2007年06月11日

635日祭

6月25日は、藤岡宣男崩、635日である。

藤岡は、最初の音楽の関わりは、ピアノであり、そして大学、大学院、アメリカ・ミシガン大学院にては、ピアノ教育を専攻していた。
声楽に目覚めたのは、非常に遅い。
ただし、大学時代に、グリークラブに入っていたことから、歌うことは、あった。

声楽に目覚めたのは、札幌時代である。
30代が一つのポイントになる。
そして、それがまた、カウンターテナーであったということが、実に珍しいことだと思う。
ファルセットに目覚めたとでもいうか・・・
ブライアン・アサワという日系アメリカ人のカウンターテナーとの邂逅も、そのきっかけになった。

私が出会った頃は、丁度、その発声の練習を始めていた頃である。
すでに、教会などで、歌っていた。

そして、東京から札幌に指導に来ていた、森という先生に師事していた。
藤岡の転機を促したものは、仕事のマンネリと、職場のアホどもの姿に愕然としてことであろう。これは、私の言葉である。藤岡は、紳士であるから、そんなことは言わない。
能力の無い者が、集って仕事をしている振りをして仕事をするというのは、どこの会社にもあるが、ヤマハ財団というところは、特に、そうである。
よく、出張と言って、藤岡は、東京へ出掛けていたが、その内容を聞いて、私は、驚いた。あれ程の給与を貰っても、こんな程度の仕事、いや、仕事ではない、暇つぶしをしているような、研究会と称する集いである。
大きな会社というところは、実に、社会に貢献していると、思った。無能な者でも、妻子を養う給与を出しているのであると。

そして、もう一つの転機のポイントは、発生指導の森先生という人の言葉である。
君なら、東京に来るべきだと。東京に来て、歌をやるべきだと。
実に、無責任極まりない言葉であるが、そう言った。
歌でやって、食べて行かれる訳が無い。森先生は、教えて、食べている。歌で食べているのではない。それからして、詐欺師に近い。
今も、教えているのであろう。
膨大な指導料を藤岡は払い続けて、習った。
その当時は、私も一緒に鎌倉に住んでいたので、よく解る。
しかし、藤岡は、10ヶ月程で、自然、先生から離れることになる。
当然である。
習うだけである。舞台に出るのに、いつも、10万円は必要であり、そんなことを続けてゆかれる訳が無い。そのために、仕事をしなければならない。
歌でやってゆけとは、よくぞ言ったものである。
そして、それを、そのままに、許している、弟子の面々である。
その弟子も、気づいて止めて行くのである。しかし、また、騙されて、新しい弟子が入る。その繰り返しである。

色々な詐欺があるものであると、感心した。
私も、占い師を名乗っていた頃は、詐欺師呼ばわりされていたが、それを承知で、占い師をしていた。勿論、今も、占い師である。詐欺師に、最も近い占い師である。

さて、言う。
藤岡の歌は、舞台によって、成ったものである。
舞台が、藤岡の唯一の師匠であった。
それは、紛れも無い事実である。
では、その舞台を誰が用意したか。私である。

リサイタルは、練習ではありませんという、嫉妬とやっかみの、クラシック音楽家、声楽家、音大の馬鹿教授などの、批判を受けても、私は、藤岡の舞台を用意した。

それは、私も舞台に出る者だからである。
最も、舞台の力を知っている者である。
芸人は、舞台で成長する。真実である。
どんなに上手に歌えても、舞台で、歌わなければ、詮無いことである。
部屋では、名ピアリストであっても、舞台では、聞くに耐えないピアニストならば、話にならない。

一人で歌うと、最高に上手いといっても、詮無いこと。
それなら、一人で、山でも海にでも行って、歌えばよい。

舞台で、聴かせられるか、否かである。

多く、声楽家の歌を聴いたが、皆、練習の成果を歌うものりであり、芸人ではなかった。
あんなもので声楽家とは、よく言ったものである。
舞台の真ん中に立ち、ようやく歌う様は、滑稽極まりない。
簡単に言う。
プロと呼べる歌い手は、舞台が見えないのである。
舞台が無くなるとでもいう。
舞台を飲み込んでいる。それが、プロである。

藤岡は、自分の舞台マナーを作っていた。
それを私も聞いている。それを元に、私も声楽家を目指す、藤岡の門下を指導する。今は、藤岡の孫弟子たちがいる。

生きるということは、伝えるということである。
実に、藤岡は、伝えるものを残して逝った。





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2007年06月16日

非国民

である。国家公務員が非国民であるということ、何度も言うが、何度言っても、よい。

総務省が、ようやく閣議に提出した「府省共通事務に関する行政評価・監視結果報告書」である。

16府省の物品調達、庁舎管理、旅費支給などの実態を調べたものである。

厚生労働省では、05年度のトナーの調達額が、1億9835万円で、大部分は年間契約総額160万円以下の小額随意契約を繰り返していた。
内閣府で、同じトナーについて小額随意契約と競争入札している課を比較したところ、競争入札の課の方が、21.7パーセントも安いのである。

農水省の関東森林管理局では、一台11000万円で購入したトラクター2台が、ずさんな管理で、所在不明だという。
国土省・第5管区海上保安部では、パソコン65台が、厚生労働省の茨城労働局では、70台が、所在不明である。

国土省の大宮国道事務所では、12台の公用車に対して、運転手が7人。同省など3省6機関で運転手より、公用車が計10台多い。
北海道開発局では、06年4月から10月まで、公用車2台を全く使用していない。ここでは、また、文具関係の小額随意契約を、年間900件以上、総額8000万円以上費やしている。

また、航空機を使った出張で、民間では当然のパック商品や、割引チケットの利用率が、7府省17機関で50パーセントに満たない。
本省の指示がないゆえに、鉄道なども含めた割引チケットの使用を職員に求めていなかったとある。

人間は環境に支配される者である。
奪える環境であれば、簡単に奪う。
これ以上、多くを言わないが、公務員が、非国民であること、明々白日である。

国民の金、
人の金、
公金

キャリアになれば、30歳くらいから、とんでもない生活が出来るという。勿論、満員電車になど、乗らない。
支配者層にいると、思い込むあたりは、いずれ革命が起こった時は、即座に、ギロチンにかけられるだろう。
ただし、日本は、日本人は、中国人と違い、罪を憎んで人を憎まずというから、死罪は、免れるかもしれない。

ただし、万が一、私が革命の主ならば、公務員は、全員問答無用に、束にして、火を点ける。火あぶりの刑である。
もう一言言う。
国家公務員は、全裸にして、全国引き回しの上、磔獄門

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2007年06月17日

老成の思想

「そして、これまで幾多の試練と戦い、それを乗り越えながら歩んで来た自分の人生を振り返り「まだ老け込んでいる時ではない、これからもう一度、盛年として輝き謳歌して、そして世の中にも貢献をするんだ」という熱いパワーが心の底から湧いてきます。」

「超高齢化社会を迎える日本、そして2007年問題、年金、福祉、いじめ、少子化等々今後益々不透明な時代になっていくことは明らかです。不安を抱きながら突き進んで行かなければならない中高年にとって今必要なものは、「夢」「希望」「勇気」「自信」です。」

これは、団塊の世代の、ある歌い手のメッセージである。
何でも、保険業界トップセールスマンとして21年間走り続けてきたという方である。

盛春歌というチラシで私は知った。

幾多の試練と戦うというのは、誰もが同じである。特別なある年代のことではない。
老け込むという言葉がおかしい。
老いるを、老ける、ふけると読ませるのである。
オイルと、フケルは、全く意味が違う。
漢語の表記であろう。
老、オとフと読ませる。
おオと、ふウは、全く別物である。大和言葉では。

伝統教育を拒否した世代である。
そして、団塊の世代以後、全く伝統教育は、顧みられなかった。
それは、また、日教組教育でもある。

益々不透明な時代になっていくことは明らかです。というが、不透明でなかった時代は、あるのかと問う。
時代は、いつも、不透明である。

中高年ばかりが、不安を生きるのではない。
この年代に特有の、自我意識拡大、自己意識のみに、その満足に停滞するのである。

実に、恐れ入る。

日本には、老成の思想がある。
老いは、質も次元も違うことを言うのである。
青春の延長ではない、実に深い意味がある。
男は、翁に、女は、婆になる。
翁は神に近いもの。婆は、この地に根付くものである。
爺という言葉は、その道のプロを言う。単なる、老人を言うのではない。

人は、成長することによって、質も次元も変わることを、知っていた時代がある。
例えば、少年の元服。結婚。子を得て親になる。そして、父母との死別、等々。

お解りであろうか。
同じ人間でも、変容してゆくのである。

しかし、団塊の世代の多くは、ある年齢から、変容することが出来なかったのである。

精神的成長、心的成長、そして、魂に至る、成長への過程である。

動物と近いような生き方をして、今、還暦を迎えるという悲劇である。
勿論、日本の経済を支えた人々であり、その存在を無碍にすることはない。しかし、私は言う。軽薄であったことさえ気づかずに、年を取ったのである。

何度も言うが、伝統を知らない。
伝統とは、大和魂である。すると、いきり立って、話が出来なくなる世代である。つまり、本当の、大和魂を教えられなかったのである。

おおいなる、やわらぎの、こころ、である。

伝統とは、言葉である。日本語である。
それは、大和言葉から成る。
大和言葉とは、日本民族の精神の命である。

精神の命もあれば、心の命もあり、魂の命もある。
精神も、心も、魂も、一緒くたにして、味噌糞一緒であるから、ものの考え方が出来ない。

行き着くところが、今も青春という。
アホ、馬鹿、間抜け、糞ったれ、である。

「若いですねー」と言われることは、年寄りだということである。
若い人に、若いと言わない。若いからだ。

これから、この勘違いの団塊の世代が、介護を受けるようになる。誰が、彼らを介護するのか。
心配でならない。
寝たきりになっても、俺は青春だと言うのであろう。馬鹿馬鹿しい。
解った風なことを言う世代である。何も知らないのであるが・・・
私は、彼らを先輩として、育った。
反吐が出るほど、辟易する。

特に、学生運動をしていた世代は、自害して果てた方がよいほど、変質、変節した。
若気の至りでは、済まされないのである。
しかし、誰も、それを言わない。

私の後輩の年代が、それらの影響を受けて、反日感情を逞しくした。
共産、社会主義を良しとして、今は、会社の取締役になり、ゴルフ三昧であるから、呆れる。
こういう者を、私は、自害せよという。

変質、変節を哲学せずにいるのである。

誰のことだと言うのであろう、自分のことを。
そして、自分の家の墓を守るという。
無理である。先祖は、受け入れない。
先祖は、どの宗派に属していても、皇祖皇宗である、アマテラスを神として祀った。
御親を知っていた。伝統である。

言っておくが、学者、哲学者、識者等々が言う、アマテラスは、全く検討違いである。
霊感の無い者が、どうしたって、わかるものではない。

私は、唯一絶対の神とは、言わない。ただ、御親につらなるものであることを言う。
アマテラスは、総称である。
日本の神というものも、総称である。

神は、無い。
あるのは、御親である。
その御親のことを、私は伝統と言う。
御親とは、みおや、という。

御小屋とも、書く。小屋は、日本である。その小屋に住むものが、日本人であり、この国である。

さて、以下省略するが、聞く者は、聞け。
仏典を読む、聖書を読む等々の前に、この国の伝統である、万葉集を読め。
そこには、神や仏の妄想は、一切無い。
人間のあるべき姿がある。

生まれて良かった。恋をして苦しい。別れは辛い。死は、切ない。老いは、風情である。
この国の、大和言葉を知るべきである。
この世に生まれたのは、神や仏に帰依するためでも、信仰に生きるためでもなく、主義に生きるためでもない。

私と、あなたと呼べる相手との出会いであり、そこから、多くの喜怒哀楽を知るために、命を得た。
この世で知ることを知るために、生まれた。
妄想に生きるためではない。

今、目の前にいる相手を大切にせずに、誰を大切にするのか・・・

さて、私に言え。

いつまでも、青春であるという妄想を捨てよ。

人間は、老いて死ぬから、救われるのである。

私に言える者は、言え。


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2007年06月19日

クラシックファンのアホ振り

ソプラノ辻友子のリサイタルを、福岡で開催した。
平日の昼間であるから、多くのお客様は、期待しなかったが、80数名ほどが来られた。

終了後、数日を経て、こんな話が伝わってきた。
クラシックだと思って言ったが、クラシックの曲がなかったというものである。

プログラムは、日本の歌であった。
半分は、日本歌曲であり、三分の一は、万葉集である。
古典である。
それが、日本の歌だと、クラシックではないと言うあたりは、アホである。
要するに、クラシックファンというが、クラシック音楽を、洋楽のみに捉えるのである。
訳の解らない、外国の歌であれば、クラシックだと思うあたりは、救いようがない。

シャンソンなども、クラシックの部類にいれる。勿論、フランスの演歌であるから、クラシックでもいいが、兎に角、知らない。
何も知らない。

クラシックとは、古典的、日本での最初のクラシック音楽とは、ヨーロッパの18世紀後半からの古典派、浪漫派あたりを言った。しかし、この区分けも、実は、音楽ではなく、美術界のものである。
それから、バロックや、古楽が出てきた。

外国語だとクラシックというイメージしか持たないということは、学校教育で、何を教えていたのかということである。
まあ、それはいい。

しかし、歌曲は別にして、万葉集を聴くなどとは、他のコンサートではないもの。
それだけで、お金を払った価値がある。
それを知らない。
豚に真珠である。

勿論、中には、初めていらして、感激し、もっと多くの方に来ていただきたいと、私に訴えていたご婦人もいた。

だから、夜の部の、音楽は心にやさしいコンサートで、最後に、私が演歌の「王将」を歌った時に、10名ほどの人が席を立った。
演歌を聴けば、駄目になるとでも、思ったのであろう。
王将は、西條八十の作詞である。彼は、早稲田大学のドイツ文学の教授であり、詩人であもある。しかし、歌謡曲の作詞を1000曲ほども手掛けた。
ある人が、先生は、どうして俗曲の作詞をするのかと問うと、多くの人の唇に歌う歌を書くことは、素晴らしいことだと答えた。
実は、この王将を超えるヒット曲は、未だに無い。
その歴史的背景などを書けば、長くなるので省略するが、意味があって私は歌うのである。

その説明を聞かずに、立った、クラシックファンというアホである。

その後、しゃぼんだま、という童謡を歌い、私の作詞の、祈りという曲を歌った。
しゃぼんだまを歌うのは、千の風という歌が流行り、嘆かわしいと思い、日本人の死に対する伝統を、しゃぼんだという歌を通して、語りたかったのである。

クラシックファンという者どもの、頑なな観念には、辟易する。
彼らは、知らないが、知った振りをするのである。そして、堂々と、恥ずかしげも無く、批判し、批評するという、愚劣である。

勿論、それは、クラシック音楽を紹介する、プロのクラシック音楽家の最大の汚点である。
哀れというしかない。

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イスラム7

メディナに移行したムハンマドに、メッカのクライシュ族が、繰り返し攻め寄せる。
それは、八年間続いた。

西暦630年、一月、ムハンマドは、メッカに勝利した。
メッカ市民は、降服し市の門を開いて、ムハンマドを迎えた。

部族衝突は、当然であり、それがアラビアだった。しかし、今回の戦いは、今までとは、全く性格が違う。
部族と、信仰集団との衝突であり、メッカ市民は、ムハンマドに抵抗することに、意味を見出し得なくなっていた。何も得るものがないのである。一体、何ゆえに、戦いを続けるのかと、無意識に不安になったであろう。
生活の糧を、略奪によって得るという風土である。
ムハンマドとの戦いで勝利しても、一体何を得るのか・・・
ついに、その先が見えずに、メッカは降服したのである。

勝利したムハンマドは、完全武装したまま、最も信頼を寄せるアブー・バルクを伴い、聖殿カアバに行く。
聖殿に着き、手にしていた杖を黒石に触れて、大声で「アッラー・アクバル」神は至大なりと、唱える。
黒石に触れるという行為は、呪術である。
聖殿を取り巻いていた軍隊も、それに呼応し、アッラー・アクバルと叫ぶ。それが、地響きとなって、メッカに轟いた。
そしてムハンマドは、駱駝に乗りカアバを一巡し、駱駝を降りて、聖殿の鍵を求めて、カアバの内外に祀られていた数百の偶像を叩き壊した。
更に、聖殿正面に鎮座する、人々の信仰を集めていたホバルの神の像を、粉砕する。

アフガニスタンにて、仏像粉砕したイスラム過激派の比ではない。
当時の信仰の対象を粉砕するのであるから、その行為は、尋常ではない。しかし、それが必要であった。
アッラーのみを拝め。
アッラーのみが神である。

この激しさを信仰というのか・・・政治というのか・・・
兎に角、ムハンマドの支配が、そこから始まるのである。
「今や異教徒時代は完全に終わりを告げた」
ムハンマドが言う。
つまり、異教が続いては駄目なのである。それが、今現在まで続く、イスラムの姿勢である。
イスラムを理解するということは、ムハンマドの、この言葉を理解するということである。
アッラー以外に神は無し。そこに、取り入る隙は無し。
異教は、すべて偶像崇拝なのである。

「異教時代の一切の「血」の負目も貸借関係も、その他諸般の権利義務も今や全く清算された。又同様に、一切の階級的特権も消滅した。地位と血筋を誇ることは何人も許されない。諸君はすべてアダムの末裔として平等であり、もし諸君の間に優劣の差があるとすれば、それは敬神の念の深さによってのみ決まるのである。」
これを、平等主義ということが出来るのかは、解らない。
仏陀が説いた平等と、ムハンマドが説いた平等は、違う。
仏陀の平等主義は、命あるすべてのものが、仏の前では、平等である。
しかし、ムハンマドの平等は、アッラーを信じることによって得る平等である。

敬神の念の深さを持てば、他のあらゆる物を支配することが出来るのである。
それは、旧約聖書に神が言う。
全てのものを支配させよう、と。

イスラムを理解するならば、それを知るべきである。
アッラーを信じている者が、平等であり、異教を信じる者は、平等にはならない。
完全、選民意識である。

聖都であるメッカを手に入れたということは、全アラビアを手にしたということである。

アラビア砂漠の全土から、新しい王である、ムハンマドに恭順を示すために、続々と、メディナに人が集った。
アラビアには、王と呼ばれる者は、いなかった。ムハンマドが最初で、最後の王となる。

その二年後、632年1月8日、ムハンマドハは、天使の幻を見つつ、波乱に満ちた生涯を閉じた。
およそ60年の生涯である。

ムハンマドに現れる幻、天使というものの正体が、何であるかが、霊学の域である。
それは、省略する。

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2007年06月23日

沖縄慰霊

6月23日、沖縄慰霊祭。
集団自決問題等を抱えての、慰霊祭である。

これから8月15日の終戦記念まで、ある種のことがある。

霊学から言う。

沖縄、長崎、広島、ここには、霊力を持って、清め祓いが必要である。
幽霊が多すぎる。
幽霊とは、幽体のままでいる人霊のことである。
つまり、次元移動しないでいる。何故か、突然の死に混乱しているからである。まだまだ、それが続いている。

死後の世界を信じないという者には、説得も、説明もしない。

多くの人の祈りもあり、それなりに、次元移動する霊体もあるが、まだまだ足りない。
沖縄の場合は、広い範囲に渡っての慰霊が必要である。
勿論、沖縄には、ユタといわれる霊の専門家がいる。
しかし、それだけでは足りない。

教科書問題は、私には、どうでもいい。それよりも、まず、幽霊を正しくあちらの世界、霊界に導くことである。
それが、日本国民の務めである。
本土決戦を沖縄が担ってくれた。

実際、沖縄は日本ではない。
琉球王国である。
江戸時代に、薩摩藩が沖縄を侵略し、植民地化した。

太平洋戦争で、沖縄は、日本のとばっちりを受けて、とんでもない目に遭った。
終戦により、アメリカの統治になった。
そのまま、アメリカの統治でも良かったのである。しかし、沖縄は、日本に返還された。それも、実は、おかしい。
沖縄は、日本ではないからだ。

しかし、現実は、日本である。
そして、ただ今は、日本のために、米軍基地を抱えている。
勿論、それにより、地主が大枚な金を貰っている。それを、沖縄の人に還元しない。
それも問題である。

こんな話を聞いた。
おじさんが亡くなった。その遺産相続になって、家族は驚いた。一億以上の金があった。そして、年間、700万円以上の基地の使用料が入るのである。

米軍基地によって、金持ちになった人も大勢いる。

さて、そんなことは、どうでもいい。
それより、私は、慰霊のことである。
ただ今の宗教家には、その力が無いゆえ、しっかりとした慰霊が出来ない。

沖縄県は、うつ病の患者が多い。
あの温かく海の美しい土地の人に、うつ病である。
原因は、幽霊である。

実は、戦争による幽霊だけではない。
薩摩藩当時からの、犠牲者も多い。

日本で最初に、織物を始めたのは、久米島である。久米島紬である。
その織物を、薩摩藩が支配した。
島人を、死なぬ程度に働かせた。島の女性たちが、その犠牲になった。

久米島を車で回った時、突然の睡魔に襲われた。
目を開けていられない。
私は、運転する同行者に、車を止めてもらい、暫く休んだ。
強烈な霊波である。

地元の人は、それが当たり前であるから、気づかないのである。

ただし、その時、私は、何もしなかった。
心の準備が整っていない。

与那国島に行った日の夜も、大変な状態になった。これは、省略する。
日本にも、沢山の霊的能力者がいるようであるが、役立たずである。
勿論、宗教家は、終わっている。

ひめゆりの塔に行き、具合が悪くなる人が多い。
あの辺り一帯は、まだまだ幽霊が重なるようにしてある。
私は、まだ行く勇気がない。
それ程、大変な場所である。

琉球の歴史を鑑みて、慰霊を行うことである。
気休めの読経などでは、何にもならない。
我が身を切る思いでの、慰霊が必要である。

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沖縄哀歌

私は、沖縄が大好きである。
15年前に、やっと時間を取って、与那国島まで行った。
本島、那覇にも、石垣島にも行った。その後も、那覇に出掛けた。そして、久米島に、一昨年行くことが出来た。
久米島紬を見たかったのだ。

その沖縄で、一部の扇動家たちが、何やら、戦争末期、軍命令で住民が集団自決をしたいということを言い続けている。
軍命令は、虚構であることが、ここ数年で決定的になっているにも関わらず、何故、地元の新聞二紙も含めて、県民感情を煽るのか、理解出来ない。

それは、誤りだったという証拠が、続々と出ているのである。

それでも、兎に角、沖縄は、犠牲になったのだというのだろうか。勿論、沖縄が犠牲になったことは、百も二百も承知している。
県民感情が、内地や、日本軍を恨むという気持ちも理解できる。
しかし、虚構だったことの証拠があるにもかかわらず、何故、それほどまでに、感情を煽るのか。
また、41市町村議会のうち、半数を超える議会が、教科書検定撤回の意見書を採択したという。

理解に苦しむ。

そうではなかったことが、解ったにもかかわらず、何故か。

反軍、反国、反体制を言うのであろうか。
なかったことを、あったことだと教えることが、正しいことなのか。
それでは、歴史の真実を隠すことになるではないか。

兎に角、日本軍が、沖縄を苦しめた。それである。
そうして、この先、どうするというのか。教科書に、嘘を載せて、良かった良かったと言うのであろうか。

よく解った。反日である。
では、反日を行動せよ。そして、日本からの独立を成せ。
心には、琉球の血が滾っているのであろう。
琉球王国を立ち上げるべし。
そして、国として、日本と渡り合えばよい。
単なる、感情的なものではないことを、独立を持って示すことである。

沖縄大好きな私も、理解に苦しむ行動である。

内輪の中で、気勢を上げることなど、子供でもする。

そんな活動をする前に、沖縄の経済を考えるべきだと思うが、無理であろう。
タクシーに乗れば、女は、どうだと言われる。売春を堂々と進める程、金に困っているのだろう。

米軍の基地が無くなれば、沖縄は全滅するほどであろう。
青臭い抗議行動をする前に、若者に仕事を作れ。。。
そして、もっと旨いものを考案せよ。
旅の楽しみは、旨いものを安く食べること。

数日して、今度は、強制自決を見たという人の話が出された。
そして、県議会も、教科書改訂に反対する意見書を提出するという。
「基地があるかぎり、戦争は、終わりません」
確かに、そうである。

沖縄の人は、今も、戦争のイメージの中にいて、戦う。
ただ今の日本人は、まなぬるい平和の中で生活してきた。アメリカの核のお陰で、戦死者を一人も出すことなく、戦後を過ごした。
世界中、至るところで紛争、戦争が行われていても、日本だけは、免れている。
感謝である。

しかし、いつ、事が起こるか知れない。
理想と、現実がかけ離れているのが、日本の平和である。
だが、よく考えてみるに、また、核兵器で、殺されても、しかたがないのだ。また、それを、善しとして、平和を享受しているのである。
死んでも、文句は言えない。

沖縄には、ただただ、頭を下げるのみ。
そして、自決した皆々様の、ご冥福を、心より祈る。


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2007年06月25日

政治家というもの

政治家になるということは、どんなことか。

自民党の参議員、大仁田厚さんが、公認辞退し、引退を表明すると、ヤンキー先生として有名で、現在、横浜市教育委員、国の教育再生委員の、義家弘介さんが立候補するという。

誰が立候補してもいい、当然である。
しかし、今、義家さんは、十分に教育再生委員会で、活躍し、その発言力が増している。どうして、参議院議員になることが必要なのか。

本人は、この参院選が、教育再生の分岐点になると、出馬に意欲的だという。
不思議だ。
結局、政治家という、立場を得たいのか。
それより、外からの立場で、物言う方が、説得力があると思うのだが。
しかし、名誉欲には、適わない。結局、そこに行き着く。勿論、本人は、そんなことを言わないだろうし、そんなことは、無いと言うだろう。

彼は、その著書から、有名になり、一気に時の人になった。
十年間は、その勢いの運勢が続くだろう。しかし、必ず、下る時が来る。
参議院議員として、八年間を使うと、それで、運気が終わることも。

人のことであるから、余計なことであるが、折角の、彼の良さと、立場のあり様が、勿体無い。

ちなみに、タレント、それに準ずる有名人が、ぞくぞくと政治家を目指す。
良いことであろうが、大丈夫だろうか。
ゴルフ選手の父親というだけで、立候補する人もいる。
信じられないのである。

政治家には、政治家になるための、学びが必要であろう。
ある専門分野を徹底して学び、それを土台にして、政治に参加するというもの等。
思いつきのアイディアで、政局を考えられては、たまらない。

民主主義は、多数決の問題である。数が多ければ勝つ。
すべて、選ぶ国民にかかっている。
今の政治も、すべて、国民が招いたこと。
年金、教育問題等も、詰まるところ、国民が撒いた種である。
責任は、国民にある。
社会保険庁の悪行も、以前から解っていたではないか。しかし、国民は、何も言わない。今更、責任、責任と言っても、始まらない。
最終的な責任は、国民にある。それが、民主主義である。

政治家を選んでいるのは、国民である。
以下、省略。

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2007年06月26日

独裁国家を支援する国

世界には、多くの独裁国家がある。
スーダン、ミャンマー、ウズベキスタン、ジンバブエ、そして北朝鮮である。
私は、ミャンマーが民主化してから出掛けたいと思っている。実は、すぐにでも行きたい国である。

さらに、アウンサンスーチ氏が、ふたたび一年の監禁を言い渡された。
結局、死ぬまで、監禁しておく、つもりなのだろう。とんでもない、国家である。

さて、言う。
それらの独裁国家を支援している国がある。
中国である。

中国は、石油などの資源獲得のためならば、相手国で、どんな人民弾圧、住民殺しが行われていても、金を注ぎ込み、独裁国家を支援し、手を組むのである。

その中国、北京で、平和の祭典と言われる、オリンピックが開催されるという、驚きである。信じられないのである。

スーダンでは、国家の住民屠殺が、続いている。
それを支援する中国に対して、国際社会は、無言である。
一人、フランス大統領候補の社会党ロワイヤル氏が非難したのみ。

中国は、信用してはならない国である。
共産主義とは、排他的、非寛容の一神教の宗教と同じである。
中国は、国益ではなく、党益で動く。つまり、国民のために、何かをするのではない。あくまで、党の利益のために、動くのである。
日本企業に対する微笑外交も、そうである。

アフリカの資源を根こそぎにするためにも、動いている。
いずれ、植民地化する勢いである。

さて、予言する。
中国は、分散されて、新しくなる。もう限界である。
オリンピック後に、経済破綻し、台湾に攻撃を仕掛けるのは、国民の目を他に転じるためである。
しかし、遅い。
着々と、中国の地方では、中国共産党と分かたれることを進めている。
中国共産党は、60年を過ぎた。歴史を鑑みれば、次の動きが解る。

さて、そこで北京五輪をボイコットする動きがある。
米国議会下院にて、ダルフールとオリンピック・国際的行動の呼びかけである。

ダルフールとは、スーダン国内の西部、スーダン政府に支援されたイスラム系民兵たちが、非イスラム系黒人住民を絶滅させるべく、居住区から放逐し、集団殺害を図るのである。
ダルフールの大量虐殺として全世界に知られている。

03年頃から、黒人住民が40万人殺され、250万が、住居を失った。
その、活動を、政府を多方面から支援、援助しているのが、中国である。

中国は、スーダンの石油の70パーセントを買い、スーダン政府には、100億ドル近くの援助を与えてきた。
ダルフールでの民兵が使用する、戦闘機、各種の砲弾、小火器類などは、みな中国製である。
また中国は、国連安保理常任理事国の立場を利用して、スーダン政府の大量屠殺支援を可能にしてきた。国連による、経済制裁や、平和維持活動にブレーキをかけてきたのである。

自国民を平気で1000万人も殺害する、毛沢東を国父としているのである。
他国民などの命は、物の数ではない。

北京オリンピックボイコットは、当然である。

我が国の首相、安倍は、スポーツと政治は別だとの見解を言う。
今や、スポーツは政治の道具である。認識不足も、甚だしい。


posted by 天山 at 00:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月27日

哀れ

ついにと言うか、やっと、出た。
社会保険庁の、使い込みである。
会計監査院が、ようやく、見つけたのである。実に、遅い。

問題は、発覚していないものである。

仕事はしない、責任感は無い、使い込みはする。年金資金は、好き勝手にするはと、空いた口が云々であり、もはや、絶望的な人々である。
勿論、全員ではないだろうが、これは全員と思われても、いたしかたない。
誰も、信用しない。

首相をはじめ、官房長官、社保庁長官らが、賞与を返納するという。
また、社保庁の全職員にも、職務ランクに応じて自主的に返納するように求めるとある。
そして、社保庁の事務所長以上のOB、かつて在籍していた厚生労働省に戻ったキャリアにも、職務ランクに応じた賞与額相当の寄付を求めるとある。

おおよそ、その額は、10億円であるという。
笑う。
大いに、笑う。

やらないより、やった方が国民の支持を得ると思っているとしたなら、間違っている。
もう、取り返しがつかないのである。

失ったお金と、信用は、取り戻せない。

社会保険庁の全職員を解雇するといっても、どうにもしようがない。
公務員にしないだけで、また雇えば、同じことである。

民間にすれば、納得するか。否である。

もう、年金を信用しない。

外資系の保険会社が、個人年金の新しい保険を発売している。
自分の身は、自分で守るしかない。

年金も、兎も角、日本は、大変な時代に突入する。
東京都は、あと5年もすると、独居老人の数が全世帯の、45,5パーセントになる。半数近くである。
これは、日本の姿を凝縮する。すでに、そのような地域もある。
介護。
この介護が、大問題になる。

子が親を捨てて、平気である。
そして、親も、子に、世話にならないという。
何故、そんなことを言うのか。たとえ、世話にならなくとも、世話になると、言わなければならない。
どうしたって、こうしたって、老後は誰かの世話になるのである。

意識欠如である。

格好つけである。

子が親をみるという伝統を捨てた。
ああ哀れ  哀れ

追伸
社会保険庁職員の全員が、賞与を返納するという。
厚生労働大臣が言う。

実は、私の友人に、ある所の保険庁の所長をしている者がいる。
私は、彼の性格を知っている。
決して、怠慢な仕事をしない。
しかし、社保庁が、このように言われると、彼も、その一人になる。
悲しい。
きっと、大半の職員は、真っ当に仕事をしているだろう。

しかし、批判は、厳しい。
そして、その批判は、そのまま、国民に向けられるのである。
管理責任者は、最終的に、国民である。
前々から、問題があったのである。しかし、自分の懐が痛まないと信じた。しかし、今回は、自分の懐が痛むと知った。故に、こうである。
要するに、自分さえ、支払ったものが、貰えればいいと思う根性である。
歴代、長官、そして、厚生大臣で、死ぬ者が出ても、おかしくない。
死を持って、お詫びするという人である。
明治ならば、いた。
今は、のうのうと、老後を公金横領で、過ごしているという。
こういうのは、確実に、地獄行きである。
勿論、誰も、地獄行きには出来ない。
自分から、死んだら、地獄に行くのである。
霊界とは、そういう次元である。

霊界を知らない者の、哀れさは、筆舌に尽くし難いのである。

posted by 天山 at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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