2009年10月01日

レイテ島慰霊 1

レイテ島には、フィリピンの国内線、セブ・パシフィックに乗って、一時間と少しである。

当日は、満席だった。
同じ顔の写真のTシャツを着た人たちが、50名ほどいた。
誰なのか、解らない。
ただ、イスラム系の人たちである。

私は、搭乗手続きの、30分前に国内線乗り場に、着いていた。

国際線と、同じく、二時間前と、言われたからだ。

ホテルから、タクシーで、125ペソ。
チップは、無視して、上げなかった。
運転者は、不思議な顔をして、少し停車していたが、無視した。

セブ・パシフィックの社員たちは、親切だった。
初めての、空港で、よく解らないのである。
トイレも、乗り場も、人に尋ねた。

言葉は、解らないが、場所を尋ねると、世界共通で、指差して、教えてくれる。その指先を、見るのである。
その、方向へ、歩いてゆく。
また、解らなくなれば、人に尋ね、繰り返していると、目指す場所に行く。

すべてが、この調子である。

搭乗手続きをして、時間があるので、搭乗口に向かわず、二階のレストランに上がった。

餌のような、食べ物ばかりである。
アメリカン式の店。

よく解らないが、朝ごはんとして、ご飯を食べたかったので、写真のナンバーを言って、注文した。

ところが、出てきたものは、ラーメンに似たものである。
何が、違ったのか、解らない。しかし、しょうがない。食べた。
不味い。
ただ、しょうゆ味系が、フィリピンの味なので、食べられることは、食べられる。

持参していた、パンを取り出して、食べた。
更に、ハムも。
私は、捨てないので、持参して、歩く。
未だに、マニラで買った、みかん一つが、部屋にある。
勿論、禁止行為である。

腐ったと、確信するまで、持ち続けるのである。

さて、搭乗口に向かった。
大勢の人である。

前と後ろに、搭乗口があり、どちらなのか、解らない。
私は、いつも、一番最後に乗る、癖がある。
国際線では、決められた席に座ることは、ない。

搭乗時間が来たが、前後のどちらか、解らないので、待っていた。

さて、どちらか。
両方から、人が出て行く。

だいたい、見当がついて、乗り込むことにした。
チケットを見せると、大丈夫である。

今回は、満席であり、決められた席に向かう。
窓側である。
アーー嫌だ。

すでに、二人が座っていた。つまり、その二人を、立たせなければならないので、詰めて、座るように、促した。
おばあさんと、隣が、若い女性である。
二人とも、言うとおりにしてくれた。
通路側に、座る。

そして、寝た。

途中で、飲み物サービスがあり、目覚めた。
私は、マンゴージュースを頼んだ。
すると、50ペソと、言われた。
あらっ、そうだった。
サービスではないのだ。販売なのだった。
しょうがなく、50ペソを払う。

それを、飲み終わる頃、到着である。

そして、空港に降りた。
飛行機から、歩く。
寂れた空港である。

荷物を受け取り、空港から、出るまでの時間が、異常に長かった。すべて、人の手でするのだ。

ようやく、空港から出て、さて、乗り物である。
ホテルは、決めてあったので、ジプニーに乗ることにした。

信じられない行為のようである。
当然、タクシーに乗ると、思っている人々。

タクシー、タクシーと、私に声を掛けるが、無視する。
ジプニーを探す。
荷物を車の上に、積んでいる、ジプニーがあった。それに乗った。

ぎゅうぎゅう詰めである。
私の座る場所を、少し空けてくれた。

勿論、暑いから、汗が出る。

行き先は、知らない。でも、街には、行くだろうと、乗ったのだ。
矢張り、街に向かう。

一人、一人と、好きな場所で、降りる。

次第に、賑やかな、街中に入る。
どんどんと、人が降りる。

最後は、数名が、残った。
ところで、私の行き先は・・・
車の助手である、男の子が、声を掛けてくれた。

ホテルの名前が、出てこない。
だが、ホテルの近くに、大きなスーパーがあったので、ビッグスーパー、ニァと、言った。

えっ
他の客も、えっ、である。
ビッグスーパーと、皆が言う。

おばさんが、ロビンソンよと、言うように、聞こえた。
しかし、ロビンソンは、マニラである。
いや、アジアスーパーだろうと、男が言うように聞こえた。

皆が、議論した。
車は、走っている。
一度、一人降りるので、止まった時、私は、バッグを、男の子に下ろして、貰った。そして、バッグを開けて、ホテルの名前を探した。
Rホテルと、言うと、一人の男が、それを、運転手に伝えてくれた。

そのホテルは、街中にあり、丁度通り道だった。良かった。

50ペソ、100円を払い、無事に、ホテル前に到着である。

無謀と、言う無かれ、それなら、私の単独行動は、すべて、無謀である。

怖いものは、無い。
幽霊が、怖いのである。
ところが、そのホテル、幽霊ホテルだった。
私の部屋に、それが、いた。

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2009年10月02日

レイテ島慰霊 2

ホテルは、予約していたので、話は、スムーズである。しかし、アジア系のホテルは、特に安いホテルは、見てから決めるべきであると、痛切に思った。

部屋に案内された。
暗い。
エアコンだけは、よく効いた。
トレイ。水か出ない。ウンコをした時、シャワー用の、水から、バケツに水を入れて、カップで、流すという・・・
窓があるが、隣のビルと、接していて、開けられるものではなかった。

800ペソ。1600円。それでも、私には、高い。
タイでは、300バーツという、900円のゲストハウスに泊まる。

フィリピン人の意識と、日本人の意識は、あまりに乖離する。
壊れたら、直すのは、日本人としては、当たり前だが、あちらは、そのままである。
要するに、客が入ればいいのだ。その客の評判などは、どうでもいい。
勿論、高級ホテルは、別である。
部屋に入り、先にお金を貰えば、こっちのもの、である。

結果、三泊分の料金を支払い、一泊だけ、泊まったという、ゴーストホテル。

その異変に気づいたのは、昼の食事をして来て、ベッドに体を、休めていた時である。

その食事も、アメリカンスタイルの、フード店に入り、春雨の炒め物を注文して、驚いた。140ペソと、安いと思い込み、頼んだが、五人前ほどの量である。
一人で、食べるものではなかった。
それに、豚の、すべてが、入っているようなもの。
頭から、足の先まで。そして、内臓まで・・・

三分の一食べるのが、やっとだった。
アイスーティーで、流して食べた。

ウェーーーーと、思いつつ、ホテルに、戻る。

ベッドに横になっていると、ドアの場所が、非常に気になる。

ここからは、私の妄想である。

まず、一体は、熔けているような人、人が、重なるようである。
一人ではないから、火に焼けた人が、重なっているのか・・・

そして、もう一人は、女性である。
何と、聖母マリアだと、思っているようである。
つまり、マリア様信仰の深い女性が、死んでから、自分をマリア様だと、思い込んでしまったようだ。

勿論、私は無視して、過ごした。
それは、目には、見えないから、何ともない。

レイテ島は、日本軍が、植民地化して、住民を戦争に巻き込んだ、激戦地である。
住民にしてみれば、とんだ迷惑である。
その後、アメリカ主導の、支配により、住民たちは、翻弄された。本当に、気の毒な、場所である。

それは、また後で、書くことにする。

私は、衣服支援の衣服も、マニラですべて渡してきたので、ここでは、追悼慰霊だけを、執り行う。
そして、その慰霊の一つが、最初の特攻隊攻撃の皆様と、タクロパンのレイテ沖で亡くなった人々を追悼慰霊するものである。

街の東側にある、レイテパークに行き、マドンナ・オブ・ジャパン、すなわち、マリア観音像の前に広がる海に、慰霊の所作を執り行う。

何が何でも、いの一番に、慰霊を行いたい。

ベッドに横になりながら、そう、思っていた。
すると、ドアが、ノックされる。
ボーイが、タオルと、トイレットペーパーを持って来た。

そこで、尋ねた。
明日、タクロパンを一時間ほど回りたいが、バイクタクシーは、幾らくらいかかるのかと。
すると、彼は、身を乗り出して、友達が、バイクタクシーをやっているから、聞いてあげますと言う。
それから、その話のために、度々、彼が部屋にやって来た。

そして、ホテルに、マッサージサービスは、あるかと、尋ねると、あると言うので、幾らかと、問うと、700ペソと、答える。
マニラより、高い。

ボーイマッサージはいるのか。
すると、ボーイが好きかと、聞かれた。
ボーイの方が、力が強いと、答えたが、意味が違うような気がした。

結局、ガールしか、マッサージは、いないということで、ガールにした。

私の、唯一の旅の楽しみは、マッサージである。
日本のように、銭湯は無いし、男のための、風呂と言うと、あちら、つまり、エッチ系しかないのである。

夕方、マッサージ嬢が来た。

オイルマッサージである。
ところが、上手だ。
力がある。
これは、いい。と、思いきや、体を反転させると、タオルを取られる。つまり、全裸である。
そして、仰向けのままに、マッサージが続く。

マッサージ嬢との、やり取りがはじまる。
射精だけだと、2000ペソ、セックスだと、3000ペソであると。
それは、マッサージ料金も含む。

いやいや、マッサージオンリーであると、私。
すると、いやいや、御願いですと、マッサージ嬢。

私は、700ペソを、貰っても、取り分は、200ペソなのです。
後は、オーナーのものです。
そう。
そうです。大変なんです。
だから、どちらですか。

レイテ島だけはない。
フィリピンは、搾取の国である。
つまり、大半のお金が、搾取される。

後で、知るバイクタクシーの話も、そんなことからの、激しい、やり取りがある。
搾取される人は、取れる人から、取らなければ、やってゆけない、システムなのである。

そうして、また、法整備が整っているのである。

貧しい人は、決して独立できないような、法整備である。
誰の、仕業か。

取れる人とは、観光客である。
現地の人からは、取ることが出来ないのである。

一度きりの、観光客が、カモである。

マッサージ嬢との、やり取りは、もう面倒なので、省略するが、結果、私は、100ペソのチップで、彼女を収めた。

そして、マッサージが終わると、待ってましたとばかり、ボーイが来て、明日のバイクタクシーの交渉である。

一時間、800ペソという。1600円。
高いのか、安いのか、よく解らない。しかし、話を聞くと、彼の仕事以外の時間で、オッケーと言う。
では、何時かと、聞くと、夕方の五時である。

それでは、駄目だと、言った。太陽が、上に出ている時だ。
それじゃあ、朝の五時は、どうか。
朝の五時とは、また、早い。

私は、国旗の日の丸を出して、実は、祈るために、明日は、レイテパークに行くのであり、観光ではないのだと、言った。その後で、セントニーニョチャーチに行くと。

セントニーニョとは、幼きイエスという意味である。
要するに、幼きイエスを、主にして奉るという意味。

カトリック教会は、聖母を奉る教会、聖人を奉る教会が多い。
マニラでは、幼きイエスを奉る教会が多い。

それに、800ペソに、拘った。
どうも、高いのではないかと、思えた。
メータータクシーでも、そんなにかかるだろうかと。

ボーイは、価格を下げた。
500ペソでは、どうかと。
それで、一気に、解った。ボッていると。

いや、無理ですねーーー
昼間じゃなきゃ。アイムソーリー、ソーリーと、何度か、言った。

翌日、直接、バイクタクシーのおじさんに、尋ねた。
マドンナ・オブ・ジャパンまで、いくらかと。
20ペソである。

それなら、教会を回り、その後、街のレストランに、戻ると、いくらと、尋ねると、100ペソと、答えた。本当は、そこで、おじさんは、少し高めに言ったと、思う。
しかし、昨夜の料金と、比べると、明らかである。

約一時間ほどの、時間である。

後で、それを書くことにする。

さて、私は、夜のタクロパンに出た。
といっても、ホテルの付近である。
大型スーパーに出掛けた。そこで、食料を買って、食事は、部屋ですることにした。
それが、一番、良い。

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2009年10月03日

レイテ島慰霊 3

少し、フィリピンの戦況を俯瞰する。

昭和19年、1944年、九月半ば、米軍は、ペリリュー、モロタイ、アンガウル島に上陸を開始して、その各飛行場を占領し、フィリピン上陸の戦略体勢を整える。

大本営陸軍部は、フィリピン、特に、ミンダナオ、レイテ、ネグロス島など、中南部の防衛を強固にすべく、第十四軍を、第十四方面軍に昇格させ、そして、新たに、第三十五軍を編制した。

更に、大本営海軍部も、戦艦大和、武蔵を擁する第二艦隊を原油地帯、スマトラ島リンガ泊地で、訓練させ、アリューシャン方面から呼び戻した、第五艦隊および、空母部隊の第三艦隊を内地に待機させた。

10月17日、レイテ島東方海上に、マッカーサー率いる米軍、約20万軍が終結した。
艦隊、輸送船、艦艇など、合わせて、734隻であるから、とんでもない大集合である。

そして、20日、午前10時、タクロバンに、米軍第10軍団が、南約30キロのドラッグに第24軍団が、上陸を開始する。

米軍は、日没までに、兵士約六万人、物資一万トンの揚陸を終わり、第10軍団は、タクロバン飛行場を、占領した。

陸軍は、この際、ルソン島での決戦を変更し、レイテ湾にて、一挙に、米軍の大軍を撃滅すべきだと、主張する。
しかし、第14方面軍の大将に就いた、山下泰文は、対策も、準備も不十分なレイテ決戦は、成功の見込みがないと、反対する。

だが、大本営と、南方軍の説得に、応じて、妥協する。

南方軍は、第一師団、第二十六師団、独立混成第六十八旅団を、レイテに増派する。

大本営陸軍部が、決戦場を変更したのは、連合艦隊の、命令を遵守する、栗田艦隊がレイテ湾に突入すれば、陸海空となった、攻撃が、米軍を粉砕できるとした、願望である。

そして、栗太艦隊を援護するためにとの、一念から、神風特別攻撃隊を編制することになる。

しんぷう とくべつ こうげきたい
後に、かみかぜ特攻隊と、呼ばれるものである。

最初の、特攻隊が、レイテ湾の、米軍に、攻撃を仕掛けたのは、1944年10月25日である。

神風特別攻撃隊敷島隊が、米機動部隊に突入。
空母セント・ローを撃沈。
米軍将兵に、戦死、行方不明1500人、負傷者1200人の、大被害を与え、飛行機128機を撃破した。

大戦果である。

このニュースは、日本のみならず、世界に伝えられると、太平洋戦争の局面は、全く異常な形相を帯びてきた。

それは、世界史の、戦闘には、思いも付かない、攻撃法だったのだ。

マッカーサーは、言った。
自殺攻撃の神風パイロットが本格的に姿を現した。この驚くべき出現は、連合国軍の海軍指揮官たちをかなりの不安に陥れ、連合国軍艦隊の艦艇が至るところで撃破された。空母郡は、この危険な神風攻撃の脅威に対抗して、搭載機を自隊を守るために使わねばならなくなったので、レイテの地上部隊を援護することには手が回らなくなってしまった。

特攻攻撃は、リンガエン湾でも、21隻の艦艇を、撃沈していたのである。

脅威
米軍兵士たちは、この信じられない攻撃法に、脅威を感じ、更に、精神に異常をきたす者も、現れたという。

ベイツという、海軍中佐は、言う
日本の空軍が頑強であることはあらかじめ知っていたけれども、こんなに頑強だとは思わなかった。日本の奴らに、神風特別攻撃がこのように多くの人々を殺し、多くの艦艇を撃破していることを寸時も考えさせてはならない。だから、われわれは艦艇が神風機の攻撃を受けても、航行できるかぎり現場に留まって、日本人にその効果を知らせてはならない。

アメリカ軍は、神風特攻の、あまりの猛威に恐怖し、沖縄戦で勝利を確実なものにするまで、神風による、甚大な被害を国内では、公表しなかったのである。

米ジャーナリスト、A・バーカーの言葉
西欧人の目には、天皇と国家のために、よろこんで自己の生命を捧げるように、国民を慎重な考慮の末に利用した軍部の指導は最も卑しむべき野蛮な行為であったと映っている。しかし、連合国軍は、神風特別攻撃隊員たちを尊敬している。それはおそらく彼らが特別攻撃で手痛い打撃を受けたためであろう。

レイテ湾に、突入した、第一次神風特攻隊は、24機である。
つまり、24名の、兵士の死がある。

その攻撃は、米兵たちにとっては、信じ難い攻撃であり、突入してくる、特攻機には、自分と、同じ人間が乗っているのであるという、事実は、理解の範疇を超えていた。
こんな人間相手に、戦って勝てるのかと、思うのである。

精神的、心理的にも、特攻隊が、与えた影響は、絶大であった。

ここで、私が、特攻隊に対して、何ほどの感慨を語っても、その行為の前には、塵の如くである。

様々な、評価や、批判があるが、それは、事実であったということ、である。
その真実は、人それぞれの価値観による。

私の、すべきことは、レイテ湾において、散華した、その皆様と、更に、レイテ島で被害を受けた、皆様への、追悼慰霊の所作のみである。

語るを得ず

戦争という、狂気は、ここまでに至ったのである。

私は、慰霊の行為を、執り行うのであり、それを、分析したり、批判したり、評論するものではない。

ただ、そこに、国のために命を、捧げた人がいるという、事実のみが、ある。
私には、それ以外に、考えることは、ない。

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2009年10月04日

レイテ島慰霊 4

慰霊当日は、日曜日であり、朝から晴天である。

ホテルから、出て、すぐ前のバイクタクシーを、捕まえた。
料金は、書いたとおり。

レイテパークに向かう。
東海岸は、レイテ湾に向かうので、慰霊には、最適であり、更に、マドンナ・オブ・ジャパン、マリア観音が、建つ。

10分ほどで、到着する。

即座に、木の枝を折り、日の丸を用意する。
マリア観音が建つ前で、神呼びを行う。

丁度、マリア観音に背を向ける形になる。

バイクタクシーのおじさんは、変だと思っただろう。
普通は、マリア観音に向かうと。

太陽を仰いで、神呼びをすると、太陽の光が、一段と強くなる。
そして、海に向かい、祝詞を上げる。

私は、右手に御幣を、左手に、日の丸を持つ。
誰もいない。
おじさんだけが、見つめている。

祓い給え、清め給え
更に、霊位に対して、黙祷し、神上がり、かむあがり、を、願った。

まだ、こちらにいらっしゃる皆様は、どうぞ、私の音に乗り、行くべきところへ、移動ください。
靖国へ、故郷へ、父母の元へ

音霊、おとたま、による、神送りである。

言霊による、祝詞、そして、音霊による、神送りである。
そして、数霊、かずたま、による、祓い清めである。

日本の伝統、富士王朝からの、伝統。
9059年の伝統である。
古、いにしえの、伝え文による。

今年は、日本建国、2669年である。
それ以前からの、富士王朝の、神奉りを汲む、伝統行為が、私の追悼慰霊の所作である。

太陽を、皇祖皇宗とし、つまり、祖先の霊位を、太陽に見立てて、神奉りを行った、民族である。

更に、私は、マリア観音に向かい、清め祓いを行った。

すべてを、終えて、バイクタクシーのおじさんに、写真を撮ってもらう。
その時には、カップルが、その場所にやって来た。

本当は、一時間ほど、黙祷をしたいと、思った。
だが、そのまま、タクシーを返してしまうと、タクシーが掴まるかどうか、解らない。

次は、タクロバンの教会である。
日曜日であるから、ミサをしているはずである。

教会を見て、戦争犠牲者の霊位の有り様を、探りたいと、思った。

セントニーニョ教会では、ミサがはじまり、歌声が、響いていた。
私は、後ろから、聖堂を見た。

教会は、人で、溢れていた。

そして、教会上空に、開ける霊の世界である。

私は、黙祷を捧げた。

ラテン語にて、父と子と聖霊の御名を唱える。
それだけで、十分に通じる。
それ以外の祈りは、危険である。

帰国して、写真を見ると、聖堂の中は、一切見えない写真である。

これ以上は、説明しない。

朝ごはんと、昼ご飯を、一緒にする、レストランに向かってもらった。
バイクタクシーのおじさんに、今日は、大変によい日だと、英語で言うと、通じた。
そして、私は、150ペソを、渡した。50ペソは、チップである。

あなたに、神様の祝福がありますように、そして、神様と共に、と言って別れた。

タクロバンでは知らぬ人がいないという、レストランには、誰も客がいなかった。日曜日だからか・・・

焼きソバと、麻婆豆腐を注文する。
誰も客がいないが、出てくるのが、実に遅かった。
そして、不味いのである。

しかし、全部食べて、ホテルまで、ゆっくりと、歩いた。

迷うことはない、街である。
街中は、ほんの少しの区域である。

ホテルの西側が、港であり、私は、休んで、その港に行き、先ほどの、御幣を、海に投げ入れようと思った。

ホテルに着くと、汗だくだった。

部屋は、エアコンをつけてあるので、冷え冷えとしていて、気持ちがよい。
シャワーを、浴びて、今回の最大の目的を、済ませたことに、満足した。

そして、今夜泊まって、明日は、ホテルを変更しようと、思った。
矢張り、居心地が悪いのである。

部屋にいる、アレである。

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2009年10月05日

レイテ島慰霊 5

フロントに、明日チェックアウトすることにした。
受付の女の子が、オーナーに後で言いますと、答えた。

それから、私は、外に出た。
西側の、港に向かった。

歩いてすぐである。
凄い、混雑振りである。
まず、ジプニー乗り場があり、その先は、露天の店が並ぶ。

私は、港沿いに、賑やかな方に向かった。
御幣を流すためである。
海岸線を歩いたが、港の海は、汚くて、臭い。

歩き続けて、掘っ立て小屋が建つ場所を、通過した。
そこに、住む人々がいる。
次第に、全貌が、見えてきた。

海に近づくと、少年が、水にしゃがんでいる。
よく見ると、尻を洗っている。
何と、そこで、糞をしているのである。
更に、小便をする者もいる。

つまり、便所替わりなのである、海が・・・

愕然とした。
そして、尻を拭いた少年が、立ち上がり、パンツを上げるところを、見た。
その少年の、パンツは、布を、両端で縛りつけているものである。
パンツではなかった。

少年と、目を合わせた。
ズボンも、穴が開いている。
ハーイと、声を掛けた。少年も、手を振る。

少し歩くと、一人の小学生くらいの、男の子が、小便をしていた。
ハーイと、声を掛けると、ハーイと、答える。

私は、兎に角、御幣を、細かくして、海に流した。
これでは、流すチャンスを失う。

そして、強い匂いがする方向に、歩いた。
市場に出た。
漁師たちが、捕った魚を売っている。
驚いたのは、カツオが上がっていたことである。

その他、色々な見たことの無い魚。
エビやイカもある。

威勢の良い売り子のおばさんたちに、私も、声を掛けられた。
ふっと、気づくと、先ほど、小便をしていた、男の子が、後ろにいる。
ああっと、声を掛けた。ニコッと、笑う。

そして、その子の、シャツと、ズボンを見て、着の身着のままであることを、知った。

すぐに、その子に、シャツと、ズボンを買ってやりたいと、思った。
ただ、買い物して、出ると、いなくなっていたりするので、その子が着いてくるまま、私は、路上の店に出た。

着いて来るのを確認して、シャツ売りの店の前に、立った。矢張り、着いてきている。
そして、彼に合うシャツを探して、それを、彼に示した。
プレゼントと、言うとが、いらないと、首を振る。
売り子の男の子たちが、お前、買って貰えと言っているように、聞こえた。

しかし、彼は、いらないと言う。

しかたがない。私は、諦めて、バイバイと言った。
そして、歩くと、また、着いて来る。

あららっ

鶏肉を焼いている店の前に、来た。そして、私は、彼に、食べると、日本語で、聞いた。すると、頷く。
矢張り、食べ物は、欲しいのだと、一つか、二つかと、聞くと、一つと言う。
一つ、12ペソである。私は、二つ買った。そして、そのまま、彼に渡した。

それで、また、バイバイと言って、私は、街中に向かって歩き出した。

すると、私の前を彼が、歩くではないか。
私は、ホテルに戻ろうと思った。
彼は、私に着いて来る。

まさかホテルまではと、思ったが、ついに、ホテルの前まで、着いて来た。
私は、部屋に来るかと、聞いた。
マイルーム カムと言った。すると、頷く。

フロントの女の子が、怪訝そうな顔をして、ユーフレンドと、聞くので、そうだと言った。すると、オッケーと、彼に言う。

階段を上がると、彼は、オーッと、声を出した。
こんなホテルでも、彼には、大そうな所に見えたのだろう。

部屋は、冷房が効いて、ひんやりとする。
私は、ドアを開けたまま、ドアに近い椅子に、彼を座らせた。
いつでも、彼が出て行けるようにである。

食べ物なら、受け取ると、思い、買い置きの、ビスケット、チーズ、みかんを、袋に入れて、渡した。
自己紹介した。
マイネーム ジャパニーズ テン
彼も、名前を言った。難しくて、覚えられなかった。

シャワーを浴びるかと、聞いた。
きっと、体を洗っていないだろうと、思ったからだ。
彼は、いいと、首を振る。そして、そろそろ、帰らなきゃと、言っているように、聞こえた。
そう、じゃあ、送るよ。
私は、彼を一階まで送り、見送った。

その後、フロントの女の子に、彼は、学校に行っているのかと、聞いた。
すると、あの子は、ストリートチルドレンよと、言う。
私は、ストリートチルドレンは、多いのかと、聞くと、沢山いると、言う。

どこにと尋ねると、市場を通り越した向こうだと、言うように聞こえた。

それから、私は、部屋に戻り、貴重品を持って、スーパーに向かった。
子供服を買い、それを持って、彼らの場所に行くためである。


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2009年10月06日

レイテ島慰霊 6

タクロバン一といわれる、デパートスーパーに出掛けた。
その一階では、ディスカウント商品が並べられている。

子供服の、半額セールのコーナーで、一枚、49ペソの、上着を買った。
男児物、7着と、女児物、3着である。
とりあえず、それで、様子を見に行くことにした。

先ほど歩いた道を、行く。そして、今度は、どんどんと、奥へ向かった。
市場を抜けて、路上の店を抜けて、風景が変わった。

その道を、歩いていて、驚いた。
小学生くらいの、男の子が、タバコを吹かしていた。そして、私の目の前で、捨てて、足で踏みつけて、火を消したのである。

更に、中学生くらいの、男の子が、耳に一本のタバコを挟み、口には、タバコをくわえて、仕事をしていた。
荷物運びのようである。

子供が、大人の顔をしている。
彼らも、ストリートチルドレンであることは、尋ねなくても、解った。

民家がある。
民家といっても、非常に脆い造りである。
暖かい地方だから、それで十分なのだろう。

子供たちは、沢山いた。
まず、四、五人の、男の子たちの、グループである。

しかし、私の持っている物は、彼らには、小さい。
もう少し、歩いた。

二人の男の子を、見つけた。声を掛けた。
シャツは、必要か。ストリーチチルドレンかと。
すると、ストリートチルドレンと、はっきり、言った。
袋から、シャツを取り出した。

すると、周囲からも、子供たちが、集まってきた。
あなたは、ファザー、マザーいると、聞く。
親がいる子は、頷く。

男の子たちに、すべて、配った。すると、一人の子が、女児物も、欲しいという。
これは、ガールと言うと、何やら、説明している。
妹がいるのだろう。それではと、渡した。

十数人が、集った。
写真を撮ってもらう。
大き目の子供が、撮ってくれた。

突然の、私の出現にも、皆、驚いた様子は、ない。
しかし、これは、こんな量では、済まないと、思った。
まだまだ、こういう子たちは、いる。更に、親がいていても、満足な衣服を着る子は、少ない。

皆、その日暮らしなのである。

更に、手を出す子もいる。
食べ物が、欲しいのだ。
お金を、求める子もいたが、お金は、渡せない。
ノーマネーと言った。

そこで、私は、また、道を戻り、今度は、食べ物を買いにスーパーに行った。
だが、その子たちの所に行く前に、必要な子に、渡した。

とても、無理だと、思った。
港の、付近には、多くのストリートチルドレンがいることが、解った。

また、後で、私が慰霊をした、レイテパークの海岸線にも、いることが解った。

そして、一度、ホテルに戻った。
すると、丁度、オーナーが来ていた。

私が、チェックアウトするということで、私に、話し掛けてきた。
要するに、一泊分は、返せないという、話である。
三泊との、予約であり、三泊分の部屋を、あなたのために、用意しているという、内容であると、理解したが、私は、そんなことはないと、言った。
だが、英語が、通じない。
相手の、ペラペラ喋る英語を聞くのみ。
それでも、私は、返すべきだと、言ったが、何度も、同じことを言う。
つまり、返す気がないのである。

それは、それでよいと、思った。喧嘩をするつもりは、ない。
喧嘩をするならば、日本語で、やる。

それ以上に、私は、怒っていたのだと、思う。
部屋の不備を、直すことなく、平然として、客室として、扱うという、神経は、もう、こちらの常識を外れている。

トレイにしろ、シャワーにしろ、壊れているのである。
実に、不便であるが、それを、平然として、ホテルとして、営業しているという、神経である。

喧嘩の相手にならないのである。

つまり、諦めていた。

ただし、私は、オーナーが帰った後で、受付の、おばさんに言った。
ここは、カトリックの国ですね。
カトリックの精神というものは、無いようですね。

私は、部屋に入り、次第に怒りが湧いてきたが、タバコを吹かして、さて、どうするかと、考えた。
と、その時である。

ドアの、あの存在が、見えた。目で、見えたのである。
それは、そのものの、姿ではない。
存在しているということを、示す、見え方である。

これを、説明するのは、難しい。
数人が、重なるようにして、熔けるようにして、立つ姿の、一部である。

それを、見て、感じて、即座に、荷物を整理し、浴衣に着替えて、チェックアウトすることにした。

次のホテルは、決めていたから、早い。

荷物を持って、下に降り、チェックアウトと言って、ホテルを出た。
従業員が、不思議に見つめていた。

ゴーストホテルである。
そして、経営者の、怠慢。すべて、何かが、通じている。
レイテ島独自のものか。

バイクタクシーに乗り、目指すホテルに向かった。
その時の、タクシーのおじさんは、料金を、30ペソと、言った。しかし、それは、嘘である。私は、解らない振りをした。
発音が、サンテと聞こえる。サーティなのである。
私が、わからない顔をしていると、トェンティと言った。それで、オッケーした。

20ペソである。
レイテパークより、近いのであるから、当然、20ペソである。

10ペソは、20円だが、それを、大したことは、無いと、思っていると、この活動は、出来ないのである。

だか、今回の、ホテルの一泊800ペソの、二泊分は、気分が悪かった。

次のホテルは、1100ペソ、2200円で、二泊する。
だが、あのホテルとは、全く違った。
広々とした部屋に、二つのベッドがあり、設備は、整い、疲れもとれて、ゆっくり出来る。

安堵した。
地方の場合は、あまりに安いホテルは、これから、注意しようと、思う。
まあ、あの存在も、あれである。つまり、ああいう存在があるという、ホテルの経営者の意識と、濁りである。

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2009年10月07日

レイテ島慰霊 7

その日は、本当に、くたびれた、疲れた。
何度も、港付近を、歩いて、子供たちと、会い、そして、ホテルの変更である。

もう、どこへも、行く気力なくして、ホテルの付属の、レストランに入った。
何を注文したのか、思い出せない。
日本で言えば、定食だが、あちらでは、おかずと、ご飯のみ。
50ペソ程度の、何かを食べたと、思う。

そして、部屋で、休んだ。
休むしかない。
初めての土地で、風土も、はじめて。
人も、はじめて。
同じ、フィリピンでも、島々によって、人の気質も違う。

善良な人と、悪意のある人が、はっきりと、分かれるように、思った。
ボル人と、正しく料金を提示する人である。

そして、意外なことに、こちらが、驚いたり、エッとした、顔をすると、すぐに、値引きするという、素直さも、また、面白い。

私は、八時過ぎに、早々に寝た。

夜中三時頃から、目覚めて、ベッドで、うつらうつらしつつ、過ごした。

六時前に、日本に電話をする。
実家の母である。日本時間では、七時になる。
電話をすると、安心するので、それだけである。
明日、マニラに戻るよ、じゃあね

そして、横浜支部である。
少し、説明して、電話を切る。

それから、私は、貴重品を持って、散歩に出た。

ホテルは、丁度街の東側で、慰霊をしたビーチに近い。

港とは、逆の、海である。
タクロバンは、丁度、海に突き出た、小さな半島のようである。
ビーチ側が、レイテ湾側になり、戦争時は、そのレイテ湾で、行われた。

このエッセイの最後に、レイテの戦いの、まとめをする。

朝のビーチに行く前に、私は、教会に向かった。
人のいない、教会を見て、もう一度、確認したいことがあった。

セントニーニョ教会は、開いていた。
聖堂の後ろから、全体を見回した。そして、その上空に、思念を・・・
比較的、軽さがあり、まずまず、安心した。

スペイン統治がはじまる前は、イスラムと、地場の信仰形態があった。しかし、それらは、すべて、迷信、悪魔のものとして、禁止された。
カトリックのみ、正統であるとの、支配である。

書くのを、忘れたが、日曜日の、慰霊の後に、教会に行ったことを、前に泊まったホテルで、ホテル経営者の、知り合いの、おばあさんに出会い、指摘された。
その方は、フロントの前で、ロザリオの祈りを唱えていた。

私も、それが解ったので、終わるまで、黙祷していた。

おばあさんが、私に、あなたは、日本の着物を来て、教会に来ましたね、私も、丁度、教会にいて、ミサに預かっていましたよと。

80歳である。
つまり、戦争当時は、10代である。
彼女は、言った。日本人が沢山死にました。
私は、あなたに会えて、良かったと言うと、彼女も、私もですと、言った。

多くを語らなくても、気持ちは、解る。
日本を憎んでいる様子は、全く無い。
私たちは、両手で、互いに、互いの体を、確認するような形になった。

最後に何を言ったのかは、忘れた。
兎に角、心温まるひと時だった。

レイテ島は、日本軍と、その後の、アメリカの支配で、翻弄され過ぎたといえる。
だから、今の、タクロバンの、富裕層は、中華である。
これ以上は、書くことを、遠慮しておく。

さて、ビーチに向かった。
柵があり、入る場所が、解らない。すると、小屋にいた、男が、教えてくれた。
言葉は、解らないが、指差す方を見ると、よいのだ。

英語ではなく、タガログ語であり、それも、地域によって、違ってくる。
タガログ語は、全く解らない。

海に出た。
美しい。

こんなところで、命懸けで、戦った・・・

黙祷

更に、海岸線を歩くと、海の家的な、小屋があり、そこに、少年たちがいた。
モーニングと言うと、答えた。
彼らの、傍に行った。
三人がいた。
二人の、少年は、寝ていた。何と、テーブルの上と、店先の、棚の上である。

一人の少年と、話した。
13歳になる、ジョジョという名の少年である。
五人の中で、一番年下だった。

英語とタガログ語で、早口である。

ここで、五人で暮らしている。皆、フレンドだと、言う。
つまり、ストリートチルドレンである。
ジョジョは、五人兄弟の末っ子だった。他の兄弟も、タクロバンに暮らす。

私の持っていた、タバコを一本と言うので、差し出すと、慣れた手つきで、火を尽けて、吸い始めた。

私も、火をつけた。
二人の少年は、欲しがらない。
16,17,18歳である。

ジョジョは、年のよりマセていた。
英語が、通じたので、幸いである。
色々な話を聞いたが、ここで書けることと、書けないことがある。

女は、必要かと、ポン引きのおじさんのようにことを言う。
ノー、アイライク ボーイよ
すると、ジョジョは、大声で笑った。

俺は駄目だよ、でも、あいつなら、いいよ
そのあいつと言われた、少年が、起きてきた。
そして、テーブルに、つっぷする。眠たいのか・・・

店にある、水の一本を買った。一人の少年が渡してくれる。
ハウマッチ
フィフティ
これが、解らない。語尾が上がれば、15だが、下がれば50である。
私には、どうしても、下がるように聞こえる。

50って、高いと、日本語で言い、50ペソを出すと、受け取らない。
フィティでしょ あれっ ティーンなの
それで、15ペソを出すと、受け取った。

あのまま、50ペソを受け取られていたら、知らずにいたが、少年は、お釣りがないせいか、受け取らなかったのだ。

つっぷした、少年に、タバコいると、聞くと、ノーといい、口に指をもってゆく。食べ物が欲しいサインである。それで、顔色悪く、つっぷしていたのだと、解る。

オッケー、皆で、食べに行こうと、言うと、ジョジョが、近くあるから、行こうと、言う。
五人の少年たちを連れて、元の道を、戻った。


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2009年10月08日

レイテ島慰霊 8

私が通ってきた道に、その小屋があった。
まさか、食堂とは、思わなかった。

店の前に、おかずが、並べられている。
三種類だけである。

皆に、それを、選ばせた。
私は、春雨のおかずを、選んだ。ライスは、いらないと言った。

子供たちは、チキンスープを選んだ。
チキンの足が一つ入り、スープが一杯である。

ライスが、山盛り。
その、ライスに、スープを掛けて食べる。
ライスで腹を満たすというようなもの。

皆、真剣に食べている。
腹が空いていたのだろう。

ジョジョも、私の隣で食べた。彼だけは、一人で、何やら会話する。
17歳の子が、水を取りに立った。
戻ると、ジョジョが、自分のスープを、17歳の子に、上げている。

私は、支払いをした。
155ペソ。300円程度である。
兎に角、17歳の子が、私に、何度も礼を言う。
私が、明日帰るというのは、ジョジョしか、知らない。

さようなら、と、別れると、他の子供たちは、また、明日という。
スィユー ツゥモロである。
ジョジョは、何もいわないで、バイバイである。

私が、外に出る時、ジョジョが、来て、タバコを二本欲しいというので、二本渡した。
バイと、こどもらしくない、言い方である。

ストリートチルドレンにも、二種類いて、子供時代を過ごすタイプと、すでに、大人と同じ気持ちで、過ごす子供たちがいる。

本当は、子供は、子供時代をしっかりと、過ごして、成長するのが、いい。しかし、ここでは、それが、ままならない場合もある。

複雑な気持ちで、ホテルに戻った。
部屋に戻って、少し休んだ。

昼の食事は、ホテルの下のレストランで、食べることにする。
もう、どこにも、行きたくないのだ。
今日は、一日、休むと、決めた。

そして、マッサージを受けようと思った。

ああ、マッサージである。
私は、ホテルの、ドアマンに、尋ねた。
マッサージの店は、近くにあるのかと。
すると、ドアマンは、ホテルの並びの、マッサージ店に、連れて行ってくれた。

一時間、500ペソである。
30分後に、来ると、予約して、再度出掛けた。

小太りのおばさんが、担当だった。
狭い個室に入り、全裸になり、タオルをかける。
背中から、オイルマッサージである。

それから、大変だった。

仰向けにされて、タオルを取られる。
そして、言われた、セックスは、3000ペソだと。

そのやり取りは、省略するが、おばさんは、500ペソは、店主のもので、私は、セックスをしなければ、収入は無いというのである。
17,18歳の子供が二人いて、学校にやり、生活をするために、これしか、方法が無いというのである。

おばさんは、私が断ると、1500ペソまで、ダウンした。
しかし、私は言った。解った。チップを1000ペソ上げます。私は、疲れていて、そのために、マッサージを受けに来た。ですから、最後まで、マッサージをしてください。

チップを、1000ペソと、言って、ようやく、おばさんは、納得してくれた。

そういうことである。
つまり、搾取されるのである。
貧しい人は、すべて、搾取されている。

おばさんが、コンドームを振り回して、私を、説得する様は、滑稽であり、悲しかった。

その、やり取りを書いても、吉本の、お笑いになる。

しかし、それを書く、気力を失う。
私は、職がなければ、体を売れと、書いたことがあるが、体を売るにも、大変なことである。

その姿に、笑いそうになり、そして、泣きそうになった、私である。
生きる、生活するという、厳しさを、私は、改めて、おばさんから、教えられた。

下の男の子は、エンジニアを目指して、勉強していると、言う。そして、母親は、それを、支えるために、体を売る。

体を売る以外に、方法が、いくらでもあるというのは、見ていないからである。
見なければ、解らない。
聞いてみなければ、解らないこと、だらけである。

フィリピンは、島々の国である。
日本も、島国といわれる。
何故、日本は、これほど、豊かになったのか・・・
何故、日本と言う、小さな国が、世界の経済大国と、言われるようになったのか・・・

何故、日本が・・・
それを、知るたるめに、世界に、出て、見るべきである、若者は。
必然は無い。偶然も無い。日本は、太陽の国だから、としか、言いようが無い。

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2009年10月09日

レイテ島慰霊 9

朝、九時にホテルを出る。
私は、港の、ジプニー乗り場に行く。
そこが、バスターミナルだと、思っていた。

バスターミナルと、伝えると、ドアボーイが、ホテル前から、ジプニーをつかまえてくれる。だが、沢山ジプニーは来るが、どれも駄目である。
バスターミナルに行かないという。
変だ。

バイクタクシーでと、思い、料金を聞くと、40ペソである。
高いので、断る。
ようやく、ドアボーイが、バスターミナル行きの、ジプニーが来たという。

それに、乗り込んだ。

港の、ジプニー乗り場は、すぐである。
しかし、港に着いたが、止まる気配が無い。
港を通り過ぎるのである。

私も、途中で、降ろしてくれと、言わなかった。
バスターミナルが、何所にあるのか、興味を持った。
空港までは、十分に時間があるので、そのバスターミナルまで、乗っていようと、思った。

30分以上を過ぎて、ようやく、バスターミナルに到着した。
そこから、空港行きのバスがあると、思った。

人々が、私に興味を持ち、話し掛けてくる。
マニラに行くと、言うと、おじさんが、バスに案内する。
ところが、それは、空港行きではなくて、マニラ行きである。

違う、違う、エアポート行きの、ジプニー乗り場だというと、一台の、バイクタクシーを紹介する。
バイクタクシーに、空港行きのジプニー乗り場だと言うと、100ペソという。
また、港に戻るのに、100ペソは、高い。
今の、ジプニーは、7ペソだった。

すると、バイクタクシーのおじさんが、空港のまで、直接行かないかと言う。
ハウマッチ
500ペソ。
500と、私は、大きな声を上げた。
すると、おじさんは、すぐに、300に、落とした。

時間を見ると、危ういと、それで妥協した。
ブルブルと大きく震える、バイクタクシーに乗って、レイテ島の風景を見ることになる。

私が、何故、港のジプニー乗り場に、行けなかったのかは、単に、港という、英語が、思い出せなかったのだ。
そして、乗り込んで、港を通過した時に、何所まで行くのかと、興味を抱いたのだ。

この少年のような、無謀な心・・・

さて、バイクタクシーのおじさんが、音の大きな中で、色々と、話し掛ける。

少し、おじさんの英語が、解るので、質問してみた。
生活のことである。
すると、こういうことが、解った。

バイクタクシーは、一日、300ペソで、雇い主から、借りる。
売り上げは、300ペソを引いた分であり、一日、回っても、収入は少ない。更に、オイルも、自分持ちである。

マッサージと、同じである。
要するに、500ペソは、雇い主が取る。後は、自分で、稼ぐことなのだ。
そういう、システムが出来上がっている。
そして、彼らは、独立することが、出来ない。
法整備が、敷いてあるからだ。
誰が・・・

搾取する者は、そのために、法を作る。

貧しい人は、貧しいままでいることなのだ。

彼は、自分の着ているものと、靴を見せてくれた。
靴は、ゴムを切って、自分で、作ったものだ。服は、もう、何年も同じものを着ているという。
子供が、三人いて、大変だという。

そして、親は、やせ細り、子供を育てるというようなことを、言った。

マニラだけではなく、フィリピンに、蔓延している、搾取のシステムを、嫌と言うほど見せられた。

空港に到着した。
300ペソを、払う。これで、彼は、一日の、借り賃を得た。
後は、収入になる。

ジプニーでは、50ペソで、来ることが出来たが、私は、別の面で、色々と知ることになり、結果としては、良かった。

二時間前で、まだ、搭乗手続きは、はじまっていない。

トイレに行って、驚いた。
小便用の、便器三台のうち、一台しか、使用できない。
更に、同じように、大便用のトイレも、一台しか、使用できないのだ。

この感覚が、理解できないのである。
ホテルでも、修理せずにいる。
どうして、なのか・・・

そうして、平気で、料金を取るのである。
日本では、商売にならないのである。

この、だらしない有様。

搭乗する時、最後に乗り込み、後備座席の開いている席に、座った。
マニラまで、寝ているつもりである。

次も、セブパシフィックに乗る。一番安い料金である。

posted by 天山 at 00:00| レイテ島慰霊 平成21年9月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月10日

レイテ島慰霊 10

昭和19年、1944年である。
10月20日、アメリカ軍が、レイテ島に上陸する。

海軍の、大西滝治郎第一航空艦隊司令長官は、戦艦「大和」「武蔵」を主力とした、栗田艦隊の、レイテ湾突入を成功させるために、神風特別攻撃隊、しんぷう とくべつ こうげきたい、を、発令した。

10月25日、栗田艦隊は、レイテ湾突入を、断念した。
しかし、その日、神風特攻隊の「敷島隊」がマニラの北の町、マバラカットから、出撃した。

空母一に、二機が命中し、撃沈。
空母一に、一機が命中し、大火災。
巡洋艦一に、一機が命中し、撃沈。

アメリカ軍に、特攻攻撃しか術をなくした、海軍は、その後も、純忠、誠忠、忠勇、義烈の、神風特攻隊を編成し、更に、陸軍も、第一から、第十二の、八紘隊を派遣した。

レイテ戦と、引き続き行われた、フィリピン戦で、戦死した海軍特攻隊は、判明しているだけで、417名、陸軍は、251名である。

事実だけを、述べておく。

ここで、私の特攻隊に思う、思いを、書かない。

志願する、特攻隊員の気持ちを思えば、ただ、ただ、黙祷する以外に術は無い。

善悪、善し悪しの問題ではない。

現在の目で、それを、見て、何かをいうことは、実に、愚劣なことである。
目の前に迫った状況を見て、そのことを、考える。

私ならば、どうしたか・・・
それが、問題である。

ちなみに、沖縄陥落後も、特攻は、続けられた。
敗戦までに、戦死した、特攻隊員は、海軍、2506名、陸軍、1404名。
敗戦当日、独断で、特攻攻撃をした、宇垣中将以下17名の特攻隊が、それに、加わる。

ここに、深く哀悼の意を、示し、かむながらの世界への、かむあがりを、祈念する

さきはえ たまえ まもり たまえ

かけまくも かしこき ひのもとの みおや あまてらすおおみかみ に ことあげして もうす

みくにのために いのちささげしもの ひきあげたまえ 守護したまえと
かしこみ かしこみ もうす

尽きぬまで
命投げ出し
国守る
何ゆえなりか
直に答えよ

御霊に捧げて

大君の
ためなるは それ
国のため
命投げ出す
その あはれさを

海と空
レイテの花の
それゆへか
涙にかかる
やまと心を

逝く者を
問う無かれかし
もののふの
そのいのち ありて
我 今日ここに

木村天山 

posted by 天山 at 00:00| レイテ島慰霊 平成21年9月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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