2007年07月03日

キリスト22

ファリサイ派の人々がやってきて、イエスに議論をしかけ、イエスを試みようとして、天からのしるしを求めた。イエスは心から深く嘆息して仰せられた、「どうして今の時代はしるしを求めるのか。あなたがたによく言っておく、しるしは今の時代には決して与えられない」イエスはかれらから去り、再び舟に乗って向こう岸に行かれた。

ファリサイ派の人は、メシア的なしるしを見せよというのである。
要するに奇跡を見せよということである。それも、驚くような奇跡である。個人的病治しではない。
イエスの力を試すのである。
しかしイエスは、自分の栄光のための奇跡は、起こさないのである。
ただ、去るのである。

イエスに偽善者といわれる者どもである。
こういう輩は、いつの時代も、どこの場所にもいる。
自分たちは、知識と教養があり、善人だと信じている者である。

「しるしは、今の時代には決して与えられない」のではなく、お前たちには、与えられないということである。
自分たちが、滅びていることさえ、気づかない者である。

大学の名誉教授というものがいる。
社会的地位が高い。しかし、最低最悪の人間の場合、多々あり。しかし、それを彼らは知らない。要するに、社会的な目でしか、自分を見ることが出来ない。
自分を見る、自分の目を持つことが無い。
特に、社会的地位の高いと言われる人に多いから、驚く。
この、ファリサイ人というものも、そういう者たちである。

だから、イエスが言う。
「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種とにじゅうぶん気をつけよ」と。

パン種とは、彼らの認識するもの、そして、彼らの教えである。
しかし、その頃の弟子たちも、アホゆえに、イエスの言葉の意味を理解出来ない。それを、イエスは嘆くものである。

ちなにみ、アホは、死んでもアホである。馬鹿は、死んでも、馬鹿である。
死んでも治ることはない。
浮遊する幽霊を見れば、それは、解る。
生きていた時と、同じく、頑固な者は頑固であり、愚かな者は、愚かである。
悲劇は、自分が死んだことに気づかないという、アホもいる。

死んでいるのに、死んでいないと言い張る者もいる。

ファリサイ人は、今でも、霊界、幽界で、ファリサイ人としているのだろう。哀れである。

それにしても、聖書解釈というのは、事後予言のように、すべてを教会の教義にこじつけて、解釈する。
イエスの奇跡に関しても、教義に結びつけるのである。
それらを、一々書くのは、面倒であるから、省略する。

イエスの名言がある。
「わたしのあとに従いたい者は、おのれを捨て、自分の十字架をになって、わたしに従いなさい。自分の命を救おうと望む者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、命を失う者は、それを救う。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を
失ったならば、なんの益があろうか。また人は、自分の命を買い戻すために、何を与えることができようか。神を捨てた罪深いこの時代において、わたしとわたしのことばを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光に包まれて聖なる天使たちちちもに来るときに、その者を恥じるであろう」

ここでも、聖書解釈は、的外れである。何も解っていない。要するに、霊学を知らないからである。
この言葉の意味は、霊界を知らなければ理解出来ない。
何せ、全世界を得てもという譬えは、譬えにならない。誰も、全世界など、手に入れられないからである。

神を捨てた罪深いこの時代という。
当時が、そうである。
つまり、ユダヤ教の堕落と、惰性を言うのである。
今の日本の仏教の形式主義、形骸化した信仰に似る。
そして、今も、そうである。
それでは、イエスを主とする、キリスト教は、どうであろうか。同じであろう。
そして、その新興宗教である。同じであろう。
手前勝手な解釈で、我は、云々というから、救われない。
いや、救いなどない。
救いというのは、妄想である。

死ぬまでの暇つぶしの救いである。

それでは、イエスは、何を言いたかったのか。

私は言う。
生まれた時から、人は、十字架を背負っている。
カルマ、因縁である。
勿論、自分が撒いた種である。

おのれを捨て、自分の十字架をになって、私に従いなさいという言葉は、矛盾である。
おのれを捨てて、おのれの十字架である。そんなもの、ある訳が無い。

第一、おのれを捨てられるか。
そんなことが、ある訳が無い。
何を言うのか。

道元も、同じ事を言う。
仏の家に投げ入れてという。私を仏の家に投げ入れて、自我を捨てるのである。
自我を、捨てたら、精神疾患である。

そこで、編み出された理屈が、自我と、自己である。
自我を捨て、自己の十字架をになってということになるのであろうか。

言葉の遊びは、止めたい。

要するに、救いという言葉の観念が曖昧である。

救いとは何か。ということになる。

実は、救いは妄想である。救われる必要は無い。すでに救われている。この宇宙に在るということは、救われてあるということである。
宇宙以外に在る場所は無い。宇宙外は、無である。
霊界も宇宙に在る。
神というものも、サタンというものも、宇宙の内にある。神もサタンも救われている。在るからである。無いものは、無い。在るものは、在る。

存在は、救いである。

聖書解釈は、第一の死は、この世の死である。第二の死は、来世における死であるという。永遠の命を、失うとある。
嘘である。
人間の霊は、永遠のものである。
つまり、それは、救いではない。
永遠に存在することが救いであるというのだ。
違う。
本当に救いを求める人は、永遠など求めない。

消滅を求める。
次の宗教の問題は、消滅の教えである。
この宇宙から、消滅することである。

仏陀は、転生を超えて、この世に生まれないことを救いという。
私は言う。
救いとは、この世と、あの世からの消滅を言う。

悟って仏になる、永遠の命を得る等々、まだまだ、救いには、遠い。

多次元にも、宇宙にも、存在しない、消滅を願うことが、救いである。




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2007年07月04日

キリスト23

「イエスはペトロとヤコブとヨハネを連れて、高い山にお登りになった。そこにはかれら四人しかいなかった。そのとき、弟子たちの前でイエスの姿が変わり、その衣は真っ白く輝いた。その白さはこの世のいかなる布さらしでもなしえないほどのものであった。そして、エリアがモーゼとともに現れて、ふたりはイエスと語り合っていた。ペトロは口を出してイエスに「先生、わたしどもはここにいてしあわせです。三つの仮いおを造りましょう。一つはあなたのために、一つはモーゼのために、一つはエリアのために」と言った。ペトロは何を言ってよいかわからなかった。かれらは恐怖におそわれていたからである。すると、雲が現れてかれらをおおい、雲の中から声が聞こえてきた。「これは我が愛する子。かれに聞け」かれらはすぐに、周囲を見回したが、自分たちといっしょにいるイエスのほかには、だれも見えなかった。」


モーゼ、エリアと、どうしても旧約聖書の知識が必要になる。

ここでは、旧約とイエスの関係を明確にしている。
あくまでも、イエスの存在は、旧約からのものであるということ。
旧約の完成という存在のイエスであるということ。

しかし、ユダヤ教は、イエスを預言者の一人として認めても、メシアとは、認めない。
ユダヤ教のメシアは、政治的な意味も含めてのメシアである。
例えば、旧約のダビデ王などのような、である。

結果、ユダヤ人は、イエスを神を冒涜するものとして、十字架刑にした。

ユダヤ人とは、アブラハムの子のイサクの子、ヤコブからはじまる。
ヤコブの十二人の息子から、イスラエルの十二族が出る。

神はイサクに「おまえの名を改めてイスラエルと名づけなさい」と言う。それからである。
別名、ヘブライ人とも言う。それが、ユダヤ人である。そして、彼らは、神から選ばれた民としての選民意識を持つ。

この十二族の一つのユダ族から、ダビデ王、ソロモン王、そして、イエスと続くとは、キリスト教の考えである。
しかし、現在も、ユダヤ教では、メシアは、まだ来ていないという。
イエスはメシアではない。

ちなみに、イスラムも、旧約の神をアッラーとして奉る。そして、イエスを預言者として扱う。
ムハンマドは、アブラハムを、最初のイスラムとし、最初のムスリムとするのである。

天から声が聞こえるというのは、イエスが洗礼者ヨハネから、洗礼を受けた時も、天から声がした。
「これは我が愛する子」と。

旧約聖書の中でも、多く神や天使の声を聞くが、それは、三次元のものではない。
空間から声を聞くことはない。
声を聞くのは、別次元にワープしているからである。
だから、同じ場所にいても、聞こえない人もいる。

イエスの体が光り輝くのも、別次元だからである。
弟子たちは、知らずに、別次元に連れられたのである。
そうでなければ、モーゼやエリアの姿を見ることもない。

新約聖書の作者が、モーゼやエリアとイエスの会話の様子を書くのは、イエスの存在は、旧約からのものであるということを言うためである。
イエスは、間違いなく、アブラハム、イサクから出た、イスラエル人であり、ダビデ王、ソロモン王の末裔であり、旧約に言われるメシアであるということを言う。

イエスもイスラムのムハンマドも、ユダヤ教の人の作ったトーラ、律法を、旧約の彎曲したものであり、誤りであるとする。
そして、イエスの後600年後のムハンマドは、イエスを預言者として認めるが、メシア、神としては認めない。

それが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の違いである。

聖書の記述は、霊学をもってしか理解出来ない。
キリスト教会は、事後予言の形で、解釈するが、それは、教会の教義に合わせてのものである。要するに、都合よく解釈する。
そして、矢張り、ユダヤ教と同じく、イエスを彎曲して、組織としての教えと、規則作法を決めて、現在に至る。

イエスの霊性と、教会が言う霊性は、全く違う。また、多くの聖人と言われる者たちの、霊性も、イエスの霊性とは、別物である。

別次元を感じるというのも、百人百様の様がある。
日本といっても、北海道から沖縄まである。しかし、別次元というと、日本であるというのみにで、日本のどの場所かを言わないのである。それに似るのである。



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2007年07月12日

キリスト25

「人の子は、人々の手にわたされ、殺され、そして、殺されて三日目によみがえるだうろ」
イエスは、弟子たち言う。

人の子とは、イエス自身である。
何故、人の子と言うのか。
それは、神が人間になったという、教会の教義の証明になる。
イエス自身が、人の子として、宣言するのである。

人は、皆、人の子であり、蛙や蛇の子ではない。
あえて、人の子というところに、意味がある。

これは、マルコ福音書の8章31節にもある。
二度目の受難の予告である。

さて、イエスは、預言の通りを実行したのか、預言通りになったのか。
イエスの宣教期間は。三年である。
30歳からで、33歳に十字架刑に処せられる。

新約聖書の最大の山場であり、最大の奇跡は、イエスの復活である。
死からの復活、これが、キリスト教の教義の最高である。
勿論、カトリックでは、処女降誕も、信仰告白の一つになる。

このイエスの受難を、人間の原罪を救うという、最大の教義にする、キリスト教である。
しかし、どこを捜しても、イエスの口から、原罪を救うという言葉は出ない。

原罪とは、最初の人間、アダムとエバの犯した罪ということになっている。
蛇にそそのかされて、エバが知恵の木の実を食べたという、神話からである。
それは、どうも、性の目覚めのことであるようだ。
性、というものを、罪と定めるのである。

知恵の木の実を食べてから、二人は、裸であることに、恥ずかしさを覚ええて、腰に葉を巻きつけたという。
生殖の喜びではなく、性の喜びに、目覚めた。それが、気に入らないらしい。

旧約聖書には、産めよ増えよ、地に満ちよという、神の言葉がある。
子を産むためには、セックスをしなければならない。生殖のセックスは、正しく、性の快感のみを求めるのは、罪である。
その罪を、原罪とする。
そして、それにまつわる、人間の無明、つまり、無知を、罪とする。

無明とは、仏教用語であるが、仏教も無明を罪とする。

性の前には、無知になってしまう人間の、性、さが、である。

性を、セイ漢語で読むのと、さが、と大和言葉で読ませる。セイは、さが、なのであろう。
さが、という言葉から、定めという言葉が出来る。
さが、とは、与えられてある、逃れられないもの。人生では、宿命である。

さて、この原罪説を、どう扱うのか。
何故、原罪というものを、教義として掲げるのか。
ひらたく言えば、生まれたことを、恥じるともいう。

ちなみに、日本の伝統には、そういう考え方は、一切無い。
キリスト教信者の作家が出て、日本人には、この原罪の意識無く、ゆえに、神不在である等々の、屁理屈を並べての作品を書き、少しの読者を得たが、全く、見当違いであり、誤りである。
あちらの神観念を持ち出し、原罪意識を持ち出して、云々するという、無明である。
つまり、日本に関しての無知は、救いようがない。

しまいに、原始キリスト教だの、原始福音宣教だの、キリストの幕屋だのとの、激しい妄想は、如何ともし難いのである。

福音宣教と言うが、奇跡の起こせない者が、一億人いても、福音宣教など出来ない。
イエスは言う。信じることで、叶わぬことは無いと。

ちなみに、カトリックの聖人認定は、奇跡の有無が、最大のポイントである。そのための、調査団までいる。
マザーテレサが、死後、即座に、聖人の手前の福者に認定された。
あれは、世界的に影響力が強く、教会の宣伝には、もってこいだったからである。

イエスの宣教は、奇跡である。
奇跡が無ければ無に、空に等しい。
イエスは、奇跡を起こさなかったという者は、死後、七転八倒しているはずである。

少なくとも、旧約聖書から、新約聖書として、歴史を経て、残るということは、意味がある。深い意味がある。たとえそれが、魔界や、魔神のものであっても、人類に対するメッセージである。

私の立場を明確にする。
唯一の神は、無い。
魔界や、魔神は、霊界という次元にはない。
別空間のものである。
古神道の場合は、次元の高い人霊を、便宜上、神と尊称して言うが、セム的、一神教の神観念は無い。
霊界は、人霊が在る空間である。勿論、それは、宇宙にある。次元の違いがあるのみ。
故に、日本の、古神道の伝統では、死という観念も無い。
身を隠すという意味で、死は、一時の別れとして認識する。

さて、イエスの、人の子発言である。
神の受肉という思想がある。それは、教会の教義にあるものだ。

私の解釈は、イエスの自覚である。
同じアジアの中で、イエスの在世から、500年前に、仏陀が、慈悲と平等の教えを説いていた。それと、連動しているのである。
怒りと嫉妬、裁きと、脅しの神からの開放であり、愛と許しの神の教えを、イエスは、伝えた。
旧約の神観念からの、離脱である。
それは大変な価値の転換である。
命を懸けるものである。

歴史は、それを望んでいた。

イエスは、旧約の神々を凌駕したのである。


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キリスト24

マルコ福音書、9章14節から、またも、悪霊につかれた子を癒す。

子の親が言う。
「霊がこの子にとりつくと、所かまわず、かれを押し倒します。かれはあわを吹き、歯がみをし、からだが固くなってしまいます。あなたのお弟子たちに、霊を追い出すように頼みましたが、だめでした。」
イエスが言う。
「ああ、不信仰な時代よ、わたしはいつまであなたがたとともにおればよいのか。いつまであなたがたにがまんしなければならないのか。その子をここに連れてきなさい。」

霊は、イエスを見るや、その子をはげしくけいれんさせた。
かれは地に倒れ、あわを吹きながら、ころげまわった。
父親は「どうかあわれんで、助けてください」と言う。
イエスは「できるならばというのか。信じる者にはどんなことでもできる」と言う。

そして、汚れた霊をしかりつけて言われた。
「おしとつんぼの霊よ、わたしは命じる。この子から出て行け。二度とこの子にはいってはならない」
霊は、叫び、その子にひどいけいれんをおこさせて、出て行った。

弟子たちは「どうしてわたしたちには、霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねる。
イエスは「このたぐいのものは、祈りによらなければ、どうしても追い出すことは出来ない」と仰せられた。

心霊治療とか、神霊治療とか言う人がいる。
私も多く、そいう人に逢った。
心霊手術も受けた。沖縄の王朝に仕えた琉球気功も、縁あり、受けた。
皆々、嘘ではない。
ただ、霊能者で、治療する者は、いない。皆々、嘘である。

要するに、人知では計り知れない力が働くのである。
しかし、心霊治療家は、患者に訴えられて、裁判で負けた。治せなかったというものである。実に、患者とは、愚かな者である。治せなかったのではなく、治らなかったのである。
その方は、治すとは、言わない。出来るだけのことをすると言う。
しかし、多くの人を癒した。それを聞きつけて、患者がくる。治らなかった者が、詐欺だと訴えたのである。問題は、患者自身であることに気づかない。
これを、愚かという。
イエスも言う。
信じることで治ると。
信じ切るということである。

ただし、能力のある者に対してである。
能力の無い者を信じ切っても、詮無いこと。

さて言う。
キリスト教信者で、祈りで、病を癒す者がいるか。
一億人に一人くらいはいる。
つまり、彼らの信仰は、贋物である。

私の立場を言う。
私は、病を、生きる意味意識として受け取る。ゆえに、祈りにより、癒すことを求めない。

イエスは、このような霊は、祈りによならければだめだという。
その、イエスの言う、祈りとは、何か。
瞑想などという、流暢なものではない。
祈りの力である。
それを、解明するのは、古神道である。
しかし、これは、省略する。別の場で書く。

この聖書の記述が、誤解を招くのである。
イエスは、霊を追い出すというのである。
それでは、その霊は、どこへ行くのか。
ある霊的能力者は、イエスも、悪魔の側にある者だという。追い出すならば、霊的能力者ならば出来る。しかし、その霊は、どうなるのか。また、人を捜して憑くのか。

聖書の中にも、このイエスの行為に、彼は、悪魔の頭であるという人々がいる。当然である。悪霊を追い出すのである。頭ならば、追い出せる。

イエスが悪霊の側にいるのか、どうかは、別にしておく。

ローマ法王庁には、悪魔祓いの専門家である司祭がいる。前ローマ法王、ヨハネパウロ二世も、悪魔祓いを行っている。
すると、今度は、悪魔とは、何かということになる。
教会の定説では、大天使ルチフェルが、神が人間を愛する様を見て嫉妬し、下野して、サターンとなったと言われる。
それと、戦うのが、大天使ミカエルである。

しかし、現実は、教会の中にも悪魔といわれる存在がいる。
欧米で言うところの悪魔とは、相対的なものであるようだ。

そして、悪霊と、悪魔は違う。
悪霊とは、浮遊する霊である。その死後、次元移動出来ずに、この次元に幽霊、つまり、幽体で浮遊するのである。時に、それらが、人に憑き、病や、人生に関与する。悪霊と言われる所以である。

悪霊が、悪魔の支配にあるものではない。

それでは、魔界という考え方がある。
それは、霊界、この世と別次元の世界のことである。
各国には、魔界が存在する。
最大の魔界は、アメリカであり、その世界は無限であるとみる、霊的能力者もいる。
インド魔界は、大陸をすべて包括する。ロシアに至るまで、である。

唯一、魔界の存在しない国がある。
日本である。

日本には、地獄界から、高いレベルの霊界のみであり、魔界は、存在しない。

と、ここまでくると、妄想、誇大妄想になる。
以下、省略する。

ちなみに、日本の霊的能力者は、霊を追い出すという行為は、しない。
霊を鎮めるのである。そして、行くべき、次元の世界に送る。当然である。追い出しても、解決にはならない。故に、日本の霊的能力者から見ると、イエスの行為には、疑問を持つのである。

ちなみに、仏教は、供養するという言葉で、霊を取り扱うが、それは、一時的なものである。奈良の寺には、まだまだ、武士の霊が多い。
供養しても、あちらに行かない、行けない。何故か。
読経により、霊は、次元移動しないということである。
奈良の寺は、日本仏教の初期の、宗派が揃うのである。にも関わらずである。

この辺で、やめて、置く。

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2007年07月15日

キリスト26

マルコ第9章33節から。
弟子たちが、誰がもっとも偉大な人かと争うとある。
子供のような、弟子たちである。

イエスは言う。
「もし、第一の人になりたいなら、みなのあとになり、みなの召使にならなければならない」
一人の子供を、真ん中に立て「私の名のために、こういう子供を受け入れる人は、私をうけいれるのであり、私をうけいれる人は、私をうけいれるのではなく、私をおつかわしになったお方をうけいれる」

これは、徹底的にユダヤ教に対決しているのである。
形式に陥り、堕落する信仰と、それを指導する者たちの、傲慢と、すさまじい怠慢である。危機意識皆無であり、その地位に安住している様を、徹底的に攻撃する。
そして、甚だしい選民意識である。
異邦人、つまり、他民族に対する態度は、甚だしい。

ゆえに、イエスは、こうも言う。マタイ第7章21節。
「私にむかって、主よ、主よ、という人がみな天国にはいるのではない、天にまします父のみ旨を果たした人だけがはいる」

実に、福音書には、秘密が隠されてある。

マルコ福音の次を読む。

ヨハネがイエスに言った。「先生、私たちの仲間でない人が、あなたの、み名によって悪魔を追い出しているのを私たちは見ました。その人は私たちの仲間でなかったので、それをさまたげました」
イエスは言う。
「さまたけではならない。私の名によって奇跡を行いながら、すぐにあとで私をそしてることはできまい。私たちにさからわない人は味方である。キリストについている者であるからといって、あなたたちに一杯の水をのませてくれる人があったら、実に私はいう、その人はむくいを失わないだろう」

形ではなく、見えない真実をイエスは言う。
これで、イエスの教えが、世界的なものになるベースがある。
イエスは、キリスト教を立ち上げたのではない。
教祖になったのでもない。
何が重大なのかを、教え伝えた。それを、福音という。
福音宣教と言う者がいる。多く、キリスト教の各宗派である。
しかし、違う。
イエスの言う、福音とは、彼らの福音と違うのである。
それは、信仰があっても、霊感が無いからである。霊感の無い信仰は、蒙昧である。
彼らが言う、信仰とは、単なる依存症である。そして、多くの宗教は、そうである。そして、恐ろしいことに、妄想に依存しているから、救いようがない。

一体、何を持って信ずるということなのか。
信仰とは、何か。
イエスを信じるという時、それは、イエスに成るということである。
イエスのようにではない。
イエスに成るのである。

仏陀を信じるというのは、仏陀に成るということである。

ある有名な哲学者が、高齢になって、ようやく、「仏教とは、仏になることとみつけたり」というような本を出した。今更である。彼は、ようやく、第一歩を踏み出したのである。しかし、もうすぐ死ぬ。次の転生で、仏陀への道が始まるのだろう。
ご苦労である。

イエスの仲間でない人が、イエスの名において悪魔を追い出したという。
キリスト教徒の皆々は、よく聞くがいい。
キリスト教徒でなくとも、イエスのみ名によって、悪魔を祓うことが出来るのである。何故か。
そうすると、天国に入るという者も、キリスト教徒が入るのではないということである。
それを、イエスは言う。

ここで、霊学から言う。
キリスト教徒の皆々が行く霊界は、キリスト教霊界と言っておく。
それが天国というならば、それでよし。
しかし、そこにイエスは、いない。
イエスの次元ではないからだ。
イエスにならなければ、イエスの次元に行くことは出来ない。
キリスト教霊界は、実に、低い次元にあり、イエスの次元は、より高い。故に、イエスに逢うことは、出来ない。

ただし、魔界ではないことが救いである。もし、魔界であれば、霊界に縁することは無い。魔界は、次元が違うのではなく、別次元だからである。
宇宙には、ブラックホールという場所があるという。それに似ている。
霊界と、魔界は、接触しない。
唯一、この三次元にのみ、接触するから、不思議であり、意味深い。

さて、私はカトリックの洗礼を受けた、キリスト教徒でもある。
でも、という。
12歳から、聖書を読み始めて、15歳で、洗礼を受けた。家族は、誰もキリスト教徒ではない。
父方は、法然の迷いの念仏宗であり、母方の親は天理教という、レベルの低い神もどきの宗教の信者であった。
私は子供の頃から、そういう信仰者の中で、育った。
そして、町の神社の祭りにも参加した。

私の周囲に、カトリック、念仏、天理教、そして、神社神道があった。
時に、中学生から高校の間には、様々な新興宗教の誘いがあり、様々な、教義を聞かされた。
それ以後も、しかし、おさまることなく、新興宗教の様を知ることになる。

自分で確かめる方法は、唯一、霊能であった。
それゆえ、次に霊的能力者を訪ねた。
大半が、人格破綻者であった。または、入院しない精神的病の人であった。

嘘と、妄想の世界は、甚だしく、病を癒すといっても、精神的狂いの強い波動で、治すということはするが、全く、検討違いの信仰と、狂いを持つ者であった。
霊能者の別名が、自己顕示欲であった。
地位も名誉も、金も、身分も無い者が、唯一、先生として、少しばかりの尊敬を受けるべく、嘘八百の世界に身を投じる様、哀れであった。

最終的に、私は、彼らの背後にある物を、見た。
皆々、動物の霊であった。仰天した。

決別するべく、最後に行った、霊能者の玄関に入ると、すでに、限りない蛇が、その部屋中に満ちていた。
何故、今まで見えなかったのか。
不思議なことは、多くあったが、皆々、邪霊、悪霊のたぐいであり、奇跡的なことを行う者は、神に遠いものであることを、知った。

知るということは、信仰を超える。
故に、仏陀は、無知を嫌った。

自分で確認できないものを、信じてはいけない。それならば、障らぬ神に祟りなしという、古人の言葉が、正しく、真っ当である。

イエスの言葉は、教団、教派を超える。

主イエスのみ名によって、誰もが悪霊を追い出すことが出来るのである。

そして、悪霊の多い場所は、すべての宗教施設である。
そこに集う人々が、悪霊に感応するからである。

よく効く薬は毒である。
出来れば、薬を飲まずに癒す方がよい。

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2007年07月16日

キリスト27

「私を信じているこの小さな人の一人にでも罪を犯させる者が、あれば、その人は、ろばのひく臼を首にかけられて海に投げ込まれるほうがましである。
あなたの手があなたに罪を犯させるなら、その手を切り捨てよ。かたわで命にはいるほうが、両手をもってベケンナの不滅の業火にはいるよりもましである。
あなたの足があなたに罪を犯させるなら、それを切り捨てよ。片足で命にはいるほうが、両足でゲヘンナに投げ込まれるよりもましである。」

「またもし、あなたの目があなたに罪を犯させるなら、それを抜き取れ、片目で神の国にはいるほうが、両目があってゲヘンナに投げ込まれるよりもましである。そこでは、うじがつきず、その火は消えることがない。」

イエスの激しい性格が伺える。

これを、実行出来るクリスチャンは、いない。

ゲヘンナとは、地名である。
エルサレムの南西にある、大きな渓谷である。旧約時代には、この谷で、子供を火に投げ入れて、神に捧げるという、極悪な迷信行為が行われていた。
後に、刑場となり、また、罪人の死体を放棄したり、火葬した場所である。
この名は、罪人の死体が、うじと、火の罰を受けることから、地獄と言われるようになる。
ゲヘンナとは、地獄という意味である。

ゲヘンナという場所が、そのまま、地獄であると言ってもよい。
この世に地獄があるということだ。

イエスの、この説教にみる、激しさとは、何か。
そして、罪ということの、罪とは、何か。

人間の罪悪感は、どこから、来るのか。
罪悪感は、何かということである。

イエスの、罪意識も、旧約からきている。
旧約の最大の罪は、神との契約を遂行しないことである。
それでは、旧約の神の掟とは、何か。
モーゼの十戒をみる。

わたしをおいてほかに神があってはならない。
いかなる像も造ってはならない。
あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
安息日を心に留め、これを聖別せよ。
あなたの父母を敬え。
殺してはならない。
姦淫してはならない。
盗んではならない。
隣人に関して偽証してはならない。
隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。

掟とは、それが出来ないが故に、掟になる。
ここでも、原罪なる言葉はない。
土台、原罪などというものは無い。妄想である。支配者の支配しやすい罪の意識、それが、原罪である。

カトリック教会は、像だらけである。
いかなる像も、造ってはならないという掟に背いている。

実は、イエスの罪とは、差別意識のことであった。
それは、仏陀と同じである。
イエスは、身に沁みて、差別の意識を感じていた。
それは、自分の生まれである。

これを書けば、私は、全世界のキリスト教徒から、迫害されるでろあろう。
イエスの出生は、ユダヤ人の女と、ローマ軍の兵士の間に出来た子である。
処女降誕は、カトリックの教義である。プロテスタントには、それが無い。

現在の医療なら、処女妊娠は、可能である。
しかし、二千年前では、不可能である。
神は、全能であるから、処女妊娠もあると信じることには、何の問題も無い。

イエスには、兄弟がいた。
マリアと、ヨゼフの子である。

イエスは、自分の出生に悩み、宣教をする30年間の生活は、闇に包まれている。
15歳の頃に、神殿で、律法学者たちとの、やりとりがあったという記述があるが、後は、全く不明である。

イエスは、ユダヤ人であること、ユダヤ人になることを、生きた。自分の自己同一性を、徹底検証した。
そして、仏陀が言う。人は生まれによらず、行為による、という、レベルに達した。

また、自分の霊の出た場所を突き止めた。
自分は、どこから来たのかということである。
甚だしい霊能力により、イエスは、自分の霊の在り処を観た。

肉体は、仮の宿りである。
本体は、霊である。

イエスは、モーゼ、エリア等の預言者たちと、霊的会話をする。
そして、私の父と呼ぶ神が、旧約で言う神とは、違うことを知る。
キリスト教も言う、人格神だと。
神も霊的存在である。
神にも、レベルがある。

神観念とは、後々、教会が勝手に理屈をつけたものである。
しかし、イエスは実感として、霊的存在と語ったのである。

さて、イエスの激しい教えは、差別意識からのものであると言った。
イエスは、当時のユダヤ人が嫌う、税金取立ての者や、遊女等々を大切にする。
弟子たちも、漁師が多い。

マリアがヨゼフと結婚した。ヨゼフは、ユダ族、つまり、ユダヤ十二支族の最大の支族の子孫である。
イエスは、旧約の預言にある、ダビデ王の子孫でなければならなかった。ヨゼフの存在は、そこにある。
その支族から、メイアが現れるのであるから。

聖書を深読みするためには、霊感が必要である。

当時、血族というものが、どれ程貴重なものだったか。
自分の血に流れている、その血の一端により、差別を受けては成らないのだった。
人は、霊的存在である。

何度も言うが、神に人格は在り得ない。
人格があるのは、霊的存在である。

それでは、神とは、何か。
それは、宇宙である。宇宙そのものである。
偏在している。すでに、すべての存在は、神の中に在るのである。
人格などというものを、超えているし、そんなものと、対比できるものではない。

神と名乗る者は、すべて霊的存在である。
だから、レベルがある。
イエスは、旧約の神との決別を促した。
怒りと嫉妬、裁きと、恐れの神というレベルの旧約の神との、決別である。
そして、血縁による神との関係である。
誰にも、開かれてある神の存在を、イエスは、伝えるべく、預言の通りを実行して、メシアとなるべく、行動した。

人は行為によって、成るべきものになる。
仏陀の言葉を、イエスは身を持って示した。

イエスは、その行為によってメシアに成ったのである。


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2007年07月29日

キリスト28

マルコ福音書第10章
ファリザイ人が来て、イエスをこころみようとして、「夫は妻を出してもよいものですか」とたずねた。イエスが「モイゼはなにを命じているか」とお問いになると、かれらは、「モイゼは、離縁状を書いて去らせよ、と命じました」と答えた。
そこでイエスは、「あなたたちの性質が強情だから、あなたたちのためにそう掟をしるしたのだ。しかし、創造のはじめから、人間を男と女におつくりになった。ゆえに、人は、父母をはなれて二人は一体となるのであって、もう二人ではなく一体である。人は、神がお合わせになったものを、離してはならない」とお答えになった。

ここで、イエスは、モーゼの掟を改めたのである。
あなたたちの性質が強情だと、言い放つ。

カトリックでは、婚姻の秘跡である。離婚は許されない。
それは、このイエスの言葉からくる。

ファリザイ人は、何を試みたのか。
当時のユダヤ人は、妻の方から、離縁を申しだせなかったのである。
ローマ人、エジプト人は、それが出来た。
そこで、夫からなら、離縁できるのかと、尋ねたのだ。

そこで、イエスは、モイゼが何を命じているのかと問う。
すると、離縁状を書いて去らせよと言う。
それは、性質が強情だからと、突き放す。
ユダヤ人が強情だと、言い放つのである。

イエスは、彼らに、新しい掟を言う。
神の合わせたものを、離しては成らないと。
離婚を否定する。

しかし、どうして、神が合わせた二人であるということが、証明されるのか。
勝手に結び合ったものであろう。

これは、イエスがファリザイ人に言ったことであり、彼らに対する掟である。
それを敷衍して、キリスト教徒に言うのは、愚かである。

あなたたちの性質が強情だから、そう掟にしたと言うのである。つまり、ユダヤ人の掟であり、他の民族のものではない。

神が合わせた男と女であることを、誰も証明できないのである。
だから、離婚は否定出来ない。

日本人は、仏教用語の縁という言葉を使う。
これを、大和言葉で言えば、えにし、である。
縁がある。縁があれば、果がある。その、果が、過ちなら、正すべきである。要するに、離婚は成立する。

男と女を合わせるものは、神ではない。欲望である。
そんなことを、改めて言うまでもないことだ。
それが、性欲の場合もあり、支配欲の場合も、生存欲の場合も、様々ある。

男と女の間に、神を持ち出すことなかれ。
それを言うなら、人間の間のことである。

契約と、掟の好きな人種がいる。
おおよそ、日本人以外は、そうである。
結婚も、契約である。それをイエスは言う。つまり、契約と掟の好きな民族に、当てはまる。

ユダヤ人は、一夫多妻であるから、一人の妻を離縁しても、困らない。
そして、一夫多妻は、自然である。人間も動物であるから、多くの種を、多くの異性に撒くものである。

アホらしい、律法や、掟に捕らわれていて、物事の本質を知らない者に、イエスは、辟易している。

ちなみに、カトリック信者は、離婚をすると、教会には、行けない。秘跡を守らないからだ。罪人である。
今は、教会法である。

人間は、ルールを作って遊ぶ者である。
スポーツなども、そうだ。要するに、ゲームのルールを作るから、面白い。
100メートルを何秒で走るとか、見ている者は、面白いが、やっている者は、真剣である。そうして、人間は、遊びを作ってきた。それが、文明となる。

国家というものも、ゲームのルールを作り、国家を成す。

ルールが複雑であればあるほど、熱心になる。これが、人間の本性である。
それは、前頭葉のお陰か、それゆえである。

イエスは、それを笑う。
しかし、それを生き甲斐にしている者がいる。それ故、それに答える。
実は、どうでもいいことである。

イエスは、出来れば、人は一人で生きた方が良いと言う。
当然である。
人は、絶対孤独の存在である。
誰も、人の孤独に介入出来ない。しかし、介入出来ると、思う者がいる。信仰者である。
人に余計な世話を焼く。
大きなお世話である。しかし、それによって、救われたと、妄想する者もいる。

実に、人間とは、愚かな者である。

イエスは、それをお見通しである。

私も、それを見通している。

結婚しなくても、子供は生まれる。家系とか、血縁というものも、夢幻である。
だから、仏陀も、先祖供養などを言わない。
皆々、ルールを作り遊ぶのである。しかし、それに真剣になってしまったが故の、哀れさである。

カトリック教会も、離婚を罪としていては、信者が離れる一方である。それは、過ちの結婚であったと認める器量が必要になる。

イエスは、結局、結婚をするな。人は、一人で生きてゆく者だと、言いたかったのである。
一人に耐えられない人が、実に、宗教を好む。

イエスの言葉を言い直す。
神は、創造のはじめから、人を作った。その人は、区別と差別を好んだ。故に、男と女と区別した。男と女が結び合うのは、一時のこと。後は、それぞれ、一人で生きる者としてある。
と、なるのである。

子育ては、全く別の意味である。
それについては、いつか書く。

ちなみに、古代信仰は、太陽信仰と、大地信仰、そして、男根と、女陰信仰があった。
男根と、女陰は、豊穣の祈りと共にあった。
素晴らしい男根からは、男も女も、その気を貰った。
これ以上は、省略する。

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2007年07月31日

キリスト29

一人の人が、イエスに
「よい先生、永遠の生命をうけるために、私はどうしたらいいのでしょうか」とたずねた。
イエスは、かれをじっとみつめ、いつくしんで「あなたには一つだけ足りない。帰ってあなたのものものをみな売り、貧しい人々に与えよ。そうすれば、あなたは天に宝をつむだろう。それからわたしについてくるように」
その人は、そのことばをきいて心配し、悲しそうに去って行った。かれは、大金持ちだったからである。

そして。イエスは言う。
「金持ちが神の国にはいるのは、なんとむずかしいことだろう。」
弟子たちは、それを聞いて驚く。
イエスは言う。
「子供たちよ、神の国にはいるのは、実にむずかしいことだ。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」
弟子たちは、更に驚いた。
「すると、救われるのは、どんな人ですか」
イエスは言う。
「神にはおできにならないことはない」

当時、金持ちとは、神の祝福のゆえに、富を得ると考えていたから、弟子たちが驚いたのである。

その時、ペトロが、イエスに「ごらんのとおり、私たちは、すべてをすてて、あなたに従いました」といいだした。イエスは「実に私は言う。私のため、福音のために、家や兄弟や姉妹や母や父や田畑をすてる人は、今から、いや今、家、兄弟、姉妹、母、子、田畑の百倍をうけ、迫害もあろうけれど、またのちの世では、永遠の命をうける。しかし、先の人があとに、あとの人が先になることがある。」とおおせられた。

聖書解釈では、お金の使い方である等々と、述べるが、違う。
イエスの言葉、そのものズバリである。
金持ちが天の国に入るのは、らくだが針の穴を通るより、難しい。

所有しない者には、所有する者の気持ちは、解らない。
世界の金持ちは、子々孫々に至るまで、暮らせるようにと、金持ちである。金が金を生む。金持ちは、滅びることがない。

ここて゛、別の宗教の教祖を上げる。
天理教を開いた、中山みき、である。
施しで、家を潰した。徹底して、人を助けるという信仰である。
その神のレベルは、置いておく。
兎に角、中山みきは、身上潰すほどの施しで、一派を立てた。勿論、現在の天理教は、その逆である。信徒から、奪うことを良しとする。
信徒の家屋敷まで奪う。どうして、そうなったのか。それは、奉る神の正体である。
人を助けて、自分が助かるという、屁理屈を言う。
人を助けて、自分が沈没するとは、言わない。
大半が沈没する。

連帯保証人になって、皆、首吊りしている。

さて、捨てろというイエスの真意は何か。
それは、価値の転換である。
すべてを捨てて、私に着いて来なさいと言う。

昔の日本の女は、すべてを捨てて、男に着いて行った。その男の男振りにである。それ程、男に魅力があった。今は、どうか。
身長から、年収、その他諸々、最後に、チン長まで調べるようである。

ユダヤ教からの、価値の転換である。
富は、神の祝福を受けたと考える、また、教えた、ユダヤ教に対決するのである。

ある時、こずるい、ファリザイ人が、イエスにたずねる。
お金は、誰のものかと。
イエスは、そのコインの肖像は誰かと問う。
チェザルだと言う。すると、イエスは、チェザルのものはチェザルに、神のものは、神に返せと言う。

一世紀と、今の二十一世紀に大差はない。
地獄の沙汰も金次第という、ことわざがある。
都会では、黙っていても、金がかかる。
一に金、二に金、三に金、四、五がなくても、六に金である。

このイエスの言葉の問題は、解決していない。
ローマカトリックは、世界有数の金持ちである。
天の国には、入ることが出来ないのである。
あらっ、どうしょうと、思わないで、堂々と、ローマカトリック、福音宣教とやっているところは、甚だしく、厚顔無恥である。

ある、新興宗教の教祖は、幹部に言う。
30人、信者を作れ。そうすれば、生活が出来ると。
一人30人の信徒をもって、皆、生活をしているのが、宗教家である。それ以上になると、貯蓄である。

寺を見よ。
表面も、金を使う。本尊も金である。皆々、金まみれである。
どこに、仏陀の教えがあるのか。
驚くことは、僧侶も、金ぴかである。
袈裟から、帽子まで、金ぴかである。
口を開けば、先祖供養を言う。そして、金を集める。
商売でなくて何か。
イスエは、言う。
地獄に落ちろ、と。

宗教団体の信徒は、大半がアホだから、選挙の票になる。故に、政治家は、法律で、宗教を、特別視して上げる。宗教法人というから、笑う。
税金のかからない、商売法人と言えば、もっと、支持を集めるだろう。

私も、昔、知り合いの不動産業者から、「先生、ここだけの話、宗教法人付きの寺買わないかい」と誘われたことがある。
一度や二度ではない。
要するに、幽霊寺になってしまって、誰も手がつけられなくなったのである。
そのもの、ズバリ、幽霊が出る寺である。

住職の奥さんが相談に来て、寺に幽霊が出る、何とかして欲しいと言われたこともある。
こういうのを、空いた口が、塞がらないという。

キリスト教系の国の大金持ちになった人は、必ず、ボランティア活動、福祉活動、そして、公の奉仕をする。それは、このイエスの言葉が潜在的にあるからだ。

しかし、代々の金持ちは、そんなことをしない。
血の中に、所有欲の塊が入っている。容易なことでは、取り出せない。

しかし、貧乏人の中にも、その塊がある。
同じものである。
所有欲の塊である。

仏陀の弟子である、目連が、神通力を得た。そして、仏陀に言う。亡き母の姿を見たいと。三度、駄目だと言われる。しかし、四度目に、仏陀は、許す。
目連は、母が地獄で牛になり、引かれて苦しんでいる姿を見て、悲しみ、仏陀に言う。
「だから、見るなといったろう、馬鹿が。お前の母親は、施すということを一切しなかった。だから、地獄で、その心根を、叩き潰されている。しかし、アホならなー、それでも、解らないだろうなー」と、言ったかどうかは、解らないが、目連は、仏陀に、母のために、何か出来ないとたずねる。
仏陀は、そこで、「それなら、本当は、自業自得なんだけど、応援するというのは、どうか。地獄のおかあさんに、頑張れと言うのは」と言ったかどうか、知らないが、それから、盂蘭盆会が始まった。
先祖励まし大会である。
それが、日本に来て、日本の御親祭りに、便乗して、お盆を作り、寺が主導権を握った。汚い奴らである。
元々、日本にあった、先祖祭りである。

ちなみに、供養という言葉の意味は、尊敬すべき聖者をみなば、彼の人に供養せよ、である。つまり、生きている人、尊敬する人に、差し上げるものである。

正しい仏教の言い方にすると、回向という。また、慰霊という。
ちなみに、神道では、一切しない。
御親、みおや、奉りである。

死んでからも、世話をかけるな、アホと、私は言う。

もう一つの極めつけ、先祖供養というブッキョウの皆々、どこからが、先祖でしょうか。
あの、アフリカ東南部からの、先祖でしょうか。
それとも、30代まえくらいからのでしょうか。それでも、一億人になります。

先祖に祟られるならば、先祖を捨てればよい。
先祖と縁を切ればよい。

さて、イエスの言葉である。
捨てた後で、百倍になるという。
それが、嘘である。
聖書を書いたマルコの誤り。

百倍になるとか、ならないとかの話ではない。
そんな問題ではない。

報いを受けるということを前提にする、宗教のお話は、すべて、嘘、大嘘である。

そんな問題ではない。
それを語るに、もう、私のエネルギーがないので、以下、省略する。

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2007年10月06日

キリスト6

「種まく人が種をきまに出て行った。すると、まいているうちに、あるものは道端に落ち、鳥がきてそれを食べてしまった。あるものは土の薄い岩地に落ちた。そこは土が深くなかったので、すぐに芽は出したけれども、太陽が上がると焼けて、根がないために枯れてしまった。あるものはいばらの中に落ち、いばらが伸びてそれをおおいふさいだので、実を結ばなかった。他のものはよい土に落ち、伸びて大きくなり、実を結んで、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」
「聞く耳のある者は聞くがよい」

ここまで噛み砕いても、当時のユダヤ人は、改心などしなかったのである。
主イエスは、イザヤ書の一説を言う。
「彼らが見るには見るが認めないように、
聞くには聞くが悟らないように、
こうして改心してゆるされることのないように」
改心してゆるされることのないようにとは、実に、逆説である。

聖書解釈は、面白いことを言う。
イエスを認めないという悪で、善を引き出すというのだ。
結局、主イエスを神としたのは、当時の言葉で言えば、異邦人である。つまり、ユダヤ人ではない。
ユダヤの神としてのイエスをユダヤ人は、拒んだ。それにより、世界的宗教に発展したのだという説である。
ユダヤ人の悪により、イエスの神である善が、表出されたというのである。
それも良い。

「あなたたちはこのたとえ話がわからないのか。そんなことで、どうしてすべてのたとえ話がわかるだろうか。種まく人はみことばをまくのである。みことばがまかれた道ばたのものとは、こういう人たちのことである。すなわち、みことばを聞くと、すぐにサタンがきて、かれらのうちにまかれたみことばを取りさってしまう。岩地にまかれたものとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、かれらには根がなく、一時的なもので、後になってみるとみことばのために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人たちのことである。また、いばらの中にまかれたものとは、みことばを聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、またその他のいろいろな欲望が、かれらのうちにはいってきて、みことばをおおいふさぎ、実を結ばない人たちのことである。また、よい土にまかれたものとは、みことばを聞いて受け入れ、ある者は三十倍、ある者は六十倍、またある者は百倍の実を結ぶ人たちのことである。」

聖書研究の是非について、あるいは、正統、異端については、何の目安も無い。
仏教の経典などは、そういう意味では、論外であろう。誰も、その審議を見極められないのである。
これが正しいとは、誰も言えないのである。それを言うから、おかしい。

イエスの言葉は、実に、冷酷無残である。
世のクリスチャンが、どのレベルで、みことばを受け入れているのかは、歴然としている。
岩地に蒔かれたみことばが、今のキリスト教徒である。
それ以上にならない。

面白いのは、最初に道端に落ちたみことばである。サタンが来て、取り去るという。つまり、みことばなど、受け入れない人がいるということである。
三蔵法師玄奘が起こした、法相宗には、救われない者が確実にいるという教義が在る。実に、正しい。
日本仏教は、最澄から、山川草木皆仏という。そして、皆が確実に救われると説く。耳障りの良い言葉である。誰の心にも、仏が在るという。
人の心の仏を引き出すということでの、新興宗教の活性振りは、凄まじい。
嘘である。
仏の無い者もいる。確実にである。
イエスも、サタンを持ち出しているが、確実に救われない者がいることを言う。
人間に皆、神が宿ることはない。

神道系の霊的能力者であれば、それは常識である。
魔界転生の者がいるのである。

当時のユダヤ人は、サタンがきて、取り去ってしまうのである。
つまり、ユダヤ人とは、サタンのお友達である。
そんな中で、何故、あえて仰天する説教を繰り返したのか。殺されることは、必至である。
そこに、イエスキリストの存在意義がある。

ローマカトリックに代表される教団の前に、原始キリスト教の集団があった。
派閥である。しかし、一つの派閥が、支配者と結びついて、正統とされる。それがローマ教会である。
果たして、それでいいのか。とは、誰も考えない。思考停止にされた。それが中世の異端審判である。
異端を皆殺しにした。それで成った、教会である。
信じられるだろうか。
そして、権威を持つ。
壮大な建物を建てて、人の目を眩ませた。
法王は、権威をかさに、国王よりも、その支配力を行使するという暴挙に出る。
これは、このテーマではないので、以下省略する。

プロテスタントの一派に、聖書を、どのように解釈してもいい。皆、それぞれの解釈があっていいという宗派もある。聖書主義というが・・・

ここで言う、みことばとは、主イエスの言葉である。それは、主イエスである。
ここで、聖書解釈が、すべて教会に都合のようように解釈されることを言う。
以後、それについては、書く。

対照的に詔について言う。
みことのり、とは、天皇の言葉である。
それは、天皇が皇祖皇宗に代わって、述べる言葉である。
御言葉を、みことばというのだろう、みことばとは。
大和言葉では、命、みとこの、葉である。
命葉は、言の葉と同じである。
みこと、ば、と大和言葉では、分ける。
聖書のみことばは、み、ことばと分ける。
格段の違いがある。

みこと、とは、尊称である。神に対する尊称である。
言葉は、神であるという言霊の思想である。
あちらの、みことばは、主イエス自身のことである。神は、沈黙の存在である。言葉を発するのは、主イエスか、サタンである。
大和言葉は、言葉に尊称をつけて、みことばと言う。
音自体が神である。言葉に神格がある。

ここで、あちらが、言葉遊びの場所であることが解る。言葉で語りつくすということを、主にする。
また、語り尽くせると思い込むのである。
語れば語る程、空しくなることを知らない。
膨大な旧約聖書を見れば解る。

サタンが登場するが、サタンは、言葉の世界で活躍する。あちにの哲学、思想を見れば、一目瞭然である。そして、それゆえに、安心するという。
まだ、ギリシャ哲学の時代は、ソクラテスのように、多くを言葉にしない哲人がいたが・・・
そのギリシャ哲学の言葉は、ロゴスである。
聖書のみことばも、ロゴスと言われる。
ロゴスについて書くには、膨大な言葉が必要であるから、省略するが、キリスト教神学も、ギリシャ哲学より成るということを言う。

実は、そのギリシャ哲学も、イスラムから入ってきたものである。ギリシャからイスラム帝国へ、そして、ヨーロッパに戻ってきた。
イスラムを通してのギリシャ哲学であることを、加えておく。

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2007年10月10日

キリスト18

かれらが舟からあがると、人々はすぐにイエスをみとめ、その全地方をめぐって、イエスのおいでになるときいた所に、床のまま病人を運んできた。イエスがおいでになったところでは、村でも、町でも、部落でも、病人を広場において、お服の房にでもふれさせてくださいと願い、ふれた人々はみないやされた。

マルコ第6章の終わりである。
世界の宗教家、教祖で、これ程、奇跡をおこなった者は、いない。
理屈づくめとか、怪しいカリスマで人を惹きつけるが、奇跡を行って、惹きつけた人は、イエスのみである。

ただ今、日本でも、神霊治療として、病を癒すことを中心にしている宗教団体がある。

すべての病は、霊障であるとする。
霊の障りによって、病があるという。その障る霊を浄化することによって、霊も受けた人間の病も癒されると説く。

神霊というから、神からの力であろう。
それでは、イエスの力は、どこからのものか。
それも、神である。

さて、神と呼んでも、様々な神がいる。
勿論、キリスト教は、一神教を名乗っているゆえ、唯一神であろう。
神霊治療の神の名は、イエスの言う神の名と違う。
生長の家、創立者は、神に名は無いという。その通りである。
なんと呼んでも、その波動に合えば、感応するという。

空海も奇跡を行った。それは、インドの呪術である。マントラを唱えての加持祈祷である。
それで、働く、霊、神と呼ばれる存在がいる。

驚くべきは、人々は、服の房にでも触れれば、治ると信じたことである。
それ程、イエスの噂が広がっていたということである。

病人は、病気を治すことによって、治るのである。それ以外は、思想や哲学によって、病を通して、癒されもする。しかし、多くは、呻吟して生きる。
さて言う。
何故、治るのかという、言葉の理屈はない。ただ、信じる行為で治るのである。すると、暗示である、催眠であるとか云々と言う。
しかし、精神的病ならば、それも叶うが、肉体的病は、どうしようもない。イエスは、それも癒すのである。

除霊、浄霊の力がとてつもなく強力だったといえる。
単なる念力などというものではない。
次元を超えた力である。

人に憑く霊は、霊ではなく、幽霊、幽体が、大半である。
悪霊と言われる霊体になるためには、相当な年月が必要である。それも、霊力の一つである。

霊力も無いのに、あるかのように装うと、詐欺になる。大半の病気治しの霊能者は、その部類である。

イエスの霊能力を検証しても、悪霊の類ではない。
その比ではない。
実は、イエス自身が霊界の主なのである。イエス霊界の主である。
キリスト教霊界ではない。
そこに集うのは、旧約聖書の登場人物が多い。
モーゼや、預言者である。
ただし、旧約の神と名乗った存在との協調はない。
新しい存在としての神への、変更である。
裁きと、試しの神ではない。怒りの神ではない。
その神との決別を言う。
それが、愛の神である。

つまりそれは、戦いである。旧い神と、新しい神との、壮絶な戦いである。
新しい神は、イエスの守護霊、守護神である。
旧約の神々からの、離脱である。
そうしてみると、新約聖書が理解できるのである。

イエスは、旧約聖書の言葉を、時々用いての説教をする。特に、律法学士や、ファリサイ人である。
その言葉をもってしてでなければ、彼らは理解出来なかったのである。
それも、かろうじて、である。
ゆえに、多くたとえ話に頼った。
仏陀も、そうである。

たとえ話とは、解りやすくということである。
しかし、それさえも、理解出来ない人がいる。
縁がないのである。その教えというものに、縁が無い。

仏教経典、お経のはじめに、百千万劫にも、会い奉ること難し、という。
逢うことすら、難しであるから、その教えに逢うというのも、縁である。
縁が無ければ逢えない。

さて、たとえ話も、解釈によって、まちまちになる。
何が正しいのか、誰も知らない。
だから、勝手に解釈して、新興宗教を立てる。

甚だしいのは、イエスの生まれ変わりだという。
実に恐ろしい。それは、つまり、私は、悪霊ですと言うことと同じである。

輸血を拒否するというキリスト教系の宗教があるが、聖書解釈が出来ないゆえである。
時代錯誤という。
そのくせ、電気ガス水道は使う。
乗り物にも乗る。飛行機にも乗る。
添加物一杯の食べ物を食べる。
信じられないのである。

キリスト以前、おおよそ500年前、仏陀は、輸血を行っていたのである。
知らないというのは、恐ろしい。

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