2009年06月01日

何故、バリ島か 1

バリ島は、インドネシアの中でも、特別な島である。
それは、インドネシアは、世界最大のイスラム国家であるということ。

その中で、バリ島は、地場の信仰形態と、ヒンドゥーを混合した、バリヒンドゥーであるからだ。

およそ、二万の島を抱えるインドネシアでは、最も、特徴的な島である。

バリ島の、原住民を、バリニーズとして、呼び、その他は、ジャワ、スマトラ、隣の島、ロクボク島などから、来た人々による。
更に、ホテル経営者などは、実に、幅広く、欧米人、オーストラリア人、日本人、韓国人、中国人などである。

純粋バリニーズは、その精神も、実に少なくなっている現状である。

バリニーズでも、精神的には、バリニーズの伝統を捨てる者もいる。

私は、バリニーズを信頼していた。
実直で、誠意ある人々である。
だが、時の流れか、それらも、次第に、変質してゆく。当然である。多くの情報が、バリ島に入り、伝統的生き方では、生活を、口を糊してゆけなくなったのである。

更に、ゲイカルチャーなどを、見ると、最早、それらを、無視することは、出来ない。
スミニャックという、街は、ゲイタウンとして、機能しているのである。世界から、ゲイが、集う。

そして、インドネシア全土から、集う、レディボーイ達である。
強い、イスラム色の土地では、生き難いが、バリ島では、何とか、やってゆける。
レディボーイ達は、宗教を超えてしまったのである。

バリ島は、日本人には、観光地として、有名である。
神々の島という、キャッチフレーズでの、神秘的イメージを持つ。

しかし、バリ島は、神々の島でも、神秘の島でもない。
神々より、精霊、あるいは、亡霊や、化け物が多く、その芸術も、すべて、外から入ってきたものである。

バリ島の、伝統文化は、欧米人たちによって、味付けされたものである。
勿論、それを、やりこなすバリ人の、才能があってのこと。

ただ、それらが、お金のために、使用されることになると、バリ人も、抵抗しなければならない。

今回、単なる、レストランにて、ガムランと、レゴンダンスを披露しているのを、見て、愕然とした。

例えば、ホテルのディナーで、特別、企画というならば、理解するが、単なる、通りのレストランでの、ガムランと、レゴンダンスは、その、質を、低下させ、更には、見世物に、貶める。

歌舞伎を、レストランで、見せるのに、似る。

バリニーズの、誇りは、次第に、狭くなってゆく。
日本人が、日本人の、誇りというものを、意識せず、更に、そんなものは、どうでもいいと、思うようになるには、バリニーズも、変わりない。

それは、それで、時代精神と、言っておく。

私も、含めて、日本人観光客は、バリ島で、日本が、一時的に、統治していたということは、知らない。
更に、現地の人々の、食料を搾取して、憚らなかったということも、知らない。

そして、更に、戦後保証として、日本が、莫大な金額を、インドネシア、及びバリ島に、差し出したことも、知らない。


多くの、歴史的遺産保護にも、日本政府は、莫大な資金を提供している。

私は、バリ島に拘るつもりは、毛頭無い。
これから、インドネシアの各地、各島の、追悼慰霊を、行う予定である。

しかし、衣服支援をすることによって、得た、関係がある。
路上で、物売りをしている、子供達などである。

ストリートチルドレンという言い方は、少し違う。
彼らは、グループで、生活して、夜になると、生活費のために、路上に出て、手首に巻く、皮織物を売る。

1000ルピアから、10000ルピアである。
10円から、100円で、売り歩く。

うまくいけば、それで、一日、一食が食べられる。
でなければ、二三人の、収入で、一碗の、屋台の、スープ麺を食べられる。

一日、何度、食事をしているのかと、私が、9歳の、ボーイに尋ねると、一回の時も、二回の時もあると、言った。

今回は、彼らの、住む場所に行かなかったが、次回は、彼らの住む場所に出掛けてみるつもりである。


さて、今年は、二月に、バリ島にゆき、帰国して、バリ島再考の旅と、題して、旅日記を、書いた。

今回は、何故バリ島か、と、題して書くことにする。

今回は、初めて行く、サヌールのビーチでの、慰霊と、衣服支援、そして、前回と同じく、クタ地区の路上の子供達への、衣服支援と、クタでの、テロ犠牲者の、追悼慰霊を行う予定である。

すべて、計画通りに、進めることが、出来た。
今回の、同行者は、いつもの、コータと、辻友子である。

三人での、行動である。
それでは、時間の経過を、追って、書き続けることにする。

旅は、成田空港から、始まる。


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2009年06月02日

何故、バリ島か 2

成田空港に、予定より早く、八時半頃に到着した。

新型インフルエンザのことで、心配していたが、なーんだ、少しの人が、マスクをしている程度。

私も、マスクはしない。
機内でも、しなかった。

搭乗手続きである。
問題なし。
ただし、荷物の分量が、三人で、60キロである。それが、65キロを超えた。

結局、60,4キロまで、落とした。つまり、機内に、持ち込むことにした。
それでも、60キロをオーバーしたが、受付のお姉さんが、大丈夫と言う。

機内持ち込みは、ぬいぐるみのバッグと、小さめの、バッグである。

もし、受付のお姉さんが、固い人物なら、とても、苦労することになったと、思う。絶対、オーバーは、駄目という、公務員のような人がいるのである。

三人で、何と、八個のバッグである。

ガルーダーインドネシア航空を使った、格安ツアーであり、更に、早割りであるから、国内旅行より、安い、八日間である。

ちなみに、ガルーダーインドネシアは、テロ対策不十分と言われて、他の航空会社との、提携が無いのである。

この、ガルーダーの飛行機は、落ちないことになっていると知る人は少ない。
それは、もう随分前のことである。

何度か、落ちた。
バリ島にも、落ちた。

そこで、バリ島の霊能者、祈祷師、ルックンパパという、御方に、ガルーダーが、落ちないようにと、お願いした。
それ以来、一度も、落ちていない。

その御方が、亡くなられたら、どうなるか、解らないが、生きている間は、落ちないことになっている。

飛行機が、落ちると、利用者が、ガタンと、落ちる。
タイの、ワンツーゴーが、そうである。
プーケットで、落ちて、百名以上が、死んだ。
それ以来、乗る人が、激減した。

さて、テロ対策不十分な、ガルーダーの良さは、まだある。
特に、連休明けは、空いているのである。

つまり、席が空く。
すると、体を横にして、眠ることが出来る。

私たち、三名、コータと、辻友子は、飛行機の扉が、閉まった段階で、すぐさま、空いている、席に移動した。

そして、のんびり、ゆったりと、三人分から、四人分の席を使用する。
一人分の、料金で、四人分の席である。

ビジネスクラスに乗るより、いい。
帰国の時も、同じく。

それに、ガルーダーの乗務員は、適当に、親切なので、気が楽。
あまり、干渉しないのがいい。

あと少しで、着陸しますよー、などと、アナウンスが、流れるが、煩く、着陸の態勢指導に来ない。
勿論、最低限の、指導はする。

何となく、適当なのが、非常によろしいのだ。

それに、機内サービスは、抜群である。
他の、航空会社よりも、物を多く出すような気がする。

私は、最初に貰った、ピーナッツが美味しいので、トイレに立った時に、あの、ピーナッツありますかと、言うと、すぐに、二袋くれた。

さて、私たち三人は、別々の席で、バリ島に向かった。

不思議なことに、機内サービスの頃になると、目覚めるのである。といより、そのように、暗示を掛ける。
貰える物を、貰わなかった時は、非常に残念である。

私は、朝、お握りを、六個作ってきた。
コータと、辻友子は、成田行きのバス中で、二個づつ食べた。
私は、空港で食べようと、思ったが、一個だけ蕎麦を食べる時に、食べて、機内に持参した。

旅の朝に、お握りを作るという、私は、実に、マメである。

私の、お握りは、とても、美味しい。
今回は、明太子のお握りである。
更に、十穀米の、ご飯である。

大切に、一個を取っておいたが、バリ島、最後の日まで、食べずに、最後に、捨ててきたのが、悲しい。
冷蔵庫に入れて、最後の最後まで、共にしていたのである。

ストリートチルドレンに、これが、日本のお握りだよと、何故、渡さなかったのかと、悔やまれる。

ガルーダーインドネシアは、矢張り、落ちることなく、無事に、バリ島、デンパサール空港に、到着した。

現地時間で、夕方の五時過ぎである。
日本時間では、六時過ぎになる。

バリ島は、雨が降っていた。
スコールというより、梅雨時期のような雨だった。

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2009年06月03日

何故バリ島か 3

雨上がりの中を車が走り、25分程で、クタ地区のホテルに到着する。
はじめての、ホテルだった。
その付近のホテルには、四箇所泊まっている。

二件隣のホテルも、ツアー専門のホテルだ。
顔馴染みの、従業員と、挨拶したり、立ち話をする程になった。

このホテルの、感激は、シャワーが、威勢良く出ることと、朝食のバイキングである。
私は、昼の分も、食べることにして、朝、たらふく食べていた。
実に、賎しい根性である。我ながら・・・

荷物を入れ、着替えて、早速、夕食に出た。

知っていた、店が、二軒潰れていたので、驚いた。
クタは、激戦地である。

ここまで、書いて、最初の夜、どこの店で、何を食べたのか、忘れた。
ただ、酒は、飲まなかった。
飲んだのは、一度だけ、それも、ビール小瓶を、コータと、二人で飲んだだけ。
後は、一切、口にしなかった。

旅先では、酒を飲まない。
飲めないのである。

更に、日本では、微熱続きだったのが、治った。
日本に戻ると、また、微熱が出る。

翌日は、サヌールのホテルの、予約をし、支援物資の、仕分けを行う。
三人で、バッグに、入れ直すのである。

サヌールビーチでの、支援と、海がめの島で、有名な、スラガン島での、支援、そして、クタのストリートチルドレンたちである。

今回、ぬいぐるみは、サヌールの子供達への、挨拶として、持参する。

サヌールの、ホテルは、ゲストハウスに近い、こじんまりとした、一泊、2500円のホテルである。

実は、2000円のはずだが、26ドルと、言われた。更に、三人で、一つの部屋なら、26ドルですよと言う。
しかし、二つの部屋が必要である。

そこで、コータに交渉させて、25ドルにした。

次に、車の手配である。
荷物が多いので、バンが必要だが、250000ルピアである。
つまり、2500円。

ホテルに尋ねても、同じ料金だった。
駄目だと思い、メータータクシーにすることにした。

前々回のエッセイで、私が、メーターを下ろさなかったタクシードライバーに、怒鳴り散らしたことを書いたが、それ以来、タクシーは、すべて、メーターを下ろすのである。

まさか、私の旅日記が、読まれていることはないと思いつつ、望外な料金を、吹っかけるタクシーには、遭わなくなった。

翌日、タクシーで、サヌールに向かったのが、午後二時である。
朝食を、たらふく食べているので、腹が空かない。

普段は、朝食など、ほんの少ししか食べない、食べられない、辻友子も、私と、競うように、食べていたから、面白い。

どうして、こんなに、食べられるのか、しら、である。

それは、バリ島だから。
当然である。

感受性の解放である。

今回は、慰霊の儀に、使用する、日本の国旗を、持参した。
伊勢神宮の、日の丸の旗である。

すでに、テラの会の、活動に掲載しているように、辻友子が、私の傍で、国旗を、掲げていた。

白地に赤丸である。
インドネシアの国旗も、白と赤の、国旗である。

バリ島では、オーストラリアの国旗が、目立つ。
店や、タクシーの中にも、貼ってある。
聞くと、オーストラリア人が、依頼してくるという。

それなら、今度は、私も、日の丸の、シールを作り、持参しようかと、思った。

日の丸は、実に、目立つ。
それを、掲げて道を歩くと、皆々、声を掛ける。

慰霊の儀には、三人共に、浴衣を着たので、更に、声が掛かった。

インドネシアの公立学校では、日本語の選択科目がある。
それは、日本の支援に、応じたものである。
毎年、約、990億円という、大金を、支援しているのである。

学生の、集団から、おはようございます、と声を掛けられた時には、驚いた。

サヌールのホテルに、チェックインして、はじめての、サヌールの大通りに出て、レストランに入った。
コータが、この辺の人は、日本語が出来ますねと、言うと、ええ、ややさん、がーー、と言う。

この、ややさん、とは、何なのか、誰なのかが、私たちの、疑問になった。

サヌールにも、日本人が住んでいると、タクシー運転手に聞いたので、その人のことかと、思ったが、それも違うようである。

ややさん、とは、何かと、尋ねるが、誰も、明確に答えない。

日本語を、学ぶ場所が、ややさん、なのかという、結論に達したが、それでも、謎である。

私たちは、道々、ややさん、と、声に出して、歩いた。
馬鹿みたいである。

一度、ホテルに戻り、夕方のビーチに出ることにした。
その時、子供達への、プレゼントとして、挨拶として、少しの、子供服と、ぬいぐるみを、持参した。

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2009年06月04日

何故バリ島か 4

ビーチの様子を見るために、バッグ二つを持って、出掛けた。
私は、タイパンツ姿で、コータも、辻友子も、浴衣ではない。

慰霊をする場所も、確認したかった。

サヌールビーチは、ホテルが、プライベートビーチとしていて、中々、道が見つからない。ホテルを、通り抜けると、簡単なのだが・・・

ようやく探して、ビーチに出た。

美しい海である。

等間隔で、ビーチに張り出している、防波堤が、また、良い。
そこで、魚釣りをしている、人、子供達。泳いでいる子供達もいる。

物売り、マッサージのおばさんたちから、声を掛けられる。
どこも、ビーチは、稼ぐ場所なのである。

一つの、防波堤に出た。

子供達がいる。
一人の男の子に、しゃがんで、シャツは、必要かと、尋ねる。
男の子は、シャイで、もたもたしていると、隣の友人である、少年が、背中を押すのである。

そこで、私は、シャツを取り出した。
すると、子供達が、一斉に、集まり出す。
穴の開いたシャツを、来ていた男の子にも、渡すと、何と、彼は、その場で、着替えをはじめた。

次々に、少年、少女が、やって来た。

私は、辻友子に、ぬいぐるのバッグを開くように言った。

すると、少年も少女も、皆、ぬいぐるみを、欲しがるのである。
あっという間の出来事であった。

このような、支援の状態が、初めての辻友子も、驚いていた。

男の子も、欲しがるなんて・・・
日本では、こんな、モノ、見向きもされないのに・・・

辻友子の、普通の感想である。

結局、そこで、ぬいぐるみが、すべて、無くなった。
見事に、無くなったので、辻友子も、唖然である。

あらっー、全部出してしまったのーーーと、私。
明日、浴衣を着て、日本人であることを、知らせてと、思っていたが・・・

そして、写真を撮り、砂浜に戻ると、今度は、おばさんたちが、私たちにも、必要と、言う。

私は、それでは、明日の朝、もう一度来ますよ、その時、差し上げますと、言った。
続々と、おばさんたちが、集ってきたのも、驚いた。

ちなみに、ビーチで働ける人は、経済的には、良い人たちである。
ビーチにも、出られない貧しい人々がいる。

だが、暮らしは、楽ではない。
その訳は、後で、書く。

辻友子が、顔を、紅潮させて、こんなんですか、いつも、と尋くので、そうなのーと、答える。

一度、ホテルに戻った。

そして、明日の朝の、慰霊と、支援のための、準備をする。

早速、日の丸を出して、ホテルの部屋の前に、掲げてみた。
すると、従業員が、一々、ナントカコントカと、話しかけてくる。

日本にいても、国旗を見ることは、稀の稀である。

更に、バリ島に、国旗を持って来た日本人は、いないと思う。
それに対して、彼らは、感激しているのである。

だから、朝、日の丸を掲げて、歩くと、道々、皆から、声援を受けた。
更に、三人の浴衣姿である。

キモノ、キモノと、連呼された。

昨日の、防波堤に出て、天に昇る太陽に向かい、慰霊の儀を、執り行う。

釣りの、おじさん達も、凝視している。

バリ島では、祈る生活が、主たる生活の核であるから、何の違和感も無い。

神呼びをして、祝詞を献上する。
そして、この地で、亡くなった方々、更に、バリ島にて、戦争犠牲になった方々に、深く哀悼の意を示す。黙祷である。
祈りの、最高の形が、黙祷である。

そして、祓い清めを、行う。
道端で、手折った、枝に、大麻を、つけて、私の場合は、普通の紙であるが、それで十分通じるのである。

四方を清め、祓う。

三人で、二度、日拝をする。
神送りの、音霊で、お送りする。

今回は、バリ島の香も、焚いた。

日の丸と、御幣で、祓いたまえ、清めたまえと、唱える。

一通り終わると、おじさんたちが、ありがとう、と言う。
そのように、聞える。
一人の、おじさんは、終わった私たちの所に来た。
一緒に写真を撮った。
それを、帰国して、見ると、おじさんは、白いパンツ一貫である。

さて、次に、支援物資である。
一人の人に、差し上げると、すぐに、人が集うので、しゃがんで、一人の女性に、差し上げた。
すると、次から次と、現われる。

今回、女性の物は、辻友子が、担当して、どんな物があるかは、辻友子が、知っている。
辻友子に、任せたが、人が大勢で、私も、加わった。

昨日、約束した女性が、何と、私たちの所に、最初に来なかったと、嘆くのである。

一人一枚と、言いつつ、渡すが、一枚受け取ると、それを、置いて、また、貰いに来るという、おばさんもいた。

結局、終わって、皆さんが、私たちが、差し上げたものを、掲げて、ありがとう、と言う。それを、見て、あらー、あのおばさん、三枚も、持っているよ、何度も来たんだと、私たちは、その素直な、行為に、笑った。

しかし、衣服は、足りなかった。
渡すことの出来ない人も、大勢いたのである。
ホテルに戻れば、まだ、あるが、それは、海がめの島と、クタの子供達の分である。

差し上げる行為というのは、短時間であるが、実に、疲れる。
汗だくになるのである。

それは、気の交換をするからだと、思う。

更に、ビーチに出られない、奥地の人にも、持って行かなければならないと、思ったし、また、次の時は、そうしたいと、決めた。

サヌールでの、慰霊の儀と、衣服支援は、終わった。


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2009年06月05日

何故バリ島か 5

サヌールでも、日本料理の店がある。
見た限りでは、三件あった。

泊まった日の、夜、初めて日本料理の店に入ってみた。
そこで、ビールの小瓶を、コータと二人で飲んだ。コップに、一杯程度である。
それで、十分だった。
その夜だけ、唯一、アルコールを飲んだ。

ざる蕎麦を、注文した。
後の二人が、何を注文したのか、忘れた。

税金と、サービス料で、食事代と、その17パーセント払ったと、思う。
意外に、高い食事だった。

それで、ホテルに戻り、翌日の、準備をして、早々に寝た。

そして、翌朝は、書いたとおりである。

サヌールの予定を終えて、クタに戻る途中、海がめの島で有名な、スラガン島に、立ち寄る。
車の手配は、コータが、前日にした。

バンで、180000ルピアである。
1800円。
最初は、30万ルピアと言われて、何度か、交渉して、成立したのが、最後の車だったと言う。
18万ルピアは、安い。
クタに、行くだけでも、20万ルピアとの、相場である。

さて、運転手さんは、何を思ったのか、海がめを見せるという。
確かに、海がめの島に行くが、海がめを見るためではなく、支援のために行くのである。

ところが、話が通じなかったようで、途中で、海がめの、ナントカコントカに向かっているというので、私は、ノー、アイドント、サイトスィーイング、アイドライク、チャイルド、プレゼント、ゴー、という、変な英語で、話した。

それでも、運転手は、理解しない。

アイアム、ノー、ブレイ。チャイルド、ギブ、服、服という英語が、出てこない。
ついに、コータが、説明した。

それで、運転手は、来た道を、戻ることになる。
一体、どこの、海がめセンターに、連れて行こうとしたのか、解らない。

海がめの島でも、海がめは、見られるのであると、後で、解った。
とんでもない、料金だったが・・・

さて、ようやく、スラガン島に、到着した。
私たちは、声を上げた。

美しい。実に、美しいのである。
三陸海岸に似た風景である。
それより、優しい、緑と、海の青である。

10円ほどの、入場料を払い、島に入る。
すぐに、泳ぐ子供達が、いた。

運転手が、車を止めようとするので、もう少し先に、ゴーと、言った。

日本語と、英語である。

向こうに、沢山の子供達が、泳いでいるのが見える、方向に向かった。
正解だった。

そこで、バッグを開けると、子供達が、集ってきた。
また、大人たち、おばさんたちもである。

一人一人に、サイズの合う服や、ズボンを渡す。
男の子達は、シャイで、行儀よく、自分の番がくるのを、待つ。
ところが、途中から、おばさんたちが、参入してくると、混乱である。

私にも、子供がいる。と、日本語に聞える。

ホント、おばさんたちは、どこの国でも、強い。
女の子が、待っているので、女の子の物を出すと、おばさんたちが、手を伸ばす。

バッグから、勝手に取り出すのを制止しつつ、一枚一枚と、取り出すが、結局、おばさんパワーに、飲み込まれる。

最後の、辻友子が、取り出した、水着まで、おばさんが、取り上げた。
恐るべし。
決して、おばさんが、着れる、水着ではない。

子供達は、手に手に、服を体に当てて、喜んでいる。
それが、救い。

そして、ひと段落すると、私たちに、飛び込みを見せてくれた。
写真を撮る。

ちなみに、学校に行くには、お金がかかる。
入学時には、100万ルピア、約、一万円。そして、毎月、建物費というものがあるらしい。そして、制服代など。
毎月、約五千円程度の、お金がいる。

公立学校は、無料と、聞いていたが、矢張り、お金がいるのだ。
これから、建物費が、無料になり、出来る限りの、子供が、学校に通えるように、政府が、指示しているというが、そのお金が無い子供は、結局、学校には行けない。

その日は、金曜であり、学校があるはずであるが、学童期の子供もいた。

一通りの、支援が終わると、一人のおばさんが、亀を見てと言う。
えっー、亀いるの・・・

と、私たちの、目の前が、亀センターである。
この島の、亀センターというか、村の亀センターである。

折角だから・・・
それでは、一寸だけ、見てと、その建物に、入る。
目の前に、海がめが、泳いでいる。

一人の、おばさんが、私に、海草を渡したので、それを、亀に上げるのだと、亀に、差し出すと、亀が食べる。

それを、三度ほどした。
辻友子も、そうして、海草を、何度か食べさせた。
コータは、トイレに行っていた。

亀の頭を、撫でて、さあ、クタに戻ると、思った時に、一人のおばさんが、20ドルと言う。
えっー、20ドル。
つまり、20万ルピアである。
暴利である。

コータに言わせた。
また、その時、ドルは、車の中のトランクのバッグの中である。

ドルは無い。いくら欲しいのだと、コータが言った。
その剣幕と、支援物資を、我先にと、取ったせいか、おばんさは、ルピアなら、いくらでもいいと、言った。

私は、5万ルピア、約500円を、渡した。
1, 5リットルの水が、3000ルピアであるから、5万ルピアは、それなりの大金である。

それを見ていた、運転手が、憤慨していた。
とんでもないと、言うようだった。

全く、収入が見込めない状態であることは、理解した。
別の場所に、観光客は行く。

ほとんど、旅行会社が、連れて行かないと、客は、来ないだろうと、思えた。
それが、解ったから、5万ルピアを上げたのだ。

タクシー運転手は、走りだしてから、あんなことをして、恥ずかしいと、言った。

この運転手さんは、実に、誠実で、良い人だった。
自分にも、子供がいる。服が欲しいと、言ったが、島の子供達に、上げている時に、我慢して見ていたのである。

スーパーの服は高い。しかし、屋台売りの服は、すぐに駄目になると言った。
二三回洗濯すると、もう、着られなくなると言うのだ。

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2009年06月06日

何故バリ島か 6

クタのホテルに到着して、運転手に、料金を払う。

私は、20万ルピアを出した。
おつりを出そうとしたので、いいです、と言った。
コータが、あなたは、誠実で良い人なので、チップですと、言った。
運転手は、神妙な顔で、頷いた。

次の時に、サヌールの、民家の中に連れて行って欲しいと言うと、大きく頷く。

もう、私たちの、目的が、彼には明確に、解ったのである。

時間は、夕方であった。

しばし、部屋で休むことにする。

後は、本日の夜に、コータが、約束した、ストリートチルドレンに、衣服を渡すことである。
彼らが、出て来るのは、七時過ぎなので、それまで、部屋にいた。

彼らが出て来る通りに、出て、食事をしてもいいと、私は思った。
食事が先か、食事が後か。
そんなことを、考えて、タバコをふかす。

インドネシアは、太平洋戦争時に、日本の統治下にあった。
であるから、色々な島々に、戦禍が残る。
バリ島も、一時期、統治下にあり、その犠牲は、食料調達による、食料不足だった。

ウブドゥの農民は、奴隷のように扱われて、海辺まで、米を運ばされた。

反抗する者は、暴力を受けた。
刀の傷跡が、残っていた老人も、いたという。

その一つ一つを、拾い上げて、記録するものはない。
皆々、忘れたい思いである。

戦争。
平和を、考えるためには、戦争を、理解しなければならない。
何も、攻撃を受けて、死んだという、ことだけではない。
島の人々の生活を、激変させたのである。

私は、インドネシアの島々を、追悼慰霊のために、回る予定である。

忘れ去られた、犠牲者の追悼慰霊を、進んで行う。
今年は、敗戦から、64年を迎える。
もし、64年に渡って、未だに、戦争の様のままにある、霊位がいるならば、それは、実に、哀れなことである。

私は、日本の伝統にある、言霊、音霊によって、ただ、清め祓いをするのみ。
想念の浄化である。
それは、僭越行為ではない。

皇祖皇宗、天照る神の、つまり、日本の祖先の総称により、霊位を覚醒させるのである。

そして、戻られることを、祈る。

簡単に言えば、戦争は、終わりました。
本当に、ご苦労様でした。
どうぞ、故郷、また、靖国に、お戻り下さい。
いや、母の元に、お戻り下さいと、黙祷するだけである。

パプア・イリアンジャヤの、上にあるビアッ島では、二万以上の日本兵が、出掛けて、帰った者は、600名程であり、アメリカ兵も、多くの犠牲を出した、太平洋戦争での、無駄な戦いと、いわれた、激戦地がある。

その他、パラオの、ペリリュー島戦地で、戦った、元アメリカ兵士の手記を読んでいる。
時々、読むのを止めなければならない、程、辛いものである。

いずれ、紹介することにするが、歴史の彼方に消えてしまうのでは、あまりに、彼らの死が、空しい。

バリ島は、きっかけである。

只今は、イスラムが、席巻しているのが、インドネシアである。
バリ島だけは、バリヒンドゥーという、特別地区である。

インドネシアの、イスラム指導者は、イスラム教の教えの強化を計っている。
実は、テロ行為に参加する者、インドネシアから、多く出る。
インドネシアの若者が、聖戦、ジハードに参加しているのである。

更に、インドネシアは、軍事政権である。
一見、そのようには、見えないが、確実に、言論統制する、軍事政権なのである。

ジャワ島、スラバヤから、日本に留学した、学生と、親交を結んだことがある。
その時、インドネシアの政権の、言論統制の様を、聞いた。

留学生同士でも、密告する者があるので、政権の批判は、出来ないというものだった。
更に、彼の父親は、反政権派であり、時々、拘束されるという。

彼の目標は、政権に遠い、日本の企業に勤めたいということだった。

更に、驚くべきは、首都、ジャカルタは、世界最大のスラムがある。
何故、そのように事態になるのか。

一部支配層が、経済を、掌握しているからである。
支配層とは、政治家たちであり、その親族たちである。

これ以上は、危険であるから、書かない。

女漁りの、旅ガイドなどを、のうのうと、書いている者もいるが、愚劣の一言。
貧しい国の、女を漁りに出掛ける男達の、呆れた行状は、どこにでもある。

勿論、貧しい国の女達は、生きるために、逞しく、その、体を使って、外貨を稼ぐこと、否定は、しないし、それも、方法であると、考える。
ただし、許せないのは、児童買春である。

貧しい国の子供達は、その危険にいつも、晒されている。

ストリートチルドレンを見ていると、女の子は、ある年齢になると、姿が、無くなる。
前回出掛けた時は、いたはずの、女の子が、いなくなっている。

そういうことが、多々ある。

インドネシアの、追悼慰霊と、衣服支援が、バリ島から、始まったことが、私の幸いであった。

漸く、イスラム国家の、島々に、出掛ける、心の準備が出来た。

私は言う。
日本には、宗教は、無い。
日本には、伝統があるのみ。

宗教の争いほど、愚かしいものはない。

日本は、このように、死者に対座する、伝統行為があり、私は、それを、行っている。
それは、宗教行為ではない。
そのように、私は、説明する。

つまり、日本人には、異教徒という、観念がない。
すべての、宗教行為を、尊重する。
教えによって、戦う観念は無いのである。

日本人の、この感性が、世界の平和に寄与するのである。
それを、大和心、やまとこころ、と言う。

大いなる和の心である。
ひらがなにする。

おおいなる やわらぎの こころ
である。

本来の、大和魂とは、それを言うものである。

誤った観念を持つな。
天照る、太陽を、祖先の総称とする、民族は、すべての民族を、包括するのである。

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2009年06月07日

何故バリ島か 7

夜の七時を過ぎた。
さて、どうするか。

最初に子供達に逢うか。

三人で、兎に角、通りに出ることにした。
その通りは、ここ、二、三年で、大きく変わった。
賑やかな、街になった。

実は、16年前、私が初めて、バリ島に出掛けた時に、その通り近くのホテルに泊まった。その当時は、荒地であり、何も無かったのである。
それが、今では、立派な繁華街になっている。

コータが、子供達と、約束した場所に、出たが、まだ、子供達が、来ていない。

そこで、近くのレストランで、食事をすることにした。

立ち並ぶレストランの中から、約束の場所に近い、レストランにしたのはいいが、値段が、やたらに、高いのである。

食事を止めて、ジュースを飲むことにした。

日本円で、計算すると、決して高くはないが、バリ島の現地感覚では、高いのである。
こんな高いところで、食べられないと、私は言う。
二人も、そうだ、そうだと、ジュースにするが、ジュースの値段も高い。

ケチケチ旅行であるから、価格には、敏感である。

兎に角、ジュースを決めて、注文。
それを、飲みつつ、子供達を待つ。

私は、バッグに、子供達の分だけを、取り除いていたものを、入れて持っていた。
もう、それで、支援物資は、最後である。
きれいさっぱりと、無くなった。

中々、子供達が、来ない。
子供の声がすると、コータが、見に出た。

ジュースを飲み終わる頃である、見つけたと、コータが言うので、早速店を出て、対面である。

三人といっていたが、男の子と、赤ん坊を抱いた、女の子の、二人である。

道端で、衣服を見せる。
丁度、三着づつ、渡すことが出来た。
男の子には、大き目のものもあったが、彼は、それでもいいと、受け取った。きっと、仲間に上げるのだろう。

男の子は、ワヤンという名で、9歳。女の子は、名前も、年齢も、解らない。赤ん坊は、兄弟なのか。

私は、衣服を渡すと、後は、コータに任せた。

写真を撮って、また、次に来るからと、日本語で言うと、二人が頷いた。


これで、今回の、すべての日程を終えた。
私と、辻友子は、先に、歩いた。
行く先は、地元のレストランで、行き着けの、安くて、美味しい店である。

クタの通りの、店で、ジュースを一杯飲む料金で、その店では、五杯分が、飲める。これで、おおよその、価格が理解出来ると、思う。

コータが、戻って、夕食である。
私は、ステーキを頼んだ。
28000ルピア、280円である。奮発したが、実は、辻友子の、おごりであるから、それにした。
今日は、私に任せてと、言うから、任せた。

しかし、辻友子は、多く、私に任せてと言った。
バリ島の暑さに、頭が、やられていたと思うし、気が大きくなってしまったのだろう。
何せ、一万円が、100万ルピアである。
何となく、金持ちになった気持ちになるのである。

これは、しめしめと、辻友子に、おごらせた。

なんで、私、こんなにお金があるのだろうと、感心していた。
三万円を、両替したと思う。つまり、300万ルピアである。
使い切れないわーーーであるから、なれない人を連れて行くのは、楽しい。

さて、私は、あの、二人の子供達に、非常に興味を持った。
何処に住んでいるのか。赤ん坊は、兄弟なのか。親は、どうしたのか・・・

コータは、女の子のことは、あまり解らないと、言った。女の子は、英語が出来ない。
男の子、ワヤンは、英語が、ペラペラである。
すべて、路上で、覚えたのである。
凄い。
必要に迫られると、覚えるのである。

翌日の、夜、私は、一人で、二人の所に出掛けた。
もう一度逢って話がしたいと思った。

ところが、同じ場所を、行ったり来たりして待ったが、現われない。
そこで、二人の、物売りの少年に、尋ねた。
小学生程度の、少年である。

赤ん坊を抱いた女の子は、どこかと、尋ねた。
彼らも、英語が達者である。
私の方が、怪しい。

知らないと言う。
いやいや、ユーフレンドよー
そう言うと、すぐに、あのホテルの道にいると、教えてくれた。

早速、早足で、向かった。
見つけた。
赤ん坊を抱いた女の子である。

向こうも、私に気づくと、笑った。
ボーイは・・
と、言うと、指差す。
屋台で、ラーメンのような物を、注文していた。

彼は、そのどんぶりを、持って私と、三人で、話し始めた。
私は、一日に、何度食事をするのと、聞いた。
一度、二度、三度と、言うと、首を振る。
一度の時も、二度の時もあると、理解した。

何処に住んでいるの・・・
クタに、住まいがある。皆で、住んでいる。

次に、女の子に、話し掛けた。
その子は、兄弟なの・・・
ワヤンが、答えた。
何と、彼女の子供だと言う。驚いた。
彼女は、いくつ・・・
17歳と、ワヤンが言う。
えっーーー
12歳程度にしか、見えない。栄養状態も悪く、そんな年に見えないのである。

ドゥユーニード フード
食べ物が必要かと、尋いた。
その英語は、思いついた言葉である。

うんと、頷くので、ここで、待っていてと、私は、コンビニに、走った。

パンや、ビスケットなど、5万ルピア分を買った。
そして、彼らの所に戻ると、二人で、ラーメンを食べていた。
一つの、お碗を、二人で食べている。
彼らは、フレンドである。しかし、ワヤンは、彼女の世話をしているようである。

コンビニの袋を渡し、それぞれに、2万ルピアを渡した。
これは、例外中の例外である。
決して、お金は、渡さないと、私は、決めている。

しかし、である。私は、後で、失敗したと思った。コンビニの食べ物は、普段彼らが、食べられるような物ではない、高価なものである。
屋台の、食べ物を買って、上げるべきだった。

後の祭り。
そして、してはいけない、僭越行為であった。

彼らの、傍にいた、おじさんが、次は、いつバリ島に来るのかと、尋くので、三ヵ月後と、言った。そんな予定はないが・・・
おじさんは、ありがとうと、言うのである。

二人にも、次も、逢いに来ると行った。
そして、さよなら、と言い、立ち去ると、後ろから、言葉が聞えた。
おじさんが、二人に、良かったなーと、言っているように、聞えたのである。

この、何とも言えない気分は、たまらない。
これは、私の自己満足である。
ただ、彼らが、人生には、突然、このようなことがあるものだと、おもってくれれば、いいと、思った。

石を蹴ったら、宝くじに当たることもあると、思えばよい。

そして、次の時に、また、逢う楽しみが増えた。
その時、彼らが、少しでも、幸せであればいい。

次の時、私は、彼らの住んでいる家を訪ねたいと思っている。

ストリートチルドレンたちの、溜まり場である。

ちなみに、彼らの売る、手首に巻く皮製の物の、卸し値段を聞いた。
実に、良心的な値段である。
ここでは、それを、バラす訳にはいかないので、書かない。
彼らは、それを、1000ルピア程度で、売る。10円である。
それも、レストランなどに入り、客に、跪いてである。
通りで、売る子は、実に、しつこいのである。生きるために、である。

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2009年06月08日

何故バリ島か 8

ホテル並びに、いつも、行っていた、美容院と、マッサージの店がある。
ママさんと、従業員が数名いた。

今回も、三人一緒に出かけた。
ママさんは、覚えていた。
二度目の、辻友子のことも、そして、その娘のことも、覚えていた。

さずが、この地で、13年の、キャリアである。
クタで、商売を続けることは、至難の業である。

今回は、そこで、実に有意義な話を聞いた。

辻友子は、ママさんに、ネールなんとかを、して貰い、私と、コータは、フットマッサージである。

コータには、娘が、私には、年配のおばさんが、ついた。

三人並んで、ママさんと、話をしながら、である。

何と、ママさんは、ティモール出身だった。
30年以上も前に、バリ島に来ていた。

コータの足を揉む、娘は、姪であり、その母親が、私の足を揉んでいた。
親子で、妹さん、つまり、ママの所で、世話になっていた。

それは、娘の看護学校費用を貯めるためだった。

そこで、なぜ、店に、前ローマ法王の、写真が掛けられてあるのか、理解した。
カトリックなのである。

少し説明すると、ティモールは、大変宗教対立の激しい土地である。
イスラムと、キリスト教である。
イスラムの村に入った、キリスト教徒が、簡単に殺されることも、多々ある。

インドネシアの、他の地域の紛争は、まず、宗教対立である。
更に、イスラム勢力が、圧倒的に強いのである。

更に、ティモールの場合は、まだある。
同じキリスト教でも、新興キリスト教と、カトリックの対立である。
例えば、エホバの証人が、乗り込んで、更に、複雑な対立を生むというようにことである。

こういうのは、手が付けられない。

東ティモールは、独立したが、経済混乱は、まだまだ拡大し、混乱している。
更に、公用語を、ポルトガル語にしたから、更に激しくなった。

そこに、学校を作ると、ある日本の女性歌手がいるが、彼女は、カンボジアにも、学校を作り、広く寄付を集めている。それはそれで、良しとして、建物を、作るということに、意欲を持つという、ボランティアの心には、なぜか、不審を感じる。

建物は、目に見えるものであるから、支援をしやすいということもある。
だが、学校とは、教育する現場であり、そのためには、先生が必要である。
それまで、維持するとなると、大変な事業である。

建物を、作ることは、簡単である。しかし、先生を雇い、維持することは、大変なことであるということ。
更に、あくどい者がいて、学校を建てて、日本から、寄付を募り、現地で、優雅に暮らすという者も、いる。

ベトナムでは、そういう、日本人の男が、現地の人の反感を買い、行方不明になった。
また、タイ、チェンマイでは、日本のNPO団体の代表の男が、世話をしていた、施設の女の子に性的行為を繰り返し、懲役刑である。

寄付をしても、それが、どんなことに、使われているのか、解らない。
もっと悪いのは、善意の寄付が、途中搾取されることである。
その団体も、気づかないのである。
ミャンマーに、その事務所を、作り、政治家を介して、活動を行う団体が、寄付金を、その政治家に、搾取されていたことを知り、撤退した。

私の衣服支援だって、丸投げしての、支援ならば、どうされるか、解らない。だから、手渡しするのである。

さて、ティモールには、日本人の血をひいた人々が多い。
それは、真珠取りに出た日本人たちが、ジャワから、美しい女を連れて、ティモールに来たからだと、ママさんは、言う。
そして、ママさんの、お母さんも、少しの日本語ができるという。

戦争前から、ティモールに渡った日本人たちが、いるのである。

ティモールは、とても、貧しい。
しかし、出稼ぎに出る人は、幸運である。
こうして、ママさんの、お姉さんと、その娘は、ママさんを、頼って、働きに来ているのである。

バリ島から、ティモールのクパンまで、国内線が出ている。
今度、私は、ティモールに行くと言うと、行く前に、寄ってくれと、ママさんが言う。
色々、情報を教えるというのである。

彼女たちは、カトリックかと、尋ねると、そうだと言ったのみで、後は、何も言わなかった。宗教の話は、一切したくないという雰囲気である。
それは、彼女たちの、環境を物語る。

宗教対立で、人を殺すことほど、哀れなことはない。

彼女たちの、母親は、フローレンス島にいて、今、その母親を、ティモールに転居させる準備をしていると、言った。高齢であり、暖かい、ティモールの方がいいと、言う。

同じ緯度にありながら、寒い土地もあるのだと、知った。
勿論、寒いといっても、日本の冬のようなものではない。

辻友子は、その娘に、後で、支援物資から、何枚か、衣服を抜き取り、渡していた。
日本円にすれば、大した額ではない、入学金や、授業料は、彼女には、大変な額なのである。
この場所で、働くことが出来なければ、体を売るしか方法がないのである。

バリ島には、擬似恋愛をして、外国の男に、貢がせるという、凄腕の、娘たちも、多い。
それで、大学を出て、資格を取り、一番給料の高い、公立学校の教師などになる者もいる。

ホント、頭と、体は、使いようである。

足を、よく揉まれると、随分と楽になる。
だが、タイと違い、単なるマッサージの店に入り、後悔することも多い。
技術の未熟な、若い女にやられて、何度も、具合が悪くなった。

しかし、タイと、違うのは、マッサージ店では、ノーセックスである。
決して、エロ行為に及ぶことはない。
それは、バリ島の文化ゆえである。

その手の、マッサージは、サヌールに多い。
その店は、ナンバーがつけられて、分るようになっているという。
ゲイ専用のマッサージ店もある。

さて、ママさんは、よくぞ、このクタの、競争激しい中で、生き残っていると思う。
それは、ママさんの、英語能力も、大きい。
自然に、覚えたものである。
必要に迫られると、人は、覚えるものである。

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2009年06月09日

何故バリ島か 9

ホテルの朝食は、楽しかった。
バイキングである。
好きなだけ食べられる。

レストランのテラスに出て、食事をする。
一番乗りは、私であり、そして、辻友子がやってくる。

一番遅いのが、コータである。

何度も、立ち上がり、料理や、飲み物を取りに行く。

食事のときに、他のお客と、顔を合わせた。
中国の人が多かった。
日本人の、カップルにも、何組か会った。が、話はしない。

帰国日の、朝である。
ホテルの部屋一つを、夜九時まで、利用することにした。
迎えの車は、夜十時である。

ホテルのレストランで、夜の食事をして、そのまま、空港に向かう予定である。

支援物資が無くなり、荷物が、無い。
行きは大変だが、帰りは、楽々である。

本日は、クタ地区のマタハリデパートに出て、買い物をする。といっても、その一階にある、スーパーでの、買い物である。

スーパーの中に、おみやげ物も、売っている。そして、安い。
クタの街中で、売っている物は、高いのである。

私は、蝋燭と、お香を買う。
いつも、そうだ。タイに、出かけた時も、買うのは、それだけである。

それまで、部屋で休むことにした。

一泊だけ、サヌールであるから、五泊したことになる。
ボーイさん達とも、顔馴染みになる。
私は、廊下で、歌ったり、朝日に、拍手を打つので、特に、注目された。
辻友子も、朝の太陽を、拝していた。その拍手が、また、響く。

一度、朝早く、ホテルの前で、大きな声で、長崎の鐘を、歌った。
すると、隣近所の人が、感激してくれた。
更に、ホテルの厨房からも、大きな歌う声が聞こえた。

コックさんが、私に、負けじと歌っていたのだ。
レストランに入ると、コックさんが、私に、手を振る。

ホテル前の、商店のおじさんは、それから、毎朝、私に挨拶した。
そして、毎朝歌ってくれと、言う。
顔見知りが増えてゆく。

着物や、浴衣を着るので、一度で、覚えられるということもある。
誤魔化し両替屋は、私に声を掛けなくなった。

更に、一度、あることで、徹底的に、抗議した通りのホテルは、改装中なのか、営業しているのか、分からない。
どことなく、森閑としていた。
バリニーズも、日本の旅行会社も、巻き込んで、徹底的に、抗議したのである。

その後、ホテルから、営業改善の、親書が、送られてきた。

適当な、ボーイの対応から、部屋の設備の不備、そして、ホテルの付属のマッサージの、ボーイの、エロ作戦対応などなど、である。
マッサージルームで、セックスにまで、持ち込もうとした、ボーイは、日本人の女なら、喜ぶと、思っていたのである。
それに、引っかかった、日本の女も、多くいたと、思われる。

私には、冗談ではなかった。

日本人は、無理やりすれば、抵抗しないという、舐めた態度と、気持ちが、許せなかったのだ。

ということで、今回の、旅日記は、終わる。

出国も、入国も、何事も無く、スムーズ。
インフルエンザの、騒動も、どこ吹く風。
成田では、何事かあるのかと、思いきや。何もなし。

あれは、マスコミの、報道の仕方に問題がある。
あたかも、24時間、厳戒態勢のような、報道である。
健康状態の申告書に、記入して、オッケーである。

実は、私たちは、期待していた。
もしかしたら、無料で、色々な検査を受けられるかもしれないと。
辻友子などは、乳がん検査や、レントゲンまで撮ってもらおうと、思っていた。更に、血液検査で、どこか、悪いところが無いかと。

更に、疑いがあると、ホテルに、国のお金で、泊まれるという、期待。
ホテルに、留まって、しばらく、ゆっくり過ごす。
朝昼晩の、食事も、出るし・・・である。

だが、全く、そんな気配もなかった。
残念。

税関でも、何も聞かれず、はい、どうぞ、である。
私は、国際ボランティアですと、答えを用意していたのに・・・

すぐに、バスに乗り、横浜に向かう。
もう、寝るしかない。

旅は、楽しい。
そして、決して、観光旅行では、味わうことの出来ない、人との付き合いである。
今度は、いつ来るの。
そういわれると、嬉しい。

いつ来るの
えーと、三ヶ月後で
適当に言ってしまう。
次のバリ島行きは、年が明けてからである。

そして、私は、また、年を取っているのである。

あはれとも
気の毒なりと
思はざり
それ定めなり
生き抜くことを

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2009年06月10日

何故バリ島か 追加

サヌールから、戻った翌日の、昼前に、テロ慰霊碑の前で、追悼慰霊の儀を執り行った。

それも、はじめから、決めていたことである。

その場所は、クタ地区の、レギャン通りの、角である。
道が二股に分かれている場所にあった、ディスコだった。

その前に、車が止められ、爆発し、ディスコ客が、被害に遭った。
二百名以上が亡くなった。日本人は、新婚旅行に来ていた、二人である。

モニュメントには、名前が刻まれている。

そこで、私たち三人は、日拝し、清め祓いの祝詞を、上げて、追悼した。
御幣と、日の丸を、掲げた。

その途中で、続々と人が集ってきた。
イスラム教徒や、欧米人である。
オーストラリア人もいた。

あまり、長くその場を占領していられないと、思いつつ、祈った。
キリエレイソン、主よ哀れみたまえ。
アッラーと、三度、唱えた。

不思議だった。
どうして、私の口から、アッラーが、出たのかである。
キリエレイソンは、今までも、出たが、アッラーとは、思わなかった。

しかし、祈りの心は、何も変わらない。

辻友子が、日の丸を掲げていた。
日本人三人が、浴衣を着て、慰霊をしている。ただ、それだけである。

終わると、その場を、すぐに、立ち退いた。
それを見ていた、おじさんが、ありがとう、と言うのである。
道を、歩いていると、ありがとうと、日本語で、声を掛けられるが、おじさんの、ありがとうは、それとは、違った。
私たちの行為に、ありがとうと、言ったのだ。

昼近くの時間を、選んだのは、太陽である。
太陽が、昇る時に、慰霊をする。
つまり、浮遊する霊に、対処したのである。

もし、深夜行えば、万が一、霊的障害を受けることもあり得る。
霊的障害とは、説明するのに、難しい。
感受性である。
そのような、感受性を持つ人がいる。

霊の障りといわれるが、単に、霊的想念に、一時的に、影響される。それは、精神的動揺、不安定さなどである。
しかし、それが、強く出ると、活動できないことになることもある。

太陽が、出ていれば、それを、防ぐことが出来る。
太陽は、目に見える神であると、私は、認識している。

この宇宙に、超人的、人格的神というものは、存在しない。
存在するものは、霊である。

霊的存在のみが、正しい。
その、霊が、神や仏と、名乗るというならば、理解する。

もっと、詳しく言えば、この三次元の太陽は、次元を超えても、存在する。
つまり、多次元の太陽である。
三次元を超える太陽の存在を、霊的太陽と、仮定する。

その、霊的太陽により、霊的存在も、存在する。

太陽信仰を持った、古代人たちは、正しいと、私は、信じる。
太陽こそ、宇宙と、地球を生かすものである。

太陽系というのは、太陽を中心にした、惑星の系列である。
宇宙には、多くの太陽系があると、言われる。

だが、今、私が、生きている太陽系の、太陽は、今、目に見えている太陽である。
ゆえに、私は、太陽を神として、拝する。

日本の伝統は、天照、アマテラスとして、太陽を拝してきたのである。

それを、実在の人物と、混合させたものである。
つまり、太陽信仰を、説いた人物と、重ね合わせて、そのように、お呼びした。

日拝するとは、昔の日本人ならば、誰もが、行っていた。
実に自然な、礼拝の仕方である。

更に、これは、伝統であり、宗教的行為ではないということである。
実に、宗教的に、認識されるが、伝えられた、行為である。

さて、私たちは、レギャン通りの、レストランで、ジュースを飲んだ。
ぼったくりと、言えるほど高い、値段だった。
だが、それが普通の、観光客を相手にする、店である。

従業員が、私たちに、親しげに、声を掛けてくる。
日本人は、上客である。

浴衣姿の私たちと、写真を撮るのである。

それは、それでいいが、二度と、その店に行くことはなかった。
ジュースの値段が、通常の五倍だとしたら、他の料理も、同じである。
少し、小道に入れば、そんな値段の店は無い。

ちなみに、ジュースは、その店では、25000ルピアである。
地元の、店なら、5000ルピア、50円である。
250円の、ジュースは、高い。それなら、日本と変わらない。
だが、観光客には、安いのである。

観光は、お金を使うための、旅である。

今回は、大方、辻友子が、払った。その訳は、書いたとおり。
一時的に、金持ちになった、気分になるのである。
更に、海外の旅をしていると、日本語が、変になる。

聞きなれない、言葉を聞いていると、日本語に影響してくるのである。

辻友子は、テロの慰霊碑の追悼を、明日の朝の早朝にも、したいと言った。
早朝は、朝である。
更に、夜の食事の時は、コータに、自分の皿の、ライスを、コータ君よかったら、この、ライスの白いご飯、食べないと尋ねた。

ライスは、ご飯である。
その他、色々ある。

危険が危ないという、言い方である。

英語と、インドネシア語を、使用すると、更に、こんがらかる。
モーニング、シラマッパギ、おはよう、と、朝の挨拶である。
えーと、何だったっけ・・・
うーんと、
ハーイとなる。

面倒になると、ハーイで、済ます。
ハイではない、ハーイである。

おしまい

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