2009年10月15日

沖縄南部慰霊 1

午前中、敵兵の遺体を二体、目にした。一体はまだ枝にひっかかっていた。飛び出した腸が枝から枝へと渡り、まるでクリスマスツリーの花飾りのようだった。もう一体は、片脚を吹き飛ばされて木の下に横たわっていた。ちぎれた脚は木の向こう側に転がっていたが、ズボンとゲートルにきれいに包まれたままだった。目をそむけたくなる光景ではあったが、二人とも底に鋲を打った、くるぶしまでの革靴を履いているのに目を惹かれた。日本兵がそんなものを履いているのを見たのは初めてだった。ペリリューでは日本兵はみな、ズック地で底がゴムの、指の部分が二つに割れた足袋を履いていたのだ。
ユージン・B・スレッジ ペリリュー・沖縄戦記


沖縄南部激戦地の追悼慰霊に、出掛けた。
丸一日を、慰霊に費やすつもりだった。

レンタカーを借りて、朝、11時から、糸満市に向かって走った。

向かう先は、平和祈念公園である。
糸満市に入ると、そこは、すべて激戦地である。
どこで、慰霊を執り行ってもいいのである。

私は、海と、太陽に向かい、慰霊の儀を、執り行うために、平和祈念公園に向かった。

同行者は、コータと、辻友子である。

決められた道路を走らない。
サトウキビ畑などの、細い道を走る。
そこは、皆、戦地である。

平和祈念公園にて、祝詞を献上し、まず、清め祓いをして、行くべき慰霊碑に向かう予定である。

そこは、至る所に、慰霊碑が建つ。

沖縄の気温は、30度である。
内地の秋の風を楽しんでいた、私は、真夏に戻った。
汗が噴出す。

寄り道のように、走ったので、一時間は、かかった。
平和祈念公園の中には、多くの建物、慰霊碑が建つ。

しかし、私は、平和の礎 へいわのいしじ、のみに、向かった。
そこには、沖縄戦で、亡くなられた、240,856名の名前が、刻まれた礎が並ぶ。

それは、県外の人も、アメリカ兵も、イギリス兵も、台湾、北朝鮮、韓国の人々も、含まれてある。

平日のせいか、人は少ない。
私は、海の見える、先端に行き、太陽を拝して、神呼びを行った。

皇祖皇宗天照大神である。
音霊の、ウ音にて、お呼び出しする。

何度も、歌うように、お呼びして、太陽を拝する。
そして、祝詞を上げる。
中臣の祝詞である。

大祓いの祝詞といわれる。
私が、創作する場合もある。

宣る言、であるから、宣言するのである。
すなわち、言挙げである。

そして、慰霊する霊位に、対処する。
その想念の清め祓いを行う。

その時々で、方法も、順序も、何もかも違う。
その場にて、そのようにすべきことを、感受する。

このときは、言葉無し。

言うべきことは無い。

ただ、お送りの音霊、オーと、歌うように、唱えるのみ。
もし、万が一、ここに、浮遊している霊位がいるならば、戻るべきところに、お戻りくださいという、気持ちである。

ここに、刻まれた人々は、多くの人の慰霊の祈り篤く、慰められ、霊位としての、自覚があると、信じる。

公園には、遺骨を納めた場所もあるが、そちらには、出向かなかった。

すぐに、車を走らせて、白梅の塔に向かう。
それは、ひめゆり隊と同じく、女学生の看護隊であった。

その付近は、また、多くの戦士者が出た場所である。
どこということなく、その辺り一帯が、戦場であり、多くの方が亡くなっている。

私は、平和祈念公園の慰霊の儀で、十分であると、感じたが、出来れば、白梅隊の皆さんの、慰霊をと、思っていた。

那覇から、南風原、糸満にかけて、すべてが戦場であるから、どこで、慰霊の儀を行ってもよい。

迷いつつ、白梅の塔に辿り着いた。

昼間である。
しかし、そこは、暗い。
見事に、壮絶な死に様が、伺えるのである。

傍には、山形からの兵士の、終焉の地という、慰霊碑も建つ。
兎に角、アメリカ兵から、日本兵から、学徒から、皆々、ここで、亡くなっている。

洞窟という、洞窟に、遺骨があったと、思われる。

壮絶である。

言葉無し。


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2009年10月16日

沖縄南部慰霊 2

小道に散乱する戦闘の残骸を見て、私はあまりに不条理なことに愕然とした。この沖縄の島で、島民は昔ながらの過酷な農法で土を肥やしてきた。そこへ戦がやってきた。それとともに、最新の最も精密な殺人技術が入ってきたのだ。狂気としか思えなかった。戦争とは人間に取り付いた病のようなものではないか。ペリリューでの経験から、私は無意識のうちに、戦闘といえば、むっとする暑さや、砲列に掃射される浜辺や、マングローブの密生するかげろう立つ沼地や、ぎざぎざに切り立った珊瑚の山を連想するようになっていた。だが、ここ沖縄では、その病は絵のように美しい田園をずたずたに引き裂こうとしている。
スレッジ

何故、今、追悼慰霊なのか。

それは、忘れるからである。
今年、敗戦から、64年を経て、人々は、戦争の記憶を忘れようとしている。
ただ、8月15日を、終戦の日として、慰霊という、形を、儀式をするのみ。
毎年の、習慣のような行事に堕落する。

忘れるな。
ただ、それだけである。そして、何故、忘れてはいけないのか。
それは、平和を求めるからである。
戦争を知らずに、いったい、何の平和を求めるのか。

更に、平和とは、何か。
戦時にあっても、平和である。
平和の反対が、戦争なのか・・・

戦争がなければ、平和なのか・・・

私は問う。

しかし、まもなく、このうえなく心地よい四月の朝ののんびりした偵察も、戦争という恐ろしい現実の一端に直面して、終わりを告げた。それがこの美しい島のどこかにひそんでわれわれを待っていることはわかっていたのだ。道路下の小川の土手に、まるで戦争を表す忌まわしいトレードマークのように、完全武装した日本兵の死体があった。

上から見ると、ヘルメットをかぶり、走っている形に膝を曲げた死体は、クッキーでつくった人形のようだった。このときは死後まだ何日もたっているようには見えなかったが、われわれは四月のあいだに何度もその小川を越えたから、死体が腐乱して次第に沖縄の土に還っていくさまを見ることになった。道には風が吹いて、松葉のさわやなか甘い香りがわれわれの鼻腔を満たしてくれたし、小川よりかなり高くなっていたから、死体を目にしないかぎりその存在を感じることがないのが、ありがたかった。
スレッジ

しかし、彼は、
放置された日本兵の遺体は数えきれなかった。
という、現状を何度も見ることになる。

白梅の塔に着いた。

私たちが、到着した時、別の十人程度の、団体の人も、慰霊に訪れていた。
彼らは、白梅の塔の横にある、遺骨を納めた、塔に、読経した。

私は、すでに、心が整っていたので、オーという、音霊による、送りの、所作で、塔に向かっていた。
そして、四方を清め祓いした。

団体は、私に、終わりましたので、どうぞと、場所を空けてくれた。
遺骨の塔に、御幣と、日の丸で、清め祓いをした。

そして、その上に建つ、山形県の慰霊碑に、黙祷し、白梅の塔の向かい側に、向かった。

その、下のガマ、洞窟が、問題の場所だった。

そこで、多くの人が、亡くなっている。

白梅隊の少女たちもである。

暗い。
不気味。

私は、恐れながらも、いや、恐れ多くも、
そこに向かって、皇祖皇宗をお呼びして、引き上げたまえと、唱えた。

もし、いまだに、苦しむ霊位の方々がいれば、引き上げるほかは無い。

開放である。
意識の、想念の開放である。

もう、苦しむ必要は無い。
肉体を失ったのであるから、霊位であることを自覚して、行くべきところに、行くことである。

コータも、辻友子も、頭が、締め付けられると言った。
それは、霊位の存在のゆえである。

亡くなった状況のままにある、霊位は、その時のままである。
そこからの、開放である。

沖縄には、ユタという、霊的能力者が、多数いた。
しかし、戦後、沖縄を席巻したのは、左翼、左派系であり、その、ユタたちを、非科学的、迷信として、退け、彼らの活動を阻止した。
もし、それがなければ、もっと、多くの霊は、開放されていた。

霊の存在を知らない者は、霊というものが、無いと、判断する。
知らないことを、知らないと言わない。

知らない者は、知る者に、任せるべきである。

勿論、霊能者と自称する者に、ロクな者はいないというのも、事実である。

しかし、沖縄のユタは、違う。

ユタになるべく、特別の、苦難を負い、また、それを、クリアーしているのである。

私は、洞窟を見て、胸が締め付けられた。
物理的ではない。精神的に、である。
この場所で、息を引き取るという、絶望である。

意識あるうちは、何のために、ここで、死ぬのかと、問うたはずである。
御国のために、天皇のために・・・

国を守るために、死ぬんだ・・・

戦争という、狂気の中で、正気を失わず、考え続けた人。
それを、思うと、私は、黙祷以外の方法しか、術がないのである。

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2009年10月17日

沖縄南部慰霊 3

日本兵の遺骸は仰向けで、ズボンが膝まで下がった姿になっていた。そのペニスの先を、マックは慎重に撃ち飛ばそうとしていたのだ。そして成功した。やったやったと大喜びしている。私は胸が悪くなって、顔をそむけた。
マックは見だしなみもよく、きちんとした男だった。ただ、戦争の影響下で残虐さに歯止めがきかなくなるたちの人間がいるもので・・・
この海兵隊の紳士は、可能なかぎり日本兵の死骸を見つけては、その上に仁王立ちになって、死者の口のなかに放尿するのだ。それは戦争中私が目にしたアメリカ人の行為のなかで、最も不快なものだった。こんな男が海兵隊の仕官かと思うと、恥ずかしかった。
スレッジ

戦争は、異常心理を作り出す。
狂う者もいれば、それを、誤魔化すために、残虐的になる者もいる。

人間性とは、何か・・・

戦争では、戦場においては、そんな言葉は、空しい。

残虐の限りを尽くす者が、勝つ。

陸軍の部隊が沖縄南部で苦戦を強いられているという気の滅入る噂は、ますます広がっていった。晴れた夜、高台からは南の空低く、赤々と輝く光が揺らめくのが見えた。遠くで鳴る轟音がかすかに聞こえることもあった。そのことは誰も口にしなかった。あれは雷だと思い込もうと無駄な努力をしたが、そんなことが信じられるほど私も愚かではない。それは大砲が吐き出す閃光と轟音にほかならなかった。

スレッジの、戦記には、突然、エッセイが登場する。
四月末、子馬と別れなければならない時がきた。私はロープの端綱をはずして、糧食の砂糖の塊を与えた。柔らかい鼻面をなでてやると、子馬は尻尾でハエを追った。が、やがて首を巡らし、緑の草原をゆっくりと歩いていって、草を食みはじめた。一度だけ顔を上げて私を振り返った。私は目がうるんできた。でも、どんなにつらくても、別れるしかない。子馬は日の当たる緑の丘の斜面で、平和に安全に暮らしていくだろう。文明人のはずのわれわれのほうは、砲弾と苦悩と死の待つ混沌の地獄へ、まもなく戻っていかなければならない。

死の待つ地獄である。
誰も、生きて帰るとは、思わない戦争というもの。
そこには、敵も味方もない。

先ほどまで、知らなかった、人と人が、殺しあう戦争。
何故、沖縄慰霊なのか・・・

その不可思議な、戦争を知るために、そして、確かに、そこで、戦争が行われたことを、この身で、この感覚で、確認するために。
忘れてはならない、戦争という、狂気である。

この、海兵隊員のスレッドも、最期に
私にとって、戦争は狂気そのものだった。
と、書く。

ここでは、多くを語る事を、必要としない。

慰霊を終えて、レンタカーを返す前に、泊港に立ち寄り、衣服を必要としている方を探す。

探して、手渡すのである。
一人の、おばあさんを見つけた。

こんにちは、服やタオルは、必要ですか
アーー今は、いいよ、ありがとうー

次に、おじいさんに会った。
皆、路上生活の方である。

おじいさんは、必要だというので、服を差し出した。
すると、向こうから、タオルが欲しいと声がかかる。

タオルを出し、更に、服を出す。
そこで、二人の方に、渡すことが出来た。

こんな、立派なタオルと、一人の男性が、感激していた。

更に、公園の方に、歩くと、芝生に座る男性がいた。
必要ですか、と、声を掛ける。
ええ
彼の前に、衣服を取り出す。
サイズの合うものを、選んでください
遠慮しつつも、彼は、三着を選んだ。

冬物を一つ選んだので、持ってきたのが、良かったと、安堵する。
これから、冬に向かう沖縄である。
暖かいといっても、冬は、やはり、冬である。

だが、持参してきた衣服は、まだある。
以前来た時に、出会った人は、見当たらない。

そこで、港の前の広場で、コーヒーを飲むことにした。
一時間ほどいたが、誰も現れないので、レンタカーを返すために、立ち退いた。

レンタカーを戻すと、今日のホテルまで、送迎してくれる。
空港に近いホテルにしていた。

レンタカーの料金と、ホテルに行くタクシー料金は、同じ程度の金額である。実に、得した気分である。

そのホテルは、漫湖のほとりにある。
漫湖とは、マンコと読む。
公園も、漫湖公園。
何やら、市では、名前を変えることを、考えているという。
マンコとは、内地の人は、女性器を言うからだそうだ。

沖縄の人は、平気である。

私は、その漫湖公園のホームレスの人々に、衣服を差し上げることができた。
テントを張って生活している。
夕暮れ時だったので、多くのホームレスの人がいた。

二つのバッグの、ほとんどを差し上げることが出来た。
皆さん、控え目で、遠慮しつつも、喜んで受け取ってくれた。
中には、探せばあるからと、断る人もいた。
売り物かい、と、尋ねる人もいたが、差し上げますと、言うと、それじゃあと、受け取る。
これで、すべての、用が済んだことになる。

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2009年10月18日

沖縄南部慰霊 4

本土南部には、昭和19年、1944年、7月に、第9師団が配備され、多数の陣地が、構築される。
同年、12月に、第9師団が台湾に移動すると、第24師団が、それらの陣地を引き継ぐ。
知念半島には、独立混成第44旅団が配備された。

沖縄戦がはじまると、負傷兵が急増し、各地に陸軍病院、野戦病院が設けられた。

糸満市一帯には、自然洞窟である、ガマが、無数にあり、住民の避難場所として、使用された。
だが、南部が、戦場になると、日本軍による住民の、追い出しや、食料強奪、更に、住民の殺害も起こった。

更に、アメリカ軍の、爆撃、ガス弾による、ガマへの攻撃により、多数の住民が、殺害されたのである。

6月23日、第32軍司令部壕にて、牛島軍司令官が、自決し、戦闘は、終結したが、アメリカ軍の、掃討戦は、続いた。

何故か。

あまりの、日本軍の抵抗による攻撃により、アメリカ軍の憎悪深くしてのことだと、私は、思う。


敵の目に立たない場所で、われわれはトラックを降りた。私は恐怖でいっぱいだった。狭い珊瑚の道の右側を一列縦隊で南に歩きはじめる。前方では敵の迫撃砲や大砲の砲撃音が雷鳴のように轟き、機関銃やライフルの銃声が鳴り響いている。ヒューツ、ヒューツと、味方の砲弾が南に向かって飛ぶ音も聞こえた。
「五歩間隔を保て」。命令が飛んだ。
誰も口をきかなかった。誰もが自分の思いに浸っていた。
まもなく、道の反対側を隊列が近づいてきた。陸軍第二七歩兵師団の第106連隊―――
われわれと交代することになっている部隊である。その惨憺たる様子は、彼らがどこにいたかを物語っていた。疲れ果て、泥にまみれ、薄気味悪く目は窪み、顔がこわばっている。こんな顔はペリリュー以来見たことがなかった。
すれ違いざまに目があったひょろひょろと背の高いのが、疲れた声で「あっちは地獄だぞ、海兵隊」
これからどうなるのかと不安に思いながらも、相手は私を新入りと間違えているのではないかといささかむっとして、私は言った。「ああ、わかっている。ペリリューで経験ずみだ」
相手は無表情に私を見て、そのまま通り過ぎていった。
スレッジ

スレッジは、志願兵である。
まだ、19歳であった。
第一海兵師団第五連隊第三大隊K中隊の一員として、ペリリュー、沖縄戦を戦った。
そして、三十年を経て、手記を書き始めたという。

なじみの顔はほとんど残っていなかった。四月一日にともに沖縄に上陸したペリリュー経験者で健在なのは、わずか二十六人にとどまった。また、ペリリューでも沖縄でも一度も負傷しなかった古参兵は、10人もいたかどうか疑わしい。アメリカ軍が被った人的被害の総計は、死者・行方不明者7613人、戦闘中の負傷者3万1807人にのぼった。神経を病んだ「戦闘外」の事故兵は合計2万6221人。おそらく太平洋戦争では最悪の数字だろう。
神経を病んだ兵の数が異常に多いのは、二つの理由からだと考えられる。一つは、日本軍が太平洋戦線では前例がないほどのすさまじい集中砲火を、アメリカ軍各部隊に浴びせたこと。もう一つは、死に物狂いの敵を相手に、終わりなき接近戦を続けざるを得なかったことだ。

海兵隊員と海軍の応援部隊「医療スタッフ」を合わせると、全部で2万20人が、戦死、負傷、行方不明のいずれかの運命に見舞われた。

日本軍の死傷者数はよくわからない。とはいえ、沖縄では敵兵の死体が10万7539体まで数えられた。また、ざっと一万人の兵士が投降し、約二万人が洞窟に閉じ込められたか、日本兵によって埋葬された。正確な記録はないけれども、最終分析では日本軍守備隊は、ごくまれな例外をはぶいて全滅したとされている。不幸なことに、およそ4万2000人の民間人が両軍の戦火に巻き込まれ、砲撃や爆撃によって命を落とした。
スレッジ

アメリカ軍の五個師団に殺された日本兵の数は、8975人である。
ゲリラ戦を行った日本兵の相当数が、殺害された。

―――こんな砲火のもとでできることといえば、地面にしがもついて祈ることーーー
そして日本軍を呪うことーーーだけだと知っていた。

たちこめる屍匂は圧倒的だった。そのとてつもない恐怖に耐える方法は一つしかなかった。自分を取り巻く生々しい現実から目をそむけ、空を見上げること。そして頭上を過ぎる鉛色の雲を見つめながら、これは現実じゃない、ただの悪い夢だ、もうすぐ目が覚めてどこか別の場所にいることに気づくはずだ、と何度も何度も自分に言い聞かせることだった。だが、絶えることなく押し寄せる腐臭はごまかしようもなく鼻腔を満たし、呼吸をするたびに意識しないわけにはいかなかった。

私は一瞬一瞬をしのいで生き延びていた。死んだほうがましだったと思うことさえあった。われわれは底知れぬ深淵にーーー戦争という究極の恐怖の真っ只中に、いた。ペリリューのウムルブロゴル・ポケット周辺の戦闘では、人の命がいたずらに失われるのを見て、沈鬱な気分におそわれた。そして首里を前にしてここハーフムーンでは、泥と豪雨のなか、うじ虫と腐りゆく死体に囲まれている。兵士たちがもがき苦しみ、戦い、血を流しているこの戦場は、あまりに下劣であまりに卑しく、地獄の汚物のなかに放り込まれたとしか思えなかった。

そして、スレッドは、最期に言う。

戦争は野蛮で、下劣で、恐るべき無駄である。戦闘は、それに耐えることを余儀なくされた人間に、ぬぐいがたい傷跡を残す。そんな苦難を少しでも埋め合わせてくれるものがあったとすれば、戦友たちの信じがたい勇敢さとお互いに対する献身的な姿勢、それだけだ。海兵隊の訓練は私たちに、効果的に敵を殺し自分は生き延びよと教えた。だが、同時に、互いに忠誠を尽くすこと、友愛をはぐくむことも教えてくれた。そんな団結心がわれわれの支えだった。

団結心 エスプリ・ド・コー

やがて「至福の千年期」が訪れれば、強国が他国を奴隷化することもなくなるだろう。しかしそれまでは、自己の責任を受け入れ、母国のために進んで犠牲を払うことも必要となるーーー私の戦友たちのように。われわれはよくこう言ったものだ。「住むに値する良い国ならば、その国を守るために戦う価値がある」特権は責任を伴う、ということだ。
スレッド

深く哀悼の意を、捧げる。

何故、今、追悼慰霊なのか。
忘れないためにだ。
私は、戦後生まれである。
父母は、戦争を生きた。

何故、今、追悼慰霊なのか。
それは、何故、私が、ここに存在しているのか、なのである。

それは、父母が、生きていたからである。

父が、最後の志願兵で、特攻隊で、命を無くしていたら。
母が、樺太からの、引き上げで、船が沈没し、死んだら、私は、今、この世に、いない。

私が、問題なのである。

私が、存在する。
それは、存在の恩としての、追悼慰霊なのである。

そして、それを、私は、やまと心まで、繋げた。
大和魂まで、繋げることが出来たのである。

つまり、私は、日本人である。

この、自己同一性が、私を、生かしているのである。

そして、日本人である皆様もである。

posted by 天山 at 00:00| 沖縄南部慰霊 平成21年10月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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