきたが、実際、それを実践しなかったと、言う。そして、亡くなった。

ヨガは、禅宗に受け継がれて、中国禅を創作し、それを、道元などが学んできた。
仏に至る道は、多数ある。
日本の仏教は、皆、中国思想を加味されたものである。

祈りは、自己対座であり、自己観照である。
そして、祈りは、次元を超えた霊人との対話である。

日本の伝統は、言葉が神であるから、一切の手続き無しに、言葉に発することによって、祈りの行為が成った。
口から発する音が神であるから、それは、多くを語らない訳である。

西洋思想、西洋宗教学等々は、語るをよしとする。

イエスは、長々と言葉を発する祈りをする、ユダヤ教徒を徹底して、攻撃した。
それを、偽善者と呼んだ。

イエスの奇跡の言葉は、治れである。
言霊である。
治れと言えば治るのである。

祈りに至る手前で、皆、躓いているのである。
イエスが言う信仰に至らない者が、延々と、言葉の祈りを繰り返す。

弥栄と言えば、弥栄がくるのである。
イヤサカという音霊、オトタマが働く。

人は祈り続けてきた。
これからも、祈り続ける。
しかし、神殿で祈る程度では祈りにならない。

これを語るに、死ぬまでも、それ以上もかかる。
故に、以下、省略。

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2007年11月03日

キリスト33

マルコ福音第11章、12節から、面白いことが書かれてある。

翌日、かれらがベタニアを出たとき、イエスは空腹だった。その時、遠くに葉のあるいちじくの木が見えたので、おそらく何かあるのだろうと来てごらんになったが、葉のほかには何も見えなかった。まだいちじくの時期ではなかったからである。すると、イエスは、その木にむかって、「今後いつまでも、だれも、お前の実を食べぬように」とおおせられた。弟子たちもそのおことばをきいた。」

これは、マタイの福音第21章にもあるが、そこでは、「これからお前はもう二度と実をつけるな」と木におおせられた。すると、いちじくの木は、すぐに枯れてしまった。とある。

これについての、聖書解釈は、いちじくへの呪いは、実を結ばないイスラエルと、イスラエルへの罰とを意味する。と、いう。
解釈とは、如何様にでも出来るものである。

実を結ばないイスラエルとは、ユダヤ人である。イスラエルへの罰とは、ユダヤ人への罰であろう。

話は、飛躍するが、私は、どうして、ドイツのヒットラーが、ユダヤ人の虐殺を行ったのかということが、疑問である。あの、人種差別は、何ゆえのものかということだ。

旧約の神に選ばれた民である、イスラエル人、ヘブライ人、つまり、ユダヤ人が、何故、あのような迫害を受けるのかということだ。
何か、根本的な問題があるような気がする。

ただし、キリスト教の、このイエスの言葉の解釈を持てば、ユダヤ人は、罰を受けるものであるということになる。

マタイの福音では、その後がある。

これを見た弟子たちがおどろいて、「いちじくの木が、どうしてこんなにすぐ枯れてしまったのですか」とたずねるとイエスは、「まことに私は言う。あなたたちがためらうことのない信仰さえもっていたら、私がいちじくの木にしたようなことができるばかりではなく、あの山にむかって、動いて海に入れ、と命じてもそのとおりになるだろう。あなたたちの信仰にみちた祈りをして乞い求めるなら、なんでも与えられる」とおおせられた。

イエスが空腹であったことを、聖書解釈は、義と愛に飢え渇くイエスを考える、いう。
聖書解釈は、すべて、このように、勝手な解釈をする。

たしかに、マタイは、マルコ福音に先導されて、書かれた。ルカ福音にもである。
後で、書き入れられたと考えられるが、その後の弟子たちの言葉に、解釈の根拠がある。

つまり、信仰により、祈りにより、出来ないことは無いと言うのである。

何度も言うが、イエスは、弟子たちにも、悪霊を追い出し、病を癒す力を与えた。
奇跡の力である。
聖書解釈は、暗にそれを、避ける。
要するに、奇跡を起こすことが出来ないような信仰の者が、解釈するからである。

福音宣教は、奇跡があっての、宣教の意味がある。

私は、台風の進行を何度も変えた。
そして、身近な人に、それを言う。最初は、驚いていたが、そのうちに、当たり前になる。私も、そんなことを、一々取り上げて言う必要も無い。
時々、こうなると、言うと、もう慣れた人は、ああ、そうと、聞く。

私は、奇跡を行っている意識は無い。
しかし、進路変更を何度もするということは、大したことである。
勿論、私は、言霊による。

マルコ福音にも、イエスは言う。
心に疑わず、自分の言ったようになると信じるなら、それは聞き入れられる。それゆえ、あなたたちに言っておく、あなたたちが祈り求めるものはすべて、かなえられるものと、信じよ。そうすれば、そのとおりになるであろう。また、祈るために立ち上がったとき、だれかに対して何か恨みがあるならば、その人を許しなさい。そうすれば、天にいますあなたたちの父も、あなたたちのあやまちを許してくださるであろう。

解釈も何も、イエスは、はっきとり言うのである。
イエスが口にした通りに成ると。

ハリーポッターの世界ではない。
事実である。
祈りと奇跡のカラクリは、次元の問題である。
言葉が叶う次元にワープせよと言うのである。
それは、信仰によって成ると言う。

祈って成らない者が、福音を宣教することは、出来ない。
単なる、遊びであり、道楽になる。

ただし、私は言う。
願って叶わぬこともある。
必要なこと、それゆえに、奇跡は、成就する。

いつもいつも、台風の進路を変えることは、ない。
病の癒しも、そうである。
地震に関しても、止めることの必要な場合と、そうでない場合がある。

もし、私がガンになっても、私は、癒しをしない。
死ぬか、信頼する医者の助言に従う。
出来れば、死にたいが、生かすというならば、生かさせてもらうこともある。

特に、それが医療の、また、医者への奉仕になるのであれば、である。

どんなに優れた霊的能力を持つ者も死ぬ。
実は、本当の能力者には、死は救いである。

肉体は、素晴らしいが、肉体があるゆえに、霊的次元にワープするのが、困難な場合がある。
それから、特別な能力を得たいと、肉体の行をして、得る能力者は、大半が、他の霊的存在に支配される。
要するに、レベルを霊的存在に合わせることによって、得る能力であるからだ。

イエスは、自分の力、次元にワープする力を、信仰と言う。

全く、イエスの奇跡は、言霊の力である。
立って行け。あなたの信仰があなたを救った。起きよ。治れ。
すべて、言霊の力である。

これで解る通り、日本の伝統である、言霊というものが、いかに霊的に進んでいるかということである。
言霊の認識である。

万葉の人は、皆々、それを認識していた。

ユダヤ同祖論という説があった。日本もユダヤ十二支族の一つであるという。
全く、誤りである。

その一つに、生贄、供え物がある。
彼ら、ユダヤ人は、羊を殺し、血を流す。しかし、日本の神道には、そんなものは、一切ない。血を流して供える物は、一つも無い。鴨があると言うであろうが、血は、流さない。祭壇に置く鴨は、血抜きをしたものである。
後は、海の幸、山の幸である。

現在は、鶏を用いるが、伊勢神宮では、生きたままを、捧げて、その後は、森に放すのである。

イエスの、イチジクに対すする言葉は、非常に激しいものである。
二度と、実をつけるなとは、宗教家とは、言えない。
ただし、いちじくを、お前と、呼ぶ。
文章では、擬人化である。
イチジクの木の霊に、言うのである。

それが、何を象徴しているのか。
植物霊とは、精霊である。
私が察するところ、その木には、人霊が、憑いていたと思われる。
その木に、自縛していたのであろう。
それゆえ、イエスは、その人霊を、そこから、開放すべくの、言葉であると、理解する。

それにしても、イエスは、激しすぎる。
これは、肉体イエスの性格であろう。

これが、仏陀なら、決して、このような言葉にならなかった。
仏陀は、静かに、その場から去ったであろう。

勿論、その木に自縛する霊を、言葉無く、諭してである。
私も、そうする。

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2007年11月04日

キリスト33

イエスは、たとえ話をする。

ある人が、ぶどう畑をつくり、垣をめぐらし、見張り所を立て、それを農夫たちにまかせて、遠方に旅立った。時節がきたので、ぶどうの収穫のわきまえをうけとらせるために、農夫たちにしもべをおくると、農夫たちは、かれをとらえてうちたたき、空手で追い返した。

何人も、おくったが、なぐられたり、殺されたという。
そして、最後に、息子をやると、農夫たちは、跡継ぎだと言い、殺せば、財産は、われわれのものになると言い、殺した。

さて、ぶどう畑の主人は、どうするだろう。と、問いかける。

自身でやってきて、農夫たちを亡ぼし、他の人々に、ぶどう畑を任せるにちがいない。
あなたたちは、「家つくりの、捨てた石が、すみの親石となった。これは主のみわざで、私たちの目にとってはおどろくべきことだ」という聖書のことばを読んだことがないのか」と言う。

この聖書の言葉とは、詩篇118章22,23節のことである。

聖書解釈をみる。
神は、ぶどう畑の主人で、ぶどう畑は、イスラエルの国である。
神は時機に応じて、預言者、義人を使わしたが、イスラエルの悪辣な指導者たちは、彼らを虐待した。そして、最後の息子まで、殺すということ。
神の子イエスも、殺されるということを言う。
このため、神は怒り、イスラエルの遺産を、キリストの教会に譲るという、ものである。

このイエスの、たとえ話は、実に、悲惨であり、驚くほど、暴力的である。
あちらの民族の性質を、よく表すのである。

この、キリスト教会とは、どこの教会かといえば、カトリックである。

カトリック教会というものも、一つの派閥であったが、皇帝と組んで、絶大な権威と権力を持った。
それが、イエスの言うことなのかと、疑問である。

イエスの説教からは、世界宗教に発展する要素は、無い。
あくまでも、イスラエルの宗教で、止まる。

アブラハム、イサク、ヤコブの神である、旧約の神である。
ユダヤ教も、キリスト教も、イスラム教も、主とする神である。

聖書解釈によれば、イスラエルの民は、メシアを拒み、殺した。故に、神は怒り、その契約を、キリスト教会に譲るということになる。
完全に、ユダヤ教との、決別であり、和解のなにものもない。

ユダヤ教は、いまだに、メシアを待ち、キリスト教は、イエスをメシアとし、イスラム教は、ムハンマドを、最後の預言者として、旧約の神を、奉る。

ユダヤ教、イスラム教は、偶像を嫌い、カトリックのように、イエスの像も、マリア像も、聖人たちの像も置かない。

三者は、決して妥協することなく、いつまでも、敵対し、対立する。

イエスの言葉が空しい。
祈る前に、敵を許せ。そうすれば、父なる神も、あなたがたを許す。

この世で、最低、最悪の観念は、宗教である。

観念まみれ、である。

誰もが認めることだが、原始宗教形態は、太陽信仰である。
そして、土地、地球であり、自然界のあるもの、水や、樹木等々のものである。
そして、人間の男根、女陰信仰である。

観念として、宗教が現れたのは、4000年から5000年前である。
旧約聖書の最初も、4000年前ほどである。
実は、旧約聖書は、ペルシャ、現在のイランに起こった、ゾロアスターに影響を受け、アフリカの土着信仰に影響を受けている。

エジプトのラーという神も、自然神であり、太陽信仰からのものである。

そして、日本も、同じく太陽信仰である。
大陸から切り離されたのは、12000年前である。
列島になり、それ以前の太陽信仰を、そのままに、引き続き、縄文へと至る。

アマテラス、天照という方は、実在の人物である。
太陽信仰を説いた、夫である、天皇、大王としておくが、その死後、引き続き、民に太陽信仰を説いていた。
富士王朝という人もいる。
大和朝廷は、その、富士王朝を、凝縮して、その続きだとした。

ただ今、遺伝子研究により、言語の系統研究が、大きな成果をあげている。

遺伝子学の知見によれば、現代人の祖先は、今から15万年から20万年前に、アフリカに発生し、その後、枝分かれした。

アフリカ中北部、ナイル川上流にさかのぼる。
ヒトの集団が、アフリカの中で、東西に分裂しはじめたのが、20万年ほど前である。
西に行くものは、大西洋に阻まれて、南下し、アフリカ南部で行き止まる。
東に行くものは、北に向きを変えて、スエズ運河を通り、カスピ海南部に至って、5500年ほど前に、南北に分かれる。
南に下ったものは、インドからインドネシアを経て、中国南部と、オーストラリアに行き着く。
北上したものは、カスピ海の北で、35000年前から40000年ほど前に、コーカサスの北を通り、西のヨーロッパ方面に行くものと、中央アジアへ行くものに、分かれる。
東に向かい、東北アジアを経たものは、今から、30000年前から15000年前に、再び細分化し、ベーリング海峡を越えて、アメリカ大陸へ行くもの、満州、モンゴル、チベット、朝鮮半島、そして、日本へと別れた。

列島が大陸から、切り離された記憶が、古事記の、国産みの記述としてある。

言語については、いずれまた、書くことにする。

こうして、人類が生き延びて、今に至る。
彼らは、生きるに必死だった。
原始宗教体験とは、その生きることに関わるのである。
つまり、自然との折り合いである。自然の脅威を、現在の神という観念に近く持ち続けたはずである。
しかし、名は無い。
一日を、支配するのは、太陽である。
それが、太陽信仰への、第一段階であった。

遺伝子学からの言語についてが、人類の有様を言う。
この言語とは、人間の最も素晴らしい創作であり、創造であった。
そして、一気に言うが、言語が、観念の生みの親である。

エジプトの言葉の発生は、実に神聖なものだった。

私がいいたいことは、そこに立ち戻る時、現在の宗教の誤りが、理解できるということである。
作られた言語による観念の産物が、宗教である。
つまり、宗教は、人間が創造したものであること。それは、つまり、神というものも、人間が、創造したものである。

加えて、霊的存在の関与である。
この霊的存在の、問題は、後日に譲る。

いずれにせよ、書かれたものがあるということは、書かれなかったものがあるということである。
そして、書かれなかったものの、方が、当然、レベルが高いのである。

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2007年11月05日

キリスト34

一人の律法学士がイエスに問う。
「すべての掟の中で、どれが第一のものですか」と。
するとイエスは言う。
「第一の掟は、こうである。
 イスラエルよ、きけ、私たちの主なる神は唯一の主である。
 あなたは、すべての心、すべての霊、すべての知恵、すべての力をあげて、主なる神を愛せよ。また、第二は、これである。隣人を自分と同じように愛せよ。これより、重大な掟はない。」

イエスの言葉は、すべて旧約聖書に書かれている言葉である。

私たちの主なる神は唯一の主である。
これは、旧約からの伝統である。
唯一の神である。
アブラハム、イサク、ヤコブの神という。
彼らにコンタクトした神である。

イスラエルにとっての、主は唯一なのである。
当時のイエスの世界観は、どんなものだったのか。
新約時代のパレスチナの世界観は、ローマ帝国である。そして、エジプトやギリシャ。さして広くはない。

ただし、イエスは違う。
30歳から、宣教するイエスの、その前の生活を知ることはない。
15歳で、神殿にて、司祭たちと会話するのを聖書は、書くのみである。
それでは、それ以外の時間は、何をしていたのか。
父ヨゼフの大工の仕事をしていたとは、言えない。
イエスは、旅をしていたのである。

旧約の地である、シナイ半島、アラビア、ペルシャ、そして、インド、中国である。
その説教の内容を見れば、旧約の神を凌駕している。
また、新しい説教の内容は、当時としては、画期的なものである。

律法学士や、ファリサイ人たちは、イエスの権威ある説教に、いつも驚いていた。しまいに、あなたの権威は、どこから来るものかと、問う者もいる。
イエスは、知ったのである。
様々なものの考え方、様々な信仰形態を。

知能優秀な者を、優秀ではない者は、理解できない。
例えば、本のページをめくると、すべて頭に入る人などを、覚えることが、やっとの人は、理解できない。天才を凡才は、理解出来ない。

頭の悪い人が素直にならないのは、素直になれないからである。要するに、理解が出来ないのである。
人間は、実に不平等である。

イエスは知っていて、イスラエル人に、イスラエルの言葉で、説教するために、旧約聖書からの言葉を引用し、方便をもって、説教を繰り返した。

方便といえば、仏陀も、そうである。
難しい話を、難しく話しても、誰も理解できないのである。
そこで、たとえ話ということになる。
方便を便利な方法という人もいるが、言葉遊びである。

仏典は、仏陀の方便を、説いたものである。しかし、その解き方も、人それぞれである。全く、見当外れもある。
権威により、定説とされるが、違う。
権威にある者に、都合よく、解釈される。

カトリックは、法王の権威によって、解釈を限定するが、プロテスタントになると、聖書主義といい、その解釈は、百人百様である。

イエスは、ペルシャに起こった、ゾロアスターの教えも学び、インドにては、古代インドの教えを学び、中国に行けば、道教、儒教の教えも、学んだ。
そして、改めて、旧約聖書の神と対座した。
そして、そこにあるメシア思想に、自分が関与する者であることを、知る。

創世記からはじまる五つの書を、モーゼ五書と呼び、また、それを律法と呼ぶ。
それから、千年以上を経て、未だに、旧約の迷いにあるイスラエルに、イエスは、対峙する。
この民の神を、より広く、世界に通用すべくの教えに変容させることであると、気づくのである。
ゾロアスターの愛の思想、仏陀の平等と慈悲の思想、そして、為政者のための、儒教、様々な術の道教、それらに、相応しい世界的教えを、旧約の神の言葉を通して、イスラエルに語ること。

知る者は、苦しむのである。

主なる神という、核を持たなければ、混乱極まりなくなるイスラエルの人々に、旧約の神の言葉から、刷新させるべく、宣教を繰り返すことになる。

その、第一の掟が、主なる神を愛すこと。そして、隣人を自分と同じく愛すこと。
限定された、旧約の神観念を、広げるべくの宣教である。

イエスの教えの、斬新さは、隣人愛である。
これが、当時では画期的なことだった。価値の転換である。
敵を愛せよ。
敵とは、異教徒である。つまり、他の宗教、他の神を拝む者である。
これ程、画期的なことは無い。

隣人とは、敵のことである。

イエスキリストの十字架は、人間の原罪の救いではない。
それは、異教徒を愛する、許すということの、証明である。
命懸けで、それを、伝えたのである。
そのために、命を捨てた。捨てるに値する、思想である。
世界は、そうしなければ、いずれ滅ぶのである。

狭い民族主義、選民意識を捨てること。それなくして、人間の生きるべき道は無い。
主なる神を愛することは、敵を愛することなのであるという、人類への、語り掛けである。

さて、その教えは、どうなったか。

全く、逆になった。
イエスの思想は、その信者によって、全く別物になったのである。

民族意識旺盛、選民意識旺盛、そして、敵を殺し尽くすこと。異教徒は、殺せである。
旧約の神が、その威力を発揮して、イエスの教えを、無に帰すことをする。
そして、イスラムの登場である。
旧約の神、ムハンマドに懸かり、対立をもたらすのである。


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2007年11月06日

キリスト35

イエスは、神殿で教えておられたとき、「律法学士は、どうしてキリストをダビデの子だといっているのか。
ダビデは聖霊によって、主は私の主におおせられた、私があなたの敵を、あなたの足の下におくまで、私の右にすわれ、とみずからいっている。ダビデ自身が、キリストを主だといっているのに、どうしてダビデの子なのか」とおおせられた。

マルコ福音書12章35,36,37節である。

私がマルコ福音を引用するのは、最古の、極めて、信憑性が高いといわれる、書き物だからだ。
マルコは、洗礼者ヨハネの存在から、書き出している。
54年から、60年にわたって書かれたといわれる。
イエス死後である。

新約聖書の信憑性は、実に薄い。
マタイ、ルカ、ヨハネの福音は、マルコより、もっと後のものである。
その他、カトリック教会が、認可しない福音が、数多くある。しかし、それらを載せると、とんでもない書物になってしまうのである。
奇想天外、嘘八百である。

メシアは、ダビデの家系から出るとは、旧約聖書にある。
そのため、マタイ、ルカの福音書は、そのための記述をするが、実に苦しいものである。
こじ付けである。その矛盾に、キリスト教徒は、気づかない。
例えば、マタイが、ヨゼフをダビデの子孫とするのに、28世代を言う。ヨハネは、41世代を言う。

「19世紀以来、学術的な神学研究者たちは、「福音書は現実世界の歴史で起こったことについての信頼できる記述ではない」という決定的な論証をおこなってきた。すべてはイエスが死んでからずっと後になって書かれたものであり、パウロの手紙よりも後であるが、この手紙には、イエスの生涯にあったとされている事実のほとんど何一つとして触れられていない。すべてはその後に、多数の伝言ゲーム世代を通じて、いずれにせよ自らの宗教的大義をもち、誤りを犯しがちな筆写者たちによって、何度となく繰り返し書き写されてきたものである。」
利己的な遺伝子を書いた、リチャード・ドーキンスの「神は妄想である」から。

イエス誕生の、お話の本質は、すべて、地中海、および近東地域にすでに存在した他の宗教から借用しているという経緯も解った。
イエス伝説の本質的な特徴のすべてである。
東方の星、処女懐胎、王による赤子への虐殺、奇跡、復活と昇天を含めてである。

「この四人の福音伝道者がどんな人物であったかは誰にもわからないが、彼らが直接イエスに会ったことがないのはほとんど確実である。彼らが書いたことのほとんどは、正直な歴史を書こうとする試みではけっしてなく、「旧約聖書」の単なる焼き直しにすぎなかった。なぜならば、福音書の書き手たちは、イエスの生涯は「旧約聖書」の預言をかなえるものでなければならないと心底から信じ込んでいたからである。」
ドーキンス

こうした、学者たちの試みは、実に有意義である。
それは、妄想を廃するためである。
歴史と伝説は、違う。
しかし、神話であれば、伝説より、意識の深い、何かを探ることは、出来る。
宗教の経典には、皆、このような、とんでもない、妄想、空想が潜んでいる。

イエスの説教も、すべて、旧約聖書の言葉から発している。
つまり、旧約聖書とは、ユダヤ人の共通言語であるから、それを使用しなければ、会話が成り立たないのと同じである。

盛んな新興宗教を見れば解ることだが、突然変異のようにして、出たものより、既成のものから、出る方が、人が集う。
日本の場合で言えば、神道系、それを、教派神道という。そして、仏教系ならば、断然、法華経である。
何も無いところからは、何も生まれないのである。

それらを、ちょこちょこと、アレンジして、新しい宗教のように装うのである。
頭の悪い者を、騙すのは簡単である。

そんな中で、上席を占めるのは、知能の高い者、あるいは、寄付金を多く払う者である。
後は、雑多として、頭数である。それらを、集金マシーンにして、宗教は成り立つ。マシーンになっても、気づかないというのは、実に、気の毒であるが、それを喜んでいるから、世話はない。
そういう者は、すでに、十分救われている。
子供に飴を与えて、喜ばすに似る。
実に、おめでたい、のである。

死ぬまでの暇つぶしに、宗教ほど、楽なものは無い。
無いモノを在ると、信じているのである。こんな、おめでたいことがあるか。そして、もう一つ、人間は、妄想の産物を必要とするということである。

私の霊界という、話も、その一つである。
私の妄想である。
ただし、一つだけ言えることは、この世は、妄想であるというこどた。何一つとして、絶対的なものはないから、妄想でも持たないと、やってられないのである。

実に、人生とは、悪い冗談である。

呪いが叶うなんて、楽しいではないか。
どうだろうか。
祈りが叶うなんて、実に、楽しいではないか。

「精神病院にいる人間は、自分がナポレオンやチャーリー・チャップリンだとか、世界全体が自分に陰謀を企てているとか、あるいは自分の考えを他人の頭の中に吹き込むことができると思い込んでいる。私たちは彼らに調子を合わせるが、彼らの心の内に啓示された信念を真面目には受けとらない。その主たる理由は、彼らと同じ体験を共有する人が多くはいないことである。宗教的な体験がそれと異なるのは、そういう体験をしたと主張する人間が無数にいるという点だけだ。」
ドーキンス

サム・ハリス「信仰の終焉」から。
「合理的に正当化できるような根拠がないあれやこれやの信念をもつ人々を指す名称はいくつもある。そうした人々の信念が極端にありふれたものであるとき、私たちはそれを「宗教的」と呼ぶ。そうではないときは、おそらく「狂気」、「精神病的」、あるいは「妄想症」・・と呼ばれる。明らかに、大勢いれば正気とみなされるのだ。」

「だから、宗教的な人間一般が狂っているとは言わないが、彼らの核心にある信念はまちがいなく狂っている。」

信仰とは、理性を麻痺させる。
麻薬を打つ者は、麻薬を打つという感覚を失う。
そして麻薬患者となる。

信仰も同じで、感覚を失い、聖人と言われるようになる。
人間とは、実に不思議なものである。

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2007年11月07日

キリスト36

イエスはみ教えの中で、「律法学士たちに気をつけよ。かれらは長い服をきて歩きまわることと、広場で敬礼をうけることと、会堂の上座、宴会の上席につくことを好み、やもめの家をむさぼり、長く祈るまねをするが、かれらのうける審判は、ひとしおきびしいことだろう」

モーゼ律法の教師たちである。ユダヤ教の代表である。彼らを、ここまで叩き切るとは、凄まじい迫力であり、彼らを敵にすることは、ユダヤ人を敵にすることになる。
何故、イエスは、そこまで、彼らを糾弾するのか。
偽善者だからである。

現在の日本では、僧侶たちのことである。
宗教指導者の、有様には、辟易するのである。

門主、門跡、管長、座主、特に血筋を持っての、宗教団体の有様は、腐りきっている。
広く貧乏人から金を集め、その嘘八百の教義なるものを持って、妄想を信徒に与えて、弥陀の本願、成仏等々の言葉で、撹乱させる。
一般人より、仏陀に遠い生活をして、僧侶という。呆れる。

果ては、幼稚園経営から、墓地、納骨堂経営までなし、仏陀の教えとは、遥かに遠い。

乞食、を、彼らは笑うことは出来ない。
彼らこそ、華麗なる乞食である。

全く、仏典の教養も無く、他力だの、自力だのと、のうのうと、ブッから、呆れる。
その、食肉妻帯の様にも、呆れる。

仏陀は、出家者には、厳しい掟を与えた。
女の膣に、ペニスを入れてはならない。
それを、堂々と、やっているのである。

ひとしお厳しい審判が待っているだろう。との、イエスの言葉は、なにも、律法学士たちだけではない。

仏陀の仏教を見捨ててもいい。
では、道元の曹洞宗は、どうか。
二年程度の修行を経て、寺の跡取りになれば、安泰した生活を送る。
後は、やりたい放題である。
信じられないの一言。そして、尊敬されるというから、開いた口が塞がらない。

ヤクザと、僧侶の見分けがつかないと言われるほどであるから、そろそろ、信徒も、目を覚まして、寺から見切りをつけるべきである。

何度も言うが、日本の仏教は、仏陀の仏教ではない。
全く関係ないのである。
大乗仏教ということろから、誤っている。
それが仏教の発展という人がいるが、単に、堕落したのである。

勿論、多くの識者や、論者は、日本仏教を擁護する。金になるからである。
宗団に、取り入れれば、金になるのである。

少しの常識的見解があれば、それに迷うことはないが、少しの常識的見解も無いのである。

矢張り、騙される者が悪い。

さて、イエスの言葉である。
自ら、苦境に立つであろうことを言う。

すべて、重荷を負う人、疲れたる者は、我に来たれ、我、汝を休ません。
と言えば、私は、この世に剣を持ってきた。対立を持ってきたと、言う。

キリスト教徒は、前者を使い布教をするが、後者を言うことはない。その意味が解らないからである。

イエスキリストが行いたかったこと、それは、人間が作り出した、神観念からの、脱却である。
神は、人間が創造したものである。
旧約聖書の神観念のみにしか、頭が回らない者たちに、その神の言葉を持って、つまり、それを方法として、教えを説いたのである。

勿論、そのイエスキリストの言葉も、後に、教会が、権力を保つために、支配するために、都合よく作られたものである。

実は、世界は、もはや、一神教の教えでは、限界に来ているのである。
滅びる前の、消え入る前の、盛況を今は、現している。

古代から、ヒトは、畏敬の思いを抱いて生きた。
それは、自然である。
ヒトが人間になっても、潜在意識の奥底で、古代の記憶が残る。
その、畏敬すきべきものを、神という観念にすり替えたのである。

あらゆる宗教の七割以上の人は、本当に、信じている訳ではない。慣習、習慣によるものである。
どちらかと言えば、信じていない人の方が多い。そして、それは正しい。

イエスが言うところの、天国とは、霊界の話であるが、当時の人に合わせて、旧約の観念から、それを説いたのである。
旧約聖書の観念に、雁字搦めにされている者たちを、正常に戻すには、どれほどの、方便が必要だったか。

念仏を信じている、老婆に、教えを説くことは、容易ではない。
念仏によって、極楽に行くと、信じ込む者に、説く、言葉はない。
それなら、念仏を通して、正しい霊界の話を説く方が易い。

イエスはメシアと、呼ばれる。メシアとは、救い主ということである。そして、宗教は、救いという観念を説くが、実は、救いという観念は、観念のみあり、実体が無い。

生きるということが、実に不安定なことである。そこに、付込んでの、不安増大を煽り、その不安からの開放を救いという言葉にするのである。
悩む者を、餌にして、この壷を買えば、悩みが解消するという、悪徳商法の手口と同じなのである。
宗教とは、合法的悪徳商法である。

人間は、宗教的であれば、よい。
宗教的とは、自然に対する畏敬である。それは、生命に対する畏敬である。
それを、神や仏の観念として、人間から引き離し、対立したものとして、教えるから、誤るのである。
宗教は、完全に誤りである。
人間は、宗教的であれば、よい。

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2007年11月08日

キリスト

マルコ第13章は、世の終わりについて言う。

宗教は、人を脅すものであるから、当然、終末思想、世の終わり等々の、お話を作る。
1999年に向かって、多くの新興宗教が、世の終わりを喧伝した。
そして、人の不安を煽り、信徒を増やすという。

イエスキリストの、世の終わりというものも、その一つに当たる。
しかし、実に、世の終わりは、毎日繰り返されている。
人の死である。

本日か、明日か、明後日か、百年後か、千年後か、世の終わりは、いつもある。
人は死ぬことによって、世を終わる。

今、人類は、核兵器によって、即座に、世の終わりを演じることも出来る。

イエスは、世の終わりの話の後に、御伽噺のようなことを言う。

「さて、その日には、この苦難ののち、日がくらみ、月は光を失い、星は空からおち、天の力はゆれうごき、そして人々は、人の子が、大勢力と栄光とをおびて、雲にのってくだるのを見るだろう。そのとき、かれは天使たちをおくり、地の果てから天の果てまで、地の四方から選ばれた人々を集める。」

旧約聖書の神の奇跡を信じている者たちに、ここまで譬えて言わなければ、迫力に欠けるるのだろう。
しかし、旧約の神も、雲には、乗らなかった。

思い出して欲しい。日本の古事記を。
雲に乗って、天孫降臨したのは、我がタカアマハラ霊界からの、ニニギの命である。

聖書解釈では、世の終わりについて、旧約のイザヤ書における、バビロンとエドムの滅亡の光景を指し、エゼキエル書でのファラオの滅亡を言うとある。
一部の学者は、エルサレムの滅亡という者もいる。
キリスト教新興宗教は、この、イエスの世の終わりの言葉を、この世の終わり、つまり、世界の終わりと、解釈するのである。

選ばれた人とは、キリスト教徒のことを言うと、手前勝手なことも言う。

キリスト教徒のような、偽善者たちが、選ばれるということは、一切無い。
自分たちが、選ばれるという思い込みは、本当に、救いようがない。

人は死によって、この世の終わりを体験する。

「いちじくの木からこのたとえをくみとるがよい。その枝がやわらかくなって葉を出せば、夏が近いことがわかる。それとおなじことで、そういうことが起こったら、事はもうせまってきた。門口に近づいたと知らなければならない。まことに私は言う、それらが実現するまで、今の代はすぎさらない。天地はすぎさるが、しかし私のことばはすぎさらない。」

「だから、目をさましていなさい。家の主人がいつ帰ってくるか、夕方か、夜中か、にわとりの鳴くころか、明け方か、わからないのである。かれが不意に帰ってきたとき、あなたたちはが眠っているのを見つけられることがないように。わたしはあなたたちに言っていることをすべての人に言う。目をさましていなさい。」

伝言ゲームで書かれた福音書であるから、イエスの言葉、説教は、実に、注意深く読まなければならない。書いた者の、願望や、思い込みが激しい場合は、支離滅裂になる。

それらが実現するまで、今の代はすぎさらない。と言い、天地はすぎさるが、私の言葉はすぎさらない。
今の代は、すぎさらない。天地はすぎさる。
何、言ってんのー
今の代が過ぎ去らないで、天地が過ぎ去って、そして、私の言葉は過ぎ去らない。

こういう、とんでもない言葉遊びを、教会は、あのように、このようにと、屁理屈をつける。
自分たちの、都合の良いように、解釈する。
そして、自分たちは、救われると、思い込む。イエスが嫌った、律法学士と同じであることに、気づかない。

それでは、私は言う。
人は確実に死ぬ。その時、世が終わる。
それが、いつになるのかは、誰も知らない。だから、目覚めていよ。
限りある人生である。
死ぬことが救いなのである。そして、それが世の終わりである。
自然死も、事故死も、戦争死も、天災死も、何もかも、死ねば、世の終わりである。
その時が、いつきてもいいように、目覚めていよ。
そういうことである。

旧約の言葉を意識するゆえに、イエスの言葉が複雑怪奇になるのである。

旧約の神ではない、大和の神は、すでに、イエス在世当時より、一万年前に、雲に乗って、天孫降臨している。
旧約の神は、イエス在世当時から、4千年前である。

何を、たわけたことを言う。

ひとえに、神学という、妄想の酷さである。
その解釈大半が、あの、あのである。中世という、教会支配の暗黒の時期になっているのである。
異端審判の、最低最悪の様は、無知としか、言いようが無い。

頭の悪い者が、いくら考え続けても、良いアイディアは、浮かばない。堂々巡りをするのが、精々である。

ムハンマドの起こしたイスラムが、教会支配の地に、乗り込んで、飲み込んでゆくのに、慌てて、十字軍を興す程度の頭の出来である。
何故、イスラムが、支持を得るのかを、考えることが出来なかった、頭の程度が、あの当時のカトリック教会指導者の、知的レベルである。

複雑怪奇な神学より、イスラムの方が、実に、明確で、解りやすい教えだった。
司祭は、いらない。偶像を拝むな。一人一人が、アッラーと結ばれよ。あなたと神の関係である。

今、現在もイスラムは、増大している。
その勢いを、止めることが出来ない教会の、頭の悪さは、尋常ではない。

カトリックの指導者の、キンキンキラキラの姿と、イスラム指導者の、質素さを見れば、誰もが、イスラムを信奉する。
つまり、偽善者であること、明々白日であるからだ。それに気づかないという、頭の悪さである。
教会と、モスクを比べて見よ。
金に任せてキンキンキラキラの教会と、何も無いモスク。祈りのみが有効なモスクである。

ただし、私は、イスラムにはならない。
私は、自然が神殿で、ご神体が太陽の、古神道という、日本の伝統にある。
これには、イスラムも、適わない。
本当に、何も無いのである。
教祖も、経典も、教義も無い。こうせよ、ああせよ、も、無い。
楽しい時は、歌って踊って、哀しい時は、泣いて、怒る時は、心を鎮めて、喜びの時は、皆に、振舞って、ただ、それだけ。
それなのに、死んだら、最も高い次元のタカアマハラ霊界に行くという、妄想、モウソウである。

イスラムも、唖然某然。

金ピカの杖で、世界を祝福するというローマ法王である。
最も世俗的である。
その権威と権力のために、今まで、どれだけの人を殺戮したのか。
さあーーー言え。
神に選ばれたとは、これいかに。
悪魔であろう、その神は。

まだまだあるが、以下省略。

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2007年11月10日

キリストの絶唱 番外編

創世記の話を続けるつもりだったが、書き込みに、キリストの奇跡は、創作だった、史実ではなかったという。
聖書研究家、研究者たちの間でも、多く、奇跡は、史実ではないという者あり。
嘘である。
奇跡はあった。

奇跡は、史実ではないという者、奇跡はあったという者、いずれもその証拠を提出できない。奇跡だからだ。

超自然現象は無いと断定できる、何物も無い。
そして、多くは、自分の頭で理解できるものしか、理解できないのである。
奇跡を知らない人は、奇跡を無いという。
知らないものは、無いものだからだ。

日本人好みのイエス像を描いた、遠藤周作という作家も、イエスは、ただ弱い男だったと書く。何も出来ず、泣く人と共に泣いたという。そんな嘘を平気で書く。それこそ、創作である。小説家の創作を、信じて、真実のイエスを知らないのである。

新約聖書を、じっくりと読むと、あることが解る。
イエスの言葉である。
あれ程の言葉を吐くには、それだけの証拠が無ければならない。
一粒の信仰があれば、山をも動かすという。それを、自らが示して、始めて、言葉が成る。

イエスは、湖の上を歩いたという。奇跡である。
しかし、琵琶湖を歩いた人もいる。
ある程度の、能力さえあれば、そんなことは、簡単に出来る。
ただし、私は、そんなことを勧めない。

役の行者は、空を飛んだ。
魔界と接触すれば、軽いことである。
イエス程度の奇跡ならば、信じられる。普通である。

日蓮は、佐渡島に流された時、満潮の海に棒で縛られて置かれた。しかし、海水は、日蓮を守った。その時の、祈りの言葉が凄い。
悪霊、邪霊、あらゆる霊よ、日蓮がために働け。さすれば、お前たちも、救われる等々。
また、雨乞いの祈りも、成就させている。他の僧では駄目で、日蓮が成功させた。
ある新興宗教の教祖も、空間から、物質を出していた。
そんなことは、当たり前に出来る世界がある。
それを、科学で証明出来ないだけである。

私は、心霊手術を受けたことがある。
実際、自分の体で確認した。
指で、体を切る。血が出る。そして、病の物質化したものを、取り出す。当たり前である。
何も、不思議は無い。

聖書の記述を簡単に、創作だとなど言わない方が、身のためである。
少なくとも、書いた者は、2000年を経ている。つまり、相当な霊体になっている場合あり。もし、悪霊の方になっていた場合は、簡単に言えば、祟られる。

ある法華経信奉者が、空海の批判をした。堂々とである。
単に、単純な信仰者である。空海を批判出来るようなことをしていない。
たちまち、原因不明の体の痛みに、のた打ち回った。

長く歴史に残る教祖、開祖は、実に霊力がある。
こちらが、相当な力が無い場合は、批判は禁物である。
特に、公の場では注意である。
私は、それを知って、日本仏教を批判している。
しかし、開祖たちを、批判することは無い。それを別な形で、認めている。

さて、聖書の奇跡は、事実ではないという。それで話が終われば、目出度しであるが、そうは問屋が卸さない。
新約聖書を読み込まない者が、半端な知識で物を言う。
注意せよ。注意せよ。

ある奇跡の時に、イエスは、弟子たちに言う。
このようなことは、祈りと断食が必要であると。
悪魔祓いの奇跡である。
これ以上説明すると、オカルトになるので省略する。

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2007年11月11日

キリスト 最後

キリストの絶唱と題して、勝手気ままなことを書いた。
しかし、終わりにする。

そこで、最後に当たって言う。
私の友人には、キリスト教徒、特にカトリック信者が多い。シスターもいる。修道院長をしている友人もいる。
その彼らは、私のエッセイを呼んでいる可能性は、大である。しかし、私たちの友情は、これによって、損なわれることはない。

大半は、一つの宗教団体を批判すると、その信者は、私に近づくことをしない。
その程度の信仰なのである。

何度も言うが、私は、信徒に対して、批判する者ではない。信仰は、極めて個人的な情緒であり、それを何人も、侵してはならないのである。

私は、小学四年生から、聖書に親しみ、中学生の頃は、聖書を諳んじていた。今は、すべて忘れている。
実に、多くを聖書から学んだ。その訳の、最悪さが、私の文章の元になっているから、私の文章作法も、最悪である。

すべての学問を身に着けることは、出来ないが、最低、人間としてのお勉強を、私は、宗教を学ぶことで、為してきた。
それは、実に有意義だった。
宗教とは、学ぶに足る妄想である。

さて、日本の宗教という観念は、鎌倉仏教による。
法然、親鸞、道元、日蓮の、書いたものを読めば、日本語の、新しい日本語の格調の高さが知れる。
彼らの思想は、欧米の思想を凌駕する。
それは、一つ日本語の能力にある。
その一行を解釈するに、欧米の言葉では、膨大なものになる。

彼らの日本語の、その大元は、お歌である。万葉集に代表される歌の言葉である。

31シラブルによる、つまり、音による、言葉の組み合わせ。
音の組み合わせは、日本語にしかない。
漢字などは、独立語であるから、一文字に、多くの意味がある。が、今、漢字の文化は、日本によって、花開いている。

また日本語には、一音に意味がある。

さて、この2000年、聖書は、多くの人に、誇大妄想を与え続けてきた。
私は、今、その流れに一石を投じる。もはや、聖書の世界では、世界は成り立たないのである。
進化したのである。

とは言え、日本人の知能指数が、低下していることは、否めない。
それは、テレビ文化による。
テレビは、思考力を低下させる、最もたるものである。
日本人は、テレビに占領されて、その心も占領されて、後は、衰退の一途を辿るのみ。

いやいや、もう無駄口をやめて、まとめる。

あらゆるキリスト教系の宗教は、百害あって一理無しである。
そこまで、極端に言うことはないだろうが、言う。
神学は、ギリシャ哲学から抜け出てなく、そして、ギリシャ哲学より、レベルが低いということである。
西洋の思想は、神との戦いであるというが、無いものと戦っても、詮無いこと。
姿の無いものに戦いを挑んでも、詮無いこと。
自己の観念との戦いに疲れ果てた姿が、西洋思想の、それである。

あの、ニーチェでさえ、神は死んだと、神と言う観念から、抜けられなかった。

宗教的天才は、新しい観念を生み出すのである。
神や仏に対決する、新しい観念を生み出すのである。

聖書が翻訳されてから、神という言葉の観念が定着した。
しかし、日本では、神明と言った。
仏法に惑わず、神明を尊びである。
日本の神は、上であり、守であり、集団をまとめるものを、カミと呼んだ。
日本のカミは、そのようものである。神明のみである。
シンメイと読めば、漢語である。かみのあかり、と読めば、大和言葉である。
神という実体は無いが、その明かりは、ある。神の如くのもの、である。

つまり、明かりを求めて生きるものであるということである。それは、自然界と同じである。自然以外のもの、超自然と言われるものの存在も、無くてよいのである。自然が、人間の上や、守を超えたものであった。
それの総称が太陽である。

太陽は、光り輝く。
それで善しとした。

浪花のことは、夢のまた夢なのである。
後は、野となれ山となれ。
ここに、神学の入り込む余地はない。

天地創造の神とは、人間の願いである。
唯一の神とは、人間の願いである。
その願望が、信念となり、そして、目の前に妄想を広げる。

しかし、再度言う。
信仰とは、個人的な極めて個人的な情緒である。
私は、それを否定しない。

おしまい。

追伸。
私はカトリック教徒として、多くの司祭、プロテスタントの牧師に会っている。
中には、実に素晴らしい方がいた。
それは、人間としての魅力としての、素晴らしさである。
キリスト教徒としては、皆々、最低最悪であった。
つまり、彼らは、イエスキリストを対立したものとして、捕らえ、そのイエスに対する信仰を説くのである。
嘘である。

何度も言うが、イエスを信じるということは、イエスになるとというこである。
つまり、言葉の世界を超えて行動するということである。

イエスにならない者の言葉を、いくら聞いても、詮無いことである。

それでは、私は、どうなのかといえば、唯一、私の知る限り、イエスになろうとした者である。しかし、それは大きくの誤解や、蔑みを生む。
しまいに、異端とされる。
要するに、キリスト教である。
つまり、教義の上のキリスト教である。

今、イエスキリストが存在したならば、キリスト教徒に、殺されること、必至である。

キリスト教徒とは、そういうものである。

お解りか、アホな、キリスト教徒。
イエスは、言う。
主よ主よというものが、天の国に入るのではない。
父のみ旨を行う者が、天の国に入るのである。

何度、イエスが言うか。

父のみ旨とは、何か。
敵を愛することである。
キリスト教発生から、敵を愛したキリスト教徒は、いたか。

全世界に、キリスト教の妄想を広め、主イエスが言うように、剣を世界に、撒き散らしたのである。
お解りか、アホなキリスト教徒よ。

ローマ法王は、億単位の人を、主の名において殺した。
それでも、主イエスというのか。
さあ、私の前に出よ。
そして、申し開きをせよ。
私が取り次げば、主イエスは、聞かれる。

キリスト教の神は、妄想である。

ナザレのイエスは実存した。
諸国を流浪し、心根の優しい、そして、強い性格であった。
今と同じように、当時の宗教家の偽善を許せず、自分一人が犠牲になれば、少しは、何とかなると考えた。
そして、神の子となるべく、決心した。
その第一声は
悔い改めよ
神の国は
近づいた。
である。

これを、理解できる者は、キリスト教徒であることを止める。

キリスト教というものには、主イエスが不在だからである。

さあ、親兄弟を捨てて、父のみ旨を果たすべきである。

すべての財産を捨てて、私に従え。
主イエスは、今も、そう言う。

しかし、誰か、それを為す人がいるか。
ああ、インドのマザーテレサか。
違う。
マザーテレサは、この世の報いを受けたのである。
何と無ければ、聖人として崇められる。

主イエスは、盗人のように、磔られたのである。

主イエスの愛に泣く人よ。
すぐ傍にいる、敵を愛してみよ。
唾棄すべき、敵を愛してみよ。

戦後、アメリカ兵に体を売って、家族兄弟姉妹を養っていた者、女に、キリスト教徒は、適わない。その足元にも、及ばない。

実に、この世の最低最悪の存在、キリスト教徒である。

さあ、この私の前に出よ。
その体の奥に、その後ろにあるものを、透かして見よう。

堂々として、私の前に、キリスト教徒であると言うがよい。

私は、イエスになれず、何と、誇大妄想ばりの、霊的能力を得たのである。

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