2009年07月25日

悲しみを飲み込んだハノイへ 10

キエンにとっては、死んだ兵士たちは、影のように輪郭はおぼろながら、生者よりもずっと意味のある存在だった。彼らはいつも孤独で、物静かだった。
死者たちの多くは、目に見える形よりも、音で存在を示すのだった。ジャングルで遺体収集に努めていたMIA捜査隊員たちは、しばしば死者たちの奏でる楽器の音や歌声を聴いたと語っていた。彼らは、ある夜、アセッション・バスの麓の原始林で、老いを知らぬ巨木のざわめきにまじって、誰かがギターを巧みに爪弾きながら歌うのを聴いた。
「ああ栄光の歳月よ、ああ終わりなき苦しみよ・・・・」
名も知れぬその歌の、陰々滅々とした単調なトーンに、その場にいた全員が立ちすくんだ。歌詞も曲も、隊員それぞれの耳に違って聞えたが、夜ごとに聞えるということには違いはなかった。彼らは歌声に導かれてジャングルを歩きまわり、ある日ついに綿布に包まれて浅く埋められた遺骨を発見した。骨はぼろぼろに朽ちていた。そばには手製のギターが、まだ壊れずにころがっていた。
隊員たちの聴いた歌は、たしかに白骨の主の亡霊の歌だったのか。
それは誰にもわからない。だが、次のことは確かな事実だ。班員たちが骨を掘り出し、ちゃんとした墓をつくって埋葬し直したとき、真っ昼間というのに例の哀しい歌声がまた聞えた。それは森全体にこだまするようだった。以後、その歌声を耳にした者は一人もいない。
こういう話は、戦場にはざらにころがっていた。無名の戦死者の一人一人、遺骨の一体一体が怪談の種になった。それらの怪談は、抗米戦争の兵士たちを主人公とする一種の民話となって、真偽にかかわりなく各地に広がっていった。
戦争の悲しみ

朝、五時に起きて、出発する準備をする。
タクシーは、六時まで来るはずだった。
窓から、タクシーが来たかどうかを、確認しつつ、私は、部屋で、休んでいた。

まだ、荷物は、あった。
一つのバッグの衣類は、ホーチミンで、差し上げるもので、それは、帰りの道行きだった。

荷物を下に降ろすと、玄関に、従業員が寝ていた。
それは、夜間の、セーフティのためだろう。
悪いと思いつつ、荷物をまとめていると、彼は目覚めた。
そして、すぐに、玄関のシャッターを開けた。

タクシーは、すぐに来た。
すると、奥から、私たちを、受付した、お兄さんが出て来た。
ありかとうございますと、英語で言う。
また、ハノイに来たら、ここに泊まりますと、私は言って、スィアゲンと、別れた。

朝は、車が空いていた。
街から出るのも、スムーズだった。
街から、空港までの、距離が長いのが、難である。しかし、成田のことを思えば、ましである。

運転手の、お兄さんと、色々と話しをした。
私は、ロンビエン橋の付近のことを、聞いた。
ガイドブックでは、夜間は、危ないので、注意せよとあったので、どういう場所かを、尋ねてみた。

何のことはない。
そこは、女装をした男たちが、集まるという。
えっー
ハノイでも、レディボーイがいるの
います、います
それでは、ゲイは
います、います、でも、タイほどではない

体を売るということ
そうです

聞いてみなければ、解らない、見てみなければ、解らない。
私は、旅をはじめてから、本当に、そう思うようになった。

彼は、ホーチミンに仕事を探して行く、若者のことを、話したが、彼は、ホーチミンに行く気はないと言った。
経済的には、ホーチミンの方が活気があるとは、認めつつ、ハノイの方が、いいという。

コータが、ハノイの町は、きれいだと言うと、ありがとうと、答えた。
皆、自発的に、掃除をしているんですねー
そうです
決め事があるんですか
いや、ないです

本当に、ハノイの街中は、ゴミが少なかった。

空港に到着した。
野原に、突然、空港が現れるといった、感じた。

すでに、15ドルをホテルに支払っているので、彼とは、それで、お別れである。

空港に入る前に、私の目に入ったのは、女の子たち、八名の姿である。
女の子たちは、ペットボトルを集めていた。
どうみても、それは、普通の家庭の子供たちではない。

まず、チェックインするために、急いだが、バンコク行きの、受付は、まだだといわれて、私たちは、カウンターのある、カフエに入った。

そして、私は、コーヒーを頼んだまま、女の子たちと、話をするために、外に出た。

彼女たちは、時々、ばらばら、時々、まとまっていた。

一人の女の子が、紙に包んだ、ご飯を皆に、差し出して、皆が、そこに、手を伸ばして、食べていた。

ハローと、声を掛けると、ハローと、答える。
英語で、話した。すると、ペラペラ英語を話す子がいる。
皆は、友達なの
そうよ
ここで、何をしているの
ペットボトルを集めている
学校に行くの
行く
と、答えたが、さて、本当かどうかは、解らない。
中には、汚れたシャツを着ている子もいる。

だが、悲壮感は、無い、皆、楽しそうである。

そこで、私は、一枚のテーシャツを、汚れたシャツを着ている子に、渡そうと、戻った。
そして、それを持って、その子に、渡そうとすると、いらないと言う。傍にいた子も、拒否の手を振る。

受け取らないのである。
それは、確認済みなので、もう驚かない。
こんな、境遇にあっても、ハノイの精神が生きているのである。

だが、私が、ペットボトルの水を飲んでいると、それが、欲しいと、追いかけて来た。更に、彼女たちは、私が、出国ゲートに向かう時、手を振った。
コータが、教えてくれた。

皆が、私に向かって手を振っていた。
何かが、通じた。

次に来た時は、知らない人ではなくなったので、受け取ってくれるだろうと、思えた。そして、彼女たちの、生活について、もっと、よく聞いてみたいと、思った。




2009年07月26日

悲しみを飲み込んだハノイへ 11

バンコクでは、二泊の予定である。
コータが、タイ語習得のために、二ヶ月滞在する、アパートを探し、更に、学校の入学手続きをする目的もあった。

スクンゥットの繁華街のゲストハウスは、改装工事中だった。
駄目かと、思いつつ、フロントへ。
使用している部屋がある。
ところが、500バーツが、600バーツに値上がりしている。

半分改装、半分は、使用していた。
全く、収入が無いのが、大変なのだろう。

何度も、使っているので、皆さんとは、顔馴染みである。
だが、聞いていないことも多々あった。
今回は、益々、そのゲストハウスの、皆さんと、親しくなった。

まず、フロントのおばさんの娘が、大学で、日本語専攻であり、娘は、日本語が出来るということが、解った。
それで、大変親日なのである。

私たちは、従業員の台所を使っていいですよと、言われた。
そこで、コーヒーなど、自由に飲むことが出来る。

私たちは、早速、コーヒーを煎れて、部屋にカップを持って、飲んだ。
値段が高くなった分の、サービスだったのかもしれない。

荷物は、大幅に減っていた。
支援物資のバッグは、あと、一つである。

それが、何と、矢張り、聞いてみなければ、解らない。

翌朝、ベッドメークに来た、おばさんたちと、話を始めた。
そして、そこには、九名のミャンマー・マンダレーから、出稼ぎに来ている人がいると、知った。
要するに、従業員が、皆、ビルマ人なのである。

彼らの、一ヶ月の給料は、5000バーツである。
それでは、生活することは、出来ない。
約、15000円である。

皆で、部屋を借りて、生活しても、大変な暮らしである。
その中で、お金を貯めて、マンダレーの家に送るとしても、僅かな額である。
それで、一人のおばさんが、チップが、頼りですと、言った。

支援物資の、バッグには、大人物が入っている。
私は、思い切って、衣類はあるが、必要ですかと、尋ねた。
すると、皆、欲しいと、言う。
そこで、九名のために、バッグを開けて、ベッドの上に、衣類を乗せた。
好きなものを、取ってくださいと、言った。

皆を呼びに出て、それぞれが、好きな衣類を取る。

男物が、残ったが、仕事のために、ここに来られないので、彼らのために、貰ってもいいかと、聞かれた。
そこで、それらも、すべて、差し上げた。
すべて、無くなった。
これで、支援物資は、何も無くなった。

私は、一度、マンダレーに慰霊に行きますと、言うと、おばさんたちは、合掌して、そうして下さいと、言う。

マンダレーには、日本兵の慰霊碑が、多くあるのを、皆、知っているのだ。

そして、最後に、一人、20バーツのチップを渡した。そこにいた、六名全員にである。
20バーツは、約60円である。それで、屋台売りの、果物を、二つ買うことが、出来る金額である。

ホーチミンで、差し上げるはずだったものを、すべて差し上げて、ホーチミンでは、慰霊のみを、行うことにした。

どこか、清清しい気持ちである。
これで、また、バンコクでの、知り合いが増えた感じ。

安いゲストハウスは、安い労働力に、支えられてあった。
ここは、コータが、連れ込み宿として、教えられたゲストハウスであるが、私たちは、定宿にしている。
これほど安い、ゲストハウスは、この辺では、見つからないのである。

改装工事が終わって、行くのが楽しみである。
今度は、新しくなった部屋に、泊まることになる。

ハウスの、オーナーから、従業員まで、すべての皆さんに、覚えられた、私たちである。
そして、実に親切である。
24時間体制で、フロントが開いているので、安全管理も良い。

その付近は、アラブ人街も近く、レストランが多い。
アラブ料理も食べられる。
私たちは、インドカレーの店が、安くて、旨いので、気に入っていた。
更に、屋台連合のようなタイ料理の、店があり、そこも、安くて、旨い。

路上の屋台売りの、果物から、とうきび、枝豆、焼き芋なども、10バーツから、20バーツで、買えるという、便利さである。

コータが、アパートを探し、学校の入学手続きをしている間、私は、マッサージを受けて、ゆっくりと、休んだ。
マッサージも、一番安い店である。
フットマッサージが、200バーツである。約、600円で、一時間。
オイルマッサージは、300バーツである。他の店では、500バーツである。

その、いつもの、マッサージ嬢に関する話も、聞いてみなければ、解らないことが、判明した。

そこで、働くマッサージ嬢は、皆、イサーンという、東北地方から出て来た、出稼ぎの人たちである。

見て、解り、聞いて、解ることは、旅の醍醐味である。
そして、彼女たちには、私たちの存在は、衣服を配る人という、イメージがある。
観光ではなく、衣服を配るために、来ていると、知っているのである。

2009年07月27日

悲しみを飲み込んだハノイへ 12

いつも行く、マッサージの店の、マッサージ嬢は、23歳である。
イサーン、東北地方から出て来た。

彼女は、10人兄弟がいて、現在は、四人姉妹で、バンコクに暮らす。
下の二人の姉妹が、一緒の店にいて、一番下の妹が、部屋で、家事をしているという。

これは、コータが夜にマッサージに出て、聞いてきた話である。

その中で、彼女と、コータは、共通の話題である、私の話になった。

彼女曰く、あの人は、よくバンコクに来るのだが、英語も、よく解らないし、タイ語も出来ないのは、どうしてなのかと、聞いたらしい。
彼女たちは、英語など、自然と覚えるものと、思っている。
別に、どこかに、習いに行く訳ではない。
必要に迫られて、覚える。

そこで、どうして、私が、英語も、タイ語も出来ないのかという、疑問である。

コータは、覚える気がないからと、言った。

そして、彼女の、話を聞いたコータは、驚いた。

実は、今、恋愛をしているという。
それで、そのことを考えて、今日は、朝から、お腹が痛いと言った。

誰と付き合っているの
アイルランド人
へー、じゃあ、あまり会えないね
そうなの。こっちに来た時だけ
寂しいね
うん。それに、彼に、会いたいし、来て欲しいと、連絡すると、彼は、君は、僕がいなくても、大丈夫と、返事をしてきたという。それが、ショックだった。

コータは、ところで、彼は、幾つなのと、尋ねた。
63歳
えっーーーーー
彼女は、23歳である。
彼は、63歳、ということは、30歳も違う、と、コータは、驚いた。

部屋に戻ったコータは、私に、危ないと、言う。
彼女は、ふけ専だと。
ふけ専とは、年上が好きなタイプである。

あまり、近づくと、深みに嵌まると言う。どうりで、私の話題を出すというのだ。

つまり、タイ人は、年齢など関係ないということ。
いや、今は、世界中が、恋愛には、年は関係ないのだと。

実は、私は、これからの予定は、パタヤに行くと、言った。
そこで、彼女に、パタヤに行ったことは、あるかと、尋ねると、無いと言う。
彼女が、精々、行くのは、バンコクの王宮のお寺である。

そこで、私は、それじゃあ、今度一緒に、パタヤに行こうと言った。何気なく。しかし、それは、彼女に、非常に大きな、影響を与えたらしい。

今まで、パタヤに行こうと言った人は、いないのである。
コータは、だから、私に、気をつけろ、と、言ったのだ。

要するに、彼女は、ふけ専だから、惚れられる可能性があるというものだった。
私は、笑ったが、それもありかもしれないと、思った。

これは、注意すべきだ。
そして、彼女は、来月、私が、もう一度来ると言ったので、その時なら、パタヤに行けると、言ったという。

あららら、である。
少しの社交辞令など、通じない。

次に行く時は、コータのアパートに泊まるので、マッサージ店から、遠い。だから、行くことはないと、少し安堵しているが、言葉には、注意すべきだと、思った。

常識が違う。

さて、翌日、昼にタクシーで、パタヤに向かった。
通常料金は、1500バーツと言われたが、私は、1000バーツの車を探した。そして、高速料金を入れて、1200バーツで、決めた。

パタヤでは、レディボーイショーを観劇する予定である。

コータの知り合いの、ショー出演の、レディボーイが、私たちのために、半額チケットを用意すると、言ったからである。

世界一といわれる、レディーボーイショーであるから、私も、一度、是非見たいと思っていた。

昔は、おかまショーといわれたものが、今では、世界中から、観劇に来る。
その、歴史は、30年という。

30年続けていて、世界的に成り上がったのである。

パタヤには、その、ティファニーショーと共に、もう一軒の大型、レディーボーイショーがある。観光収入の、30パーセントが、そこから出ると、言われるほどである。

一人の、レディボーイからはじまった、ショーは、見事に、成功した。
最初の、ショーは、三人から、始まったという。

私たちは、テラの会活動の他に、それぞれが、テーマを決めて、調査していることがある。
コータは、タイ、東南アジアの、レディボーイの実態であり、私は、児童買春の実態と、ゲイ関係の、ボランティア活動の有り様である。

更に、トランスジェンダーの問題を深めている。

自画自賛する訳ではないが、私たちは、時間を有効に使いたいと、思っている。折角、出掛けているのである。貪欲に、色々な事柄について、興味を持つことだと、思っている。これは、才能である。

コータは、フクションと、ノンフィクションの形をとった形式で、それらを、まとめている。
新しい表現方法だと、私も思っている。

更に、何度も言うが、見なければ解らない、聞かなければ、解らないということが、旅を通して、実感として、解るのである。

想像力は、現実を見て、聞いてから、逞しくするものだと、思っている。

で、あろうとか、ではないか、という、表現は、使いたくない。
その場に足を運んで、ナンボのものである。

2009年07月28日

悲しみを飲み込んだハノイへ 13

パタヤは、世界最大の安全な、歓楽街である。

更に、トランスジェンダーの天国ともいえる。
実に、包容力のある街。

幾度も、パタヤについては、書いているので、早速、レディボーイショーについて、書く。

到着した、当日の、六時のショーに出掛けることにしていた。
遅い時間だと、私の体が無理だからだ。

ソンテウに乗って、出掛けた。
これは、10バーツで乗れる。
一度、15バーツに値上げしたというが、誰も、払わないので、また、10バーツに戻っていた。

ノースパタヤに、ティファニーはある。

受付に着いた時は、六時だったので、すでに始まっている。
スタッフ用の、チケット、半額チケットで、入場した。
すべてに、一階席は、満席状態である。

私たちの席は、前から、二列目である。
舞台の目の前。

大型の、ショーなどは、何十年振りである。

私が興味を、持ったのは、舞台の作り方である。
つまり、プロデュースーである。

音響、照明、そして、振り付けに興味を持って、臨んだ。

昔、おかまショーといわれた時代は、遠い。
立派なエンターテナーである。

レディーというが、元は男である。
ゆえに、激しい踊りの、振り付けを見事にこなしている。

中には、凄い踊り手がいた。

単なる、見世物ショーではない。
これは、芸術作品である。

舞台装置の、大係りなこと。
更に、次々と、変装する様には、感嘆した。

舞台裏が、とんでもないことになっていると、感じた。
一歩違えば、事故が起きる。

様々な、民族音楽の、アレンジも、良かった。
韓国の、アリランの時には、韓国人が、喝采である。

残念なことは、日本のものがなかった。
それは、理由がある。
中国人や、韓国人から、クレームがつけられるからだ。

また、日本の着物の、気付けをするスタッフがいない、ということもある。

一時間半のショーは、たっぷりと、楽しめた。

外に出ると、すでに、出演していた、レディーボーイが、写真撮影に、立っている。
チップを要求することはないが、チップを、渡す人もいる。

コータは、チップの、相場は、40バーツだというが、私の見た限り、チップを渡している人はいなかった。

子供を抱き上げて、サービスしている、レディボーイもいる。

その、オーナであり、有限会社社長の、方も、レディボーイに扮して、サービスしていた。
実に、気さくに、応じる。

これから、舞台は、次々と、二度続く。
大変な、労力である。
一日、三回のステージである。

コータの友人の、レディボーイに、はじめて、会う。
美しい。

私たちは、着物姿で、出掛けたので、何となく目立つ。

その彼が、いや、彼女が、後で、コータの活動を知り、実は、自分も、HIV感染の子供たちの家に、時々、通い、彼らに、支援しているということを、打ち明けた。
それから、それでは、ということになり、一緒に、やろうということになった。

パタヤから、車で、一時間の町に、その子供たちの家がある。

私は、ラオス行きがあるので、最初は、コータに、子供たちへの、贈り物を持っていってもらうことにした。

このショーに出演するレディボーイの、給与は、一ヶ月、8000バーツである。約、24000円。生活するのが、精一杯の料金である。
そこで、彼女たちは、その後も、仕事をする。

つまり、深夜、別の店で、踊りや、飲み屋の、店員をして、稼ぐ。
健康でなければ、やっていられないのである。

そこまでしても、舞台に出たいという気持ちは、凄い。
中には、三ヶ月の、見習い期間で、諦めて、止める者もいるという。
経済的に、無理だと、気づくという。

パタヤには、後発の、レディーボーイショーの店が、もう一軒ある。
そこも、近くにあり、大型バスが留まり、盛況である。

観光収入の、30パーセントを、これで得るというから、矢張り、凄いことである。

タイ、全土から、レディボーイが集い、更に、トランスジェンダーの人々である。そして、ゲイの人たちと、許容範囲の寛容さが、差別される人を、パタヤは、受け入れる。

タイの、法律に則って、行われるという、健全さである。
そこには、児童労働などはない。
現地の暴力団との関係なと、皆無であり、それらを、一切、受け付けない。

私たちは、帰りのソンテウを探すために、歩いて、ついに、ホテルまで歩いたという、非情。
一時間以上も、歩いてしまった。
ホント、疲れた。

私は、寝るしかなかった。

2009年07月29日

悲しみを飲み込んだハノイへ 14

帰国便は、ホーチミン経由で、成田行きである。
ホーチミンでは、約4時間ほど使える時間がある。

本当は、前回来た時に、回った、街の小路に入り、衣服を手渡しする予定だったが、バンコクで、ビルマからの、出稼ぎの人々に差し上げたので、衣服は無い。

それで、慰霊のみ執り行うことにした。

空港から、クタシーに乗り、サイゴン川の川縁まで行く。

タクシーは、乗車位置から乗るのが一番である。
誘われるタクシーは、ボラレるのである。

と、一人の男が、乗車位置から、声を掛けたたので、安全と思い、乗った。
そして、発車である。
私は、サイゴン川の、船着場を言った。
すると、20ドルというではないか。とんでもない、料金である。

私は、すぐに扉を開けて、降りた。
まだ、車のスピードが遅い時である。
運転手の男が、何か言うが、聞かなかった。
そして、コータも、停止した車から、降りた。

冗談じゃない、私は、大声で言った。

そして、乗車位置に戻り、係官の女性を待った。
少しの間、係官が離れていたのである。

街までの料金を尋ねると、7ドルである。
前回は、5ドルだったが、7ドルに値上げされていた。

そして、タクシーに乗り込む。
ところが、行き先を告げると、また、10ドルというのである。
街中であれば、どこでも、7ドルのはず。

ノーノーノー
すると、運転手が、メーターで行くという。
オッケー
メーターならば、いいと思った。

すると、また、運転手が、7ドルに戻した。

メーターだと、結局、ドル換算すると、5ドル程度なのだ。それを、後で知る。

私は、コータに、英語で、何故、7ドルから、10ドル、そして、メーター、さらに、7ドルとなるのかと、言わせた。

今度は、運転手が、しどろもどろになった。

オッケー、メーターと、私が言う。

結果は、ドンで支払うことになり、ドル換算で、5ドルである。

こういう、事態が疲れるのである。

空港へ戻る時は、矢張り、メーターということで、タクシーに乗った。
その運転手は、何も言わず、メーターで走ったので、私は、お釣りをチップとして、渡した。非常に感謝された。

一概に、ベトナム人云々とは、言えないのである。
人それぞれである。

良い人もいれば、悪い人もいる。

道は、相変わらず、車と、オートバイで、混雑していた。
向こう側に渡るには、決死の覚悟である。

川クルーズの船が多く留まる、岸に出た。

中々、慰霊の場所が無い。
そこで、一隻の、クルーズ船の乗り場が広いので、そこで、行うことにした。

街路樹から、一本の枝を取り、御幣を作る。

準備は、それだけ。
それで、しばし、黙祷し、祝詞を唱える。
風が、変わる。
場の空気が、変わる。

その日、6月23日は、沖縄慰霊の日でもある。
そこで、私は、沖縄にも、想念を向けた。

ゆっくりと、祝詞を唱える。

クルーズ船の乗り場だが、誰も、邪魔する者は、いない。
じっくりと、黙祷して、御幣を川に投げ入れた。

すると、何と、御幣は、すーっと、沈む。
あらっ
あらららっ

前回は、流れたのに。

それに、同じような枝が、流れているのである。
重たいのである。
矢張り、霊位の重たさがあるのである。

沖縄に行かなければならない。
九月に、沖縄慰霊の計画である。

しばし、サイゴン川を見つめていた。
コータが、コーヒーを飲もうというので、その場から離れた。

川縁にある、オープンカフェで、コーヒーを注文した。

濃くて、甘い、ベトナムコーヒーである。

何とも言えぬ気分。
足りないのである。慰霊の思いが、足りない。
もっと、多くの人の、思いが必要である。

霊位は、人の思いを頂く。

カフエに暫くいたが、以前泊まったホテルに近くに向かった。
そこからなら、タクシーも、拾える。
また、顔見知りの人もいるかもしれない。

露天の店の椅子に腰掛けた。
私は、イカを炙ってもらった。
コータは、ビールを注文する。
私は、近くのコンビニに、水を買いに歩いた。水の値段は、コンビニが一番安いのは、ホーチミンも同じ。

物売りが、次から次と来る。相手にすると、一斉に来ることが解っているが、無視出来ない。

一人の赤ん坊を抱いた女が、来た。
私は、一足だけ持っていた、赤ん坊の靴下を取り出し、その子に、履かせた。
周囲の人が見ている。

そして、子供の物売りには、5000ドンを渡す。約、50円ほどである。

シンガポールから来たという、若者と、英語で少し話し、そろそろ、時間だと、別れた。
彼は、綺麗過ぎるシンガポールより、ホーチミンの方が好きだと言う。人それぞれである。

出国もスムーズで、飛行機も、墜落することなく、成田に着いた。

日本の風は、涼しい。

この旅をまた、繰り返すのである。


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