2009年02月15日

ボランティア再考

ボランティアに関する再考

ボランティアとは、日本語で、奉仕活動、慈善活動、福祉活動と訳すことが出来る。

語源は、ラテン語の、ボランタスであり、その意味は、生きる意味意識である。

つまり、それを、行為することによって、生きる意味意識に目覚めるということになる。更に、相手方に対する、行為は、相手を生かすことにもなる。

ここで、少し、勘違いの多い人がいるので、その考え方を、訂正したいと、思う。

貧しい国に出掛けて、ボランティア活動をすると、よく、貧しいが、心は豊で、笑顔があり、こちらが、癒されたという人がいる。
また、元気を貰った、力を貰った。
更には、日本は、豊かだが、心の豊かさがないと、言った、変な日本評価までする。

上から、下への、奉仕活動や、物を渡す活動には、常に、傲慢という意識が、ついているのだが、それを、知らないようである。

また、例えば、インドのマザーテレサの、活動に、ボランティアの原点を見るという人もいる。

マザーテレサの活動は、ボランティアでは、決してない。
彼女は、はっきりと、神様のために、素晴らしいことをと、言う。
彼女は、神様に捧げて行われているのであり、相手は、誰でもいいし、また、相手の中に神の見るということである。
それは、聞こえはいいが、ボランティアではない。
目的が、別である。

主イエスの、伝導であり、更には、カトリックという、宗教の伝道でもある。

つまり、どこまでも、精神論で、語るのであり、それは、社会的、政治的なものには、ならない。

そして、彼女も、私は、目の前のあることを、するのであり、それには、関わらないと言った。

私は、いつも、私の行為によって、精神論を超えて、考えている。
もし、少しの政治的配慮があればとか、行政が、もっと、サービスを行えばなど、である。

その国の、あり方を、考える。

あくまでも、ボランティア行為は、行為する者に、帰着する。
される側は、与えられたことを、喜ぶが、ただ、それだけに、終わる場合もある。

一方的な、援助という行為は、実に、おかしいのである。

そこで、上記のような、こちらが、勇気と、希望を、貰ったとか、貧しいが、心が豊かな人々だったとか、勝手な思い込みの、自己満足に陥る。

笑顔があるというが、貧しいという、貧しさは、笑うしか方法が無いのである。

本当に、物が無いという、状態を、日本にいては、理解出来ないし、それを少しばかり体験しても、日本に戻れば、何も、変わらないのである。

生きる意味意識というものは、自分の生活や、生き方も、変容するということである。

マザーテレサは、変容しなかった。
ただ、その信仰を、育てただけである。
彼女の、信仰の証としての、行為であり、それは、すでに、世の中から、評価を受けて、やや、偽善的なほどの、行為になった。

多くの人に、影響を、与えたが、それは、彼女の行為ではなく、彼女の語りが多分に、影響を与えた。
それが、彼女の役目だった。
カトリックの信仰である。

動機は、どうであれ、やったことが、善いことならば、言うことはない。
それは、その通りであるが、マザーテレサを、真似ては、ボランティアの精神に、反する。

ボランティアは、実質的、報いを受けるものではなく、生きる意味意識の、充実であるから、すでに、信仰というものでの、活動は、報いを受けているのである。

人道的、利他的行為、思想信条に関わらず、ただ、行為することに意味がある。
そして、一番は、相手方に対する、態度である。

目線を同じくしての、行為でなければ、やらないのに、等しいのである。
つまり、出来るだけ、相手方の、視線に立っての、行為であるということだ。

人を理解するというのは、至難の業である。
それは、支援する、援助するということも、同じである。
至難の業である。
しかし、それを思っても、やらざるを得ないと、心に、命じられる時、奉仕活動というものの、心が、現れる。

こちらの、思想信条を、訴えることや、まして、信仰を、説くなどという行為は、傲慢不遜の何物でもない。

つまり、行為にのみに、徹するということである。
そこには、する以外の、何物も無い。

宗教関係が、奉仕活動をする、という根拠には、必ず、布教という、不純が伴う。

マザーテレサは、ヒンドゥー教徒は、よりよいヒンドゥー教徒に、イスラム教徒は、よりよいイスラム教徒に、仏教徒は、よりよい仏教徒にと、言ったが、しかし、彼女は、カトリックを背負っていたのである。

であるから、それは、詭弁であった。
当時の、法王ヨハネ・パウロ六世も、世界を飛ぶ法王として、他宗教との、和解と、理解を掲げていた。
それに、彼女も、準じるのである。

更に、平然として、世俗的な、ノーベル賞というものを、受け入れた。
すべての、報いを、この世で、受けた。
本来は、彼女の信仰から、天国にての、報いを望むはずだったが、彼女は、この世の、報いを受けたのである。

これで、彼女の信仰心の出何処も、怪しくなった。
主イエスの、言葉に従ったが、変質したのである。

何故、マザーテレサを、引き合いに出したかといえば、最も、ボランティアの、反対を、行為したからである。

宗教家たちの、ボランティア活動は、あくまでも、思想信条の、故であり、それは、ボランティアの思想信条とは、全く別物であるということを、言う。

勿論、行為自体に、何も文句は、つけない。

神の愛の、実践であるのは、詭弁である。
ボランティアは、自然発露の行為である。

だから、貧しい人は心が豊かでなどいう、偏狭な、物の見方は、しない。

矢張り、貧しい人は、心も、貧しくなる。
笑顔でいるしか、方法が無い。

一枚のシャツで、幸せだったというが、洗濯をする間、裸でいることは、幸せであるのか。
もう一枚あれば、洗濯の際に、裸でいなくてもよい。
ただし、どうしても、一枚に、拘るというならば、言うことも無い。

自己完結する、宗教的、あるいは、精神論的考え方は、為政者の、思う壺である。
最も、支配しやすいのである。
昔のように、明確な、国家意識がなかった時代ならば、それでもいいが、今や、それぞれの、国家意識が明確にある。

ボランティア行為は、為政者の、思う壺ではなく、為政者への、強烈な、メッセージ性も、持つべきなのである。

心情的ボランティア行為は、心の自殺行為でもある。
傷を舐めあうような、情緒的ボランティア行為には、危険がつきまとう。
更に、持続しない行為は、嘘である。

更に、ボランティア行為には、孤立無援という、意識がいつも、つきまとうものなのである。
柔軟な姿勢でいいが、行為には、強靭な心の姿勢が、必要なのである。

そして、思想信条を説くものではない。

ちなみに、私の場合は、ただ、大和心を、行為するものであり、それは、他国の人に、説くものではない。
日本人の一人として、在るということで、十分なのである。

そして、私の、意識を棄てられるが、日本人としての、誇りは、棄てられないのである。

それは、マザーテレサの、カトリックと同じではない。
信仰は、意識的なものであり、国民意識は、無意識なのである。

例えば、私が日本という国を、布教しても、宗教の布教とは、意を異にする。
全く、意味が違うのである。

信仰という、独善に、陥らないからである。

大和心については、もののあわれについて、で、多く語っているので、省略する。


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2009年02月16日

バリ島再考の旅 1

私が、はじめて、バリ島に出掛けたのは、15年前である。
その時、強引に誘ってくれたのが、当時、お弟子さんであり、現在のテラハウスの建設中だった、女性である。

当時は、パニック障害という、病名のない時代で、私のそれは、パニック障害であることが、後で解る。
乗り物に乗るという行為が、とても、大変なことだった。
閉所恐怖というものも、つく。

長時間、飛行機などには、乗れないという、状態だった。
だが、その数年前は、国内を飛行機で、飛び回っていたから、不思議だった。

パニック障害には、根底に、欝があると、言われる。
抑鬱状態である。
活動的だった、私の底には、抑鬱が、宿っていたと、共に、それは、何か生まれつきの性格のようなものでもあると、思われる。

しかし、兎に角、バリ島ツアーに、強引に申し込むということになって、ついに、当日である。
不安感一杯で、グアムまでの、飛行機に乗る。
千歳空港から、バリ島まで、グアム乗り継ぎだった。

グアムまでは、不安感で、具合が悪い。
だが、一緒に出掛けた、もう一人の男性が、ビジネスクラスの席を取っていて、私に、譲ってくれた。
それで、少しは、助かった。

グアムに着いて、一度、飛行機を降りいると、晴れるように、私の不安感が、消えた。
それは、暑さである。

道産子の、私は、寒いのが、当たり前だったが、信じられないことだったが、暑いということが、救いになった。
暑いって、いいと、感じたのだ。

それから、南の国が、好きになった。

15年前のバリ島は、丁度、観光地への道まっしぐらの、時代である。
だだ、今の、クタ、レギャン地区という、観光地は、道路なども、整備されていない状態で、歩道など、下を見て、歩かないと、下水道の穴に、落ちてしまう状態だった。

それでも、私は、バリ島を好きになった。
それから、翌年の、二月、一番寒い時期に、バリ島に出掛けて、更に、好きになった。
その時の、旅は、単なる、観光旅行である。しかし、通常の、観光地巡りをするものではない。
ホテルで、過ごす時間を多くして、観光は、一日のみ。
のんびりと、過ごすことで、十分だった。

それから、バリ島との、付き合いが始まる。

その後、一人で、タイ、上海に出掛けてみた。
その、上海の旅で、本格的に、パニック障害を、発症した。
上海の四泊五日の旅をする前日から、風邪を引いて、熱が、38度だった。それでも、私は、一人で出掛けた。
風邪の熱と、風邪薬のせいで、成田に行く飛行機の中で、パニックの発作に、襲われた。
死ぬかと思うほど、苦しいもので、上海行きを止める、止めないで、悩みつつ、羽田から、成田への、バスに乗った。

成田で、出国手続きをした後も、熱を計り、止めようか、どうしようかと、迷っていた。
実は、この旅も、お弟子さんの一人が、協力してくれて、上海で、お弟子さんの友人などと、逢い、また、その紹介で、蘇州に、案内してくれる、ラオス人の留学生を紹介してもらっていた。

そんなこともあり、結局、飛行機に乗った。
軽い安定剤を、持参していたが、あまり、効かなかった。

風邪の熱と、不安感で、必死の決行である。

それが、長く、パニック障害を引き起こした原因にもなった。
当時は、不安神経症という、病名である。

それから、10年ほど、飛行機には、乗れなくなった。

その、変転は、省略することにする。

三年前の、サイパン追悼慰霊から、今までの、負を取り除くかのように、海外に出ることになった。

国内線は、すでに、乗れるようになっていた。
それは、薬のお蔭である。
良質な薬が出て、私は、回復したといえるし、緩和したとも、言える。
ただし、疲労が酷いときは、危ない。

あまり、ハードなスケジュールは、パニックを引き起こす。
一度、タイの国内線で、それに似た状態になり、決して、無理をしないようにした。

さて、今回は、バリ島に関して、再考する旅になった。

バリ島を、考える旅である。
それは、バリ島に、長期滞在するという、前提の元に、バリ島を、見回してみたことも、一つであり、支援活動をして、更に、バリ島というものを、見つめることが出来たのである。

一週間程度の、旅で、バリ島観光を楽しむというなら、問題はない。しかし、バリ島にて、何かを行うという目で、バリ島を見つめた時、感じなかったこと、ものに、非常に敏感に、反応した。

そこには、バリ島、及び、インドネシアという、歴史も、関わってくる。
そして、バリ島独自の伝統と、信仰、生活と、一体になっている、お祭りである。
更に、バリ島の政治経済と、現地の人の、有様である。

そこには、インドネシアという、政治経済も、見る必要がある。
果たして、バリ島とは、何か。

私は、神々の島といわれるバリ島に悪霊の存在も、見た。
いや、悪霊の方が多いのである。

そして、神と悪霊とが、一体になり、裏と表のようにあることも、である。

精霊信仰という名の元に、悪霊信仰にも、成り得るものも、見たのである。
更に、バリ島の、文化は、今も、創られ続けていること。
それは、多様性であり、文化という言葉より、芸能という、日本の芸能に近いものであり、日本よりも、その懐が、深く、広いものである。

だが、それが、命取りになる場合もある。

意識拡大は、狂いを生じることもある。

収集がつかなくなり、分裂する。
それが、精神に影響すると、分裂症になる。

ぎりぎりのところで、それを、抑えているものは、何か。

ヒンドゥーという、多神教的影響を、多く受けて、今でも、新しい神が誕生する、バリ島という、場所は、深入りするには、非常に、危険である。

霊的に、振り回されると、多重人格症状を、引き起こすのである。

お金は、不浄なものである。
お金を、求めては、いけない。しかし、お金がなければ、学校も行けない。良い仕事にもも、就けない。
大きな、矛盾である。

給料が、安い。しかし、お金を、欲しいと、思うことは、不浄である。
だが、それでは、生活が、出来ない。

このような、矛盾に、解決の道は無い。
逆に、それを、逆手にとって、平然と、搾取して、憚らないバリ人もいる。
その根底には、インド、ヒンドゥーの、緩やかなカースト制が、今も、続いているということでもある。

多重支配を、受けているのが、バリ島の現地の人である。
カーストが、低いと、それだけ、その足枷が、大きい。

それは、目に見えない形で、バリ島を、覆っている。

神々の島を、後で、操るものは、悪霊の存在であったという、私の、バリ島再考である。


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2009年02月17日

バリ島再考の旅 3

飛行機は、翌日の朝、二時近くにバリ島・デンパサールに着いた。
深夜である。日本時間では、三時。

予約していた、車と共に、テラハウスをサポートする家族の、お父さんや、絵描きのマデさんも、一緒である。
申し訳ないと思いつつ、車に乗り込む。

ウブドゥまで、深夜であるから、昼間より、早く到着した。それでも、小一時間である。

一泊、250000ルピアのホテルを四泊予約していた。
円高で、一万円が、1300000ルピアである。昨年は、800000ルピアであるから、50万ルピアも、増えたということになる。

相変わらず私は、ゼロの多いのに、混乱する。

とりあえず、私は、ゼロを、二つ取り、1000ルピアは、10円と、計算した。
ホテル代は、従って、2500円である。

ホテルは、森の中のような場所という印象を受けた。
コテージで、大型のベッドが一つである。

深夜三時を過ぎていたが、目が冴える。
ただ、疲れていた。

今日は、昼過ぎ、完成した、テラハウスの、二階を見る予定である。

兎に角、ベッドに体を横たえて、うとうとする。
そのうちに、朝である。

二月は、バリ島の雨季である。
時々、スコールが降る。
朝方、雨が降った。

ところが、ホテルの横に川が流れていて、その音と、雨の音で、交じり合い、川の音なのか、雨の音なのか、解らない。
一日中、川音が、聞えるのである。
それに、朝昼夜と、それぞれの、虫や鳥の鳴き声が、交じり合うのである。
自然の音は、絶妙である。
それを、表現する言葉を、持たない。

朝、六時過ぎには、部屋の前の、椅子に腰掛けて、自然の音を体で聴いた。

朝一番のボーイさんが、働いている。
それぞれの部屋のポットを、回収して、また、お湯入りのポットを置いて行く。

それから、掃除のボーイさんたちが、落ち葉などを、拾い集める。
徐々に、朝の喧騒がはじまる。

ホテルの中は、世間から、隔絶されていて、大変、心地よい。

八時を過ぎると、部屋の担当のボーイさんが、掃除に来るのである。
いつもは、寝ているコータも、早起きで、部屋の前に座った。
バリコピを頼み、いよいよ、バリ島を楽しむ。

バリコピは、コーヒーの豆を挽いたまま、お湯を注ぐもので、少し待つと、その挽いた豆のカスが、下に落ちる。その、上を飲むのだ。
バリコピは、バリ島で飲むから、美味しい。

掃除のボーイさんは、英語が堪能で、話し好きである。
ただ、声が小さく、何度も、聞き直す。
私の英語は、なかなか通じない。
コータと話して貰う。

朝食は、部屋でも、ホテル入り口近くにある、オープンカフェでも、食べられる。
私達は、そちらに向かった。

お客は、まばらである。
混雑していないのが、いい。
バリ島の風を楽しみつつ、食べる。

今回は、四日目に、追悼慰霊を行い、そのまま、クタ地区に向かい、クタでは、はじめての、支援活動を行う予定である。
更に、これからの、バリ島での、予定を決める。
五月のコンサートツアーでの、公演の段取りである。

バリ島の
雨季の晴れ間の
花光る
虫の音川瀬
一瞬の夏

朝に鳴く
昼に鳴く音の
夜の音も
それぞれ違う
バリ島の夢

今回は、今まで見ていないバリ島の姿を見るべくの、気持で出掛けた。
これからバリ島で、活動するためには、何を理解すればいいのか。
更に、バリ島の伝統と、文化を守りつつ、我が事をする。

それは、現実であり、夢ではない。

観光の
夢見心地の
旅でなし
真実バリ島
真意を観る

その気持である。

昼前に、私達を、マデさんと、マルタさんが、それぞれバイクで、迎えに来た。
マルタさんは、テラハウス所有の家族である。
家を継ぐ、三男である。
バリ島では、一番下の男の子が、家を継ぐという、伝統である。

四人で、ランチを取ることにして、出掛けた。
地元の人にも、人気の、ナシチャンプルという、料理を食べる。

ナシチャンプルは、その店により、味がまるで違う。
とてもじゃないが、食べられるものでないものもある。

その店は、まずまずだった。
しばし、そこで、色々と話し合って、今回の予定を確認する。

いよいよ、テラハウスを見る事にする。
バイクの後に乗り、出発した。
バリ島は、地元の人も、観光客も、バイクに乗る。道は、それで、混雑する。
それに、車であるから、渋滞になる。
ところが、バイクだと、その合間を縫って走ることができるので、便利だ。

見慣れた道である。
クトゥ地区に、入り、少し行くと、テラハウスがある。

堂々とした、建物になっていた。
そして、二階部分である。
階段をあがり、声を上げた。
想像以上の出来栄えである。

立派な、多目的ホールと、別室が出来た。
バナナの葉に覆われて、バリ島の風、ふんだんに感じる。

二階から、周囲が見渡せる。
高い建物がないゆえに、見晴らしがいいのである。

ココナッツジュースを、頂きながら、暫し、感激していた。
そこで、家族の皆さんと、再会の挨拶である。

床には、蓆を敷いて、そこに座る。

何も無き
むしろの上に
花をまき
貧しき人の
もてなしの心

五月は、一階のがらんどうのホールで、コンサートをする計画である。

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2009年02月18日

バリ島再考の旅 3

一度、ホテルに戻り、夕食時に、再び、テラハウスに出掛けることにした。
歓迎の食事会である。

三時間ほど、ホテルで、ゆったりと過ごした。

一度、ホテル並びの店に、水を買いに出た。
大型のペットボトルで、4000ルピアである。
しかし、確か、市場では、3000ルピアで買ったはずと、思いなおした。

バリ島では、観光客と見ると、必ずボラれる。
また、観光客用の、値段がある。
道で、売っている物も、200ルピアといわれて、250ルピアと、言い直されることも、多々あり。

安い物ならば、しょうがないと思うが、高い物は、交渉しなければならない。

後で、また、そのことについて、書くことにする。

その時、決して、日本円に直しては駄目。日本円に直すと、すべてが、安く感じられるからだ。

通り雨
幾度となくも
通り雨
バリ島潤す
これが雨季なる

川の音
昼夜変わらぬ
流れあり
耳鳴りの如く
何も音いらず

緑にて
浮かぶ如くに
花咲けり
咲いては落ちて
咲いては落ちる

二人が、バイクで迎えに来た。
マデさんと、マルタさんだ。
それぞれのバイクの後に乗り、テラハウスに出掛けた。

マデさんの、奥さんが、料理を作る。それを、奥さんのお姉さんが手伝う。
その、奥さんのお姉さんの、一人娘は、ジャカルタの医大で、学んでいる。その、学費を、女手一つで、賄っている。
夫が亡くなり、妹の側に住んでいる。
それで、私たちとも、交流するようになった。

味付けは、私達の好むものばかりである。
ホテルの厨房で、働く、マデさんの奥さんのお姉さんが味付けするという。

食事は、男達だけである。
女達は、それを手伝う。
一緒に食べたことが無い。
それが、礼儀らしいので、私も何も言わない。
確かに、私達の食べる料理は、ご馳走である。お祭りの時のようだと、思う。

主食は、米であるから、日本と同じ。ただし、米の種類が違う。
パサパサしている。タイ米に似る。
味と、香りも違う。それでも、米は米。
おかずと、米を食べるというのは、日本と同じ。

おかずが無い時は、塩などをかけて食べるという。

バリ島の人は、家族で食事をするという感覚がない。
食べたい時に、食べる。

だから、私達と食事をするのは、特別なのである。

お姉さんが作った、ケーキを頂き、今回は、アイスクリームまで、用意してあった。
本当に、ご迷惑なことだろうと、思う。
でも、皆、楽しそうで、嬉しい。

マデさんの、娘と、息子に、僅かなお土産を渡す。
娘さんは、中学二年である。

その娘さんが、明日の、ガムラン公演、初出演で、レゴンダンスを踊るというから、それでは、明日、アナンガサリ楽団の演奏を聴くことにした。
というより、一度、共演する、アナンガサリ楽団の演奏を、お客として、聴いてみたいと、思っていたから、丁度良い。

食事を終えて、また、バイクで送って貰った。

満腹感と、飛行機の疲れが出て、早々に、ベッドに着く。
酒も、飲みたくない。

疲れると、覿面に、酒が飲みたくなくなるのだ。
ただ、あまり早く寝ると、夜中に目覚める。
矢張り、深夜二時に目覚めた。

部屋の前の、椅子に腰掛けて、深夜のバリ島の風を、楽しむ。

これが、何とも言えずに、考え深くなる。
旅の間、一切の本は、読まないから、その分、考える。
考えが、言葉になる。それを、書くこともしない。
そのまま、空に、散らされる。

手書きから、ワープロ、そして、パソコンに変わったが、私は、何も変わっていない。ただ、余計な理屈を考えるようになった。
実に、馬鹿馬鹿しいものである。

だから、歌を詠む。
それも、ただ、流れる如くに詠む。
書き留めて、どこかに書いて、そのまま、消える。
残すという、こともしない。
死後、すべて、捨てられてよい。

もう一度、ベッドに着いたのが、朝の四時である。

二時間寝て、目覚めた。
六時である。
朝日を見る。

太陽の
光差し込む
驚きは
朝の風射る
バリ島の光

今日は、何もしない、一日である。

旅行は、ただでさえ疲れる。
無理すると、帰国した後で、大変になる。だから、無理はしない。
夜に、アナンガサリ楽団に行くだけである。

私の旅の楽しみは、マッサージである。
だが、バリ島のマッサージは、オイルマッサージが主流で、下手な人に当たると、覿面、疲れるから、よほど、注意して、決める。

ホテル沿いに、マッサージの店が多数あるが、今一つ、乗り切れない。
一時間の、オイルマッサージは、5万ルピアである。
ゼロを、二つ取り、500円。
タイマッサージで、安いのは、約300円である。
タイマッサージは、タイ式となっていて、検討がつくが、バリ島のオイルマッサージは、検討がつかない。
当たり外れが、大きい。

飛行機の足の疲れは、矢張りマッサージであるがと、思いつつ、水を買いに外に出た。
ホテル近くの店に行く。しかし、例の高い店ではない。
二子の姉妹のいる、店に入った。
4000ルピアと言うので、市場では、3000だと言うと、じゃあ、3000でいいと言う。
矢張り、言ってみるべきである。

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2009年02月19日

バリ島再考の旅 4

インドネシアは、世界一の一万数千の島々のある、国である。
その、総人口の、2億3100万人の、六割が、ジャワ島に集中している。

そのインドネシアの、真ん中辺りに位置するのが、バリ島である。
その歴史の、植民地時代を、抜きにして語れない。

オランダの船団が、最初にバリ島に訪れたのは、1597年のこと。
当時のバリ島は、ゲルゲル王朝の最盛期の時代である。

1602年に、オランダは、現在のジャワ島、ジャカルタのコタに、東インド会社を置いた。それから、港町を、次々に、植民地化してゆくのである。
メダン、マカッサル、マナド、アンポンなどである。

矢張り、バリ島も、その支配下に置かれた。
ただ、香料、熱帯産物の貿易独占に、熱を入れていたオランダにとって、バリ島は、それほど、魅力ある島ではなかった。

オランダの目的は、アヘン貿易の掌握と、農業、商業に対する税の徴収である。
バリ島では、この税の徴収のために、旧来の王家や、貴族達の権威を認めて、彼らに、その代行をさせた。
間接的、統治機構を作り上げたのである。

その時代、オランダが、バリ島を理解したのは、ヒンドゥー教徒であり、その社会は、インドに似た、カースト制が存在すると、認識した。
その、土着の機構を、間接統治に利用するべく、僧侶、王族、貴族に属する者と、平民との、区別を明確にした。

上層の者達には、強制労働などを、免除し、上位貴族と、平民の間を占めていた、下級貴族たちの不満を解消するために、彼らを、村の領主として、対処した。

これが、今でも、バリ島の人々の意識を支配するものとなる。
そして、その格差社会である。
貧富の差が、歴然とした、社会機構となって、現在に至る。

ある意味では、戦いに明け暮れていた、バリ島の、平和が、植民地化により、落ち着いたという、皮肉でもある。

その、植民地時代に、統治官が、統治に必要とされる、バリ島の伝統的制度、習慣などを記して、出版したことが、西洋人にバリ島理解の手引きを与えた。

特に、芸術家たちは、バリ島の人々に、影響を与えたのである。

現在の、音楽、舞踊、絵画などの様式も、西洋人によって影響を受け、次第に整ってゆくことになる。
特に、1930年代が、激しいバリ島文化の、変化期だった。

オランダの植民地支配の時代も、インドネシアでは、各地で、独立への、戦争が起こったが、オランダ支配を揺るがすまでには、至らなかった。

バリ島では、そのような、事実は、無い。

太平洋戦争時代に、一時的に、日本の占領時代がある。
その時、バリ島は、日本軍の、食料調達の島として、搾取された。
それは、バリ島始まって以来の、欠乏生活だったといわれる。

日本の敗戦により、インドネシアの独立への、熱が高まり、バリ島も、独立戦争の舞台となる。
激しい戦闘が続いた。

その中に、敗戦後の、日本兵が加わったことが、意外な事実として、知られている。
要するに、脱走兵となり、インドネシア独立戦争に加担したのだ。

彼らは、このように考えたと、言われる。
日本は、インドネシアを独立させるために、占領したが、その約束を果たすことなく、逆に、インドネシアを苦しみの中に、置いた。
これでは、日本は、裏切り者とされる。
自分は、その汚名を晴らすためにも、インドネシアの人々と共に、戦うと。

1949年の、ハーグ協定により、スカルノ大統領率いる共和国政府が、独立を獲得する。
翌年、バリ島も、共和国政府に参加して、インドネシアの一員となる。

そこで、問題になったことは、イスラム教徒が、大勢を占めるインドネシアで、バリ島は、ヒンドゥー教であり、どのように、それを保持してゆくかということであった。
国の、宗教政策に沿って、バリ島でも、教義や、祭司制度が、整えられてゆく。
これについては、以前の旅日記に書いているので、省略する。

1970年以降、バリ島は、インドネシア随一の、国際観光地と位置づけられ、観光客の、誘致制作が、取られた。
それは、外貨獲得という、明確な、目的のあるものである。

それにより、バリ島自身も、伝統芸能の、掘り起こしを行った。
伝統的という言い方がされるが、実際は、常に新しく、生まれていると、言ってもよい。

その心は、伝統的であるが、観光客が目にするものは、すべて、それを踏まえた新しい文化である。

バリ島は、文化を創り続けていると、言える。

そして、問題は、山積みである。

観光誘致を掲げたが、果たして、観光地として、整備されているのかと、言えば、あまりの疎かな面が目立つ。

まず、下水道整備が、不足で、河川の汚染が甚だしい。
そして、ゴミ問題である。
全く、ゴミの量に対して、その処理が、追いついていない。

更に、緩やかに流れる、カースト制をベースにした、差別意識である。
それが、貧富の差を生み続けているが、それの、解決策は、見当たらない。

内陸部の、貧しい人々は、職を求めて、観光地化された、クタ・レギャン地区に集うが、支払われる給料は、50万ルピアから100万ルピアが、最も多い。
日本円にすると、5千円から、一万円程度である。

勿論、日本の金額は、日本の国の目安であり、バリ島では、普通のことである。
しかし、五年前から、物価が、五倍以上になっているが、給料は、変わらない。

義務教育は、あるが、お金がなくて、学校に行けない子供が多くなっている。
授業は、無料であるが、後の物は、すべて、買わなければならない。
その、お金が無いのである。

16歳の、マッサージ嬢は、内陸部出身で、学校には、行ってないと言う。
日々の生活をするのが、やっとである。
だから、料金を払うと同時に、チップを要求した。

クタ・レギャンに出ると、観光客を見て、我が身の貧しさを、身に染みて知ることになる。
そして、その原因は、何であるのかを、知ることが、出来ないでいる。

成り上がることは、至難の業であるというより、決して、成り上がることは、出来ないのである。

しかし、一つ、面白い話がある。

日本で、退職した人を受け入れる、退職者ビザというものを、インドネシア政府が、発行したのが、五年前である。
それに、準じて、バリ島に住むことを希望した、日本人たちが、バリ島の土地所有するために、バリ人に、頼むことになる。

外国人は、土地を所有出来ないからだ。
その際、信用あるのみで、日本人は、優しく、親切なバリ人に、依頼して、土地を手に入れた。しかし、名義は、バリ人である。
それが、命取りになり、何と、すべての日本人が、土地を、名義貸しした、バリ人に取られたという。

見事に、皆が皆、裁判で負けたのである。
それ以前に、契約書を、用意しなかったゆえである。
それほど、バリ人には、やられる。
彼らの、持つ、緩やかな、そして、人の良い雰囲気に、やられてしまう。
勿論、すべての、バリ人ではないが、土地所有に関しては、すべての信用が、裏切られたのである。

その日本人達は、声を上げない故に、それらの、事実は、知られない。
バリ島も、一筋縄では、ゆかないのである。


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2009年02月20日

バリ島再考の旅 5

日本兵がバリで義勇軍に参加し、戦ったことを、平良は生前「日本人の罪滅ぼし」だとよくいっていた。
マルガーの南、ブルンブンガン村に松井、荒木の記念碑ができたとき、平良はこう語った。「あれで、彼ら自身の罪は贖った。日本の兵隊たちが独立戦争に参加して犠牲になっていることで、日本人に対するインドネシア人の感情を少しでもやわらげる面があると、私は思うんです」
平良もインドネシアの統治は悪い面ばかりではなく、良い面もあったことを、大勢のバリ人戦友から聞いていた。老人たちは、日本が侵入したおかげで、自分たちは独立する機会を与えられたと平良に話したという。
「日本の軍隊が自分たちを鍛えてくれたために、たとえ弾に当たっても、辛抱強く独立戦を闘うことができたと、彼らはありがたがっていたんです」
それでも、平良は、インドネシアが独立できたのは、日本や、そこに参加した日本兵のおかげてはない、と断言していた。
「ただ少しだけ、日本が(脱走)日本兵が、役にたったかもしれません。私たちが脱走兵と呼ばれるのは仕方ありません。脱走兵だろうと、なんだろうと、私たちのやったこと(脱走し、独立戦に参加したこと)が、間違っていなかったことを、日本政府に理解していただければ、私はそれでけっこうです。死んだ戦友の霊も浮かばれると思います」
平良は奇妙なことに英雄としての証がない。ジャワやスマトラの残留日本兵は独立戦争で戦った証である独立英雄勲章をもらっているが、バリでは日本兵で勲章をもらったものは一人もいない。平良が受けたのは退役軍人の恩給だけで、毎月七万八千ルピア(約千円)だった。

サムライ、バリに殉ず インドネシア独立戦争の英雄になった旧日本兵の記録
坂野徳隆 あとがき、より、抜粋

沖縄、宮古島で生まれた、平良定三さんは、2004年、6月に、バリ島で、83歳で、亡くなった。

マルガラナの英雄墓地への、追悼慰霊は、前々から、希望していた。
念願叶って、今回、出掛けることが出来た。
勿論、誰に、邪魔された訳ではないが、時期当来していなかったのだろう。

ウブドゥから、車で、マルガ英雄墓地に向かった。

マデさんと、テラハウスの土地所有者である、家長、お父さんが、一緒だった。

ほとんど、英雄墓地には、人が来ないという。
勿論、観光客など、来る訳が無い。
子供達が、学校教育の一環として、一度は、訪れるというのみ。

墓地には、1372名の墓が、いくつかの区画に分けられて、整然と建つ。
墓標には、名前と、出身地、死亡年月日が刻まれ、キリスト教徒は十字架、モスリムは、半月、バリ人は、卍の印がある。
日本兵は、バリ人と同じである。更に、名前も、バリ名である。
卍が描かれた墓標には、Jepangと彫られた11名の、日本兵のものがある。

中心には、バリ島の英雄、ングラ・ライの墓がある。

ングラ・ライ部隊は、94名で、全員が死ぬまで戦い続けたという。
彼の名前は、バリ島の国際空港名ともなっている。

私は、そこで、御幣を作り、ングラ・ライの墓の前で、祝詞を献上した。
そして、太陽に、拍手を打ち、その墓地の清め祓いを、執り行った。

更に、日本兵の皆様に、語り掛けた。

この、墓地は、実は、墓といわれるが、本当の墓が別にある人々も多数いる。
それでは、この場所は、どういう場所なのかといえば、日本の靖国神社と同じ、形式なのである。
独立戦争を戦った兵士を、奉るという形式である。

別に墓があっても、なお、ここにおいて、彼らを、讃える、追悼慰霊する場所ということなのである。

靖国神社と同じなのである。
靖国も、兵士の名前のみが、奉られる。
その他のものは、何も無い。
中には、遺品なども、奉納される場合があるが、基本的には、名前のみが、奉られる。

更に、それぞれの、宗教によって、印されるという形式は、戦ったということにより、統一されている。

靖国も、色々な宗派の人が、奉られるのである。
宗派によって、云々というものではない。

戦没者ということで、統一される。
それを、伝統に則り、慰霊の所作を、行うということである。
であるから、日本の場合は、拍手を打ち、祝詞を献上して、追悼慰霊を行う。
マルガ墓地も、そのようにある。
毎年、11月20日の、記念日には、そこで、追悼慰霊祭が、行われる。
それは、1964年の、その日、マルガでオランダ軍の総攻撃に遭い、全滅した日である。

その墓に、納められている日本兵の遺骨は、すべて、平良さんが、収集したものである。

インドネシアで、亡くなった日本兵の死因は、様々なものがある。
しかし、ここでは、それを省略する。
遺骨が残っている人は、幸いだった。

汗だくになりながら、私は、広い墓地の中を、何度も、清め祓いをした。
想念の清めであり、祓いだった。

それぞれの求めるべくの、霊位の場所に、引き上げられるべくの、祈りである。
勿論、それは、私の勝手な行為である。

自己満足の、何物でもない。

ただ、私は、それを行為することによって、私に成るということである。
長年、探し続けてきた、私の行為である。

一緒にいた、お父さんも、運転手のワヤンさんも、ングラ・ライの墓に手を合わせていた。
マデさんは、墓地には、入らなかった。

ワヤンさんが、事の終わった私に言う。
先生は、バリにいれば、司祭ですね、と。
要するに、私の行為を、バリ風に、理解したのだ。

戦争犠牲者の追悼慰霊を、執り行う私は、実は、その慰霊地での戦禍について、私なりに、書きまとめたいと思っている。
だが、今更という気持もある。
多数の、良書があるからだ。

私の行為は、私が死ねば、終わるものである。
それで、いいと、思う。

昼を過ぎて、腹が空いた。
それじゃあー皆で、ご飯を食べましょうと、声を掛けて、マルガ墓地を後にした。

しかし、私は、もう一度、ここに慰霊に来るつもりになった。

誰に気兼ねすることなく、もう一度、慰霊の儀を、執り行いたいと思った。
というのは、フィリピンの時もそうだが、その時、どのようにして慰霊するのか、という形が、浮かぶのであるが、マルガでは、中々、ピンとこなかったのだ。

ただ、最後に、キリエレイソンが、浮かんだので、主よ憐れみ給えと、何度か唱えた。
キリスト教徒のためである。
しかし、まだ、何か、別の方法があると、感じたのだ。

更に、その一帯が、激戦地となったのであるから、その一帯を、清め祓うことも、必要だと、感じた。


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2009年02月21日

バリ島再考の旅 6

マルガ英雄墓地を出て、クタに向かって車が走る。

どこの場所かは、解らないが、地元の食堂を見つけた。
その間に、幾つかの、村を抜けた。

一休みである。
私は、ナシゴレンを注文した。焼き飯である。
他の人も、それぞれを、注文した。

ちなみに、私は、ナシゴレンか、ミーゴレンという、焼きソバを主にして、食べる。味付けにより、とんでもないものもあるからだ。
後は、解りやすい、焼き鳥とか、豚肉料理である。

ナシチャンブルは、その店により、味が全く違うものになる。
それなりに食べられるが、美味しいと思うものは、少ない。

暫し、時間がかかり、ナシゴレンが出て来た。
腹が空いていたので、まずまずだった。

食べ終わり、休んでいた時に、コータに呼ばれた。
隣で工事をしている、少年に、衣服を渡したらどうかと言う。

大人物もあったので、一応、衣服を調べた。
サイズが合うかどうか解らないが、とりあえず、私は、衣服を持って、隣の工事現場に、出た。

一人の少年がいた。
衣服を示して、必要かと、身振りで言う。
最初は、恥ずかしがった。
私は、ズボンを差し出した。すると、彼は、作業を止めて、私の方に、来た。
サイズを、合わせて、大丈夫ということで、差し上げると、喜んだ。
その、喜びが、伝わる。

すると、一人の少年が出て来た。
私は、身振りで、ちょっと、待っててと、言い、彼のサイズを探しに、車に戻った。

シャツと、ズボンがあった。
それを、持って、彼のところに行く。
サイズを合わせて、よしと、彼に渡した。

その、喜びの顔が、忘れられない。
彼は、シャツも、ズボンも、その一つしかなかったようである。
まだ、高校生くらいの、二人の少年だった。

シアパ ナマ アンダ
名前はと、尋ねた。
私達は、それぞれ名前を名乗り、握手した。

家の建設現場で、裸足で、働いていた。

私達の、車を彼らは、見送ってくれた。
とても、良い支援が出来たと、喜んだ。

コータが、二人は、あれしかないんだよ、きっと、と言った。
私も、そう思った。

幸せであるという、感覚は、実に、個人的な感情である。
何が、幸せなのかは、人それぞれ、違う。
一枚の、シャツ、ズボンでも、幸せを感じる人もいる。それは、能力でもある。幸せ感覚は、才能でもある。

貧しい生活に慣れた、バリ島の人は、強いが、しかし、豊かさを求めても、いいのである。
一枚が、二枚になることを、求めても、間違いではない。
一枚で、幸せだと、言う人には、差し上げなくてもいい。
しかし、もう一枚があれば、洗濯する時に、裸でいなくても、いいと、思う人もいる。

十枚は、必要ないが、二三枚は、必要だと、思う人もいる。
何が、どれが、良いのかということは、言えない。
だから、私は必要ですか、と問い掛ける。

必要だという人に、差し上げる。
すると、沢山貰って、それを、売るという人もいるかもしれないが、それはそれでいい。ただし、それ程の、枚数を一人の人に、差し上げられないことも、事実である。

彼らは、どうして、あの人が、衣服をくれたのかと、考えただろうか。
考えなくても、いい。
たまたま、逢ったのである。だから、差し上げられた。それだけである。

私は、好きで、やっている。貰う人は、丁度良かったと、貰う。それで、いい。それ以上の、意味や、理屈が必要だろうか。

観光旅行の、延長にある。

さて、車は、クタに近づいて、次第に、渋滞に巻き込まれることになる。
そろそろ、渋滞に近づく、時間帯である。
バイクが、多い。それが、ぞろぞろと、続く。

レギャンの、見覚えのある、市場を通る時、市場が、無くなっていた。
どこかに、移動したのか。
いつも、そこで、果物や、安い、お土産物を買っていた。

そこを過ぎると、クタに入る。
一方通行なので、大きく迂回して、車が走る。

私たちの、泊まるホテルは、中小路の、小さなホテルである。
一泊、30万ルピア。つまり、三千円以下のホテルである。
クタビーチ沿いに出て、その小路に入る。

辺りは、中級以下のホテルと、安宿が多い。

無事に到着して、チェックインする。
そこで、皆さんと、五月の再会を、約束して、別れた。
私は、追悼慰霊が、出来たという、充実感があった。

ウブドゥから、喧騒のクタである。
だが、それもまた、バリである。
帰国する日まで、そのホテルに三泊することにした。


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2009年02月22日

バリ島再考の旅 7

何度も、クタ地区には来ているが、そこで、衣服を配るということは、考えなかった。
歓楽街であり、観光客が、一番多い地区である。

昨年は、子供服を、ウブドゥの村の学校で、差し上げたのみ。
バリ島での、支援は、二度目である。

兎に角、本日は、慰霊の儀を執り行ったので、明日は、ゆっくりと過ごす予定だった。
まず、夜の食事である。
ベッドが二つの部屋である。

エアコンが壊れていて、それを直しにボーイが、入れ替わり部屋に来た。
その一人のボーイが、面白いことを言う。

私に、バリガールは、好きですかと、尋ねる。
うん、まあー、好きですね。
すると、一時間、30万ルピアですという。つまり、売春斡旋である。
私が、連絡して、コンタクトします、である。
へーえ、と、私は、感心した。

そして、いつもの癖で、ところで、ボーイは、幾らと、尋いた。
すると、何と、私の知り合いがいます。
一時間、50万ルピアで、手配しますと、言うではないか。

そこで、また、私は、あなたがいい、あなたは、幾らかと、尋いた。
すると、ノー、私は、本当の男です、というようなことを言った。
英語であるから、何となく、理解した。
例え、彼が体を売っていたとしても、ホテルの客には、売らないだろうと、思えた。それが、バレると、首であろう。

私が、驚いたのは、女の子が、30万ルピアで、男の子が、50万ルピアということである。
何故、男の方が高いのか。

彼は、何度か、私に、打診した。
明日にしますか。
うんうん、必要なら、頼むから、ねー、というような、ことを、英語で言った。

このホテルの、ボーイから、掃除のボーイまでが、何かと斡旋するのである。
翌日、部屋の掃除に来た、ボーイは、ジンバランに行きますかと、尋ねるので、行く予定だと言うと、それなら、車の手配をしますと言う。
無料で、チャーターします。
しかし、それは、すぐに斡旋手数料を貰うものだと、知っていた。

後で、その斡旋手数料が、売り上げの、半額だと知って驚いた。
つまり、50万ルピアの食事をすると、彼には、半分の、25万ルピアが入るのである。

給料が、兎に角安いので、それらの、斡旋により、手数料稼ぎをするのである。

それにしても、いきなり、女の子を斡旋されるとは・・・
更に、男の子もである。
しかも、男の子の方が、20万ルピアも高い。
これは、何やら、調査が必要だと、コータに話した。

コータの方も、新しい情報を得ていた。
スミニャックに、新しいゲイバーが、二軒出来たそうである。
バリ島で、友人になった、レディボーイに、聞いたという。

そこで、本日の食事は、スミニャックに出て、食事をしてから、そのゲイバーに出掛けることにした。

七時になったので、通りに出て、タクシーに乗った。
以前の、旅日記で、書いたが、タクシーは、日本人に吹っかける、つまり、ボルのである。
メーターを確認して、乗ることにしたが、今回は、皆、タクシーが、メーターを倒したので、驚いた。
まさか、前回、大声で、怒鳴り散らした成果が、表れたのかと、思うほどだった。
乗った、タクシーは、皆、メーターを倒したのである。

一切の、ボッタくりは、無かった。
実に、気持の良いものだった。

クタは、兎に角、売り込みの誘いが多く、辟易する。
後から、着いて来て、しつこく、勧誘する。
私は、慣れたので、無視である。
また、欧米人のように、ノーと、明確に言えば、引き下がる。

日本人は、ノーと、明確にしない性格で、よく、しつこく、付きまとわれている、日本人観光客を見た。
この暑さの中を、あれほど、しつこくされても、怒らないのは、日本人ばかりである。

ここで、変なことを、書くが、植民地が、長かった国の人は、西洋人の、高慢な態度に弱い。
こちらが、主人のように、振舞えば、つい、下僕のように、対応するという、癖が、何世代のちに、ついてしまったようである。

だから、失礼だと思うが、私も、そのように、振舞うことがある。
私は、あなたの、主人であるという、態度で、接すれば、相手は、怯む。
実に、傲慢な態度で、私自身好きになれないが、そうしなければ、後から、ずーっと、着いて、しつこく勧誘するのである。

両替、タクシー、車の手配、観光の勧誘などなと。
どこ行くの
何探している
ウブドゥ一日観光、安いよ
女捜すの
お元気ですか、何するの
兎に角、煩い。

スミニャックに入り、ジャパニーズレストランを目指した。
すると、タクシー運転手は、それなら、レギャンのある店の名前を言う。斡旋である。
いや、ここの、レストランだと言う。
一軒の、ジャパニーズレストランの前に止まる。
メーター通りの料金を支払う。

料金の、駆け引きで、疲れてしまうこと、多々ある。
それで、ガイドを雇い、面倒から、解放されたいと、思う日本人は、多い。

バリ島で、驚くのは、和食の店に、多くの欧米人が来ていることである。
ある店では、満席で、入れないこともあった。
そして、皆、箸を使い食べているのである。
今や、中華よりも、和食の時代に入ったようである。

勿論、バリ島の、和食であるから、へんてこりんなものも、ある。
私はかけ蕎麦を、コータは、天ぷら蕎麦を注文した。
コータの天ぷらを、少し貰い、天ぷら蕎麦にして食べた。

和食の店は、高級レストランと、同じ価格である。
決して安くはない。
ビール一本を、二人で飲んで、蕎麦を食べて、私は、疲れた。
案の定、もう、ゲイバーに出掛ける気力がなくなった。

いつも、勇んで、出掛けるが、いつも、取りやめである。
コータに、ホテルに戻ると言うと、またかと、じゃあ、一緒に戻って、もう一度、出直すという。

大体、こちらの店の時間帯は、十時からである。
そんな時間から、酒を飲んでいられる、気力は無い。

ホテルに着くと、九時を過ぎでいた。
シャワーを浴びると、ベッドに横になる。
そして、そのまま、寝ることになる。

このホテルは、安全だから、部屋の鍵を開けたまま、寝た。
コータが帰っても、入れるようにだ。

しかし、コータが戻ると、必ず目が覚める。
日本にいる時は、そんなことはないが、きっと、どこかで、気を使っているのだ。
誰かが、部屋に入って来たら、きっと、目が覚めると、思う。

旅の間は、どこか、緊張しているのである。
だから、また、疲れる。

直したエアコンは、止めないでくれと、言われたので、夜も点けたまま。一度止めると、また、やり直しだと言われた。
この適当さが、またバリ島である。

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2009年02月23日

バリ島再考の旅 8

クタでの、支援は、昼と、夜とに、分けて行うことにした。

まず、慰霊に使用した、御幣を海に投げ入れるために、昼前に、ビーチに出て、人の少ない場所を探して、祈り、海に投げ入れた。
それから、ゆっくりと、ビーチ沿いを歩いて、衣服を差し上げる人を、探した。

女が、赤ん坊を抱いて座っていた。
その辺りで、暮らす人だと、すぐに解る。
その、赤ん坊に、合うサイズのものを、手渡した時、すでに、私の周囲を、人が取り囲んだ。一瞬のうちである。

どこから、見ていたのか、女達が集った。
私にも、子供がいる。
私にも、子供がいる。

一人一人に、男の子、女の子と、聞いている間に、バッグから、取り出す者もいて、騒然となった。更に、男も、来て、私にも、子供がいると、はじまった。

皆を、制止しつつ、衣服を取り出して上げたが、その間は、30秒ほどの感覚であった。
すべてが、無くなった。
呆然とした。

それを、周囲の人々も、見ていた。
その中に、ホテルの従業員がいることなど、知らない。後で、それが、解る。

そのまま、ホテルに戻った。
汗だくだった。
その一瞬が、体力を、相当奪った。
体力というものは、長時間動いたから、云々というものではない。
その瞬間の、勢いに、消耗するものである。

私は、ビーチ沿いを、ゆっくりと歩いて、そこで暮らす、子供達に、手渡すことを、イメージしていた。が、突然の、出来事に、やや混乱した。

ビーチで、働く人たちは、ジャワ人が多いと、聞いていた。
確かに、ジャワ人が多いだろうが、皆、物売りで、その日暮らしである。
ほとんど、子供達を、学校へやれない人たちである。

例えば、バリ人でマッサージをする者の、家は、三階建ての家で、豊かな暮らしをする人もいるという。
それは、例外中の例外である。
それをもって、すべてを判断出来るものではない。

ジャワ人でも、バリ人でも、私には、関係ない。
必要な人に差し上げるのである。

一瞬の風の中に身を置き、相当な体力を奪われて、部屋で、休んだ。

ビーチは、長い。
そこで、支援活動をするには、何倍もの、衣服が必要である。
そして、限界がある。

残りの半分は、夜、通りで暮らす人々に、差し上げる物で、それを、ビーチに持ってゆくことは、抑えた。

通りで、暮らす人は、場所を替えるので、その時でなければ、渡せない。
ホテルのレストランで食事をして、再び、部屋で、休んだ。

そして、夕闇が迫る頃、荷物を持って、出掛けた。
何度か見て、見当をつけていた。

まず、三人の子供といる、女の場所に行った。
上の女の子の、顔色が悪いのを心配していた。
その時は、上の女の子がいなかったが、乳飲み子と、小さな男の子に、それぞれ、サイズの合うものを、手渡した。
すると、赤ん坊を抱いた女が、現れた。

その赤ん坊にも、差し上げて、更に、女が、自分のシャツを示して、これ、一枚しかないと言う。
その時、大人物を、持っていなかった。
ネクスト・タイムと、私が言うと、納得した。

それから、通りをゆっくりと歩いて、必要とする人を探した。
今は、もう、具体的に思い出せない。

兎に角、半分以上を差し上げた。
その夜は、それで、終わりである。

帰国まで、明日一日となった。

私は、明日で、すべての衣類を、差し上げることにした。
帰国する日は、明後日になるが、飛行機は、日付が変わってから乗る。
要するに、七日間の、滞在費、10ドルを払っているので、日付が、変わる前に、出国手続きが必要なのである。

八日間以上になると、20ドルになる。
みみっちい、話であるが、この、ケチケチ精神がなければ、多くの国、地域に行けない。
すべては、自腹であるから、長く活動を続けるには、格安チケット、ゲストハウスに泊まり、現地の食堂で、食べて、贅沢は、マッサージをすること、のみである。

勿論、毎月、3000円を支援してくれる方、時々、5万円を支援してくれる方。衣服と一緒に、二千円、三千円と、入れてくれる方がいる。
だが、それで、旅費を賄うことは出来ない。
ほとんど、自腹である。

そして、これが、私の人生最後の活動であるから、それに、つまりお金の、やりくりは、当然のこと。

一度、コンサート活動で、すべてのお金を使い果たしたので、何も無くなった。
それから、やりくりしての、活動である。
実に、無謀なことである。

だから、野垂れ死ぬことが、希望なのである。
異国の地で、くたばれば、幸いである。
更に、希望を言えば、南の島の、浜辺で、息を引き取ることを、よしとする。

そのまま、海にでも流してくれれば、上々の人生、死に方である。

この人生で、欲しい物は、無いし、自分の遺骨に、囚われも無い。
死ねば、霊位として、自然に隠れるのみ。

昔の人は、草葉の陰から、見ていると、言った。
つまり、墓の草葉の陰であろう。
無くなるとは、思わなかった。
死んでも、その心が、残るものだと、思っていた。
勿論、死ねば、無に帰すると、考える人もいて、いい。

死んでしまえば、この世には、どうにも、こうにも、しょうがないのである。
ただし、浮遊すれば、別である。
浮遊して、その想念が、生前の姿を見せることがある。幽霊である。
つまり、幽体から、霊体が抜けていない、状態である。

それは、未練、捕らわれから、起こる。

真っ直ぐ行くとは、真っ直ぐ、行くべき所、時空に行くのである。
隣にいても、時空が違えば、永遠の隔たりがある。
これを、理解するには、直感でしかない。

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2009年02月24日

バリ島再考の旅 9

ホテル近くの、コンビニに、水を買いに出た。
コンビニの前に、男の子、小学生一年くらいの子である、が、コンビニの中を覗いている。

どうしたの
声を掛けた。日本語である。
お腹が空いているのである。
そう、解った。ちょっと、待ってて
そう言うと、その子の、姉も来た。

私は、手振りで、ここにいなさいと、言い、ホテルに戻り、衣服を持ってきた。
二人は、私を待っていた。
まず、コンビニに入り、パンと、ビスケットを買い、それを男の子に、渡した。

二人分だよ
と、袋の中を見せた。
二人は、頷いた。

そして、私は、バッグを開いて、それぞれに合う、シャツと、ズボンを取り出した。
何枚か渡した。
二人は、喜んだ。そして、男の子が、何やら、指差して言う。
私は、向こうにも、いるよと、感じた。

それからである。
小路に入って、子供達を捜した。
小路には、子供達が、いた。

一人、一人と、見つけて、衣服を渡した。
人が、詰め掛けてこないので、十分に、ゆっくりと、サイズの合うものを取り出して、渡すことが出来た。

名前は
一度聞いても、覚えられないが、私が、明確に、話せる、インドネシア語である。
私の名前は、ジャパニーズ・テンだよと、言う。
子供は、テンを、ティエンと言う。

それから、小路に目をつけることにした。
別の時間帯に、小路で、遊ぶ子供達を、見つけた。
丁度、ミニカーを持っていたので、それと、ぬいぐるみを持って、その遊ぶ輪に入った。

ボーイ
と、私は、声を掛けた。
それが、悪かった。
皆、一同に押し寄せた。

一人一つと、言いつつ、ミニカーを渡した。
すると、大人も、来る。
子供達が、私を取り囲んで、騒然とする。

女の子が、遠巻きに見ている。
私は、ミニカーを渡して、女の子たちに、向かって、ぬいぐるみを、渡した。

大人が、私にも、子供がいると、言う。
それで、一つづつ、ぬいぐるみを、渡す。

矢張り、あっという間の、出来事だった。

ミニカーも、ぬいぐるみも、すべて、無くなった。

何故か、汗だくになる。

外に出ると、自然に、発汗しているので、水分補給は、欠かせない。
だが、水ばかりを飲んでも、吸収が悪い。
そこで、バリコピを、飲む。

時々、店に入り、バリコピを飲んだ。
どこでも、50円程度であるが、少し高めのレストランだと、100円程度になる。

普段は、砂糖を入れないが、砂糖を入れて飲む。
これが、効き目がある。
コータは、それに、砂糖と、塩を入れたりする。
より、吸収がよくなるのだ。

そうして、支援物資の、ほとんどを差し上げた。
残っているのは、ノートと、一つの、子供用長靴である。

最後の日、帰国する日である。
ホテルの、チェックアウトが、昼の一時なので、部屋の前で、整理していた。
すると、ベッドメークのおじさんが、話し掛けてきた。

今日、カンバックか
そう、夜の便でね
オッケーオッケー、さようなら

すると、おじさんは、私がビーチで、服を皆に、上げていたのを見ていたと言う。
そして、私にも、八歳の女の子と、六歳の男の子がいると、言う。

私は、即座に、ノートを四冊取り出して、差し上げた。
学校に行かせるために、ビッグマネーが、必要だと言う。
ノートを喜んだが、シャツは、ないのかと、言う。
シャツは、もう一つもないと、言った。

おじさんが、欲しいなら、クリーニングした、Tシャツを差し上げたいと思ったが、子供のものが、欲しいようであった。

そして、私は、長靴を思い出し、取り出して、渡した。
オー、サンキュー
とても、可愛い、中靴だった。

レインデーに
うんうん、オッケー、サンキューサンキュー

それで、すべてが無くなった。

行きは大変、帰りは、楽々である。
荷物が、大幅に減ったのだ。
三つの、バッグが、一つになった。

90万ルピアを払い、チェックアウトをして、クタの通りに歩いた。
コータは、タクシーを、呼んで貰えばと、言うが、何やら、私は、汗だくで歩く方を選んだ。

荷物が少ないといっても、荷物は、ある。
ようやく、通りに出て、タクシーを拾う。
今度も、メータをしっかりと、下ろした。

ねー、もしかして、前回、私が、怒鳴り散らしたからかなー
と、私が言うと、コータは、そんなことないと思うけどと、言う。
しかし、今回は、一度も、メータを下ろさないタクシーに乗らなかった。
皆々、メータを下ろして、その料金通りである。
だから、安い。

そんなことを、しているから、クタに人が来ないんだ
と、怒鳴ったことなど、思い出した。
嬉しいことだが、不思議な気持になった。

空港の行くまでの時間を、ジンバランの安宿にいることにした。
ジンバランの真ん中にある、一泊、一万ルピアの部屋を取った。

その間、タクシーの運転手さんと、話をした。
彼は、女の赤ん坊が、生まれたばかりだと言う。
でも、家族が多くて、大変だとも。
聞けば、大家族である。

両親の面倒から、他の兄弟の面倒を見ていると、言った。
運転手の、給料では、やってゆけないとだと。
ただ、家の田圃があり、それで、食べていかれる。
給料は、月によって、マチマチである。
少ない時は、30万ルピア、多いときは、その倍である。

日本円にすると、三千円から、六千円程度である。

私達の、予約した、安宿を探すのに、苦労していた。
目立たぬ、小さな割れ門のゲストハウスだった。


posted by 天山 at 00:00| バリ島再考の旅 平成21年 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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