2007年05月01日

南極の雪解け

5月15日、米航空宇宙局が、これまで解けることがないとされていた、南極大陸内陸部の積雪が、米カリフォルニア州に匹敵する約41万平方キロメートルという、大規模な範囲で解けていたことの観測結果を発表した。

これほどの大問題が、新聞の小さなコラム記事になっている。

雪解けが起きた一帯の一部では、気温が5度以上に達した地域もあるという。
大変な事態である。

問題は、解けた後に、再び凍った表層面が、滑りやすい状態のまま残り、今後、海水面の急激な上昇につながる大規模な氷の層の移動が起こる可能性もあるという。

これが起これば、ミクロネシアを始めとして、世界全土に海水の上昇を促すことになる。大変なことだ。

生活圏の存続に関わる人々もいる。
現に、海水の上昇で、島が沈む人々が、オーストラリア、ニュージーランドに逃れている。
自然は、待ってくれない。
突然の活動に、どうすることも出来ないのが、人間である。

人間が住まなければ、こんなことにはならないのである。
この奢った人間に、ついに、自然が牙を向くのである。

しかし、それも多くは先進国といわれる国の起こす問題である。
自然破壊など、なんのその。自然を征服して良しとした欧米中心の考え方を、ここで改めるべきである。とはいうものの、日本は、金のために、どんどんと自然を破壊した。
地霊に断りもなく、どんどんと山を切り、川を埋めて平気である。
ほんの一部の人のためにと、山に道路を作る。皆々、金のためである。それも一部の人の金儲けのためにする。

このままでゆくと、地震のみか、大洪水も、いつ起こるか知れない。
私を含めて、多くの人が、都市が水に沈む夢をみている。
予知夢は、いつと特定できないが、必ず起こる。百年後でも、予知夢である。
勿論、都市が水に沈んでもいい。それは、人間が行ったことのツケである。

きっと、もう後戻りは、出来ないだろう。
温暖化防止政策も、遅々として進まない。
それも、無理ないことである。
あの大国は、公害撒き散らしても平気である。しかしそれも、昔日本も、そうであったと思えば、言う言葉が空しくなる。

発展とは、何か。人間とは何か。
一体、人類は、どこへ行こうとしているのだろうか。

普通の生活をしている私でさえ、捨てる物の多いことに驚く。
どうしてこう、捨てる物が多くなるのかと、佇む。出来る限り捨てないでおくと、部屋がゴミ箱のようになる。

果たして、物に心が宿ると、考えた先人たちに、この生活が適うだろうかと思う。
物は物。そして物に溢れる。
心の置き場も無くして、物に溢れているという現状である。
資源を無駄にしたくないと思っても、どうすることも出来ないのである。
本当に、申し訳なく思う。
着れるものなら、5年だって、10年だって、着ればいいと思うが、そんな考え方は、通用しない。

液体のボディーソープが出てから、固形石鹸が捨てられているのを、多々見た。
それが進化なのであろうか。
捨てられてある物を拾って、ベランダを占領している。
これを、有難いと受け取ってくれる人々に持って行く計画である。




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2007年05月02日

殉死

何とも痛ましいことである。

発砲立てこもりの男に撃たれて、殉死した、23歳の林一歩巡査部長である。
その若さ。絶句する。
そして、その親、妻、一歳になる子供の悲しみは、いかばかりか・・・

私は怒る。

警官が発砲して犯人を射殺すると、必ず人権団体とか、アホどもが、非難するのである。
警察も、世論を恐れて、後手後手の対応をする。

今回の事件は、犯人射殺でよい。
無鉄砲に発砲し、住民も動くことが出来なかったのである。
とんでもないことだ。

今までの世論に影響されることなく、どんどんと警察官は、発砲して、射殺しなければ、必ず被害者が出る。それも、死ぬのである。

善魔の宗教家ではない。
優秀な警察官が死ぬより、狂った犯罪者が死んだ方が、世の中のためになる。

警察庁幹部は、不運が重なったと言うが、違う。
人命に捕らわれていたのである。犯人を射殺すれば、簡単であったが、人命という正義に立ち向かう哲学を持たないゆえである。

人命という正義を、考え直す時期である。
これから、まだまだ銃による、事件が起こる。今までとは、違う。
犯人を射殺せよという命令を発してよい。

立てこもった男が、最後は、抵抗なく出てきたという。この男の命が助かり、警察官が死ぬなどという不運は、御免こうむりたい。

こんな悲しい思いを、もう私は経験したくないのである。

この男が、どうやって償おうが、亡くなった警察官は、帰らないのである。

時代が時代ならば、この男の刑は、市中引き回しの上、磔、火あぶりの刑である。
ただし、哀れを持って言うならば、この男は、精神疾患である。
その妻は、暴力ゆえに、シェルターと呼ばれる避難所に暮らしていた。
元、暴力団という。暴力には、勝てない。勝つためには、暴力の原因である精神疾患の治療が必要である。

精神疾患は、治療が必要である。
人権団体が言うならば、それを言うべきである。そして、暴力団の者に接見して、治療を受けるべく、説得することである。しかし、彼らは、そんな危険なことはしない。ただ、遠くから声を上げるだけである。
人命尊重と。
善魔といったが、多くの宗教家が、そうであるように、彼らもそうである。

ペルーで日本大使館がテロリストに占領された時、最後にフジモリ大統領は、犯人を全員射殺した。
もし、生かしていたら、必ず犠牲者が出たのである。
誰の命も、一律に同じく尊いという甘い考えは持たない方がよい。

勿論、テロリストにならざるを得なかったという、その人の人生の岐路を考えることは、実に必要なことであるが・・・
犯人を理解するための、哲学的思索は、実に必要であることを、付け加えておく。

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2007年05月30日

モラルの低下誰のこと

何を言っているか、馬鹿ども。
モラルの低下、誰のことだ。

主要都市だけでも、保育費の未払いが、約五年間で90億円である。
給食費の未払いも問題になっている。

各自治体は、取立てに本腰を入れる。
厚生労働省も、動く。
しかし、誰も事の本質を知らない。

これは、ささやかな国民の反乱である。

特に多い額の大阪市に言うが、大阪市の役所で何が行われていたのだ。
無能な職員に対する、とんでもない待遇等々である。
大阪市だけではない。各都市の地方公務員の、待遇を見よ。そして、どんな仕事をしているのか。大枚な給与を得て、仕事をしている振りをしている。
モラルの低下を言うならば、まず、公務員であろう。が・・・

国民の金を好き勝手に使用する者ども。
それに対しての、ささやかな抵抗と、革命である。

児童法では、児童を保育する義務がある。各自治体は、それを遂行せよ。
未払いだがら、施設を休むとは、何事か。

余計な公務員を退職させて、保育料を今の半額以下にしてもいい。
もっと言えば、子供は、国の宝である。
保育料も、給食費も、無料でもいい。
年金資金を使えばいい。
勝手に使われて、無残に無くなるなら、それの方が、国民は納得する。

そして、マスコミ等、識者に言う。
いい加減にせよ、と。

正義の味方のように、何を言う。
親の教育が必要だなどとは、もう、30年前から知っていたはずである。
お前のことだ。
公共事業で動く、裏金、リベート等で、どれ程の税金が動くか。
1000兆円ほどもある。
官僚、政治家、はては、存在不明な有力者等々である。

払えるには払わない。
何という、モラルかという。
その手本は誰か。
行政にいるものだろう。

ただし、私は支払うべきだと言う。
反乱は、別な形の方が良い。

北朝鮮のアホが、核兵器を日本に打ちたくて、たまらないらしい。ある物は、使いたいというのが、人情である。
国会会期中に、どうぞ、国会議事堂に落として下さいという。ついでに、霞ヶ関、一体である。
日本は、中から変化するのに、苦手である。外からの刺激が一番である。

正義というものは、全体主義の権化である。
タバコの値段を一箱一万円にすると、九割の人が止めるという研究成果を出した者がいる。
タバコを吸う人をなくそうというのだろう。
大きなお世話である。
これ以上、タバコを敵にするならば、喫煙者を障害者扱いにして、保護するべきだ。
マナーを守り喫煙する人に、何も言うことはないであろう。
僭越行為である。
肺がん治療の医療費云々という、想定した話は、止めることだ。

体に悪いものは、数限りなくある。それを、いちいち、調べ上げてから言え。
タバコの被害より、中国から入ってくる、多くの毒物食べ物を徹底して調べ上げろ。

と、とりあえず、感情的に・・・
団塊の世代に育てられた、今の親たちである。
生きるための大切なことを、伝えられなかったということ。
自由は教えられたが、責任は、教えられなかった。

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2007年06月03日

毒物中国

中国で食品や医薬品を監督していた行政の前トップが新薬承認などを巡り多額の賄賂を受け取ったとして、死刑を言い渡された。
官僚の汚職による裁判では、死刑判決が出ても執行猶予付きが多かったが、今回は、半月の審理で極刑が言い渡された。
医療品、食品の安全を守る責任者でありながら、ニセ薬製造に手を貸す悪質さに加えて、民衆に対して、巨額の損害を与えたという。

巨額の損害ではない。彼は、殺人者である。

03年、偽粉ミルクでは、13人が死亡。04年、偽酒で、数十人が中毒死、失明する。昨年は、注射液で、少なくても11人が死亡、また別の企業の注射液でも、10人が死亡である。

有害な化学物質が含まれた中国産原料を使ったペットフードや、練り歯磨きによる健康被害が米国を中心に世界に広まる。
中国では、ニセ薬、無認可食品の輸出が後を絶たない。
信用回復には、程遠い中国政府の対応である。

人道とか、人倫とか、道徳とかを、見つけるのが難しい国である、中国は。
しかし、転じて、日本を見る。同じようなことをしている者どももいる。
中国人と一緒である。
ある酒メーカーが、カナダに輸出したワインに、覚せい剤を入れた。口当たりが良いと売れたという。
三年前は、塩である。国産と嘘をついて、輸入した塩を使っていた。
いつから、日本人が、中国人化したのか。ただし、救いは、毒物ではないということ。

私は聞いた。
どうせ、日本人が食べるのだからと・・・
毒でも何でも関係ないのである。
農薬撒き放題である。立派な野菜が日本に入る。毒野菜である。
安いと買う。哀れな日本人である。
江沢民の反日教育が大いに生かされて、日本人殺しである。
その中国に、日本は膨大な金を、貢いだ。哀れである。

NHKをはじめとして、日本のマスコミは、中国の味方のようであるから、あまり報道はしない。政府が報道に口出すと、騒ぐが、自らやることは、平気である。
きっと、中国から、金でも貰っているのだろうと思う。思うのであり、そうだというのではない。そう、思わせる。

何を言いたいかといえば、感動させた者勝ちであるという社会だという人がいる。
有名になれば、何でも許される社会だと言う。
最低最悪の、千の風という歌も、有名になり、感動させれば、良しという。
問題は、すべて、一に帰す。

売れれば良い物なのだ。
例え、それを食って死んでも。
中国四千年とか、三千年とかの言葉は嘘である。

今の中国共産党は、何年になるのか。たかだか、60年程度である。
それ以前の歴史をすべて、抹消したではないか。
中国四千年の痩せ薬を飲んで死ぬ。哀れである。
肝臓障害は、甚だしい。

どんなことをしているのか。
トウモロコシのしんの粉末に、赤インクで着色した、何と、偽唐辛子粉である。
キノコ類のつやを良くするために、二酸化硫黄塗付である。
養殖魚からの、発がん性物質等々、まだまだある。

私は、必ず生産地を見てから買う。
実に、中国の物が多い。
美味しそうなキノコのたまり漬を見て、裏を返す。中国産である。
たくわんを買おうとして、裏を返す。中国産である。
好きな生姜を買う。産地が書いていないので、聞くと、中国産と言われる。

命についてということでの、実に愚かな本が出ている。
理屈である。
命の尊さを言うが、嘘である。

命は、食べ物である。
命を言う前に、食べ物を言え。

人はパンのみに生きるにあらず、神の言葉による。主イエスは言う。
ならば、キリスト教徒は、食わないか。
命は、食って命であろう。
愚かな、言葉の世界に迷うものではない。
人はパンのみでは生きられない。心の世界も必要である。
パンのみとは、パンも必要であるという意味である。

人が生きるのは、パンと神の言葉による。と、言えばよい。

命の尊さが、食べ物の尊さであること、誰も言わない。
食べるために、人は生き続けているのである。
生きるためには、食べないのである。
食べるために生きることは、許されるが、生きるために食べるという傲慢は許されない。
誰も生きてくださいとは言わない。
私一人が死んでも、世の中、どうなることもない。平穏無事である。


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藤岡宣男について

自分が舞台に立って歌うことで、藤岡宣男を追憶する。

日本歌曲を歌う。
しかし、声楽家のようには、歌わない。その間合いも、雰囲気も違う。違って当然である。私は、演歌師であり、歌師であるから、別物になる。
楽譜の通りには、決して歌わないし、歌えない。
何となれば、大和言葉で歌うからである。当然、楽譜を大和言葉に変更して歌う。また、その時々によっても違う。それが、再現芸術の最もたるものである。

藤岡も、様々なジャンル、それはクラシックの中でも行った。
歌曲は、日本、イタリア、フランス、ドイツである。凄いことである。
そして、歌いきれた。

私は、改めて、この行為によって、童謡という歌に目覚めた。改心した。回心もした。
ドウヨウとは、漢語である。大和言葉だと、わらべのうたということになる。
わらべうた、であるから、誰もが歌う。ドウヨウだと、子供の歌う歌となる。

わらべうたは、和歌の世界と同じである。
大和言葉で、とくに、言葉が優しい。簡単明瞭である。しかし、その奥は、深い。どこまでも行く。考えれば考える程、深く行く。

こうして私自身が歌うことで、何が正しいことかということが、解った。
正しいという歌唱法は無いということである。
もし、そういうことを言う人がいたならば、嘘であるということだ。

そしてもう一つ、民族音楽のことである。
音楽とは、民族音楽のことである。勿論、西洋音楽のクラシックも、民族音楽の一つである。それをもってして、音楽全般ではない。それを知るか否かで、その人の音楽の教養が解る。

藤岡宣男が、ポップスに向かっていた気持ちが、解る。
限定されないもの。誰もが、聴けるもの。
歌い手ならば、当然である。
限られた人に聞かせのではない。多くの人に聴いてもらう歌を歌いたいと思う。

クラシックの声楽の世界は、あまりに狭いのである。その狭さを、格式があると思い込む、声楽家のアホも多い。高級だと信じている。信仰に似る。
だから、賢い人は、決して近づかない。遠めで見るのである。

舞台は、漁師が命懸けで、漁をすることと、一緒である。
命懸けの行為である。
そして、漁と同じで、その結果が大漁になるか、駄目になるかも、同じである。ただし、行為自体は、どちらにしても、同じく、命懸けということである。

死にたいと思っていた人が、歌を聴いて、明日も生きると、勇気を持った時、大漁といえる。一人でも、である。

リハーサルも、本番も汗だくになる。
藤岡は、実に、計算して賢くやっていたことを知る。
私は、頭が悪いゆえに、その程度が解らない。ゆえに、歌い終わると、死ぬほどになる。
だが、私は、それでいい。
とすると、今まで出会った声楽家はと、考える。

日本語以外の歌詞を歌い、その歌詞の意味さえ知らない者がいたから、驚く。一体、何を歌っていたのだろうかと思う。信じられないのである。
勿論、日本語の歌でさえ、意味を知らない場合は、終わっている。

有名な声楽家で、どこの国の言葉で歌っているのか解らない者もいる。
それを感動して聴くというから、驚きである。
雰囲気だけで聞かせているとしたら、それはまた、凄いことであるが・・・
続く訳が無い。

私は歌を歌うということで、死ぬまで、藤岡宣男を追憶することにした。
勿論、命懸けである。

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2007年06月05日

羽田健太郎逝く

羽田健太郎氏が、亡くなった。
心から、ご冥福を祈ります。

残念です。
まだ、これから活躍が期待されたピアニストです。

ロクなピアノ弾きが多い中、実に、ピアニストと言える方でした。
良い人は、早死にします。
死んだほうがいい人が長く生きます。
これ、この世の事実です。

肝細胞ガンだと言いますが、死因は、嫉妬です。
明白です。

人は、人の思いに殺されます。
科学で証明出来ないだけです。

ほとんどピアノ演奏など聴くことが、ありませんが、ある時、耳にして、頷いたピアノの音が、羽田さんの音でした。
これならば、聴けると耳を傾けました。

クラシックのアホ、馬鹿、間抜け、糞ったれにはない、実に良い人柄がピアノの音にも表れていた。
私は、お会いしたことは、ありませんが、伝わります。

私のような素人の耳に合う、ピアノの音は、中々ありません。
あの野蛮な音を、あれ程、豊かに響かせた功績は、大きいと思います。

勿論、喜んでいる人もいるでしょう。亡くなったことを、です。
それが、世の中です。

人気のあるピアノ弾きの音を、感動して聴けるという、その耳の神経は、ただ事ではありません。
日本人の耳には、ピアノの音は強すぎるのです。
弦を、爪弾く音が、日本人の音でした。それが、ピアノは、叩く、叩きつけるのですから、たまったものではありません。
私が、学生の頃、著名だった、数名の物書き屋が、ピアノ演奏会と、ピアノの曲について、云々した、文を書いたのを読み、こうして、ピアノを聴くということを、喧伝していると思いました。
いい気なものです。
ピアノが解る、その音が解るということが、高級で、教養があると思わせる、作戦です。

今ならば、徹底的に戦っていたでしょうが、皆、死んでいません。
残念です。

兎も角、羽田さんが亡くなって、一つのピアノの理解される点が、無くなったと思われます。
再び、ご冥福をお祈りします。
私は、口先だけではありません。
羽田さんのために、祝詞を献上いたします。

羽田健太郎の命に謹んで申す。
祖先の元に、お戻りになること、清き、明き、直き心、大和魂に、魂幸はえませ。
はだけんたろうのみとこに、つつしんで、もうす
みおやのもとに、おもどりになること、きよき、あかき、なおきこころ、おおいなるやわらぎのこころに、たま、ちはえませ

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2007年06月07日

千の風、本当・・・

松下幸之助は、兎に角、テレビに広告宣伝をした。
それが、唯一の販売、売り上げを上げる方法だと言う。
実に、正しい。
それほど、テレビの力があることを知っていた。
矢張り、商売の天才である。

千の風を、紅白で歌ったAのリサイタルが、完売、完売である。
テレビに出て歌えば、最低最悪の歌でも、人は聞くのである。
実に、素晴らしい。
大衆を簡単に誤魔化すことが出来るのである。

こんなに単純になった時代も無い。
兎に角、テレビに出ればいい。
そうして、テレビに出る物を、大衆は、良しとする。
自分の住む土地にいる、素晴らしい芸術家より、テレビに出る最低最悪の芸術家の方が良いと信じるのである。

万事休す。

私は、Aというテノール歌手に、なんら恨みは無い。
ただ、私の耳には、到底、歌というものではないということだけである。
私には、アォー、ワァーと聴こえるのである。私の耳が悪いのであろう。

歌に感動するのは、歌詞であったり、メロディーであったり、歌手の人柄であったりする。
千の風には、その一つも無いのである。
しかし、紅白に出た。その一点である。
そして、それに感動する、軽薄短小な、ある世代である。

私のオフィスの、ソプラノ歌手のリサイタルでも、最後に、ある、おじさんが言った。
今度は、千の風を歌って欲しいと。
団塊の世代である。

ああいう、直接的な表現を、日本人は、好まないはずであるが、おじさんは、好むようである。それは、伝統教育を受けなかったからである。
日教組世代の、おじさんである。

日本語の語感を忘れた日本人は、これから、どこへ行くのであろうか。

語感とは、情緒である。
情緒は、なさけをむすぶ、という大和言葉になる。

なさけとは、心が初々しいという心の状態である。
それが、結び合うのである。

野口雨情という作詞家がいる。童謡で有名である。
彼の歌に、しゃぼんだま、という歌がある。中山晋平の曲である。
それは、亡き子を追悼するために、書いたと言われる。その通りである。

そこには、消えたという、歌詞が、一番と二番で、四回も歌われる。

私は、墓にはいません。千の千の風になって、云々という歌詞は、意訳としては、実に良い。
しかし、しゃぼんだまの、歌詞には、適わない。
死んだ私は、墓にはいません。いつも、風になって、吹いています。

私が関心するのは、一神教のキリスト教徒が、あの歌詞を書いたということである。あれは、一神教では、書けない歌詞である。
しかし、あの露骨さは、矢張りと思わせる。

さて、私は、実は、あの作詞を以前から知っていた。
藤岡亡き後に、ある人が、私を慰めるために、進呈してくれたのである。
ただ、一度、目を通して、そのままにしてあった。

無理である。
亡くなった人を思えば、あれでは、無理である。
そう思い込めば、そう思えるという訳には、いかない。
矢張り、いないのである。

生まれてすぐに、飛ばずに消えた
という、しゅぼんだま、の、歌詞が、慰める。

どう思い込んでも、いないのである。
何と言おうが、この世にいないのである。
消えたという方が慰めに成る。

それを大和言葉では、隠れたという。また、その方が、より慰めになる。

結局、あれは信仰である。
千の風という宗教的な信仰である。

忘れる、振りをするということである。
忘れる振りをして生きるということである。
それも良し。言うことはない。

千の風になって、漂うことが出来る霊体は、実に少ない。

それにしても、あの歌手は、随分と下手である。歌心というものが無い。あれは、発声のみであるから、歌とは、言えない。しかし、それを歌として、聞く人がいる。
実に、大衆は騙しやすいのである。
聞くことは出来るが、聴くことは出来ないのである。

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演歌

氷川きよし、という演歌歌手がいる。
あれほど、上手くならない歌手もいない。
デビューして、何年経つのか。
今は、育てるということをしないようである。

デビューした時は、少し期待したが、もう、残念である。
ただ、使い回されている。
歌心というものがない。ただ、勢いで歌う。
あれならば、声楽家と変わらない。

少ししたら、声が震えるようになる。ビブラートではない。単に震えるのである。
森進一のような、独特の声質でもない。
あのままでは、駄目になる。誰か、きちんと指導しないのかと、思うが、あの世界は金儲けであるから、売れなければ、次を探すのだろう。
哀れである。

シングルの新曲を二枚出すという。それは、実に珍しいと言う。
哀れである。
売れなくなった時、始めて解るだろう。誰も助けない。
彼のファン層の多くは、もうじき死ぬ。

さて、演歌という歌は、日本人の歌である。日本人だから、説明抜きで解るものだ。
その作詞も、五七調、七五調である。
字余りで聞かせる歌手に、長渕という歌手がいる。たいしたものだと思う。しかし、あれも演歌である。

演歌というジャンルは無いという人もいるが、それは、演歌の発祥を知らないからだ。
演歌は、演歌師から始まる。
明治の初期である。
時の政府を批判し、世相を斬った。
人に解りやすく、歌で、演題を説いた。
しかし、政府に禁止される。そこで、演歌師たちは、地方に出る。そして、次第に、人の心模様も歌うようになる。叙情歌の始まりである。

竹久夢二の「宵待ち草」が有名である。
ついには、ヴァイオリンを持って歌った。そして、それは、昭和初期まで続いた。
演歌とは、伝える演題があるということである。
伝えたいものがある歌を、総称して、演歌という。ならば、歌は皆、演歌である。

歌謡曲とは、戦後、政府が作った言葉である。
しかし、演歌という言葉に適わない。
歌謡とは、平安期からの歌を言う。歌謡の意味を書くと、これは大変な文芸論になる。
歌は、謡であり、詠いである。それは、また、伝統である。

便宜上、童謡、唱歌、演歌、歌謡曲と区分けるが、歌は、皆、演歌である。
伝える心を、歌心という。
伝えるものがない歌は、空虚になる。それが、声楽家の歌である。
発声の問題ではなく、頭の問題である。

氷川きよしの歌が、声楽家の歌に似る訳である。

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2007年06月08日

殺されて

殺されて はじめてわかる 自衛権     天山

どうしても、こうしても、殺されたい人間がいるものである。

日米による先制攻撃を、野党、そしてアホな市民が反対する。
集団的自衛権行使と言う。

一度、死んだ方が、マシなのだろう。

日米安全保障条約第5条では、日本領域での日米いずれかへの攻撃に対して、共同防衛が記されている。しかし、これは、主体的に日本が行動して、はじめて機能するのである。

政治家ならば、それくらいのお勉強をしていても、よかろう。

共産、社民は、税金の無駄である。政党と、認める訳にはいいかない。
そして、左派のアホである。

私は、昔、右派、右翼系だと言われた。
私は、言った。
カミだと。
そう、私は上である。右でも左でもない。
私はカミである。

理想的な人間は、右派、左派と同時に働く。
脳が、そうである。
新皮質と旧皮質が働く。
新は、左派であり、旧は、右派である。

そのバランスを取ると、カミ、上になる。

日米による、先制攻撃を「集団的自衛権行使」として反対するという、その根性は、殺されてもいいということであると、理解する。
また、日本が先制攻撃をしなければ、アメリカが動かない場合もある。

北朝鮮は、アメリカとの取引で、日本にミサイルを発射すれば、10分で主要都市に到達する。よくよく考えるべきである。
空論を玩ぶアホが多数いる。
その間に、日本は壊滅する。
危機意識欠如の何物でもない。

矢張り、死んだ方が増しであろう。

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2007年06月10日

タイ国情

タイ・前首相タクシンのタイ愛国党が、タイ憲法裁判所に、解党処分を受けた。
すると、旧党員が、タイ愛国グループとして結集し、再び新党結成に向けて活動するとのこと。
愛国党とは、笑わせる。
自分のために、国を食い物にして、税金のかからない通信社売却をして、千億円もの利益を得て、何が、愛国だというか。その息子二人も、脱税で巨額の支払いを求められている。

タクシン前首相の支持者は、バンコクなどで、クーデターへの抗議集会を繰り返している。
アホである。
勿論、タクシンもアホである。

タイという国を知らない。
金さえ動かせれば、やれると思う考えがアホ、浅はかである。
私は、外国人であるが、タイの国民を知っている。

タクシンが逆立ちしても、国王には、適わない。
新政権を国王が認めたのである。
国民の九割は、国王を支持する。自分たちが、苦しい思いをしても、国王を支持する。
国王は、国民を愛し、国民と共に、仏に額ずくのである。
その国王の行為が、権威を生む。

解りやすく言う。
タクシンは、大脳の新皮質であり、国王は、大脳旧皮質である。
新皮質は、合理的で、計算する。自分に得になることには、非常に敏感である。
旧皮質は、心である。旧皮質のある部分に空間がある。魂の場所である。国王は、そこを司る。

国民の支持は、旧皮質である。
適う訳が無い。

亡命生活を送るタクシンが、旧党員に「国家と公共の利益」のために、結集を呼びかけたというから、笑う。
国を食い物にしたものが、何を言う。

タクシンの手本は、中国共産党や、北朝鮮、ミャンマーの軍事政権なのであろう。
国王を廃止して、大統領制を暗に示唆したのである。
独裁政権を金で、推し進めようとした。

国王は、それについては、何も言わない。政治を国民にという思いで、民主化を勧めている。しかし、国民は、国王を絶大に支持する。
真っ当な政治感覚である。
政の意味を知っている。本来ならば、日本人が知ることを、タイの国民が知っている。
祭り事である。
タイは、稀に見る仏教国である。
僧侶と国王の信頼は、また凄い。精神的支柱である仏教と、国の権威の国王との関係は、実に理想的である。

仏教の慈悲の思想は、大和魂に似る。平和の思想である。

私の活動する、チェンマイは、タクシンの拠点である。
若者たちに聞いた。
タクシンは好きだと。理由は、医療費がタダになったことだという。
だが、国王は、別存在である。
医療費がタダになることより、国王が無くなる方が嫌だと。

信じられないだろうが、若者たちの部屋には、国王の肖像画がある。
日本の若者で、天皇の肖像画を飾る者など、皆無であろう。私の部屋にも無い。

このタイの国民の心理を、もっと学んでみたいと思っている。
現在の国王は、高齢である。次期国王に対しても、そうであるのか・・・
王子より、王女に人気があるというが・・・
タクシンは、国王の死を願っているのだろう。国王さえ死ねば、思い通りになると。
だが、肝心の軍に、クーデターを起こされたのである。
タクシンは、警察を手中にしているが、軍には適わない。

暫定政府と軍は、タクシン一族の追放を、さらに進めるという。
私は、支持する。
真っ当な権威が負けてはならない。

posted by 天山 at 00:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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