2009年04月01日

ヤンゴンへ 1

三月一日、バンコクへ出発する。
到着は、深夜である。そして、ヤンゴンへは、翌朝の便で、行く。
だから、バンコク、スワナプーム空港で、時間待ちをすることになる。

到着して、そのまま、一階に降りて、勝手知ったる空港の、従業員で溢れる、食堂に行く。
私達は、いつもの場所と、呼んでいる。

数え切れないほど、この空港を利用している。また、更に、これからも、利用する。

食事をして、一階のベンチに、荷物のカートを横付けにして、休憩である。

私は、ムスリムの祈りの部屋で、休もうと思った。
そして、向かった。
その扉の、看板を見て、驚いた。
ノーと、英語で、書かれた文字を、しばし眺める。

食べるな、飲むな、寝るななどと、注意書きがあるのだ。
エーッ、私のエッセイを誰か、読んでいるのと、アホなことを、考えた。
まさか、空港の人が、私のブログを読むはずが無い。ということは、私のように、眠るために、入る人が多々いるということか。

コータと、協議した。
どうしたら、いいのかと。
コータは、もう一切、入らないという。つまり、それは、居心地が悪いそうである。
他人の部屋に、入る気分がするというのだ。

そこで、コータの、アイディアである。
祈りの姿勢で、寝たら、どうかと。

そこで、ベンチで、祈りの姿勢をして、試してみた。
正座して、両手を合わせて、額を床につける祈り方。しかし、それは、足が痺れて、長くは、続かない。
では、次の方法は、胡坐で座り、手を合わせて、額をつけて眠るという姿勢。しかし、腹がつかえて、苦しい、駄目だ。
すると、コータが、五体投地の、うつ伏せにして、手を合わせて寝るのは、どうかと、提案する。
しかし、それも、寝込んでしまうと、だらーんとして、見た目が、悪い。
つまり、ムスリムの部屋では、寝られないということを、理解したのである。

そうなったら、しょうがない。
ベンチにいるしかない。

ただ、苦痛はなかった。それは、ミャンマー・ヤンゴンに行くという、緊張感からである。
事前の調査で、ボランティア活動は、ミャンマー政府の嫌う行為であると、知っていた。それでは、どのように、支援物資を渡すのか。
観光ですと、言いつつ、サッと、渡して、サッと、立ち去るとこだと、心に決めていた。

実に、この旅日記を、書くのは、難しい。
どのくらい、ミャンマー・ヤンゴンのことが、正しく、見たまま書けるのかということだ。それは、複雑で、幾重にも重なるような、意味があるから、一面的ではない。

一つの事象を語るのに、色々な面から、書かなければ、理解出来ないのである。
それ程、ミャンマーという国は、複雑であり、大変な国である。

ミャンマー入国の、ビザも、自分達で、取るのではなく、地元の旅行会社を通して、取ることにしたのも、その一つである。
自分達で、取れば、その代金の、半額で、良かったが、ヤンゴンの旅行会社から取ると、手続きまでやってくれる。ちなみに、二人で、110ドルである。

私達の、支援物資に、難癖をつけられないためにも、それは、正解だった。

さて、搭乗手続きが、朝の六時前から、始まった。
隣の国でも、出国である。

出国手続きを済ませて、搭乗口に向かう。

国際線乗り場である。
タイの、格安航空会社の、更に、キャンペーンチケットを、買っていた。

待合室で、搭乗を待つ。
その時、私は、一人の僧侶に逢った。
というか、目で挨拶をした。向こうも、笑顔で、答えた。
それが、ヤンゴンへの、旅の始まりである。

搭乗が、始まった。
バスに乗り、飛行機の待機している場所に向かう。
バスは、人で、一杯。
飛行機の側に、バスが着いた。
ところが、扉が開かない。なかなか、開かない。
そして、扉が開かないままに、バスは、また発車した。
どういうこと。

バスは、また、元の乗り場に戻ったのだ。
そこで、扉が開いた。降りれということかと、皆、バスを降りる。そして、また、待合室に戻った。
そこで、初めて、説明である。

ヤンゴン空港から、30分待てとの、指示である。

その理由は、空模様が悪いから、である。
変なの、と、思いつつ、また、待合室のベンチに座る。
ついでに、トイレに立った。
そして、トイレから出て、先ほどの、僧侶と、目が合い、何となく、声を掛けた。
それが、事のはじまり。

若い僧侶は、英語である。
ところが、実に、聞き取りにくいのである。
訛りのある、英語というのか。

ついに、コータを呼んだ。
そして、三人で、話すことになった。

若い僧侶は、三十過ぎであろうか。
精悍な顔付きで、知的な雰囲気である。

そこでは、ヤンゴンを案内するということで、話が、まとまった。
私達のホテルに、夕方の六時に来るというのである。
断る理由なく、では、お待ちしていますと、答えた。

しばらくすると、アナウンスが流れた。もう一度バスに乗れという。
漸く、出発かと、皆の後について歩いた。

無事、離陸して、一時間と少しで、ヤンゴンに到着。
そこまでは、何事もなく、である。

それから、三泊三日、心身ともに、疲労困憊するなどとは、知らないのである。

ビザの手配を頼んでいた、会社の女性社員が、すべての、手続きを代行してやってくれた。
荷物も、コータのバッグを、開けられただけ。
ただし、そこに入れていた、女物の靴、支援物資であるが、それを見た、検査官が、ゥアーと、声を上げた。

女物の、靴を、どうするのか、これを、履くのかという、感嘆の声。
コータが、プレゼントですと、言い、何事もなかったのかように、通り抜けた。

旅行会社の車で、予約していた、安い料金のホテルに向かった。

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2009年04月02日

ヤンゴンへ 2

空港からの道は、混んでいた。
考えていた以上に時間がかかったのである。

車内で、案内の女性と、話した。
彼女は、お寺で、日本語を無料で学んだ。
そして、この仕事に就いたという。

英語は、出来ない。しかし、丁寧な日本語を話す。
私は、ヤンゴンの地図を見せて、サイクロン被害の場所を聞いた。特に、酷い場所は、川沿いである。そして、そこは、とても貧しい人々が、暮らすという。
私は、その場所の人たちに、衣服が必要かと、尋ねた。すると、必要ですと答えた。

私は、特に、子供の服を持って来たことを、伝えると、それは、喜びますと言う。
そこで、支援する場所を、川沿いの、彼女の示した場所に、決めた。

ホテルは、中心街、ダウンタウンの真ん中辺りの、安いホテルである。
一泊、18ドルである。
ミャンマーは、ドル建てである。
街中の買い物は、チャットという、これまた、0の多い、紙幣である。
私は、0を一つ取って、日本円に換算した。
例えば、1000チャットは、100円である。

ホテルにて、5000円を、チャットに替えた。50000チャットである。

安いホテルは、中々見つからない。
漸く、沢山ある小道の一つに、目指すホテルがあった。

昼前の、チェックインである。
朝ご飯があるので、食べていいと、言われた。
部屋に荷物を置いて、上の階の食堂に上がった。

部屋は、何と四階である。
エレベーターは無い。実に、しんどいのである。
すべての、荷物を持って上がったから、汗だく。

兎に角、朝ご飯を、昼ご飯にして、食べた。
取りたい放題であるから、たらふく食べた。

部屋に戻り、ようやく、ホッとする。
すると、バタンと大きな音かした。
電気が止まった。停電である。この、停電は、実に、頻繁に起こった。
電気が止まると、自家発電の電気が点く。

その繰り返しである。
バタンという音が、実に嫌な音である。
慣れるまで、暫くかかった。

電気が止まると、エアコンも、扇風機も、役立たずである。部屋の中が、蒸し風呂になる。
バス、トイレも、真っ暗になる。

まず、停電で驚いた。
そして、それが、当たり前なのである。

水を買うために、ホテルの一角を歩いてみた。
下町風情である。
兎に角、埃っぽい。
道端には、物売りが沢山いた。
色々な物を、売っている。

後で知るが、私達のホテルは、インド人街の中であった。
その隣には、中華街が広がる。
要するに、インド人と、中国人が占領する街なのである。

地図にも、チャイナタウンと載っている。

一回りして、結局、ホテルの三件隣の、店で、水を買う。
300チャットを、二本。つまり、30円を二本である。

水だけは、どうしても、買わなければならない。

空港で、夜過ごしたので、眠気が襲い、ベッドに、体を横たえた。そのまま、寝た。

気づくと、二人とも、寝ていた。
そして、若い僧侶の来る時間になる。
その前に、コータが、近くを見てくると言い、ホテルを一度出た。
その間に、僧侶がやって来た。

ホテルの女の子が、四階まで、案内して来た。

いよいよ、ヤンゴンの道行きのはじまりである。

コータも、戻って、二人で、僧侶の話を聞いた。

彼は、ミャンマー南部の出身である。
タイ南部と、隣接している、タニンダーリ管区である。その田舎である。
ご両親の写真を見せてくれた。非常に老いた二人である。

彼は、その故郷のパゴダ、つまり、寺の再建を計画していて、そのために、活動していると言った。
海外に出掛けるのは、その資金を得るためだと言う。

海外といっても、アジアの貧しい国である。
日本などへは、当然、高くて、来ることは、出来ない。

その時に、また、停電である。
バタンという音。

いつも、こうです。ミャンマーは、本当に、めちゃくちゃな国です。
と、現政権の批判が始まった。
何もかもが、めちゃくちゃだと言う。
そして、昨年のデモの話になった。
多くの友人僧侶たちが、殺された。更に、タイに逃げた僧侶も多いという。

警察に、手錠を掛けられたまま、タイに逃げた僧侶もいるらしい。
そして、密告者の話である。
誰が、通報して、逮捕されるか、解らないのだ。

政権の批判は、ご法度なのである。
一通り、彼の話を聞いて、さてと、私は、彼を信じて、私達の活動を話した。
明日、彼は私達を連れて、ヤンゴン案内をするというので、実はと、話し始めた。
すると、大変に喜んだ。
そこで、川沿いの地区に行き、そこで、子供達中心に、衣服を上げたいと言うと、一緒に行きますと、言う。

それでは、朝八時半に来ますと、彼は言う。
それで、目出度しめでたしであった。

僧侶と共に行動出来るならば、安心である。

ところが、状況が、変化してしまうのだ。

僧侶が帰るのを、一階まで降りて、見送ろうと、私達も、一緒に降りた。
一階に降りると、そのホテルの経営者である、インド人が出て来た。

そして、インド人社長は、僧侶に、合掌する。
それは、当然の礼儀である。
ミャンマーでは、僧侶は尊敬を受けるのが、当然なのである。

そこで、きっと、である。社長が、わざわざ、訪ねて来た僧侶に、どうしたのですかと、問い掛けたのではないかと、思える。

僧侶から話したのか、社長から話したのかは、解らないのである、私には。

僧侶は、真剣な面持ちで、社長に話している。
すると、私達も共に、椅子に腰掛けるように、促された。

飲み物が、運ばれた。
そして、とんでもない、大事の話に発展するのである。

日本語が、出来る従業員がやって来た。
彼が、二人の話を私達に、通訳する。
何でも、日本で、十年働いていたようである。
奥さんは、日本人で、子供を連れて、日本に帰ったという。


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2009年04月03日

ヤンゴンへ 3

ここでは、外国人が、何かして人が集まると、警察が来て、尋問されます。色々と、聞かれて、面倒なことになります。
皆、貧しいから、一斉に集まります。すると、混乱して、必ず警察が来ます。

延々として、くどい説明が終わらないのである。

要するに、ヤンゴンでの支援活動は、政府の気に入らないことなのであり、それをすることは、大変なことで、危ないことなのである。

だから、今、社長が、ミャンマーで、三本の指に入る、高僧に相談すると言う。
社長は、すぐに電話を掛けた。

長い電話である。
そして、今すぐに、行きましょうということになった。
その、高僧の寺に出向いて、指示を仰ぐということだ。

そんな、大袈裟な・・・
私は、ウーンと、考えたが、皆が立ち上がり、社長が車を出すと言う。

確かに、これは、何か知ることになり、また、勉強になると、流れに従った。
社長の車の、後部座席に、私とコータが座り、助手席に、僧侶が乗った。

15分くらいと言ったが、30分は、かかったと思う。
漸く、その寺に到着して、高僧のいるという、建物に、向かった。
社長と僧侶、私達が続く。

高僧の部屋は、広く、その中にも、仏を奉る祭壇がある。
まず、その仏に礼拝し、更に、高僧に、礼拝するという、礼儀である。

若い僧は、高僧の足元に、額をつけて、礼拝していた。

社長と、高僧が、真剣に話し合うのを、傍で、黙って聞いていた。
若い僧も、黙っている。

私は、テレビに目をやった。
その高僧が、写っている。
暫く、話し合いが続き、結果、政府の許可を取るということになった。
高僧が言ったのだ。

明日の朝、ここに来て、その許可書を持って、一番困っている村の、人々に、支援物資を渡すということになった。

すると、高僧が立ち上がり、テレビの傍に行き、画面を指して、なにやら言う。
多くの僧たちに、説教をしているようである。

自分の写された、テレビを、繰り返し流していたのである。
そして、私達に、自分の載った記事も、渡した。

高僧。
そのイメージとは、遠い。
申し訳ないが、ヤクザの雰囲気である。どうしても、そのように、感じてしまう。
僧侶というものに対する、イメージが、持てないのである。
しかし、若い僧は、ハッハーと、ひれ伏すように、言葉を聞いている。
これが、ミャンマーの高僧なのであろう、きっと。
私は、慣れていないだけだと、肯定的に、捉えることにした。

その時の、話は、翌朝、もう一度、ここに来て、政府の許可を受けた書を貰いに来るということで、終わった。
そして、その村に、僧侶を差し向けるとも言う。
ここのことろを、覚えておいて欲しい。

後で、段々と、話が違ってくるのである。

さて、高僧との、会見を終えて、再び、ホテルに戻ることになった。

その前に、小便がしたくなり、トイレを尋ねた。
若い僧が、案内してくれた。

真っ暗な場所に、トイレがあり、更に、トイレも、真っ暗である。
えっーーー
ここで、するの。
ウンコでないから、いいものの、暗くて、何も見えない。
外から光を、利用して、何とか、便器に目掛けて、小便をする。
コータも、一緒だった。
大丈夫、と、コータに声を掛けた。
コータも、絶句している。

後で、コータ曰く、ああして、小僧さんたちを集めて、指導している偉いお坊さんとして、皆の尊敬を受けているが、トイレに電気もつけていないようなら、程度が知れる。

私も、同感であった。

しかし、あれが、当たり前なのだろう、きっと。
それに、ミャンマーの僧たちは、午後を過ぎると、何も食べない。水を飲むことだけ、許されている。だから、糞も、あまりしないのだろうと、憶測した。

さて、ホテルに着いて、明日の朝、八時半に、寺に行くということで、社長は、私一人で、行ってもよいと言うが、ただ、黙って頷いたのみ。

事の次第を、十分に考えたいと思った。

若い僧も、朝に来ると言って、帰った。

部屋に戻り、シャワーを浴びるが、停電で、温シャワーにならず、水シャワーである。

私は、水シャワーが嫌いで、苦手である。
しかたなく、下半身から、徐々に、上半身に上げてゆく。
水の温度に慣れるまで、足元に、水をかけている。

冷たいというのが、嫌なのである。
体が、しき締まるという、問題ではない。
心臓に悪いのだ。

シャワーを浴びて、コータと、話し合った。

さて、どうするか。
しかし、どうするも何も、ここまで、話が進んだのである。

明日の朝、寺に行くかどうかを、話し合った。
私は、行きたくない。コータも、行きたくない。
それでは、タンブン、つまり布施を渡して、社長に、行って貰おうということになった。

あらかじめ私達も、スムーズ支援出来るとは、思っていなかったが、何となく、観光しているように見せて、手渡しで、渡して、すぐに、その場から、離れればいいと、思っていた。

ここまで、話が、大袈裟になると、戸惑う。

停電が長く続き、エアコンも、扇風機も、駄目。
部屋の中が、蒸し風呂のようになってゆく。
私は、部屋のドアを開け放した。
それしか、方法が無い。

ちなみに、窓は、廊下側にある部屋である。外に向かっての窓は無い。

兎に角、彼らの流れに沿って行こうということで、次は、夜の食事である。
若い僧を、食事に誘ったが、先に書いたように、午後からは、何も口にしない戒律であるから、遠慮した。

考えるのが、面倒で、ガイドブックを見て、近くにある、インドカレーの店にした。
地図を頭に入れて、ホテルを出た。

10分程歩いて、目指す店を見つけた。
インドカリーと、英語で、書いてある。

辛さと、塩気の効いた味で、美味しかった。
体が疲れているせいもあり、味が濃い目でよかった。

お代わりをして、二人で、7800チャットである。780円。200チャットのお釣りを、そこで働く、中学生くらいの少年に渡した。

後は、寝るだけである。
酒も飲みたくない。
私も、コータも、非常に疲れた。

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2009年04月04日

ヤンゴンへ 4

ヤンゴン、二日目の朝、私は、早く目覚めた。
そして、色々と思案した。といっても、朝、寺には行かないことにし、社長に、タンブン、布施を渡して、行って貰おうと、思った。

八時前に、一階のフロントに、降りた。
10000チャットを、封筒に入れて、タンブとして、渡すことにした。
日本円にして、千円であるが、この額を決めるのも、悩んだ。
最初は、三万チャットだったが、次第に冷静になり、一万チャットに、落ち着いた。

社長がフロントにいた。
挨拶して、タンブンを渡すと、即座に、中身を確認した。
それも、驚きだった。
封筒に入れたものを、寺に布施するのであるから、見るという行為に、アレッと、思った。

そして、車を用意してあり、八時半に出発すると、言う。
寺に行くものだとばかり、思っていたが、運転手もつけてある、云々と言う。
すると、昨日の、若い僧侶が、ホテルに入って来た。

一緒に行くのである。
八時半出発ということなので、私は、コータを起こすために、部屋に戻った。

寺に行かずに、直接、支援する場所に行くみたいだと、コータに伝えて、私も、出掛ける準備をした。
浴衣に、着替えた。

10分前に、一階に降りると、車の用意がされていた。
昨夜の日本語を話す男が、運転手と、案内役である。
寺に行く話しは無しになっていた。

その男が、途中で、高僧の派遣した僧侶と、落合、そこから、彼らの先導で、行くという。

だが、社長は、途中で、車を降りて、別の車に乗り換えて、行くことになり、チャットが必要になるから、100ドルほど、チャットを持って行った方がいいという。
しかし、私は、昨夜、更に50ドル、チャットに換えていたので、それを見せた。

何とも、腑に落ちない気持である。
そして、社長は、コータに、こちらの車代は、20ドルであると、言う。
コータから、20ドル必要だと、言われて、私は、社長に、20ドルを渡した。

そして、出発である。
その時、社長が、ペットボトルの水を二本、パンの袋を二つ、渡した。
親切であると、理解した。

私達は、朝食を食べていない。
ちなみに、ホテル代金は、朝食つきの料金である。

寺に行くことなく、現場に向かうことになって、出発した。

川沿いの道を通り、橋を渡って、ヤンゴン市内から、郊外へ出た。
一時間近く走ったと思う。
大きな通りに出て、そこから、左の道に入った時、車が止まった。
男が、電話を掛け始めた。
そして、また、大きな通りに戻った。

その通りに停車して、暫く過ごした。
合流する僧侶との、連絡をしていると、思うが・・・

屋台の物売りが、並んでいる。
バスが停車して、人々が混雑している。
一度、車から降りて、辺りを見回した。

実に殺風景な風景である。
日本の秋枯れのようである。
後で、その辺り一帯も、サイクロンにより、すべてなぎ倒されたと知る。

漸く、運転手件案内の男が、車に戻り、出発した。
といっても、戻った道を、また進んだ。
つまり、最初の通りを左に曲がった、道であり、サイクロンの被害の多かった場所である。

そして、少し進むと、男が、この辺りで、しましょうという。
変だなーと、思う。

合流する僧侶は、いないし、この辺りで、やりましょうと言う。
あらかじめ、支援する場所を、高僧が指定したのではないか。

ところが、その村の寺に支援物資を持って向かうと、何とも段取りがいい。
待ってましたという感じである。

そこの、僧侶に挨拶して、男から、説明を受けた。
ここで、お坊さんに、村の子供達に集まって貰うにしましたから、皆、来ます。そして、静かに、配ることが出来ます。今、皆に、連絡させていますと、言う。

私達は、その寺の中で、支援するものだと、支援物資の荷物を解いて、衣服を出した。
そして、待った。

すると、村の人、男三人がやって来た。
何やら、話している。

すると、男が、村の人の家に、子供達を集めて、そこで、配りますと言う。
段取りが、悪いのである。
寺の中で、配るはずだった。

私達は、もう一度、バッグに、物を入れ直して、それを村の人が運ぶ。

寺から、少し離れた、家である。
その一帯は、荒れ野原である。
家も、少ない。
田圃の刈り取った後のままで、緑が無い風景。

村の人が、話すことを、若い僧侶が、英語で通訳してくれる。
それを、私は、コータから聞いた。

この辺、一帯は、サイクロンで、すべて飛ばされてしまった。何も無い。今も、そのままである。

村の村長のような人の家に、到着して、荷物を再度、開けた。
そして、サイズ別に、並べて、子供達を待った。
すると、一人、二人と、やって来た。
本当に、子供達が来るのかと、思ったが、集うと、30名ほどの、子供達になった。
着ている物は、皆、汚れている。
確かに、何も無い風情である。

赤ん坊を抱いた女も、三人ほど来た。
そして、村の大人も、数名いる。

子供達を静かにさせて、一人一人に、私は、サイズの合う衣服を渡した。
次々と、子供が、前に来る。
確かに、一人一人に、手渡した。そして、赤ん坊を抱いた女達にも、幼児用のものを、渡し、更に、彼女達にも、必要な物を渡した。
大人物も、少し持っていたので、男達にも、渡すことが出来た。

一時間近くかかったようである。
私は、汗だくになった。

いよいよ、全員に渡し終えると、私に、家の奥さんが、飲み物をと、勧めてくれた。
男達数名もいて、私をねぎらう。
ふっと、家の中を見ると、子供達が、全員集合している。
静かなので、私は、皆、戻ったと、思ったが、皆、静かに、事の過ぎるのを、待っていたのだ。

男が、写真を撮りましょうと言う。
そして、子供達を、家の前に並ばせた。

段取りがいい。
確かに、何の問題もなく、支援物資を、配ることが出来た。これは、幸いであった。

写真を撮るためにも、子供達は、静粛にしていた。
何枚も、撮った。
若い僧侶も、ここぞとばかりに、写真を撮っている。

この若い僧侶は、家に着くと、村人に、何やら説教をした。
真剣な表情で、何やら、村人に話し掛け、それを、村人も、神妙に聞いていた。

今回の支援について、自分の関与を話しているようだった。
言葉が、解らないので、そのように、感じた。

子供達が、それぞれ、解散して、私は、持て成しのお茶を、飲んだ。

その家の、奥さんと、おばあさんにも、何がしかの衣類を渡した。

一人の村人の男が、私に感謝を示して、手の甲に、口付けした。
そして、何やら、トクトクと、話した。
ありがとう、ありがとうと、言うように聞えた。
決して、悪い気分ではなかった。

一度、寺の方に戻ると、寺の僧侶が、私たちを、田圃の中で待っていた。
私は、僧侶に、タンブンとして、5000チャットを渡した。

村の男達も、私たちを、見送りに来た。
車が走り始めるまで、見送ってくれた。


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2009年04月05日

ヤンゴンへ 5

車は、元来た道を戻った。ヤンゴン市内に、入り、まず、僧侶を送った。
私たちが、別のホテルに変更することを、僧侶だけに、伝えていた。

どうも、今のホテルの社長に、腑に落ちないものを感じて、本日から、別のホテルに、移ることにしたのだ。

そのホテルは、私が、歩いて探したホテルである。
一泊、15ドルである。
より街の中心地に近い、スーレー・パヤーという、仏塔の近くである。

僧侶を降ろして、ホテルに戻った。
社長が出迎えた。

フロントの椅子に腰掛けることを、促された。
私は、まず、丁寧に、お礼を言った。

社長は、コータに、これからも、活動をするなら、私が全面的に、お世話をすると、言ったと、後で聞いた。

それからである、問題は。
私に、車代を、50ドル払えと言う。
英語が聞き取れず、コータから、聞いた。

突然の、50ドルである。

私は、何故かと、コータに、問わせた。
四時間かかっていると言う。

しかし、途中で、合流するはずだった僧侶がいなかったことと、別の車に乗り移るということだったが、それが、どうしてなかったのかと、問わせた。

それには、答えなかったようだ。

兎に角、普通ならば、全部で、80ドルかかるところだと言う。しかし、追加分は、50ドルでいいと言うのだ。

黙っていた私は、日本語で、それが、ヤンゴンの方法かと、言った。
平静に言ったつもりであるが、社長は、コータに、紳士的に、落ち着いてと言ったようである。

続けて、私は、それが、ヤンゴンの方法かと、二度言った。

すると、社長が何か言う。
コータが、20ドルに落ちたよと、言う。

50ドルが、20ドルになった。

私は、場合によっては、50ドル払ってもいいと、思っていた。トラブルを起こしたくないと、思った。

しかし、すぐに、20ドルになるところを、見れば、吹っかけているとしか、思えない。更に、この行定も、始めから、決めていたのではなかろうかと、勘ぐった。

兎に角、この場を、離れたいと思い、すぐに、20ドルを出して、社長に渡した。そして、私は、立ち上がった。すると、朝、私が出した、タンブンの封筒を取り出して、コータに、私が信用出来なければ、自分で、寺に持って行くといいと、言ったらしい。コータは、いや、信用しますと言った。すると、解ったと、その封筒を、受け取った。

部屋に戻り、すぐに、ホテルを出ると、コータに言い、荷物をまとめた。
支援物資が無いので、早い。

フロントに、鍵を置いて、ホテルを出た。
社長は、電話で、話している。
私たちのことかもしれなかった。

すぐに、通りに出て、タクシーを拾い、決めていたホテルではない、別のホテルの名を言った。
あの、僧侶とも、会いたくなかったからだ。

僧侶は、夜の六時にホテルに来ると、言ったからである。

距離を置きたかったのと、今までのことを、じっくりと、考えて、真偽を確かめたかった。

別のホテルは、偶然である。
決めていたホテルの近くの、ホテルで、たまたま、目にしたホテルである。

部屋は、空いていた。
14ドルで、エアコン、温シャワー、朝食つきである。
私たちが、入ると、すぐに、水を持ってきてくれた。
汗だくだったのだ。

フロントの女性は、エアコンがあるが、ここは、停電が多く、それを、承知して欲しいと言う。そして、地図を出して、ホテル周辺の案内をしてくれた。
非常に親切だった。

ところが、部屋は、また、エレベーターなしの、四階である。

その階段が、また、長い。
しんどい。
部屋は、窓がなく、廊下側に窓があるという、不思議な造りである。

兎に角、一息ついて、シャワーを浴びた。
十二時を過ぎていた。

コータに、ホテルの食堂で、昼ごはんを食べると言い、一階に降りた。
朝昼晩と、時間が決めてあり、食事が出来るのである。

私は、シーフードカレーを注文し、コータは、焼き飯を注文した。
暫く、無言でいた。
色々と、考えた。
考えがまとまらないので、沈黙していた。

私のカレーが、運ばれてきたので、食べ始めた。
その間も、無言である。

カレーは、量が多かった。
それに、店員が、注ぎ足してくれるという、サービスである。
途中で、やっと落ち着いてきた。

そこで、食堂の中に、人がいるのが、解った。
男が、挨拶した。
ここの、社長ですと、言う。日本語である。

日本からですね
ええ
ヤンゴンは、初めてですか
はい

それから、その社長と、色々なことを話した。
疑心暗鬼になっていたので、私は、慎重に、彼の話を聞いていた。

彼は、自分の経歴を、簡単に話してくれた。
イギリスでホテルマンの修行をして、その後、日本でも修行したという。品川にある、ホテルだった。

話し好きの方で、色々なことを、教えてくれた。
そして、驚いたのは、デモの時に、軍に撃たれて亡くなった、長井健司さんも、このホテルに泊まっていたという話だった。

一年経つまで、このことは、話さないで欲しいと、日本大使館に言われたと言う。

その時の、詳しい状況を聞いた。

実に、驚いた。

長井さんが、撃たれた場所は、ホテルのすぐ傍である。
翌日、私は、その通りで、デモで亡くなった方々の追悼慰霊を、行った。

どちらのホテルに泊まりましたか
Hホテルです
何か、問題がありましたか
それには、コータが答えた。

彼は、それを聞いて、参考にし、ホテルを、お客様の、居心地の良い場所にしたいと言う。
ここに泊まられる方は、家族の一人だと思い、対応しますと、言った。


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2009年04月06日

ヤンゴンへ 6

昨年五月、巨大サイクロンが、ミャンマー南部、特にヤンゴン付近を襲った。

死者、行方不明者、14万人という、未曾有の被害をもたらした。
生き残りの住民も、多くは、家を失い、何もかも、すべて失った人も多い。

しかし、ミャンマー政権、軍事政権は、何も事を起こさないばかりか、海外からの支援も、入国を許さないという。
南部のデルタ地帯では、今も、井戸もなく、水道も勿論なく、雨水や、池の水を飲む。

それだけではない。
食べ物が無い。
絶望的な状態にある。

ヤンゴン近郊の、サイクロン被害の大きかった場所に行くと、辺り一面は、秋枯れの風景が広がり、ここで、何を食べているのかと、非常に気になった。

政権は、復旧のメドは立ったと、発表したが、それは、単なる世界に向けたパーフォーマンスの言葉。何もしていない。
ただ、市内の被害を受けた所が、自主的に、復興しただけのこと。

私が、二つ目に泊まったホテルも、被害は、酷かったという。
屋根が飛ばされて、表面の、ガラスが、すべて割れた。
建物が、ゆらゆらと、揺れるほどの風だったという。

宿泊客が、比較的少なく、皆、一階に集まり、事の推移を見守っていたという。
落ち着いたかと思うと、更に激しい風が、襲ってきたという。

ただ、ただ、過ぎるのを、待つしかなかった。

であるから、川沿いの、漁師たちの家は、皆、破壊され、流されたという。
私が、支援に行きたかった場所である。

市内でも、被害は、大きかった。

ホテルの社長から聞いた話を、まとめて、書くことにする。

私たちも、グループを作り、支援の手伝いを始めたという。

資金や、食料などを、被災地に持参したという。
だが、それを、続けるうちに、気づくことがあった。
このまま、支援を続けていると、相手側が、駄目になる。

漁師には、船と、網を与えることが必要であり、農民には、牛と、耕す機会を与えるべきだと。そうでないと、彼らは、仕事が出来ず、ただ、貰う生活になってしまう。

支援のあり方を、考えるようになったという。

着のみ、着のままである。
何も無い。
藁と、椰子の葉を使い、簡易の家を作る人は、まだ、いい。それらすら、手に入らない人もいる。

ほとんど、すべてを失った村は、呆然として、何も手につかない状態になった。

そこで、悪い奴らが、登場した。
憐れみ商売である。

特に、欧米人の、寄付や支援など、考えていない観光客の、ツアーに、そのような、すべてを失った村を見せて、憐れみを乞い、寄付を募るという商売である。
その場で、寄付を集める。そして、それを、そのまま、自分の懐に入れる者。

甚だしい者は、わざわざ、村人に、別の場所に建てた、質素な小屋にいてもらい、それを、見せて、金を得る者も、出たというから、驚く。

私が会った、インド系の社長は、即座に、私たちの活動を、商売に結び付けようとした。
次からは、すべて、俺が手配して、ツアーを作ると。

そのために、高僧の存在まで、使い、私たちの、信用を得たかったのか。
それにしても、高僧が言った、政府の許可書を、見たかったと、思う。
ヤクザの組長のような、高僧である。

寺なども、市内の寺は、タンブンが多く集まり、何の心配もないが、その近郊や、デルタ地帯の寺は、タンブンする人もなく、荒れたままになっている寺もある。

更に、疑問に思ったことは、警察が来るというが、市内なら解るが、近郊や、デルタ地帯に、警察が、すぐに駆けつけるだろうかということだ。

人が集まると、警察が駆けつける。特に、外国人が人を集めると、それは、大変なことになる。

確かに、私は、私服の警官というか、政府筋の男を見た。
手錠を持っていた。
市内では、至るところに、そういう、隠れ警察というか、憲兵のような者がいるかもしれないと、思う。

しかし、市内から、外れた、秋枯れの風景が広がる、あの場所にも、警察は、来るのだろうか。
今度は、俺が、支援ツアーを手配するという、インド人の男である。
何か、抜け道があるのだ。
政府の許可というのも、こけおどしのような、気がするのである。

ただ、日本語を話す社長は、矢張り、注目を集めるような行動は、控えた方がいいと言う。

例えば、私が、長井さんが、亡くなった通りで、多くの犠牲者のために、慰霊を行いたいと言うと、花などは、置かずに、ただ、黙祷するのであれば、いいでしょうと、言った。目立つ行為は、警察に、尋問され、その場を解散させられると、言う。

長井さんの、家族も、通りで、花を手向けて、手を合わせると、人々が集い、即刻、中止させられたという。

ミャマンーでは、大半の海外からのボランティア活動が、中止に追い込まれた。
建物を建てた団体も、政府に没収されて、自然消滅したという。

ユニセフや、私設のボランティア団体も存在するが、正規ルートを経てのものである。
それさえも、不確かである。

日本には、社団法人日本ミャンマー協会がある。
そこでは、サイクロン被害の、義捐金を募り、それを、確実に届けるために、ミャンマーの事情に詳しい、ミャンマー日本友好協会を通して、支援を、行っている。

何事も、手渡しが、原則である。

間違って、政府筋の人間を通すと、必ず、搾取される。
望外な、中間手数料などを、取られる場合もある。

兎に角、一筋縄ではいかない、ミャンマーの支援活動である。

ちなみに、ミャンマーと、カンボジアは、国連で、世界最大の最貧国として、位置づけられている。

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2009年04月07日

ヤンゴンへ 7

ヤンゴンのダウンタウンの比較的大きな通りでは、どこでも、路上で物売りがいる。
何から、何まで、売っている。
面白いのは、電話を掛けることの出来る店まである。
国際電話は、掛けられない。国内専用である。

私は、ほとんどを、路上の物売りから、買った。
特に、果物である。どれも、これも、美味しい。
コータは、すいかを食べて、当たったが、私は、全然平気だった。

また、路上での、屋台では、ほとんどの物が食べられる。
麺類は、様々な種類がある。
目の前で、それを、用意してくれる。
ただし、あまり、お勧めできないのは、実に、不衛生なのである。
しかし、それが、当たり前なので、何のことは無い。日本の衛生観念を、失うとよい。

ただし、注意は必要である。
様々な、細菌が溢れている。
今、最も、恐いのは、新型インフルエンザである。私は、予防用に、新しい薬を、持参していった。使用することは、なかったが、持っているだけで、安心した。
コータは、タミフルを、十錠、病院から貰ってきた。

二日目の夜の食事を、私たちは、近くの日本料理屋で、食べることにした。
意外なことに、日本料理の店が多いのである。

さて、どんなものかと、出掛けた。
名前は書かないでおく。

暖簾のかかる店である。
店内も日本風にしてある。

一つ一つの部屋の前にも、暖簾がかかっている。
その一つに、案内された。
従業員は、ビルマの人である。

やや不安定な、日本語であるが、対応も、日本語である。

メニューには、寿司をはじめ、多くの日本的料理がある。
だが、その値段は、高い。

料金を見て、私は、マーボー豆腐定食にした。コータは、鶏肉のソテー定食である。
日本料理屋に来た意味がないようだが、味付けは、日本的である。

支払いの時に、その額は、それ以上の額になった。
つまり、税金と、サービス料が、加算される。

一万チャット近くになった。
つまり、千円である。
ミャンマーでは、非常に高い料金だ。特に、私たちには、である。

女の店員に、尋ねた。
地元の人も、来ますか
はい、来ます
日本人も
日本人も、沢山来ます
と言う。

屋台で、食べると、その十分の一の価格であるから、どんなに、それが、高いのかが解る。

店を出て、ゆっくり歩いて、ホテルに戻る。
路上では、屋台が盛んである。

ある場所に来ると、人だかりである。
私たちも、足を止めた。
どうしたのかと、見ていた。

一人の、ジュース売りの、インド系のおばさんが、何やら、大声で、怒鳴っていた。
一旦、騒ぎが収まったようであるが、おばさんは、興奮が冷めないようである。

コータが、近くの、物売りの若い女に、英語で、声をかけた。
すると、向こうも、英語で、答える。
男同士の喧嘩があり、それを、おばさんが、止めに入ったと言う。

一人の男が、おばさんに、何か言った。すると、おばさんは、また怒鳴り声を上げた。すると、その男は、手錠をポケットから、取り出して、おばさんを、殴りかかりそうになった。と、一人の男が、それを、止めた。

驚いた。
手錠で、殴るという行為である。

私のビルマに対する、イメージが、変わった。
決して、穏やかで、優しい人たちではない。

この街の人々の表情を見ていると、いつも、一発触発なのである。
いつ、何が起きても、おかしくないほど、皆、苛立ちがあるように、見える。
何かに、苛立っているのである。

インド系と、中国系の人が多いが、ビルマ人も、大勢いるはずである。

ビルマというのは、ビルマ人の国ということである。
それが、軍事政権になり、ミャンマーと、国名を、変えた。
要するに、ビルマ人だけではなく、多くの民族がいるということだ。

未だに、赤カレン族たちは、反政府活動を繰り返して、武力闘争を、行っている、地域もある。

それは、以前は、色々な部族があったが、軍事政権が、武力で制圧したり、また、懐柔したりして、今は、一つのみ、残っている。

何かで、締め付けておかなければ、国民が、めちゃくちゃになるということも、有り得る国なのである。
それが、今は、軍である。だが、それをいいことに、独裁政権である。

アウナサン・スチーさんが、先頭に立ち、民主化を求めてから、15年が過ぎる。
民主化は、全く、可能性が立たない状態である。

ヤンゴンでは、第二の民主化運動を、求める声がある。

つまり、それは、アウンサン・スチーさんとは、別の動きである。

以下、私が、聞いた話である。

アウンサン・スチーさんを、支援していたが、彼女は、政権を批判し、すべて、政権に対して、否定する。歩みよりも無い。
政権は、実に悪いが、それでは、アウンサン・スチーさんが良いかといえば、それも、違う。

国民は、5年待った。しかし、何も変わらない。
そして、10年待った。それでも、何も変わらない。
今、15年を経た。それでも、何も変わらない。
もう、国民は、食べて行けない。

軍政府も悪いし、アウンサン・スチーさんも、期待出来ないのである。

共に、足りないものは、経済感覚である。
全く、両者は、経済というものを、理解していない。
今、世界は、経済によって、結ばれている。それに、参加出来ないでいる。
それが、問題である。

ちなみに、ミャンマー軍政を、後押ししているのは、中国である。

私の、実感として、ミャンマーは、果物などが、豊富である。それを、輸出して、外貨を稼ぐことが、考えられないのかと思う。

だが、軍政は、売春を、見て見ない振りをして、外貨を稼ぐ。

そこで、売春の実態を紹介する。
これは、タイで、出版されている、ある雑誌のからの、情報を元に書く。

私は、マッサージをしたいと思ったが、その大半が、ピンク系である。売春がついている。
真っ当なマッサージを受けるとしたら、高級ホテルに、併設されている、マッサージ店に行くべきなのである。しかし、それは、価格が高い。
だが、恐るべきは、そんなホテルでも、売春が、軽々と出来るシステムがある。


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2009年04月08日

ヤンゴンへ 8

ビルマは、近隣諸国にまで、勢力を伸ばした王朝があったが、インドを植民地として支配していた、イギリスにより、19世紀に、ビルマ・コンバウン王朝と、三度の戦いで、勝ちをおさめ、1885年の第三次英緬戦争によって、コンバウン王朝最後のティボー王は、イギリス軍に捕らえられ、マンダレーの王宮から、インド・ボンベイに連れ去られ、ビルマ全土は、イギリスのものとなった。

イギリスは、最初、ビルマを、イギリス領インドの、一州として、インド総督の統治の下に置いた。
その後、1937年、インドから分離し、ビルマ総督が支配する体制になった。

だが、シャン、カチン、チン族などの、少数部族の多い、山岳地帯では、フロンティア・エリアとして、平原部のように、総督の直轄支配地域とはせず、藩王や、土侯などの、封建的権力者を通して、間接的に支配した。

このイギリスの、植民地支配は、後に、様々な問題を生むことになる。
ビルマ平原部と、辺境地域の統治形態が異なるために、住民の一体感が、薄く、独立運動においても、独立後も、両者が、協力体制を取ることが、難しかった。

更に、山岳部では、キリスト教に、改宗する人が多かった。
イギリス人は、仏教からの、改宗を拒むビルマ人より、キリスト教を受け入れ、西洋文明に理解を示す、小数部族出身者の方が、使いやすく、植民地政府の役人として、殖民軍の兵士として、採用する。

それにより、平原部のビルマ人からは、イギリスの犬として、見なされた経緯がある。
インドから、労働者として、ビルマにやってきた、インド系住民と共に、嫌われ者になったのである。

1930年代になると、イギリス植民地政府に対する、農民、労働者、大学生の抵抗が、組織的なものになっていった。

30年から、32年にかけての、ターヤワディ農民反乱、1936年のラングーン大学生ストライキ、中部油田地帯の石油労働者ストライキに端を発し、学生、民族主義的政治団体などが加わり、全国的反英闘争に広がるのである。

これは、ビルマ独立運動の先駆けとなった、愛国心の発露として、語られる。

だが、独立後の、ビルマ連邦を、悩ませたのは、少数部族の、反政府反乱の原因が、この時期に芽生えている。

例えば、取締りは、警察であり、殖民軍である。そこには、少数民族の人々がいた。
鎮圧の対象となった、ビルマ人には、不愉快である。

その逆のことが、日本軍の支配時代に起こっている。
日本軍の協力によって誕生した、ビルマ独立義勇軍は、日本軍政の元で、イワラジ・デルタ地帯を中心とする、下ビルマ一帯で、カレン住民と、しばしば衝突事件を起こした。
独立義勇軍は、カレン人は、親英派であり、逃げたイギリス軍と、密かに連絡を取り、武器を隠し持っているなどの、嫌疑をかけ、日本軍と協力して、カレン村を焼き討ちしたり、主たる者を、殺害した。

カレン族が、独立後の、ビルマ政府に協力的ではなく、逆に、分離独立、大幅な自治権獲得を、掲げて、反政府武装闘争を開始した要因の一つとして、このような、歴史的経緯がある。

今回は、日本軍の支配時代については、省略する。
いずれ、追悼慰霊の旅の、時に、それを書くことにする。

ビルマの地域を理解するには、上ビルマ、下ビルマが、主なる区分けの仕方になる。

上ビルマ、かみビルマは、平原地帯を北から南へ流れるイワラジ河の、上流部分であり、下ビルマ、しもビルマは、その下流地域を言う。

マンダレー、マグエ、ザガイシの、各管区が、上ビルマになり、イワラジ、ヤンゴン、タニンダイーの各管区に属する地域が、下ビルマになる。

上ビルマと、下ビルマでは、自然の様相が、かなり違うのである。

上ビルマは、イワラジ河沿いの地域を除いて、平原部といえ、それなりの起伏があり、山地もある。
下ビルマは、イワラジ・デルタを中心にした、平原が大部分を占める。

気候は、どちらも、熱帯モンスーン気候であり、上ビルマは、雨が少なく、乾燥している。下ビルマは、比較的湿潤である。

上ビルマの、中心は、コンバウン王朝の中心であった、マンダレーである。
マンダレーや、その近郊の、アラマプーラ、イワラジ河をはさんだ、対岸のザガイン、南に下った、バガンなどは、著名な仏教寺院が多くあり、ビルマの人々の、生きた信仰の地である。

下ビルマの中心は、ヤンゴンである。
ダゴンといわれた、小さな漁村が、ヤンゴンと呼ばれるようになったのは、ビルマ人の王が、部隊を率いて、北から攻め下り、刃向かう敵を、すべて滅ぼして海を望む、この地に至った時、敵、ヤンは、尽きぬ、ゴン、と、述べたからであるとされる。

片田舎だった、ヤンゴンは、植民地ビルマの、首都となり、王城のマンダレーを、遥かに凌ぐ大都市になった。

植民地時代は、イワラジ・デルタ地帯で、大規模な、米作農業の開発が行われ、成果最大の、米輸出国となり、デルタ中心地の、パテインや、ヤンゴンは、米輸出港として、名を馳せた。

行政、経済で、ビルマの中心が、下ビルマに移るにつれ、ヤンゴンは、首都としての、機能と、体制を整えてゆく。
上ビルマからも、人々が移動してきた。
中でも、圧倒的に、多かったのが、イギリス領のインドからのインド系住民である。

インド系の人々は、農業労働者や、港湾労働者として、出発したが、徐々に地歩を固めて、地主や、金融業者として、成功する者も多かったのである。

そして、植民地時代の後半になると、ヤンゴンの人口の半分ほどを、インド系住民が占めるようになり、ビルマ人たちは、ヤンゴンは、ビルマの町ではないと、嘆くほどになった。

中国雲南省と、陸続きだった、上ビルマに多かった、中国系住民も、南下して、ヤンゴンなどの、下ビルマに流れて、小売業や、金融業を営む者が、増えた。

その時期に言われた、言葉は、
インド人は金を稼ぎ、中国人は金を貯め、ビルマ人はただ金を使うだけ
である。

下ビルマ、ヤンゴンは、支配者としての、イギリス系住民、商業や金融業で活躍する、中国、インド系住民、そして、ビルマ人、カレン、カチン族といった、先住民族の混在する都市の、様相を示している。

私の見たところ、店を構えているのは、インド系、中国系が多く、路上での、物売りは、ビルマ人が多いように、見えた。

何とも、皮肉なものである。

庇を貸して母屋を取られる
そんな言葉が浮かぶのである。

ヤンゴンから、タイに戻った時、暫く、インド人の顔を見るのも嫌になったほどである。
ヤンゴンのインド人は、一度、釣ったと思うと、いきなり、料金を、吹っかけてくるのである。
そんな、イメージを持ってしまった。

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2009年04月09日

ヤンゴンへ 9

ヤンゴンから、車で、北へ一時間の所に、新しい日本兵の慰霊碑がある。また、南へ、一時間半の所に、昔からの、戦争犠牲者の慰霊碑がある。

今回は、新しい北の慰霊碑へと、考えていたが、変更した。

非常な疲れもあったが、長井さんが、射殺された、デモの通りでの、慰霊と、考えた。知られていないが、多くの人が、特に、僧侶達が、殺されている。

非常に、心を痛めた。
更に、長井さんの、泊まったホテルに、偶然に来たということも、何か意味深いものを、感じた。
この世の中に、偶然は無いという、考え方もあるが、あえて、偶然と言う。

あの、若い僧侶と、会わないと、決めて、変更したホテルである。
まさに、偶然である。

更に、私たちの、足取りを、最初のホテルのインド人社長に、気づかれないようにとの思いもあった。あの、僧侶に次のホテルを、教えていたので、心配になって、変更したのだ。僧侶が、私たちの変更したホテルを教えると、危ういと、思った。

コータに、明日は、通りで、慰霊をすると言うと、心配する。
それで、私は、ホテルの祭壇で、祝詞を上げて、通りでは、ただ、清め祓いのみをすると、言った。

ホテルの社長からも、目立つこと、つまり、花を置いたり、長く祈ったりすると、人が集まり、結果、警察に拘束されて、ホテルの名を聞かれて、警察が、ホテルに来ると、言われていたこともある。

瞬時のうちに、それを行い、何食わぬ顔で、その場を立ち去るということにした。

当日、朝の食事をした時も、社長から、色々な話を聞いた。
それは、社長が話したという形ではなく、この旅日記に、書いている。
どこで、どのように形で、伝わるかしれない。つまり、社長に、迷惑を掛けることを、避けるためだ。

話は、変わるが、このホテルには、ある、ポスターが貼ってあった。
そこには、児童買春は、犯罪です。児童買春ノーと、書かれてある。
つまり、児童買春が、行われているということだ。

それは、中部のタチレクという、タイとの、国境の町でも、そうだった。確実に、児童買春が行われて、日本人も、出掛けていると、聞いた。また、その証拠もあるということも。
これ以上は、書けない。

ただ、確実に、日本人も、お客になっているということだ。

さて、慰霊のことである。
マニラでも、今までにない、体験をしたが、ここでも、今までにない状態を、経験した。

これから、始めるという時に、部屋で、私の両腕が、震えだした。
寒くもなく、何もないはずだが、兎に角、ガタガタと、震えだす。

おかしい。
恐ろしいとも、思っていないのだが、どうしたことだろうか。
私は、実に不思議に思った。
そして、ホテル、二階部分にある、日本で言えば、仏間のような場所がある。仏を飾り、ビルマ人の仏教信仰の、普通の形である。

そこで、祝詞を唱えようとした時、今度は、両足が、ガタガタと、震え出したのである。
これは、急ぎ、祝詞を唱えて、実行すべきだと、神呼びをして、唱え始めた。
すると、震えが、収まり、次第に、体が、普通に戻る。

急いで、通りに向かった。
今回は、花を買い、それを、御幣と、見立てて、祓いにしようと思ったが、通りに出ると、いつも見た花売りがいない。
それで、通りの、木の枝を捜した。

デモ隊が、衝突した交差点に出た時、そこにあった、木の枝を一本折った。それを、御幣として、創り、後で知るが、私は、何と、警察の出先所の、目の前で、太陽を拝し、拍手を打ち、兎に角、四方を清め祓いし、追悼の思い深く慰霊したのである。

そして、すぐに、御幣を懐に入れて、その場を離れた。

離れた所で、コータが写真を撮った。

歩き出すと、日本語で、今、何をしていたのでか、と、男に尋ねられたが、コータが、何もしていませんと、答えた。
しかし、コータが、見ていると、その行為を、知っているような、おばさんなどが、足を止めていたという。

私たちは、すぐ側の屋台の店に向かい、一軒の屋台の店の、椅子に腰掛けた。

そこで、昼ごはんを食べることにした。

麺類の屋台で、それはそれは、不衛生な屋台である。
緬を選び、スープを入れてもらう。
何という名の料理なのかは、解らない。
立ち食い蕎麦の、雰囲気である。

緬を選ぶと、まだ若い男が、手づかみで、それを、丼に入れて、具を入れ、更に、手で少しかき混ぜる。それが、とても、不衛生に見えるのである。その手を、濁った水で洗い、また、緬を取って、丼に入れて、混ぜるという、繰り返しである。

ところが、魚の出汁で作った、スープなので、美味しい。
複雑な心境で、食べた。

私たちは、二種類の緬を食べた。つまり、お代わりした訳である。
地元の人は、スプーンで、それを食べるが、私たちには、箸を渡してくれた。

先の、慰霊の儀での、興奮もあり、食べることに、集中した。

浴衣姿の私は、目立つ。
通る人々が、見て行く。

さて、慰霊の行為について、少し書く。
各宗教には、それぞれの、考え方があり、死者に対する所作も、それぞれ違う。

天国に行くという宗教は、天国に行くということで、死者に対する、慰霊という行為が、薄い。
そして、仏教も、浄土、仏になるという、考え方と、転生輪廻がある。今世の報いが、来世にある。であるから、今世は、前世の報いであると。
あまり、死者に対する、追悼の思いはない。

更に、日本の伝統である、清め祓いという、考え方はない。

ただ、上記の考え方は、為政者には、都合がよい。
現世が、苦しいものなのは、前世の報いであると、信ずれば、為政者は、支配し易いのである。

イスラムのテロリストたちは、死んでも、神の国で、美しい乙女たちに、仕えられると、教えられる。食べ物、性愛もある。

信じさせれば、済むことである。

清め祓いの行為は、日本独特のものである。
それは、自然によって、清められ、祓われてきたからである。

チューク諸島、旧トラック諸島に慰霊に出掛けた時に、その自然の有様に、十分に、清められ、祓われてあることを、感じた。
朝風、夕風の心地よさと、海の美しさは、限りない。

多くの死者の遺骨が、海底に沈むが、実に、自然の力で、清められていた。

それを、古の、神道行為では、人為的にも、清め祓いをする。
想念の浄化である。
霊を清め祓うのではない。想念を清めて、祓うのである。

残像と考えてよい。
その場に、残る想念を、一旦、風にしてしまうのである。
留まる、想念を、引き上げる。つまり、流すのである。

供養するという行為とは、別物である。
あれは、霊に対処する。
霊も、勿論、想念の一つである。しかし、一つの霊に対して、特別の行為は、必要ではない。
それは、その霊の自由である。
好きにすれば、いい。

人間は死んだら、何も無いとする霊は、そのように、なる。つまり、無いものだと、思い込んでいるから、言うべきこともない。
浮遊するものに、関わることはない。

想念は、固まる。ゆえに、古代人たちは、いつも、そこに風を通した。そして、想念を流した。それが、清め祓いである。

私も、それをする。
現代流に言えば、自己満足である。
それでいい。
それ以上の説明は、必要ない。

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2009年04月10日

ヤンゴンへ 10

二人で、四杯の緬を食べて、1000チャット、100円である。

日差しが、どんどんと、強くなる。
三月からは、暑期に入る。そり前は、乾期で、雨期がある。
一番、暑い季節当来である。

三月のヤンゴンの、平均気温は、28,7度であるから、暑さが想像出来る。
ただ、朝と夕は、涼しい風が通る。

ホテルに戻る道で、果物を買う。
ほとんどが、300チャット、30円ほどである。

そこてで、パイナップルを買おうとすると、コータが、まだ、皮を剥いていないものを、と、言う。
四分の一が、250チャットなので、一つは、1000チャットである。

そうすることにした。
若い男は、手早く、皮を削ぎ落としてく。
そして、剥いたものを、一度、水につけようとするので、コータが、そのままと、言う。
その水が、汚いのである。
四分の一に、割り、それをさらに、カットする。

どうも、水につけることが、当たり前の感覚なのであろう。
その水が、濁って、そのまま使い続けているので、非常に不衛生である。

コータは、すいかを、食べて当たったが、それも、水のせいであると、思った。
私は、今回は、何事もなく、過ぎた。

ホテルに戻ると、どっと、疲れが出た。

一日が、一週間過ごしたような、疲れである。
一瞬の、慰霊の行為が、こんなに、疲れることは、今までになかった。

停電なので、電気が来るのを、待って、シャワーを浴びることにする。

私は、タバコをふかして、それを、待った。
二人ともに、無言である。

無意識の緊張感であった。

それは、マニラの、緊張感とは、違う。
マニラは、銃社会であり、いつ、撃たれるかもしれないという、明確な、緊張感。
ヤンゴンは、虚無の緊張感である。
つまり、妖怪である。
突然、ぬらりひょんが、出たり、砂かけ婆が出るという、感じ。

ちなみに、一つの寺院、パゴーに入ると、何ともいい得ない雰囲気がある。

仏の像があるのは、理解するが、その他、よく解らない像が多い。
だが、それらにも、信仰が集まる。
生まれた曜日の、それぞれの、守護の仏がいるというのは、理解するが、その他のものは、何かと、考える。

微妙に、ヒンドゥーや、チベット密教の影響も、受けているのである。

朝早くから、多くの人が、祈りに訪れる、寺の風景を見ていて、信仰のある生活の、美しさと、共に、庶民の信仰には、何か、現実逃避の潜在的な意識を感じた。

私が、感じたことであり、そうであるとは、言わない。

宗教と、軍事政権と、共産主義、全体主義に共通するものは、絶対支配である。
共に、反目しあっても、根は、同じであるから、うまく調整すれば、民を、思うがままに、支配出来るのである。

政治の堕落により、不都合なことが、多くても、宗教は、それを、難なく受け入れさせる力がある。

若い僧侶たちが、自発的に、デモを起こしても、チベットのように、高僧が、連行されて、殺されるようなことがないのは、高僧と、軍政が、つながっていると、見ていい。

私が伺った、高僧は、政府の許可書をもらうと、簡単に言った。
それだけの、力が自分にはあると、見せたかったのかもしれないが、それを、口に出来るということである。

そして、空港で、縁した、若い僧侶も、外国に、頻繁に出られる境遇であるということだ。彼の、友人達は、タイに逃れて、戻らないという。
では、彼は何故、自由な行動が出来るのか。

密告社会でもある。
そんな中で、彼は、自分の田舎の寺の再建のために、資金を集めると、国を出る。
それを、そのまま、信用するには、まだまだ、彼の行動を見ていなければならない。

実に、不透明である。
だから、妖怪が出る。
私も、ヤンゴンで、活動するならば、妖怪になることなのである。

漸く、バタンという音と共に電気がきたので、シャワーを浴びる。

そして、そのまま、ベッドで、休むしかなかった。

本当は、四週間滞在出来るが、私は、三泊四日とした。
予感が当たり、早々に、タイに戻りたいと思った。

明日の朝、六時にホテルを出て、空港に向かう。

それを、フロントに伝えると、実に親切な対応である。
私たちのために、ボーイ二人が、お世話して、五時半に、起こしてくれ、それから、朝食も準備し、車に荷物を積んで、見送るというものだ。

車の手配も、お願いした。
料金も、そこで決めて貰うので、交渉しなくていい。
6000チャットである。

夜の食事のために、外に出るのが、億劫で、ホテルの食堂で、済ますことにした。

ヤンゴンでは、日本料理屋で、一度だけ、マンダレービールを飲んだのみ。後は、一切、アルコールを欲しなかった。
毎日、日本では、酒を飲む私も、全く、飲みたくないのである。

食事の前に、荷物整理をするが、実に、簡単である。
支援物資が無くなると、ほとんど、荷物が無い。
三個のバッグが一つになり、後は、自分のバッグのみである。

買い物をした、ビニール袋を捨てずに、持ち帰る。
日本では、それを、ゴミ袋に使う。

アジアは、ビニールの袋で、溢れている。
これは、大量のゴミになるはずだ。

ミャンマーの時間は、日本時間より、一時間半遅い。
ミャンマーの、朝五時は、日本の六時半である。
タイに行くと、二時間遅くなる。

時々、日本時間を思い出して、体の調子と、合わせてみる。

posted by 天山 at 00:00| ヤンゴンへ 平成21年3月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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