2009年07月15日

悲しみを飲み込んだハノイへ 1

キエンはこの地域をよく知っていた。1969年、彼の所属していた第27歩兵大隊は、ここで敵に包囲されて事実上全滅したのだった。残虐、凄惨、非道といった言葉を絵にしたような戦闘だった。あの不運な大隊で生き残ったものは数人だけだった。
あれは、そう、乾季の終わるころだった。太陽は容赦なく屋根屋根をこがし、風が谷間に吹き荒れていた。
敵はジャングル一面にナパーム弾を投下した。地獄の火だった。炎の海が大隊を取り囲んだ。ちゃちな野戦用の塹壕は、ナパームの火に対しては無力だった。兵士たちは塹壕から出て散り散りに逃れようとしたが、ナパーム弾は残酷に彼らを追いまわした。
大隊長は危険を承知で彼らを塹壕の一角に呼び集め、敵のヘリコプターに反撃しようとした。だが、集まろうとした兵士たちは、炎の中でたちまち方向感覚を失い、多くはコブラ「米海兵隊の攻撃用ヘリコプター」の機銃撃に身をさらして死んでいった。
コプラは木々とほとんど同じ高さで旋回し、逃げまどう兵士一人一人を撃ち殺した。彼らの背中から血が噴出し、赤土のように流れるのが見えた。
大隊長は狂乱状態になった。彼は「降伏するより死ね、お前ら、死んだ方がいいぞ」と叫び、キエンの目の前でピストルを振りまわし、あげくに銃口を耳に当てて自分の脳味噌を吹き飛ばした。キエンは喉の奥で声にならない叫びを上げたが、大隊長の死体にかまっている余裕はなかった。空からの攻撃に続いて、米軍陸上部隊の攻撃が始まっていた。

あとで知ったことだが、米軍はその戦場の一角に焼け残った草木をダイヤモンドの形に刈り取り、そこへキエンの戦友たちの死体を高く積み上げたと言う。全身ばらばらで誰のものともわからなくなった死体。四肢を吹き飛ばされた死体。焼けこげた死体。
これも戦後にキエンが聞いたことだが、その場所の空は数日間、死体を食らおうとするカラスと鷹の群で暗くなった。ナパームに焼かれてジャングルの各所にできた湿地は、二度とジャングルに戻らなかった。一本の木も生えなかった。

戦争の悲しみ バオ・ニン

ベトナム戦争経験者である作者の小説である。現実を、小説の形にして、作品にした、見事な文芸である。
戦争のすべては、事実であり、そこに、ストーリーを、作為的に取り入れた。

ハノイは、北ベトナムの、中心であり、今は、ベトナムの、首都である。

北ベトナム軍は、アメリカを、ベトナムから、追い出した。
あらゆる、悲劇を飲み込んで、戦争に勝利した。
アメリカに勝った、唯一の国である。

しかし、その代償は、大きかった。

まさに、悲しみを飲み込んだ街、ハノイなのである。

前回の、ホーチミン慰霊と、衣服支援の旅日記に、私は、ベトナムの歴史を俯瞰して書いている。
今回は、戦争というものを、見つめつつ、この旅日記を書くことにする。

私は、戦争に反対する。
それでは、戦争のない状態とは、何と言うか。平和と言う。
では、戦争がなければ、平和なのかといわれれば、解らない。

しかし、平和を望むのならば、平和を打ち破る、戦争を知らなければならない。それでは、戦争とは、何か。
私は、戦争を知らない。
では、戦争を知る方法とは、過去の戦争の、記しを見ることである。
そして、戦争後の、その場の様子を見ることである。
さらに、戦争後に、人は、どのようにして、生きるのかということを、見るべきである。

誰も、戦争は、したくない。しかし、戦争は、起きる。何故か。それも、よく解らないのである。

30年前まで、ベトナムは、戦時下にあった。
つまり、私は、ベトナム戦争終結を、二十歳前後の時に、知っているということだ。
そんな、少し前のことである。

実は、上記の、記述は、米海兵隊の手記である、ペリリュー・沖縄戦記の記述にも多く、似たようにある、悲惨な情景である。

戦争とは、人が人を殺すことである。
しかし、単に、簡単に殺すのではない。
こちらが死ぬか、相手が死ぬか、どちらが死ぬのか、皆目検討がつかない状況の中で、起こる、実に、不気味な、そして、実に、無意味な、殺し合いなのである。
そして、その人々は、顔も知らない、全くの他人である。
個人的な、恨みや、憎みも無い。

それだけでも、恐ろしい。

そして、人類は、延々として、その、戦争というものを、続けてきているのである。

人の命が、木の葉のように軽く、扱われている様。
敵兵を、殺して、喜ぶ様を、どのように、理解すれば、いいのか、私には、解らない。

更に、殺した後も、敵の死体を、蹂躙する様。
人の命の、尊厳も何も、無い状態に、ただただ、呆然とする。

殺してからも、その死体の、その人間を、屈辱するために、行う、様々な、虐待である。
人間が、ここまで、残虐になるものなのか。

日本兵が、殺したアメリカ兵の、死体を遊び、ペニスを切り取り、その口に、詰め込む様などを、記されると、絶句する。
さらに、次は、アメリカ兵が、日本兵の死体を、切り刻むという。

一体、そこまでの憎悪が、何ゆえに、芽生えるものだろうか。

つい先ほどまでは、知らなかった人間である。
ただ、敵であるというだけで、どうして、そのような感情が、湧いてくるのか。

戦争とは、何か。

平和を求めるということは、戦争に反対することなのか。
そして、反対すれば、戦争は、起こらないのか。
全く、逆である。
どんなに、平和を叫んでも、起こるべき時には、戦争が、起こる。

さらに、平和を、求めれば、求めるほど、戦争の危険性が高くなる。
つまり、平和を叫ぶということは、戦争を前提にしているからである。
平和を、求めているように見えるが、それは、戦争を引き付けているのではないのかと、私は、考えるようになった。
戦争が、前提にある、平和は、実は、平和でもなんでもない。
平和遊びである。
無意識に、人は、戦争を望んでいるゆえに、平和を、叫ぶとしか、思えなくなった。

もし、本当に、平和を、求めるならば、戦争で亡くなった人々の追悼慰霊にしか、無いのである。

追悼慰霊が、唯一、戦争を回避させる、方法であると、私は、気づくのである。
そう、このような、慰霊を、行わなくても、いいことが、いいことなのであると。


2009年07月16日

悲しみを飲み込んだハノイへ 2

ハノイに出掛ける前に、泊まるホテルを、選び、予約していた。
私が、英語で、予約したのである。
なんとか、通じて、予約したのは、そのホテルが、一回だけ、無料にて、空港の送迎をするというからである。

だが、深夜到着する、ベトナム航空の、時間などが、伝わったのか不安で、コータに、再度電話をさせた。
それを確認しておいて、よかった。

はじめての、土地で、深夜に到着して、タクシーなどに乗るのは、実に危険である。
バンコクは、慣れているので、大丈夫だが、ハノイは、皆目検討がつかないのである。

さらに、ホテル料金は、ガイドブックの二倍の、28ドルである。
ガイドブックの情報は、古くなることが多々あるので、それで、決めた。

KIMURAと、パラカードを持つ男を、見つけて、安堵した。
迎えに来ていた。

タイと、同じく、ベトナムも、日本時間より、二時間遅い。

28ドルもするという、ミニホテルに泊まるのは、はじめてである。
バンコクでさえ、あの、スクンウィットの繁華街のゲストハウスで、500バーツ、約1500円である。

ハノイの街は、空港から遠い。
そして、夜なので、風景が見えない。
車は、次第に、田舎に向かっているように、暗い道を走る。
ホーチミンは、次第に、明るく、街に入るという、感じだが、ハノイは、違う。

ベトナムの首都である。
まさかと思いつつ、不安げに車の外を眺める。
しかし、コータは、大学時代に、一度ハノイに来ているので、平気である。

どんどん、暗くなるけど
大丈夫、街に向かっている、と言う。

車は、立派な日本車である。
運転手は、フリーのタクシーであった。ホテルからの依頼を受けて、仕事をしている。

忙しく、中々、彼女とも会えないと言った。それが、印象的だった。
つまり、仕事があるということだ。

街中に入っても、明かりは、それほどではない。
それに、高い建物は、無い。

北ベトナムの、中心であり、今は、ベトナムの首都であるが、そんな雰囲気は無い。

ホテルまでの道は、くねくねとして、中小路を通り、もう一度、通ることは出来ない、覚えられない道である。

細い通りに入り、ホテルに到着した。
後で知るが、その道も、ガイドブックに載るほど、有名な商店街であった。

フロントの男は、上半身裸でいた。
私たちが、入ると、急いで、シャツを着ようとしたが、私は、いいよ、いいよと、言ったので、そのまま、受付である。

しかし、チェックインをする前に、彼は、さて、何処に観光に行きますか、である。
ツアーの受付をするのである。

いやいや、私たちは、子供たちに、衣服を渡すために来たので、観光はしないと言うと、サンキューと言い、ようやく、パスポートを提示して、受付をする。

曰く、今部屋が、大きな部屋しかないので、そこに入ってください、そして、明日、部屋を、替わります、と言う。

本日のみ、特別扱いという、訳である。

案内された部屋は、五人が泊まれるほど、大きい部屋である。

そして、何と、私たちは、三泊、その部屋に泊まることになったという、幸運。
結局、部屋の移動はなかったのである。

エレベーターがないホテルの二階だったので、それも幸いである。

荷物を入れて、すぐに、食事に外に出た。
ホテル近くで、営業する、地元のレストランに出掛けた。

食べたのは、フォーである。
米の麺の、ベトナム名物である。
その店には、毎日、一度は、フォーを食べに行った。

そして、路上で売る、肉まんを二個買った。

ベトナム、ドンは、前回の時に、残してあったので、両替する必要はなかった。
今回、ドンは、安くなり、日本の一万円が、190万ドンである。
毎日、ドンは、安くなったから、得である。

ここで、整理しておくと、一万円が、190万ドン、千円が、19万ドン、百円が、1万9千ドン、10円が、1900ドンである。

私は、面倒なので、百円、二万ドンとして、計算した。

ペットボトルの水が、3000ドンからある。つまり、150円。
しかし、売り場によって、同じものが、3000ドンから8000ドンまであるから、迷惑である。

観光客と見れば、どこでも、ボルのである。
だから、コンビニに行き、本当の価格を知る。
だが、ハノイには、コンビニが少ない。

水は、安くはないが、他のものは、現地価格だと、安い。

チップの習慣はなかったが、次第に、チップというものの意識が芽生えていた。
チップを要求されるという、事態にも、遭遇した。

部屋に戻ると、すでに、日本時間では、深夜二時過ぎである。
だが、なかなか、眠られないのである。

2009年07月17日

悲しみを飲み込んだハノイへ 2と3の間

この原稿は、2と3の間に、入るものだった。
だが、突然のように、消えた。いや、私が、疲れているのだろうと、思う。書いたのだが、保存をしなかったと、思う。
実は、毎日、微熱が出る。
風邪かと思いきや、熱中症である。つまり、暑い国に出掛けて、慢性的になってしまったようである。
熱中症は、ただただ、水分を補給し、果物を食べることである。か、または、点滴を受けるかである。
私は、点滴の時間が、耐えられないので、水と、果物を食べる。
順番が、交わるが、許していただきたい。



翌日の朝、ホテルのフロントの男から、昼間は、気温が凄く高くなるといわれて、私たちは、朝のうちに、ハノイの街中で、支援物資を手渡してみようと、思った。

まず、男の子に、ミニカーを渡して、手応えをと、考えた。

早速、朝七時過ぎの、ハノイの街中に出た。
ホテルから歩いて、もう、すぐに繁華街である。

ホテルから、数分の場所に、ホアンキムエ湖がある。
そこを通った。
すると、周辺には、大勢の人である。
何をしているのかと、思いきや、体操、太極拳、ダンスなど、自由に、体を動かす人たちである。

この光景は、上海を思い出させた。
15年以上前に、一人で、上海に行き、バンド地区の、川べりで、皆々、太極拳などをしていたのを、思い出した。

さて、のんびりしていられないと、大聖堂を目指して歩く。

まず、物売りの男の子を見つけたので、早速、ミニカーを取り出して、差し上げた。が、その子は、受け取らないのである。
ノーと、言われた。

驚いた。
そんなことは、今までになかった。

次に、父親と、道端で食事をしていた、男の子に、渡した。すると、すんなりと、受け取ってくれた。父親が、サンキューと礼を言う。

次に、母親と、祖母と一緒にいた子に、差し上げるために、ミニカーを出すと、ノーと母親に言われた。祖母も、いらないと、首を振る。

はて、どういうことか。

更に、子供を捜して、渡してみた。
そこで、半々の割合で、貰う子、拒否する子がいた。

どうも、意味が解らない。
その意味は、後で知る。

私たちは、よく、歩いた。

ハノイの街中には、細い小路が、沢山有る。
その一つに、興味半分で入ってみた。

そんな小路の中でも、商売をしている人がいる。
行き止まりまで、歩いてみた。

すると、扉が開いている、建物に行き着いた。
その中に、入る。

雰囲気が違う。
普通の建物ではない。
壁一面に、何か書かれている。

人の名である。
なんだろうと、奥まで入る。
写真がある。焼香台がある。
つまり、納骨堂か・・・

いや、単なる納骨堂ではない。
戦死者である。皆、戦争で亡くなった人である。

そういう建物が、ハノイの至るところにあることを、後で、知る。

私たちは、そこから出て、元の場所に戻った。
くるくると、回ったような感じである。

それから、また、街中に入って、歩いた。
矢張り、受け取る子と、受け取らない子がいる。

不思議だった。
私の格好は、和服ではない。タイパンツを履いていて、単なる、おじさんになっているのであるが・・・

二人の子供を連れた、母親と、出会った。
そこで、ミニカーを出して、プレゼントというと、母親が、受け取ってくれた。

一時間ばかり歩いて、何となく、解ったような気がした。

子供だけがいる時は、受け取らないのである。

つまり、子供の判断では、駄目なのである。
傍に、大人、親、祖父母などかいて、了承しないと、子供は、受け取らない。
更に、ハノイの人は、人見知りである。

または、疑い深いのかもしれない。

人生には、そんな、上手い話はないのである。
それは、ベトナムの歴史を見れば、解る。
そして、長年の戦争である。

人を疑うのが、当たり前である。
ベトナム人は、ベトナム戦争で、同じ民族が戦ったのである。

当然、そういう気質が出来るだろう。

私たちは、随分と歩き、ここでの、支援は、難しいと、思った。
どんなに、貧しく、欲しくても、長上の許しがなければ、受け取らないのである。
それは、また、儒教の影響であろうか。

昔のベトナム文化は、漢字の文化であった。
何せ、中国の統治が、千年も続いたのである。

次第に、気温が上がる。汗ばむのから、汗が出るようになった。
そして、どんどんと、車と、オートバイの数が多くなる。
いよいよ、街が、活気付いてきた。

2009年07月18日

悲しみを飲み込んだハノイへ 3

翌朝、朝食をとっていると、昼間は、非常に暑いということで、それでは、朝のうちに、行動したいと、街中に出てみることにした。

ちなみに、予定としては、明日、追悼慰霊を執り行う予定である。
場所は、ロンビエン橋である。
ベトナム戦争の際に、もっとも、利用され、攻撃を受けた橋である。
今は、鉄道が走る。
何度も、修理が行われて今に至るのである。

ただ、ハノイに到着してから、随分と体が重いのである。さらに、心も、何か、沈みがちである。不穏な空気が、漂う。

朝早く、街に出た。
すでに、人々は、活動をはじめている。

持ち物は、挨拶程度の、ミニカーである。
街の男の子たちに、手渡し、その反応を見るもの。

ところが、驚いた。
最初の、物売りの子に、差し出すと、ノーと、言われたのである。
予想しない、反応に、納得しない。

母親と、おばあさんと一緒にいた、子に差し上げる。
すると、母親も、おばあさんも、喜んでくれた。
ホッとする。

しかし、また、断られる。
道端で、父親と一緒に食事をしていた子に、差し出すと、受け取ってくれた。

おおよそ、半分が受け取り、半分が、受け取りを拒否する。

今までにない、反応に、少し、たじろいだ。
親からも、ノーと言われることもあった。

何故か。

知らない人から、物を貰うな、である。
そして、物を貰うという判断は、親、大人の、許可がいるのである。
これは、儒教の教えである。

ベトナムは、千年に渡り、中国の支配を受けた。そして、その後は、フランスの、統治である。

戦争後、はじめて、ベトナムは、独立国家として、成った。
まだ、30年を過ぎたばかりである。

人の哀れみは、乞わない。
毅然として、姿勢を保つ。
そして、戦争に勝った国としての、誇りである。
ベトナム語の発音のゆえもあるが、背筋がまっすぐ通っている。

一時間ほど歩いて、本当に疲れた。
探りを入れつつ、手渡してみるのである。
拒否される時は、駄目だと、思う。

ハノイでは、支援をするのが、大変難しい。どんなに、欲しいと思っても、いらない、ノーという人がいるのである。
矜持、プライドである。

それを、まざまざと、見せ付けられて、私たちは、どこまで歩いたのか、解らなくなり、街の、コーヒー屋に入り、休んだ。

15000ドンのコーヒーである。
ベトナムコーヒーは、濃い、そして、苦さの中に、甘さがある。
最初、コータが、ミルク入りを注文したが、甘すぎる。
私は、コーヒーのみを、注文した。

それに、お湯を足してもらう。
兎に角、美味しい。

大勢の街の人と共に、コーヒーを飲んで、私たちも、町の人になる。
着物を着ていても、別段、騒がれないというのも、ハノイらしい。
結果的に、気が楽である。

居場所が、分からなくなったので、タクシーに乗ることにした。
タクシーに、二種類ある。
ミニタクシーと、普通タクシーである。
料金は、メーター制である。

初乗りが違うが、使い方を考えて乗るといい。
中距離は、普通タクシーがいいが、短距離は、ミニタクシーである。

ホテル近くで、降りた。

ホテル付近の様子を、何度も頭に入れた。
込み合っている街の中であり、非常に、紛らわしい道々である。

部屋に戻ると、異常な疲れである。

コータが、今までにないことを、言う。
今日、慰霊をしましょう、と、言うのである。

慰霊は、明日する予定である。

どうした
いや、何か、慰霊をした方がいいような・・・気がする、と言う。

私も、同じだった。

ベトナム戦争と、言うが、それは、実に複雑である。
アメリカとの、戦いは、第二次インドシナ戦争である。

サイゴンに、樹立した政権は、アメリカの傀儡政権であり、反共カトリック勢力指導者、ゴー・ディン・ジェムを大統領とするもので、ベトナム共和国政府を擁立した。

その結果は、北緯17度の暫定軍事境界線で、南北に分断された。

南の、ジェム政権は、ジュネーブ協定が予定していた、1956年の全国統一選挙を、拒む。
旧ベトナムの人々、反対勢力を、すべて武力で弾圧し、住民の八割を占める仏教徒を、露骨に差別する。
ベトナム労働党は、60年、平和的手段による、南北統一を諦め、ジェム政権の武力打倒を目指す、南ベトナム解放民族戦線を結成した。

第二次インドシナ戦争である。

これを、多くの人、ベトナム戦争と呼ぶ。
対米戦争である。

解放戦線は、多くの住民の共感を得て、ジェム政権を窮地に、追い込む。
さらに、63年、ジェム政権は、軍上層部のクーデターで、崩壊する。

すると、アメリカは、サイゴンに、次々と、無能な、軍事独裁政権を擁立し、それでも、敗北が必至とみると、65年に、直接軍事介入に、踏み切るのである。

南への、地上軍派遣と、北への継続爆撃である。

さらに、である。
タイ、フィリピン、オーストラリアなどの、アジア、太平洋地域の、米同盟国がアメリカ側に立って参戦する。
日本も、非参戦の西側諸国も、物心両面で、アメリカを、全面的に、支援した。

この戦争で、米軍の使用した、弾薬は、第二次大戦の、2,5倍の、爆弾だけでも、住民六人に、一トンが、投下されたという。

ベトナム全土は、枯葉剤を含む最新兵器の実験場となり、地形が変わるほど、焦土と化した。

南の農村と、海岸都市は、おおかた壊滅した。
南北住民の半数以上は、戦争難民となり、軍民の死者は、推定300万人、別の調査では、400万人以上である。
行くへ不明は、今なお、30万人。
アメラシアン、つまり、米越混血児は、30万人。
韓越混血児は、1万人。
売春婦は、サイゴンと、その周辺だけで、人口の一割を超える、40数万人である。

それだれではない、悲劇は、続く。
その後、米ソ、中ソの、二重冷戦を背景とする、第三次インドシナ戦争、ベトナム・カンボジア戦争、中越戦争、カンボジア武力紛争が、待ち受けていたのである。


2009年07月19日

悲しみを飲み込んだハノイへ 4

こいつは若い。カトリック右派が、どういういきさつでアメリカの傀儡政権の前衛集団になったかなんてことは知るまい。そういう役割がいかに売国的であるかということもわかるまい。こいつは何も知らんのだ。歴史を知らんのだ。知らぬままに、つまりだまされて、コマンドーなんかになって・・・三人もの娘殺しを手伝って・・・馬鹿! 哀れな奴!
歴史の中に住む人間に、歴史をあるがままに認識することはむずかしい。歴史生成の現場を見なかった人間には、それはますますむずかしい。嘘の歴史を教えられればなおさらのこと。こいつも、まあ、言ってみれば歴史の犠牲者には違いないが・・・・
だがキエンは、この若者も許す気にはなれなかった。若者の無知に、むしろ最大限の怒りを覚えていた。彼はその若いカトリックの男を冷たくつき放した。
戦争の悲しみ バオ・ニン

ハノイでの、支援物資の手渡しが、大変であるということを知り、部屋に戻って、今までにない、疲れを感じた。
後で、受け取らない意味を知るが、それが、まだ、解らない時であるであるから、疲れが倍増する。

更に、重たい気分である。

計画、変更。
よし、今日、追悼慰霊をしよう。
その場所は、日本で、決めていた。

ホン川にかかる、ロンビエン橋の上である。
ハノイと、ロンビエン地区を結ぶ橋は、北ベトナム軍の補給路だった。爆撃のたびに、補修を繰り返し、最後まで、橋は、生かされた。ベトナム戦争を勝利へ導いた、陰の立役者である。しかし、その被害も、甚大である。

下に川が流れるのは、慰霊に最適である。

更に、衣服を持って行く。
慰霊を終えて、差し上げる人がいれば、それを、実行する。

その日は、雨模様であり、曇り空である。
雨の上がるのを、待ちつつ、用意する。

これも、偶然であるが、実は、雨が降る前に、とんでもない、雷が、何度も落ちた。
最初は、その音に、ベッドから、飛び起きた。

どこかで、爆弾が破裂したのかという、大音響である。
それから、しばらく、雷が、響いた。

一度、朝早く、ハノイの街に、出てよかった。

雨は昼過ぎまで、続いた。

雷の音を聞いて、更に、今日の慰霊が、良いということを、感じた。
そのためな、来たのである。

三つのバッグを用意し、慰霊の準備をして、外に出た時は、雨が上がり、空には、しかし厚い雲が覆う。

タクシーを拾い、ロンビエン橋へと向かう。
そこには、バスターミナルもあり、市場もありと、人の流れかが、すさまじいばかりの、場所である。

10分ほどで、到着したが、今度は、橋の上に向かって、歩かなければならない。
更に、橋の上を、また、歩いて、慰霊に相応しい場所まで、歩く。

勿論、だらだらと、汗が流れる。
浴衣が、汗に浸る。

ロンビエン橋は、鉄道が通り、その両側を、バイク、自転車、人が通る。
しかし、いつ、落下してもおかしくない、恐ろしい、橋である。

丁度、中間に、慰霊すべくの、広い場所があった。
木の枝の一本を折り、御幣を作る。

そして、太陽を拝する。
と、薄日が差した。
まさに、ここにいる、というべく、太陽が姿を現す。

言霊、音霊による、清め祓いを、執り行う。
更に、御幣で、四方を祓う。

最後に、多くの死者の霊位に、私の慰霊の意志を伝える。
つまり、黙祷である。

更に、僭越ながら、引き上げたまえと、この地に、囚われる霊位を、引き上げて頂く。

おおよそ、20分程度の時間である。

すべてが、終わると、何と、太陽には、薄雲が、幾重にも、かかり、その姿を隠すのである。

執り行っている最中に、バイクが、接触して、転倒した。
私の行為を、見て走っていたのだろう。
怪我はなかったから、良かった。

浴衣を着た、日本人が、一体、何をしているのかと、疑問に思うのは、当たり前である。

さて、私たちは、元来た道を、戻った。

その途中である。
下を見ると、橋の、下に、長屋建ての、住宅のような建物があり、その真ん中あたりに、親子三人がいた。

手を振ると、手を振る。
そこで、私は、ぬいぐるみを取り出して見せ、今、そちらに行くと、身振りで、示した。
彼らの、笑い声が聞えた。

そこまで、行くのが、また、大変である。
橋を降りて、広い道路に出て、市場の中を越えて行くのである。

私たちの出掛けた時間は、市場が終わって、皆、休憩をしていた。
さて、どの方向なのかと、歩く。
迷いつつ、歩く。
行き止まり。
また、戻って、あの、建物のある場所に向かう。

2009年07月20日

悲しみを飲み込んだハノイへ 5

橋のもと来た道を、戻り、またバスターミナルに、下りる。

手を振っていた、親子の家に、向かうために、市場に出た。
市場は、朝が、勝負で、その頃は、皆、休憩時間、あるいは、後片付けをしていた。

雨にぬかるんだ道を、あっち、こっちと、歩いて、親子のいた、方向を探す。

次第に、その場所に近づくと、匂いが強くなってゆく。
何の匂いなのか、解らないが、兎に角、鼻を突く。

スラムのように、立ち並ぶ家々の前に出た。
更に、その奥に向かう。

ようやく、コンクリートで出来た、長屋に出た。
それは、コンクリートで、長く建てられたもので、ただ、その中が、コンクリートで、仕切られている家だった。

まず、豚がいた。
家の前に、豚小屋があるのだ。
匂いは、そこから出ていた。

更に、奥に行くと、親子がいた。
手を振っていた親子である。
母親と、男の子、女の子である。

私は、早速、ぬいぐるみを、取り出した。
それを、素直に、喜んで受け取ってくれた。

母親に、衣服は、必要かと、衣類を取り出した。
母親は、頷いた。

そこで、私は、二人の子のサイズを、取り出して、渡した。
その間に、子供が、他の子供たちを、呼びに行っていた。
次から次と、子供たちが、出て来た。

その子供たちに、それぞれ、ぬいぐるみを渡した。
ここでは、抵抗なく、受け取ってくれる。

その間に、母親たちも、出て来た。
そして、いよいよ、衣服支援である。

皆、必要だと、言う。
私が取り出したものを、それぞれが、受け取る。
どんどんと、人が集まって来た。

私たちは、少しずつ、奥へと、入り込んで行く。
大人物も、取り出した。すると、それを、次々と手を伸ばして、受け取る。

どんどんと、奥へ入った。
皆、外に出て来た。

子供も、出て来る。
何か、お祭りのような騒ぎになった。

バッグに入っている物を、次々と、取り出すと、それぞれが、何か言いつつ、手を伸ばす。文具が出た時に、一人の母親が、何か言う。きっと、私には、子供がいて、勉強に必要だというようなことを、言っていると、感じた。

奥の最後まで、入った。
その先は、川である。

そして、再度、道を、戻った。
すると、一人のおばあさんが、出て来た。

何と、おばあさんが、出て来ると、皆、静かになった。
私は、おばあさんにと、バッグから、衣服を取り出した。
その時は、誰も、私の傍に来なかった。

おばあさんに、手渡すと、おばあさんは、何か、丁寧に、私に話し掛ける。
それは、何とも、威厳のあるものだった。
それで、理解した。

ここでは、目上、長上に対しては、絶対的、権威を、認めるのだと。

おばあさんは、すべての、インドシナ戦争を体験しているであろう。
言葉が、通ずれば、色々と話を、聞きたかった。

おばあさんの言葉が終わると、一人の若い男が、出て来た。
そして、私にも、何か、くださいと言う。
そのように、感じた。

そこで、彼に合うものを、取り出して、差し上げた。

すると、また、皆が、私に、近づいて来て、色々いと、バッグの中身を、探る。
必要な物を、探している。

私は、汗だくだった。
そろそろ、バッグも、空になってゆく。
もう、何も無いという、状態になり、皆が、落ち着いた。

私たちは、写真を撮った。
子供たちは、とても喜んでいる。
何か、特別なことが、起こったのである。
信じられないこと。

そう、私も、信じられないことである。
まさか、ハノイにて、このように、衣服を手渡すという行為である。
一体、一年前までは、考えてもいなかったことである。

最後に、手を振り、皆と、別れた。
また、来ますねと、言う私。

彼らは、何事が、起こったのかという、戸惑いもあったと、思う。前触れ無しの、考えられないこと。
それは、彼らの今夜の話題になるだろう。

私たちは、支援を終えて、元の道を、戻った。
ベトナム・ハノイの、衣服支援の様である。

2009年07月21日

悲しみを飲み込んだハノイへ 6

三日目である。
私は、一日、ハノイの街を楽しみ、ゆっくりとすることにした。といっても、ホテルで、休んでいる時間が長い。

コータが、バッチャン村という、陶芸の村に、支援物資を持って、出掛けたいというで、許した。

その、バッチャン村は、陶芸で有名であり、彼が、通った高校が、有田焼で有名な土地。そこで、興味もあり、出掛けたのである。

朝食をとって、すぐに出掛けた。

私は、のんびりと、過ごした。
まず、水を買うために、やや、遠いコンビニに出掛けた。
近くでも、水は、売っているが、高いのである。

3000ドンの水が、ところにより、8000ドンまでの、幅がある。

ゆっくりと、ハノイの中心街を歩く。
人で、賑わう街である。
道端の、屋台では、多くの人が、食べている。
その一つ一つを、興味深く見て回る。

東南アジアでは、多くの人、屋台で、飯を食うのである。
それは、実に、安い値段である。
毎日のことであるから、安い値段だから、食べられるのである。

だが、旅行者は、注意しなければならない。
それは、水である。
すべて、現地の水で洗う。それが、危ない。

付け合せの、野菜は、現地の水で洗うので、結果、下痢になったり、酷い場合は、食中りであり、もっと、酷くなると、食中毒である。

コーヒーなどは、一度沸騰させたものなので、安全である。

要するに、生のままの野菜を、現地の水で洗うという行為が、一番危険なのである。

果物も、現地の水で、洗われると、危ない。
だから、出来るだけ、買う場合は、その場で、切ったものを、買う。

魚介類も、美味しいが、屋台により、危険度が増す。
一度、煮たものを、焼いたりするのはいいが、ただ、焼いたものは、危ない。

熱いスープの麺類も、食中りすることがある。
それも、生野菜である。
麺の中に、生野菜を入れる習慣がある。半生の野菜は、怖い。

コンビニが、なかなか見つからない。
確か、この辺だったと思い、行きつ戻りつした。
結果、コンビニの玄関の看板工事が行われて、見逃していた。

買い物は、駄目かと、思いきや、おばさんが入ったので、私も、一緒に、急いで入った。

持てる限り、水を買った。
そして、元の来た道を、ゆっくりと、戻った。

道は、複雑である。
それでも、私は、中小路に入り、方向だけは、間違いないと、歩いた。
すると、大聖堂の横に出た。

カトリック教会である。
フランス統治時代からのものである。
いかにも、古めかしい。
せっかくだからと、中に入ろうとしたが、どこの扉も、閉まっていた。

フランス統治時代も、矢張り、カトリック布教が前提だった。
今では、カトリック信者も、多い。

私は、教会前の、一軒のコーヒー店に腰を下ろした。
ベトナムコーヒーを注文する。

戦争を忘れるのはむずかしい。いつ俺の心は安らぐのか。戦争の記憶という檻から、いつ俺の心は開放されるのか。人間の苦しみと楽しみ、醜さと美しさ、そして何よりも哀しさ・・・
戦争が俺の心に刻印した記憶の総体は、十年かかっても二十年たっても消えはしないだろう、おそらくは永遠に。これからも俺は夢とうつつの境界のどこかに棲むのだ。その境界に横たわるナイフの刃先に棲むのだ。
戦争で失われた年月は、誰の責任に帰することもできない。もちろん俺の責任にもだ。俺が確実に知っているのは、俺が生きているということと、これから自分ひとりで生きるしかないということだけだ。新しい生活。ヴェトナムの新しい時代。俺は生きる。生きのびてみせる。
戦争の悲しみ バオ・ニン

ハノイの街は、戦争でないということだけで、平和だった。
なんでもないことが、実に貴く思われる。
鶏の肉を売るおばさんが、コーヒー店の前に来て、声を掛けると、女主人が、バケツを持って出た。

そして、肉を選んでいる。
選ばれた肉は、塩でもまれて、洗われた。
何度か、それが繰り返される。
そして、立ち話である。

教会の鐘が鳴る。
正午である。

古めかしい、鐘の音。
実に、平和である。

アメリカ軍は、1965年、北ベトナム南半部への、継続爆撃を開始した。
そして、次第に、爆撃攻撃を、ハノイ首都圏を含む、北方へ広げた。
72年末、戦略爆撃機B52の大編成によるハノイ都心の猛撃を行って、多くの市民を死傷させた。
北ベトナム軍は、若いOLまでもが、ライフル、対機銃で、米軍機を狙うという、全民武装攻敵体制と、ソ連対空ミサイルSAMで、首都を守り抜いた。

日本の戦時中も、女子の訓練があったが、それを、ベトナムでは、実践したということである。
皆で、守り抜いたというから、凄まじいことである。

その生き残りの人々が、今も、ハノイにいるのである。

大聖堂の鐘の音を、聞きつつ、私は、ベトナム戦争に思いを馳せた。
今、人々は、平和を享受しているが、その享受の裏には、強い意志があると思うと、なんとも、襟を正される。

ところで、ハノイの街の、至るところに、ある建物がある。
それは、ほとんど、目立たない。
英霊を奉る、廟である。

最初の日の朝、コーターと、歩いて、中小路に入って、突き当たった所に、それが、あった。最初、何なのか、分からない。
よく見ると、人の名前が、壁に刻まれていた。
そして、写真が置かれている、所もあった。

それから、注意して、見ると、それが、至る所にある。
ホテルから、1分ほどの、物売りの店が並ぶ場所にもあった。

即座に中に入ると、おじさんが、出て来て、解説してくれた。
この付近の、インドシナ戦争で亡くなった人たちであるとのこと。

それぞれの、町内で、それぞれが、英霊を奉る廟を、持っていると、判断した。

大聖堂から、水を持ってホテルに、戻る道に、それが、また、あった。
その中に入ってみた。

漢字で、英霊と、書かれてあるので、中国系の寺院なのであろうか。
御簾が掛けられてあり、その奥を覗いたが、扉が閉まっていた。

その前で、黙祷した。

ベトナムを守り抜いた人々。
英雄である。
そこに、悲しみを飲み込んだハノイが、あった。

2009年07月22日

悲しみを飲み込んだハノイへ 7

ホテルに戻り、裸で過ごす。
それが、一番、疲れを取る。

ところが、二階の部屋から、向こう側の建物の、窓が見える。
最初は、誰もいないと、思っていたが、驚いた。
ベランダに女性が、出ていたのである。

と、いうことは、こちらの窓も見えるということである。
あーーー、向こうは、嫌なものを、見たと、思ったであろう。

そこで、私は、下着を、探した。
だが、下着は、着ていたものだけで、一枚も無い。
つまり、自分の着替えを、持って来なかったのである。

はっと、思い、支援物資の、バッグを開ける。
確か、下着があったような気がする。
一つの、バッグに、男物の、下着、パンツが、五着入っていた。
助かった。
支援物資を、頂いて、なんとか、この旅の間は、大丈夫だった。

実のところ、私の格好は、支援物資の、衣服より、破綻したものを、着て歩いている。
そのせいで、犯罪に巻き込まれないとも、言われる。

着物以外の時は、タイパンツで、その格好は、タイ人が、寝る時のものだそうだ。
つまり、パジャマ姿で、道を歩いているということ。
変な、おじさん、である。

ベッドに横になったり、起きたり、ガイドブックに目を通したりと、うたうたと、過ごした。

昼ごはんは、最初に行った、ホテル近くの店に出て、フォーを食べた。
フォーの発音も、実に難しいが、私は、日本語の、フォーで、通した。

店員たちは、非常に親切である。
ところが、互いに英語が通じない。
そうなると、笑うしかないので、笑っている。

昼間は、女の子が多く、夜は、男の子が多い。
15歳から、働いている。

一人の、男の子と、ようやく、英語が通じて、話した。
ハノイ近郊の村から、出て来たという。
学校は、もう無いという。つまり、最低教育で、働きに出たのだろう。

日本で言えば、中学、高校生である。

ハノイは、ホーチミンと比べると、とても、町並みが綺麗である。
それは、まずゴミが無いこと。
いつも、誰かが、掃除をしている。
本当に、ゴミが少ない街である。

これは、長年に渡る、伝統であろう。
儒教の影響を受け、更に、社会主義の教育を受けて、国民性が、出来上がった。勿論、そんな簡単なものではないだろうが、自然と身についたものである。

一人の意識が、全員になると、このようになるのだと、改めて、感じた。
一人一人の意識の、持ち方が、全体を作る。

また、戦争が始まっても、ハノイの人々は、誰もが、銃を持ち、戦うのだろう。

そういう、気概がある。

二時を過ぎた頃、コータが、戻って来た。

バッチャン村については、コータが、報告すると思うので、私は、特徴的なことだけを、書く。

矢張り、子供に、ミニカーを差し出すと、いらないと、拒否されたという。しかし、その子のおばあさんが、出て来て、子供に、貰うことを許すと、その子は、コータを追いかけて来たという。
そして、それを、受け取った。
欲しくても、親の許しがなければ、貰わないというのは、ハノイだけではなかったのである。

陶芸の村は、素晴らしく、コータは、人々と仲良くなり、少しばかり手伝ってきたというから、面白い。

そして、衣服も、すべて、差し上げてきた。
最初は、遠慮していたが、そのうちに、矢張り必要なのであろう、どんどんと、貰う人が増えたという。

この陶芸品は、街中で売っているが、相当叩かれて、買われるらしい。
食べていければいいと、いった雰囲気で、のんびりとしているようである。

コータは、バッチャン村で、昼の食事をしたという。
それでは、夕食まで、ゆっくりと、休むことにした。

ハノイでの予定は、終わった。
後は、ホテル近くの、英霊を奉る廟に行き、祈りたいと思った。
それは、夜の食事の前に、行うことにした。

明日の朝は、早くホテルを、出る。
空港までの、車の手配をすることにした。
朝、九時の飛行機であるから、六時に出ることになる。

最後の食事は、最初に出掛けた、ホテル近くの、食堂ですることにした。
高級でもなく、屋台でもない。
中級とでもいうレストランである。

水の値段が、3000ドンから、8000ドンの幅があることを書いたが、その他に、色々と、面白いことがあったので、それは、別にまとめて、書くことにする。

日本人からは、お金が、取れるという、見本のような、事態に遭遇したことを、紹介する。

矢張り、ベトナムでも、日本人は、金持ちだという、意識が強い。
それは、ホーチミンでも、そうである。
ホーチミンで、同じ水を、一ドルと言われた時には、驚いた。
一ドル、つまり、19000ドンである。これは、あまりに、暴利である。

2009年07月23日

悲しみを飲み込んだハノイへ 8

ハノイ最後の夜、私たちは、食事をする前に、ホテル近くの、英霊を奉る、廟に詣でた。

早速、そこのおじさんが出て来た。
約9000名の死者の名前が、刻まれた壁の前に、焼香台が置かれてある。

線香代金として、5000ドンを箱に入れた。

おじさんが、火をくれるので、線香に火をつける。
そして、線香を両手で、はさみ、黙祷を捧げた。

この近所だけで、9千人の戦争犠牲者が出たということは、驚きである。
どんなに、凄まじい戦争だったのか。

アメリカとのベトナム戦争の後も、インドシナ戦争は、続いた。


しかし、あの戦争は、米国への抵抗戦争だったとはいえ、一面ではヴェトナム人同士の戦争、同胞相撃つ戦争だった。人民軍は勝った。その兵士たちは勇者の中の勇者だった。勇者はつねに心優しい。また勇者は怨まない。彼らは、敗れた側の人々を憎まず、むしろ憐れんでいた。そういう人民軍兵士たちにとっては、心ならずもサイゴン政権のもとに生きていた人々との和解に水をさすような拡声器の文句は、いささか耳ざわりなものだったようだ。彼らはそれらをブラック・ジョークに仕立てて、長旅の憂さ晴らしに役立てていた。
戦争の悲しみ バオ・ニン

懐かしいハノイの旧市街が近づくと、キエンの心も沸き立ってきた。香りのいい雲のてっぺんを駆けているような気分になった。涙が出て、両目がぼやけた。生きて家に帰れる!叶えられそうになかった帰郷の夢が叶えられる!
戦争の悲しみ 


だが、この七九年初頭、ハノイの町々は、攻仏独立戦争や抗米戦争の時期ほどでないにしても、ごく自然な市民多数の愛国心と英雄主義によって、かなり高揚した空気に包まれていた。新たな戦争が始まろうとしていた。ヴェトナム人民軍がカンボジアのポル・ポト政権を倒した結果、ポル・ポト政権の同盟者だった中国がヴェトナム北部国境を破ろうとしていたのである。
戦争の悲しみ

北部国境の状況について、熱のこもった議論が絶えなかった。誰もが中国の脅威を感じていた。カンボジアの代理政権をわが国につぶされた中国が黙っているはずがない、中国軍の侵攻は時間の問題だ、彼らは必ず来る・・・・。それはドンダーの決戦から二世紀にわたって薄れていた悪夢の再現だった。
戦争の悲しみ

ヴェトナム人の「好戦性」とやらを口にする一部の外国知識人は根本的に誤解している。戦争を強いられれば、この民族は仕方なく戦う。敵が手を引くまで戦う。だが、それは戦争を好んでいることをけっして意味しない。俺がその証拠だ、とキエンは思った。俺は勇敢だった。しかし、その俺が、戦争を好んだなんてことがあるだろうか。そんなことは一度だってなかった。あの戦争、俺の戦った戦争は、この国の庶民に千年も続くほどの苦痛をもたらしたのだった。もういい、戦争はもういい・・・・
戦争の悲しみ

日本人の感性として、あはれ、というしかない、ベトナム兵士の思いである。

誰も好きで、戦争をするのではない。
病むに病まれず、愛国心、祖国愛、戦わなければ、済まない状況に追い込まれての、兵士である。

私が、中学の頃、マスコミでは、ベトナム戦争反対の、反戦デモの様子を、報道していた。
その時に、小田実という人の、名を知った。

今、その反戦デモの時代の人は、六十を過ぎているはず。
学生運動も、盛んだった。

そして、ベトナム戦争終結に、彼らは、涙を流したはずである。
しかし、ベトナム戦争を終結させたのは、他ならぬ、ベトナム人であり、デモは、単なるデモンストレーションだった。

その彼らが、ベトナム戦争後に、何をしたのか、である。
戦争の遠くから、戦争反対を、叫ぶことも、大切だが、戦争後に、それほど声を大にしたならば、その後の、ベトナムの人々に、何をしたのか。

彼らは、結果、内輪での、戦いに走り、内ゲバなどに、明け暮れた。
ベトナム戦争を山車にして、自己解放と、自己満足を、行為しただけである。

戦争後に、どれだけの人が、ベトナム戦争犠牲者のために、慰霊に出掛けたか。

ベトナム戦争は、この国の庶民に、千年も続くほどの苦痛をもたらしたのだと、バオ・ニンは、書く。

戦争を、自分の問題として、取り上げた時、はじめて、平和というものを、考える素地が出来る。

私が、太平洋戦争の犠牲者の、追悼慰霊を、始めるきっかけは、幽霊が出るというものだった。
それでは、せめて、幽霊にならないために、追悼慰霊をしたいと思ったのである。
ところが、戦争というものを、勉強してみると、凄まじいばかりの、人間の生き様である。

もはや、太平洋戦争のみではない。
様々な、戦争に関して、私は、注意して、調べるようになった。

そして、更に、このままでは、いけない。
霊位に対しての、所作が、必要だと、考えたのは、日本人だからである。

日本人は、霊位に対して、見事な、所作を、作り上げた。
言霊、音霊の所作である。

次元を移動させるべくの、所作である。

日本には、宗教は無いが、霊位に対する、所作がある。
よって、宗教が必要無い民族となった。

それが、伝統行為である、カム送り、カム上がりという、所作である。

人は、人として、霊位に戻る。
それを、命、みこと、と呼ぶ。
命、という文字を、みこと、と、呼ばせている配慮は、素晴らしい感性である。
亡き人に、命、あり、なのである。
世界に類を見ない、死者への、所作である。

2009年07月24日

悲しみを飲み込んだハノイへ 9

最後の夜の食事といっても、つつましいものだった。
それぞれが、焼き飯を、注文した。
私は、豚肉の、コータは、鶏肉の焼き飯である。

そして、折角だからと、ベトナム春巻きを頼んだ。
二種類である。
生春巻きだと思っていたが、出てきたのは、揚げ物の春巻きだった。
だが、美味しかった。

飲み物は、水である。
とうてい、アルコールなどは、飲めない。
日本では、毎晩、日本酒を飲む私も、全く、欲しない。

明日の朝が、早いので、食べて、そのままホテルに戻った。

だが、まだ、八時前である。

もう少し、ハノイの夜をと、思い、マッサージを受けることにした。
コータは、部屋にいるという。

実は、一度、二人で、最初の日に、フットマッサージを受けている。

小路を入った、小さなマッサージ店である。

一時間、60000ドンである。約、250円。
ところが、終わると、マッサージ嬢が、チップを求めてきた。
私は、10000ドン、約30円を出した。
すると、その嬢は、50000ドンと、要求した。

日本円にすると、たいしたことはないが、要求されると、ムッとくる。
だが、私は、彼女が、フエ近くの田舎から出てきて、働いていることを聞いた。
大変だろうと思い、黙って、五万ドンを渡した。

二人分だから、10万ドンである。約、500円。

別の店の、フットマッサージの価格を見ると、一万ドンであった。
そこで、私は、その店に入り、チップは、いるのかと、尋ねた。
いらないと、答える。
つまり、あの店は、最初から安くしているが、チップで、儲けるべくの、システムだった。

勿論、地元の人には、通用しない。
観光客だから、通用する。

さて、私は、食後の、マッサージに出た。
夜であり、皆目検討がつかない、街の中で、マッサージの店を探した。

一軒のビルの、三階に、マッサージがある。
そこに、上がった。

価格を見ると、20ドルである。
その時、私は、何を勘違いしたのか、安いと、思った。
20ドルは、二千円である。40万ドンになる。

実に、高い料金であるが、勘違いは、後で気づく。
一時間、20ドルを払い、個室に案内された。

嬢が出て来て、サウナを勧めるので、言われた通り、衣服を脱いで、サウナに、向かった。
ミストサウナで、霧のような中で、汗を流す。
すると、嬢が、足湯を持って来た。
それに、足を浸す。
その時、日本人かと、尋ねられた。ジャパニーズと答えると、彼女は、にこやかに頷いた。

ある程度、体が温まり、私は、サウナ室を出た。
そして、個室での、マッサージである。

マッサージは、オイルだった。
そこまでは、良かった。

うつ伏せになり、背中をマッサージするが、今ひとつ、物足りない。
ただ、撫でているだけである。

気づくのが、遅かった。

単なる、マッサージではないことが、解った。

仰向けになると、バスタオルを取り除いたのである。
全裸である。

嬢は、私の股間に、オイルをつけた手を置く。
そして、言った、チップ50ドルと。

矢張り、これは、違う。

ノー、いやいや、違う、マッサージオンリー
しかし、通じない。
50ドルは、破格のチップである。

それで、私は、少し面白半分に、チップは、20ドルと言った。しかし、彼女は、ノー、日本人は、50ドルというと、60ドルも、70ドルも、くれるという。

なんということか。

それで、最初、日本人かと、聞いたのだ。

無理無理、ノー、と、私は、言った。
しかし、彼女は、ひるまずに、私の股間を刺激した。

普通なら、激怒する私は、抑えて、静かに、日本語で、無理だ、無理だと、言った。そして、ノー。マッサージオンリーと言った。

すると、彼女は、40ドルでいいと、言う。
それでも、無理だ。

私は、PD筋を使い、彼女の刺激に、反応しないように、した。
彼女は、刺激すると、男は、反応すると、思い込んでいる。

激しい、股間への、マッサージが続いた。
それでも、私が反応しないので、彼女は、30ドルと、言う。

とんでもない、所に来たものだと、思った。

これは、セクッシャルマッサージである。
要するに、手コキといい、射精させて、チップを取るという、マッサージである。

さて、私は、どうしたら、彼女に、伝えられるかと、腕を示して、マッサージと言った。彼女は、渋々、腕をマッサージする。
しかし、左足のマッサージが、残っている。

左足のマッサージがはじまった。
すると、更に、股間に手を延ばして、20ドル、オッケーと言う。

50ドルから、20ドルに落ちたが、私には、大変な、金額である。
つまり、20ドルのマッサージ料金と、チップで、40ドルとなるのである。

それは、四千円である。一万円が、190万ドンであるから、大金である。

トラブルを起こしたくないと、私は、一時間のマッサージを終えるのを、待った。

ワンアワー、オッケー
そう、もう一時間を過ぎる。

彼女は、オッケーと、渋々言う。
私は、急いで、衣服を着て、個室を出ようとした。
すると、彼女が、私に、ぴったりと寄り添い、チップと言う。
私は、彼女を、ゆっくりと、解いて、一目散に、出口に向かった。

すると、彼女は、アーとも、ウーとも、エーともつかない、形容し難い声を上げて、仲間の居場所に走った。
私は、追いかけられると思い、急いで、階段を駆け下りた。そして、ホテルに急ぎ足で、向かった。

男は、刺激すると反応するという観念と、日本人は、チップを多くくれるという、観念を打ち破ったと、私は、思った。

実に、嫌な気分の、マッサージだった。
だが、最初の、20ドルということに、気づけば、解ることだったが、ドンの、ゼロの多さに、勘違いしたのである。

20ドルは、安いと、思い込んだのが、間違いだった。

これは、マッサージの顛末である。

部屋に戻って、コータに話すと、年だから、狙われたのだという。
金を持っていると、思われたのだというが、いや、私が、誤って入ったことが、誤りだったのだ。

ハノイの人は、毅然としているが、田舎から出てきた人は、何とか、金にするべく、努力奮闘しているということである。
これも、生きるためである。

ちなみに、PC筋については、性について、というエッセイで紹介している。勃起を自由自在に司る、筋肉である。

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