2009年08月01日

ラオス・ルアンパバーンへ 1

ラオスの、北部、ラオス第二の都市といわれる、ルアンパバーンに出掛ける。
ラオスは、初めての国である。

まず、バンコクへ入る。
そして、バンコクエアウェーにて、ルアンパバーンに飛ぶ。

日本から、ラオスに向かうと、高くつくので、格安チケットで、バンコクに入り、そこから、また、格安チケットで、ラオス・ルアンパバーンに行く。

インターネットで、予約すると、更に、安くなるのである。
ところが、格安チケットは、早く売れる。

16日を予定したが、取ることが出来ず、18日のチケットを取った。
であるから、バンコクに、5日間滞在した。
せっかくであるから、タイ語を少し学んでと思ったが、全く駄目。

ラオスは、タイ語が通用するのである。というより、ラオス語は、タイの、東北部の言葉の訛りに似る。
これは、後で、書くが、ラオスは、少数部族が多く、現在のラオス語というのは、政府が、公式に決めたラオス語である。
であるから、ラオス語を、話せない、ラオス人もいる。

飛行機の時間は、AM11:10である。
二時間前に、チェックインするので、コータのアパートから、九時に出る。

コータは、7日から、タイ語習得のために、バンコク入りしていた。そして、一ヶ月、5000バーツの家賃のアパートで暮らす。約、15000円である。

私の、ホテル代が、浮く。
更に、その付近は、バンコクの下町である。
街中より、物価が、半分と言う、安さ。

街中の、茹でとうきび20バーツが、10バーツで、買えるのである。
食事も、百円程度。

私には、ばら色の生活である。
それについては、ラオス旅日記の後に、書くことにする。

ラオス行きの飛行機は、小さく、プロペラ機である。
ああ、これなら、落ちても、死なないと思った。
プロペラ機は、ゆっくりと、落ちるので、助かる確率が高いのである。

一応、出国手続きをする。
スムーズである。

搭乗口で待つと、11:00になり、バスに乗れと、アナウンスがある。
バスに乗り込み、飛行機へ。
そして、全員が乗ると、はい、と、飛び立つ。
であるから、当然、早く到着する。

国際線であるから、食事が出る。
この頃の、機内食は、おいしくなっている。
でも、私は、スワナプーム空港一階の、社員食堂のような大食堂で、実は、二種類の、麺と、ご飯を食べていたので、腹一杯。それでも、料金は、何と、約500円。
それでも、食べた。

満腹のまま、寝る。

もう少しで、到着しますと、言われて、急いで、入国のカードに、書き入れることにした。が、解らない。
隣の、タイ人の、学生風の男に、尋ねる。

三種類のカードがある。

入国カードと、税関に出すもの。
そして、もう一つが、何のことか、解らない。

これ、何
あなたは、病気ですかと、英語で、言われた。
いや、ノー
それじゃあ、ここに、チェックして
全部
そう、全部ね
私は、日本語、相手は、英語である。

それから、税関のカードも、彼に尋ねて、書き入れた。
更に、入国のカードもである。

コープクンカップ
ありがとうと、タイ語で言う。
これだけは、自信がある。

そして、到着。

飛行機は、空港の真ん前に、着いた。
そこから、歩いてすぐである。

入国審査である。
和服は、私だけ。
誇りを持って、望む。
はい、オッケー
すぐに、終わった。

スタンプが、きちんと押されているか、確かめる。
何でも、帰る時に、スタンプが、不明瞭だと、文句をつけられると、聞いていた。

大丈夫である。

見送り、出迎えの人が沢山いる。
外に出て、さて、と、見回す。
タクシーか、トゥクトゥクか、である。

タクシー運転手が、声を掛けてきた。
ノー、トゥクトゥクというと、こっちこっちと、言われる。
チケットを買えということだ。
6ドルである。
それ以外の方法は、無い。
トゥクトゥクに乗る。ルアンパバーンの市内に向かうのである。

2009年08月02日

ラオス・ルアンパバーンへ 2

ルアンパバーンは、1995年、街全体が、世界遺産に登録された。
それは、仏教寺院のある街、ルアンパバーンであった。

メコンの流れと、その風情は、一朝一夕に作られるものではない。

1975年の、社会主義革命で、仏教が否定された時、80を超える寺院の存続が、危うくなった。
しかし、20年後の、世界遺産に登録されることにより、伝統ある、托鉢の行事が、俄かに、活況をもよおした。

政府も、否定しなかった。

それから、街が、どんどんと、出来上がる。
つまり、観光客のための、街造りである。

街の中心は、ゲストハウスで、占められるほどである。
ただし、ホテルと、ゲストハウスの、違いは、部屋数によるものである。

私は、あらかじめ、ゲストハウスを決めて、トゥクトゥクの運転手に伝えた。

中心部から、やや西にある、ゲストハウスを選んだ。
メインストリートより、安いからである。

それでも、比較的、高い値段のゲストハウスにした。

少し、小太りのおばさんが、経営していた。
二泊の予定である。

二泊で、21ドルである。
部屋は、ダブルベッドがある、広めの部屋で、エアコン、温シャワーである。

ちょうど、オフシーズンでもあり、お得な料金だった。

二泊三日である。
しかし、私には、長い、時間だった。

まず、一度、着替えて、エアコンで暑さをしのいだ。
しばらく、ぼっーとしていた。

やるべきことは、メコン川での、慰霊と、衣服支援である。
しかし、全く、検討がつかない。

トゥクトゥクで、通った時に見た、裸足の男の子がいた場所に、出向いてみようと思った。

十足ほど、子供用の、靴やサンダルを持っていたからである。

小さい方のバッグに、詰めて、出掛けた。

通った道を、戻ってみた。
街中に入ることになる。
こういうのを、暗中模索という。

足の向くままに、歩いて、ひとつの細道に入った。
そして、目に入ったのが、裸足の男の子である。

ボーイと、呼んで、おいでおいでをした。
すると、男の子は、少し恐る恐る、近づいて来る。

私は、彼に合う、サンダルを出した。
そして、彼の足元に、差し出すと、何か言う。
雰囲気で、それを、私が売っているのと、言うように感じた。

そこで、プレゼントと言って、差し出すと、横から、道で作業をしていた男が、近づいてきた。
そして、その子の足に合わせて、少し小さいなーと、言うように聞こえた。

全く、私には、言葉が分からないのである。
しかし、意味が分かる。

確かに、小さかった。
だが、それ以上に大きなものはないので、諦めた。

残念だが、私は、また、歩き始めた。

一軒の家の前で、女の子二人が遊んでいる。
ガールと、声を掛けた。そして、すぐに、ぬいぐるみを取り出して、渡した。二人は、躊躇なく、それを受け取り、一人の子は、他の子供に声を掛けた。
すると、家からも、人が出てきた。

そこで、私は、バッグを開けて、中身を見せた。
必要ですか、と、手を差し出した。

すると、すぐに、隣近所から、人が出て来る。
赤ん坊を抱いた女も、来た。おばさん、おばあさんも来た。

そこで、少しばかり、衣服を差し出して、選ばせた。

皆、遠慮せずに、受け取る。

赤ん坊を抱いた女は、とても、喜んだ。

私は、写真を撮った。
そして、一人の子に、写真を撮ってもらった。

衣服の分量は、多くはなかった。
今回は、20キロを持参した。
飛行機に無料で乗せられる、ギリギリの量である。

そこで、差し上げた分量は、たいした量ではない。
そこを立ち去り、私は、暑いので、一度、ゲストハウスに戻ることにした。

更に、三時を過ぎて、少し空腹を覚えた。
あれほど、満腹だったのだが、緊張感による、ストレスなのであろうか・・・

ゲストハウスの、近くにある、麺屋に出掛けた。
もちろん、地元の人が食べる店である。
しばらく、様子を眺めていて、身振りで、欲しいものを、示した。
一万キップだった。

ちなみに、一ドルは、8800キップである。
100円が、8800キップとなる。

小型フランスパンの、サンドイッチが、一万キップであり、おおよそ、地元の人が食べる料金である。
一度の食事は、100円と少しである。

果物も買ったが、パイナップルの一個分が、5000キップである。
それも、食べやすく、皮を剥いて、均等に切り分けてある。

その夜だけは、ラオス料理のセットメニューをレストランで食べた。それは、なんと、10ドルだった。
その一度だけである、そんな高い料金を払ったのは。
しかし、それには、理由がある。

2009年08月03日

ラオス・ルアンパバーンへ 3

夜、七時を過ぎた。
私は、食事をするために、ゲストハウスを出た。

さて、どこにするか。
今までとは、別の方向に歩いた。

街の西側である。
少し歩くと、レストランがあった。
中を覗いた。誰も、いない。
客のいないレストランは、美味しくないのである。が、しかし、引き付けられるように、中に入った。

だが、屋内ではなく、屋外のテーブルについた。
誰も、来ない。
しばらく、待った。

ようやく、男の子、ボーイが出て来た。
そして、その後から、ウエイトレスが、メニューを持って来た。

ラオス語と、英語である。

金額も、キップである。
実は、キップに両替をしていなかった。
ただ、水を買ったときに、ドルで、支払い、そのお釣りを、キップで、貰っていた。

買い物は、ドルが使えるが、割高になる。
例えば、三万キップが、3,5ドルであると、4ドルとなる。
5ドル紙幣を出すと、一ドル分が、キップとなり、お釣りである。
その、お釣りも、割高である。

長期滞在しなくても、キップに両替すべきだと、思った。

そのレストランは、ドル払いもオッケーであることを、私は、確認した。

ラオス料理のセットメニューを注文した。
そして、追加で、フライドポテトである。

私のテーブルに、準備をする、ボーイと、言葉を交わした。
英語である。
あまり、英語が出来ないボーイだった。私と、同じ程度である。

だから、なおさら、よい。
どこから来たの
街の北の山間部から、出て来たである。

家族は、皆、そこで暮らし、彼は一人で、ルアンパバーンにいる。

そのうちに、二人のボーイが、出て来た。
そして、客待ちの準備をする。

三人のボーイと、話すことになった。
客は、私一人である。

せっかくだからと、ラオスの缶ビールを頼んだ。
それを飲みつつ、三人と、話した。
一人のボーイが、実に見事な英語を話した。
独学である。

料理が運ばれて来た。
予想以上に、量が多い。
英語の堪能なボーイが、ひとつひとつの料理を説明する。

もち米だけは、タイと同じだった。他の料理は、すべて、揚げ物である。
海苔の揚げ物もあった。

それを食べつつ、彼らと、話した。
実は、明日のガイド役を、私は、探していた。

トゥクトゥクを二時間借りるのは、いくら
一番、背の低いボーイが、20ドルと、言う。
すると、英語の堪能なボーイが、バイクを持っている。それなら、10ドルでいいと、言う。

そこで、私は、何をしたいのか、言った。
私は、観光するのではなく、子供たちに、衣服を持ってきたので、それを、渡したい。
ガイドをしてくれないか

荷物が多いので、バイクでは、無理なので、トゥクトゥクを借りたい

どう、いくらでしてくれる

英語の堪能なボーイが、トゥクトゥク料金を含めて、30ドルと言う。

30ドル
高いなーーーー

通じたのか、よし、20ドルでいいと、答えた。

明日の朝、10時から、二時間ということで、話がついた。

英語の堪能なボーイの、名前は、ニッツという。

本当は、最初の、あまり英語が出来ないボーイの方が、よかったのである。
それは、互いに英語が通じるからである。

しかし、積極的な、ニッツに決まった。

その時、イギリス人が、予約にやって来た。
12名で来るという。

三人のボーイは、急いで、テーブルを付け合せて、用意をはじめた。

私は、それを、眺めつつ、食事をしたが、半分も、食べられなかった。
それは、ビールのせいである。コップいっぱいのビールが、腹を満たした。

大半を残して、テイクアウトにして貰った。
支払い総額は、10ドルである。
凄い、高い夕食だった。もちろん、それ一度きりである。
ニッツと、朝10時ということを再度、確認し、私は、ゲストハウスに戻った。

2009年08月04日

ラオス・ルアンパバーンへ 4

ラオスが、ラオスになったのは、1893年である。
フランスと、シャム、現在のタイである、が、条約を締結し、メコン川以東、現在のラオスと、ほぼ同じ領域が、フランスの植民地となった時である。

それでは、ラオス人民民主共和国になったのは、1975年12月である。

そこに至るまでの、道のりは、実に長いものである。

書き続けると、終わらなくなるので、箇条書きにする。

1353年、ファーグム王のラーンサーン王国建設。

1560年、セーターティラート王が、ビエンチァンに遷都する。

1707年、ラーンサーン王国が、ビエンチャン王国と、ルアンパバーン王国に分裂する。

1713年、ビエンチァン王国から、チャムバーサック王国が、分離独立する。

1827年、アヌ王の独立運動開始。

1893年、フランス領、ラオスの成立。

1934年、インドシナ共産党ラオス支部の結成。

1945年、日本軍による、ルアンパバーン王国の成立。

第二次世界大戦、フランスが、ドイツに降伏すると、日本は、弱体化した、フランスに、インドシナへの軍隊の駐留を認めさせて、更に、タイが、失った領土の一部である、カンボジアと、ラオスの一部を、取り返すのである。

これにより、フランスは、ラオス統治を見直し、ラオスをフランスに繋ぎ止める、政策を取った。
1945年、日本軍が、クーデターを起こして、インドシナを単独支配することで、フランスは、インドシナ統治を一時中断することになる。

日本は、その年に、ルアンパバーン王国を独立させる。
だが、この独立は、世界大戦後、無効になる。

しかし、この頃から、ラオス独立の気運が高まってくる。それが、ラオス人による、初の政府、ラオス臨時人民政府である。
日本軍が、独立に目覚めさせたといえる。

ところが、1946年、フランスが、ラオスの再植民地化を開始すると、ラオス臨時人民政府は、バンコクへ亡命する。

フランスは、ルアンパバーン王国を、擁立し、ラオス王国を成立させるが、実質的には、植民地政策を取った。

1949年、フランスの懐柔政策によって、バンコクの亡命政府は、解散したが、その中の一部、ネオ・ラーオ・イサラ、ラオス自由戦線を結成し、フランスへの抵抗を続けた。

ネオ・ラーオは、ラオス北部を拠点に、解放区の建設を開始する。

だが、これにより、ラオスは、内戦に発展する。

フランスとの、交渉によって、ラオスの独立を得ようとする、右派と、徹底抗戦を掲げる、ネオ・ラーオ・イサラ、左派に分裂して、戦うのである。

ここからが、問題である。

1953年、フランスは、フランス・ラオス連合友好条約を締結し、ラオス王国を完全独立させる。が、ネオ・ラーオ・イサラは、抵抗した。

1954年、インドシナ問題を解決するために、ジュネーブ条約が、締結されたが、それは、ラオス王国が、国際的に認められると、同時に、ネオ・ラーオ・イサラの北部結集も、認められたのである。

つまり、二つの政府が、存在することになったのである。

撤退した、フランス軍に変わり、アメリカが、ラオス王国に、軍事援助を始める。

対して、ネオ・ラーオ・イサラには、ベトナム、ソ連が、援助を行うのである。

東西陣営の対立が、ラオスにも、反映された。

1956年、パテート・ラーオが結成される。左派勢力である。

1957年、ジュネーブ条約で、第一次連合政府が成立したが、すぐに崩壊し、内戦へと、突入する。

更に、1962年、第二次連合政府が成立するが、それも、10ヶ月で、崩壊する。

1964年、アメリカ軍の解放区への爆撃が開始され、内戦が激化する。

一進一退を繰り返していたが、結果、1969年から、パテート・ラーオが、優位に立ち、王国政府に、和平交渉を呼びかける。
その結果、1973年、ラオス和平協定が結成されて、1974年、第三次連合政府が、成立する。

更に、パテート・ラーオが、優位に立ち、右派が、瓦解してゆく。

1975年12月、軍事行動なく、パテート・ラーオに、政権が移譲される。
王政が廃止され、ラオス人民民主共和国が、誕生する。

この、パテート・ラーオを、指導していたのは、マルクス・レーニン主義を、標榜する、ラオス人民革命だった。

人民革命党は、社会主義国家を建設すべく、企業の国営化、農業の集団化という、性急な、社会主義政策を、とったのである。

だが、この政策は、経済活動を停滞させ、深刻な食糧と、物不足を招いた。

更に、西側諸国の、援助停止と、人口の一割に及ぶ難民の流出などで、社会は混乱する。

1979年、人民革命党は、性急な社会主義政策を、見直すが、経済の低迷からは、抜けられなかった。

1986年、ソ連の、ペレストロイカの影響を受けて、新思考政策といわれる、市場経済化政策が、とられた。
更に、政治、社会、外交なども、自由化、開放化を目指して、今、現在に至るのである。

2009年08月05日

ラオス・ルアンパバーンへ 5

朝、約束した、10時前に、ニッツが、バイクでやって来た。

そして、5分で、トゥクトゥクを連れて来ると言って、再び、バイクに乗って出た。

その間に、私は衣服支援のバッグ、二つを用意し、カメラ二台、パスポート入れの、財布などを、確認する。

現金は、部屋に置くことは無いが、この時は、日本円を、部屋に置いた。

ドルと、キップと、タイバーツを持った。

トゥクトゥクが、やって来た。
ニッツと、一緒に乗り込む。
行き先は、ニッツに任せてある。

つまり、私は、衣服の必要な子供たちのいる、村に出かけたいと、言ったのである。
ニッツは、ルアンパバーンの近郊の村、メコン川沿いの村に行くという。

街を抜けて、20分ほどで、村の道に入る。
すると、トゥクトゥクが、大きく揺れる。
雨の後の道であるから、ぬかるむ。

雨期の真ん中である。
ところが、私は、あまり、雨に当たらなかった。

最初に見えたのは、村に一軒だけある、商店である。

商店といっても、掘っ立て小屋である。

ニッツは、そこに、声を掛けた。
友達がいると言う。
更に、商店の主は、ニッツのお姉さんだった。
結婚して、この村に暮らす。

トゥクトゥクは、ぬかるみを走り、村の中心部に到着する。

家の前に、屋根だけがある、テラスのような場所である。
勿論、手作りの物である。

さて、私は、荷物を降ろした。

早速、ニッツに、紹介して貰う。
その時は、たいした人数ではなかったが、どんどんと、人が、子供たちが、集って来た。

何、何、何・・・

私は、ニッツに、日本から、皆さんに、プレゼントですと、言って貰った。

そして、バッグを開けて、取り出す。
最初は、よく意味が分からないようだったが、衣服が次々と出されると、歓声が上がった。

赤ん坊を抱いた女たちも、出て来た。
今回は、幼児用の物も多い。
どんどんと、手渡す。

すると、次第に、人々が慣れて、自分たちで、バックから取り出す。
ニッツが、それを、抑える。

一度、ニッツが、バッグを閉めた。
そして、写真を撮るという。
私は、ニッツに、従った。

ところが、どんどんと、人が集まる。
私は、写真を撮り終わり、また、バッグを開けた。

ニッツが、もう一つの村にも・・・と言うが、無理である。
そんなに、量は無い。

少し残して、村の、入り口に歩いて戻った。
すると、そこでも、人が集っていた。
もう、すべてを、出すしかないと思い、バッグを開けた。

どんどんと、手が伸びてくる。
何も残らなかった。

私は、ニッツのお姉さんの店で、休むことにした。
ニッツは、日本茶のボトルを選んだ。
おいしい、と、書かれた、ボトルである。
私は、コーヒー缶を選んだ。

子供たちが、やって来る。
私は、店の前に、吊るされた、お菓子袋を10袋買い、子供たちに、渡した。

ところが、また、どんどんとやって来る。
写真を撮るニッツ。

私は、更に、お菓子袋を取り、子供たちに、渡した。

コープチャイ・ライライ
ありがとう

何度も、そう言われた。
お金は、渡すことは、出来ないが、お菓子ならいいと、思ったのだ。

それを、ニッツは、見て、なんとも言えない表情をしていた。
ニッツも、一緒に、写真を撮りたいと、言うので、お姉さんの、ご主人に、撮ってもらった。

それから、私は、メコン川で、祈りたいと言うと、ニッツは、オッケーオッケー、すぐそこだよと、立ち上がる。

その後を、子供たちも、付いて来る。

村は、小船で、荷物運びをする仕事をする。
メコン川の、側には、日本のダンプカーが、三台置かれてある。つまり、廃車になったものである。
日本の会社の名前が、そのまま、書かれていた。
更に、住所まで。

私は、ニッツに、これから、日本の祈りをしますから、それを、写真に撮ってと、言った。
ニッツは、サンキューなんとかこんとか、チピリチュアルなんとかこんとか、それで、なんとかこんとかと、言う。

とても、感激し、興奮しているようだった。


2009年08月06日

ラオス・ルアンパバーンへ 6

メコン川は、歩いて、すぐだった。
茶色の流れが、目の前に広がる。

緑と、茶のコントラストである。

子供たちも、一緒に付いてきて、私よりも、先に、メコン川で待っていた。
そして、私がその場に行くと、子供たちが、川に飛び込んで、歓声を上げる。

子供たちの、歓迎の儀式である。

バリ島の、海がめの島に行った時も、子供たちが、私に、海に飛び込んで、歓迎してくれた。

バクテンを見せてくれた男の子もいる。
何度も、それを、繰り返してくれた。

彼の、ズボンは、大きな穴が開いていた。
私は、今回、男の子の、下着や、ズボンを持ってゆくのを、忘れた。皆、上着である。本当に、済まないと思ったほど、男の子の、ズボンは、擦り切れていた。

私は、メコン川に向かって、拍手を打った。
途端に、子供たちが、静まり返った。

それは、見事だった。

だが、私は、長い言葉を、唱えるつもりはなかった。
ただ、アラテラス大御神と、三度、唱えただけである。

そして、祓い給え、清め給えと、四度、唱えた。
それで、十分だった。

拍手を打ち、終わると、また、子供たちが、私に、泳ぎを見せてくれた。

彼らは、祈る姿を、お寺で、いつも見ている。だから、私の行為も、理解した。

一人の男の子は、じっーと、私を見つめていたようである。
それは、写真を見て、分かった。

祈りは、当たり前にある。
生活の中に、祈りがある。

だが、それを、宗教と、勘違いする。
それは、伝統行為なのである。

その親が、その祖父母が、そのように、行為していたことを、子供たちも、する。
宗教行為ではなく、伝えられた行為、つまり、伝統行為である。

ニッツは、私の写真を何枚も、撮っていた。
私は、三枚で、いいと、言ったが、彼は、フイムルをすべて、それで、使ってしまったのである。

その写真を、見て、私の目の前の、メコン川が、光っていた。
ああ、良かったと、思った。
それは、フラッシュのせいで、あろう。
でも、雨雲の中で、光が、差すようにしてある写真は、気持ちのよいものである。

その後、ニッツは、その村の、小学校に私を連れた。
平屋の学校である。

だが、現実は、教科書が無い。文具が無い。そして、先生が、来ないのである。
先生は、副業で、忙しい。給与で、生活できないからである。
学校は、無料であるが、教科書も文具も無ければ、どのようにして、学ぶのか。更に、先生が、来なければ、生徒は、どうするのか・・・・

私は、ラオスの批判をすることは、出来ないのである。

私は、日本人である。
それを言うのは、僭越行為である。

次に来る時は、文具も、もって来ると、考えた。
だが、溜息が出た。

きっと、世界には、このように場所が、多くあり過ぎるのである。

それを、後進国という。

だが、後進国が、先進国になるとしたら、どうなるのか・・・

先進国とは、何か。

ニッツは、私を促して、村に戻った。

少し、考える時間が、必要だった。
何が、出来るのか。
だが、ニッツは、英語で、色々と説明する。
私に、考えるなと、言うばかりに、である。

しょうがなく、私は、ゲストハウスに戻る、と、ニッツに言った。

差し上げる物もなくなり、その場所にいる必要も無い。
しかし、子供たちが、着いてくる。

村の、寺院に、ニッツは、私を、案内した。
そして、子供たちと、寺の入り口で、写真を撮った。

帰国して、その写真を見ると、子供たちが、とても、喜んでいる様子が、写る。

私は、私の無力を、感じないわけには、いかなかった。

だが、私は、知っている。それ以上の行為は、僭越行為なのである。
私は、何様でもない。
ただ、追悼慰霊をする、一人の日本人である。
それで、よろしい。
それ以上のことは、実に、僭越なのである。

ただ、また、子供たちに、会いたいのである。それだけである。
いや、子供たちだけではない。村の皆さんに会いたいのである。

私は、その時、もし、一生、この村に私が住むことになったら、どうするだろうと、思った。

それは、無理だと、思った。そして、それを、運命づけられたらと、考えると、それで、善しと、思えた。

彼らは、知らない。だから、その村でも、生きられる。
そして、彼らは、その村が、故郷である。
捨てられるものではない。

と、いうことで、私は、今ある、私の、現実を、すべて、受け入れることが、出来たのである。

私は、日本に住む、日本人である。


2009年08月07日

ラオス・ルアンパバーンへ 7

ラオスの悲劇は、やはり、戦争である。

インドシナ戦争。

1954年5月、ベトナム北部ディエンビエンフーンが陥落し、第一次インドシナ戦争が、終結する。
だが、その時の、フランス軍の敗北は、新たな戦争の始まりになった。

アジアの共産化を恐れる、アメリカは、1941年に、ホーチミンが創設した「ベトナム独立同盟」べトミンが、ディエンビエンフーに集結していた時、原爆投下を計画した。しかし、国際世論の非難を恐れて、中止された。

フランス軍の八割の戦争費用を肩代わりしていたアメリカは、陥落後も、民間航空会社を装いながら、ラオスでのアメリカ軍の移動や、モン部族の武器補給などを秘密裏に行っていた、CATが、武器、弾薬を、モン・マキに、投下し続けるのである。

モン・マキとは、対べトミン、対毛沢東軍の戦闘集団である。

フランス軍は、ベトナム、ラオスの村から、戦闘に優れた、モン族の二万人を、サイゴンの南の、セントジャックの訓練キャンプに送り続けた。

そのキャンプで、トップの成績を修めたのが、ラオスのモン族、バン・バオであった。
後に、モンの軍事的、精神的指導者となる。
バン・パオは、その時、13歳である。

フランスが、敗北したことで、ラオスの村々の共産化を恐れたアメリカは、ディエンビエンフーで、生き残った、モン・マキ3000人を近代戦争にかなう兵士として、訓練し始める。

北ベトナムと、南ベトナムに延びる、兵士と、軍事物資を運ぶ、輸送路、ホーチミンルートは、その九割が、ラオスの山野を走る。

ホーチミンは、南ベトナムを解放するためには、まず、ラオスを共産化しなければならないと、声明を出した。

べトミンは、ラオスの、パテート・ラーオ軍を主導し、一気に、ラオス内のホーチミンルート南下を加速させた。
ラオスの村々を、共産化していったのである。

さて、その頃、朝鮮戦争が始まっていた。
アメリカは、インドシナの共産化阻止を、最優先課題とし、1961年、ラオス中部サイソンプン特別区のロンチェン渓谷に、秘密基地を作っていた。

アイゼンハワーに替わって、ケネディが1961年に、大統領に就任すると、フロンティアスピリットを掲げて、更なる反共の活動を開始する。

バン・パオを司令官とする、ラオス国軍第二管区は、モン特殊攻撃部隊を結成し、白人兵士の身代わり部隊として、過酷な運命をたどることになる。

1965年、アメリカは、ラオス北部の、モンの聖山の一つに、全天候型電子誘導施設「サイト85」を建設する。

ホーチミンルートに空爆を行う、アメリカ空軍の戦闘機を、レーダー誘導する、このサイトは、タイ領内の、ウドンタニ、ナコムパノム、タクリ秘密基地、更に、トンキン湾のアメリカ第七艦隊とも、連携していた。

サイト85を守ったのは、アメリカ海軍兵と、1000人あまりの、モン族兵士、300人のタイ兵士である。

ハノイが、ナパーム弾を浴びるようになると、このサイトの破壊が、ベトナム共産党の至上命令になった。

1968年3月、北ベトナム軍は、サイト85に、総攻撃をかけて、陥落させる。

アメリカ空軍は、サイトが陥落したことを知り、B52戦略爆撃機で、空爆を行い、証拠隠滅を計った。

この戦闘において、サイト85から、生還した兵士は、アメリカ海兵隊8人、モン兵士数十名のみ。

つまり、ラオスの戦争は、アメリカと、旧ソ連を後ろ盾にした、ベトナムとの、戦いであり、内戦とは、言い難い。

これは、悲劇である。

モン族の悲劇は、その後も続く。
多くのモン族の、青年、少年が、アメリカ軍によって、徴発されたのである。

現在、ラオス、サイブンプン特別区、ポリカムサイ、ルアンバパーンの、3地区を主に、モン族兵士2000人と、その家族、15000人あまりが、20の集団に分かれて、生活している。
ベトナム軍の、掃討作戦は、今も続き、餓死する者も、相次ぐ。

彼らは、ジャングルから、国連に救いを求めるが、ラオス政府は、国連人権委員会の、医師や、看護婦の現地入り要請を、拒絶したままである。

2005年、ラオス政府は、30年間否定し続けた、モン族掃討作戦を認めた。
しかし、ベトナム軍の関与は、いまだに、認めていないのである。

アメリカに加担した、モン族は、いまだに、敵として認識され、掃討作戦の上にあるという、悲劇である。

更に、ホーチミンルートには、不発弾の山である。
その被害も多い。

戦争処理は、いまだ終わらないのである。

気の遠くなるような、現状を、どのように、捉え、理解し、更に、治めてゆくのか。

ラオス政府は、中国寄りと、ベトナム寄りの要人が、対立する。
更に、中国も、ベトナムも、ラオスの資源を狙う。

いまだに、他国からの、影響を多大に受けるラオスである。

独立の気概が無いのは、フランス植民地化政策にもよる。

更に、愚行なのは、いまだに、化石のような、マルクス・レーニン主義を、新たに掲げて、精神教育を行うというもの。

要するに、国民を、精神的に、まとめるための、最も大切な、国の神話、権威が無いのである。

ベトナムには、ホーチミンが、タイ、カンボジアには、王様が、マレーシアは、イスラムがと、それぞれ、共同幻想を持つ。

国家とは、共同幻想の、共同体である。

日本の場合は、2669年という、天皇の伝統が、無形の権威として存在する。

マルクス・レーニンでは、無理である。

オーストラリアが、結局、原住民の、アボリジニの伝統と、文化に頼らざるを得なくなった。イギリスから、移民してきた人々は、伝統も、文化もオーストラリアにはないのである。

だが、後悔しても、遅い。
オーストラリアは、アボリジニ民族を同化政策によって、めためたに、貶めた。
その価値を、理解できず、彼らを、弱体化させ、今では、国の大きな、社会問題に発展するほど、アボリジニの人々の、問題が多いのである。

その根底には、偽善と、明確にすべき、キリスト教の、すべてを破壊し、その上で、キリスト教を押し付けるという、蛮行がある。

独善の、キリスト教こそ、民族破壊の、根っ子である。
そして、主義である。
その名は、共産主義。

私は、共産主義が、キリスト教から、生まれでたことを、知っている。
キリスト教の、反共運動は、身内争いなのである。

ラオスに存在する、少数部族の、数は、いまだに、不明である。
60から70ほども、存在すると、言われる。
驚くべきは、戸籍が無いということである。
戸籍を作ることが出来ないほど、ラオスは、遅れているのである。

信じられないの、一言。

2009年08月08日

ラオス・ルアンパバーンへ 8

再度、トゥクトゥクに乗って、ゲストハウスに向かった。

私は、汗だくになっていた。
浴衣の袖で、顔の汗をぬぐう。

風自体も、暑いのである。
ところが、現地の人は、あまり汗をかかないのである。
慣れなのであろう。

ゲストハウスに着いて、部屋に入り、まず、20ドルを渡した。
そして、ニッツに、チップとして、5ドルを渡した。

2500円で、とても、大事なことが出来た。
感謝した。

それじゃあ、と、再会の約束をして、別れた。
ニッツは、電話番号を教えてくれた。
次に来た時に、連絡することにした。

しかし、その後、私は、ニッツに、二度会うことになる。

シャワーを浴びて、まず、着替えをした。

ところで、ここでは、土曜日の、深夜3時頃から、日曜の夕方まで、停電になる。
停電だと、エアコンも、シャワーも、駄目。
だから、水シャワーになる。

水シャワーは、温かいので、平気だが、エアコンが効かないのは、困った。

昼過ぎていたので、買い物に出掛けた。
道端で、売っている物を買って、部屋で食べようと思った。

あの、ニッツのいるレストラン以外は、コーヒーショップにも入らなかった。
皆、路上の屋台から、買った。

ミニフランスパンの、サンドイッチが、一万キップである。
それを、夜の分と、二つ買う。
すると、コーヒーは、いかがですかと、声が掛かる。
と、そのように聞こえた。

コーヒーは、煎れたてで、五千キップである。

昼と、夜の、食事で、約、2,5ドルである。
と、思いきや、果物の屋台で、足が止まる。

丁度、多くの果物が、出る時期である。
兎に角、パイナップルが美味しかった。
一個分を、切り分けているものが、五千キップである。

部屋に戻り、窓を全開にして、昼ごはんを食べた。
部屋は、丁度、日陰になり、それほど暑くなかったのが、幸いである。

今夜で、この街と、お別れである。

マッサージにと、思ったが、諦めた。ここで、下手なマッサージをされると、益々、疲れると、思ったからだ。
何せ、こちらは、人に整体をし、マッサージにかかる、プロである。

ミニフランスパンは、多かった。
腹が満タンになった。

コーヒーも、大型のカップに、たっぷり入っている。

私は、そのまま、ベッドに、体を横たえた。

そして、うとうとしている時、ドアが、ノックされた。
ニッツだった。

三時頃だろうか。

彼は、私に会いたいという人がいると、誘いに来た。
それは、有難いと、思ったが、今は、これ以上に、何も出来ないのである。
会っても、何も出来ないのだから、申し訳ないと、その申し出を、断った。
しかし、ニッツは、少し、しつこく、誘うのである。
その人は、少し日本語が出来ると言う。

次に来た時に、会うことにすると、私は、固く辞退した。

渋々、ニッツは、帰っていった。
その時、ニッツが、今日は、まだ何も食べていないと、言うので、夜のために、買った、サンドイッチを上げた。

だが、再び、六時前に、来た。
何と、その時は、酔っ払っていた。

チップ分を、すべて飲んでしまったのかと、思えるほど、酔っていた。

矢張り、私に着物を着てくれ、会わせたい人がいると、言う。

いや、今回は、もう十分だと言ったが、ニッツは、酔っているせいか、頑固である。
と、ベッドに、横たわり、寝た。

酔いで、どろどろになっているようだった。
兎に角、私に会ったことが、嬉しくて嬉しくて、たまらないようだったことは、解った。

英語で、私を絶賛していた。

私は、ベッドに横になるニッツを、暫く眺めていた。
彼の幸せは、何か・・・

すると、彼の携帯電話が鳴る。
私は、ニッツを起こしてみた。
目を開けるが、再び、眠る。

こりゃあ駄目だ。

私は、意を決して、彼の勤める、レストランに行くことにした。
彼らに、迎えに来てもらおうと思った。
ところが、レストランに行くと、今日は、いつものボーイさんたちは、休みだというのである。

あららら
再度、部屋に戻り、ニッツを起こしてみたが、目は、開くが、起きる気配が無い。
また、携帯が鳴った。
また、私は、ニッツを起こした。

やっと、電話を取ってくれたが、受話器をきちんと、持てないのだ。

と、ニッツが、ぅえーと、声を上げて、トイレに、駆け込んだ。
そして、やや暫く、吐いていた。

私は、トイレットペーパーを持って、その横に立ち、ニッツに、少し千切って、渡す。それで、口元を、拭く。そして、吐くの、繰り返しである。

ようやく、収まり、やっと、携帯で、話すことが出来た。
何やら、色々と、言われているようだった。

終わると、フラフラしながら、戻りますと言い、今度は、本当の別れである。

必ず、また来るから。
私は、あなたと、ベストフレンドだと、言うと、ニッツは、安心した顔をして、バイバイと、出て行った。

私も、どっと、疲れた。

その頃は、電気が戻っていたので、エアコンをつけて、ベッドに体を投げ出した。

長い一日だった。
そして、内容の濃い、一日だった。

ニッツは、一体、誰に、私を会わせたかったのか。
きっと、日本人で、お金を持っているから、頼みを聞いてもらえると、思ったのだろう。
彼らから、見れば、とてつもなく、お金持ちに見えるのである。
ニッツは、私がドルを出したとき、財布のドル紙幣を見ている。
何かの時に、と、思う気持ちで、少しばかり、多めにドルを持っているのである。
お金は、見せては駄目である。

2009年08月09日

ラオス・ルアンパバーンへ 9

よく眠った。
酒も飲まずに、よく寝た。

朝、六時前に目覚めて、タバコをふかした。
ちなみに、ラオスの、ゲストハウスは、おおよそ、禁煙である。
喫煙場所は、外。

私は、分からぬように、部屋の中で、吸い続けた。
勿論、匂いが出るので、窓を開ける。

七時に、部屋を出て、メコン川通りに出て、散歩した。
すでに、道端では、商売が始まっている。

細い路地の、市場に向かった。
威勢の良い、掛け声がかかる。
驚くことはなかった。
コータから、聞いていたので、何が売っていても、驚かない。

イノシシの足、生きたカエル、いろいろある。
勿論、野菜も多い。
ほとんど、ラオス料理に使うものが、売られている。

日本人の姿は、無いが、ヨーロッパから来た、夫婦が、ガイドを連れて、見学に来ていた。
その、ガイドの説明を、私も聞いていた。

興味を引かれたのは、川魚である。
ナマズや、うなぎのような魚。そして、干した魚、イカである。
川でも、イカが、捕れるのか・・・

大きな魚もあった。
鯛を大きくしたものである。

あまり安いので、何かを買いたくなった。
行きつ戻りつして、買うものを、考えたが、結局、やめた。

剣先イカの、干したものを、買おうとしたが、その、売り子の女が、全く、やる気無し。
人生を、捨てているかのような、態度である。
その、気持ちも、解る。

毎日、毎日、暑い朝から、ここで、売るのである。
嫌になることも、あるだろう。

山で、採れたものを、持ってきて、広げて売る人も、疲れている。
何がしかの、お金を得るために、毎日、毎日、こうして、持ち運ぶのだろう。
商売の、原点である。

私は、市場を抜けて、大きな通りに出た。

昨日、ミニフランスパンのサンドイッチを買った、女の子たちの、店がある。コーヒー店も。
私が、通ると、手を振る。
私も、手を振る。
本当は、買いたいのだが、もう、部屋には、朝の食べるものがある。

コーヒーも、昨日のものが、残っている。
それで、素通りした。
また、会いましょうと、言いたかったが、止めた。

そのまま、ゲストハウスに、戻る。

一時間ほど、歩いた。

出発は、12時である。
昨日、ゲストハウスの、オーナーママに、トゥクトゥクを頼んである。

何と、料金は、30000キップである。
約、3,5ドル。もし、ドルで、支払うと、4ドルになるので、私は、キップで払うことにした。すでに、ママさんに、支払っていた。

つまり、空港からなら、6ドルなのであり、街中からは、3ドルで行ける。
半額である。ということは、あの空港の、チケット売り場は、半分、搾取しているということ。

こんな、些細な、金額にも、私は、拘るのである。
それも、これも、大半が、自腹であるからだ。人の金ではない。私の金である。

お金は、命の次に大切なもの。だから、大切に使う。

部屋で、ミニフランスパンのサンドイッチを食べたのが、九時頃である。
そして、冷めたコーヒーを飲む。
実は、私は、翌日の冷めたコーヒーが好きなのである。

食べ物は、腐る寸前、飲み物は、冷めたものが、好きだ。つまり、当たりやすいものを、好む。当たりやすいとは、食中りである。
だが、一度だけ、タイ・チェンマイで、食中りしたが、その後は、全く、異常なし。

少し、胸悪くなることがあるが、正露丸を飲むと、治まる。
また、胃腸薬である。

それに、食べ物で、死ぬことは、無いと思っている。

出発の、準備といっても、何も、物が無いのである。
二つのバックは、空であるから、一つのみ。やっては、いけないことだが、果物を、詰める。食べきれないからだ。

12時15分前に、荷物を、ゲストハウスの前に運ぶと、すでに、トゥクトゥクは、待っていた。
ゲストハウスのママさんに、お別れを言う。
えーとーーーー、ネクスト、タイム、ステイ、ヒアー
コープチヤイ・ライライ
そして、運転手に、オッケーゴー、である。

ホント、私は、アホではないかと、思う。
自分の言うことが、自分でも、よく解らないのである。

トゥクトゥクは、空港に、向かって、ひたすら、走る。ルアンパバーンの街を、どんどんと、走る。

2009年08月10日

ラオス・ルアンパバーンへ 10

トゥクトゥクの、おじさんに、1,5リットルの、水を一本差し上げて、お礼を言う。
チップなど、要求しない。

私は、荷物が、軽くなり、実に爽快な気分である。
空港に入る前に、セキュリティチェックがある。

ペットボトルを、あと、三本も、持っている。
駄目かと、思えたが、大丈夫。ちなみに、ペットボトルは、駄目な場合もある。
ラオスでは、飛行機にも、持って、乗れた。

また、来てください
警備の人に言われて、驚いた。
日本語である。

一時期、政府の観光担当の大臣が、日本にメッセジーを出した。
ラオスは、何もない国ですが、自然があります。どうぞ、その自然を満喫するために、一度、訪れてください、というものだった。

それで、二週間滞在なら、ビザがいらないのである。
タイ、ベトナム、マレーシア、カンボジアも、そうだ。
日本人なら、ビザ無しで、入国できる。

これも、国力のお陰である。

空港内は、すべて、禁煙である。
この、長い時間を、禁煙である。
ああ・・・
といっても、我慢は、出来る。
飛行機の中も、禁煙である。

ただ、喫煙場所があると、吸いたくなる。
その、喫煙場所は、外である。

であるから、一度、入って、登場手続きをして、再度、外に出て、タバコを吸う。
そして、また、セキュリティチェックを通る。
検査官が、笑う。
出て入り、また、出て、入る。

それで、二度で、止めた。
時間が、早いが、出国審査を受ける。
待つことなく、30秒で、終わり。
そして、待合室に入る。

まだ、一時間半もある。
トイレ掃除の、おばさんに、水を上げて、話をするが、英語が出来ないので、笑うだけ、でも、私は、日本人ですは、伝わった、というより、着物姿であるから、当然である。

おばさんは、顔を合わせるたびに、微笑んだ。

私は、空港内で、働く人に、時々、色々な物を、差し上げる。
お菓子だったり、果物などである。

次に行くとき、あちらから、声を掛けてくれる。
それが、嬉しい。

タイの空港の、一階の食堂で、食べるものを選んでいると、突然を、声を掛けられて、驚いた。
前歯の、抜けた、タクシー運転手である。
一度も、乗ったことはないが、妙に、私に話し掛けてきた、おじさんで、また、来たの、なんとかこんとかーー、と言う。

ああ、驚いた、である。
確か、彼には、タバコを上げた記憶がある。

ゴミ清掃のおばさんや、トレイ掃除のおばさん、セキュリティのお姉さんにも、覚えられていた。

中には、空港社員の、スーツ姿の、お兄さんにも、覚えられて、いつも、目礼される。

とても、格好よく、一度、トレイで、一緒になったときは、どういう態度がいいかと、悩んだ。

何か話そうとするが、言葉がみつからず、視線のみで、やり取り。
変な、雰囲気だった。

さて、いよいよ、搭乗である。
目の前に止まった、飛行機に乗る。

今、客を出して、少しして、私たちが、乗る。
トンボ帰りである。
そして、また、時間に関係なく、全員が乗ると、すぐに、動き出した。

安定飛行に入ると、早速、機内サービスが、始まる。
とても、不思議な、食事が出た。
乾燥肉のような、おかずに、もち米である。

少し硬い肉で、おつまみのような感じである。
それと、もち米を食べる。

周囲の人を見ていると、皆、残している。
私だけは、全部食べた。

時々、機長が、訛りのある英語で、途中報告をする。
全然、解らない。

ラオスから、タイ領内を飛んでいるはず。
下を見てもいいが、目眩がするので、止める。
ただ、目を瞑り、寝る。

そのうちに、下降をはじめて、着陸である。
別段、指導は、無い。というより、私に、聞こえないのかもしれない。
タイ語の、案内は、音楽のように、聞こえるし・・・

長い時間の、二泊三日が、終わった。

スワナプーム空港である。
また、タクシーと、交渉しなければ、ならない。
今度は、メーターオッケーと、決めて、乗り込んだ。
丁度、200バーツである。20バーツをチップで上げた。

五時前に、コータの滞在している、アパートに到着した。
コータも、丁度、学校が終わり、部屋に着いたところだった。

お互いに、顔を見合わせて、ため息を、ついた。
あーーーあ
よかった、よかった、である。
無事が、何より。

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