2007年02月23日

今もって、私は藤岡の整理をしている

今もって、私は藤岡の整理をしている。
その中から、日本歌曲コンクールの票が出てきた。そして、ある審査員の寸評があった。
驚いた。
そこに書かれていることである。
アカペラで歌う、うぐひす、という曲についてのもので、こうある。
「うぐひす 節回しにもう少し和風の特徴を出した丁寧さを」
これが、あのコンクールの審査員の一人であったかという思い。
節回し、和風、特徴、丁寧さ
この人は、この言葉の意味を知っているのかと思った。
藤岡のアカペラから、一体何を聴いたのであろうかという思いである。
この素人の私でさえ、よく聴いた。よくよく聴いた。
節回しという言葉に関しては、もう論外であるから言わないでおく。
和風という言葉である。藤岡の歌に和風が溢れていた。それを聞き取れないということである。あれ以上に和風とは、どういうことであろうか。
私の前に出て、和風を説明して欲しいものである。和風とは、和ものの風である。そして和ものの風という時は、そのようにある、と言うことである。つまり、和のようにあるということである。
あの藤岡の日本語の語感に和のもののようにあれとは、何事であるのか。
審査員の資格が無い。
そして特徴である。特徴とは、何か。
この人は、和風の特徴をと言う。和風の特徴を知らないものが何を言う。
和風といえば、和のようなものであり、この人は、和風の和風はと言う。または、特徴の特徴と言っているのである。
審査員の資格が無い。
そして、丁寧さである。
あれほど、丁寧に歌っている歌が、あろうか。
こうして審査員は、見事に、化けの皮を剥がしたものである。

もし、万が一書くとしたなら、和風の丁寧さを、である。
しかし、藤岡の歌には、和風の丁寧さも超えていた。
これは自分が日本人だと奢っているのである。聞くところによると、その審査員は、フランス歌曲の大家なるそうな。それも、カタカナフランス語であるというから、驚く。
あれを外国人に聴かせてみるがいい。
純粋、大和言葉の日本語を藤岡は、歌っていた。

まず、日本の歌を歌うということは、日本語に聞こえるということが第一である。
それをクリアした後は、語感である。
日本語の語感は、母音の響きにある。
だから、多くの日本の伝統歌は、皆、母音を伸ばして、母音の余韻、その響きを聴かせる。
民謡を始め、常磐津、清元、長歌、大和楽、地唄、小唄等々。
日本語には聴こえるが、キンキンとして、耳障りの悪いソプラノがいるが、情感、情緒というものが感じられない。ただ、大声が響くので、人は注目する。また、声楽家の日本の歌を評価する、何物も持たない故に、良いものだと思い込む。
中には、柔らかな母音の響きを聴かせるソプラノがいるが、稀である。
その他は、皆、論外、である。
カラオケを歌う素人の方が、上手である。

藤岡の声は、生まれ持った声質であるが、藤岡が、私の納得する母音の響きを持ったのは、大変な努力と、根気があった。その方法については、今は、言わない。
兎に角、審査員になれない者どもが、何人集っても詮無いことである。
あのコンクールで一位になっても、世の中の誰にも知られない。ただ、井の中の蛙のように、狭い世界で、納得しているという、アホ面の者どもばかりである。
これを、哀れという、もののあわれではない。愚かしい者の、哀れである。
そして、それに気づかないという哀れである。
気づかないままに死んでしまうのである。ますます、哀れである。そして、霊界にも行けずに、その辺をうろうろするのも、ますます哀れである。芸大などに行くと、その幽霊もどきが、浮遊しているから、たまらない。
勿論、私は、もう行く気は無いが。



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統一地方選挙

統一地方選挙があるからか、政党のチラシが入ってくる。
ある政党団体のチラシを読んだ。良い政策が書かれてある。地方の行政に関するものは、納得した。
区議は、この政党の候補者に投票してもいいと思った。
しかし、一つだけ、問題を感じた。
「愛国心」など国家主義の強制を危惧とある。
教育基本法改正の、第二条「教育の目標」にある、愛国心を養うことが盛り込まれたということである。これは、国民に強制する道を開くものだとある。
続けて、学校の現場で、強制と処分が行われているという。今回の改正で、教育に「心」に踏み込んだ強制が行われることを危惧するという。
「日本全般に見られる学力やモラルの低下、家庭や地域での教育力の衰退などは、教育基本法で解決されるものではないという。むしろ教育改革の名のもので、憲法で保障されている「教育の機会均等」がなし崩しにされ、格差の拡がりと子供たちの平等に学ぶ権利が奪われ、教育現場は混乱に陥ると思われます。」と書かれてある。

このように解釈するのは、簡単である。また、そのような解釈をするのかという驚きである。教育に「心」に踏み込んだ強制という言葉は、おかしい。今まで「心」に踏み込まないから、おかしくなったのであろう。自由と平等の思想が、正しく施行されなかったゆえであろう。
そして、驚きは、愛国心を養うことが、国民に強制の道を開くという。
国民はともかく、学校教育の場で、愛国心を教えることは、当然過ぎるほど、当然であり、学校という場は、公の場であるということを、忘れている。
そして、強制という言葉を、教育に関しては、誤っている。
教育とは、強制である。
強制以外の何物でもない。こういう言葉が嫌なら、柔らかな強制と言う。
教育することは、すなわち強制が伴うと何故理解できないのか。
愛国心を教えないで、どうする。学校という場所、つまり「公」の場所だからこそ、愛国心を教えられる、理想的にである。
それはまた、日本のみならず、国際人としても、実に必要なことである。

学校の現場で、強制と処分が、行われているということは、国歌斉唱と国旗掲揚であろう。
解りやすく、極端に言う。
イスラムの国で、アラーの神、及びマホメットに対する不敬があれば、外国人でも殺される。私は、多くの国に出たが、その国の国民、市民が大切にするもの、国王をはじめとして、その国の国旗に対しては、敬意を払う。他国に旅すると、それは常識以前の常識である。
子供に、公の場所での、作法を教えないでの、教育とは何か。
「心」に踏み込むとは、どういうことか。それを自由と平等、権利だと言うならば、日本人としての、責務があろう。
もし、海外で事件や事故がある場合は、私たち日本人は、日本国籍のある者として、扱われる。そして、日本が責任を持つ。
「心」踏み込むというならば言う。
「心」というものを示して見よ。私の前に、その「心」というものを見せて欲しい。
この政治家たちは、精神も、心も、魂も、明確に出来ないはずである。
それらを、ごちゃまぜにして、ものを考えているはずである。
こころ、とは、大和言葉で、こオこオろオ、である。
端的に言う。
心とは、息遣いである。息が心である。
心乱れれば、息が乱れる。
心の教育を言うが、誰一人、息を整えることを教えられない者に、心のことを言う権利は無い。心の在り処を知らないのである。
オの音霊は、送ることであり、息を送る、息を出すことである。息は出せば、吸わなければいけない。そこで、息遣いが生まれる。心とは、そういう状態を言う。
どうしても、そう言いたいならば、精神と言うべきである。精神は、言葉の世界であるからだ。

よく聞くがいい。
愛国心は、教えられて成るものである。これ教育の骨頂であろう。
国家主義を恐れるということは、潜在的に、本人が、国家主義というものを持つからである。国家主義とは、全体主義に似たものを言うのであろう。
つまり、国家によって、個人の自由と、人間の平等が損なわれると考えるのであろう。
強迫観念であり、妄想である。または、自分が国家元首になった暁には、そのように行為するということであろう。
今、現在の日本で、国家主義、全体主義に似た状況が出るかといえば、全く考えられないのである。言えば、大企業主義である。
しかし、政治家だれもが、大企業主義を崩壊出来ないでいる。そうなれば、日本は世界から孤立するからである。よって、多くの中小企業が、それらの犠牲となり、今の経済状態を生み出している。

さて言う。こうした矛盾の中に、世界というものがある。
政治家とは、何か。
素晴らしい政策を上げるが、一番大切なものの考え方を知らない。
政治を語るならば、まず、言葉を知るべきである。
そして、日本人ならば、大和言葉の在り処を知るべきである。
辞世の句を読むことが出来ないような、政治家は、お勉強をし直すべきである。
我が身を捨てて、地域のため、県や市町のため、国のために生きられることが出来なければ、政治は止めた方がいい。
愛国心の無い者が、日本の政治家になれるか。
愛国心を漢語で読むから、解らなくなる。これを、大和言葉で言う。
みくにを、いつくしむ、こころ、である。それは、おおいなる、やわらぎの、こころ、つまり、大和魂から成るものである。


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2007年02月26日

3月25日は、藤岡崩(神上がり)545日祭

3月25日は、藤岡崩(神上がり)545日祭である。
一年と半年を経る。
喪に服すのは一年がおおよそであるが、私は、三年を喪に服すと決めている。
喪とは、もがり、であり、思いを尽くして追悼する、慰霊するということである。
持統天皇は、天武天皇の賓宮の儀から、大葬の儀まで、二年と三ヶ月をかけている。
私は、三年をかけて、藤岡の葬儀を行う。
簡単に言えば、通夜の時間である。今、私は通夜の時間を過ごしている。
葬儀は、すでに形式化しているが、葬儀は、人の心である。何年、通夜を過ごしてもいい。それを、私が決める。

仏教が葬儀を始めたのは、鎌倉時代からである。
戦で亡くなった人のために、名もない僧が、彼らを供養したことから、始まる。
仏教は、死者の法要を行わない。葬式をするものではなく、いかに生きるかを説く教えが、本来の仏教である。
神道の日本では、神社でも葬式はしない。それぞれの村、集合体によって、それぞれの風習に従って行った。野辺の送りとは、そういうものだった。
仏教の僧たちが、葬式をして金にするようになり、今現代の葬式仏教に至る。

主イエスも、死者は死者に任せよと、葬式の形を定めなかった。
葬式より何より大切なこと、それは、救霊である。
霊を救うとは、霊界入りすることが大切なことであり、それは、もはや死者本人の自覚と、因果応報、自業自得のものである。手出しは、出来ない。
主イエスは、洗礼を言うが、あれは、洗霊であり、霊を洗う、清めるという意味である。つまり、神道の清め祓いである。
それでは、清め祓いは、何によって成るのか。
言霊の清め祓いである。禊とは、海川に入り、沐浴するということだけではない。身を清める身を祓うということであり、魂、霊を清め払いするのは、言霊の祈りである。

宣ることによる、祈りの言葉である。
言葉は、実現化するのであるから、言葉を発して祈る。
何も、成功哲学という妄想の言う、言葉は実現化するではない。古神道は、すでに言葉は実現化すると見抜いていた。おおよそ、2500年ほど前からである。
思考が実現するのではない。それは妄想である。言葉が実現化するのである。

大和言葉で、安かれと言えば、そのようになる。

さて、藤岡の喪に服す私は、三年をそれに当てて、いよいよ藤岡の歌声を世に広めるために、行動する。藤岡の歌の伝道である。
これからの声楽家の手本になる歌であること、明々白日である。
素人の私に解って、プロの皆々に解られないとは、不思議である。余程、目が暗んでいるのだろう。
上手に歌うことではない。歌とは、魂からの、霊からのものである。
上手な人は、多くいる。それが、魂に響く、霊に響く、それが歌である。
耳に、響くのではない。
耳で聴いているうちは、詮無いことである。

もののあわれを歌った、藤岡を世に紹介することが、私の喪に服す意味である。

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2007年02月28日

君が代伴奏命令合憲という判決

君が代伴奏命令合憲という判決がなされた。
当然である。
私は、法的云々ではなく、感情論として言う。
教師側の主張は「君が代は、過去の日本のアジア侵略と密接に結びついており、公然と伴奏は出来ない。君が代の役割を教えずに、児童に歌わせることも出来ない」と言う。

国旗、国歌を巡る同種の訴訟は、現在全国で、13件あり、約950名の教職員がいる。
東京地裁は、昨年の四月、都立学校の教員401名が起こした訴訟で「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱するよう義務づけた都教委の通達は違法」とする判決をした。

彼らが、全くの間違いを起こしていることを知らない。
児童は、過去の体験を持たない。国歌は、国歌として認識するのみ。そこに、大人が、自分の思想、信条を持ち込むことがおかしい。児童の混乱が目に見えるのである。
それこそ、児童に対する、思想、自由、良心の侵害だとは、考えない。実に、身勝手な行為である。それに気づいていない。

君が代が、過去の日本のアジア侵略と密接に結びついているというのは、個人の考え方であり、それを誰も否定しない。それで、よろしい。
しかし、それを持って公の場で、礼儀作法を無視してもいいとは、許されない。

ある人が、君が代は、現在の日本の繁栄と密接に結びついているから、素晴らしいと考えてもいい。言論の自由であるから、何を言ってもいい。
彼らは、個人と、公、公人としての意識が希薄過ぎるのである。

海外に出掛けて、観光する。ある場所では、履物、素肌を出すことを禁じられている場所がある。また、どんな国に出掛けても、もし、その国の、国旗に人々が敬意を払っている場面では、外国人であっても、敬意を払う。
これ、礼儀作法である。
昔、ある宗教団体に公演に呼ばれたことがある。私は、その教義を信じる者ではないが、彼らが敬意を払う仏像に、敬意を払う。公演の前に、その仏像に、私は敬意を称して、額ずいた。これ、礼儀であろう。

公立学校の教師であるということを忘れて、我が身の思想、信条を盾にとり、それを言論の自由だと思っているならば、即座に改めるべきである。
または、私立学校に転職するべきである。

それにしても、私が腑に落ちないのは、君が代が、過去のアジア侵略に密接に結びついていると考えることである。
あれは、歌である。
歌を聴いて、様々な感情を持つのは、個人的、極めて個人的な感情である。
彼らは、他人が、自分の嫌いな歌を歌うと、止めろと言う、傲慢を言うのである。ちまたに溢れている、騒音に対しては、鈍感で、君が代だけに、異常に拘るというのは、まず強迫神経症である。

そして、最も罪深いのは、この行為によって、子供たちを混乱させているということである。自分の感情を、良心であると言い、正当化しているが、それによって、子供たちを混乱させる。それが、罪深い。
国歌斉唱、国旗掲揚、共に公である。
公とは、おおやけ、であり、おオほオやアけエである。
オとアとエである。
送る、開ける、留める。
つまり、おおやけとは、人に送り、心を開き、それを留める。国家幻想のあり方である。
彼らの行為は、国家幻想を破壊せよと言う。つまり、自分の居場所まで破壊するということを知らない。実に、愚かであり、哀れである。

どうして、このようになったかは歴然としている。左翼主義のアホどもが、国家転覆を狙って成したことである。天皇制廃止とか、愚にもつかないことを考えた末のこと。
ロシア、中国共産党、北朝鮮を見れば、彼らの末路が解るというものである。

ここで、はっきりと言うが、日本上空に開ける霊界は、またの名を、高天原神界という。
世界で、一つしかない、正神界である。これは、いくらでも証明することが出来る。
正神の霊界を有する国は、日本のみである。何も、民族の云々を言うのではない。現実を言うのである。
魔界の無い国である。
よくよく歴史を見回して欲しい。ユダヤ魔界、インド魔界、準じて、イスラム魔界によって、世界は支配された。何故、日本が、このようにあるのかをとくと考えてみれば、解るはずであるが、勿論、霊的感応力の無い者が、千人集っても解らない。

高祖皇宗によって、守られている日本であり、その個人的自由を許している。
その個人的行為は、因果応報、自業自得して、自分に返ってくる。

日本には、専制君主制は無い。天皇の住まいを見渡せば解る。歴代天皇のお住まいは、城壁で囲まれたものは、一つも無い。
いつでも、滅ぼすことが出来た。しかし、武力政権を取った者も、誰一人、あの信長でさえ、天皇家を攻撃することはなかった。何故か、天皇家は、一般国民に支持されていたからである。我らの本家であるという意識は、神であるというより、身内である。

君が代から、私がここまで書くのは、飛躍し過ぎである。それを解って書いている。
君が代は、歌である。歌が、ここまで威力のあるものであることを知る。
日本は歌道の国である。
この問題は、日本人の歌に対する感覚が、いかに優れているのかを教えるものである。
単なる歌に、これほどの議論が必要なほどに、日本人は、歌に支配されるのである。
私の、もののあわれを、是非読むべきである。
学者どもが書けない、もののあわれを、お見せしている。
勿論、私の霊感という妄想であることは、必然である。


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2007年03月01日

捏造問題に言う

捏造問題に言う。
関西テレビの社員の給与は、若手でも年収1000万を超える。
孫下請けの製作会社の若手の給与は、月20万程度、年収にすると、240万程度である。
格差どころの話ではない。
何もせず、製作を丸投げしてやらせている。自分たちは、のうのとして大枚な給与を得ている。問題は、これである。
そして、今の日本は、この形で進んでいる。
大企業は、大枚に儲けて、その元では、中小企業が犠牲になるという図である。

納豆だけではなく、味噌汁、フルーツでも捏造があったと報告された。
何故、関西テレビの社長が切腹しないのか。
死をもってお詫びしないから、また、これが続く。要するに、死なないからである。
死ね。

「意識の緩み」「チェック機能の不備」と言う。
違う。選民意識である。自分たちは、違うと思う意識である。
下請けの、また下請けである。信じられないのである。
あのNHKも、そうである。問題が起きたとき、下請けの製作会社が謝る。しかし、褒美は、NHKが頂く。
本当に、おかしい、変である。

テレビに対する不信感ではない。テレビ局に対する不信感である。
要するに、言論の自由を金儲けにしていると、言えばよい。その方が、すっきりする。

私は、納豆番組から、一ヶ月ほど、納豆が食べたくても、食べられなかった。手に入らないからである。
昔から納豆を食べていた。
それなのに、テレビで痩せると言われただけで、納豆に殺到した、アホ馬鹿、間抜け、糞ったれの、視聴者である。
テレビ局と、同類なのである。
是非も無し。自害して果てた方が幸せである。

反省し、謝罪しますと言われて、ああそうですかと、言えるか。
私は、言えない。
死んでもらう。
事の重大さを知らない。それが社長であるという認識を、私は疑う。
日本を覆う問題を象徴している。
作る者も、アホであれば、見る者も、アホであるということ。
この問題の根本は、伝統教育の退廃から生まれた。
そう、伝統教育を放棄して、何やら、社会、共産主義もどきに迷わされた、日教組に代表される者どもたちの、問題である。彼らは、それに気づかない。
戦後、60年以上を、そのような教育に明け暮れていた。
万事休す。



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2007年03月02日

タイ、チェンマイにでかけた時

タイ、チェンマイにでかけた時、北朝鮮からの脱出した、脱北者を支援している団体があることを知った。
3月1日の読売新聞に、そのことが載った。
タイは、脱北者の第三国出国を認めているため、昨年は、前年比5倍以上の900名近い脱北者が流入してい。今年も、すでに180名以上がいるという。
今や最大の脱北ルートになっているという。そのルートは、中国雲南省からラオスを経由するものだ。
取材した二人の女性の談話が載っていた。
北朝鮮の状況だ。
盗品販売や中国からの密輸入をする人だけが生き延びる。市民は飢え死にするだけ」と言う。三年近い逃避行を経て、タイに辿りついたのは、支援するNGOの支援もある。

現状では脱北者は、中国に滞留するしかない。強制送還や死を覚悟しなければならない。脱北者の多くは、ブローカーに頼み、多額の資金を調達するために、売春などをするという。一人の女性は、人身売買を五回もされたという。
バンコクには、入国管理局に収容されている350名の他に、150名が潜伏するといわれている。

これで、北朝鮮が、まともに暮らせる国ではないことが理解できる。
さて、国際社会である。こんなことは、知っている。しかし、これに腰を上げることなく、現体制を維持させるために、何とかかんとか、やっている状況である。
いくら食料支援をしても、一般国民には、行き渡らないのである。

同じ日の新聞に、南北閣僚会談が行われて、北は、特にコメ、肥料の支援を求めているという。支援実施を強く求めている。それに応えると、益々、北は、苦しむ人を出すということになるのである。
アメリカは、香港の金融凍結も解除しようとしている。
結局、北に丸めこまれているのである。
核兵器開発は、単なる脅しのテクニックであり、蝦で鯛を釣る行為を平然とやってのける。そして、一番苦しむのは、北の国民である。

あれ程の悪事をしても、国際社会が裁かないとは、一体、どういうことなのかと、本当に考え込むのである。
2005年の秋には、体制が崩壊しているのである。国であって、国の体を成していない。つまり、独裁者のための国である。
ほんの一部の人のために、多くの国民が塗炭の苦しみを負う。
日本が半島を統治していた時期は、こんなことはなかった。
これは、歴史を顧みれば解るが、問題は、ロシアとアメリカにある。南北に分断して、代理戦争をした果てのことである。それを、今の今まで、解決出来ず、多くの人を苦しみに置いている。
まだ、この体制を温存させているとしたなら、両国共に、魔物の国だと言うことである。

祖国を逃げなければならない人の悲しみを想像すれば、絶望である。
一刻も早く、国連主導で、北の国民のために、統治すべきである。

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2007年03月11日

少子化問題

少子化問題である。
政治の問題であると言う。それも、然り。
フランスでは、三人の子供がいれば、税金は全額免除されるという。二人では、公共施設料金が云々という。だから、日本もと言う。
皆々、子供を生まない、生めない政治家が言う。
ウソである。
あの貧しい時代、一つの家族の子供は、10人前後である。これを、何という。

私は言う。
問題は、子供を生まない世代の親にあると。
彼らが育てた子供が、子供を生まないのである。いかに、とんでもない教育をしたかということである。子供など、いらないと思わせたのは、その親であろう。
自分も出来ない理想を子供に夢見て、子供を飼い殺ししたのである。
見よ、その子供の子供が、引き籠り、ニート、フリーターである。

時代の問題だというのは簡単である。
問題は、伝統教育を成さなかったからである。
子供に迎合して、子供を支配して、子供を犠牲にして、この体たらくである。
その年代の者の言い分は、いつまでも青春であるから、笑う。
日本の伝統は、老成の思想であり、年老いても青春であるとは、欧米のアホどもの思想である。
いつまで、色気づいているのか、アホ。

心が、若いということは、馬鹿だということである。
心は、成長して、大人になり、老成するから、いい。
こうして、欧米型の思想を取り入れて、このやとまの国の伝統を無きものにした、アホ馬鹿間抜けである。
いつまでも、若いというのは、化け物だと知らない。
その程度の成長しかしなかった者の子供が、子供を生みたいと思うか。

東西に分断されていた頃の、東ドイツの男女関係は、凄まじかった。やり放題、生み放題である。国が、子供の面倒をみるからである。
勿論、共産国というストレスであろうが、セックスしか発散することが出来なかった。
東ドイツに留学していた、知り合いは、寮で毎晩行われる上下左右の部屋からの、喘ぎ声に驚かされたという。
そのセックスは、日本人の様ではない。阿鼻叫喚の快楽の叫びである。
さて、言う。
それほど、少子化を恐れるなら、子供を国でみればよい。さすれば、阿鼻叫喚でセックスし、生みまくるだろう。
今、女は、やりたくてしょうがないのである。ただ、男が、それについて行けないだけである。ホテルにも、男が女に連れられて入る時代である。
国が、どんどん生ませるとよい。
結局、そこまで出来ないのである。
しかし、政治家は、声高に叫ぶ。国の問題であると。
男が、女とセックスせず、男同士でしたり、ダッチワイフを共にしたりすることのないように、考える方が、はるかに実がある。

伝統を忘れると、こういうことになる。
すると、伝統の意味さえも解らない者がいる。
何せ、東大の教授でさえ、何をもって伝統というのかと言う時代である。
しまいに、誰が伝統を決めるのだという。終わっている。
伝統の一番は、食事の作法であると言っておく。以下省略する。

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2007年03月13日

非国民

非国民である。
水門設備工事を巡る談合で、公正取引委員会が、国土交通省の元技官2人が在職時に、受注企業を決めるなど談合に関与していたと認定。
また、元技監らOB3人の談合への関与も認定したうえ、OB天下り先となっている公益法人などに指導を徹底するよう、文書で異例の要請も行ったとある。
この公益法人というのが、曲者である。公務員のOBのための、つまり天下り先なのである。そのためにあると言っても良い。つまり、死ぬまで、公金横領すべくあるという公益法人である。

福島や和歌山などで、公共工事を巡る談合事件で、福島を中心に「官製談合の温床」としてクローズアップされたのが、地方公務員の天下りである。
これには、驚いた。
公務員が非国民であるという、私の言葉が実証された。
地方自治体の天下りは、野放にされているというから、また驚く。

国家公務員の天下りが法で規制されているのに対して、地方は規制されていないという説明がなされるが、規制されているから、されていないからという問題ではない。
規制がなければ、やるという根性である。

民間企業も、しようがなく、情報を仕入れるために、役立たずの公務員のOBを採用して、大枚な給与を与えている。当然、その見返りで、役所の入札情報を取らせるだろう。
談合では、官側の極秘情報を、どれたけ入手したかが、本命業者を決める条件になる。

福島県では、今年三月までの三年間に、土木部を退職した技術系職員54中40人が、現役時代の業務に関係ある建設会社や外郭団体に再就職した。
最後の最後まで、公金を食い物にしたいのだうろ。
元県幹部は、現役側も将来の天下りを期待して、罪悪感もなく情報を漏洩するというから、驚く。

公務員の先祖たちが、どんな生き方をしていたのか、想像できるというものだ。
その末裔である。
そして、こうして彼らの行状が明らかにされても、のうのうと生きているということである。通常ならば、恥ずかしくて生きていられないだろうと思うが、先祖が先祖である。
彼らも先祖供養して、先祖に守られていると信じているのだろう。
終わっている。
しかし、彼らは、終わっていない。
これは過去の負である。
そろそろ政治家も腹を決めて、やるべき時である。
しかし、今までの政治家に期待は出来ない。とすると、新人である。
次の地方選、なんとしても、公約を見破り、一票を最大限に生かすしかない。
公約違反の時は、辞めさせるという、公約も取り付けておくことである。
政治家を監視しなければならない程、政治家の質が落ちたということである。

ホント、不幸な時代である。

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2007年03月15日

業務停止命令

いい気なものである。
東京海上日動火災保険のお詫びと報告という広告である。
その前に、何故社長が自害しないのか。

「保険金等のお支払いは保険会社の基本的かつ最も重要な業務であるにもかかわらず、今般行政処分を受けるに至ったことを深く反省すると共に・・・」
知っているではないか。最も基本的かつ重要だと・・・
今更、何を言うのか。
知っていて、何故しなかったのか、聞きたいものである。

「全社を挙げて再発防止に努めてまいります。」
そして、また不払いが生じて、また、お詫びして済むつもりでいる。
命を賭けて正さなければ、詮無いことである。

社長は、自害すべきである。即刻、自害せよ。
生死を賭けないから、何度でも、不祥事を起こす。
お詫びを真に受ける国民がいると思っているのか。
彼らは、それで生計を立てているのである。人の金を得て、一番大切な仕事を忘れて、給与を得ているのである。
信じられないのである。

それでは、人が6人も自殺した、岐阜県の裏金問題である。
死ねばいいというものではない。
札束を燃やした空前の事件であるという。
仲間もという執拗な庁内の犯人捜しに耐えられずに自殺したという。
これは一体どういうことか。
公務員が非国民であると何度も私は言うのである。
公金横領など、当たり前のこと。朝飯前のことである。
誰がではない。彼らがそうなのである。
皆々、公金横領をしているのである。空きあらば、公金を横領しようとする者で溢れているのが、非国民たる所以である。
6人など、少ない。もっともっと、死んでもよい。
執拗な犯人捜しに死ぬくらいであるから、皆々、生きられなくなったのであろう。その程度である。
また、潔白であれば、それを証明するために、昔は、切腹したのである。
どんどん死ぬべきである。
命を賭けないと、何も解決されない。

保険会社に戻ると、今のうのうとして老後を過ごしている、元保険会社管理職などの者どもは、100回自害しても足りないのである。
保険会社が日本を駄目にしたと言っても過言ではない。
これ以上は、専門家に任せる。

自分で、最も重大な業務を怠ったと言うのである。それを信じられるか。
業務停止を受けて、初めてしおらしくお詫びしている様は、非国民の公務員と、何ら変わりなし。

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2007年03月19日

念仏、題目からの開放

念仏、題目からの開放を言う。

あれは、時代に合わせたものであり、皆々、ウソである。
念仏によって、弥陀の本願に入ることは無い。
題目によって、救われることは無い。

祈りが叶うということ自体あり得ない。
祈りは、自己暗示以外の何物でもない。

そろそろ目を覚ますべく、私が言う。
日本の大半の人を敵に回すことと知りつつ言う。

念仏、題目は、仏教にあらず。単に、仏教の一部である。それをもって、仏法ということ自体、詐欺である。
私の祖母も念仏宗だった。私の家系も念仏宗になる。
しかし、間違いであること明々白日である。

これは実に、重大なことであるから言っておく。
神や仏が、人の祈りを聴くことは無い。次元が違うのである。通ずる訳が無い。神や仏とは、異次元の世界の存在である。
要するに、テレビがあっても、電波が届かない存在なのである。
テレビにスイッチを入れても、画面が出ない。しかし、電気が点いたので、テレビがついていると信じているようなものである。

要するに、人の祈りとは、自己の念力であり、神や仏なる、異次元のものとの接触はないということである。
一番いい例が、クリスチャンの、この苦難は越えられる。神は越えられない苦難を与えるわけが無いという言葉にあるように、思い込みである。
因果応報、自業自得が天地の理である。神や仏がこの三次元の人の世に、関わることは無い。
関わる神や仏がいれば、それは、次元の低い、霊である。または、低俗、低級の霊の仕業である。

題目により、宿命を転換する等々の言葉は、人を迷わせる大罪である。
人は、助くる者を助く存在である。

神は、奇跡を行わないのが真実であり、神によって、願いが叶うことはあり得ないのである。

古神道を見よ。
在るがまま。在るだけである。
その祈り、感謝の言葉のみである。
すべてを与えられてある故に、神に求めることがない。そして、入信の手続きも無し。
神殿は天地であり、ご神体は太陽である。

祈りの効果を神や仏であるという迷いを出す。
単なる自己暗示を神や仏に転化するなとどは、とんでもないことである。

ただでさえ、生きていることさえ、いや生まれたことさえ、奇跡である。これ以上に奇跡を求める根性が病んでいる。

私の、もののあわれについて、を読み、古代人のあり方を見よ。
外来の言葉の世界に誤魔化される時は、終わったのである。

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