2006年09月04日

うつろう季節

風の中に秋の芽生えあり。
すべては流れていると、ギリシャ哲学、仏陀は無常の相を観た。
一つとして留まるものはない。
旧約聖書伝道の書には、すべてには時がある。
抱く時、離す時がある。等々。
生きるとは呼吸の間と禅では言う。
刹那の連続。終わりは始まりであり、始まりは終わりである。生死を繰り返して生きる。道元は、完璧な実存哲学をゆく。死は死で、生は生と。だから、竿の先から飛べと言う。生きるとは飛ぶこと。飛ぶしか術が無いと知る時、開放される。
この次元は、何一つ定まったものは無い。絶対というものが無い、次元である。
高い次元の投影と観る人もいる。
我の本体は、この次元ではないと気づく時、この次元での生きることを、折り合いをつけて生きると知る。
死ぬときは 持ってゆけぬと 貯金せず
という川柳があった。刹那を生きる時の余裕を持ちたいものである。


posted by 天山 at 10:20| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月05日

本日は「初恋」コンサート

それぞれの「初恋」を聴き、そして得意分野の歌を聴く。新しいコンサートのあり方を模索して、企画しました。
非常に楽しくて、有意義です。そこで、来年は、六月に「雨」をテーマのコンサートを企画します。世界各地の雨にまつわる音楽、歌等々を披露する。
有名でなければ人が集まらないというならば、やる者が楽しんでみる。それがお客様に伝播して、少しつづ広がればよい。
それでも受け入れられなければ、止めることだと思います。続けられるまで続ける。それでいい。
有名になるために、マスコミにと思うと、それが目的になる。手段であるものが目的になると、それは悲劇的。
あの藤岡でさえ、お客さまは少なかった。有名でないというだけで、である。
光は、いずれ飾台の上に上げられる。一般の人の手によって。そう思って続けることであると。
コンサートは練習成果の発表会ではない。しかしクラシック系のコンサートは、それに陥って久しい。歌って、演奏して、頭を下げて終わるとは、あまりに芸がない。
サービス業ならば、お笑いの一つがあってもよい。
舞台サービスを徹底的に追及したいと思います。

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初恋コンサート終了

ハプニングなどお客さまには見えません。
無事に終わりました。楽しく、有意義に終了です。
東京では、出演者の中に、試しで出るという者、批判を胸に秘めていた者、そういう異質な者がいると、矢張り舞台に出るのです。
本日は、心を一つにして、新しいお客さまで、有意義でした。
昔のお客さまは皆無です。
それでいいのです。新しく始まればいいのです。
いよいよ活気を持って前進です。

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2006年09月06日

14日一年祭のプログラム

後半の藤岡宣男コーナーでは、初期の頃の、リュートソングを中心にします。
また、オリジナル曲「逢いたくて」は、色々なバージョンがありますが、今回は、シンセによる伴奏によるものにします。
オルガン伴奏の、アメージンググレイスは絶品です。
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2006年09月08日

藤岡の母

ただ今、お母さんは、藤岡の子供の頃に戻っています。
その凄まじい二人の関係を、彷彿とさせます。
「お父さんがいなくても、駄目になったら、いかんよ。ほれ、見たことかと言われる」
そして、世の中の様々な母子家庭に対する、いじめである。
あの当時、いや今でも、世の中は非情である。
藤岡は、人に後ろ指を指されないようにと、努力したという。いつも成績は、良かった。生徒会長も続けた。全校生徒に、即興で話をする。優等生を演じていた。
相当に疲れたであろう。
その頃の話は、私も度々聞いていた。
母親の教育の凄まじさは、二人で生きるという覚悟の元であろう。
母は、いまでも、世の中と戦っている。心の休まる時無く、そうして人生を終える。
それでよし。この世は、修行の世なのである。
一つの救いは、下手な宗教に入信して、妄想の人生を作らなかったことである。
ただし、信仰心には篤い人であったと聞く。藤岡を連れて、信者参拝をしていたと聞く。藤岡が、私の古神道に縁した訳である。
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2007年02月14日

国家の品格を言うが、個人の品格を言わない。

国家の品格を言うが、個人の品格を言わない。
それでは、全く意味を成さない。国家は、個人によって成り立つのである。
今回、悲しいことだが、個人の品格について教えられる事故があった。
東京板橋区の東武東上線ときわ台駅で、線路に入った女性を保護しようとして、電車にはねられ、重体となり、惜しくも12日に死亡された、常盤台交番の宮本邦彦巡査部長である。53歳の若さであった。
私は、死亡されたというより、お隠れになったと言いたい。
肉体を失っただけで、その意思は生き続けるからだ。日本の伝統的、言い方である。
さて、個人の品格とは、何か。
宮本さんのような、職務に真っ当な方のことである。
それ以外に無い。
職務とは、生き方である。
あらゆる職業の人が、職務に真っ当になること、これである。
品格を持つ、得るためには、それしか方法が無い。
それでは、真っ当とは、何か。
昔の言葉で言えば、お天道様に顔向けが出来る生き方である。
お天道様を避けるような生き方ではない。
お天道様とは、太陽である。大和民族、日本人は、太陽を拝して、天照大神とお呼びしてきた。神の化身である太陽に背かない生き方である。
世間といわれる世の中ではない。太陽に向かって堂々と生きられる生き方である。

さて言う。世の中というものを見て生きると、そこには、様々な目論みがあり、様々な誘惑がある。一々礼を上げずともよいが、耐震偽装から、不二家の不祥事から、保険会社の未払いから、公務員、政治家の公金横領から、まだまだある。これ皆、個人の品格の無いことを言う。
皆々、お天道様を見ず、世間のみを見ているからである。世間の目を誤魔化すのてある。
テレビの捏造番組も、職務に真っ当でない者がする。
皆々、個人のことである。これらが集って、国家の品格など生まれるはずもない。
一人一人に、品格を求める生き方があればこその、国家に至る。

国家とは、共同幻想である。しかし、その共同幻想を支える個人の品格が、幻想ではないから、共同幻想としての国家の存在が確固としたものに成る。

宮本さんには、奥様と息子さんがおられた。家長を失った思いを思うと、心痛の極みである。人の思いを思う。残された者は、その悲しみを生きる、生きなければならない。辛く苦しい明日である。明日が辛いと思うことほど、この世に辛いものはない。
今、辛くても、明日は、明るいと信じられるから生きられる。しかし、明日が辛いと思えば、生きるという意味意識を、どのように養うか。これ、個人の品格の問題である。
私は、藤岡を亡くして、一週間で10キロ痩せた。信じられないのである。痩せたくて、色々試しても痩せなかったものがと、絶句した。
宮本さんの、ご家族の心境を察して、私は、絶句する。
言葉を発することができない。
ただただ、お祈り申し上げる次第である。

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2007年02月15日

こんなに腹の立つことは無い

こんなに腹の立つことは無い。
六カ国協議、合意である。
核放棄二段階支援だという。
北朝鮮が、60日以内に核施設を閉鎖封印し、国際原子力機関要員による監視を受け入れれば、他国は年間5万トンの重油を提供する。そして、施設を解体、不能化すれば、重油を95万トン追加支援するという。それが合意である。勿論、日本は、拉致進展しなければ、支援はしない。当然である。
それにしてもである。北朝鮮が、譲歩しての合意だという。
呆れる。
あの国が、何をしてきたのか・・・面倒なので言わない。
それを、棚上げしての、支援である。
重油100万トンは、市場価格にすると、約360億円である。
核を放棄してよかったではないだろう、アホが。
いくら支援しても、あの国の多くの国民は、幸せになるどころか、餓死して死ぬのである。
ほんの一部の者たちが、いい思いをする、それだけである。
叩き潰すより、その方がマシなのか。中国やロシアが、共産を奉じる国ゆえ、同胞としてみなしているのか、実に馬鹿馬鹿しい。

私が願うことは、あの国の多くの国民のことである。
飢えて死ぬほど、辛いことが、あろうか。
良い草案だとアメリカが言い、おおむね良い草案だと、日本も言う。
これで、あの国の国民の幸せが、遠のいたと私は嘆く。
上層部は、腹いっぱいに食い、のうのうとして、安泰であるという傲慢である。国民は、捨てられて、国を、祖国を捨てることを考える。そんな悲しみがあろうか。

あの国を救うためには、国際社会に引き出して、話し合いでなどと言う者を信じない。そんなことが出来るわけが無い。
偽ドルを国家が作り、麻薬を密売する国である。
どうして裁かないのか。
世界に正義があるならば、是非とも、独裁政権を倒して欲しいと願う。
何度もエッセイで書いたが言う。
あの国の上空には、飢えや意味無く死んだ者の霊が、かたまりとなって、漂う。誰も、次元移動出来ないでいる。つまり、霊界に入らないでいる。怨念を持ち、怨霊となっている。それらが天変地異を起こし、ただ今の国のあり方を崩壊させようとしている。
しかし、魔界の力強く、怨霊になっても、願い叶わぬのである。

アメリカも、イラクのように攻撃しない。金にならないからだ。簡単なカラクリである。
あの国には、何も無い。ただ、核を持つことが脅威であるという、それのみ。
これからも、あの国は、これに味をしめて、少ない投資で、多くの支援を取り付けるだろう。許せない。また、許してはならない。
霊的には、インド魔界の、政治的には、共産主義の冷酷無比の思想がある。

今回、日本が支援に加わらないということ、それが救いである。支援する度に、あの国の、単なる国民が塗炭の苦しみに遭う。
何が国際社会だ。笑わせる。
アフガンやイラクなら、まだボランティア行為等々が出来るが、あの国は、それも出来ないのである。
食料支援が、どうなっているのか・・・
あまりに腹が立つので、この辺で、止める。

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2007年02月16日

ひ、ふ、み、よ、と

ひ、ふ、み、よ、と
かぞえてはまた
いくたびも
悲しみつつも
あの日を思う
一日たりとも藤岡を思い出さないことはない。
それが、楽しみにつけ、喜びにつけ、悲しみにつけて、である。旨い物を食べて思い出す時ほど、苦しくなることはない。
物を食べる時、安心して食べる時、無心の幸せを感じる。私は、その藤岡の姿を思い出すのである。
また、突然、あの事故の日を思い出す。
これは、私が死ぬまで続くであろう。
忘れた振りをして生きることなど、出来ない。だから、それでよい。
比喩で言う。
一つの病を持つ人は、完全健康だと思う人よりも、体に対する意識が違う。ささいな変化にも、体の声を聞く。
私の生活が、藤岡の死によって、そういうものになった。
普段は忘れること、味わうべきことを忘れること、感じ取ることを忘れることがない。
藤岡の死が、私の人生を益々と深めている。
太陽を仰げば、太陽に、雨が降れば雨に、風吹けば風に。それは、すべて私から発するものである。決して、外から入ってくるようなものではない。私のうちで生まれるもの。

この世で、何が人をして考えさせるかといえば、それは人の死である。
西行の出家の原因を、多くの研究家、嘘つきの作家、迷える作家等々が、恋をしてはいけない身分の方に恋をした、叶わぬ恋のゆえの出家だというと、私は笑う。前日まで一緒だった、同僚の翌日の突然の死によるのである。
ふざけたる者も襟を正すもの、それが死であるとは、夏目漱石である。
人の死に鈍感な者は、実に救いようがないのである。
九割の女性は、夫に先立たれると、次第に元気になるという。その逆は、妻に先立たれた夫の、九割が早死にするという。
男と女の違いが、見て取れる。良い悪いの問題ではない。
死というものの、影響力を言う。

さてさて、去るものは日々に疎しと言う。
それも、ありである。
死んだ者は、忘れ去られる。それも、よしである。
しかし、私は、忘れない。
私は、人よりも、多くの人の死に遭ってきた。今は言わない。
それ以後、生死を考え続けて、40年を経た。哲学も宗教も、心霊学、霊学も、もっと言えば、霊的なことも、多く知り、その所作も身に付けた。しかし、それが一体何であるのかと言えば、虚仮である。
霊界はある、霊はあると私は言うが、私は、そんなものを、実は何とも、思わない。
私には、大嘘つきの妄想の仏教の様々な教え、仏になる、阿弥陀の本願に救われるだの、題目により云々も、虚仮である。キリスト教の神の恩寵、救いも虚仮である。
いまさら何を言う。
皆、付け焼刃の、100年を満たない人生を、うつらうつらと誤魔化して、安心という妄想にあることを知っている。死ぬまでの暇つぶしを、精々励むことである。
私には、それらは、喧しいのである。「言さえぐ」のである。

犬の世界を理解できないように、人間は人間の世界しか、理解出来ない。それ以上も、それ以下の世界も理解できない。
例えば、人間を超えたものの存在を理解し得るだろうか。また、それをこの人間の言葉で語れるだろうか。嘘であろう。
語れば語るほど、嘘になると、何故知らないのか。
溢れるほどに語る哲学、思想、そして大嘘つきの宗教の教義を、私は笑う。
だから、私は、多くを語らないという、日本の伝統である「言挙げせず」を潔しとする。
もし、万が一、真理というものがあったとしても、語れるものだろうか。
語ること、それに嘘がある。つまり、語れば、それは嘘なのである。

言葉の発生を考えて、私は沈黙する。
そして、天地万物が沈黙する如くに、私は、沈黙するものだけを、観る。
言葉を発しない、風に身を任せて、私も風になる。
言葉によって、誤魔化されてきたものを、私は、一掃する。
藤岡の死によって、私は、言葉を失い、天地自然と同化して、沈黙をよしとする。
ちなみに、天地を大和言葉では、あめつちと言う。
あめつちの ほかになにごと もなしゆえ なにごともなく ただあめつちの

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2007年02月17日

タレントが知事になると

タレントが知事になると、それをマスコミが取材して、たいそう政治が身近に感じられるようになる。もはや、政治のプロなどより、素人であった者が、政治の世界に登場すると、もっと、政治が良く見えるようになるのであろう。
政治という、得体の知れない者が、良く見えるということは、国民の長年の願いであった。
タレント議員が、皆良いということではない。しかし、政治を身近にするということでは、実に良い。ただし、長野県のように、逆戻りするケースもあるということである。
解りやすく語る政治が、今、最も望まれている。
ある政党の、政治講演会に行った。満席であるが、驚いたのは、若者の姿が全くといって無い。皆々、高齢者である。いや、中には、一人二人といたのかもしれないが、それらが見えぬ程、高齢者が多い。
熟年から高齢者は、政治の問題が、即生活に関わるからだろう。

今、政治家になっている者は、若い頃から、政治に感心を持ち、何らかの運動をしていた人が多い。特に、50代60代の年齢である。しかし、その多くは、与党であった、自民党打倒に力を向けた。そして、日本の歴史を知らない者が多い。
歴史を知らないというのは、正しく知らないということである。

この年代は、反日日本人、多くは、日教組に代表される教育を受けたのであるから、歴史を知るはずがない。
旧社会党、共産党等々、ほとんどが正しく歴史を知らない。知ろうとしなかった。つまり、その前に、観念が先にあったからである。虚心に歴史を学ぶことが出来なかった者たちであり、勿論、今も続いている。共産や社会主義というものが、いかに愚かしいものであるかを、知らないのであるから、話にならない。古代社会が、原始共産の形であったという者にも解らない。
人間の社会は、どんなに原始的であろうが、権威というものを有していた。それを知らない。権威という言葉が嫌なら、自然崇拝である。自然が、権威であることを知らないのである。
人間は、すべからく、自然から、すべてのことを学んだということを知らない。文字から学ぶものは、知れているのである。
彼らは、桃源郷を、日本以外にあると信じた者たちの歴史観を学んだのである。
事実さえも、観念により、解釈するという仰天を成した。
私は言う。彼らは、滅びるのである。
それは、私が許さないのではなく、祖先が許さないのである。勿論、それさえも、理解出来ないであろう。日本人は、祖先に続く者であるということが、日本人の日本人たる所以であり、人間を超越したものや、思想等々に、続く者ではない。

さて、政治である。素人が、政治の舞台に出なければならなくなった時代であることを、認めなければならない。
政治のプロは、もはや、政治を遂行することが出来なくなったのである。
これは、進化したのである。
つまり、既成の政治が、終わったことを告げる。

55年体制が崩れた時、驚きを持って、云々していたが、そんなものではない。
180度の、転換である。
私は言う。本当に、日本のことを考えるならば、全員が、与党になることである。
政策実現は、与党になった方が、やりやすいのである。何故、与党にならないのか、不思議でしょうがない。
お解りであろうか、私の言うことを。
与党、野党策略は、誰のせいであろう。

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2007年02月22日

法の裁きより怖いもの

法の裁きより怖いものについて言う。
神奈川県で、障害者になりすまして、不正に運転免許を取り、口座を開設し、預金通帳を騙し取ったり、消費者金融から、金を借りていた者が数名逮捕された。まだ仲間がいるという。
もう一つは、聴覚障害者に手話を使い、老後の生活資金を騙し取った東京の福祉関連会社の社長以下社員を逮捕したいという。総額、22億円を騙し取ったというものである。
弱者を狙っての犯行は、仁義にも人道にも許せないのである。
逮捕された、そして裁かれるだけでは済まないことを言う。
まず、彼らの後ろにいる守護霊、及び彼らを支援しようとする背後霊が、後退する。勿論、すでに後退して、悪霊が取り憑いているのであろうが、兎も角、善なる霊は、縁しなくなる。これほど、恐ろしいことはない。知らないというのは、本当に、哀れなものである。
手話の被害者は、250名であるという。つまり、被害者の後ろの霊も、まとまって彼らを襲うということである。
誰も、助けることは出来ない。自業自得、因果応報が、霊界の法則である。
人生台無しどころの騒ぎではない。
多く、その親類縁者にも及ぶ。

先祖供養などしても、何の役にも立たない。
先祖供養をするという宗派を見よ。皆々、贅沢な暮らしをして、大半が信者という弱者を食い物にしている。皆々、魔界に縁する者なり。
彼らは、一体、いつからの先祖を供養せよと言うのか、いつも疑問に思っている。30代も先祖を辿ると、一億人ほどになり、その先にゆくと、人類の祖先である、アフリカまでゆくことになる。だから、私は、先祖供養を笑う。

さて、法によって裁かれることよりも、霊界の掟によって、裁かれると、後が無い。つまり、この世の法律では、懲役何年から、死刑まであるが、そんな程度で、許されないこと多々あり。
時間の無い空間に漂う身になると思えばよい。いやいや、そんなことは、想像ではきないだろう。永遠に、閉じ込められると思えばよい。どこにか。ある所である。これ以上は言わない。
さて言う。
弱者を食い物にする者のことを言った。
上の事件は、一例である。
弱者を食い物にするのは、国会議員から、官僚、つまり公務員、地方公務員までいる。まだまだいるが、省略する。
彼らには、自覚がない。
これが最も怖いのである。
ただ今、二世、三世議員が多い。これからも、それらの家系の者が政治家になるかと言えば違う。
よく見ていると、よい。必ず、弱者を食い物にしていた家系の子孫は、転落する。目には清かに見えねど、転落してゆく。その子孫は、生きるに呻吟し、己は、時間の無い空間に捨て置かれる。
誰も、助けることは出来ない。
供養など、何の役にも立たない。

供養をして、安心、安住するというのは、単に、その方法の宗派に縁する、霊界に近い、この世と、あの世の隙間にある世界に行くということであり、この世に幽霊で立たないということである。そういう意味での、供養である。
自分の成したことの責任は、自分で取るのが、霊界の理である。

悪行をする者は、実は、すでに裁かれているのである。
故に、そのような行動をする。つまり、そのようにしか生きられないが故に、法律に裁かれ、そして、霊界の掟に裁かれる。
誰の因縁か。
己の因縁である。
哀れである。
しかし、その行為の手前で、気づくこと、多々あり。最後の救いの手が差し伸べられる。それで、罪を犯さなくてもいいのである。
世の中に知られないと思っていても、それは無い行為とはならない。己自身が見ている。それを昔の人は、神様や仏様の目だと言ったが、違う。己だけは、誤魔化せない。
私の言いたいことは、すべて己の中にある事だと言うのである。
弱者を騙す己を己が見ているのである。
己の目は、神の目である。
この意味が解れば幸いである。

追伸。
一人の人間には、膨大な霊が関わっている。何が憑いていますというのは、気休めに過ぎない。
また、守護霊とは、実に霊格が高い故に、簡単に姿を現すことが無い。
勿論、守護神は、一生の間に現れることの無い人の方が多い。
霊能者に注意せよ。
彼らが見えている霊界は、霊界のほんの一部である。そしてその大半が、迷える霊の世界である。彼らが見えるのは、彼らのレベルである。要するに、彼らの人間性を見れば、彼らの見ている霊界の段階が解る。
人間性と言うのは、実に素晴らしく、霊界に通ずるのである。
いかに人間性が重大なことか。
霊界も人間性が第一となる。当然であろう。霊界も、この世に生きていた者が住むのであるから。



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