2007年07月14日

社民党

社民党の福島党首は、いつも、何を言っているのか、解らないのである。

今度の選挙は、安倍内閣打倒だと言う。
憲法改悪の内閣であるという。

だからいつまでたっても、国民の支持は、得られない。
党があること自体、意味が無い。
無駄である。

安倍さんに、汚い言葉を吐くと言われていたが、汚いより、意味不明なのである。

憲法九条を改正するのが、何故改悪なのか、言わない、言えない。
弁護士だったと思うが、アホのようである。いや、馬鹿か。

前身の土井党首も、駄目なものは駄目というだけであり、意味不明であった。
いつまで、ああいう連中を政治家にしているのか、恥ずかしくないのか。あれに投票するというのは、余程、根性が曲がっているのだろう。偏屈とか。

現実把握が出来ないということは、政治家としては、最低最悪というより、政治に関して、何もしないほうがよい。
黙って、大根でも植えていた方が、まだ、世のため、人のためになる。

福島党首は、スーパーのレジ打ちが、実に、あっている。
猥雑な言葉で、世間話をする、おばさんであるから、実に、理想であろう。

憲法について、云々出来る顔付き、人相ではない。

言うが、社民党は、一体、何をしたのか。どんな実績があるのか。

六月末、国会で、北朝鮮人権法改正が行われた。「拉致問題その他北朝鮮当局による人権侵害問題への対処に関する法律」である。
昨年議員立法で成立した北朝鮮人権法に、追加する改正案が成立した。
追加文面は「・・・外国政府及び国際連合、国際開発金融機関等の国際機関に対する適切な働きかけを行わなければならない」
国際開発金融機関とは、アジア開発銀行などの、北朝鮮が融資を狙っている国際機関のことである。

日本は、拉致問題が解決されない限り経済支援をしないだけでなく、アジア開発銀行などの融資に反対するということが、法律に明記されたということである。

社民党、国民のためにと言うが、何一つ、どんなことを調べても、何もしていないのである。
この改正に反対したのは、勿論、共産党である。
実績のないことを、実績にするという、不気味な共産党である。
そして、無駄な党の、社民党が、反対した。

拉致された人たちが、どんな気持ちで、故国の日本が救出してくれるのかと、待っているであろう、その悲しみの心境を理解出来ないのである。人間としても、そして、政治家としては、最低最悪を超えて、害毒である。

通常ならば、自分たちの無力を知って、自害して果てるはずであるが、先祖の因縁が悪いのであろう。それも、出来ない。
親の顔と、先祖の顔を見たいものだと思う。

党名を変えても、旧社会党と、何も変わっていない。
反省も、内省も、出来ないのであるから、救われない。

ちなみに、救いとは、我を知るということである。
救いは、神や仏によって、得るものではない。
我が吾を知ることを、救いという。

私と私自身との和解を救いという。

彼らが、
理解するのは無理であろうが。



posted by 天山 at 00:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

選挙やるものは誰か

杉良太郎さんという、芸能人がいる。
彼は、20年以上も前から、多くボランティアや、福祉活動をしてきた。
ベトナムには、学校や、日本セミナーの場も用意した。

その彼には、当初、売名行為だとの、非難が多かった。
つまり、出来ないもの、やならいもの、やれないものが、言った。

阪神大震災の時には、ヘリコプターまでチャーターして、物資を運んだ。

私は、いつか、参議院に立候補しないかと、待ったが、未だに、政界に出る様子はない。

あのような人に、議員になってもらいたいと思う。
それが、本来の議員である。させたい人になって貰うという。
特に、参議院は、そういう人に適当である。

公務員は、非国民であると、何度も書いた。訂正するつもりは、無い。
国家、地方共に、一割を減らしてもいい。
思い切って、半分にしてもいい。民間に、任せればいい仕事が沢山ある。

それだけでも、無駄なお金が減る。
それを、国民新党が言う。私は、期待する。

安倍内閣は、教育基本法を改正した。
教育国会とまで、言われて、成立すると、あれほど騒いでいた連中が、全く関心がなかったかのようである。
だから、嘘だと言う。
政治家のポーズを取るのみ。

人が何をしているのかをみれば、その人が解る。

安倍内閣は、教育基本法改正だけではなく、防衛省を庁から、昇格させた。国民投票法も成立である。
そして、年金に対する、真摯さである。

「戦争をしてもよい国にするのか」とアホは、言うが、誰も戦争をするとは言わない。
防衛と自衛のために、当然必要な、国として、当たり前のことをしているのである。
それとも、丸腰になっても、いいと言うのだろうか。だとすると、日本国民とは、言えない。
まだ、拉致被害者の救出も、ままならないという、国が、どこにある。

北朝鮮が、日本に向けて、1000基のミサイルを向けているという事実を知っても、アホは、防衛についてを知らない。
どうして、彼らが、政治家なのか、私には、解らない。
当然、国民の誰かが、選んでいるのである。

アホや、馬鹿は、何人いても、アホであり、馬鹿である。
しかし、民主主義は、数であるから、アホも数が揃えば、勝つのである。

そこで、有権者に求められるのは、観る目である。

何をやっているのか。

杉良太郎さんは、売名行為と言われても、止めずに淡々として続けた。
今は、そんなことを言う人は、いないし、また、言うほうが、笑われる。
杉さんの勝ちである。
そういう風にして、勝つ人もいる。

何もやらない人が、物を言う。実に、私は、笑う。

民主が過半数を得ても、直接、政権交代は、無い。
ゆえに、何をしているのかを見て、判断する。

このところの、六カ国協議の中で、日本だけが、浮いてきた。
それは、北朝鮮に対する、強行な態度があるからだ。
他国は、皆、北朝鮮にやさしい。
あの、独裁国家にやさしいとは、いかなることか。
あの国民の塗炭の苦しみを思えば、政権打倒のために、動くはずであるが、どうしたのであろう。

つまり、他国は、国民や人民というものを、どうとも思っていないということである。
アメリカは、人権の国であるが、それは、白人の人権であり、他の民族の人権ではない。
勿論、そんなことは、言わない。
中国、ロシアも、そうである。歴史を見れば、一目瞭然である。
共に、共産党が、どれ程の自国民を殺戮したか、知れない。

今、安倍政権の流れを止めたら、折角の流れが無駄になる。
また、今回の選挙は、そういう流れを変える選挙ではない。

ただ、民主が過半数に達したら、決まることは、実に時間がかかるようになる。
ねじれるからだ。
参議院で、捩れるのである。
そうして、無益な時間を過ごしているうちに、世界は、目まぐるしく、変化する。

再び、日本が原爆の被害に遭わないように願いたい。
あの、北の国は、アメリカとの取引に、必ず最終手段として、日本攻撃を餌にする。

私は、今から、原爆被害者として、追悼されるのを、善しとしている。

posted by 天山 at 00:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月15日

作詞 祈り

祈り 木村天山作詞 篠原吉明作曲

流れのほとりに佇む私
疲れた心を流れにひたす
傷ついたり苦しんだ思いは
流れに任せよう
この流れは 母なる海に帰るから

流れのほとりに佇む私
歩き続けた心をひたす
忘れられない辛い思い出も
流れに任せよう
この流れは 母なる海に帰るから

流れのほとりに佇む私
愛し続けた心をひたす
与えて受けた思い出も
流れに任せよう
この流れは 母なる海に帰るから

すでに、昨年から歌い続けています。
私の持ち歌のようになってしまいました。
出来る限り作詞した歌は、他の方に歌っていたただきたいと思っています。

来年は、藤岡宣男追悼として、私の、すべての作詞の曲を、皆さんに歌っていただくコンサートを開催します。


posted by 天山 at 00:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

選挙、安部内閣

今回の選挙では、私は、自民党に投票しない。
それは、自民党、安倍内閣を評価していないかと、言えば、違う。
実に、私は評価する。

まず、安全保障については、核武装した狂人の国と、中国人民解放軍に、日本は立ち向かうことが出来ないということ、安倍内閣は、十分に知っているということである。

安倍総理は、北京と、ソウルに訪問し、日中、日韓関係改善を行った。
また、日豪共同宣言に署名し、両国の安全保障を強化した。

ちなみに、言うが、中国、韓国が騒ぐ、首相の靖国参拝は、権利である。誰も犯すことは出来ない。
日本人も、それに反対する者がいるが、それは、歴史を知らない、伝統を知らないのである。
それに、首相は、伊勢神宮にも、参拝する。当然である。
自分の墓参りに、他人が口出し出来る問題ではない。それと同じである。

更に言う。
日本にA級戦犯という罪人はいない。
戦犯という罪は、日本の法律には無い。

また、現憲法も、憲法であるとは、何一つ決定しているものではない。
あたかも、憲法のように扱うのである。
ただ、憲法があるという、共同幻想があるゆえ、憲法として、成り立っている。
日本は、大日本国憲法から、新しい憲法は出来ていないのである。
これ以上は、省略する。

安倍内閣の支持率低迷は、いかなることか、考えあぐねる。
それは、閣僚の不祥事ゆえか。
それに対処する、安倍総理は、実に、冷静沈着である。評価に値する。

民主党の小沢代表は、私の尊敬する政治家の一人であるが、新農林水産相の、領収書等々の、問題を言える立場に無い。
小沢氏は、変換すべき、政党助成金を返還せずに、手元においているのである。

安倍、自民党の支持率低下は、ひとえに、マスコミにある。
マスコミは、日本の政治を混乱させ、見世物にすべく、動く。
テレビに釘付けしたいのだろう。
浅ましいし、愚かである。
いつから、政治がマスコミで作られるようになったのか。

民主に過半数を取らせて、テレビ向けに政治を披露したいのだろう。
民主が、過半数を取れば、国会は、いつも、揉める。それも、瑣末なことはがりで、揉める。
そのうちに、あの狂人の国が、軍事行動を起こすと考えると、本当に、日本人は、アホ、馬鹿、間抜けである。
倫理無き国が、軍事行動を起こすと考えると、本当に、日本人は、アホ、馬鹿、間抜けである。

年金問題は、今今の話ではない。
しかし、それに対しても、安倍総理は、真摯に向き合い、妥協せずに、徹底的に、処理をすることを実施している。
そして、年金は、永続的管理の問題である。

人に金を預けて、放っておくだろうか。
今まで、放っておいたのである。
年金の問題は、誰の問題か。国民の問題である。
それは、国民の責任である。

四割以上の人が年金を支払っていない。当然である。
真っ当な神経の者であれば、払わないだろう。
保険庁の問題を見れば、払わないのが普通の神経である。

公務員とは、民間の痛みを知らないから、公務員なのである。
今更である。

公務員も、官僚などの支配者層にいると、国民を、共産主義の人民とおなじ意識で認識する。要するに、人ではない。国の物である。如何様にして扱ってもいいのである。
一人死のうが、二人死のうが、どうでもいい。
それが、公務員たるものである。
都道府県庁の幹部を見よ。ほとんど仕事をしていない。
給与を得るために、出掛けるだけである。
これを、許したのは、他でも無い、政治家である。その政治家を選んでいるのは、誰か。
選んでいる者が、すべての責任を負う。

さて、安倍、自民党である。
年金は安倍、自民党の問題ではない。
今までの国民の意識の問題である。

いよいよ、時代が変わったのである。

国民主体の政治を行う。これに尽きる。
支持率低迷は、マスコミの目論見である。それは、国民の愚かさを見れば解る。
安倍首相が為したことの、何が問題か。
閣僚の任命責任など、物の数ではない。

それに、農水相の領収書を出せというなら、国会議員のすべての議員が、出してみればいい。皆々、本当に、明々白日に出せるものか。

腹が空いては、戦は出来ぬ。
金が無くては、政、政治は、いや、政治家は出来ないのである。

闇の金を言うなら、高級公務員の金の有様を、まず言え。
問題は、それからだ。

何せ、自民党の新聞広告に、保険庁は、公務員でなくするというのである。
公務員が、如何に信用されていないかの、証拠である。

迷いの中国禅でも、仏に逢えば、仏を殺せという。
官僚を皆殺しにしてから、すべは始まる。
仏という妄想を捨てよ。我が内に仏はあるからである。

省庁を監視するはずの政治家が、監視出来ないならば、政治家を殺せ。

特に、参議院とは、そういう仕事をするはずである。
党利党略、個人的政治理念など、何の役にも立たない。
政治機能の監視が出来ない参議院なら、無い方がよい。

無い方がよいと考える国民が大半ならば、選挙に行かないことである。
今回の選挙が終わり、存在意義を見出さないならば、次の参院選を、すべての国民がボイコットする。
それは、良い考えである。


posted by 天山 at 00:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月16日

藤岡との思い出

台風によって、横浜国際花火大会が中止になった。

それで、思い出した。
2005年の藤岡の死去の年に、藤岡に誘われて、花火大会に出掛けた。
みなとみらいに着き、ランドマークタワー付近のコーヒーラウンジで、コーヒーを飲みつつ、花火を待った。が、花火の見れる場所は、別に歩かなければ、ならなかった。
私は、動くのが嫌で、考えていた。

藤岡の知り合いが来た。

それで、私は、「花火見ておいで、私は先に、いつもの店に行っている」と言い、藤岡と別れた。

一時間を少し過ぎて、藤岡が、待ち合わせの店に来た。

それから、どんな話をしたのか、忘れた。
しかし、一緒に、花火大会に出掛けたということは、鮮明に覚えている。

人生は思い出である。
そして、今、この次元は、ここにいるもの、つまり、生きているものが、主である。
生きていればの、ものだねである。

私は、こうして、物を書ける、言える。
悲しいと言える。寂しいと言える。
しかし、藤岡は、無言である。

こちらが、七転八倒しても、相手が、無言であれば、それは、遥かなる、悲しみである。

生きていれば、怒り、悲しみをぶつけることが出来るが、相手は、死んだ者である。
死んだ、ここに、いない。
これほどの、悲しみがあろうか。

だから、私は、死を願う。
早く死ぬことを、願う。
何も、長く生きることはないし、生きたいとも、思わない。

こんな、馬鹿馬鹿しい、人生、こんな、下手な洒落のような人生を、何故、生き続けることが必要なのかと、思う。

しかし、死ぬまで、生きなければならない。

この、死ぬまで、生きるということは、絶望である。

この、絶望を生きる。生き抜く。

私は、笑う。

この、絶望を笑う。

たとえ、全世界を得ても、命を失えば、無に等しいと、主イエスは言う。
私は、言う。
そんな説教をして、何になる。
全世界など、欲しくも無い。
私は、大切な人を、大切にして生きたいだけである。

大袈裟なのである。
ご大層な説教をして、何をした。
人種差別の大量虐殺を促し、世界を戦争へと、駆り立てた、その本人が、何を、今更という。

神など、いるわけが無い。

神もどきである。

サタンよ、去れ。
同じように言う。
神よ、去れ。

真実を隠し、妄想を教えて、何を言う。

私は、裁く、神を。

さあ、私の前に出よ、神よ。
私に対決せよ。

この悲しみを、決して、神もどきによって、取り去ったなどというアホなことは、言わない。

さあ、神よ、私に対決せよ。

まあ、藤岡との、思い出に生きている。
早く、逢いたい。兎に角、早く逢いたい。
藤岡に逢いたくて、生まれてきたのである。

posted by 天山 at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月19日

選挙に 参議の意味

衆議院と、参議院の違いが解らない人が多いことに、愕然とする。

衆議は、四年、参議は、八年の任期がある。
衆議院で可決したことを、再度、国民のため、日本の国を長い目で、眺めて、その良否を問うのである。
「良識の府」と言われるが、そんなものではない。
「歴史の府」である。歴史的見地から、十分に見渡して、それが、後々、国民に善しとすることを、了承する。

アホや馬鹿では駄目である。
衆議が、少々アホでも、馬鹿でも、参議院では、それを阻止することが出来る。

要するに、翁や、婆の目である。
孫の成長を正しく見極めるという働きがある。

参議院が、正しく機能することは、百年の、千年の日本の国を見つめているということである。

それが、単なる、年金問題に絞られたり、目先の問題の解決に絞られるような、存在ではない。それならば、参議院は、いらないのである。

参議は、衆議の利益、損得を超えて、議論するから、素晴らしい。
本来ならば、日本の国のことを、愛し、それに命を捨てる覚悟のある、方々、一つは、皇室の方々にお願いするべきものである。

無私の心を、持って、この国を見つめる目を持つ人こそ、参議院議員になるべきである。

民主党が、過半数を得て、自民党の政策を善しとした、衆議の決定を、覆すことも必要であるが、単に、そんな存在ではないということである。

無所属以外は、皆、所属の党があるが、それも不思議である。
党派に関係なく、国民のためである。

党利党略を超える。

あらゆる分野の代表者がなるべきである。
その心は、千年の日本を視野に入れたものである。

ただ今の、選挙運動を見ると、すべて、党派の宣伝である。
おかしい。実におかしい。
参議院が、変質している。

それから、笑ったことは、自民党の新聞広告である。
社会保険庁は徹底解体・職員解雇。やる気のある人材だけを再雇用し、公務員ではない新しい組織になります。
とある。
つまり、ここで、公務員が、非国民であることを、宣言している。
公務員ではない新しい組織になりますとは、公務員では、信用されないということである。

いかに、公務員が腐っているかということだ。
すでに、国会議員も、それを知っている。

兎に角、地方、国家、共に、公務員とは、ドロボーと同じである。
地方の、公務員の管理職などを見れば、歴然とする。
ほとんど、仕事などしていない。管理職が、そうであれば、それ以外の面々も、それに準じる。

ちなみに、役所や、役場に一日、見学に行くとよい。
窓口にいるのは、臨時職員が多い。正規の職員は、大半が、ぼーっとして、何もしていない。ただ、何かをするかのごとく、パソコンの画面を見つめている者等がいる。それもせずに、自分のために、コピーをしている者や、趣味のために、何やら考えている。甚だしいのは、トランプに興じている者もいる。

ある知り合いの若手の公務員が言う。
新しい企画を上司に出すと、仕事がふえるだろうと、取り合わないというから、驚く。
何か、市民のためにと、新しいことを考えても、そんな習慣や、流れなく、ただ、給与を得て、のうのうと暮らす。
民間の苦悩など、どこ吹く風である。
これらが、市民の苦難の税金を得て暮らしを立てているのである。

信じられないのである。

そこで、参議院の存在がある。

各地から参議院議員が選ばれる。
それは、各地の公務員等々の働きを眺めて、市民のため、国民のために働くや否やを見て、指導をする。

その存在は、公務員の監視の役目も、負う。
地方の多くの都市が、赤字経営である。
夕張は、数多くある。それには、公務員の解体、解雇が一番である。
半数はいらない。

また、それぞれの市町村が持つ、法人の職員も、半数がいらない。
皆々、仕事などしていない。
職員の縁故関係や、議員の口利きで、職に就いている者、多数。それらが、選挙の票になるからである。
色々な例を知るが、省略する。

参議とは、下々のことから、国家天下を、千年の目を持ってみる存在である。
それにより、存在意義がある。

それでなければ、参議はいらない。
税金の無駄遣いである。

本来ならば、議員報酬など求めない人がいい。
兎に角、国会議員からはじまり、地方の議員から、公務員、それに、準じる者を、非国民にしてはならない。

勿論、付け加えておくが、彼らは、死後、その報いを受ける。
多くの人の血税で、のうのうと暮らしたのである。その結果は、死後の状態にあること、間違いなし。
死後の世界など、信じない、死ねば終わりだ等々、言わせておけばよい。
必ず、後悔するであろう。

死後の世界は、信じるものではない。
存在するものである。
知らないということは、恐ろしいし、また、哀れである。
ちなみに、読経して、供養されても、何にもならない。
あれは、頑張れ、頑張れと、応援するが、それ以外の力は、何も無い。
供養されて、成仏するというのは、お話である。
仏教の布教のための、単なる、嘘話である。

あれほど、汚い音霊、おとまた、に清められることはない。
精々、お化けが出なくなったという程度である。
その、お化けが、どこに行ったのかは、誰もしらない。



posted by 天山 at 00:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月29日

京都駅を見る

コンサート開催で、京都に行った。
一泊の予定である。

20年前は、年に一回は、札幌から京都に出掛けていた。お茶や、お花のお弟子さんたちを連れてである。
家元を訪ねるのではない、京都を見るためである。
ただし、行くたびに、京都を嫌いになった。

さて、今回、新しい京都駅を見た。
素晴らしい近代的な建物である。
これが建つ時に、相当、京都市民が揉めたのである。京都の景観を、云々ということだった。

誤解されることを恐れず言えば、京都の景観など、どうでもいい。
景観を残しても、心と精神を残さなければ、何にもならない。

寺と家元たちのために、京都があるのではない。それらは、一網打尽に焼き尽くしてもいい。
京都の価値は、そんなものではない。

古都、鎌倉に三年住んだが、古都とは、何事かと、いつも思っていた。
鎌倉は、古都でもなんでもない、ただの、田舎町である。
寺が多ければいいというものではない。役立たずの寺が、千件あっても、詮無いことである。総本山という寺もあるから、驚いた。
円覚寺や、建長寺も、何度も訪ねたが、別段特別なものはなかった。
あるのは、寺の欲望である。
ただ、それだけ。すでに、お役目を果たし終わった、跡である。
以下、省略。

さて、京都の新しい駅は、古都に相応しい。近代的であること、それが、いい。
これを、あたかも、古都であるという駅にしたら、もう、京都は終わりである。世界の人が訪れる。京都は、今も、都であるということを、新しい駅が伝える。

市民が、寺が、華麗なるペテン師の家元たちが、残したいと言う景観があるならば、地区を作り、そこだけ、幽霊の出るような場所にしておけばよい。
黙っていても、幽霊の出るような場所、多々あり。また、掘り起こせば、人骨など、出てくるだろう。

ギリシャ、ローマ等々、世界の遺跡のようなものが無くてもいい。
日本人は、そんな伝統を持たなかった。

後は野となれ、山となれ
である。

後世に残すものは、その心であり、精神だった。
日本の建物は、朽ちるからよかったのである。

大きいだけの奈良の大仏など、目障りである。すでに、用済みである。

建物の跡は、野原になり、山になって、善し。

日本の最古の都の駅が、時代の先端を行くものであることこそ、世界の人に驚きを与える。
金持ちの貧乏人遊びに、付き合う必要は無い。

それに、少し歩けば、京都の町は、普通の町並みである。
繁華街なども、狭い。
四条辺りのホテルに泊まったが、普通の町である。
それでいい。
周辺を歩いていると、寺がある。そのうち、寺、寺、寺である。

あれだけの寺が食えているのであるから、まだ、仏教という宗教は、金になるのだろう。
檀家制度が支えている。
奈良は、檀家制度が無いゆえに、貧乏な寺は、没落の一途を辿る。しかし、物好きな人もいて、布施をするから、少しは、やっていかれる。

翌朝、京都駅のビルで、一時間ほど、お茶を飲んで、見渡していた。
かび臭い、多くの建物を巡った観光客、国内外の人を含めて、駅ビルに来て、ほっとするだろう。
すると、何でもなかった、寺などを回っても、何か、あったような気分になる。
駅ビルに来て、また、自分に立ち戻るのである。それに相応しい建物である。

ここには、日本が在る町という、妄想に似た印象を持って京都を去る。
もう一度、来たいと思う。
それで、いい。
脱日常が旅であるから、京都は、それを提供すべき町だ。

実は、旅は疲れる。
いつも通りでないからだ。新鮮さは、ストレスである。そのストレスが、よい刺激を与えるのが旅である。
古い町、京都は、安らぎを与えるようだが、実は、非常に強いストレスも与える。それが、感動と、ごちゃまぜになるのである。

そんな後で、最後に駅ビルに着くと、しっかりと、時代に戻って、シャキとする。
そんな建物である。

ストレスは、別な形のストレスによって、癒される。これが、ストレス解消の技である。

上野駅も、東京駅も、そうだが、こちらは、逆に田舎臭くしてもよい。
まあ、私には、関係の無いことなので、どうでもいいが・・・
上野駅が新しくなった時に、感傷的な言葉も聞いたが、一時的なもの。新しくなることは、時代の、時間の経た、感慨を抱かせる。それの方が、精神衛生によい。

子供が、いつまでも、子供だったら、化け物である。
少年になり、青年になり、そして翁になるから、いい。

ちなみに、古いものを残すということが、何か、良いことだと思う人がいる。古いものは、捨てるべきである。
世界遺産になるようなものを、日本人は作らなかった。それが、伝統的考え方だった。
木の建物は、いずれ自然に帰るから良い。

後は野となれ、山となれ
これが、日本の伝統である。

posted by 天山 at 00:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月30日

ボランティアを考える

それは、私が15歳、中学三年の暮れのことである。

街頭に立ち、ある、障害児施設の募金活動をしていた時。

私は、突然、激しい恥ずかしさに襲われた。
いたたまれない気分である。
「寄付をお願いします」と大声を張り上げていた。仲間も、数名いた。カトリック教会の仲間たちである。
いつも、ボランティアや募金活動をしていた。

その突然の恥ずかしさに、私は、声を張り上げるのを止めて、ただ、自分の心を見つめていた。一度に、様々な考えが襲ってきた。
結局、自分は、なんという恥ずかしい行為を、しているのだろうかというものに落ち着いた。つまり、ボランティア活動や募金活動にである。

募金を集めたお金を、相手先に寄付するが、何のために使われているのかという問題など、考えなかった。ただ、寄付することが、良いことであると信じた。そして、自分も、良いことをしていると思い込んでいた。そして、それは、信仰告白の一つの形だとも思っていた。

しかし、自分は、一体、何だろう。
親に養って貰い、何の苦労もせずに、人のためと、募金箱を下げて、立っている。そこに、非常に傲慢で、偽善者のような、自分を観たのである。

「人に見せるために善行はするな」とイエスが言う。
「右の手が、良いことをするのを、左手に知らせるな」とも言う。
「隠れたところに、おいでになる神には、隠れて為せ」とも言う。

しかし、そのイエスの言葉より、私は、私に言うべき言葉がなかった。
ただ一言、恥ずかしいのである。

これ以来、私は、募金活動を止めた。
そして、ボランティア活動も、基本的に止めた。
どうしても、人手が無いという時にだけ、協力した。

それから、ボランティアに対して、考え続けた。
それを、23歳の時に、「あさっての風」という本に書いた。自費出版である。
そして、それを持ち、北海道庁の福祉課に行き、ボランティア協会設立を促した。
しかし、道庁では、反応なし。ただし、その三年後に、何と、ボランティア協会なるものが出来た。
役所というものは、そういう所である。誰か、有力者が言い出したのだろう。議員とか、その付近の人である。すると、即座に、対応する。だから、議員を皆、頼む。

さて、そんなことは、どうでもいい。
矢張り、私は、ボランティア活動を止めていた。

ボランティアの語源は、ラテン語のボランタスにある。
意味意識という意味である。
意味意識とは、何か。生きることの意味意識以外にない。

生きることの意味意識とは、人との関りになるということ。人は一人では、生きられない。
今の言葉で、言えば、相互扶助の考え方に近い。

子供は、母親にすべてを依存する。母親も、その依存を受け入れる。
そして、子供が成長するに従って、その依存度は、低くなる。
ついに、子供が自立して、その関わりが、一割程度になる。
その、一割の関わりで、親子は、相互扶助の関係になる。それは、他人も同じである。
図にすると、よく解るのであるが、一割でも、三割、五割でもよい。ただし、五割以上の関わりは、夫婦関係など、より親密な関係に言える。

その関わりの中に、生きる意味意識を観る。それが、ボランティアの語源の意味である。

奉仕活動とは、日本語である。
奉仕とは、無償で行う行為である。

戦後、アメリカから、ボランティアという言葉が入る。
奉仕には、奉るに、仕えるということで、多くは、宗教的意味合いが強い。そして、ボランティアという言葉も、宗教色が、非常に強い。
キリスト教精神に則り、行為行動するものであり、その行為は、神に捧げられる。
イエスの言葉に「その、小さき者にしたことは、すべて私にしたことになる」とある。
無償の行為は、イエスに対して為されるのである。

戦後、多くの福祉活動は、アメリカのキリスト教関係者によって行われた。
それを否定するつもりは、全く無い。感謝している。
しかし、批判する。
その行為に、付属して、福音宣教という、布教活動がある。
単なる、無償の行為ではなく、そこには、宣教、布教という、目的がある。

それにより、戦後派、クリスチャンが、増えた。当然である。食わせてくれるのであから、それはそれは、救いである。

プロテスタントが主導であったが、カトリックも負けじと、学校や、病院等々開始する。
布教のためには、金を惜しまない信者が大勢いる。欧米のキリスト教関係から、大量の寄付金が集るのである。

さて、ボランティアを、日本語として訳す時、奉仕と、訳すのか、福祉と訳すのか、相互扶助と訳すのか。
今は、そのすべてを包括しているように思う。

災害時に、義援金などを集める行為も、ボランティアの一環とみることもできる。

だが、ここで大きな問題は、助けるという意識である。

助けるという言葉を多く使う、天理教という新興宗教がある。
人を助けて、我が身が助かるという。
しかし、人を助けて、我が身が滅ぶということもある。
矢張り、ボランティアとの意味合いが違う。

ボランティアを、宗教と絡ませると、意味合いが別次元のものになるようである。

それでは、宗教を離れたボランティアというものを考える。
無償の行為とは、言え、宗教が絡むと、別な意味合いになるのである。


posted by 天山 at 00:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月31日

ボランティア2

端的に言う。
ボランティアとは、共生の思想である。
それ以外に無い。

水が上から流れるように、下に行くようなものが、ボランティアではない。
つまり、助けが必要な人を、出来る範囲で、援助する。そして、こちらも、援助されるということである。

ボランティアに、携わっている人が、させていただける、という言い方をするが、非常に宗教的であり、うそ臭いのである。
確かに、それをするに当たっての対象があるということにより、その行為が遂行出来るが、させていただくという、特別な意識を持つこと自体に、問題がある。
させていただくという、私の立場が、矢張り、上なのである。

日本には、お陰様でという言葉がある。
ボランティア行為は、互いに、お陰様で、いい。

天災が発生し、被害が大きいと、即座に、募金を募る。
あれほど、危険なことはない。
実に簡単な行為であり、それで、気持ちが満足するだけであれば、意味が無い。

また、被害がある人が、ハイ、と言って、その募金を受け取るものだろうか。
赤十字、NHK、新聞社等が、募金をつるのが、私は、不安である。

善意をすぐに金にして、解決するのは、安易である。

それより、その場の必要な物を、差し出す方が、真っ当だ。
つまり、現場に駆けつけて、ボランティア活動する人が、真っ当だ。

さて、世界には、多く、支援や、資金が必要な場が多々ある。
しかし、よく考えると、様々な国の、様々な、規約等があり、何事もスムーズにいかない。
日本が支援している国でも、その金が、何に使われているのか、解らない国も多い。
国境を越えるボランティア活動は、実に難しい。

信頼性が高い、組織でも、お金を寄付するのは、注意が必要だ。
募金箱に入ったお金の流れが、全く解らないのである。
下手をすると、宗教団体の資金にされる場合もある。

普段の生活で、ボランティアなどの活動が出来ない人は、多い。だから、安易に募金をするというのは、もっと悪い。
普段の生活の中で、共生の生き方が出来ない人は、ボランティアという行為も、単なる付け焼刃であるし、一過性のものである。

日本には、相手を先に、する、という、美しい行為がある。譲り合いである。
これも、立派なボランティア行為である。

言葉のボランティアも、勿論ある。
挨拶である。
兎に角、ありがとう、が大切である。

ボランティアの語源は、意味意識というように、生きる意味意識である。
それは、人間だけが、相手ではない。
山川草木に至るまでが、対象である。

そうなると、ボランティアという行為は、単なる福祉、奉仕活動に限定されるものではないということが言える。

様々な形と、方法で、ボランティア行為をするのである。
つまり、それは、生きるということと同じである。

海外で、ボランティア活動をする人も多いが、それが、その国、地域の相互扶助を破壊する場合も多々ある。
善なることだから、良いのではない。

貧しい人の多い、インドの地での活動が、単なる焼け石に水ということもある。
あの、マザーテレサという偉人でさえ、インドの根本的な態度を変えられなかったのである。貧しい人が多いが、超金持ちもいる。その格差は、甚だしい。そんな国で、福祉活動とは、とんでもない酔狂になることもある。

バリ島では、バリ島以外の島から来た、売春をする女性が産んだ子供を育てる施設が、三つある。
その一つに、日本のNPOがある。
日本からの、滞在ボランティアを募集している。
一週間の滞在で、65000円ほど、かかる。安いツアーでは、その値段で、ホテル、航空運賃込みである。
それを、滞在するだけで、支払うとすると、この団体が、利益追求であることが解る。勿論、それは、私が裁くものではない。
ただ、事実を言う。
そして、寄付も募るのである。

更に、バリ島の伝統的生き方を教えるかといえば、そうではない。バリ島の伝統を知らずに、やっている。
バリ島には、相互扶助の考え方が生きていて、孤児は、村人が育てる。

タイの地方は、貧しいが、子供が餓死することはない。
それは、お寺があるからだ。
男の子は、出家をすれば、食べていかれる。また、お寺に行けば、布施の食べ物があり、最低限、食べることが、出来る。これも、相互扶助である。
ストリートチルドレンは、タイには、いない。おおよそである。
仏教国の良さが生かされている。

それから、誤解を恐れずに言えば、子供の命を救うと称しての、募金活動をするが、生かして、その後は、どうするのかという場合が多々ある。
戦争によらずの自然淘汰は、当然ある。
子供が育たない環境は、大人も、生きるに、壮絶である。

育った子供に銃を持たせるような環境で、いいのか。
単なる、安易な考えで、生かすということのみを考えるのは、おかしい。

国連と、銘打つと、信用する人が多いが、実に、危険である。
国連、ユニセフなどというと、信用する。
あの組織の金の流れを誰も知らない。全く、見えないのである。
そして、彼らが発表するものを、信じられない。

ユニセフ大使などといわれる人は、痛くも痒くもない生活をしている。
単なる名誉で終わる。
自費で、あのような行動が取れるか。否である。


posted by 天山 at 00:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月01日

ボランティア3

ボランティア精神に、マザーテレサが、引き合いに出されるが、彼女の行為は、ボランティアとは、言い難い。

彼女は、その活動を、あくまで、ローマ法王により、認可されることを望み、そして、認可されて、活動をしている。
カトリックでは、神の代理者である、法王の認可なく活動するのは、タブーである。
そして、修道会としても、認可された。

教会も、その死後、すみやかに、聖人になる資格の、福者の称号を与えた。これから、彼女の奇跡の調査を開始して、聖人に認められるだろう。

「神様のために、素晴らしいことを」と言う。
その信仰に、基づきの行為行動である。
ボランティア活動の一つの形であるが、実は、欧米で言うボランティアは、すべて、その信仰よりなる。

マザーテレサの活動に、共感し、また、その姿に光を見て、続々と、その後に慕う人々が、現れて、現在に至る。
慕うというのは、マザーの活動を見て、生きる意味意識を発見したのである。
と、共に、そのようにしか、生きられない、己の姿に気づいたとも言える。

この世に、天国、神の国を実現しようとするのは、信仰ゆえである。

インドのシステムを変えるというより、その活動自体に意味を見出す。
残念ながら、マザーの活動によっても、インドの風を変えられなかった。

確かに、人間として、対座した時、マザーテレサの威圧感に、圧倒されるだろう。
彼女の背後霊団は、とてつもなく、大きい。

そして、その活動の元は、目の前に現れた、キリストの姿である。
磔のキリストが、目の前に現れて言う。
「私は乾く」
マザーテレサの確信である。
そのメッセージを、インドの地で、実践した。

このような、あきらかなる、メッセージを通常、人は与えられない。
マザーテレサは、選ばれたといえる。

日本のカトリック信者の多くに見られる、ムードの信仰は、無い。
信仰は、即生きることである。
そして、生きることは、神を相手にすること。マザーは、インドの捨てられた人に向かった。そして、その行為を、ボランティアと呼ぶかといえば、違う。
キリストの乾きに、応えたのである。

共生の思想より、強い信仰である。
神のためにという、目的がある。つまり、神による、祝福がある。それは、神からの報いを得ることである。
身も心も、神に捧げた。
それが、行為行動に成った。

それでは、宮城まり子をみる。
障害児の施設、ねむの木学園を興し、現在も、それが続けられている。
彼女は、恋もする、普通の女性である。
何をして、彼女を行為させたのか。
彼女には、福祉という言葉がある。

福祉という言葉についての、解釈は、暇な学者に、任せる。
実践もしないような、学者に、解る訳が無いが、勝手にさせる。

自分の出来ることをする。
ただそれだけである。
そして、それも、そのようにしか生きられないから、それゆえの行為行動である。

彼女は、特別なことをしている意識は、無い。
出来ることをする。
自然発生的である。

啓示も与えられた訳ではない。

日本の伝統には、あわれ、を生きる思想がある。
あわれ、というと、仏教の哀れ、とか、憐れの文字が与えられるが、あわれ、の感覚に近い意識は、慈悲という言葉になる。
もののあわれ、という。
それは、共感と共生の思想であり、人間に留まらず、自然、すべてのものに、通ずるのである。

同じ場所に生きるもの同士の関係である。
ラテン語のボランティアの語源、ボランタスに近い。

そこには、特別の啓示は無い。
あるのは、共に生きるということだけである。
だから、自然に対しても、ボランティアをする。
勿論、今は、それも失われて久しい。
すべて、金に換算し、自然も何もあったものじゃない。
先祖も、子孫も無く、今の利益を確保することに専念し、死後、とんでもない霊的空間に行く者、多数である。

バリ島には、相互扶助の思想が生きている。
日本の伝統と、同じである。
福祉とは、相互扶助を言う。

他人が他人でなくなる瞬間がある。
袖振り合うも他生の縁である。

キリストの乾きに応える、マザーテレサと、他生の縁に生きる者の、行為行動は、違うということが解る。
ちなみに、一神教の場合は、実に激しい行為行動を求められる。
すべてを捨てて、神に向かうということである。

他生の縁に生きる者は、すべてを捨てることなど必要ない。
出来ることをする、のである。

右を打たれたら、左も与えよという、激しい病的感覚は無い。

松のことは、松に習え、竹のことは、竹の習えという、優雅、風情は無い。

自分の器に合ったものこそ、大切なことである。
無理に、型に押し込める必要は無い。自分の形を作り上げてゆけばいい。
松尾芭蕉は、大井川を渡る時、捨て子に逢う。
お握りを与えて言う。
「汝は汝の定めを泣け」
実に、福祉であると、私は思う。


posted by 天山 at 00:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。