2007年06月21日

キリスト16

イエスは、十二人をよんで、二人ずつ派遣し、汚れた霊を制する力をさずけ、旅をするために、杖以外のなにものももたず、パンも袋ももたず、帯の中に小銭も持たず、「サンダルをはきいけ。二枚の上着を着てはいけない」とお命じになり、そして「誰の家に行くにしても、出発するまでは、そこにとどまれ。ある所で、あなたたちをむかえず、あなたたちの話をきかないなら、そこを去って、かれらへの証拠として足のちりをはらえ」とおおせられた。
弟子たちは、くいあらためを、のべに行き、多くの悪魔をおい出し、油をぬって、おびただしい数の病人をなおした。

悪魔を追い出し、病を治す力を与えたという。
そして、問題は、くいあらため、を述べさせた。

新約聖書のテーマの一つは、天の国は近づいた、悔い改めよ、である。

悔い改めるとは、いかなることか。
キリスト教の教義は、それには、一切触れない。
ただ、罪人である。原罪を持つ人間である。キリストの十字架が、それを負った。ゆえに、洗礼を受けることと、言う。洗礼は、入信の証となる。

上記の教義は、人間の創作したものである。
それを、成して、教会という団体がある。

今、イエスは、キリスト教徒に言うであろう。
悔い改めよ、と。
お解りか。
当時の、ユダヤ教徒の、偽善的信仰を、悔い、そして、改めよというのである。つまり、それらは、皆、人間が作った、規則だからである。
キリスト教団も、今は、それと同じである。

ここで、私の霊学から言う。
悪魔を追い出す力とは、何かということである。
当時、悪魔が跋扈している時代だったといえる。悪魔が跋扈する時代と、地域であったということは、ユダヤ教自体が、悪魔の巣であったといえる。

話を転ずる。
アフリカから、奴隷として、アメリカに送られた黒人たちが、唯一の救いとして、キリストを頼りにした。彼らの信仰は、実に、純粋で正しい。ゴスペルという歌を聴けば、それが、よく解る。
しかし、彼らを奴隷として、酷使した人間、白人も、キリスト教徒である。
だが、彼らがしたことは、悪魔的行為であろう。
要するに、何一つとして、白人のキリスト教徒は、キリストの教えを知らないのである。
キリストの教えではなく、人間が作った教会というものの、教えに従う。

私は、多くのカトリックの司祭、そして、プロテスタントの牧師を知る。だが、彼らは、キリストの教えを知らない。教会の教えを知っている。
愕然とする。
勝手に、教会を作られるプロテスタントの牧師もどきには、呆れて言葉も無い。
汚れた霊を、収めることも出来ず、病を癒すことも出来ずにいる様は、哀れである。そして、主の云々というから、笑う。大いに、笑う。

まずもって、悪魔を追い出すという行為からして、実は、おかしい。
仏教では、不成仏霊は、回向して、浄化する。最低でも、である。
悪魔と、神を対立させるということ自体に、非常に問題がある。

妄信、狂信、誤信の信仰を持っての、クリスチャンであるから、救われない。
キリストの十字架によって、救われるというのは、無い。
手前勝手な解釈であることを、知らない。

悔い改めるとは、神の国とその義を求め、互いに愛することを言う。
神の国とは、自分の心に従うことである。
これについては、いずれ書く。

この世は、地獄である。
悪魔が支配して当然である。
欲望までも悪魔の技と言うから、話にならない。
それでは、生きるということは、何かと問う。
断食して、死ぬべきであろう、キリスト教徒は。
しかし、平然として、肉を食らい、人種差別をして憚らない。どこに、悔い改めがあるのか。

日本人が、キリスト教を理解するのは、至難の業である。
ゆえに、日本人が、キリスト教徒になることは、至難の業である。
キリシタン弾圧の時に、殉教したという、キリシタンが、キリスト教を理解していたとは、思われない。
勝手な解釈、思い込みであろう。

信仰とは、神道である。
戦後、アメリカの占領政策で、神社を回った。その信仰に問題があるのではないかとの疑いである。当然である。自分たちの宗教は、戦争をする宗教である。
しかし、彼らは、愕然とした。
神主は、ただ御幣を振るだけで、何も語らずいる。
式だけがあり、特別な教義も無い。
皆、拍手を打ち、頭を下げて終わりである。
拍子抜けしたという。

そして、ご神体である。
山川草木であるから、また、驚いた。
ただ、石が置かれてある社もある。
神道は、偶像崇拝ではない。
太陽信仰である。つまり、自然崇拝である。

あの素晴らしい仏陀の教え、慈悲の思想が壊滅したのは、ひとえに偶像を作ったからである。それを、美術品として、評価するのは、理解するが、仏教の堕落は、仏像、寺院に、凝り過ぎたのである。
イスラムに、根こそぎ破壊された。
以下、省略する。



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2007年06月24日

キリスト12

イエスは、古里、ナザレに入った。
そこで、安息日になり、会堂で教え始めた。それを聞いた人々は
「この人は、どういうことを授かったのだろう。かれは大工ではないか。マリアの子、またヤコブ、ヨセフ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。そしてまた、かれの姉妹たちは、わたしたちといっしょにここにいるではないか」こうしてかれらはイエスを理解しようとしなかった。それで、イエスはかれらに「預言者が尊敬されないのは、郷里、親族の間、またその家においてだけである」と仰せられた。

そこでは数人の病人に手を置いて、かれらをなおされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことができなかった。そして、かれらの不信仰に驚かれた。

自分たちと同じ者が、どうして神の子であるのか・・・
自分たちと同じ地域の、親族の者が、どうして神の子であるのか・・・

不思議なもので、人は、自分の量りでしか計れない。それ以上になると、理解不能、または、それを、つまり自分以上に才能がある、優れていると思うと、嫉妬する。甚だしい場合は、排斥するのである。

ここで、面白いのは、奇跡を行うことができなかったということである。
奇跡のエネルギーが、極度に落ちるのである。
信じるという力が、いかに強いものかが、解る。

不信仰に驚かれたというのは、見抜く力が無いということである。
イエスは、もはや皆が知るところのイエスではない。別なイエスになっていたのである。それを、見抜くことが出来ないのは、自分たちの身内だという、曇りである。

これで解ることは、人間は、ある年齢からは、成長しないものだということである。余程、毎日を学ぶ繰り返しをしていなければ、人間は、ある年齢から、成長が止まる。
ただ、年を取るだけである。
人によって、10年という年月が違うのである。
容姿は、10前と変わらなくても、内的、心理的状況は変化する。それを、見抜く人、見抜けない人がいる。

イエスの内的変化を見抜くことが出来ない、それを、不信仰だとイエスは言う。
それはまた、危機意識皆無なのである。
勿論、誇大妄想の、とんでもない人物も現れる。
だが、見ても信じないのである。
イエスの奇跡も、郷里では、奇跡にならなかった。単なる病気治しである。

そのほかには何も奇跡を行うことができなかった。と、ある。
行うことが出来ないほど、皆、愚鈍だった。

ここで面白いことは、母マリアの名は出るが、父ヨゼフの名は出ない。すでに、亡くなっていたということだと、聖書解釈はいう。
イエスの宣教は、30歳から、三年間であるから、早く亡くなっていたといことだ。
聖書には、父ヨゼフの存在が、実に希薄である。
何故か。
役割として、嵌るところがない。
イエス誕生の場面にだけ出る。
まして、マリアは、処女降誕である。それをヨゼフは、受け入れた。

ヨゼフの最大の役割は、家系である。
アブラハム、ダビデからの家系にある。
ヨゼフがその子孫である。
母マリアの家系ではない。父ヨゼフの家系が、ダビデの家系である。
アブラハムからダビデまで、14代、ダビデからバビロンへの移住まで、14代、バビロンへ移されてから、イエスまで、14代である。
その子孫である、ヨゼフの存在が必要だった。

しかし、果たして、それが必要だったのか。
その家系から、救世主が現れる。それがシナリオだった。
しかし、確かめる術はない。ただ、信じるしかない。

イエスには、兄弟がいたのであるから、今も、それらの子孫はいるということになる。
だが、イエスで、その家系は絶えた。
以後、語られることはない。
それは、家系の完成だからだ。イエスによって、アブラハムの家系は完成した。

アブラハムの家系を辿ると、ノアに行き着く。そして、更に辿ると、アダムに行き着く。
聖書の創世記の最初の人である。

創世記には、地上に人が増えて、悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを見て、神が、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛めて、言われた。
「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけではなく、家畜も這うものも、空の鳥も。わたしはこれらのものを造ったことを後悔する」
そして、ノアの箱舟の話となる。
全知全能の神が後悔した・・・
さて、教会は、何と答える。

この話は、次に続ける。

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2007年06月25日

キリスト13

天地創造の神が、それを後悔するという図は、笑える。
全知全能でもなんでもない。人間と同じである。

地上に人の悪が増しということは、どういうことであるのか。
つまり、神を拝まないということであろう。
それが、人格神たるゆえんである。

天地創造から、進化論との戦いが、今でも行われているが、古神道から見れば、また、真っ当な霊能者から見れば、真実は、明白である。

人類発生は、一面的ではない。
まず、進化論である。その通り、進化論で出来た人間もいる。
天地創造で、造られた人間もいる。
そして、ギリシャアに代表される、地球外惑星から、降り立った人類もいる。

進化論のアメーバーは、イザナギの命と、イザナミの命の最初の子である、ヒルコが、障害を持って生まれた、アメーバーである。それを、海に流した。辿りついたところが、今のアフリカであろう。

天地創造で造られた人間は、旧約の神々の、つまり、彼らはアンドロイドであるから、この地球に、自分たちに似せた人間を造ったのである。
われわれに似せてという、言葉通りである。

さて、日本人は、アメーバーから進化した人間と、天孫降臨した高天原霊界からの霊人とのハーフということになる。

旧約聖書の天地創造は、たかだか、一万年程前を言う。
日本列島が、大陸から、離れたのは、一万二千年程前である。
ただ今、人類の歴史は、どの程度のものであろう。

実に、しかし、旧約聖書の創世記は、アフリカの言い伝えからの借用であり、それを、イスラエルの民に、結びつけたものである。
選ばれた民、イスラエルの民と壮大なドラマに仕立てたのである。

ノアの箱舟で、生き残った者に、神は「生めよ増やせよ地に満ちよ」と言う。そして、その通りになった。
イスラエルの民どころではない。
セム族といわれる民は、メソポタミア文明を築き、後のイスラム帝国までに至る。

旧約聖書がイスラムの聖典でもある訳である。

出エジプト記で、モーゼが、あなたたちの先祖の神であるという、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神から、啓示を受ける。
主なる神はモーゼに言う。
「さあ、行って、イスラエルの長老たちを集め、言うがよい。「あなたたちの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主がわたしに現れて、こう言われた。わたしはあなたたちを顧み、あなたたちがエジプトで受けてきた仕打ちをつぶさに見た。あなたたちを苦しみのエジプトから、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む乳と蜜の流れる土地へ導き上ろうと決したした」と。
ここから、イスラエルの民の放浪が始まる。

簡単に言う。
主なる神は、先住の人の地に行き、そこを与えると。
恐ろしい囁きである。

ユダヤの12支族という言葉がある。
昔、日本も、その一つだというアホがいた。
それらは、選ばれた民であるという。

旧約の神は、アフリカのある一部の地霊である。
唯一絶対の神ではない。
多くの地霊の一つである。

その流れの中にある、イエスキリストの教えであること、重々考慮せよ。

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2007年06月26日

キリスト14

私は、キリストの絶唱を書いているのであり、キリスト教を書いているのではない。

信仰とは、極めて個人的な情緒である。
それを犯すことは、何人も出来ない。
ただし、信仰にも、八方位の広がりがある。

宗教というものを辿れば、行き着くのは、太陽信仰である。
あらゆる地域に太陽信仰があった。
当然である。太陽が無くなれば、すべは死滅する。実に、真っ当な信仰である。
その時の信仰は、拝むという行為である。崇拝するという単純な行為が、信仰であった。
日蝕があれば、この世の終わりを思った。
何という素直さであろう。
そして、自分たちのあり方を反省した。

さて、現在、キリスト教とは、ローマカトリック、そして、プロテスタントに、大きく分けられる。
勿論、キリスト教の新興宗教は、数多くある。特に、それらは、プロテスタントから派生した。
エホバの証人などは、日本でも有名になった。輸血を拒否するということで。

ローマカトリックの前身は、アタナシウス派である。三位一体を掲げる。
それが、皇帝と結び、ローマの国教となり、保護された。
異端とされたのは、アリウス派であり、ネストリウス派である。しかし、まだ、派閥はあった。

プロテスタントは、ドイツ人ルターによって、起こされる。
その運動は、新しいキリスト教を多く生むことになる。
カルバン派も、その一つであり、その思想は、哲学者をも動かした。

現在、プロテスタントは、日本キリスト教団として、活動しているが、それに加わらない団体もある。
プロテスタントが、正統プロテスタントと名乗るから、おかしい。
要するに、モルモン教や、エホバの証人とは、違う。また、新しいキリスト教とは、違うということを言うのである。

いずれにせよ、彼らは、旧約聖書の神、アフリカの土霊を神として、それも唯一神として、伝道する。
ユダヤ人は、それがユダヤの神であるという。民族神に仕立てたのである。
また、イスラムも、旧約聖書の神をいう。

私の霊学から言えば、神といわれる存在の想念は、土地の生きた人の霊体の塊であること多々あり。
土霊という意味である。
ユングが言う、民族の集合意識である。
ただし、それを神と定義すればである。
霊学からは、神は、無いといえる。
一番近い言葉で言えば、命と言える。すべてのエネルギーの元である、命、大和言葉では、いのち、と書いた方がよい。
大命、おおいなるいのち、となる。

日本で言う神は、尊称である。
ゆえに、尊、命とも書く。みこと、と読ませて、神とする。

日本には、欧米人が言う神、キリスト教諸派が言うところの、神観念は無い。
これを、ゆめゆめ誤ってはならない。
日本には、神不在であるから、云々という、耳障りの良い言葉に誤魔化されないことである。
日本には、欧米人が言う、神観念は、必要無い。
神観念が無いから、大和魂という、おおいなる、やわらぎの、たま、があるのである。
たま、とは、心と捕らえていい。

大和言葉の、たま、について言う。
たは、手のことである。まは、間のことである。たまとは、手の手の間である。つまり、収穫したものを、分配するという意味である。それが、たまの、意味である。
魂というのは、分配を言う。
そして、分配される集団の心を、総称して、魂という。
これ、明確である。

欧米で言う、スピリットとは、霊とか、魂も含めるが、聖霊という場合もある。
また、精霊である。
目に見えない働きである。
しかし、彼らは、そのスピリットを神と思い込むが、神は無いのであるから、神もどき、あるいは、神に似たもの、そして、とんでもない霊の集団の場合、多々あり。スピリットは、神聖なものではない。つまり、正しいものではない場合、多々あり。端的に言えば、悪霊である。それをも、スピリットと言う。
悪霊とは、何か。キリスト教では、神に対立するもの、神から人間を切り離すものとしているが、実は、この世を支配している場合、多々あり。
だから、悪霊というより、この世の支配霊といった方がよい。

キリストが、悪霊祓いをする。
それは、霊界に行かずに、この世の次元を住処とする霊である。大半が、霊の塊になっているから、強力である。
仏教的に言えば、不成仏霊である。
ただし、成仏というのも、不明瞭である。成仏とは、仏になるということであるから、往生と言う方が当たっている。
成仏せずとも、往生すればよい。
往生霊とでも言う。

さて、多く宗教は、この世の支配霊に、支配されていること多々あり。それを、神と勘違いしている。それだけのこと。

主イエスは、私の国は天にありと、この世の政治とは、関わることがなかった。それが、イエスキリストの真実である。
故に、政治と関わるキリスト教は、皆々、贋物である。

主イエスは、人の心に抱く、心的状態を言うのである。
つまり、生きることの主体は、私であるということ。それを、総称して、信仰と言った。信仰薄い人々よと言うのは、私の心に従う私を、促したのである。
簡単に言えば、主体性である。
主イエスの説教は、すべて、方便である。

キリストの最大の教えは、神の国と、その義を求めること。そのためには、私があなたたちを愛したように、互いに愛し合うことであるという。
簡単に言う。
人は一人では生きなれない。人は人と人の関わりで生きる。
当時は、血族社会である。別の血族の者は、別の者である。新しい時代は、それでは生きられない。故に、血族を超えて愛し合うことを言う。
これ、キリストの最大の教えである。
世界的宗教になることは、愛し合うということでは、実に有意義なことである。
しかし、現実は、どうであろうか。
キリスト教徒は、愛のイエスの教えを、破棄している。
これが、現実である。
イエスキリストの教えは、今も続いている。
今も、イエスは、語りかけている。


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2007年06月28日

キリスト16

イエスの教えを聞いた多くの人を去らせようとした弟子たちにイエスは言う。
「パンがいくつあるか見てきなさい」かれらはそれを調べてきて、「五つあります。それにさかなが二匹です」と言った。イエスはみんなを組に分けて青草の上にすわらせるように、弟子たちにお命じになった。人々は百人ずつ、あるいは五十人ずつまとまってすわった。
イエスは五つのパンと二匹のさかなを手に取り、天を仰ぎ、賛美をささげてパンをさき、弟子たちに渡してみんなに配らせ、また二匹のさかなもみんなに分け与えられた。
みんなは満腹するまで食べた。そして残ったパンとさかなを拾い集めると、十二のざるいっぱいになった。パンを食べた人は男五千人であった。

青草の上とあるから、春である。
聖書研究は、パンの奇跡を、聖体の秘跡と捉える。教会のミサの聖体である。
勝手な解釈である。

食べ物は、命に象徴される。
人はパンのみによらず、神の言葉によると言うイエスは、パンが命の糧であることを示している。
食べなければ人は死ぬ。

パンを食べた人は男五千人という。女は数に入らない。
この奇跡の意味を教会の教義上で考えると、何も解らない。

これは、イエスが言うところの天の国の有様である。

天の国、つまり、霊界の有様をいう。
この世、この次元では、物質は、あるものだけである。しかし、霊界は、想念の世界であるから、物質に似せた物は、いくらでも増える。というより、思えば、何でも目の前に現れる世界である。
イエスは、大衆を異次元の世界に誘導したのである。

青草の生える、その場の霊界にイエスは大衆を次元移動した。
これが真相である。

科学的な言い方を好む人には、集団催眠だと言う。
しかし、残ったパンは、どうだろうか。
聖書には、その後のことは、何も書いていない。
群集に上げたのか・・・
弟子たちが、もって行ったとは、書かれていない。

霊界からの物を、この次元に持ち込むことが出来る。
四国の神道家、宮地という方は、生きながら霊界に出入りして、霊界の物を持ってきている。

聖書を読み込むためには、霊学が必要である。
奇跡は無かっただの、神学的に云々だの、教会の手前勝手な教義にこじつけるた解釈は、無いも同然である。

キリストの目になって、読み込むことである。
とすると、大変な霊界能力者であったといえる。
まさに、神の子といってよい。

新興宗教の教祖には、奇跡的な話がつき物であるが、イエス以上の力のある者は、皆無である。
ただし、イエス以前、500年前には、インドに仏陀が現れている。
この二人を持って、以後の宗教の根本が出来た。
イスラムのムハンマドは、別物である。

「それから、イエスは、すぐに弟子たちを舟にのせ、ご自分が人々を帰らせている間に、向かいのベトサイドのほうに、先に行けとお命じになった。人々を去らせてのちイエスは、祈るために山にいかれた。」
私は、感動するのである。
矢張り、弟子たちは、残りのパンを持たなかった。
そして、イエスは、祈るために、山にいかれたとある。
ここに、重大な秘密がある。

イエスは祈るために山に行くのである。
天地が滅びても、私の言葉は滅ぶことなしと言う、イエスが祈る。
イエスの祈りとは、どんなものだったのか。

大和言葉では、いのり、とは、い、のり、と分けられる。
イとは、受け入れるという意味。
のりとは、宣ることである。
まず、天地の神々を受け入れて、彼らに宣るのである。
宣るとは、述べるのである。何をか。言葉である。
その言葉は、言霊であり、神である。神に向かい、言葉である神を宣る。
祈りとは、呼応である。

しかし、仏陀、イエスの祈りとは、瞑想を言う。
この瞑想とは、何か。
沈黙のうちに宿る思い。それが、宇宙とつながるという人もいる。

実は、誰もが、無意識に瞑想を行っていることに気づかない。その程度の差はあれ、瞑想しているのである。
これを説明するには、多くの言葉が必要なため、省略する。

いずれ、ゲッセマニの祈りで、イエスの祈りを観ることにする。

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2007年06月30日

キリスト17

夕暮れになり、舟は海の中央にいたが、イエスだけは陸に残っておられた。
逆風が吹いたので、弟子たちが舟をこぎなやんでいるのをごらんになったイエスは、朝の三時ごろ、海の上を歩いて彼らのほうにきて、行き過ぎようとされた。
海の上を歩いておられるイエスを見て、弟子たちは、幽霊だと思って大声に叫んだ。みな、それを見ておびえたのである。イエスは、すぐ、かれらに、「安心せよ、私だ、恐れるな」とおおせられ、弟子たちとともに舟にお乗りになると、風はやんだ。かれらは心中大いにおどろいた。かれらは、まだパンのことを悟らず、その心は閉ざされていたからである。

パンの奇跡を弟子たちが、悟らなかったというのである。
海の上を歩くということも、奇跡である。

最も古い信頼できるマルコの福音書には、このような奇跡の場面が実に多い。
以前にも書いたが、奇跡は無かったと簡単に言う聖書研究、聖書学者等々、聖書を食い物にする輩が多いが、聖書の、イエスの奇跡は、無かったとする、イエスに対する無礼である。

あり得ないことはない。と、簡単に考える程度が、科学万能時代である。そして、聖書解釈の、勝手な思い込みである。
イエスに奇跡が無ければ、新約聖書の存在は、半減する。
その説教にも、迫力が欠ける。

弟子たちにも、悪霊を祓う力を与えた。
要するに、イエスの奇跡を認めると、今、イエスの弟子である、奇跡の起こせない者どもが、困るのである。
今、イエスの弟子とは、誰か。
ローマ法王に連なる、カトリック司祭、そして、プロテスタントの牧師面々である。

糞の役にも立たない、空虚な言葉による説教のみで、信者から搾取する様は、実に、哀れである。
良いことは、神の恵み、悪いことは、試練であるという。
嘘である。
すべては、自業自得、因果応報である。

キリスト教徒の面々は、平気で、言葉遊びをして、信仰と勘違いする。
私も、数えられない程、そういう多くの信者を見てきた。

奇跡の記述は、イエスの神格を表現するための、方便だと言うとは、恐れ入る。
私は言う。
イエスは、奇跡を行った。
方便ではない。現実的に、奇跡を行ったのである。

しかし、当時の弟子たちのように、奇跡を見ても、何も感じないという状態である。

イエスの弟子である、ヨハネの福音書にも、水の上を歩くという奇跡が書かれている。
「イエスが海の上を歩いて舟に近づいてきた。かれらはこれを見て恐れた。イエスは言った、「わたしだ。恐れることはない」かれらはイエスを舟に乗せようとした。すると、舟はただちにかれらの目ざす陸地に着いた」

ここでは、イエスを舟に乗せようとしたが、舟に乗らずに、ただちに陸地に着いたという。

ヨハネは、イエスの精神性を重んじたゆえの福音書を書いた。
他の、ルカ、マタイ、そしてマルコとは、別の角度からイエスを見ている。
それでさえも、奇跡を証明するのである。

イエスは、多次元を生きていた。それゆえ、奇跡は、何の不思議も無い。
この次元と、あの次元である。
簡単に言う。
三次元と、四次元である。そして、時に、五次元までに至った。
死後に復活して、弟子たちと、会話しているのは、幽体である。つまり、生きながらも、幽体を使用したのである。

そして時に、弟子たちを四次元の空間に連れて、説教をしている。

虫の世界から、人間の世界を理解出来ないように、人間の世界から、上の次元の世界を理解出来ない。しかし、理解出来ないから、無いのではない。知らないのである。知らないものを無いと言うことは、出来ない。
私は言う。
知らないものも在るのである。
それを、理解して、謙虚という姿勢がある。

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2007年07月01日

キリスト19

キリスト教には、聖書主義という、考え方がある。
それは、プロテスタントから出た。
簡単に言えば、聖書解釈である。どのように解釈しても、良いのである。勿論、それぞれの派閥には、それぞれの教義がある。
しかし、結果、その本人の聖書の読み込みを許すのである。

伊勢神宮に参拝した折に、一冊の雑誌を手にした。
生命の光という雑誌である。
キリストの幕屋という団体である。

その雑誌の最後のページにある言葉に、佇んだ。

我らの信条、とある。
我らは、日本の精神的荒廃を嘆き、大和魂の振起を願う。
我らは、日本人の心に宗教の復興を願い、原始福音の再興を祈る。
我らは、無教会主義に立つ。従っていかなる教会、教派にも属せず、作らず、ただ旧新約聖書に学ぶものである。
我らは、キリスト教の純化を願うが、日本の他の諸宗教を愛し、祖師たちの人格を崇敬するものである。
我らは、政党、政派を超越して、愛と善意と平和をもって、日本社会の聖化を期し、社会正義と人間愛を宣揚するものである。

実に素晴らしい。と言う。
しかし、これも、キリスト教の一派であり、新興宗教である。

最後に、キリストは言いたもう、
すべて労する者、重荷を負う者、われに来たれ、われ汝らを休ません。
と、ある。

信仰とは、素晴らしいものである。
信じる行為によって、救われる、つまり、気が楽になる。

霊界には、段階がある。
そして、宗教にも、段階がある。
皆、それぞれの宗教は、己が一番、高い段階にあると信じる。
私は、それでよいと思う。
信仰は、情緒であり、何人も、それを犯すことは出来ない。

最初の言葉、日本の精神的荒廃を嘆きということは、日本の精神が荒廃していると、認識するのである。

私は、日本の精神が荒廃しているとは、思わない。
もし、それならば、いつも、日本の精神は荒廃しているのであろう。
日本人の精神が荒廃していると、認識するのである。
であれば、彼らの精神も荒廃に晒されているのであろう。

言葉遊びは避けるが、原始福音とは、何か。
福音は、原始ではない。
それならば、イエス生存の時であろう。
原始福音というのは、妄想である。
もしくは、原始キリスト教ということか。

キリスト教の純化を願うということは、絶対、唯一神を願うということであり、キリスト教の神を知らないといえる。つまり、想像の神を、聖書の神とするということである。

他の宗教を愛せないから、キリスト教である。
手島何某という方が始められた活動である。つまり、手島教である。
それを、キリスト教に結びつけたのである。
要するに、オリジナルを想像出来ず、イエスキリストと、聖書を持って、新興宗教を作ったのである。

愛と善意と平和をもって、日本社会の聖化を期しというが、何を持って聖化というのか。
聖化ということ自体に、無理がある。
キリスト教の神によって、聖化されるというのだろうが、あの神は、土霊である。聖化も何も、そんな力は無い。
あの地域のみに通用するものである。

聖化とは、何か。
迷いである。
誰が、何を聖化するのか。

勿論、私は、信者の一人も否定しない。
それにより、心安らかならば、何をかいわんやである。

もう一つ言う。
社会正義とは、何か。
正義にも、多々ある。
何を持って、正義と言うのか。
自分たちは、正義であると思い込むのである。その辺りは、白人の考え方と変わらない。要するに、聖書を信じる私たちが正義であり、他は、正義にあらずである。
白人は、そうして、色着き人間を徹底的に、差別し、殺したのである。

スペインが、アメリカ大陸で、キリスト教、カトリックの名の元に殺した数は、一億人である。それを、知っているのか。

アホも、いい加減にせよ。

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2007年07月02日

キリスト21

「あなたがたはみな、わたしの言うのを聞いて悟りなさい。外から人の中に入ってきて人を汚すことのできるものは何一つない。人の中から出てきくるものが人を汚すのである。」

「「人から出てくるもの、それが人を汚すのである。内部、すなわち人の心の中から邪念が出る。姦淫、盗み、殺人、姦通、貪欲、悪行、詐欺、卑猥、ねたみ、そしり、高慢、愚かさなど、これらの悪はすべて内部から出て、人を汚すのである。」

我がうちから我を汚すものが出るという。
おもしろいことに、イエスの口から、罪という言葉で出るものは、そういうものであり、教会が教義とする、原罪という言葉は、出ないのである。

生まれ持った罪を原罪として、認識するという驚きである。
それが、カトリック、プロテスタント問わず、言う。
生まれながらの罪、原罪である。

その原罪をイエスの十字架が取り成して、無くするというのが、原罪の教義である。
人の作った、教えである。

生まれながらに罪人であるという意識は、親鸞にも、あった。
地獄が住処の自分が、救われるのは、ただ、弥陀の本願に、頼る、絶対的に頼るしかないというものである。
これは、一種の病である。

罪悪感。
太宰治の「生まれて済みません」ではないだろうが。

キェルケゴールの、死に至る病、それは、不安。
つきまとう不安感。それを、原罪とする。
確かに、生きるということは、毎日、断崖絶壁の前にいるようなものである。
それを意識すると、不安になる。意識しないと、散漫になる。

カトリックの洗礼を受けた高校生だった私は、多くの宗教の集いに参加した。
キリスト教関係の集いは、必ず、あなたは、罪人ですというものだった。
原罪のことを言うのであろうが、いきなり、あなたは、罪人ですという、その傲慢に辟易した。
洗礼を受けることによって、その原罪が消えるというものであるから、笑う。
入信すれば、許されるというものである。

上記、イエスの、邪念に、姦淫、姦通というものがある。要するに、セックスである。結婚していない男女のセックスは、すべて、これに当たる。
盗み、殺人、詐欺という、悪行は、行動である。
内面的な状態である、卑猥、ねたみ、そしり、高慢、愚かさ。
皆、人間の自然な感情である。
その自然な感情を邪念という。

近代法の出来る前は、宗教的、規範が法律の代わりとしてあった。
当時の大罪は、不敬罪である。神への冒涜である。
神の子イエスも、最後は、神への冒涜で、十字架にかけられた。

イエスの説教を、どの次元で聞くかということで、解釈が様々になる。

この説教によれば、生きるということは、邪念を生きるということである。誰も、上記の言うことから、逃れられないのである。
しかし、クリスチャンは、自分たちは、救われていると思い込むのである。洗礼を受けているから。
教会には、罪人のみ集うのである。

宗教的暴力である。
人を支配するためには、とっても良い説教である。
罪を犯さない人は、いない。

邪念を持つなということは、生きるな、ということである。

宗教の暴力は、人間の一番弱いところを、支配し、それによって、従わせるのである。

人間の基本的欲望を支配するという。
特に、性欲は、最も、支配しやすい。それの皆無の人はいない。

イエスは、後に、旧約のセックスのあり方を正す。一夫一婦制である。旧約は、一夫多妻である。日本流に言えば、側室を持ってもいいのだが、イエスは、それを禁止する。
それのみか、離婚を禁じるのである。
離婚した者と、セックスをするのは、姦通に当たるという。
仏陀も、セックスには、厳しく対処した。
修行僧には、絶対に、女の膣にペニスを入れるなと、厳命している。

人間の一番弱いところを、支配して、成り立つのが、宗教というものなのであろう。

ある新興宗教の教祖は、弟子たちに、セックス禁止、マスターベーションも禁止して、自分は、女弟子たちと、セックス三昧だったというから、笑う。

イエス当時のセックスは、姦淫、姦通の大盛りの時期である。勿論、今も、そうである。
それから逃れられないのか人間でもあると言う。
マスターベーションも罪とするのであるから、拷問である。
それを禁止して、真に受けた少年、青年が、多くノイローゼになったのを、私は、多くみた。真面目に掟を守り、性欲を我慢するのである。
性欲とは、自然である。
自然を自然に扱うべきである。
それさえも、罪にするという、宗教の掟の、暴力を私は、裁くものである。

独身であるカトリックの司祭が、女と交わることを、私は、知っている。勿論、内密である。すべての司祭ではない。また、特に、アメリカでは、司祭にゲイが多いのも、事実である。性的虐待を受けた少年たちに、訴えられている司祭もいる。
牧師も、売春婦を買う。

しかし、誰も彼らを裁くことは、できない。
皆々、そのレベルでは、同じである。

日本仏教の僧などは、終わっている。
一般の人より、激しい性欲であるから、笑う。

仏陀と、イエスの性欲に関するものを、徹底的に調べることも、彼らの思想を知る手立てになる。
イエスは、できれば、人は、一人で生きた方がよいという。独身である。何故か。
仏陀の最初のサンガには、女は入ることが出来なかった。
そして、矢張り、独身を生きる。

霊学として、考える。
女の膣は、子供が通る産道である。と、共に、霊界の入り口にもなる。
女が、霊に感応しやすい訳である。
体の中に、霊界の入り口を持つ女は、男と違う。体質が違う。

男が、仏陀やイエスの言葉を生きれば、人類は、消滅する。
しかし、決して、そんなことにはならない。そこまで意識の高い男の数は少ないからである。

セックスとは、何か。
実は、雄と雌という区分けが出来た歴史は、浅い。それ以前は、長い間、分裂によって、数を増やしていた。
雄、雌の区分けも、進化であろう。

同じもの、ホモによって、命は、つないできた。クローンというのは、それへの回帰であろう。

複雑になるということは、弱体化したといえる。

これから、セックスをせずとも、子供が作られる時代になる。
それでは、セックスとは、何か。進化の一つの過程である。
いずれ、進化により、人間の性欲が、基本的欲望ではなくなる。それに、鑑みて言えば、セックスは、ボディランゲージ、体の会話という役割になる。
それは、性差を超える。

仏陀もイエスの教えも、古い教えになる。
その頃になると、人類は、宇宙へ旅立つ。

勿論、神や仏という、妄想も無くなる。

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今更何を言う

今更、何を言う。

久間防衛相の言葉を取り上げて言う、者どもである。

「日本が負けると解っているのに、あえて広島と長崎に原爆を落とした。長崎に落とすことで、日本が降参し、ソ連の参戦を止めることができると思ってやった」と指摘する。
「アメリカを恨むつもりはない」とも言う。

何が、問題なのか。

野党は、これをもって、云々いうが、それならば、何故、アメリカに謝罪させないのか。戦後60年を経ても、謝罪はするが、アメリカに謝罪させないのである。
「勝ち戦とわかっている時に、原爆まで使う必要があったかどうか」と言うのである。
そして「国際情勢、戦後の占領状態などからすると、そういう選択肢もあり得ることも頭に入れながら考える」
どこに問題があるのか。

原爆を落とすことは、駄目。間違っていると言えば、原爆は引っ込むのか。
アホらし。
すでに、原爆を落とされているのである。
過去である。

戦争時に、何があってもおかしくない。それが戦争である。
普通の人も、普通でなくなる。
善人も鬼になる。
それが、戦争だろう。

見よ、至るところの紛争、戦争を。
通常ではない。

今回の国会を見ても、国民のためを考えての行動とは、思えないのが、野党である。
何なのか。
さもさもしく、内閣不信任案、閣僚の問責決議案などを出して、朝の三時までかかって、結局、与党の改革案に修了である。
国民の支持をそれで得られると、思っているならば、死んだほうが良い。
自害して果てるべし。
共産党の党首は、アホ馬鹿振りである。
選挙演説に、「年金問題の解決には、党利党略ではなく、与野党協力して知恵を出し合って国民の利益第一で」というが、お前が、そういう者だろう。自分のことを言うのである。
いつも、協力せず、反対だけを言うのが、お前だろう。

アメリカ人の先祖を知っているのか。
白人の野蛮な者どもである。
アメリカインディアン等、原住民を皆殺しにしたのである。
スペインだけでも、一億人を殺している。
色つき人間は、人間ではないのである。
原爆など、落とす必要などなかった。あれは、試しである。原爆の威力を試す絶好のチャンスだった。死ぬのは、日本人である。どうでもいい。

そういう者どもである。
以下省略。

鳩山さんも、耄碌したのか、「内閣支持率が下がったため、政府は焦りの中で解決策を示した」と言うが、民主党の改革案が、あれである。
マスコミが言うような分析をして、どうする。
危機意識皆無である。
自分は、年金などに頼らなくてもいいだけの財産がある。

自民が嫌でも、民主は、頼りない。他の野党は、存在そのものが、余計である。

事を新しくするには、信長を持って考えなければ、進まない。
人の恨み辛みを買っても、行動しなければ、新しくならない。
勿論、命懸けである。

皆々、自害して果てた方が、よさそうである。

日本には、政治家がいなくなったのか。それとも、安倍総理が、最後の政治家なのか。

信長ならば、社会保険庁を焼き尽くす。
再解雇など、無い。
歴代長官は、磔である。
小善を成して大善を成さざるは罪なりと、日蓮は言う。
公明党に期待するしかないのか。
ついに、日本も野蛮な外国と同じく、宗教による政治が始まるのか。
日本は日蓮仏法の国なりと。

一神教と妥協しない、日蓮宗との、壮絶な戦いが始まるのか。

世界には、政教分離の国など無い。
平和な日本だけである、政教分離と喚いているのは。

アホらし。
そろそろ、潮時であろう。
我は行く。

追伸

久間防衛相が、謝罪した。
誤解を与えたと。
誤解とは、原爆を容認するような発言ということであろう。
そんな、ことが、あるはずがない。原爆を容認しない、ということを前提の発言である。

彼は、アメリカを恨まないという。
これ、日本の伝統である。

済んでしまったことである。だから、恨まないのである。
すると、被爆団体が、絶対に許さないという。彼の発言を絶対に許さないとは、いつから、一神教の信者になったのか。そうか、長崎は、最低最悪のキリスト教徒が多いからか。
絶対に許さないとは、アメリカに向ける言葉であろう。
こうして、馬鹿な国民は、内輪の中で、気勢を上げる。

識者が言う。
政治家の言葉ではないと。それなら、政治家は、いつも心にも無いことを言い、嘘をついて、本音を出さず、建前だけで、言葉を言えと言うのか。それで、国民は、騙される。ということであろうか。アホ馬鹿と言うしかない。

長崎市長は、国会に明日にでも出掛けて、首相と、久間に、抗議するという。長崎の気持ちを伝えるために行くという。
久間は、長崎の人である。
被爆者の気持ちだって、十二分に知っている。原爆投下だって、絶対に反対である。それを前提にした発言である。

私は、久間を知る者ではない。
何の関係もない、赤の他人である。
しかし、彼の発言の真意が、解る。

いつまでも、子供で、どうする。
国内で、揉めている場合か。
絶対、許さないという根性だから、原爆が落とされる。

この世のこと、意味の無いことはない。
縁あっての、原爆であろう。
その原爆の落とされた意味と、被爆した人の意味を考えることで、未来が見える。
世界で、二度と、原爆を使用しないこと、それを、訴える。

内輪揉め、している暇無し。
目を覚ませ、アホども。

追伸の追伸

毎日新聞のコメントである。
「日本はミサイル発射、核保有問題で北朝鮮と厳しく対峙している。久間氏の発言で北朝鮮から「米国の核兵器使用はしょうがないのか」と切り返され、核保有の口実にされかねない。」
と、ある。

今更、何を言う。
北朝鮮は、核保有国として行動しているのである。
それを餌にして、石油や、支援物資を求めるのである。

今更、あのゴロツキの国を相手取って、何をか言う。
そんな言葉の生易しさで、あの国が云々するというのは、認識不足も甚だしい。

核保有の口実にされかねないとは、単なる言い掛り的、発言である。
そんなことを言わなくても、すでに核保有しているし、また、核兵器製造を行おうとしているのである。
査察を受け入れたというが、また、物が欲しくなれば、始めるだろう。
何を調べているのか。

対等な言葉で、北朝鮮と話し合いが出来ると、思っているならば、新聞社など必要ない。
批判はよくするが、自分たちの態度を、少しは、反省してみろ。

あることの前提に立って、物を言う場合がある。
その前提を、すっ飛ばしただけであろう。

言葉じりで、遊んでいる場合か。
つい先ごろも、北朝鮮は、日本海にミサイルを放ったではないか。
新聞社は、総力をあげて、北朝鮮を言論で攻撃すべきである。
それとも、北朝鮮を言論でも、攻撃出来ない訳でもあるのか。
潜在的日本壊滅願望のある新聞社もあるから、仰天するが。

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キリスト20

マルコ福音書第七章に、ファリサイ人と、律法学者が登場する。
それらが、イエスの弟子たちが、手を洗わずにパンを食べるのを見て言う。
ファリサイ人や、ユダヤ人は、古人の言い伝えを守り、腕をひじのところまで洗ってから食事をする。
「何故、あなたの弟子たちは、古人の言い伝えにしたがわず、汚れた手でパンを食べるのか」と問う。
イエスは言う。
「イザヤはあなたたち偽善者について、実によく預言した。かれはこう書いている。「この民は口先だけで私を敬うが、その心は私から遠くある。人の作ったいましめを教え、空しく私を礼拝している。」また、あななたちは、自分の伝えを守るために、よくも神のおきてをすてたものだ。モイゼは「父母をうやまえ、と教え、父や母を呪う人は死刑に定められる、といっている。それなのにあななたちは、ある人が父や母にむかって、「私があなたを助けるはずのものを、コルバン、すなわち供え物にします」といえば、もう父や母にその人がすることを、何一つゆるそうとしない。そういう風に、あななたちは、自分の伝える伝承によって、神の掟を空しくし、その他にも同様のことを数々おこなっている」とおおせられた。

当時は、人々に尊敬されていた律法学士たちに向かって、きっぱりと「あななたち偽善者」と言う。
それだけで、彼らは、イエスの言葉が耳に入らないだろう。

イエスは、彼らの形式主義を徹底して嫌う。
つまり、心の離れた信仰を成していると言うのである。

さて、簡単に言う。
仏教である。
寺に行って教えを聞く人は少ない。せいぜい、葬式の時や、法事の時に寺に行く。
そして、寺では、すべて形式にのっとり、儀式をする。それで終わりである。
説教をする僧がいても、寝ぼけた話をして終わりである。

茶道というものがある。
茶を立てるという手前に、延々と時間をかけて、形式に身を入れて、茶の湯云々と言う。
この形式が、曲者で、彼らには、彼らの理由がある。その形式の中に、悟りがあると言うのである。一理あるが、矢張り形式から、抜け切れない。それだけで、事が終わる。特に、
女に茶道をする者が増えてから、一気に堕落した。
茶の道を理解しないのである。
茶の湯が成立した時は、男にのみ許された。

イエスは、その形式主義に徹底して対決したのである。
当時、ユダヤ教は、完全とした体制を取っていた。
伝承とは、数々の掟であり、それは、皆、彼らの先祖が作ったものである。決まりごとて゛ある。

父母に、供物をしますと言えば、もうそれで、父や母を捨てるという。作法が一番である。
すべて、決まりごとを優先する。形式である。老いた父母の面倒をみない口実として、決まりを優先するということである。

式次第を作れば、楽である。それに則り、事を行えばよい。
道元なども、多くの作法を制定して、弟子たちを教育した。創始者が生きているうちは、まだよいが、死ぬと、それが単なる形式に陥り、その心が死ぬのである。

形式だけを伝承して、結局、肝心要を忘れる。

当時のユダヤ教徒も、それに陥って久しい。
イエスは、激怒するのである。

最も激怒することは、それを生活の糧にしていることである。
これ以上は省略する。

ただし、一つだけ、宗教の中で、形式のみに意味のある神道がある。
しかしそれを理解するには、多くの霊感が必要である。
二礼二拍または、四拍する。伊勢神宮は、二拍、出雲大社は、四拍である。
礼については、省略する。
拍は、縄文時代からの挨拶である。その名残である。
二と、四の違いは、神の居られる場所の違いである。

勿論、すべての宗教の作法には意味がある。茶道の作法にも意味がある。その意味づけを行う者がいる。そして、それがすべてになる。
利休は、茶の湯を、ただ湯を沸かし、茶を立てると言うのみ。
作法は、後でどんどんと付け加えられて、複雑怪奇になった。

目に見えない世界の主は、何を見るかとえば、人の心のみを見る。
作法や形式をしている様を見るのではない。
人の心を見抜くのである。

私は、読書を多くするので、部屋には、本が、どんどんと溜まる。さて、整理をするが、追いつかず、どんどんと、部屋を本が占領する。
部屋は、私の心であるから、整理整頓と思うが、追いつかない。
そこに人が入ると、その乱雑さに、目をそむける人もいるだろう。
しかし、私の部屋には、糞などは、落ちていない。
汚くないのである。
しかし、それを汚いと見る人もいる。

以下、省略。

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