2007年03月20日

金融制裁解除

アメリカが凍結していた資金を全額、北朝鮮に返還するという。
約29億円である。
北朝鮮は、人民の生活向上につながる人道・教育支援に使途を限定すると誓約したという。
あり得ない。
それならば、とっくの昔に、そうしているはずである。

何故、他の国が、それに反対しないのか。特に、日本政府である。
また、北は、全額返金されるまで、協議再開しないという。
言われるままにしているのは、何故か。

ヒル次官補は、この問題解決により、次に進むというが、甘い。
偽札、麻薬の国家的行為を成す国である。
信用することは出来ない。

私が言いたいことは、一つ。
北は、日本に武器を向けているということである。
アメリカとの話し合いのために、日本を攻撃することもあり得ると言う。
それを、知っているはずである、アメリカも日本の政治家もである。
危機である。

最後の手段は、日本攻撃によって、アメリカと、取引する。
拉致問題は解決済みだと言う神経である。
ウソの上塗りをしても平然としている国である。

小泉元首相は、画期的な行動を取ったが、それが生かされていない。
何が問題なのか。
アメリカと日本は、日米同盟を結んでいるが、明らかに、アメリカ主導である。アメリカの言いなりに行動している。
何から何までである。

一体、アメリカは、何を企んでいるのか。
もしや、北の日本攻撃を望んでいるのか。
日本のアホどもを黙らせるためにである。
アホとは、平和運動等々、念仏のように唱える者ども。アメリカ軍基地の反対する者ども。
要するに、日本のアメリカ帰属をもっと強めるためにと考えているのか。

アメリカの核が無ければ、日本は、すでに無い。
ロシアも中国も、日本を狙うのである。
このままの推移を見れば、どうしても北の言いなりになり、それが成らなければ、遂には、日本攻撃に至る。
あり得ないことが起こるし、国際常識など無い国である。

どうしても、叩き潰すしか方法は無い。
そして、北の人民のためにもである。
一刻も早く人民を救わなければ、取り返しのつかない悲劇になる。すでに成りつつある。
ゴミ屑のように扱われている人民を思うと、これこそ正義の戦いが必要である。

国としては、すでに崩壊しているのである。
単に、独裁政権のために、何事かをやっている。
普通に考えても解ることである。

イラクのことにせよ、あのまま放置していれば、どんなことになったか。
ベトナムより悪いと言う者がいるが、あのままにしていれば、もっと悪いことになったはずである。
勿論、戦争は反対であるが、それ以上の方法があったのか。
少なくても、クルド人は、生き延びることが出来た。また、大規模なテロ戦争を防いだのである。
イラクの問題は、イラク攻撃ではなく、あの土地柄、つまりイスラムの故である。
イスラムは、世界のイスラム化を目指している。
民主主義、共産主義と、同じく、イスラム主義を打ち立てて、世界を構築したいのである。
それは、中世からの願いである。
その最大の敵は、今も変わらず、キリスト教である。
どちらも共に、最低最悪の宗教であることは、間違いない。
何せ、同じ旧約の神を頂くのであるから、手に負えない。

北朝鮮は、叩き潰すしか方法が無い。
ただ今の政権を叩き潰すのである。



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実刑判決

実刑判決である。
尊敬し、期待した。何か、新しい世界を創造すると思いきや、単なる金儲けであった。
ホリエモンなどと言われ、マスコミに出て、いい気になっていた。

企業経営者には高い倫理と順法精神が求められる。利益のみを追求し、法を無視することが許されるものではない。
東京地裁が堀江貴文に、懲役二年六ヶ月の判決を言い渡した。

資産200億円である。34歳にして、何もないところから、よくぞやったと思った。
しかし、単なる金儲けであったということで、愕然とし、呆然とした。
そして、本人の弁は、武士にあるまじき言葉である。
私は関係無いと言う。部下がやったことだと。
しかし、証拠が出て裁かれた。
国策により、裁かれたという彼の心の闇は深い。因縁であろう。

判決文に「一般投資家の犠牲の上に立って企業利益のみを追求した犯罪は強い非難に値する」と言う。

彼が、何をやっていたかを、調べた。
何も、実のあることがない。単なる、頭の良い犯罪者であった。
残念である。悲しい。
もっと悲しいのは、企業利益ではない。彼個人の利益を求めたのである。隠し財産の様も出た。結局、そういうことだった。

公徳心という言葉が廃れて久しい。彼には、公徳心が無いということであった。
簡単に言う。公徳心とは、公に奉仕する精神である。
仕事を通して社会に奉仕する。それぞれの立場で、社会に奉仕するのである。そして、公に、利益を還元する。それが、目に見えない価値、徳を生む。
彼には、大切な、大事な教育が成されなかったのである。

才に溺れるという言葉がある。彼は、極めつけの才で溺れた。
次の裁判に、何を言うのか。
34歳にして、地に落ちたのである。
哀れである。悲劇である。それならば、才など無かった方が良かった。罪を犯さずに生きられたのである。

何ゆえに、金が欲しかったのか。
子供の理屈である。金持ちは偉いのである。それだけの思想しかなかった。思想といえる、代物ではないが・・・

控訴審で、悪あがきしないことである。
弁護士と、協議しているだろう。しかし、もし無罪となっても、彼は、もう信用されない。ただ、金があるうちが花である。
情けないのである。いつから、日本人は、彼のような者を持って善しとするようになったのか。

期待が裏切られた分だけ、落胆は大きい。

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2007年03月21日

宇宙のこと

普段は、宇宙のことなど、考えない。
そんな暇は無い。

今から137億年前、ビックバンによって生まれたという。
人生100年としても、その億年という数は、想像すら出来ない。
宇宙誕生から約40万年後に、宇宙が広がり始めて、ムラが出来た。その前は、ぎゅうぎゅう詰めの状態である。
そらに、4億年後に、濃度の高いところ、つまり物質が多いところで、星や銀河が生まれた。

宇宙には、どれくらいの量の物質があるか。
星や銀河など目に見える物質し、わずか4パーセントであるという。
暗黒物質は、22パーセントである。
では、残りの74パーセントはというと、謎である。

暗黒物質とは何か。
仮説である。
ニュートリノや未知の粒子がそれではないかと・・・
私がいいたいのは、このニュートリノである。
世界を形作る基本的な粒子の一つという。
これを発見した日本の学者が、ノーベル賞を貰った。

ニュートリノは、あらゆる物質を通る。
これは、霊の存在を裏付けるものになる。
星の爆発で生じたニュートリノを学者は、発見した。

霊界について云々するものも、知らないのは、霊界は宇宙にあるということである。
霊界は、宇宙の外にあるわけが無い。宇宙の外は、無いのである。無とは、宇宙外の世界ということである。
宇宙の中に、無は無い。
無に近いものは、ブラックホールである。
色即是空という言葉は、物質は、空であるという。この空は、無である。物質は、目に見えない粒子によって成るのである。空でも、無でもない。
空論という哲学を打ち立てた、竜樹であるが、観念である。そこから、大乗仏教の誤りが始まるが、省略する。

私は、天孫降臨の一つの証明がされたという。
霊は、粒子である。そして目に見えない。そして、物質を通すのである。
そして、その働きは、自由自在である。
霊体とは、ニュートリノに代表される。
その霊のみの世界を、霊界という。
それは、宇宙の中にある。

宇宙の中に、次元の違いがある。
残りの74パーセントとは、次元の世界であるから、そうそう簡単に解るまい。
今は、最高次元が9次元であるといわれる。
数学では、5次元まで証明される。
この3次元は、4次元と関わっていることは、言わずと知れたこと。
4次元は、霊界の入り口であり、その辺を、うろうろしている霊というか、幽霊が一番多い。
幽霊とは、幽体でいるということである。霊体に移行せずに、うろうろする。
迷える霊とは、幽霊のことである。

物質を通す、粒子があるということで、天孫降臨を証明できる。
霊体という、粒子で、いくらでも地上に降りることが出来る。

宇宙物理学とは、霊界を証明する学問である。
期待している。

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2007年03月22日

告知板

この告知板を読んで、震え上がっている人がいるという。
こんなものを読んでも、どうということはないが・・・と思っている。

自害せよ等々の言葉が、響くようである。
過去に、指摘されたことをやっていた者が、矢張り、良心に恥じるのだろう。
若者や、悪心のある者は、死後の世界など、考えることは無いが、ある程度の年齢になると、死後の世界に対して、何らかの思いを持つ。
当然である。
それを全面否定する者が、死ぬと、浮遊しているから、よく解る。
例えば、死後の世界も霊も無いと断定する者が、すべては無だというが、霊界に、無という状態の次元が在ることを知らない。
無と思う者は、そこに行くしかない。
どういうところかは、言わないでおく。

本当に、愚かである。少しの注意力があれば、霊というものが存在するということが解るはずであるが、科学という妄想に誤魔化されて、知らないのである。
そうい科学者が、どんな霊界に入るかも、言わないでおく。

勿論、死後の世界を信じる必要は無い。信じて騙されるからである。
多く新興宗教は、人を騙して平気である。
現在ただ今、世界に在る宗教の霊界は、レベルが低い。新興宗教は、もっと低い。三次元と四次元の隙間にあるようなものである。

国語の力が落ちて、耳障りの良い言葉と、簡単明瞭な説明に、感動するあたりは、救いようが無い。
この私でさえ、毎日文章を書く私でさえ、自分の国語力に、愕然として、絶望するのである。しかし、新興宗教の文を読んで、唖然とし、呆然とする。
この程度の文章で、解った気になるという絶望である。
和歌の一つも作らない、作られない者の書くものなど、話にならないのだが・・・

もののあわれについて、を読み、万葉の歌、一首に適わない文を平気で書くあたりは、ほとんど勘違いの世界である。

さて、震え上がる人に言う。
死後の世界を否定しようが、しまいが、信じようが、信じまいが、そんなことは、どうでもよい。
大切なことは、祖父母の生き方を思い出せという。
それらの祖父母は、明治から、大正に生きた者である。

日本の伝統が、狂ってきたのは、推古天皇の頃からであるが、それが真実、狂ったのは、戦後である。
昭和初期までは、少なくても、少しは、残滓として残っていた。
祖父母の生き方を参考にして、人生を反省し、社会のために、何事か、奉仕することである。
出来ることから始めること。
町内会の掃除ならば、すぐに始められる。しかし、人から褒められるな。
誰も見ていないところで、行え。
早朝、深夜である。
人に評価されないように、十分に注意し、行え。
そして、金である。有意義に使用する者、団体に寄付せよ。
寄付の金が、遊興費などに使用されては、台無しである。そういう、個人や団体が、数多い。いや、そういう方が、多い。
金を出す以上は、その用途にも、責任が生ずる。

寄付はしても、仏教で言う布施はするな。皆々、坊主たちの、遊興費や、セックス遊びに使われる。寺に布施しても、安心するな。その使用用途に、加担するのであるから、同じく罪に当たる。

霊界に、神や仏などはいない。
そういう名乗りを上げる霊は、すべて、邪霊である。
我は、天照大神である、弥勒菩薩である、阿弥陀如来である等々は、邪霊に他ならない。
霊界には、我らの祖先、先祖がいるのみ。
勿論、そのレベルはある。
粒子が細かくなればなるほど、高い霊界に在る。
日本で神と呼ぶ場合は、それらを総称して言う。
唯一絶対の神などは、いない。
勿論、欧米の宗教は、唯一絶対の神であるが、あれは魔神であるから、欄外である。魔神とは、支配欲の強い霊である。

それから、禊祓いをしても、無駄である。
禊祓いは、それ自体、霊格が高い霊が出来ることであり、人間が禊祓いをして、清まるなどということは、あり得ない。
この世の罪を、禊で祓うという根性は、霊界に通用しない。
すべて因果応報、自業自得である。
例えば、公金横領の者は、その子孫が、苦しむ。
これ以上言えば、混乱するであろうから、省略する。

行為したことは、消えない。それを消そうとして、何事か行為しても、詮無いことである。
行為は、行為によってでなければ、消すことは出来ない。
神や仏に祈っても、詮無いことである。無いものに祈りを捧げても、一人相撲である。
自己暗示である。

あらゆる観念を廃して、何が残るか。
残るのは、私の意識である。
そして、私は、生死の中にある。
私は私を誤魔化せない。その心に従うことである。
神や仏に、その妄想に棚上げするな。
霊界の、どのレベルに行くのかも、すべて私が決めるのである。
地獄、極楽も、私の決めることである。ただし、地獄、極楽というのも、相対的であり、温泉街の極楽もあれば、高層ビルの極楽もある。
えっ、霊界に温泉やビルがあるの・・・と思うであろう。あるのである。
霊界は、想念の世界であるから、この世にあるものは、すべてある。
混乱するであろうから、以下省略する。

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2007年03月23日

永代供養云々

偽の日本仏教教団の多くが、永代供養云々と墓地販売に、いそしんでいる。
永代とは、永遠という意味であろうか。永遠に供養するという。

供養の意味も知らずに、供養するとは、異なことである。
供養とは、生きている人にするものであり、死んだ人にはしない。これ、仏法の常識である。しかるに、矢張り、偽の仏教である。死者を供養すると、言い続けている。

三蔵法師玄奘は、至る国にて、かの地の王から供養を受けた。そして、天竺から戻られたら、何卒、立ち寄り、仏法を教えて欲しいと言われた。
尊敬すべき聖者に供養せよとは、仏陀の言葉である。
死者ではない。生きている者にである。

永代供養とは、何事か。
仏法の何一つも、実践せずに、商売には、いたく熱心である。
すべて、地獄行きである。

墓地を作り、先祖を供養するということの誤りは、仏罰に当たる。

仏陀は、輪廻から、外れることを説いたのである。
つまり、この世に、再び生まれることのないようにとの、教えである。
そして、因果応報と、自業自得を観たのである。

子孫と言う者が、いくら供養したからといって、何にもならないのである。
まして、子孫と言っても、子孫であるかどうかなど、誰にも解らない。
子孫であるという根拠がない。
密通して出来た子であれば、子孫とは言えない。そんな女は、ゴマンといる。
先祖供養とは、あまりに矛盾であるし、また、先祖とは、どこまでの先祖か。その元を辿れば、アフリカまでに至る。

20代までの先祖で、一億人に達する。
一億人の供養をする。ウソでしょう。そんなことが、出来る訳が無い。

後継者のいない方のために、永代供養をいたします。
ウソでしょう。
しまいに、ローンでもたまわりますという。
たわけ者。
鎌倉仏教といわれる、新興宗教を開いた開祖たちは、まだ少しは、真剣だった。それが、今は、彼らの苦労を元に、金儲けである。
法然の念仏、そして、親鸞の念仏という他力本願、日蓮の題目、道元の禅という自力本願、皆々、妄想である。文学としては、評価するが、宗教ではない。

彼らの、文学は、価値があるが、信仰ということには、価値がない。
知らぬ者の戯言である。
現在の浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、曹洞宗等々は、仏法にあらず。
その証拠は、彼らの行為を見れば、一目瞭然である。
信徒を餌にして、何をしているのか。
本願寺の門主を見よ。何をしているのか。それらの末端を見よ。何をしているのか。
浄土宗、曹洞宗、日蓮宗の、坊主を見よ。何を行為しているのか。
蒔くことも、刈ることも、捕ることも、何もせずに、何をしているのか。
読経をしているとは、笑わせる。
読経の意味を知っているのか。また、その経典の根拠は、どこにある。
誰も、答えることが出来ない。
根拠が無いからである。

坊主の中には、それなりに善なる行為をする者があるが、それとて、耕し、捕る、作る者の足元に及ばない。
善なる行為をする坊主は少ない。
大半が、食って寝て、糞して、金を集めて、のうのうとしている。
もう一つ、言い忘れた。セックスしてである。

しまいに、真言密教、天台宗となると、開祖の野心が、未だに残って、見苦しいのである。
共に、仏法とは、何の関係も無い、中国思想である。
中国思想による、仏教解釈であるという。
であるから、ウソである。
あの国の思想家は、霊界の存在を知らない者の集いであり、言葉遊びに始終する。
それなら、ギリシャ思想の方が、余裕が在る。

永代供養という名の元に、商売をして、なんら良心に恥ずることない、その根性は、ただ事ではない。
オウムのように、明らかに悪事をすれば解るが、このやんわりとした悪事は、オウムより、悪い。
ホント、仏罰が、当たるであろうこと、必至である。

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2007年03月24日

神仙の思想

安食堂でご飯を食べていた。
テレビから、馬鹿な大衆が支持する女の占い師が言う。
道教の権威だと。
自分で道教の権威と言う。私は、思わず顔を上げて、テレビを見た。

道教の権威で、仏式の先祖供養や、墓の斡旋をしているのである。
あの女の本は、至るところで売られている。ということは、買う者がいるのである。
勿論、どんな占いでも、有効に活用するといい。

成り上がり者というものは、本当に傲慢なのである。
きっと、すべて自分の手柄なのだろう。
人には、感謝を説くが、自分は、人に感謝などない。自分にしか、感謝をしない。
堂々としたものである。
恐れ入る。

普通、竜神系は、金を得ると、謙虚になるのだが、余程の根性の竜神系の霊団が背後にあるのだろう。
あれ程の強気には、なれないものである。

そういえば、天狗系霊団をバックに活躍する、スピリチュルアル何とかという者の本の広告が大きく載っている。
それも、何と言うことはないが、皆々、知らない故に、感激して読むのだろう。
新興宗教の本も、読解力が無くても、読めるようになっている。
これすべて、読解力の低下の問題である。

伝統教育がなされないゆえに、食べて、寝て、セックスして、という欲望に邁進して生活する。問題は金と、セックス相手のことである。
それの相談の相手をしているのである。
勿論、上記の二名は、貧乏人は、見ない。

再び、女の占い師である。
道教の権威であり、故に、体のことは、すべて解ると言う。
病に無い人は、病にある人の気持ちなど解るはずもない。
広く、貧乏人から金を集めて、金持ちになり、ただそれだけで、随分と傲慢だが、本人は、得意満面である。
それも、支持者がいるからである。
支持者というものは、数である。
猫も杓子も数になる。

さて、道教については、専門家でも、よく解らないはずである。
中国で起こった純粋な、宗教に似たようなものであり、内容がよく解らない。神仙の思想なども、あれから出る。
神仙というから、神と仙人かと思いきや、神は無い。仙人だけが生きている。仙人とは、化け物である。
要するに、この世の欲望充実の技を教える。
道教、儒教も、霊界の存在を知らない。
人間の延長にあるもので、それを超えることはない。
日本の平安期に、多く、これらの思想が定着してゆく。
瑣末な迷信を多く生んだのである。

学者は、日本が、それらに影響されて云々と言うが、逆である。
日本の古神道に影響されて、あれらは、上っ面を取ったのである。変形されて、日本に逆輸入された。
飛鳥、奈良時代に帰化した者たちが、日本に定着させるべく、働いたのである。
本家に戻って、布教する当たりは、大したものである。
不老長寿などに象徴される思想は、道教であり、蓋を開けると、中国地霊の集いであり、蛇に象徴される。
竜神とは、また違う。

竜とは、龍とされる場合もあるが、微妙に違う。
十二支に辰年が配されているが、辰は架空の存在としてある。自然界のあるエネルギーを辰として、置き換えた。
それは、風水などに生かされて、龍のエネルギーを使用して、土地建物を活性化するものである。自然界のある、あるエネルギーとは、何か。
それは、自然の地にある、霊的エネルギーで、地霊と言うものである。
実は、この地霊の主が、神道の産土神である。
彼らは、産土神の存在を知らず、ただ、地霊のエネルギーを得るためにと、方法を考えた。それが風水である。

神仙の思想などは、不老長寿にあるように、生き続ける事を善しとする。
これが変形して、死んでも、あの世には行かず、この世に留まり、生きるというから、奇妙である。つまり、幽霊のままに、この世にいることを善しとする。
その幽霊は、実に、肉体を得ている時と、同じ状態を保つようにとの考えであるから、魔物になる。

この世の欲望に、しがみついている様と見ればよい。
神仙の思想は、化け物になるための思想である。
いつまでも、生きるということからして、変だと思う。
地霊のみを奉ると、あのような国になる。

地霊は、産土神を通して、治めるのが筋である。それをそのまま利用すると、エネルギーが強い分だけ、とんでもないことになる。
眠れる龍と譬えられた中国の龍が目覚めて、どうなるか。言わずと知れている。混乱、混迷を深めて、収拾がつかないという状態になる。
指揮官のいない兵士が勝ってに活動をする。つまり、身内争いの混乱になる。
それを治めることが出来るのは、唯一、産土神である。

産土神は、日本では国津神の系統である。
以下省略。

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2007年03月26日

伊勢神宮

伊勢神宮という奇跡。
事の起こりは、第10代天皇、崇神天皇から始まる。
天下に疫病などが流行り、天皇は、お奉りしていた天照大神を皇居よりお出しして、奉ることを決心し、皇女を斎王(いづきのみこ)として大和笠縫邑にお奉りされた。
そして次の第11代垂仁天皇の皇女が、斎王を継いだ。
倭姫である。
この倭姫が、伊勢神宮を起こした。

「御杖代」みつえしろ、として天照大神、皇大御神、すめおおみかみに奉仕されて、大和を発ち、伊賀、近江、美濃等の諸国を巡り、御大神の住まいに相応しい地を求めて、伊勢の国に入る。
御神慮により、現在の地に、御創建されたのが、神宮である。
今年、創建二千年を迎えた。

伊勢神宮に関しては、美辞麗句を尽くして語ることを避ける。
端的に言う。
世界の聖地である。
その訳は、簡単である。
巨大な建物は皆無であり、正宮の建物は、日本最古の建築様式である、神明造である。
高床造りであり、ただそりのみ。
ワンルームであり、他に何も無い。
見事である。鎮まるとは、こういうことなのであろう。静かに佇むのみ。その存在を誇示することなく、ただ在るのである。
そこには、仰天する奇跡無く、在るだけ。
深い緑の中に、ひっそりと在る。

この神道と言われる、神宮の有様は、教祖や開祖と言われる者無く、教義として体系されることも無い。
自然の有り様そのままが、教義である。
入信の手続き無く、誰もがお参りすることが出来る。

二千年来、粛々と行われているお祭は、ここにしかない。巨大宗教建築は、すべて思い出の建物として、観光に晒されているのみ。
伊勢神宮だけは、今も祭祀が行われている。
言挙げせずという通り、沈黙を善しとし、ひっそりと佇むあたりは、見事と言うほかに無く。これが日本の祖先の大元であるのかと思えば、自然、心が静かに満たされる。
総氏神と言われると、各地の氏神を思い起こし、自分が育った土地の、氏神、産土神を思い起こす。つまり、私の先祖たちである。
素晴らしい信仰である。私に続いてる流れを感じる。
対立してある、神という観念ではない。
観念というものを置かない、神と尊称する祖先の御親である。

ここに至ると、議論する言葉が無い。
言葉を超えている。

鏡を持って我であると称した、御大神の御言葉。それ以外に無い。
かアがアみイ。
か、がは、みである。あ音とい音の母音である。
ア、 イである。開いて、受ける。
イ、 そして鏡の有り様は、写すこと。それを覗く人を写す。
そこに、神がいる。それは、私である。
御大神は、我を写して神と言う。
単純素朴な、有様を理解する人は幸いである。

この世も、あの世も、まず我が在ること。
我が主体であること。
我と我が対座する様を奉りという。
これ以上理屈を言うのを止める。

私は、伊勢に行く気はなかった。毎日、太陽を拝して十分であった。
太陽を化身として御大神があると信仰するのである。
信心と言えば、我の心が入り、それは邪念にもなる。信仰は、ただ仰ぐのみ。
恐れ多くも畏くも、それだけで私はよい。
神宮の様は、それを善しとする。
そこに小賢しい人間の想像する妄想の教えなど無いことが解る。
清めるということが、自然に同化することであり、特別なことではないと解る。
神道の奥義というような、怪しい作法など無い。鎮魂帰神の法など必要ない。
自然と共生し共感することで得る、禊祓いである。
心を清めるということは、自然の中に心を入れるということである。
海、山、川、草木、そこでしか生きられないのである。その恵みを受けて生かされている。神宮は、それを象徴して在るのみ。

最後に私の霊学から言う。
私が回った宗教施設で、このような波動の細やかな建物や土地はなかった。
名古屋から近鉄で向かったが、ある処まで来ると、波動の違いが感じられた。その波動は、次第に、近づいて来るといった感じで、伊勢に到着して、成る程と思った。
申し訳ないが、神宮に適う神社は無い。また、他の宗教施設も無い。
ここまで清らかさを保つ地は無い。

何度も言うが、私は、神社本庁、伊勢神宮の神職等々は、全く興味が無い。
便宜上あるだけであり、彼らが去れば、誰かが、神宮をお守りするだろう。そういう建物である。
天武天皇が定めた遷宮が、20年に一度行われる。それが天武天皇の皇后であった、持統天皇の代に、国家的事業として行われた。そして、今に続く。
唯一奥義があるとしたならば、この遷宮の意味であろう。
霊学から見る。
息吹の奥義である。
二十歳を成人として見ることも、あながち不思議ではない。それが二十歳であることが問題である。
40、60と一生のうちで、少なくても、二回から三回、多い人は、四回、五回と遷宮に合う。
風水による云々という考え方もあるが、私は、違う。
正宮をお移しして、建物の息吹を新たにする。それは国家の息吹であり、留まることをさせずに、いつも新たなるものであること。
自然の生成に預かる作法であろう。
人間で言えば、改める年になる。
つまり、いつも新しく成れるということである。
一日、24時間であり、半分は12時間である。人間の生態リズムは、20時間である。
天は24時間で、地は20時間である。4時間のズレが生じる。
天地と供応させてズレの息吹を合わせる。
生成発展の奥義だろう。しかし、それは理屈ではないと思われる。
天武天皇は、閃いたのである。思いつきである。しかし、この思いつきとは、自我意識を超えたものであり、人間は、自分が考えているより、別の意識の方が、激しく動いている。決定したことは、自分の意識であると思うが、実は、計り知れない、意識の大海から出る。
主体的に自分が決定しているように思うが、その実は、大いなるものに生かされているのである。
それに気づくことが、人生の奥義であろう。
ただし、それを神や仏と言う無かれ。
私である。私の私である。
以下省略。

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2007年03月27日

もののあわれ23

言霊の力を感じる歌を紹介する。
天智天皇の皇后、倭姫の歌である。
天皇窮不予之時大后奉御歌一首
すめらみこと おほみみやくさ みたまいしとき おおきみの たてまつれる みうたいっしゅ
天の原 ふりさき見れば 大君の 御命(みいのち)は長く 天足らしたり
あまのはら ふりさけみれば おおきみの みいのちながく あまたらしたり

天の原とは、天空である。学者は瑣末な文献をもって、色々と議論するが、天の原といえば、天空に決まっている。
ふりさき見ればの、ふりは、振り切る、振り捨てるというように、動詞に冠し、意味を強める接頭語である。
さけは、放つである。
御命長くは、永遠を言う。
天足らしたりとは、満ちるという意味である。
天空を遥かに仰げば、大君の命は、窮することなく、永遠に満ちている。そういう意味になる。
これは、天智天皇が病床に臥されてからの歌である。
初期万葉の命に対する思いが、ここではっきりと言われる。
人の命は、永遠である。今、この肉体が衰えても、その命は、永遠であるという確固たる信念である。
命を漢字で書くから、限定されるが、いのち、と書くと違う。
いイのオちイなのである。受けて送って受けるという、母音の一音の意味から、いのちは、息と同じように、繰り返されるということである。
私は、瑣末な文献により、万葉集を読まない。祈りつつ、万葉集を読む。
天に満ちる、いのちなのである。
いのちは、いのちの大本から流れている。それを、頂いて人のいのちがある。その、いのちにつながる、皆々、つまり、祖先、御親、みおやという、連綿として続くいのちの輪に在るということだ。
縄文から続く弥生の精神である。縄文の思いが、弥生に理念として、花開くのである。国生みも、弥生から始まるが、その原点には、縄文が息づいている。その息づく、連綿とした祖先とのつながり、そこに、いのちが在る。

天の原に、天足らしたり 天に満ち満ちるいのちの充実である。
これを現代は、失った。
再び、この、いのちの充実感を取り戻すことである。
万葉に、振り返ることである。
この歌は、単なる病気平癒の歌ではない。いのちの、永遠性を歌うものである。
生命感覚と言う。いきる、いのちを かんじることの おぼえ である。
御命、みいのちと言い、いのちを、一つの人格のように扱う作法に、感嘆する。
私の内に、御命が宿っているという感覚である。
いのちは、いのちというものに、帰結する。一人のいのちは、一人のものではない、皆に平等に充満して与えられている、大いなる、いのちなのである。

古代の人々の、いのちの感覚を見出して、日本の伝統の神道というものが解る。
いのちは、かみなのである。
その、かみへの道を、神道という。唯神の道と言う。
御とは、神と同義であるから、日本人は、神という言葉を尊称して扱う。
神は、人間を超越したものでも、何でもない。人間の延長にあり、いのちを生きるものを、神と尊称して呼ぶ。これを理解しなければ、万葉の時代、それ以前の時代を理解できない。
何とか、日本の神観念を、取り戻したのと思う。欧米の思想にある神という概念でも、観念でもないということを、繰り返し言う。

もののあわれの、ものとは、いのちのことである。
いのちが、あわれなのである。
あわれが、慈しみの感情に、情緒にあるということは、以前に書いたが、繰り返し言う。
慈しみも、あわれの、一つの場面なのである。

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575日祭

4月25日は、藤岡崩575日祭である。
あの日から、一日たりとも思い出さないことは無い。
ふっとした拍子に思い出す。そして懐かしみ、悲しみ、慈しむ。
一緒に過ごした日々を貴く思う。
大切な人を失ったと火の悲しみを、私もまた悲しむのである。
そして、この悲しみが、慈しみに至る時、私は藤岡の死を受容する。

何が楽しみといって、死ぬことほど楽しみなことはない。
ただ今は、肉体があるゆえに、霊体に成ることは、眠る時のみである。
肉体を去って霊体になって、藤岡と逢うことが、何よりの楽しみである。
死ぬことが、待ち遠しいのである。

願わくば 秋風のもと 赴かん 長く離れた その人に逢う

藤岡のために、コンサート活動を続けている。藤岡との縁を生かすために、続けている。
藤岡亡き後のコンサートは、お客様が半減した。いや、ほとんど来る人が無かった。
藤岡のコンサートもお客様が少なかった。有名ではないからだ。
しかし、それ以上に少ないお客様でのコンサートである。
それでも、続けた。続ける。藤岡との縁を切らないためにである。
これ、男の心意気である。それ以外に無い。

藤岡の歌声は、人の人生を変える力がある。
勿論、それを聴いても何の感動も無い人もいるだろう。しかし、私は人生を変えた。故に、私のような人がいるであろうと、続けている。
私は藤岡の歌声に、40年間の人生を捨てて、藤岡と共に生きた。
この人が歌を歌うことは、私が何かをするより、多くの人に語りかけるだろう。そう思って、藤岡の縁の下の力持ちになろうと思った。勿論、コンサートを主催するなどとは、考えなかった。単に、見えない形での支援である。

しかし、ここ、ここに至っては、もう後戻りが出来ないのである。
全国に、アジアに、世界に、コンサートを広げる。それも、今までとは違うコンサートである。
音楽に垣根は無い、ジャンルを越えたコンサートである。
私の人生、最後のテーマとなった。
それは利益を生むものではない。心意気を伝えるものである。
伝えられるものは、無形のものである。
藤岡に逢った時に、あんたのお陰で、こうして無形のものを残すことが出来たと言いたい。そして、藤岡の喜ぶ顔が見たい。それだけである。

藤岡の死に出会い、心底、死ぬことが喜びになった。
私も、いずれ死ぬということが、救いになった。
死ぬことは確定しているから、裏切られることがないのである。

死ぬことが、待ち遠しいと言う哲学の言葉、思想の言葉を聞くことがなかった。
私が始めて、それを言う。
死んで花実が咲くものかと言われる。死んで花実が咲くのである。
それまでは、自然の法に則して生きる。生きるまで生きる。そして、死ぬ時には、死ぬ。

藤岡を失った悲しみを超えるために、私は自分の死を賭けた。
それでしか、この悲しみを超えることが出来ないと思うのである。

死ぬことを 待つことのみに 生きるなり 遥かに照らせ 山の端の月

平安期は、月を仏の救いの証と見た。
私は違う。仏の救いなど妄想である。
救いとは、私が私であるということ。すでに救われている。救われているのに、救いを求めるという、誤りを仏教は言う。
いや、宗教というものすべてが、そうである。
愚かである。すでに救われている。
どんな艱難辛苦であろうとも、救われている。
これを総称して信仰と言う。
病にあれば病になり、苦難に遭えば苦難に遭う。それで、よろしい。
何も、恐れることは無い。
すでに救われているからである。

地図があっても、迷うのである。そして、それを演じて、生きている。
演じ切るという楽しみを、私は覚えたのである。

宣男君、もうすぐに、私は行くよ。
あんたの歌声を聴けないということが、どんなに辛いことだったか。
だから、私も舞台で歌うことにした。
あんたを追憶するためだ。
命の限り歌って、あんたを追憶する。
上手いとか、下手とかいう問題ではない。あんたを伝えるために、歌ったし、歌う。
こういうのを、恐れ知らずの、恥知らずと言う。
それでもいいよ、生きている。

藤岡宣男の命、別称、歌の社大神。
さ幸えたまえ
守りたまえ

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2007年04月02日

お遍路

誤解されないように言う。これは否定ではない。注意である。
四国八十八ヶ所のお遍路である。
団塊の世代も巻き込んで、ブームにあるという。

まず、基本は歩くことである。
今は、アスファルトが大半であり、そこを歩くと言うのは、お馬鹿としか言いようが無い。意味が無いのである。
足腰を痛めてしまえば、元も子も無い。
バスやタクシー、レンタルカーなどで行くというのは、全くの無意味である。

何故、遍路に出るのかと言えば、暇つぶしである。
自分を見つめるために歩くというならば、四国でなくてもいいはずだ。
それに、四国という土地柄を知っているのだろうか。
あの地は、島流しの地である。
弘法大師空海の云々というが、彼は、京都、禁裏の近くに野望を抱いて、寺を建てたのである。また、高野山である。比叡山の最澄に対抗してのものである。
空海の野望に付き合うことは、いかがなものか。

勿論、空海の成したことを否定するのではない。民のためにも、様々な福祉活動をしたことは、十分過ぎる程、評価できる。それと、彼の信仰、宗教観は別ものである。

では、心霊から見る。私の霊学からみる。
まず、多くの巡礼をする土地は、多くの人の思いが溜まる。願いの渦巻きがある。そして、浮遊する霊である。幽霊である。
怨霊となって、今もそのままになっている者もいる。
仏教で言う、成仏出来ない霊体がいる。

誰言わないから、私が言うが、空海は、仏法、彼の言う、密教だけでは、解決しないこともあり、神道の有り様も取り入れたのである。
神道に関しては、多く、言挙げせずという常識があるので、口伝が多く、また、知ることは難しいことが多々ある。
神道の、古神道の修法とは、実に、個々人によって違うために、体系づけることが難しいのである。
つまり、空海の密教だけでは解決しない問題を、神道の修法を持って成したということである。
真言とは、呪術の言葉であり、それは、インドバラモン等々の、仏法とは言えないもののことである。しかし、仏法だというから、しょうがない。
仏法に絡めて、仏法の一派として起こった宗派である。要するに、新興宗教である。また、それは、中国思想に加味されたものであるということ。

さて、お遍路は、寺をお参りする。
寺をお参りして、具合の悪くなる人は多い。
不成仏霊のせいである。
死んだ者が、寺に住み着いていると思えばよい。霊界に行かずに、現世に捕らわれている。つまり、寺に捕らわれている霊である。
勿論、その寺の僧たちもいる。
お遍路の古株も大勢いるだろう。
そこで波動が合うと、一時的にせよ、影響を受ける。体調不調であり、精神的に不安定になる。
もっと悪いのは、般若心経など唱えて回る。
あのお経は、思索の手引きであり、唱えてよいものではない。
簡単に言う。
迷いのお経である。一時期、私は、法華経などの後に、法華経の強い言霊を鎮めるために、唱えていたことがある。
法華経は、因縁を出す力があるゆえ、それを消滅させるべく唱えたのである。

言霊を学べば解るが、お経は意味ではなく、いや、宗教の祈りの言葉は意味よりも、言葉の力が動く。それを、大半が知らないということである。
勿論、宗教家もである。

思索の手引きとは、ものを考えるための、手引きであり、あれを、唱えるということは、不安定な波動を受けやすいということである。
霊能者等々、霊を祓う際に、唱える団体もあるが、誤魔化しである。消えたように感じるだけで、次元移動をさせる力は無い。
成仏ではなく、往生させるのである。
往生とは、単に、別空間に移動させると考えてよい。
つまり、ここではなく、あちらに行かせる程度のものだ。

般若心経は、言葉の遊びに過ぎない。インド人の好む思考である。解ったようなつもりになるが、何も解らない。解った振りをするのみ。
あれに、人生や宇宙の秘密があると思うのは勝手だが、唱えて、どうなるというものでもなく、魔物がつけ込んでくるだけである。
いや、効力があると言う人がいるだろう。
当然である。
魔物と魔物の取引や戦いをするのである。

大和言葉には、あのような、汚い音は無い。
最後の、ぎゃてーぎゃてーはらそうぎゃーてぼーじそわか、になると、呪文の最もたるものてあり、意味は、彼岸に行くものよ、汝に幸あれのようなものであるが、言霊としては、最悪である。
それなら、梵語で、ガテーガテーパラサンガーテ、ボディスバハァーと唱えた方が、まだよい。

お経を漢語で読むから、おかしくなるのである。
それを、延々として成してきた、日本仏教なるものは、何も知らないと言える。
陀羅尼と言われる経文は、まだ梵語で唱えるからいいが、漢語で読むと、魔界に通ずる。
それでも、進められない。
余程の、覚悟と信仰があって、成すことができる。

京都、奈良、の寺寺寺、等々、皆々、お参りに勧められない。
観光ならばよい。下手に拝むと、とんでもないことになる。
見よ、僧侶たちは、とんでもない生活をしているだろう。
彼らを見ればよく解るのである。
邪霊、悪霊にやられているのである。彼らが宗教家などと言えないだろう。
信徒から、大枚な金を巻き上げて、豪華絢爛たる生活をしている。さらに、その集めた金で、信徒相手の商売である。信徒から集めた金で、信徒相手の商売である。
僧侶といえるか。
仏陀の仏法など無い。
彼らは、習慣と慣習に生きているだけである。

信徒を持たない奈良の寺は、ましかと思えば、まだ武士の霊がうろうろしているという有様で、往生させることもできないでいる。
奈良の寺にボランティアで、改築工事に行った人が、武士の霊に憑かれて、両足の複雑骨折という、交通事故に遭った人を知っている。横浜の日蓮宗の僧に、祓ってもらい、何とか、立ち直った。

要するに、霊を扱う者は、生半可なことでは成らないということだ。
だから、霊を信じないというアホな僧もいるほどだ。
さて、それでは、どこにお参りするかといえば、ただ一点のみ。
伊勢神宮である。
多々ある神社仏閣で、私が納得したところは、無い。
皆無である。
申し訳ないが、皆無である。
伊勢神宮のみである。

高祖皇宗の天照大神の臨在する正宮のみ。
ただし、周辺の伊勢神宮、つまり、それにまつわる社を回るだけでよい。
何も無い。それがいい。
古代の森に、高床式の小屋が、大神の臨在する建物である。
小屋である。
後は、何も無い。
世界の宗教の聖地といってもよい。
あれほど、慎ましい社を見たことがない。
そして奇跡は無い。神の証拠である。
神は、奇跡を起こすことはない。今、生きていることが奇跡であるから、他の奇跡を求める者の、願いは聞かれない。
感謝をする場所としてある。ただ在る。それが、私の霊感に響いた。
この地にしか、高い霊界の波動は無い。
在るということの臨在のみでよい。
ぶらぶらと玉砂利を歩いていると、それだけで身が清まるのである。
正宮の前で、何事もなく、礼拝する。それで終わり。
親のいる場所であるから、安心するだけである。

アスファルトの上を1400キロも歩くことは無い。
経を上げることも、説教を聞くこともない。
自分に説教していれば十分である。
普段の生活の中で、経をあげるより、説教を聞くより、遥かに素晴らしい教えを受けているのであ。
伊勢神宮に行くと、それが解る。
後は、ゆったりと、食事をしたり、その辺りを歩いて、終わりである。
ただし、好きな人は、末社等々を回ると、100社以上あるから、回ればいい。

ちなみに、伊勢神宮は、今年創建2000年である。


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