2006年08月15日

終戦記念

藤岡が歌った「帰り来ぬ風」という私の作詞の歌があります。116万人の遺骨が、未だ南方の島々に置き去りされているという哀しみの歌です。
横浜、札幌、知床斜里にて歌いました。その後、様々な人々が歌っています。
今回の平和祈念コンサートでも、ソプラノ辻友子が歌いました。藤岡の歌声を聴きつつ歌ったと思います。
難しい日本語の発音が多く、切々として、しかも慰霊の思い万感にての藤岡の歌は絶品でした。
歌い終わった藤岡の目に涙を観た時、藤岡の思い入れの凄まじさを感じました。
本日、深く戦没者の霊位に哀悼の意をもって・・・
posted by 天山 at 07:41| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月16日

愚昧なマスコミ

捕らえるべきものを捕らえないマスコミ、テレビのアホどもである。靖国、靖国と騒いでいるのは、誰か。
藤岡を捕らえたのは、NHKのみ。
民放は、世界的声楽家である藤岡を捉えられなかった。
絶叫や調子はずれの歌い手のゴシップを得意になって宣伝する。私がテレビを見ないのは、そういうことだ。
テレビ万能の時代を作ったこの時代は、後に検証される。芸能のかけらもない芸能界の太鼓もちでしかなかったと。
最も大切な政治までも愚妹にしたのはマスコミである。

追伸
私が目にするテレビは、すべて安食堂とか、外で見る。薬を貰う場所で多く見る。見たくなくても、テレビをつけている。
posted by 天山 at 11:15| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月18日

残暑お見舞い

暑さが続きます。

藤岡は暑い日、涼しく過ごしましたが、例えばエアコン、扇風機を使用しましたが、体を冷やすことはしませんでした。特に喉です。
冷たいものより温かい飲み物を好みました。

夏の夜も、ぬるま湯に浸かっていました。

私は銭湯に誘うのですが、藤岡の感性は銭湯より現代的スパを好んで、よく気分転換に出かけていました。

懐かしく思い出します。

posted by 天山 at 08:35| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月25日

本日は、藤岡命上がり330日

私には、昨日の出来事です。

全く古い思い出ではありません。

来月の一年祭に向けて、また進みます。
posted by 天山 at 06:33| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

330日祭

ギタリスト千葉君、藤岡の友人二名、辻友子、あやかの親子と、そして野中と私で、この命上がりの日を、終えました。
来月の一年祭は、時間を区切っての御祭りになります。
忘れたい人は忘れてよし。それでいいのです。
私は死ぬまで藤岡と一緒であり、死後藤岡と逢うことが目的です。
ああこの人生とは。
霊学を成している私でも、死による別れは辛い。
藤岡に逢いたい。
死ぬことが楽しくなる。死ぬまで生きる。当たり前のことが輝いてくる。
霊界と接触している私でも、である。知らない人は、どれ程の辛さか・・・
posted by 天山 at 22:42| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月26日

最後の追悼コンサート

本日で実質的な追悼コンサートが最後となります。
来月は、一年祭、命上がりの日コンサートです。
この一年間、多くの方に注目されていたこと理解しました。
藤岡の本格的行動は、一年祭を終えてからです。
これから私は藤岡宣男を創造します。
勿論、私も大いに歌います。
批判や非難をする人は、コンサートに来ない人ですから、もう、何をか況やです。
この世は、やる人か、やらない人かしかいません。
私は、やる人です。
やらない人は、糞でもして寝ていればよい。
posted by 天山 at 21:51| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月30日

年をとらない

どうも私は極めつけのアホのようで、年を取っていない感じがするのだ。
藤岡と出会った頃と、変わらない気がする。ただ変わったことは、クラシック音楽を聴いて益々アホになったような・・・
ピアノの音など聴いていると、耳がやられて、頭もやられてアホになる。
クラシックの世界の知恵をつけられて、ずるくて、情けの無い人間に少しなったようだが、それでも、年を取った気がしない。
音楽については、沈黙を破るに書くが、音楽を哲学すること多々あり。
西洋音楽は芸を習うというより、学を学ぶといった感じがして、私の芸感覚に遠い。
ともあれ、私は年を取らないというアホになったようだ。
実年齢より、実に若い。政治や舞踊の世界では、確かに若造である。
益々、怒り心頭に達するのだから、始末に終えない。
今日は、この辺で。

posted by 天山 at 22:07| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月31日

コンサート案内

2日、代々木アトリエ・ムジカにて、ライブコンサート。三人のピアノ、弾き語り、アボリジニ民族楽器ディジュルドゥーの演奏。
5日、横浜、かなっくホールにて「初恋」コンサート。ソプラノ、バリトン、演歌師の「初恋」そして、バライティに富んだ曲目。
伴奏は、ピアノ、藤井松良、辻あやか。
当日券は、勿論あります。
それが終わると、藤岡の一年祭です。
14日、すみだトリフォニーホール小ホール。
多くのゲスト、そして藤岡への言葉を、お客さまよりいただきます。
藤岡の写真を掲げて、薔薇の花一本のシンプルなステージにします。
藤岡の歌声も流します。未公開のものもあります。
すると、
秋が深まってゆきます。
私の作詞の「君がいた日」田原奈津代作曲の発表もします。私作詞作曲の朗詠「孤独」も詠じます。
posted by 天山 at 06:10| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月01日

九月

去る者は日々に疎し
と、言われる。確かに、生きることに精々ならば、忘れて生きることが楽なのでしょう。過去を捨てて、前に進む。それ以外の術はない。
生きるということは、次しかない。
私の前には、藤岡宣男がいます。藤岡の創造です。
あれから一年を過ぎて、藤岡は、益々私の心に満ちています。
藤岡は亡くなったが、無くなってはいない。
世の中は、猛スピードで前に進んでいるようですが、果たして、本当でしょうか。
明日という、未来という幻想に、進んでいる可能性もあります。確たるビジョンの無い未来は、危険です。
事故から、私は毎日、藤岡を思わないことはない。つまり、私は明日を藤岡と見定めて生きているのです。
生きるということは、不安定であります。しかし、人は死によって確定します。死によって確実な存在になるのが人間の本性です。
死を考えることのない哲学も思想も、学問も無益です。
ただし宗教で言うところの死は、妄想です。
自分の中にあるものしか、見えない、聞こえないのです。それを身をもって知ること。それを総称して謙虚といいます。
知らないことが多いということを知らない人は、死後、絶望的な傲慢の次元に留まります。

posted by 天山 at 10:14| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

クラウンについて

一切の契約はしていません。
よって、何の拘束等々はありません。
事故の前日、藤岡は裁判にて争う旨を私に話しました。私も、それならやるといいました。藤岡が、そのようなことを言うことは、めったにありませんでした。
今も、何の関係もありません。
勝手に、向こうが売っているのだと思います。
こういうことが通る世界が、その世界なのでしょう。
仰天します。
ただし、その間に、ブローカーのような、変な事務所が入っています。
前回の沈黙を破るに書いていますが、管理人が、再度掲載することがなければ、私は、これ以上書きません。どうでもいいのです。
人で無し、人に非ずと話をすることは、私には、出来ません。
私は、真人間ですから。
posted by 天山 at 20:15| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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