2009年09月01日

モンテンルパへ

フィリピン慰霊 モンテンルパへ

はじめに
マニラから、南に車で、一時間ほどのところに、モンテンルパという街がある。
そのモンテンルパには、フィリピン最大の、刑務所がある。

私は、戦後の、東京裁判で、B級、C級戦犯となった、兵士たちが、収容されていた、その、モンテンルパの、収容所と、そこで、思わぬ罪を着せられて、処刑された皆様の、追悼慰霊に出掛けた。

勿論、処刑された方々だけではない。その地で、命を落とした、兵士の皆様の追悼慰霊も、執り行った。

東京裁判にて、戦犯とされた、兵士たちは、日本の法律では、無い。
アメリカの指揮する、戦勝国が、敗戦国を裁くという、実に、茶番な裁判によって、決められたものである。

日本の法律に、戦犯という、罪状は無い。

当時の国民も、そのように、考えていた。
それの、一つの例が、モンテンルパである。

実は、このモンテンルパにて、収容されていた兵士が、作詞したものに、最初で最後の、作曲をした、伊藤正康さんが、86歳で、今年の六月に、鎌倉の自宅で、亡くなった。

彼も、そこで、死刑の判決を受けていた。
その死刑の日を、待つ間に、曲を作ったのである。
しかし、彼は、処刑されることなく、帰還できた。
それが、この歌、ああモンテンルパの夜は更けて、である。

彼の、仲間は、無実を訴えても、処刑された。

モンテンルパの夜は更けて
募る思いにやるせない
遠い故郷偲びつつ
涙に曇る月影に
やさしい母の夢を見る

昭和27年、1952年、四月に占領が終わると、各地の戦争裁判の結果、戦犯とされ、服役していた人たちの、早期釈放を求める、国民運動が起こった。

戦地や、収容所の慰問を続けていた、歌手の、渡辺はま子が、ああモンテンルパの夜は更けて、を、歌った。
それによって、フィリピンのモンテンルパに、収容されている、兵士たちの、存在が、国民に知られることになる。

監獄に収容されていた、死刑囚が作詞した歌詞に、国民は、泣いた。

つばめはまたも来たけれど
恋し我が子はいつ帰る
母の心は一筋に
南の空に飛んでゆく
定めは悲し呼子鳥

彼らの、減刑を求める、五百万人の署名が、集まるのである。

翌年、28年7月4日、フィリピン独立記念日にあわせて、元日本兵の、全員釈放が、決まった。更に、減刑されて、巣鴨プリンズに送還されたのである。

その年の、7月22日、モンテンルパ監獄から、釈放されて、故郷日本の、地を踏んだのは、百八名の、元日本兵である。
それを、横浜港で、出迎えたのは、二万八千人という。

誰もが、帰還を喜んだのである。
縁も、ゆかりも無い人たちも、彼らの帰還を、喜んだ。

モンテンルパに朝がくりゃ
昇る心の太陽を
胸に抱いて今日もまた
強く生きよう倒れまい
日本の土を踏むまでは

しかし、作詞した者は、処刑された。

今、戦争を、どうのこうのとの、話ではない。
少なくとも、国のために、戦うという、不可抗力の中で、亡くなった皆様は、その国が、追悼慰霊を篤くするものである。

私は、追悼慰霊の所作なくして、平和運動は、また、無いと、言うものである。

戦争の犯人は、誰かと、左翼、左派の夢見る人々は、犯人探しをする。
しかし、それでは、戦争は、終わらない。
戦争に至るまでの道は、実に、複雑である。

戦争関係の、秘密文書が、どんどんと、公開されている。

東条英機が、天皇に、涙ながらに、戦争をしなければ、日本は、立ち行かないと、迫った。
そして、昭和天皇は、私が、戦争に反対すれば、暗殺されるとも、知っていた。

しかし、国民に、天皇が無くなれば、どんなことになるのかも、天皇は、知っていた。
天皇無くして、日本という国は無いのである。
それが、2600年の伝統日本の、面目である。

今年は、建国2669年である。

敗戦の際も、昭和天皇は、退位せず、国民を救わなければならないとの、使命を持つ。そして、それが、できるのも、天皇だからである。

天皇とは、そのような存在であることを、天皇自身、知っていた。

昭和天皇は、国民を救わんがために、心を砕き遊ばされたと、言う。

史観というものに、囚われると、天皇の姿が、見えなくなる。

どんなに、納得した、論文にても、私が、納得しない部分は、宗教的行為による、慰霊は、どこの国もあり、それを、行うこと、日本も当然である。無宗教施設による、慰霊は、無いという。

しかし、私は言う。

日本は、宗教の国ではない。
伝統の国である。

死者を、奉る行為も、伝統である。

その、伝統を、宗教的と、置き換えてもいいのだが、私は、あえて言う。
伝統の死者に対する、所作を有するのが、日本である。それは、他の、どの国にも無い、伝統であると。

私の、追悼慰霊の行為が、どうしても、宗教、あるいは、宗教的と言われる。つまり、そのカテゴリーにしか、頭が回らないのである。つまり、アホである。

私が、御幣を、作り、言霊の、清め祓いをするのは、伝統である。

更に、言わせてもらえば、日本には、宗教という、概念も、観念も無い。皆無である。

そんな国は、日本以外に無い。
天皇を、上とし、民を、下として、この国は、伝統により、成り立ってきたのである。

かけまくも かしこき
とは、自然に対する、言挙げである。
更に、太陽を、天照と、お呼びする、太陽崇敬と、祖先崇敬の伝統の国なのである。

それは、この国が、島国ゆえに、出来上がった、独特の、伝統である。

更に言えば、死者、祖先は、我々と共に、在るという、心象風景を持つ伝統である。

明治期に、西洋から入ってきた、宗教学なるものは、キリスト教国のものであり、日本には、そのような、詭弁は、無い。

言霊が、音霊、おとたま、に、支えられてあり、音霊は、数霊、かずたま、に支えられてあることを知る民族である。
それを、伝統と、言う。
万葉集を読めば、解ることである。

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2009年09月02日

モンテンルパへ 2

前日の夜に、用意した、お握り。
三個。
ご飯が、残り、もったいないと、タラコも残っていたので、タラコお握り。

朝は、五時に起きて、六時にタクシーを予約していたので、それに乗り、成田行きのバス乗り場へ。
いつも通り。

バスの中では、眠っていた。
何せ、一人で、四個のバッグである。

支援物資は、32キロ。機内への持込は、搭乗手続きの時に決めようと思った。

搭乗手続きで、案の定、オーバーである。
ところが、受付の、お姉さんが、オーバーですね。何か、少し、抜いてください。一枚でもいいですから・・・と言う。

27キロであるから、オーバーである。それで、タオルを、一枚、抜いた。
すると、お姉さんは、帰りは、これでは、無理ですよ、と言う。
大丈夫です。これは、皆、差し上げるものです。
それなら、大丈夫ですね。

機内持込の、バッグと、自分用の、荷物のバッグを、持って、二つ。
うろうろしないで、出国手続きをした。

十分に時間がある。
二時間前である。
喫煙室に入り、タバコを、吸う。
何度も、出たり入ったりをする。
そして、いよいよ、お握りを食べた。

何と、旨い、お握りか。
ダイエーの、割引タラコ入りの、お握りである。

二個食べた。一個が、残る。これは、マニラに着いてから、食べようと思ったが、台北の待ち時間に食べた。
台北の待ち時間が、予定変更で、四時間になった。
四時間待つのは、疲れる。それに、ドルを持っていないと、思っていたので、何も、飲めない、食べられない。
後で、ドルを、持っていたことに、気づくが・・・

漸く、搭乗である。
台北から、マニラまで、三時間程度。
勿論、私のことであるから、決められた席には、座らない。

最後に、搭乗して、空いている、席に座る。
誰もいない、席である。横になって、寝られる席。

後の席が、空いていた。
そこに、座る。そして、寝て、マニラに、到着。

予定時間より遅く、夕暮れのマニラに到着した。
タクシー乗り場で、キップを切るタクシーに乗る。安全だからだ。

しかし、そのタクシー運転手が、事務所に立ち寄ると言う。その、訳が分からないが、そのまま、任せた。
私は、以前泊まった、ホテルの名を言ったのだが・・・

事務所に、着いた。そこで、一度、降りる。
そして、事務所の女に、再度、私の希望するホテルの、通りの名を言う。が、彼女は、別のホテルの、パンフレットを持ち出してきた。

そこで、私は、テーブルを叩いて、Sに泊まる、と、言い切り、外に出た。
運転手は、ソリーソリーと、追いかけて言う。

私は、荷物を、下ろしてもいいと、思った。
だが、運転手が、平謝りするので、再度、通りの名を告げて、ホテル名を、言った。
すると、運転手は、オッケー、ソリーと、何度も言った。

そして、目的のホテルに着いた。
メータータクシーなので、チップなしの、料金を払った。
それでも、運転手は、チップを要求しない。
毅然とした態度が、いい。

ただし、それが、すべてよいという、訳ではない。

私が、タクシーを降りると、ホテルのガードマンや、ポン引きのおじさんたち、その周りにいた人々が、歓迎の歓声を上げた。
私を、皆、覚えていたのである。

荷物を、皆で、運んでくれた。

私の方が、驚いた。

ハウロング スティー
テンデイズ
オッケーオッケー

一泊、1500ペソ、3000円のホテルは、改装していた。
といっても、部分的に、改装して、少しづつ、新しくしている。

以前に、泊まった三階の、別の部屋に案内された。
廊下には、木材が、ある。信じられない状況。

だが、私は、その部屋の広さを、好んでいた。
古いホテルだが、たっぷりとした、空間があった。
今回は、一人なので、ワンベッドルームである。

四人ほど、寝られるベッドが、ドーンと置かれてある。

まずは、一安心。
ここに、四泊する予定である。
ここで、モンテンルパに行き、衣服支援をする。

だが、従業員は、変わっていた。
フロントの人は、皆、顔を知っていたが、それ以外の人は、はじめてである。
兎に角、第二回目の、フィリピン滞在が、はじまった。


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2009年09月03日

モンテンルパへ 3

ホテルの隣が、コンビニである。そして、何と、その横に、更にスーパーが、出来ていた。
私の大好きなスーパーである。
これで、部屋でも、食事が出来るという状態である。

私の最初にするべきことは、支援と、慰霊のガイドを探すことである。
特に支援物資は、一人では、大変である。助手が、必要。

そこで、まず、ベッドメークの、ボーイと、話してみた。
新しいボーイさんで、24歳。
可愛らしい顔をしている。

色々、片言英語で、話して、解ったことは、一ヶ月働いて、8000ペソから、一万ペソ、つまり、16000円から、二万円である。
彼女がいる。
ぎりぎりの、生活であるから、彼女と、一緒に暮らしていると、察した。

実は、と、私は、支援の話をした。
ガイドを探していると言った。
そして、トンドエリアに、行きたいと言った。
彼は、それに関して、実に無関心だった。というより、トンド地区と、聞いて、ノーと、思ったと、後で、解る。

トンド地区は、地元の人も、敬遠する場所である。

仕事が終わるのは、何時と尋ねても、曖昧だった。
ああ、これは、駄目だと、思った。

冗談で言っていた、売春婦・・・
実は、ホテル前の、売春斡旋の店で、前回、食事をしている。
おじさんに、誘われて、カレーがあると、店に引っ張られた。

翌日、昼過ぎに、店に出向いた。
マネージャーが、私を覚えていた。
すぐに、おばさんが、出てきた。

彼女に、コータが、日本のマフラーをプレゼントした。
要するに、元締めである。

私は、支援の説明をした。
すると、女の子が、集まって来た。

その中に、トンド地区から出てきた女の子が、二人いるという。
更に、モンテンルパにも、行きたいと話した。
二日必要である。

一人の女の子が、日本語が少し出来ると、言う。そして、トンド地区の出である。
その子を、私の横に座らせた。

一日、2000ペソで、二日なら、4000ペソ、8000円である。
売春と同じ料金である。
二日間、彼女をどのように、使用してもいい。

私は、日本語が出来るのが、魅力だった。
それに、ハキハキとして、元気である。
更に、子持ちだった。

ホテルの部屋に来てもらい、支援の打ち合わせをする。
荷物を見せて、何があるのかを、知ってもらい、私は、彼女の、やるべきことを、説明した。

以前は、スーパーの店員をしていて、月、4000ペソ、8000円の収入で、お姉さんの収入と合わせても、やってゆけず、ここに勤めたという。
でも、この仕事も、12月で、辞めるという。

現場で、男女別に、人々を分けて欲しい。そして、あなたは、私が、衣服を渡している写真を撮る。
人が、混乱しないように、指導して欲しいと。

そして、彼女には、部屋に泊まらなくてもいいと、告げた。
あくまでも、ガイドを御願いした。

この、話は、後で、支援の段で、書くので、今は、省略する。

まず、モンテンルパ行きである。

これが、予想に反してしまったのである。

まず、彼女は、店の社長の車を、チャーターするということになっていた。
2500ペソで、行くことにした。

モンテンルパには、彼女のおばさんが住んでいて、日本人の慰霊地に、愛内することにしてもらった。

翌日の朝、11時出発である。

その朝、私は、六時に外に散歩に出た。
そして、ホテルに戻ると、一人の男が、近づいて来て、今日は、モンテンルパですねと、言う。
そうです。
私は、その男が、運転手だと、思い込んだ。
コンビニで、コーヒーを買っていると、その男も、入って来たので、私は、彼の分も、コーヒーを注文した。

外に出て、コーヒーを飲んでいると、彼が、ここから、20分ほどのところに、日本人の墓があるよ、という。もう、誰も、行かないところだよと、言う。
そして、私に、行きましょうと、誘う。

いやーー、すぐは、一寸・・・
20分ですから
そう、じゃあ、準備をするから、10分待っててください

私は、墓に行くために、日の丸と、御幣を作るために、準備していたものを、急いで、袋に入れて、ホテルの前に、出た。

何と、日本人の墓というのは、キリシタン大名で有名な、高山右近だった。
立派な、銅像が建っている。

彼は、キリシタンの信仰を続けるべく、幕府に、ルソン行きを願い出る。
しばし、天草の、有明海の、小島に、謹慎蟄居していた。

実は、その島が、天草四郎で、有名な、天草島原の乱の時の、一揆計画の場所だった。

彼は、そこから、ルソンに出向くことが出来た。
彼については、この日記の趣旨ではないので、省略する。


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2009年09月04日

モンテンルパへ 4

高山右近像の前で、写真を撮り、再び車に乗った。
私は、そのまま、ホテルに戻ると、思った。が、変だ。どんどん町から遠のくのである。

モンテンルパに行くのは、11時である。

どこに、向かっているの、と、私は、尋ねた。
モンテンルパ
えっ、11時じゃないの・・・

すると、運転手は、ああ、そうだった・・・いや、そうだった・・・

しかし、相当に、走っている。
私は、また、戻り、ホテルから出発するのは、嫌だと思い、いいよー、このまま、行ってくださいと、言った。
運転手は、少し日本語が出来る。

実は、この運転手は、偽者だったのだ。
ガイドを頼んだ、売春婦の女性が、店のマネージャーに相談しているのを、横で聞いていて、その仕事を横取りしたのである。

私は、それを、知らない。
ゆえに、その運転手が、その人だと、思ったのである。

運転手が、言う。
私は、運転も出来るし、日本語も、解るから、女のガイドいらないよ、と。

まあ、それもそうである。

兎に角、私たちは、モンテンルパに向かった。

モンテンルパの街中に入り、刑務所となっている場所を目指した。
運転手は、時々、車を止めて、道を人に尋ねていた。

道は、複雑だった。

そして、ようやく、刑務所の敷地内に、入る。
その時、警備の前で、書類を貰う。

昔は、監獄、今は、刑務所であるが、とても、大きい建物であり、周囲の壁がまた、延々と続く。

そこを通り過ぎて、ようやく、墓地が見えてきた。
その墓地を通り、目指す、日本兵慰霊碑の、庭園がある。

そのが、行き止まりの場所であった。

ああ ああ
やっと、モンテンルパに来た。
あの、歌に歌われた、モンテンルパである。

しばし、私は、感動した。
しかし、慰霊の行為を執り行わなければならないと、準備をはじめた。

日の丸の国旗と、御幣のために、近くの木の枝を折る。
それに、用意していた、御幣飾りの神紙を取り付けた。

運転手に、慰霊の説明をして、写真を撮ってもらう。
その時、一人の男がやってきて、私に、線香を差し出した。

きっと、今までの慰霊の人々が、そのようにしたのであろう。
私は、それは、必要ありませんと、断った。

彼らは、はじめて、見たのであろう。
私の、追悼慰霊の行為である。

霊位を、お祭りする反対を向き、太陽に向かって、神呼びをする。
日の丸と、御幣を掲げて、天照大神を、お呼びする。
そして、祝詞を唱える。

15分ほど、祝詞を唱えて、霊位に、向かい、深く頭を下げて、清め祓いを執り行う。
そして、哀悼の意深くして、お送りの、音霊を、述べる。

しばしの、送りの音霊である。

祝詞は、言霊の所作、音霊は、お送りの所作である。
崇敬の念深くして、霊位を、あるべき場所に、お送りする。
ただし、それは、霊位が、決めること。

靖国に戻られる方、故郷に戻られる方、父母の元に戻られる方。
次元を異にする方、様々である。

また、追悼の思い深くしてある場所であり、すでに、重い想念は無い。

兎も角、私は、ここに来て、その心を、現したのである。

四方を祓い清める時に、運転手が、写真を撮った。

更に、慰霊碑の庭園中央の、英語の記し書きの前で、日の丸と、御幣を持って、ああモンテンルパの夜は更けて、を、歌った。

運転手も、男も、ただ、呆然として、見ていた。
そんなことをした人は、いないのだろう。

歌い終わり、写真を撮ってもらった。

そして、慰霊の儀は、終了した。

庭園を出る時に、その管理者である、老人が出て来た。
そして、署名をと言う。
私は、また、引き返して、亡くなられた方の写真が掛けられてある、東屋の椅子に座り、署名をした。
すると、寄付を御願いされた。
管理をするために、必要なのですと、言われた。
私は、500ペソを一枚出した。すると、老人は、もう一枚と、言う。
もう一枚、出した。合わせて、1000ペソ、2000円である。

二日前にも、どなたかが、慰霊に訪れていた。

ようやく、終わり、車の場所に戻る。
男には、100ペソをチップとして、渡した。
すると、運転手が、駐車料として、出てきた、おばさんに、50ペソの、チップをと、言うので、その通りにした。

名残惜しかったが、車に乗り込んだ。

刑務所の、横を通るとき、黙祷を捧げた。

処刑された方も、帰還された方も、本当にご苦労様でした。
ただ、それだけである。
ただ、そのためだけに、訪ねて来た。

追悼慰霊は、平和を願う者の、当然の行為である。

御国のために、その人生を、また、その人生の一時期を、捧げたのである。
その苦労は、労っても、まだ、足りない。

戦後の人は、ただ、自分のために、生きられた。しかし、あの当時の人は、特に、男たちは、不可抗力である、戦争に駆り出された。

個人的には、抗えない、強制である。

国のために、戦わなければならないこともある。
そこから、逃れて、花実が咲かない時代である。

であるから、国は、最高の礼を尽くして、彼らを崇敬しなければならない。国民も、然り。

先進国で、日本だけが、戦没者の霊位に対して、真っ当できないでいる。
例えば、靖国神社である。
あれは、戦死者を、祭神として、お祭りする、日本の文化と、伝統の粋である。
国内の、マスコミさえも、政治家の参拝を、個人か、公人としてかなどという、馬鹿げた、質問をする。

どこの国でも、それなりの、宗教施設によって、戦死者を、慰霊し、崇敬している。
総理大臣が、参拝して、当然である。
それを、礼儀の知らぬ国が、不快感を表すなど、論外である。

靖国神社の成り立ちを見れば、それは、日本の文化と、伝統であることが、解る。

更に、日本には、戦犯という、罪名は、無い。

東京裁判は、実に、無効である。

もう一言言う。
靖国神社は、宗教施設というより、戦死者の追悼慰霊の、鎮まる社である。

そのように、理解してきた。
要するに、宗教というものを、超越する。
どこの国でも、戦死者に対して、最高の敬意を表するのが、世界の常識である。

無宗教の、追悼施設を建てるという、話は、検討違いも、甚だしい。
それは、日本の伝統文化を、全く理解していない証拠である。

更に、靖国神社には、その名前のみが、掲げられる。

瑣末な宗教団体が、靖国は、神道であると、検討違いを言うのは、全く、日本という国の成り立ちを、知らないか、理解していないのである。

左派、仏教系、キリスト教系の信徒は、国というものを、知らない。
国なくして、宗教も無いのである。

更に、靖国に、奉られることは、憲法違反などという、見解は、アホというしかない。
靖国には、名前だけが、捧げられてある。

日本の伝統は、名前を、ことのほか、貴ぶ伝統文化があるということである。

靖国に出向きたくない、遺族は、十分に、それぞれの方法で、慰霊をすれば、済むことである。

瑣末な宗教団体の、広告塔となっているのみ、である。
実に、あはれ、な、ことである。

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2009年09月05日

モンテンルパへ 5

モンテンルパから戻り、ホテルに着いたのは、本当の出発の、11時前である。

運転手にお金も渡し、部屋で、ホッとしていると、ドアがノックされた。
ガイドの、女性である。
男も、一緒である。

あれっ
今、モンテンルパから戻ったんだよ
えっ、どういうこと。出発は、11時でしょう

私は、運転手から、貰った、電話番号を出して、この人が、行ってくれたよと、言った。
女性は、知らないと言う。

今度は、私が、どういうこと、と、言った。どうして、あの人は、今日の予定を知っているの
私、言ってない

しかし
あの時、誰かが、この話を聞いていたよねと、連れの男に女が言う。

男が、私が、差し出した、電話番号に、電話する。
そして、しばらく、話し合いが、続いた。

女性は、涙を流した。

どうして・・・

私は、再度、どうして、あの人は、この予定を知っていたのかと、女に、問うた。
しかし、女は、解らないと言う。

要するに、私を連れた男は、仕事を横取りしたのである。

私は、二人に、言った。
このことは、私と、関係ないことだ。あなたたちで、処理して欲しいと。

女は、頷いた。
そして、悄然として、部屋を出て行った。
私は、女に、もう、今日は、これでいいから、一緒に過ごさなくていいと、言った。

彼女に、損は無い。
お金は、払っている。
セックス無しの、とても、良い条件の仕事だった。
更に、彼女は、自分と、同じ店で働く女たちの、子供の衣服を、優先して、私の支援物資から、頂くことが、できたのである。

あの、運転手は、言った。
あの店は、三流の女たちが、いる。皆、子持ちの女だ。
そして、女の取り分は、三割だと、言った。つまり、私が、払った、2000ペソの、三割、600ペソ、1200円が、取り分なのだ。

その次の、二流は、3000ペソ、その上が、4000,5000ペソとなる。
上になると、若くて、美しい女たちである。

それでも、取り分は、三割である。

フィリピンは、売春禁止である。しかし、それを、厳格に規制すると、多くの人は、路頭に迷う。ゆえに、合法的処置が、取られている。

実際、日本人をはじめ、韓国、中国人が、女を買うために、マニラに来るのである。

女は、部屋を出る時、寂しそうに、私に、手を振った。
私も、これで、彼女との、関係は、終わりである。

運転手の男は、折角買ったんだから、セックスしなよと、言った。

だが、私に、それだけの、気力は無い。
慰霊と、支援で、どれほど、疲労するか。

疲れマラという言葉がある。
疲れると、ペニスが、立つというものである。
確かに、疲れマラという、状態は、あるが、実際に、単独で、慰霊と、支援のことをする身には、疲れマラどころではない、疲れがある。

マニラで、支援活動をするということは、地獄に、身を入れるということと、同じである。

兎に角、私は、それで、彼女との関係を、終わった。
そして、それで、良かった。

私に必要なのは、女ではなく、男の協力者である。
支援物資を運ぶのも、力である。

実は、トンド地区に、支援に出掛けた時、彼女が、ガイド役をしたが、役立たずであった。
タクシー運転手が、見かねて、助けてくれたほどである。
これは、後で、書くことにする。

あなたは、いい人と、女は、言った。
確かに、セックスをせず、彼女は、実に、楽に、二日分の、売り上げを得たのである。
勿論、それでも、足りない。
そこで、お客に、たかる。
日本人なら、たかると、まあまあと、金を出すのである。

さて、こうして、モンテンルパの追悼慰霊の儀は、終わった。

最後に、ホテルの、ドアマンである、おじさんが、私に、タクシー代金は、幾らだったと、尋ねた。
2500ペソと言うと、頷いた。

私は、オッケーかと、聞いた。
おじさんは、オッケーと、言った。
つまり、ボラれた訳ではなかった。

ホテルの従業員は、私の行動、活動を理解していた。

とても、親切に、そして、心配してくれていたのである。

レイテ島に出掛ける時も、間違いないタクシーを捕まえて、国内線の、セブ航空だと、伝えてくれた。
要するに、人の心の通う付き合いなのだ。

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2009年09月06日

モンテンルパへ 6

疲れると、食欲が無くなる。
私は、部屋で、ベッドに体を預けて、休んだ。

エアコンの涼しさが、心地よい。
少し、うとうとした。
もう少し、あの場所にいて、モンテンルパを味わいたかったと、思った。
いつか、また、訪れたい。

昼近くになり、私は、ホテル近くの、地元の食堂に、出掛けた。
何せ、おかずと、ご飯で、50ペソ程度の料金である。100円で、昼ごはんが、食べられるのである。

家族総出で、切り盛りしている店である。
おばちゃんがいた。
ハーイと、声を掛けた。

にこっと、笑い、手で、椅子を示す。

店の前の、おかずの種類が、増えていた。
煮込みハンバーグが、新たに、加わっていた。
私は、それを、注文した。

おかずを注文すると、ご飯がついてくる。

おばちゃんが、スープはと、聞く。
私は、手を上げて答えた。

美味しい。
フィリピン料理というものは、無い。フィリピンは、食べ物が、不味い。
しかし、安食堂のものは、旨いのである。

私は、春雨の、おかずも好きだ。
それだけで、済ますこともある。

それで、ご飯の量が多い。
時に、ご飯に、スープを掛けて、食べる人もいる。
スープが多いおかずの場合は、皆、そのスープをご飯に掛けるようである。

目の前の、若い男は、塩煮の魚で、二人分のご飯を注文して、食べていた。
それでも、ここで、食べられる人は、幸せである。
この店にも、入られない人が、大勢いる。

100円の、お金も無い人々である。

更に、家も無い。
道端で、寝る。
暑い国だからこそ、出来る生活である。
布団も、いらない。

だが、雨が降ると、途端に、涼しくなる。
それは、私には、涼しいが、彼らには、寒く感じられるのだろう。
ジャケットを着ている人もいる。

ダンボールを敷いて、寝られる人は、まだ、良い方である。
そのまま、地べたに、寝る人。
止めてある、トラックの、足台に、寝る人もいる。
更には、外に出してある、テーブルの上に寝る人も。

路地に入ると、まさに、悲惨である。

裸の子供たちが、大勢いる。
そして、裸のまま、寝る。
それは、体が、強くなるというものではない。
着るものが無いゆえに、そうなのである。
特に、幼児は、そうである。

食べ終わり、エルミタ教会の前の、公園に行く。
その公園も、路上生活の人が、集う。

更に、仕事を得られない人々も、ぼんやりと、過ごしている。

そして、物売りである。
私は、一人の、物売りのおじさんと、親しくなった。

最初は、私の横で、仕事の準備をしていた。
取り出した、偽の、ブランド物の、財布を私に見せて、700ペソといった。
これは、1000ペソもしますという。

だが、欲しいものではない。

そこで、色々、彼に質問してみた。

家族は
子供が三人います。学校へ行っているのが、二人でねー
一月、どのくらい、売れますか
8000から、一万ペソという。
16000円から、二万円である。

それで、やっと、生活が出来るという。

ジャパニーズ
そうです
この辺りの女は、3000ペソで、買えますよ
そうですか
日本人の男は、女を買うというのが、当たり前なのだ。

歩いている女に、声を掛けて誘ってもいいのである。

ここで、いつも、売っているの
いやいや、この辺りを回り歩いて売ります

そして、このおじさんと、何度も、顔を合わせた。
私のホテルの前に来ても、品物を広げていた日もある。

そんな時に、コーヒーを買って、マイフレンドといって、渡す。
道で会うたびに、挨拶を交わすようになった。

いつも、この辺りを歩いているので、また来たら、声を掛けてくださいねと、言われた。

posted by 天山 at 00:00| モンテンルパへ 平成21年9月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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