2007年05月05日

キリスト

キリストの絶唱を書く。
何故、書くか。
カトリック、プロテスタント、その聖職者、聖書研究家、神学者、そして、諸々の識者、作家等々のイエスキリストに関する考察を批判する。

誰も、他の物の見方から、主イエスに関して、書くことはなかった。
私は、古神道と、私の霊学から、主イエスの言葉を観る。
なんとなれば、多くの聖書解釈は、教会による教義としての解釈であり、それは、人為的に作られたものである。
真実、主イエスの言葉を理解するというのは、霊感による。
主イエスの言葉を借りれば、聖霊による。

聖霊とは、何か。
誰も明確に出来ないでいる。
父と子と聖霊の、三位一体という妄想は、ただ事ではない。
これを唱えた原始キリスト教の一派が、皇帝と結び、正統として、異端審判を行ったのが、あの中世の歴史である。
その反省もないいまに、未だに、それを正統とする。

三位一体とは、古神道の考え方であり、古神道の中にこそある。
天人地である。天と人と、地により、この世はある。天と地を結ぶ者は、人である。

聖霊とは、何か。
主イエスは、父と子の関係に、聖霊が関与することを言う。
聖霊は、別の働きをする。
三位とは、同じ格であるということである。
実は、神と呼ばれる御方は、聖霊のことである。それは、目に見えることは無い。
父とは、主イエスの指導霊である。
聖霊こそ、神である。
聖霊の元に、父と子がある。
キリスト教教義の誤りが、そこにある。

無批判にして教えを信じるのが、信仰ではない。
信仰とは、迷いである。
地の果てまでも、私の言葉を伝えよと言う主イエスの真意は、どこにあるのか。
「主よ、主よ、と言う者が天の国に入るのではない。父のみ旨を行う者が入る」と言う。父のみ旨とは、聖霊のみ旨である。

そして、聖霊として、総称される霊は、単独ではない。
聖霊とは、宇宙に充満するエネルギーである。
聖霊に対する罪は許されないと、主イエスは言う。当然である。それを否定すれば、我が身を否定することになるのである。

旧約には、神の名が出る。ヤーゥエ、エホバ、しかし、それは、魔神であるから、神の名を妄りに呼ぶなと言う。
主イエスが、一人で祈る時に、語り合ったのは、神といわれるものではなく、預言者たちである。
いずれ、おいおいと、それについては書く。

キリストの絶唱は、今も続いている。
大きくズレたきリストの言葉の解釈による。
ただ今、一番、主イエスに近い者たちは、ゴスペルを歌う黒人たちである。
旧約の神ではなく、主イエスにのみ向いている。正解である。

旧約の神から、ユダヤ教、イスラム教が生まれた。
勿論、キリスト教も、それらを神と定める。
主イエスは、旧約を成就するために来たと言う。つまり、旧約の神の正体を観たのである。
そこからの、独立だった。
嫉妬と裁きの神、律法の神と言われる旧約の神との対決である。
でなければ、あの壮絶な言葉は生まれない。
聖霊の、愛の神を伝道したのである。

しかし、古神道では、愛も慈悲の神とも言わない。
自然と共生、共感することにあり、すべてを抱擁する。
仏陀は、慈悲を掲げた。キリストは、愛を掲げた。
その地域にのっとり、説教を繰り返した。
古神道には、それらは必要なかったのである。

今、キリスト教徒であると思い込んでいる者多数。しかし、主イエスに繋がる者であるかは、別である。
教団という組織のキリストであり、主イエスキリストを信奉するものではない。
そして、その誤りに気づかない。
天国に行くと信じているのであろうが、霊界に天国は無い。
あるのは、キリスト教霊界である。非常にレベルが低い霊界である。
キリスト教の霊性は、その低いレベルの霊的波動を受けるのみ。だから、奇跡のようなことが起こる。奇跡は、低レベルの霊界の仕業である。

そして、その霊界には、主イエスはいない。当然である。

私は、唯一、新約で正統と認める、マルコの福音書を引用する。
ルカ、マタイ、マルコは、共観福音書と言われるが、ルカと、マタイは、マルコの焼き写しである。
そして大切なことは、書かれたものがあるということは、書かれなかったこともあるということである。
それを埋めるためには、聖霊による。つまり、霊感による。

キリスト教で言う、原罪説などは、聖霊に対する冒涜であること、誰も疑問に思わない程、やられているとしか言いようが無い。
原罪とは、人間が生まれるということである。それを原罪とは、聞いて呆れる。
生まれたことを、最大の罪とする教義を二千年来教えているという罪である。
端的に言う。
セックスを罪とする、肉の欲望とする、極めて遺憾である。



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2007年05月06日

キリスト2

洗礼者ヨハネから、水の洗礼を受けた後、主イエスは、霊に導かれて、荒れ野に行く。
40日間、サタンの試みを受けるとある。
サタンとは、悪魔の親分である。

サタンから、誘惑されるというものである。
わざわざサタンの試みを受けるとは、どういうことか。

サタンとは、元、大天使ルチフェルのことである。
天使がサタンになるということからして、お話じみている。
アメリカ映画の、SFXのようだ。

仏陀は、悟った後、そのまま死ぬべく準備をすると、ブラフマー梵天が現れて、教えを述べよと促す。
この梵天というのが、魔神であるからして、頭を捻る。

お話の前段階であろうか。序章である。

エクソシストという映画があった。
悪魔に取り憑かれるというものである。それを、エクソシスト、悪魔祓いの司祭が対決する。
神道では、悪魔の存在は無い。皆、荒ぶる神と言う。
悪魔とは、何か。
単なる、馬鹿な霊である。ごろつき、頭の悪い霊である。
そして、奇跡を行う。要するに、奇跡を行う霊である。
それでは、主イエスも奇跡を行った。後で、その奇跡については書く。

サタンの試みは、この世の欲望の誘惑である。
それを主イエスは、すべて跳ね除けた。
しかし、考えてみるに、この世の欲望を捨てたら、生きられるだろうか。生きられない。とすると、すべての人間は、悪魔の側に立つのである。
悪魔の勝ちである。

この世の欲望を、どう捉えるかが、問題である。
欲望否定が、キリスト教の主たる教義になる。おかしい。
欲望を罪として、罪を犯す。それは、罪であるという意識の快感を持って罪を犯すのである。要するに、教義は、実は、悪魔から出でいるのではないかと思わせる。
何故、生きることの欲望を罪とするのか。
ここに、最大の問題がある。

端的に言う。
欲望は、恵みである。人間に与えられた恵みである。
それを、何故、罪に結びつけるのかといえば、それは、人間支配のためである。つまり、教団とは、支配する団体の何物でもない。

人間の世界に、暴力団や、やくざ、マフィア等々がいる。
霊界にも、それらがいる。悪魔とは、そういう集団である。

それに関わって試みを受けるということを、真実考えたキリスト教徒は、いるか。
悪魔の試みを受けるだろうか。
主イエスは、それらと質も次元も違うはずである。
伝道に先立っての自己対話であろうが、悪魔の試みを受けたと書かなければならない事情がある。
悪霊や、悪魔、魔王等々を持ち出さなければ、よく理解できないのである。
神と悪魔との対立。実に解りやすい。
対立の思想は、欧米の考え方の中心である。
中世の異端審判も、正統とされた一派が他を、悪魔の存在として、裁いた。魔女狩りも、そうである。土着の信仰形態をも、悪魔の仕業と考えた。

仏陀も、静かに瞑想している時に、多くの悪魔の試みを受けたとある。
それは、自分の中にある欲望の種である。
美しい女たちが、仏陀を性の快楽に誘う。仏陀は、それを撥ね付ける。すると、彼女たちの本性が現れる。醜い、悪魔の姿である。
どうしても、快楽を罪としたいのであろうか。
快楽の陥ることを、罪とする考え方の、どこかおかしい。

古神道は、欲望を恵みと捉える。
それでは、古神道は、悪魔のものであるかといえば、全く別物、質も次元も違う。

聖書は、この世を悪魔の支配する場所として捉える。
しかし、それは一面的である。
この世は、悪も善も共に在る。味噌も糞も一緒の世界である。

実は、欧米では、神と対立する悪魔に関しての、想念が強く、その想念が生み出した悪魔というものが多い。
キリスト布教の当時は、魔王の働きが強かったことは、事実である。
しかし人間の欲望を手玉にとって、人間を支配するというより、それは、偽善という形で、魔王は、人間を支配した。あたかも、神の側にいるように見せかけて、敬虔に見せかけて、人を指導するという。
簡単に言う。人から尊敬を受ける者の、多くが魔王に支配されていたのである。
キリストは、それとの対決をした。

人間の欲望を手玉に取るのは、悪魔より、教団である。そして、教義を作り信徒を支配する。
信仰は,極めて個人的情緒にある。
内村鑑三は、実に、それを見抜いて、無教会派を名乗り、キリスト教徒となった。
日本の伝統を持って、キリスト教を理解したのである。

悪魔は、その正体を暴かれることを嫌う。
明らかに、悪魔の試みを受けたと書く意図は、何か。
おいおい、それを書くことにする。

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2007年05月07日

キリスト3

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」
主イエスの第一声である。

神の国、福音、それは、イエス自身のことである。
当時は、ユダヤ教全盛であり、改めて、神の国、福音を言うまでもないことである。
そのシステムは、完全だった。

悔い改めてとは、物騒である。
今更である。皆々、毎日、悔い改めているのだ。
これは、旧約との決別である。しかし、主イエスは、旧約を完成させるためにと言う。
これには、既成の宗教家たちが、猛反発するひこと、必至である。

「時は満ちた」とは、いかなることか。
それは、過去との決別である。今までの宗教的所作からの開放である。そして、新しく生きること。新しい神の姿を主イエスは、皆に提示する。それが、「愛の神」である。
古きものを否定して、新しい価値を置くとは、過去の遺物を守る人からは、総攻撃される。それを、知っての宣言である。
つまり、死を賭けた。

「神の国」とは、何か。それは心の状態、あり方である。その心のあり方を伝えるというのである。
雁字搦めの教義に支配される人は、主イエスの言葉など聞けない。現に今、主エスが現れて説教を始めたら、確実に、キリスト教徒に殺される。

悔い改めとは、いかなることか。
悔いて、改めるのである。何を悔い、何を改めるのであろうか。
聖書解釈では、悪魔のとりことなっていた人間の世界に云々とある。
欧米の思想は、いつも何か、対立したものを置く。理解しやすいのである。神の存在までも、人間と対立させる。彼らは、この対立から逃れられない。実に、単純馬鹿である。
悪魔の支配にあった人間の世界とは、何事か。それでは、キリスト以前は、悪魔の支配に晒されていたということか。
この程度では、主イエスの言葉など理解も出来ないだろう。
善と悪との対立である。
頭の悪いものが考えることである。

それでは、今でも悪魔の支配が続いている。そう、キリスト教団も悪魔の支配により、成っている。さて、どうする。自分たちだけは、神の側にいると思い込んでいるだけである。当時の人と一緒だ。

キリストは、そこからの解放を言う。
今までのユダヤ教の教えに、全面対決を宣言するのである。
これこそ、命懸けの行為である。

しかし、人は愚かである。単にそういう説教では、如何ともし難い。そこで、主イエスは、奇跡を見せる。
これを私は、悲しむ。
奇跡を見せるということは、魔物のすることである。それで今まで、魔物が人々の支配に君臨していた。それを主イエスも行うという悲劇である。
手品を見せなければ信じない、アホ馬鹿間抜けである。

そして、非常に危険なことが書かれてある。
「ときに、汚れた霊につかれた人が会堂にいて、こう叫んだ。「ナザレのイエスよ、わたしたちをどうしょうというのですか。あなたはわたしたちを滅ぼしに来たのですか。わたしは、あなたがどなたであるかを知っています。神の聖なるかたです」イエスが叱って「黙れ、この人から出て行け」と言われると、汚れた霊はその人をけいれんさせ、大声を上げて出て行った」
悪霊に憑かれた者に、あたなは、神の聖なるかたですと、言わせる。
おかしい。実に、おかしい。
これが、真っ当な霊能者に疑問を起こさせるのである。

果たして、主イエスが、悪魔と、どのような取引をしたのであろうかと。
荒れ野で、悪魔との誘惑を退けて、宣教に立つのであるが、聖書に書かれない部分に疑問を持つのである。
書かれたことより、書かれなかった部分を観る。

神と悪魔の対決、善と悪の対決。それを聖書は提示する。そして、神を強調する。
どこか、シナリオが見える。
ぎりぎりのところで、主イエスは、悪魔から出た者ではないかと疑いが出るのである。
悪魔との、やり取りの筋書きである。
聖書学者等々は、それを知らない。知るはずもない。

仏教で言うところの天上界も、魔神の支配にある。
仏教に極楽など無い。魔界につながる霊界というか、霊界と、魔界は、別物であるが、真っ当な霊界は、無いと断定出来る。
インド魔界の支配にある。

旧約の神というのも、複数であることは、常識である。また、旧約の物語は、アフリカの神話から多く出ている。
果たして、旧約の神は、いつから、神と名乗りを上げたのか。
いずれ、追々と書くことにする。

確実に言えることは、主イエスは、死を持って、自分の言葉を成就させた。これが真実である。
悪魔との取引。それが何であったのか。
新約のテーマである。
そして、悪魔の正体とは。

私は、別波動にて、それを解明する。
古神道に関して、悪魔は、手出し出来ないからである。
つまり、やり取りする次元ではない。そして、古神道の霊界が悪魔と言われる存在とは、異質である。悪魔は、古神道の霊界と、コンタクトする何物もない。

兎に角、主イエスは、高らかに、過去との決別を宣言した。
何を「悔い改める」のであろか。

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キリスト4

マルコ福音書の冒頭は、キリストの奇跡、病気治しと、悪魔祓いが多い。
福音を伝える手前の段階である。
奇跡を見せなければ、人は、その説教を聞くことがなかった。

一時、手当てにより、病を癒した者が映画にもなった。
たまたま得た能力である。しかし、その能力の意味を知らず、病気治しをした。突然与えられる、そのような力は、実に、危ない。
低レベルの霊が作用するからである。動物の霊でも、そのような奇跡を起こす。
動物の霊も、霊界では進化する。その過程で、自分の力を過信し、人に憑いて、奇跡を起こす。

キリストの悲しみは、その時点で、すべて始まっていた。
本来は、その病により、あることを知るためのものである。病に、人生の秘密が隠されてある。それを知ることなく、奇跡によって治るということ、その意味を知ることなく、知るチャンスを失ったということである。
しかし、それを行わなければならなかったキリストの悲しみを思う。

奇跡を起こすことは、霊界のあるレベルと接触すれば、簡単なことである。しかし、その後、その霊界の支配を受ける。それが、魔界の場合多々ある。

私も多く、病を癒す気功家を知っている。
霊能力で癒す人も知る。しかし、その多くは、レベルの低い者だった。つまりレベルの低い霊界との接触、または、動物の霊であった。
その証拠は、その人間性である。それを見れば、一目瞭然である。
気功家では、自分を失ってしまった人もいた。痴呆のようになってしまった人もいる。
一時期の隆盛は、瞬く間に消えた。

日本で、病を癒すようになったのは、大陸の呪術が入ってからである。
加持祈祷などは、その典型である。
すべて、魔界のものである。特にインド系は、そうである。霊験あらたかとは、別名、魔物の仕業である。
多く渡来した神によって、大和の人は、奇跡を見た。
しかし、本来の神道では、奇跡を成さない。
奇跡は、神よりのものではない。

キリストは、当時の価値観の転換を図った。
それは大変なことだった。すべての既成の戒律、律法を否定することになった。
何故、断食をしないのかと問われて、「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れる」と答える。
これは、既成の価値観を破るものだった。
しかし、その言葉の意味を、彼らはすぐに悟ることがなかった。
キリストは、今までの方法を前面否定したのである。

「安息日は人のためにもうけられたものであって、人が安息日のためにあるのではない。それゆえ、人の子は安息日に対しても主である。」
当時、安息日には、何事を行ってはならないとの掟である。
しかし、キリストは、それを無視した。

今、キリスト教徒は、キリストを神であると信じるから、抵抗が無いが、当時は、それは大変な挑戦だった。

ファリサイ派の人々は、主イエスを訴えようと、人を癒すのを見ていた。
すると、案の定、キリストは、その片手のなえた人を癒した。
「安息日に善を行うことと、また、命を救うこととと、殺すことと、どちらが律法にかなっているか」とお尋ねになったとある。

規則に縛れた者たちに、キリストは、あることを示した。
しかし、それを理解する器が無い。
今のキリスト教徒も、教会の規則により、キリストの真実を忘れた。
キリストは、キリスト教徒によって、殺されること、必至である。

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2007年05月16日

キリスト5

「エルサレムから下ってきた律法学者たちは、「イエスはベルゼブルにとりつかれている」と言い、また「悪霊のかしらによって悪霊を追い出すのだ」とも言った。」
奇跡を起こす者に対する、当時の真っ当な考え方である。

ベルゼブルという名は、ペリシテの都市エクタロンの神の名、バアル・ゼブブからなる。イスラエル人は、憎しみから、敵の神の名をわざと曲げて、滑稽に呼ぶと聖書研究にある。
つまり、ベルゼブルとは、悪霊のかしらという意味である。
これは、イスラエル人は、他の、敵の神を悪魔とするということである。
一神教の特徴であろう。
他の神を悪魔として、戦う。
戦争が終わらない訳である。

イエスは、それに答えた。
「どうしてサタンがサタンを追い出すことができようか。もし国が内輪もめするならば、その国は立ち行くことはできず、かえって滅びてしまうであろう。また、先に強い人を縛らなければ、だれもその強い人の家にはいって家財を奪うことはできない。縛ってのちはじめて、その家を荒らしまわることができる。あなたがたによく言っておく、人の子らの犯すすべての罪と、神に対する冒涜は、ことごとくゆるされる。しかし、聖霊に対して冒涜のことばをはく者は、永遠にゆるしが得られず、永遠に罪の責めを負う。」こう仰せられたのは、「かれは汚れた霊につかれている」とかれらが言ったからである。」

ここでも解る通り、聖霊とは、イエスと、その父とは、別格であることを言う。
三位一体ではない。
イエスが言う聖霊は、神である。
イエスが言う父とは、イエスの守護霊のことである。

ユダヤ教徒に言わせると、ユダヤの神以外は、すべて悪魔ということになる。
神道で解釈すれば、ユダヤの神も、一民族の神であり、それは、地域の神、つまり地霊のことである。
地霊は、産土神うぶすなのかみの支配の元にある。
そして、何と、ユダヤの神と言われる地霊は、アフリカから彼らが連れてきたのである。

それが、勢力を持ち、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神になった。
大変な出世である。今では、世界宗教の中の三大宗教になっている。
そして、今に至るまで、互いに敵視し、戦うあたりは、魔神としか言いようが無い。

ユダヤ教と、イスラム教は、魔神を、そして、キリスト教は、魔神を神とし、その子をイエスとしている。
先に、旧約の神は、複数いたといった。その彼らの勢力争いが、今も続いているということである。

主イエスは、ユダヤ教に侵された人々の心を改心、回心とも言う、それをさせるために、説教を繰り返した。
それは、許しと愛の神である。
それは、非常に強力な意思が必要である。当時の状況を鑑みれば、当然である。すべてを敵にしなければならない。それ程、時は、瀕死の状態だった。

日本のカトリック作家である、遠藤周作などは、全く見当違いのイエス像を描き、日本の読者を騙していたということが解る。勝手すぎる解釈である。
無力な男であった。しかし、泣く人と共に泣き等々、新興宗教の様である。また、プロテスタント作家の三浦綾子などは、旧約の魔神と、主イエスを一緒くたにして、平然として、妄信していた様は、哀れである。

日本のクリスチャンといわれる連中は、ムードの信仰と言っても過言ではない。
ローマ法王を見よ。主イエスの言葉は、実に空しい。
「人の子には、ねぐらも無い」と言う。その前に、狐にも、ねぐらがあるがと、つく。
豪華絢爛たる教会建築を見よ。そこに神がいるか。いるのであろう。魔神である。

仏陀の教えも、主イエスの教えも、結果的に虚無に帰した。
慈悲も、愛も行われることなく、戦争から、今では、いたるところでの、テロ行為である。
仏教は壊滅し、主イエスの教えも、無になり、残るは、怨念と、憎悪である。

西洋が多くの国を植民地化する際に、必ずキリスト教の布教師が着いた。その土地に、キリスト教の信仰を植えつけるためである。
日本も、ある時期、そうであった。
信長は、命懸けで布教する宣教師たちを、手厚く持て成した。比叡山に代表される僧侶たちの堕落に、心底怒りを感じていたからだ。伝統に甘んじている様、許せなかった。比叡山焼き討ちは、当然のことであった。
だが、その宣教師たちも、布教と共に、日本をローマの属国にするべく働く。当然である。ローマが正しいのである。
秀吉が気づいて、弾圧しなければ、とんでもないことになっていたはずである。

実に、今に至るまで、西洋の植民地化の影響が残っている。
アフリカ、アジア等々、皆々、植民地であった。それが、独立するのが、太平洋戦争、第二次世界大戦後である。
日本が、その突破口を開いたのである。
日本は、我が身を犠牲にして、大東亜圏を拓いたといえる。
日本の戦争責任という時、それを、どの程度考えてのことかと、私は思う。
細部をほじれば、色々な問題出てくる。戦争は非常時である。

その根本が、実に傲慢な神の思想である。
一神教の罪深さである。
アフリカの地霊を神として崇めて、それを唯一の神とする程度の信仰である。
誤りも甚だしい。

神武天皇が、大和を平定した時に、その地の、すべての地霊、奉る神々を集めて、奉り事をした。それが、政の初めである。
まつりごと、とは、それを言う。
政治を政から切り離して、近代が開かれたという言い方も出来るが、何が正解なのかは、まだ、これからの話である。

日本のまつりごとは、西洋には無い。
兎に角、敵の神は、悪霊であるから、叩き殺すのである。叩き殺すことから、彼らの政治が始まる。
これは、キリストの絶唱であるから、以下省略する。

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2007年05月19日

キリスト8

「神の国は人が土に種をまくようなものである。かれがよるひる寝起きしているうちに、種は芽を出し成長する。しかし、かれはどうしてそうなるかを知らない。土は自ら働き、はじめに苗、つぎに穂、つぎに種の中に豊かな実を生ずる。実がみのると、かれはただちにかまを入れる。刈り入れの時がきたからである。」
聖書研究では、種は、適当な条件さえそろえば、実を結ぶ。人間の世界に建てられる神の国も、条件さえともなえば、人間の気づかぬうちに、多くの実を結ぶ。神の国は、教会をも意味する。人間に与えられる、超自然の恩恵にもあてはまる。
以上、何とも、寝ぼけた解説である。

「神の国を何になぞらえようか。また、どんなたとえで言いあらわそうか。それは一粒のからし種のようなものである。からし種は土にまかれるときは、地上のどんな種よりも小さいが、まかれると、伸びてどんな野菜よりも大きくなり、そのかげに空の鳥が宿るほど大きな枝を張る」
「イエスは人々の聞く能力に応じて、このような多くのたとえ話をもって、みことばを語られ、たとえ話なしには語られなかった。しかし、自分の弟子たちだけのときには、すべのことを解き明かされた。」

人々の聞く能力に応じて・・・そう、豚に真珠は与えられない。

神の国のたとえ話というが、たとえ話であろうか。
事実、自然の事実を言うのである。それが、神の国であるという。
はい、ここから神の国ですという、線引きは出来ませんという。すでに、神の国が、この世に存在するという。
この世の自然の恵みに、神の国がある。
すなわち、ここにこそ、神の国があるという。

弟子たちの時には、すべてを解き明かされたというが、一体、他の何を解き明かすのか。
もし、超自然の神の国の存在を説明するとしたなら、妄想である。
超自然を理解することは出来ない。
すべては、自然の働きの延長にある。
それを、そのまま、神と観た、大和民族、日本民族、それが、古神道である。自然を神と観たのである。自然と共生、共感する民族は、あえてたとえはいらない。
そのこと自体に、恵みがある。

イエスは、神の国、つまり天国を説明すべく、たとえで話たのであろう。
それなら、天国は、今、ここにあるということである。
ここで重大なことを言うが、キリスト教徒は、神の国、天国を、この世ではない、特別の場所とか、空間だと思い込むのである。
そこでは永遠の命を与えられる等々。

一神教の大きな誤りは、超越した絶対者である神という定義を置く。
しかし、それを誰も、認識することは出来ない。なんとなれば、超越した存在を確認するには、こちらも超越しなければならないからだ。

たとえで話たというが、たとえでも何でもない。そのままである。それが真実、神の国である。
すでに神の国に在る存在が人間である。

イエスが、「信仰薄い者たちよ」と言う。信仰とは、何か。イエスは、何を信仰と言ったのか。
親鸞も、ただ信じる心を説いた。法然の教えを信じるのである。それが嘘でも信じる。なんとなれば、この身は、地獄に行くべき身だからである。しかし、弥陀の本願によって救われるというならば、地獄行きの私でも、救われると説く法然の言葉を信じるという。

何とも、おめでたい信仰であるが、当時は、それで精一杯だった。
しかし、今に至るまで、その親鸞の苦悩というか、救われない者でも、救われるという云々という、哲学的ともいえる言葉の世界に嵌る人がいる。
親鸞の思索の過程を、共に楽しむのは、それでよい。
しかし、信仰というものを、明確にしなければならない。
どうしても、超越者を置くというところに、何故、疑問を持たないのか。
何故、超越者が必要なのか。

嘘でも、妄想でも、在ると仮定して、信じ込むことが信仰であろうか。

これは信仰ではなく、拝むという行為になる。

自分が空想した世界を拝むとは、何とも悲しいものがある。

実際、私は、死者が自分の墓を拝んでいる様を観たことがある。死んでから、自分の墓を拝むのである。実に、人間は、拝むものが欲しいのであると、その時、感じた。

さて言う。
自然の有様を神の国のたとえとして話すということは、自然にすでに神の国の栄光が現れているということである。
つまり、どこか別の空間、別の次元に神の国が在るのではない。
今、ここが神の国である。
それには、心の目覚め、それを改心という、それが必要である。

イエスは、政治的なものに、一切触れなかった。
イエスは、心の状態のみを見つめていた。

神の国を、教会のことでもあるという、解釈は、全くの誤りである。イエスは、組織についても、一切語らない。
ただ、心の在り方のみに、目を向けていた。

イエスの弟子の多くは、当時の下層階級である。漁師が多い。自然の恵み無しには、生活の出来ない人々である。
当時の宗教観、及び、信仰が、いかに、イエスが言う信仰とかけ離れていたか。
どうでもいい、規則と作法に、汲々として、それを信仰と思い込むユダヤ教徒たちに、何とか、真実の信仰、つまり、儀式、作法ではない、心の状態を伝えるべく、当時の言葉を通して教えるという、実に、大変な労力を使ったのである。

モーゼの律法という名で、煩雑な規則作法を創造していた、偽の信仰生活を、真っ当にすべく、心血を注いだのである。

しかし、今のキリスト教徒も、当時のユダヤ教徒と同じく、教会という組織の中で、汲々として、規則作法を作り、それが信仰生活だと思い込む。
同じ繰り返しをしていることに気づかない。

拝み崇める神ではない。
共に生きる神である。
裁きの神ではない。共に生きる愛の神である。
心に宿るべく在る神である。

「主よ、主よ、という者が天国に入るのではない。神の国と、その義を行う者が入る」と言う。
雁字搦めの、形式ではなく、心の在り方、心の有り様によって、心に天国を有する者になるべくの、イエスの説教である。
これが宗教というものである。
しかし、古神道では、それも語らない。宗教ではないからだ。
それを伝統として、存続されている民族の伝統を、今更ながら、見事だと思うのである。

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2007年05月21日

キリスト7

「ともしびを持ってくるのは、ますの下や寝台の下に置くためであろうか。燭台の上に置くためではないか。まことに、隠されているものであらわにされないものはなく、また、秘密にされたもので公にならないものはない。聞く耳があれば、聞くがよい。」
「注意して話を聞きなさい。あなたが量るそのますで、あなたがたも量りあたえられ、しかもさらに増し加えられる。持っている人はさらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられる。」

実に、解りやすい例えであるが、実際、この話を理解するのは、至難の業である。
お目出度いクリスチャンは、その言葉通りに受け取り、頷くが、全く理解していないことは、明白である。
解ったつもり、というのが、最も悪い。

聖書研究を見る。
一時的に隠されているが、将来、もっと多くの人に表されるという。
もっとも、世界宗教となったキリスト教であるから、その通りであろうが、知られたことが、大切なことではない。
信者が多いから良いのではない。

聞く者は聞け。注意して聞けと、何度も主イエスは言う。
それ程、重大なことを言うのである。

隠されているものとは、何か。
秘密にされているものとは、何か。
聖書解釈は、単純に、それは、主イエスの言葉であり、その存在であるという。

隠されているものと、あなたが量るそのますというのは、連動している。
隠されているものとは、人の因縁である。それゆえの、量りである。人は、自分の器でしか、ものを量ることは出来ないのである。その原因は、因縁である。
解るということは、実行出来るということである。
単なる理解は、頭だけのこと。本当の理解は、即実行出来るということである。

秘密にされたことで公にならないものはない。
秘密とは、人の因縁である。
それは、その人を見れば、すべて出るのである。
話は、それからの問題である。

実に、量ることなど出来ないということを言う。
あなたが量るますで量られるというのは、自業自得を言うのである。
これを、聖書研究は、イエスの言葉を実行する人は、ますます真理を悟り、そうでない人は、ますます真理から遠のくという。
一体、真理に近づく、遠のくとは、どういう意味か。
イエスに従う人が、真理に近づくと単純に思う。
イエスに従うということが、どんなことであるのか、知らない。
すべてを捨てて私について来なさいというイエスに、従えるのか。

あの当時も、画期的な説教であるが、今も、イエスの言葉は、画期的である。

イエスの言葉は、対立を生む。
その対立が、今も続く。
汝の敵を愛せよという言葉にあるのは、敵を想定するということである。最初から敵を想定する様は、いかなることか。
「わたしは、世に剣を持ってきた」とも言う。
何故、キリスト教徒が戦いを好むのかは、イエスの言葉にある。
すでに戦闘状態を言うのである。

仏陀は、一切の敵を想定しなかった。
だから、慈悲の思想が生まれた。
イエスの愛の思想は、対立の思想である。
時に、慈悲と愛を、同じように定義するアホな、宗教家がいるが、全く違う。
愛は、戦い抜くのである。
慈悲は、戦わない。戦いの観念が無い。

当時のユダヤ教徒との、全面戦争を想定した説教であること、明白である。
キリスト、救い主という思想については、後で書くが、ユダヤ教徒の、メシアは、政治的メシアを言うのであり、精神的支柱を言うのではない。
最初イエスに付き従った者たちも、イエスが、この世の王になることを信じたのである。
勘違いである。

イエスの言葉を解くには、キリスト教論理を超えなければ解るものではない。

イエスの教えは、教会ではなく、世界的視野に立った、多くの思想からの解釈が必要なのである。
なんとなれば、今も、イエスは語り続けているからである。

マザーテレサが、ある時、キリストが目の前に現れて言う。
「私は乾く」と。そこから、マザーテレサの活動が始まる。
その時、キリストとは、主イエスであるのか。
それは、主イエスの眷属である。眷属とは、主イエスの多くの霊界の仲間である。
波動が違う世界に、メッセージを送るということは、同じ波動にならなければならない。受信機の波動になってから、メッセージを発するのである。主イエスの波動は、もはや、この世にコンタクト出来ないはずである。派動が、違い過ぎる。

この世は、味噌も糞も一緒の次元であるから、高い次元の波動の者も、低い次元の波動の者も、一緒である。
それが、この世の意味である。

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2007年05月22日

キリスト9

「汚れた霊につかれた人が墓場から出てきて、イエスを迎えた。」

聖書には、よく汚れた霊につかれた、または、悪霊とか、悪魔、サタンにつかれた人が登場する。
それをイエスが祓うという奇跡だ。

汚れた霊とは、仏教では、不成仏霊ということであろうか。
要するに、成仏せずに、この世に留まっている霊ということだ。幽霊とか、お化けになるのか。
汚れた霊を悪霊というのが、聖書の特徴である。

ここで、霊というものの存在が確かだということである。
目に見えない霊を、明確にしている。イエスに反対する者も、霊の存在は、否定しないのである。

霊、というものも、観念である。
ただ今は、スピリチュアルという言葉が流行っているが、明確に出来ないでいる。単に、目に見えないもの、それを霊としているのみ。まして、死者と話すということを、平気でする。死者と、話すということは、死者と同じレベルであるということである。送信と受信は、同じレベルで行われる。レベルが違えば、合わない。ということは、話をする死者は、生きている者と、違わないレベルにいるということである。つまり、不成仏霊に近いのである。もし、死者が、遥かなレベルに存在するならば、受信は、出来ないのである。

もはや、目に見えないものは、無いということが出来ない時代にある。目に見えないものが沢山あることが、科学で解ったからである。見えないから無いとは、言えない。
ただし科学的に霊の存在を云々するというのは、いただけない。科学は、その次元までに至らないからである。

実に、霊能者には注意が必要である。
その人にしか、解らない事を言うのである。

さて、イエスが汚れた霊を取り除くことの意味は、何であるのか。

「かれは墓に住んでいたが、もはやだれもかれを縛っておくことはできなかった。鎖をもってしてもだめであった。かれはたびたび足かせや鎖で縛られたが、そのつど鎖を引きちぎり、また足かせを打ち砕いたからである。それで、だれもかれを取り押さえることができなかった。かれは夜となく、昼となく、墓や山で叫びたて、自分のからだを石で傷つけていた。かれはイエスを遠方から見つけると、走りきてひれふし、「いと高き神の子イエスよ、わたしをどうしようというのですか、神かけてお願いです。どうかわたしを苦しめないでください。」と大声で叫んだ。それは、イエスが「汚れた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。またイエスが「おまえの名は何か」とお尋ねになると、かれは、「わたしの名はレギオンです。わたしたちは大勢いますから」と答え、そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、懇願した。」

今ならば、精神疾患である。
これを読む限り、精神疾患の人は、霊に憑かれているといえる。
二千年前のことである。
医学の知識も無かった。今のようにである。
当時、このような人を治すことができなかったということが解る。
ところが、主イエスは、悪霊を祓い、治すのである。
当時のユダヤ教にも、大司祭や、律法学者等々がいたのである。しかし、誰も、霊につかれた人を治すことが出来なかったということである。
これが問題だ。

「おびただしい豚の群れがそこの山のふもとで草を食べていた。そこで、汚れた霊どもは、「わたしたちが豚に乗り移れるように、そのほうに行かせてください」と願った。イエスがそれをお許しになると、汚れた霊どもはその人から出て行き、豚の中にはいった。すると、およそ二千頭の豚の群れが、がけから湖へなだれ落ち、おぼれて死んでしまった。」

実に、おかしい話である。
霊は、死んでいるから霊であろう。
豚に入り、もう一度死んでも霊であろう。
これで消滅したのだろうか。そんなはずはない。

その後で、人々が来て、その話を聞き、恐れをなしたという。
芝居じみている。

こういう霊の集団がいるということである。
今もそうであろう。
ただ、それが別の形に変わった。
生きている人間より、死んだ人間の方が多い。実際、霊の方が圧倒に多いはずである。
と、これは、質より量の話であるが、単純に言うとそうである。
さて、このイエスの行動には、どんな意味があるのか。
悪霊が、神かけてのお願いですというのも、おかしい。悪霊というより、仏教で言う不成仏霊という方が、当たっているようである。

この箇所が、霊的能力のある者にも疑問を持たせる。
何故、豚に入れたのか。そして豚を死なせたのかである。
イエスほどの力のある者が、何ゆえに、こんな程度の低い扱いをするのだろうか。
一つだけ言えることは、この地方の人は、異邦人といわれる人が暮らしている土地であるということだ。ユダヤ人からは、異邦人である。
別の信仰を持つ者。仲間ではない者。
聖書研究では、政治的な存在としてイエスを見ないからだという。政治的に利用されないからだということ。
イエスは、この後で、霊につかれた男に、自分の身の上に起こったことを話せと言うのである。大変な宣伝である。

この記述から解ることは、ユダヤ人とは、実に偏狭で、差別意識が強いかということである。新約聖書の中には、多く、このような記述がある。
これで、一神教のユダヤ教というものが見える。排他的であり、非寛容である。
そして、選民意識を持つ。

イエスも、ユダヤ人である。そのユダヤ人に、何を説くのであろうか。聞く耳のある者は、聞くがいいという説教だが、ユダヤ人が聞くはずもないことを、一番知っていたはずである。規則と作法に、雁字搦めにされている者である。それを信仰として、成す者である。

イエスの宣教は、実に空しい。

そして、奇跡である。それゆえにも、恐れられ、批判される。そして、結果は、磔である。
何を、イエスは、成したかったのか。

当時も、こうであるならば、今なら、もっと理解されないはずである。

エクソシストという、悪魔祓いといわれる行為は、今でもある。
しかし、一向に成果を挙げていないはずである。
悪霊として対座するからである。
何度も言うが、同じレベルでなければ、送信、受信は適わないのである。
この世の次元で成す霊は、この世の次元以下でも、以上でもない。ゆえに、この世の人のように扱うのである。
つまり肉体というものが無い状態の、想念体である。
霊とは、想念体のことである。特有の気を発する。
それが浮遊している場合もあり、自縛している場合もある。そして、怨念を持ち、怨霊と言われる場合もある。
祟り霊といわれる場合もある。

イエスの霊祓いは、いつも、その力で、追い払う形である。どうも理解できないのである。ここでも、対立の思想なのが不思議だ。
何故、悪と善という形の対立をさせるのか。
神と魔の対立である。
キリスト教徒の対立概念は、イエスから始まっているのか。いや、その根底には、ユダヤ教の対立概念がある。
イエスも、ユダヤ人であることから、免れていないといえる。

しかし、霊的に解釈すれば、主イエスの行動は、当時の人に明確に、神と魔とを対立させて教えを伝えたのであることが解る。
誰もが解るようにしたのである。

ところ変われば、その方法も変わる。
古神道では、対立させることはない。
説き伏せて、奉るのである。鎮まることを願うのである。また、次元を移動させる。霊的空間に、戻すのである。戻らない場合は、この世に、別空間を作り、奉る。
そして自然移行を願う。
霊は、荒ぶる霊でも、時を経て、本来の場に戻る。気づく。それを促すのである。
力づくでの行動は、取らない。
だから、イエスのような、超人的な存在はいない。
古神道には、教祖がいない訳である。

しかし、祟り霊という観念も、仏教伝来以降からのものである。それ以前は、そんな観念は無い。日本人の信仰形態が、恐れから始まるという学者もいるが、全く見当違いである。それは、平安期以降の話であり、それ以前は、恐れからの信仰などない。

すべての事柄が、讃歌であった。万葉集を読めば、そこに証拠がある。
生老病死に苦を観ることもなかった。
苦ではなく、それは、悲であった。
以下、省略する。

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2007年05月23日

キリスト10

マルコによる福音書は、奇跡のオンパレードである。

十二年間、出血症をわずらっている女がいた。多くの医者に大変苦しめられた。持っているものを、すべて使い果たしても、治らない。イエスの噂を聞いて、群衆に交じって、イエスの服を触る。
「私の服を触れたのは誰か」とイエスが言う。弟子は、こんなに大勢の人がいますので、誰かは解りませんという。
女は、身の上に起こったことを知り、イエスの前に出る。
「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行け。病気が治り、元気でいるように」とイエスは言う。

「あなたの信仰があなたを救った」
この言葉を書くために、マルコは、これを書いたとしか思えない。

あなたの信仰であり、イエスの恵みではない。
しかし、別の箇所では「あなたが私を選んだのではない。私があなたを選んだ」と言う。
賜りたる信仰である。

聖書解釈は、いかようにでも出来る証拠である。
兎も角、奇跡によってしか、イエスを判断出来なかった当時の人の様が見える。

現在も、奇跡を行う者を信じる。
空間から、物を取り出す、インドのサイババという人も、そうである。
その奇跡を見て、人は、驚嘆し、信じる者と成る。
しかし、イエスは「見ないで信じる人は、幸いである」とも言う。

ここで、私は、きっぱりと言う。
奇跡は、魔界から出る。
霊界の常識である。
それでは、イエスは、魔界の者か。
違う。
どうしても、奇跡を見せなければならなかったのである。その悲しみは、いかばかりか。
いかに当時のユダヤ教が、堕落していたかである。
それは、今に至る。そして、イエスを神として戴くキリスト教も、然り。
主イエスの名において奇跡を成しても、教会は認めないだろう。
だが、マザーテレサのように、世界的に有名になると、死後、速やかに、福者とし、いずれ聖人として認定する。
マザーテレサは、カトリックの広告塔になったといえる。

病にある者は、病の癒えることを願うが、病の意味を問うことは少ない。
病は、何故病なのかを問うことが必要であるし、そのための病である。

仏陀は、生老病死を苦と観た。病も苦とみた。それは、人間の生涯なのである。
人間の生涯は、苦であるという。それも、一つのものの見方である。

奇跡を見せることほど、悲しいことは無い。
奇跡は、悪魔の最も好むものである。
それで、すぐに結果が出るからである。
そんな安易なことならば、生まれる必要も無い。
何故、この世に生まれたのか。それは、生老病死を体験するためであり、その意味を知るためである。

イエスは、最も悪魔に近づいたといえる。

人は必ず死ぬ。出来れば、楽に安らかに死にたい。自然死、老衰が一番良いが、そう簡単なものではない。様々なことを経験して生きるために、生まれたのであるから、病も必要である。

生長の家という新興宗教がある。ある霊能者は、開祖の何がしが、高い霊界に上がったというが、私は、それを知らない。
その開祖は、病は、影だと言う。本来は無いものであると。実相世界は、病など無いと。しかし、では、何故生まれたのか。
肉体を持つ人間として生まれた。生老病死が、当たり前であろう。

よしんば、奇跡によって病が癒されても、人は死ぬのである。
人は神の子であるから、云々という。その通りである。しかし、だからこそ、生老病死を経験するために生まれたのであろう。
病になれば病を生きる。それでよし。
病を癒して、10年長く生きても、何であろうか。
実相世界が主であれば、死ぬことが一番であろう。
長く生きることはない。

生きるというこが、何であるかを、開祖たちは知らないのである。
それで、教祖として、のうのうと生きたのである。
運が良いとしか、言いようが無い。

教祖として成功したのである。良かった良かったである。

教えもどきに、信仰して、救われた人は多い。しかし、また転生するであろう。
何度も繰り返して、同じことを繰り返す。
仏陀は、そのからくりから、逃れることが本当の道だと教えた。
要するに、二度と転生しないことである。

しかし私は言う。
永遠に転生してもいい。迷いを迷っていればいい。
繰り返しをして楽しめばよい。
愚かなままで、いい。そして、精根尽きて、もういいと思った時、消滅を願う。

全くの消滅である。

宇宙の外でいいのである。
宇宙の外は、無である。
神も仏の世界もいい。消滅を願う。
それが、最大唯一の救いであろう。

すべては、観念に尽きる。


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2007年06月11日

キリスト11

奇跡は続く。
今度は、12歳の死んだ娘を生き返らせる。

イエスは多くの人が、泣いたり叫んだり、大騒ぎしているのをごらんになり、中に入って、「何を泣きさわいでいるのか。子供は死んだのではない。ねむっているのだ」とおおせられた。人々はかれをあざ笑った。・・・
子供のいるところにはいり、子供の手をとって、「タリタ・クム」とおおせられた。それは、「娘よ、私は命じる。起きよ」という意味である。すると娘は起き上がって歩き出した。

イエスは、このことを誰にもしらせるなと、かたくかれらをいましめ、また、娘に食べ物を与えよとおおせられた。

人に知らせるなという意味は、近くにいた人のメシアニズムがあまりに未熟だったからだと、聖書解釈にある。
嘘である。
死人が生き返ったのだ。話は、瞬く間に広がる。
こういう箇所に、イエスの悪魔的行為の瞬間を見るのである。大きな誤解を招く。

当時の、エセ信仰家たちの反感は、その神か悪魔かという、混乱である。
もし今、死人を生き返らせる人がいたら、どうだろうか。
あまりの、驚きに、判断を迷うだろう。
一時期、病を治す力を得た、普通のサラリーマンがいた。映画にもなった。本人の自覚なしに、そのような能力を得たということが、おかしい。必ず、背後に、霊的存在がある。それが、何であるのか。それが問題である。

奇跡を見せられて信じるとしたら、あまりに、愚かである。

だが、科学のみを信じる者も、あまりに、愚かである。

要するに、蒙昧であるものがある。
蒙昧とは、解らないことである。解らないことは、解らないと、言うべきである。
人は、見えないものを見ない。
心の内にあものを、見る。

イエスの奇跡を、どう解釈するかによって、イエスの本当の姿が解る。
聖書の奇跡の記述は、教えを伝えるための、方便だという考え方があるが、それも違う。
要するに、自分の意識に起こらないことは、無いと信じきるのである。
イエスの復活も、信じられないのである。
死んだ人間が生き返ることはないという、観念である。

ここに、キリスト教の限界がある。
人は、生き通しの存在であるという教義がない。
つまり、転生を教会は、認めない。教会が認定しなければ、無いものなのである。
そして、人間は最後の審判の時に、肉体を持って甦ると教える。
全くの誤りである。

だがしかし、教会は、人は塵から造られ、塵に帰ると教える。
徹底した矛盾を平気で教える。

原始キリスト教団、初めは、多くの派閥があった。統一されたものではない。
専門的なことは、暇な専門家に任せる。
ローマカトリックは、皇帝と結びついて、正統であるとされた、一派である。それが、中世、異端審判として、どれ程多くの人を殺害したか知れない。
ローマのキリスト教徒迫害の様より、酷い。
お解りか。
カトリック教会という団体の真実を。そして、ルターが起こした、プロテストである。教会の、あまりの絶対権威と、その、とんでもないあり方を、批判し、それでは、イエスの教えから、あまりに遠いと、革命を起こした。それに、賛同した人の多いこと。

ローマカトリックが偽者であること、明々白日である。
イエスは、政治に関して、きっぱりと言った。
「私の国は天にあり」と。それで、総督ピラトは、手を洗う。つまり、私は、関係ない者であるという意味である。その後は、ユダヤ人に任せた。すると、皆々、イエスを殺せと叫ぶ。イエスは、ユダヤ人、ユダヤ教徒に殺されたのである。

ユダヤ教を完成させるために、現れた者が、ユダヤ教徒に殺されるという様を、何と見るか。
旧約聖書の神々の勢力争いである。
創世記
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」
神は、第七の日に、すべてを完成させ、仕事を離れて、安息した。
これが天地創造の由来である。と書かれる。
この、一週間という期間に、今は、世界中が、従っている。

この由来は、アフリカのものである。
それを借用したのである。

エジプトから、モーゼがイスラエルの民、ユダヤ人を引き連れて、さ迷うのである。今も、さ迷う、ユダヤ人である。
神から選ばれた民である。
地方の神々による民族である。
イエスは、それを世界の神に格上げした。
それが、ローマカトリックである。本当であろうか。

選民意識というものは、実に恐ろしい。
宗教と、民族は、この選民意識に、やられる。
対立と戦争が終わらない訳である。
いずれ、イスラムについて書く時に、さらに詳しく言う。

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