2007年06月27日

年金滅亡

大半が信用していない。
年金である。

この国が、破産するとか、滅亡するとかは、考えられないのである。皆様は。
歴史をみれば、国や文明が滅びるのは、簡単である。

55年体制というものが、崩壊した時の、ある種の人々の興奮といったら、なかった。
しかし、今、その体制が、どうなったか。
たいして変わりはしない。

結果、皆々、馬脚を現しただけである。

さて、社保庁改革法案である。
今更、である。

その一つ、監督権者は、厚生労働相である。
その一つ、業務は可能なかぎり民間に委託する。
その一つ、職員は、全員解雇するが、再雇用するという。

民間に委託するとは、年金の集金である。最も大変な仕事を民間がする。と、共に、民間とは、国民であるから、国民に国民から集金させる。
あの、生命保険のおばさんを、思えばよい。親戚、友人、知人、そして、友人の友人、知人の知人と、縁を広げて、契約を取る。そして、取れなくなったら、首である。そうして、保険会社は、金を集めて、日本を滅茶苦茶にした。
最後の極めつけは、不払いであるから、救われない。
保険会社の幹部、社長から、会長と呼ばれた人々で、死んだ者は、今頃、地獄の責め苦に遭っていること、間違いなし。供養をしても、役立たずである。

職員の再雇用とは、驚く。公務員ではないが、職員にするという。
問題は、非常勤職員だという。それを、今、第三者機関が、検討しているという。

ここで、社会保険庁の、職員の大本が見えた。
組合である。
仕事を制限する覚書を書かせていたのである。

組合とは、労働組合である。
組合は、いつからか変質して、社会主義の変形したものになって、久しい。
共産、社会主義の国を見れば、歴然とする。
幹部主義である。兎に角、幹部になれば、好き放題。
敵のはずの、経営者より、組員から搾取して、はばからない。
最も、嫌いなはずの、組織を作り上げて、平然としているのである。

その組合が、職員の怠慢を招いたというから、驚く。呆れる。

すべての元凶は、組合にあり。

仕事を、出来るだけせずに、給与を得て、のうのうとしていることを、強制するのであるから、困ったものであり、救いがない。

それが、驚くことに、幹部たちと、手を結んでいたのだろうと、思われるから、また、驚くのである。
長官は、渡り鳥で、退職金詐欺であり、グリーンピアで、年金資金を食い物にしたのは、政治家と、官僚であるから、何から何まで、救いようが無い。

それを、国民は、見て見ない振りをしていたが、ここ、ここに至って、自分の財布が危ういとなると、ようやく声を上げた。

結局、すべての責任は、国民に帰す。
それで終わり。

腐っても鯛というが、腐ったものは、食べられない。ゆえに、捨てる。

国を捨てるしかない。

参院選が空しい。
自民が負けても、民主である。
ちなみに、民主の改革案は、国税庁と、社保庁の統合であり、職員は、そのまま公務員だというから、呆れる。
呆れて、口もきけない。
そして、参院選である。

こうなったら、もう、元ペルー大統領のフジモリに入れるしかない。
何の役立たずであるが、どうせ役立たずなら、その方が、気が易い。

民主が勝てば、国会は荒れる。先に進まない。停滞。
停滞しているうちに、北朝鮮が宣戦布告する。
国連は、日本を敵にした、同盟国クラブであるから、日本が滅びるに、何の方策も取らない。

小さな島国は、無かったことになるのである。
そうして地球は、結局、野蛮な人たちのものになる。

天地創造の、あの野蛮な神様を崇拝する、野蛮な人たちである。

天孫降臨の私たちは、天に帰る。
めでたし、めでたし。

私は、次に、どこの星に住もうかと、考えている。

これ位、狂わなければ、やってられない。



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2007年07月01日

危ない

危ない。
非常に危ない。

外はアメリカを真似て、内は、中国、中国人を真似る。
政官民と、共に、公金横領をよしとし、甚だしくは、偽者である。
偽の肉を売って26年というから、呆れる。

中国の偽薬、食物等々、全くそれを追いかけている。
いつから、日本人は、中国人のようになったのか。

民は、不安と苛立ちである。
中国と同じである。
違うのは、あちらは、一人っ子政策で、こちらは、生め産めという。
子供など、生んで、どうする。
苦難、苦労が見える日本人を生んで、どうする。

これから、老人介護と、エイズ患者の世話で、日本は、おおわらわである。

子供から、老人まで、苛立ちで、人殺しをする。
親子が殺し合い、子供を虐待、殺す。
これでは、中国人と、変わらないではないか。

中国の血が入ってきたのは、推古天皇の以前であるから、歴史は古い。
途中、半島の血と交じり合い、それらも、大量に入ってきた。
当時は、ユダヤ人も、多く来た。
それらを採用したのは、聖徳太子と後に言われた、厩戸皇子である。

あの時代から、物騒になった。
蘇我馬子、蘇我一族は、大和に戦をもたらした。
大陸の血を持つものは、いつも、戦をもたらす。

古代の戦の元は、すべて、蘇我一族が、からんでいる。
蘇我入鹿が殺されてからも、残った一族は、こりずに戦の種を撒いた。

飼い犬に手を噛まれるどころか、聖徳太子の一族は、蘇我入鹿によって、皆殺しにされている。
日本は、実に危なくなった。

一発触発である。
人の心が、そうなったのである。

アジアの貧しい国を、更に貧しくして、日本は成り立っている。それも、アメリカの真似をしている。
アメリカのために、貧しいままでいる国。
元を辿れば、イギリスに行き着く。

大航海時代のスペインは、アメリカ大陸で、現地人を一億人殺した。それも、十字架を掲げてである。カトリックの教えをもっての、大量虐殺である。
そして、ポルトガル。
最低最悪の国は、イギリスである。
自分の手を汚さずに、どれ程の悪事を働いたか。それにより、利益を得ての、産業革命である。
皆々、イギリスを賞賛したが、歴史を知らないゆえである。
アフリカからの奴隷を売り捌いたのも、イギリスである。
その底には、白人のキリスト教主義がある。

ユダヤ教にせよ、キリスト教にせよ、イスラム教にせよ、皆々、手のつけられない悪事を成したのである。

歴史の時間には、そんなことを教えない。
ただただ、日本は、日本人は、悪い。他国を侵略したと、センセイは、教える。
それならば、欧米人のやったことは、どうなのか。
侵略どころではない。虐殺、さらに、虐殺である。

侵略し、植民地化して、平然としている。
唯一、日本だけが、ごめんなさいと、謝り続けて、マレーシアの首相に、あんたたち、もう、そんなことを言のは、やめないと言われた程である。
それを率先して行った、旧社会党の面々である。

ヨーロッパの経済を支えたのが、どこだったか、調べてみればよい。

インド独立のガンジーが、どんな思いで、行動したか・・・
イギリスなどは、紳士の国とか、王様のいる国とか言うが、紳士など、一人もいない。王室などは、元は、海賊である。
あれらの顔付きを見れば、解るものである。

日本人は、極悪非道の心を持ち合わせないのだが、それらの血が入り、今は、瀕死の状態である。
実に、危ない。

ただし、私は差別しない。
ただ、日本は、日本人は、お勉強不足なのである。

この危機を乗り越えるために、お勉強が必要である。
そして、外から入ってきた宗教には、関わらないことである。
勿論、仏教が最初に入ってきた。
中国思想をまとってである。

四方津国のものに、迷わないことである。
それらに、関わると人間が駄目になることは、仏教の僧を見れば、一目瞭然であろう。
観念だらけ、迷いの教えである。というより、職業としての僧、商売としての僧である。
管長だの、門主だの、何だの、かんだのの、役職に就く者を見よ、キンキンキラキラの僧衣をまとい、僧などとは、名ばかり。暴力団追放なら、精神的暴力団の宗教家を追放すべである。
政治は、宗教により、体制批判や、体制のストレス昇華、不安感を取り除く役割を期待するのであるが、もはや、宗教団体は、その役割を為さない。
宗教も体制化されて、段階を上がるシステムになり、偉くなりたいと思い、妄想の教学などを、真剣に学んでいる。
画一化された問題は、飼い殺しを目ざしている。
知恵を伝えるはずの宗教が、知識を最優先する。
実に恐ろしい。

危なくなったら、最初に戻る。初心に戻る。故郷に戻る。元に戻る。自分に戻る。我に返るのである。

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2007年07月05日

倫理

高齢者を餌にした、詐欺、社会保険庁詐欺が、始まっている。

再度言う。
いつから、日本人は中国人のようになったのか。

逆説の日本史で知られる井沢元彦氏の文を紹介する。

「中国の資本主義にはまったく倫理というものが無いということだ。法律とかシステムの問題ではない。
中国人は「儒教」という言葉を嫌う。これは「儒学」だという。つまり宗教ではなく理性的な哲学であり政治学だと主張するわけだ。もちろん、そではない。「商業や金融に関する偏見」はまさに儒教という宗教の非理性的部分が生み出したものだ。しかし、「儒学」といいたがるということは、中国人はその偏見を偏見だと思っていないということなのである。
つまり、彼等にとっては今でも「商売は悪」であり、しかもそれを正しいと思い込んでいるということなのだ。これが「倫理なき資本主義」ということである。ついでに言えば「工」つまり「モノづくり」も「士」つまり官僚エリートから見れば「賎しい身分、賎しい職業」であり、「農」ですらそうなる。士農工商は今も生きている。」
「メディチ・マネー」も「プロテスタンティズム」も「日本資本主義の精神」も存在しなかったということなのだ。

その結果が、粗悪品を作り、農薬を大量に使う農作物を作り、平気で公害を撒き散らして、利益を得ようとする。倫理がないから、平気で嘘をつき、兎に角売れればいい。
そして、驚くべきは、共産党の幹部連中が息子や親族を使って、そういう「儲かる」企業を経営するという。

井沢氏は、「こうした恐るべき事態の根本原因にも実は宗教がある。それは当たり前の話で、人間の基本的行動を決めるのは宗教だからだ。」と言う。

それと共に、井沢氏は「宗教というものは本来理性的な人間の価値判断を、完全に狂わせる要素を持っている」と、非常にバランスの取れた考え方を持っている。

さて、日本人が中国人に似てきたというのは、この倫理の問題である。
伝統的、宗教教育を受けない、また、多くの宗教があっても、役立たずであり、死に体になっている。
人間の基本的行動を決める宗教を失って久しいのである。

オカルト系や、霊能的スピリチュアル系、そして、嘘八百の新興宗教などに、嵌り、本来の宗教、つまり、生活に根ざした宗教的行動や規範を失ったゆえである。

戦後60年を、それで突っ切ってきた。
ついに、倫理というもみのも、見失ったのである。
ドロボーも、自分の子供には、人の物を盗んだら、悪いことだと教える。それが、無くなったのであると思えばよい。
何せ、子供に盗みをさせる親がいるという状態である。

通常、高齢者を騙すというのは、仁義に反する。非常に弱い者だからだ。
共に、障害者である。
弱い者を騙すというのは、もう末期的状態である。

なけなしの老後の資金を得て、得をしたと思う根性が地獄である。
すでに、地獄の住人と化している。

これは、中国という国が、すでに地獄であるというのと、同じである。
士農工商を卑賤として共産党幹部が、それの上前をゆく。
自ら手を染めることなく、士農工商の中に入って、利益を貪るのである。
共産党、共産主義とは、名ばかりである。

いつから、日本は、中国のようになったのか。
それを、私は言う。

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2007年07月07日

裏切り

地方議員が、全国で任期の前に辞職しているという。
その数、164名。

その訳は、何と、共済組合法改正にあるという。
つまり、年金が引き下げられるゆえに、引き下げられる前に、議員を辞職するというもので、有権者を裏切り、馬鹿にし、コケにする行為である。

皆さんのためにと、選挙運動で、喚いていた連中は、皆さんのためではなく、自分のために、議員になっていたということである。
呆れて、口も利けない。

3期12年以上になると、相模原の例をあげると、年間、200万8000円から、265万1000円であり、それが、22万3000円から、29万4000円に減額されるという。
その前に、議員辞職するということは、本性丸出しである。

要するに、今まで言ったことは、皆々、嘘であるということ。

親の顔がみたいものである。

兎に角、役立たずの人間が、議員になりたがるという、定説もある。
何の才能も無く、弁のみ立つ。嘘を言わせたら、天下一品である。
議員になるために、生まれたという人もいる。

ちなにみ、選挙で落ちると、ただの人。何のとりえも無い。

ただ今は、いつ命が取られるか知れないという時代ではないから、議員になりたくて、しょうがない人が多い。
黙っていれば、収入を得るのである。
こんな、良い商売も無い。

しかし、それを選んでいるのが、市民であるから、市民は、踏んだり蹴ったりである。
何のための、投票だったのか。
市政を任せての投票である。しかし、本人は、あっさりと、辞める。
その理由が、年金が引き下げせられるからという理由だとしたら、市民は、救われない。

大義も、へったくれも無い。
志の前に、20万から29万が減ろうが、どうでもいいだろう。
全額貰えないということではないのである。
その、みみちい根性には、男として、辟易する。

ホント、生きている甲斐が無い、死んだほうがよい。
そんなのが、生きていても、何の益もない。
世の中に、何の益の無い者は、死んだほうが増しである。

ちなみに、高齢者、障害者について言う。
その存在は、社会に必要である。
社会は、その人々によって、成長し、成熟する。
認知症の方によって、人生のあるべき姿が観える。
人は、彼らによって、真実の優しさを知るのである。
そして、生きるべき意義をも知る。

社会の真実は、社会的弱者によって、支えられるのである。
この意味が解る者は、まだ生きる価値がある。
解らない者は、死ね。

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原爆が非人道的ではない

変なことを言う人が多いものである。

被爆者たちが、特別な存在であろうか。
久間は発言から、どんどんと本性を出すのである。

原爆は、非人道的である。許されることではない。

何を言うか。
それを言うなら、戦争とは、非人道的である、だろう。

広島、長崎の被爆者たち、死者たちが、特別な存在であるかのように言う者に言う。
私の父の兄弟たちは、多く戦死した。
東京大空襲で、多くの人が亡くなった。
それと、原爆を受けて死んだ者が、別物か。

これを言うと、そんなことではない、そんな問題ではないというだろう。
しかし、別の意味では、それと同じようなことを言うのである。

戦没者の遺骨は、まだまだ、南の島に残る。
116万人である。
私は、帰り来ぬ風、という作詞をして、彼らを追悼する歌を歌うものである。
政府が、せめて、三億の予算を出せば、私一人でも、彼らの遺骨を、日本に持ち帰る。

60億円が使いきれないという、某健康食品会社会長よ、聞け。
お金は、有効に使えと。
お前のようなアホに、大金を握らせるという、この世の支配が、悪魔の支配であること、明々白日である。

さて言う。
原爆投下によって、100万人単位の日本人の命が助かったという、言い分は、アメリカのものである。
建国200年の間に、アメリカは、どれほど、非人道的な戦争をしてきたか。
いやいや、建国以前にも、アメリカ先住民族である、インディアンを、どれほど、殺したか。

それが、人道的か。

ものの見方、考え方が、おかしい。

戦争放棄の憲法こそ、人道的である。
しかし、それも、アメリカによって、押し付けられた憲法という。
私は、共産党、社民党のアホが言う、憲法改悪改正といい、憲法改正に反対する者ではない。

戦争放棄は、日本の皇祖皇宗である、御親の、御心である。
御親とは、みおやという。私の先祖の総称である。
日本の先祖は、戦争を放棄する。
憲法九条は、天照大神の御意思である。
ゆえに、守るべきものである。
何となれば、戦争こそ、非人道的だからである。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、人殺しを平気でする。
戦争容認の宗教である。
それが、この世の、世界を多く支配する。
悪魔の宗教である。

大航海時代から、かれらは、どれほど多くの人を、民族を殺し続けたか知れない。
植民地化して、さらに、彼らから搾取して、生かさず殺さずで、さんざんに搾り取った。それで成ったのが、欧米の国である。

極悪非道振りは、筆舌に尽くし難い。

ゆえに、私は、ヤーウェ、エホバという神を、裁く。
アッラーの神も、裁く。

さて言う。
原爆の問題ではない。
世界に戦争放棄を促す国、それが日本でなければならない。

死んだものは、生き返らない。
ゆえに、その死を、最大限に生かしきるには、戦争放棄を高らかに掲げることである。
私が、共産党や、社民党のアホと違うことは、そのために、死んでもいいということである。しかし、彼らは、死にたくないのである。生きたいがための、反対をする。社会主義、共産主義国家の面々を見よ。皆、生きたくて、生きたくて、しようがないのである。
命懸けで、戦争放棄など言わない。ポーズで言うのみ。
平気で人殺しをするのは、共産主義であろう。

原爆投下が非人道的であるという前に、戦争が非人道的と、言うべきである。

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2007年07月08日

詐欺まがい

これを書くのは、不本意である。しかし、証拠として、書いておく。

レコード会社をはじめ、広く音楽業界では、私、木村天山を「詐欺まがい」であるとの、噂である。

「詐欺まがい」とは、詐欺ではない。しかし、この言葉の響きにより、私に対するイメージダウンを狙うものであり、実に卑劣である。

「まがい」とは、紛い物、贋物という意味がある。
詐欺ではないが、そのまがいものとは、一体、どんな意味があるのか。
意味は、無い。
詐欺ではない。ただ、目障り、障害物であるゆえの、噂を流す。

私は、それが、どこから出ているのかを、知る。
そして、誰が言うのかも、知る。

クラウンレコードは、藤岡の死後も、マジック・オブ・ラブを売っている。
しかし、何の契約もしていない。
一度、クラウンからの話があり、私は、納得せずに、放置した。向こうは、私が契約しないのが悪いと言うだろう。
しかし、納得できないものを、契約出来ない。
そして、以前にも、書いたが、人にあらずの相手であるから、話は、出来ないと言った。
その理由は、藤岡、亡き後の対処である。
以下、省略する。

そして、多々ある音楽事務所の社長と言われる者等々である。
藤岡亡き後の対処を見て、私は、話をするべき人間ではないと、判断した。
私は、真人間である。
彼らは、魔界の人間である。
その訳は、人間の血が通っていないということである。

ある、音楽事務所の部長、今は、社長になっている者は、藤岡の事故の夜に、深夜電話をしてきて、状況を根掘り葉掘りと聞き、今にも、駆けつけるかのように、私に、事故の状況を聞いたが、未だに、お参りにも来ない。
勿論、お別れ会にも、花の一本、弔電の一本も無い。
これで、人間と言えるか。
私は、彼らと、席を同じくしない。
私は、真人間であるからだ。

一般常識から言っても、彼らに常識があるとは、認められない。
つまり、金にならない者が、死んだのであるから、用済みである。

よくよく、言っておく。
「詐欺まがい」と私を言うほど、私が、怖いのである。
当然である。
私が、呪えば、叶うからである。

まがいとは、単なる、いちゃもんの、何物でもない。
要するに、詐欺ではないが、憎いから、イメージを公に損なうべくの言葉である。

私の前に、堂々と出てこないのが、何よりの証拠である。

ちなみに、藤岡が歌った「逢いたくて」という歌は、私の作詞であり、作曲は、田原奈津代である。
それに関しても、ここに、証拠として書く。
この歌を誰かが、自分のものであるとしたならば、法的に、私が負けるという人もいる。それは、著作権協会に、届けていないからだという。
違う。
著作権協会に、届けていなくても、私のものであり、藤岡が、歌ったという証拠がある。
裁判では、私が勝つに決まっている。
すでに、オリジナル曲といしての、CDも、出している。何よりの、証拠である。

私は、何を言われても、恐れることが無い。
それは、私が、真人間だからである。
真人間とは、真っ当な人間としてある。ということである。

私が藤岡と、コンサート活動をした、2001年2月から、真っ当に音楽活動をしてきたのである。
それも、証拠がある。

私に対して、何を言っても許されるが、藤岡に対しての冒涜だけは、許されない。
日本の伝統は、死者を、神と尊称して呼び、死者に対しての、礼儀作法は、厳然としてあるからだ。
よく聞くがいい。

くれぐれも、誤りないように。
私が望めば、藤岡の霊威は、祟り霊になるのである。

日本の伝統を忘れた、団塊の世代の者、多く私を批判するが、必ず、その結果は、歴然として現れる。

ちなみに言うが、私は、即座に、人の背後に立つことが出来るのである。
相手が、何処にいてもである。

祈る者を、甘く見ることなかれ。


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オーラの泉

安食堂で、よく耳にするオーラの泉という番組を見た。というより、自然に、それが耳に入ってきた。

東山という、歌手を相手に、スピリチュアル何とかと、三輪が、対面して、云々していた。

前世が、ヨーロッパの修道士等の言葉が聞こえて、画面を見た。
違う。その頃の、東山の前世は、小国の王である。孤独死している。
勿論、私のものも、妄想の域を出ないので、何とでも言える。

そして、驚いたのは、東山の背後霊には、竜神系が云々という。
竜神系とか、稲荷系とか言うのは、ある一種の行者が言うことで、真っ当な霊能的能力者ならば、言わない。

龍神とは、何か。
龍とは、架空のものである。
八大龍王とは、仏教の一種の守り神のような架空の存在である。
勿論、人霊には、我は、龍神であるという者もいる。たいがいが、アホである。

背後にいる龍神系の者たちが、今、東山の人生の転機を言うという。
東山が、大きく頷く。
誰しも、今が人生の大きなポイント、節目であると言えば、思い当たる。
占い師と、似ている。
人生は、いつも、転機である。

仕事よりも、それらの煩雑な事務的行為をしなければならないらしい。
東山も、そういう年齢になったのである。年齢的な問題である。

それを、スピリチュアル何とかが、言い表しえないように言葉を、途切れ途切れに言う。

「その通りです。やりたくないことを、やらなければならない」
「それを、人を介して、やるようにするのです」

初めて、その番組を見て、確かに、芸能人の個人的悩みのようなものを聞けるという意味で、視聴者と同じく、芸能人も、悩んでいるのだという安心感を持つ。

横で、三輪が、一言、二言、付け加える。
何ということのない番組である。

ただ、目に見えない世界からの、メッセージを云々するから、皆、興味でみる。それを、誰も判断できない。知らない世界だからだ。ただ、信じるしかない。この、信じるという心的状態は、ある種の安心感である。
この安心感は、当然、妄想である。

本屋で立ち読みした時に、スピリチュアル何とかには、武士の霊が、指導していると言う。
名前まで書かれていたから、本当なのだろう。
武士として生きた人の霊が指導するのである。実に、偏狭であろう。
もっとも大切なことは、その武士の霊が、何故、彼に霊能的能力を与えているかである。

自己顕示欲以外の何物でもない。

私は、今、批判しているのであり、否定をしているのではない。

そして、その武士の霊の背後にも、霊がいる。霊団を作っているのである。そうでなければ、公の前に出る程の力は無い。
その背後の霊団をも、彼は、龍神系というから、首を傾げる。
知らない人には、通用するが、知っている者には、非常に危険である。

龍神とは、人の勝手な空想で創造した、ある霊体の霊団である。
ある人は、恐竜の霊である。ある人は、地球外の霊である等々と、色々意見が分かれる。

龍神の前身は、蛇の霊である。
蛇霊が、進化して、力を増して、龍神へと格上げされた。と、考えることも出来る。
蛇霊の総称とも言える。

平気で、龍神系という頭の程度を、疑う。
街中の、レベルの低い霊能者でも、龍神によって、力を得ているとは、言わない。
それらの霊能者は、黒龍、白竜、黄竜、青竜として、分けている者もいる。黒龍になると、悪霊の部類になる。

後は、神の使いであるという。金、銀龍が、最も高い位にあるという。

私は、どちらも、支持しない。
霊界というものも、宇宙の内に在る。宇宙の外には無い。
地球の霊でも、数多い。これが、宇宙だと、膨大な霊の世界である。
魑魅魍魎も数多いことは、明白である。

さて言う。
東山のことについては、個人的なことなので、これ以上は言わないが、占い程度のことを語り、霊能の世界だと思われては、非常に誤解される。

表現の自由であるから、彼が、龍神云々と言っても、どうでもいい。
ただ、言っておく。
霊というものも、こちらの主体性には、適わない。
主体は、私であり、霊ではない。
背後の霊を支配するのは、私である。支配されるものではない。

勿論、一人の人間の考えることなど、たかだか、知れている。自分の意思で行動していると思っても、多く九割は、霊界の関与がある。
それを、人は偶然という。

昨日まで知らなかった者が、今日は、掛け替えの無い私のあなたに、なる場合も多々ある。

ちなみに、私の立場を明確にする。
私は、人の想像した、あらゆる霊に関与するものではない。
龍神から、稲荷から、不動明王等々、インド魔界関与の、様々な、神や仏に、関与しない。
私は、日本の皇祖皇宗である、私の御親に連なる、霊界を主として、すべてを考える。

例えば、修験道で有名な白山などの、霊場等々などは、一切、認めることは出来ない。
神道、道教、仏教、多々混合する信仰形態の、怪しき修行を為す、行者等々は、迷いの霊界にある。
六根清浄を歌い、六根清浄を妄想するが、在り得ない。
それならば、生きることはない。

清浄という言葉自体に、すでに、清浄ではないことが解る。

そして、その清浄という状態が、どのようなものであるかを、誰も知らない。

よくよく言っておく。
障らぬ神に、祟りなし。

霊能に深入りすることなかれ。
日々の生活を生きること、それのみで、十分に霊界に関与しているのである。
空を見ては、感謝し、花を見ては、感動する。当たり前の感情を大切にしていると、すべて大切なことが解るようになっている。
何故なら、人間は、霊的存在だからである。

意識して、譲り合うという行為を繰り返しているだけで、霊格は、高まる。

心だに 誠の道に かないなば 祈らずとても 神や守らん
菅原道真の歌である。

占いの極地も、最後は、占わずとも、先が解るという境地になる。
良質な情報を得ていれば、未来が見える。
歴史を深く学べば、未来が、明確に解る。

もっと、自助努力をするべきである。

多くの人が、あのテレビ番組を見て、何かを勘違いしているとしたら、残念である。
あのようにならないという、反面教師の役割として、あの番組を評価する。

ちなみに、あの程度のことは、頭脳明晰な者であれば、いくらでも、出来る。人を騙すということは、実に、簡単なことである。
私の知り合いにも、いくらでも、あのようなことを出来るという、頭脳明晰な者がいる。
再度、ちなみに言うと、その頭脳明晰な者は、いつでも、あの手の方法を突き崩すことが出来るという。

霊界が主ではない。今は、この三次元の世界である。この次元での勝負である。



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2007年07月09日

知床の歌

春待つ旅情あり知床  木村天山作詞

流氷の音 かすかに砕ける 知床の
春の間近を夢にみる
寒さ緩んだ 夕映えしみる オホーツク
海の心の たゆけさよ

酷寒を過ぎ 峰の雪白く 知床の
春の間近を希いつつ
飲んで語った 人の情けの 温かさ
知床人の ゆたかさよ

別れを惜しむ 旅情あるかな 知床の
春の間近き名残雪
やがて緑に 輝いてゆく その姿
再び誘う知床よ

ただ今、作曲中です。

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2007年07月10日

選挙に向けて

9ヶ月の安倍内閣は、実に評価できる。
真摯によくやったと思うのである。

勿論、批判はある。希望もある。しかし、9ヶ月という期間を見れば、大したものである。

ただ、残念なことは、閣僚の問題である。
野党も、くだくだと言う。与党に言うなら、国民に言って、票にすればいいと思うが、みみっちいことを毎度毎度言う。
それに、安倍総理は、かばう。こんなことで、ちまちまやっているならば、即刻、解任してしまうばいい。
これなら、平和ボケを通り越している。
日本の置かれている世界的立場を考えると、そんなことで、ぐたぐたしていられないのである。

私が一番、残念なことは、拉致被害者の救済である。
もし、私が、家族が、友人が、知人が、と思うと、断腸の思いである。

国が、助けてくれると信じて、待っていると思うと、地団駄を踏む思いである。

都知事の石原さんは、自衛隊を連れて、取り返しに行くと言ったが、政治家には、それくらいの気迫を持ってほしい。

民主党、共産党、社民党などは、それについては、あまり言わない。与党の公明党も、あまり言わない。
瑣末なことを言うのみである。

公明党は、おおよそマニフェストの九割を実行している。実に、大したものである。しかし、その支援団体である、創価学会も、拉致問題については、言わない。
学会には、朝鮮半島の血を持つ者が多いのだろう。

勿論、民主党の中の、旧社会党の連中、及び共産党は、拉致はなかったと言い続けていた。それが、一転、将軍が認めた。その後の対応が、なっていないのである。
社会党から、社民党に名を変更して、党首だった、土井という女は、それでも、認めなかったから、仰天した。拉致は無かったと、言い続けていたのである。

どう、考えても、自民党の小泉さんが、勝つ。何せ、5名の被害者を連れて帰った。
それに期待したが、退陣である。そして、安倍さんは、精神論を言うのみ。進展が無い。
再度、自民党に期待する。

もう一つは、官僚である。
志低く、語るに落ちる。
歴代の厚生労働省の事務次官と、社会保険庁長官に、ボーナスの自主返還を求めた。
該当者27人中、当初9人が、拒否した。
財団、会社を天下り、3億の退職金をもらっていても、約310万円を払うのは、嫌なのである。国民に深刻な不安と恐怖を与えていても、年金問題についての責任感ゼロである。
勿論、法律上は、何の義務もない。
それらを、支配するのは、政治家であるが、政治家は、官僚に、コケにされているのである。政治家を、アホだと思っているのである。

民主党は、政権交代の足がかりとなる選挙だと言うが、参院で、過半数を得ても、どうしようもない。道は遠いし、あまりの不祥事が多い故に、情けないのである。

小沢という立派な政治家が代表なのに、何ら、伝わるものがないのが残念である。
過半数に行かない場合は、政治家を辞めるとまで言った。そんな大げさな選挙ではない。

この選挙は、安部政権の確認選挙である。

支持率低迷というが、この政権を国民が捨てたら、今、折角取り組んでいる年金問題などは、どうなるのか。
民主党は、社会保険庁の職員を、そのまま公務員として引き続き雇うと言うのである。そして、職員の勤労意欲を奪う、労働組合は、民主党支持である。
元に戻ることなど、決して許しては、いけない。

さて、私は言う。
私は、自分の選挙区で投票する人は決めた。比例区は、まだ、決めていない。

そこで、投票率について言う。
各地の選挙管理委員会は、投票率を上げるべく、様々な取り組みをしていると言う。それは、止めた方がいい。
自分の義務と、権利を行使しない人は、その責任を自らが負うべきである。
無理に、投票させる必要は無い。

投票しないということは、文句も批判も出来ないということである。
それに、大衆は愚かである。
55年体制が、崩れた時に、オルテガの「大衆の反撃」という種本をもって、識者や、評論家が、云々していたが、あれから、見渡して、私は、大衆が愚かであること、十二分に知った。

よく解らない人は、投票する必要は無い。
危機意識皆無の者が投票しても、逆効果である。
なんとなれば、全ての責任は国民に帰すからである。
与野党の問題ではない。

この国を今の今まで築いたのは、国民である。
年金も、安全保障も、何もかも、国民が選んだ責任である。
なんとなれば、民主主義という、主権在民という、選挙は、国民がするのである。

誰のせいにも出来ない。

あの幼児のような小国、北朝鮮に、国際社会がコケにされていて、もっとも危険な場所にいる、日本人は、平然としているのである。

倫理の無い国、中国に準じて、朝鮮人は、喧しいだけの、矢張り、倫理に薄い国である。
共に、儒教などという、平面思想の孔子の言葉を戴くのである。

心ある中国と、韓国の青年に、私は言われる。着物を着て、私の国に行かないで下さい。今は、危険ですと。

文明が衰退する時期、一旦、民族主義が台頭する。
民族主義から、文明主義に至る、今は過渡期である。
イスラムは、過激に、それを為している。
世界をイスラム帝国にするべくの、過激さである。

posted by 天山 at 00:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月11日

選挙と年金

年金については、専門家が多く言うので、素人の私は、雑感を言う。

年金を支払っていても、死んだら、保険と違い、支払ったお金は、戻らない。
相互扶助の考え方に基づき、国が、お金を集めて、皆の老後の生活資金とするべくの制度である。

実に、素晴らしい制度である。
しかし、問題は、その資金の運用や、無駄に使うという行為である。

また、保険庁の職員は、努力することなく、集る金を、人の金であるから、平気で汚す。汚すとは、国民の命の次に大切な資金を預かるのであるから、彼らの資金に対する対応は、汚すという言葉が一番よい。

ここに至って、政府を攻撃しても、はじまらない。
攻撃すべきは、保険庁であり、その長官であり、職員であり、通常ならば、切腹打ち首を言い渡されても当然の行為、無責任な行為を繰り返していたのである。
その元が、組合という団体であるから、組合という団体が、いかなるものであるかを、知る、絶好の機会である。

国鉄の時の組合を、思い出す。
暴力団であった

下々の作る組合という組織は、最初、期待された。平民の生活を守るというイメージだった。しかし、下々の平民の団体は、矢張り、駄目だった。生まれ育ちは、隠せないのである。権威を持てば、その権威の使い方をしらず、暴力団幹部と、同じように行動した。
そして、その思想的基盤が、共産、社会主義から取るのであるから、手がつけられない。

祖先の築いた伝統を、あっさりと切り捨てて、人に非ずを行為した。
労働者の権利を、自由をと、言うが、その責任を知らないのである。
これを総称して、アホと言う。
北海道弁で言えば、ハンカクサイを超えて、マルクサイと言う。
マルクサイは、丸、つまり全部が、腐っている、馬鹿になっているという意味である。

さて、年金は、65歳から支給される。
それが、67歳に引き上げられ、そして、70歳になる。
段階的に、引き上げられる。
何故か。

国民の痛みを知ることが出来ないからである。
年金など必要の無い人が、それを決めているのである。

通常ならば、総理と、一対一で対座できない者が、マスコミとは、見事に傲慢になり、フルダテという司会者が、安倍総理に、質問を浴びせていた。
フルダテなのか、フルタチなのか、私は知らない。

フルダテは、相当な年収がある。年金など、全くあてにせずともよい老後の資金を得ている。
それが、眉間に皺を寄せて、総理に、言う。
鋭い質問を浴びせているようだが、こちらの心に響いてこない。
つまり、人間としてではなく、司会者、マスコミ人として、俺は、凄いと思わせるのである。自分は、痛くも痒くもない。
安倍総理は、すべて敬語を使う。
フルダテは、さもさもしく、マスコミ人の言葉を使う。

身分差別の無い世の中であるが、あの、やり取りを見て、身分というものを、私は感じた。
身分が違うのである。
総理と、フルダテでは、格が違う。

羽織袴の総理と、木綿の着物を着る者が対座しているのである。
それも、付け焼刃のお勉強の成果を披露しているから、笑う。

さて、最終的に、年金を支払うということは、国に寄付をしてるということである。
税金の他に、国民は、国に寄付をする。
素晴らしい。
どうぞ、皆さんのために、役立ててくださいというのである。

だから言う。
それを、食い物にする者どもに、関与させてはならない。

保険庁の職員は、全員解雇である。
再雇用ではない。
採用試験をすべきである。
職員時代の働きを見て、徹底して公正に判断する。

歴代長官に対しては、忘れる。
水に流す。
死後の世界での、あり方に任せる。
どうしたって、彼らは責任を取ることが出来ない。

打ち首や、磔に出来る時代ではない。
水に流す。

ただ今の安倍政権に、後始末をお願いする。
その後で、自民公明の与党が駄目なら、衆議院選挙で、与党に入れなければよい。

国民の武器が、一票であること、政治家に、重々教えることである。
一票は義務であり、責任である。

年金を 当てにせぬ者 額を決め

政を笑い、余裕をもって、ちゃかす粋な遊びが必要である。
政治が混迷すると、庶民は、反対に、芸能活動や、生き方に粋を見出していた。
それが、日本の伝統である。

国民を、公宝、おうみたから、と呼んで大切にした、天皇の時代を思い出せばよい。
天皇がいるかぎり、国民は、宝として大切にされる。
政治家は、国民のことどもを、何と考えているのか。
官僚は、国民のことを何と考えているのか。

人を判断するに、何を行為しているかを見れば、一目瞭然であろう。
人は、行為によって、成るものに成る。
さすが、仏陀の言葉は、いい。

仏陀は、私のお爺さんで、キリストは、私の兄で、私の親は、天照大神であるから、実に、心強いのである。
私は、粋な妄想に遊ぶ。

posted by 天山 at 00:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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