2010年01月11日

ジャカルタ・スマトラ島・パダンへ 11

パダン、一日目の朝。
私は、部屋の前の、椅子に座り、タバコを吹かした。

暫くすると、右隣の部屋の、若い一人も、出てきて、タバコを吹かした。

軽く、スラマッパギと、挨拶する。
パギと、返してきた。

パダンの朝夕は、涼しく、過ごしやすい。
とても、いい気分である。

現地の人にとっては、寒いらしいが・・・

さて、私は、隣の若者二人と、話すことになった。

まず、彼らの、一人が、私たちは、日本の企業で、働いているということから、だった。

会話は、英語である。
最初は、簡単な英語で、済んでいたが、次第に、話が込み入ってきた。
三菱系の、現地法人のようである。
上司の三人が、日本人だという。

更に、もう一人が出てきて、三人で、話す。
だが、私の語学力である。
アィムソォリィー
そして、コータを、起こした。

コータは、まだ寝ていた。
寝惚けた様子で、起きてきた。

四人で話すことになった。

コータが、英語が出来るということを、知り、二人の会話が弾んだ。
そして、突然のように、質問してきた。

日本の人は、イスラム教徒に対して、どんな感情を、抱いているのか、である。
彼らは、テロリストが、イスラムから出るところから、日本の人々は、イスラムを、恐れているのではないかと、思っている。

イスラム、つまり、教徒、モスリムと、テロリストは、別物であると、私は、言った。

彼らの、言い分は、こうである。
アメリカの政府は、イスラム教徒は、テロリストだと、言うが、それは、違う。テロリストと、モスリムは、違うのである。
更に、アメリカの新聞は、嘘を書くというのである。

私は、オッケー、オッケーといった。
解ったという、つもりである。

すると、貴方の宗教はとの、質問である。

以下は、コータが、通訳した。

日本には、宗教は、無い。伝統の国である
伝統・・・
レリジョンは無い。トラディションがある。私は、伝統に則り、生きている
シントウは、宗教ではないのか
伝統です

相手二人は、ウッと、詰まる。

祖霊は、太陽に象徴され、更に、天皇陛下が、国民の代表として、存在する
テンノウヘイカ

天皇とは、なにか
天皇とは、キング・エンペラーである
はじめて聞いた

天皇を頂く、伝統の国です、日本は
それでは、あなたは、死後の世界を、どう思うのか。私たちは、死後、霊魂は、神の作る、天国か、地獄へ行くことになる

日本人は、自然に隠れるのです。霊魂は、祖霊と同化します
天国には、行かないのか
天国とか、地獄という、考え方は無い
日本には、宗教が、沢山あると聞いた
そう、日本は、伝統の国だから、どのような宗教も、共生できる、否定しない

日本の、建国が、2670年という、話はしなかった。何せ、インドネシアは、建国、60年あまりである。

イスラム教も、否定しない
あなたは、イスラムの経典を知っているか
日本語で、コーランは、読めます。勿論、読んでいますよ
どのように思いますか
ただ、素直に読みます
イスラム教徒になれますか
イスラム教の国に行けば、モスリムになれます

是非、イスラムの指導者に、聞いてください。きっと、正しく、あなたを、導くでしょう。イスラムは、互いに愛すこと、殺しあうことを、教えていない。しかし、アメリカの新聞などは、イスラムは、危険と書くのです
分かっています。彼らは、キリスト教です

更に、彼らは、
イスラムは、あらゆる文化、学問に深く影響をあえた、素晴らしい世界を、持っています
と言う。

私は、
そうです。イスラムは、イスラム帝国から、実に、素晴らしい文化を有していた。それは、例えば、数学にしても、インド数学に影響を与えた。また、ギリシャ哲学も、ヨーロッパに、伝えたほどです。インド、古代中国と、文明が、栄え、最後に、ヨーロッパの文明が、起こるのです。イスラム文明の、伝播ですね

そうです。そうなんです。イスラムは、非常に、優れている
私も、そうだと、思います
あなたは、どうして、そんなことを、学んだのですか
すべて、日本語の書籍からです。日本語では、世界のあらゆる、書物が、読めますよ

彼らは、身を乗り出して、聞く。
コータが、通訳をする。

彼らが、私との、会話で、驚いたのは、伝統の国であると、言ったことである。
更に、どの宗教も、日本では、共生するということ。

日本には、宗教戦争が無いということを、言うと、納得した。

太陽が、祖霊を象徴し、万民を照らすように、日本の国民の象徴である、天皇は、何者も、否まないということである。
天皇陛下を知ることは、日本を知ることであると、言った。

本当は、キングでも、エンペラーでもなく、天皇なのであるが、英語では、その他の言い方がない。

イスラムを肯定し、他の宗教も、肯定する。それを、説いた。

話は、一時間以上も、続いた。

実に、有意義な時間だった。
彼らは、今夜も、私たちと、話したいと、言ったが、私たちは、ホテルを替わると言った。すると、もし、時間があれば、でいいので、また、話がしたいと、言う。

コータが、通訳に疲れた。
非常に、微妙な会話で、難しいと、言う。

ただ、彼らが、私の、言葉に、非常に興味を持ったことは、確かである。

日本は、宗教ではなく、伝統の国というのが、彼らにとっては、刺激的だったようである。

勿論、日本人でも、それほど、理解出来ることではない。
何せ、伝統などというもの、教えられないのである。更に、戦後の、教育は、見ての通り。
日本には、誇れるものは、ありません、である。
天皇制を、専制君主制という、アホもいる。
共産思想、サヨク系の人が、言う。彼らの方が、全体主義である。



2010年01月12日

ジャカルタ・スマトラ島・パダンへ 12

隣の部屋の、若者二人は、私たちより、先に部屋を出た。
友人と会うと言っていた。

私たちも、チェックアウトの時間、12時に合わせて、出る準備をする。
フロントで、タクシーを頼む。

次のホテルに、行く前に、タクシーで、少し、街中を見て回ろうと思った。

今回の慰霊では、線香を使いたいと思い、タクシーで、それを買おうと思った。が、タクシー運転手が、中々、理解しない。
更に、乗り込んで走り始めたが、メーターを下ろさないのである。

私は、メータと、指したが、パダンでは、メーターは、使わないと言う。
これは、嘘だと、思い。それでは、幾らかと、聞くと、一時間、10万ルピアという。
1000円である。

それでは、一時間有効に使おうと思った。
街中の、倒壊した建物の前では、止まり、写真を撮った。
至る所に、倒壊した建物がある。
ほとんどは、ホテルだった。
瓦礫の山も多い。
そのままにしてある、建物が目に付いて、驚いた。

中華街の入り口で、止まった。
中国寺院がある。
ああ、線香があるということだ。
確かに、入り口に、線香があった。それは、お参りする人のためである。
私は、その一つの束を取って、一応、お参りの形をすると、中にいた、中国人の、おじさんたちが、声を掛けてくる。

日本語で、ありがとうと、言う。
線香を頂いたので、布施箱に、5000ルピアを入れた。すると、また、ありがとうと、言われた。

ほんの少しの時間を過ごして、また、タクシーに乗り込む。
ビーチ沿いに出て、川を越える、橋を渡る。
公園になっている場所を、走った。
だが、そこには、沢山の家というか、小屋が建っている。

小高い山が、ビーチに突き出ている形だ。
そこの山に登ることになるとは、考えなかった。

川岸で、タクシーを止めて、日の丸を取り出し、簡単に祝詞を、唱えて、慰霊をした。
周囲の人や、子供たちが、集まってきた。
その時は、荷物が、車のトランクにあるので、渡すことが出来なかった。
明日、もう一度、来ることにする。

そして、ホテルのある場所に、戻ることにした。
一時間は、かかっていない。
支払いを、コータに任せた。

コータが、運転手に幾らかを問うと、運転手は、幾らでもと、言ったらしいので、コータは、五万ルピアを出すと、いや、足りないと言った。では、幾らかと、問うと、10万と言うのである。

兎に角、最低、10万ルピアが、欲しいのである。
確かに、タクシーは、大変である。
ほとんど、利用する人がいない。

地元の人たちは、ミニバスを利用する。観光客が少ないので、タクシーは、上がったりである。

私たちも、ミニバスを利用することにした。
一度の料金が、2000ルピア、20円である。

遠くても、乗り継ぎして、行けばよいのである。

以後、帰りの空港以外は、タクシーに乗らなかった。

ホテルの部屋は、フロントの横である。
これは、安全である。
必ず、24時間、フロントには、人がいる。
見張りがいるから、安心出来る。

最低のものが揃っていた。
シャワー、ホットシャワーであり、トイレも、手動の、尻拭き水がある。
尻拭き水とは、私が、命名した。
手動で、水が出るのである。
それだと、手を使うことがない。

ところが、幸運が訪れる。
翌日の朝、夜に雨が降ったせいか、雨漏りが、はじまった。
それを、すぐに、フロントの女の子に言うと、部屋を替えてくれるという。
そして、新しい部屋に入る。ところが、その部屋のトレイの水が、流れないのである。
これでは、糞をするたびに、バケツに水を汲んで、流さなければならない。
また、早速、それを言うと、今度は、申し訳ないので、料金の高い部屋にと、移動させられた。

その部屋が、一番上等の部屋だった。
そこに、同じ料金で、三泊する事が出来た。
バスタブの付いている、広い、バスルームであり、部屋自体も広い。
更に、ツーベッドである。
三四人が泊まれる部屋である。

その部屋も、フロントの目の前の部屋であるから、安全である。

その部屋に、荷物を入れて、落ち着いた。

いよいよ、計画通り、慰霊と、支援の予定である。

散歩がてらに、昼の食事をすることにした。
コータが、食べたという、レストランに入ることにした。

パダン料理であるが、洗練された雰囲気である。
ジュースも、絞りたてが出る。
その、トマトジュースが、旨かった。

料金は、少し高めである。
二人で、500円程度だった。

その後、ビーチに出た。
そこで、支援の必要なところを、探した。

コータが、イスラムのモスクのトイレに入っている間、一人の、サーファーから、声を掛けられた。
日本人も、サーファーに来ると言う。
そこで、私は、衣服があるが、必要なところがあるかと、尋ねると、目の前の、一角を指して、そこの、グループは、貧しいと言う。

更に、この辺りは、皆、貧しいと言う。
確かに、小屋が、固まっている。

コータも出てきて、話をした。
結局、彼も、そこに住まいがあった。
驚くべき、小屋だった。
三畳ほどの、小屋に、半分ほどの、板の間がある。
そこで、寝るのだろうと、予想した。

夕方、もう一度、衣服を持参して、来ることにした。

一度、ホテルに戻り、休む。

2010年01月13日

ジャカルタ・スマトラ島・パダンへ 13

ホテルに戻り、少し休憩する。
そして、私は、浴衣に着替えた。
二つのバッグを持って、出掛けた。

先ほどの、小屋が建ち並ぶ、地区へ出掛けた。

パダンの日差しは、とても、強い。10分もすると、日焼けする。
更に、昼間は、暑い。

ホテルが、ビーチに近くて、良かったのである。

まず、入り口から、挨拶して入ると、赤ん坊を抱いた、若い男がいた。
必要ですか、と、衣服を見せる。
頷く。

赤ん坊の衣類を出して、渡す。
すると、奥から、男が出てきた、こっちへ来てくれと言ってように、聞こえた。
奥に入ってゆく。

少しずつ、人が出て来た。

私を呼んだ男が、子供が三人いるという。
ボーイが、二人、ガールが一人である。
そこで、衣服を出した。

私が、衣服を広げると、皆が寄って来た。
必要なものを、勝手に取り始める。

どんどんと、人が出て来る。
そして、最後に、一人のイスラムの衣服をした、おじいさんが、出て来た。

彼は、その地区のリーダーである。
私たちは、丁寧に挨拶した。
向こうも、手を差し伸べてくる。
握手をして、コータが、英語で、話した。

インドネシアの人が好きです。イスラムの人たちが、好きです。

おじいさんは、頷いて聞いた。

女の子の服が、沢山ある。
それぞれが、取るが、まだ、余っている。
すると、一人の、おばあさんが、それらを、皆、かき集めて、胸に抱く。
先ほどの、男が、自分の母親だと、紹介する。
おばあさんは、他の人のために、かき集めたのだろう。

最後に、フェイスタオルを取り出すと、皆が、駆け寄って、取る。
歓声が上がる。
タオルは、貴重品である。

どこでも、喜ばれた。

汗を流して、すべての、衣類を差し上げた。

私たちに、場所を教えた、若者が、入り口の、自分の小屋の前で、サンキューと言う。

時間にして、15分足らずの支援である。

入り口を出ると、一人のおじさんが、私たちにも、下さいと言うように、聞こえた。
そこで、明日、持って来ると、言った。

ある程度の、英語が通じるのが、助かった。

その辺一帯は、漁師たちの、生活の場である。
もしくは、ビーチに、店を出している人たちである。

しかし、見るところ、ほとんど、商売には、なっていない。

更に、地震の後は、観光客も来ないのであるから、生活は、大変であろうと、想像した。

そこから、川と、海の交わる場所に出て、小さな港を見た。
向こう側が、明日行く場所である。
そこで、慰霊を行い、支援を行う予定である。

渡し舟があり、明日は、それに乗ることにした。

まさか、そこに、日本軍が基地を作ったとは、知らない。
防空壕や、大砲まで、あったのだ。

ホテルまで、歩いて帰る。
一時間ほどの時間だったが、汗だくである。

ペットボトルの水を買う。
一本、5000ルピアである。
二本買い、一万ルピア、100円である。

ホテルに戻り、浴衣を、干す。クリーニングには、出せないので、干すしかない。明日も、着る予定である。

夏物の、絽の着物などは、着られない。
それほど、汗が酷いのだ。

シャワーを浴びて、ベッドに横になる。
それが、一番の休憩である。

ホテルの近所には、沢山の、レストランや、食堂がある。
食事をする場所に、困ることはない。

朝食は、ホテルで出る。

食べ物に関しては、何も、心配がなかった。

夜は、カラオケもある、ホテル前の、レストランに行くことにする。
そこで、まさか、日本の歌を歌うとは・・・

それまで、部屋で、休んだ。


2010年01月14日

ジャカルタ・スマトラ島・パダンへ 14

夜、七時を過ぎたので、私たちは、ホテル前の、レストランに出掛けた。
カラオケレストランでもあり、すでに、歌が始まっていた。

その、ボリュームが凄い。
ガンガンと鳴る。
カラオケといっても、伴奏者がつくもので、日本のカラオケが、このようにして、名づけられているということも、驚きだった。

勿論、カラオケ用の、機械もあるが、素人が、歌うこと、全般をカラオケというのだ。

ビールを注文した。
二人で、一本である。
何となく、食事の前に、ビールという、気持ちで、本当は、あまり飲みたくない。

案の定、ビールを飲み始めると、気分が悪くなる。
そこで、すぐに、食事を注文した。
すると、メニューに、日本食がある。といっても、真似たものである。

私は、ビーフの鉄板焼きを注文した。セットで、スープと、ご飯がつく。

待っている間、ステージを見ていると、一人の女の子が、歌い終わり、おばさんが、出た。イスラムであるから、かぶりものをしている。

その日、私は、ジャカルタのそごうデパートで買った、イスラムの女性用の、長いワンピースを着ていた。
ストンと、着れば、いいので、楽である。それに、誰も私を知るものがいない。平然と、それを、着ていた。

おばさんが歌い終わると、司会者が、何か言う。

コータが、誰か、歌う人は、いませんかといっていると言う。
その時まで、歌おうなどと、思っていなかった。
司会者は、私たちの方を見ているので、私が、手を上げた。

すると、拍手が起こった。
コータが、本当に歌うの、と、驚く。

私は、立ち上がり、舞台に上がった。
伴奏者に、岸壁の母の、最初のメロディーを伝える。すると、彼は、即座に、雰囲気のある、メロディーを作る。
それで、いい。オッケー。

私は、マイクを持ち、歌いだした。
母は来ました・・・今日も来た・・・この岸壁に、今日も来た・・・

一番と、三番を歌う。
伴奏者は、盛り上がりまでつけて、伴奏する。

最後まで歌うと、拍手である。
ジャパンと、司会者が言うと、再度、拍手。

何とも、恥知らずである。

コータも、呆れている。
しかし、歌った者勝ちである。

そのうちに、食事が運ばれて来た。

何と、醤油ベースの味付けである。
美味しい。
懐かしい味である。

ただ、料金は、地元の食堂の、五倍程度であるから、高い。

醤油味の、懐かしい味付けに、満足して、高くても、納得した。

食べ終わり、すぐに、そこを出た。
私は、すぐにホテルに戻ることにした。
すっかり、疲れてしまった。

コータも、一度、戻ったが、少しして、ビーチを見てくると、出て行った。

私は、ただ、休むだけである。

シャワーを浴びて、腰にバスタオルを巻いて、タバコを吹かす。
部屋の中も、禁煙ということが、多いが、インドネシアは、喫煙家には、天国である。
どこでも、吸う事が出来た。

灰皿も、ホテルの至るところに、置いてある。

ホテル隣のレストランでも、カラオケをしているので、音が流れてくる。
ただ、ある程度の時間になると、終わるので、助かった。

音がなくなると、時折、車や、バイクの音が、聞こえる程度である。
そして、夜は、涼しい。
ただ、虫が入るので、窓は、開けられない。

エアコンの、風量を小さくしても、寝ると、少し寒いのである。

昼間の気温とは、あきらかに、違う。
矢張り、太陽が出ていると、温度が、上がる。

新しい部屋は、居心地がいい。

そろそろ、寝ようと思うと、コータが戻ってきた。
ビーチの様子は、イスラム教徒であっても、若い男女は、いちゃついていると、いうから、健全である。

どこかに、息抜きがないと、やってられないのである。

ホテルの、フロントの女の子も、イスラムだが、かぶりものは、しない。
更に、ホテルの経営者は、オランダの、キリスト教徒である。
それも、別に意に介していない。

その、女の子は、よく喋る子だった。
独学での、英会話であるが、ぺらぺらで、早口である。私などは、何を言うのか、大半、解らないが、頷いて聞いている。

彼女のように、若い子は、日本の漫画を良く知っている。
質問を受けた。
ドラエモンの、のびた君は、どうして、いつまでも、子供なんですか・・・
えっ・・・
それを、英語で、早口で喋るから、おかしい。また、そのしぐさも、のびた君の背丈を示すのである。
画面の中の、のびた君も、彼女には、実在の人物のようである。

私は、答えられず、うーんと、唸ったきり。
若い子とは、日本の漫画の話で、盛り上がる。
そうそう、彼女は、おしん、のような女性になりたいと、言った。
日本の番組が、浸透しているのだ。

さて、十時になった。日本時間では、12時である。
私たちは、眠ることにした。

明日は、川向こうの、小屋が立ち並ぶ場所で、慰霊と、支援をする。
慰霊は、地震で、亡くなった人たちと、日本兵のために、である。

2010年01月15日

ジャカルタ・スマトラ島・パダンへ 15

パダン、三日目の朝である。

七時から、食事が出る。
私は、ロビーに出て、フロントの女の子に、挨拶する。
シラマッパギ
女の子は、とても、愛想がいい。

今日は、どうしますか
コーヒーと、エッグ

パンの中に、玉子焼きを挟んでくれるのだ。

ロビーを抜けて、中のテーブルにつく。
その間も、従業員が通る。
すべて、男子である。
パギと、挨拶する。

12時間労働をしている。
仕事があるだけで、良いのである。

パダンは、80万人都市である。
だが、今回の地震で、10万人が、職を失う。更に、地震の怖さで、街を出た者も、多いという。現在の人口は、誰も、解らない。

職を失った、若者たちが、街の至る所で、たむろしている、風景を見た。

何せ、街一番のデパートが倒壊したのである。
街の中心部に出掛けたが、デパート周辺では、バザーが、行われていて、大変な混雑だった。

その職員だけでも、大量である。更に、ホテルが、ほぼ全滅である。
三階建てのホテルは、今は、無い。

フロントの、女の子は、言う。
インドネシアは、貧乏な国です。パダンのために、出してくれるお金は、わずか。更に、州政府も、無理です。

多くの倒壊した建物は、そのまま放置されているという、状態である。
街の至る所、瓦礫の山である。

本当は、死者数も、分からないのだという。
近くの村では、土石流に飲み込まれた人が、大勢いるが、政府は、流された人の、捜索を、打ち切った。

私の前に、コーヒーと、パンが、運ばれて来た。

コーヒーは、たっぷりとした、ポットに入っている。
まず、コーヒーを飲む。

他の、客は、いない。

このホテルの、持ち主は、オランダ人である。
それを、任せられている、おばさんがいる。
ただ、いるだけの、存在である。

従業員が、一致協力して、仕事をしている。
大切な職場なのである。

ホテルは、平屋であるから、奥が長い。
更に、意外に、泊り客も、多いと、知る。

中には、パダンを故郷として、ジャワ島などで仕事をする人が、里帰りしても、家が無くなってしまったため、泊まっているという人もいた。

パンを食べて、私は、コーヒーポット、カップを持って、ロビーに出た。
ソファーに座り、タバコを吹かして、コーヒーを飲んでいた。

すると、一人の、若者が、声を掛ける。
英語である。

最初が、面白かった。
日本語の歌が、歌えるというのである。
そして、歌った。
確かに、日本語の歌である。

有名な歌だというが、私には、解らない。
だが、日本語である。

彼は、23歳、ホテルの泊り客の、イギリス人の、サーファーガイドをしている。
更に、彼の、父祖は、日本人である。
ここに、日本軍が来た時、彼の祖父と、祖母が恋をした。

そして、彼の父親が生まれたのだ。

驚いたのは、彼のような、日系三世が、沢山いるということである。
更に、私は、彼の祖父の出身地を尋ねた。
北海道と、言うのではないか。

この、スマトラ島に来て、まさか、北海道という言葉を、聞くとは、思わなかった。
私は、急に、彼に親しみを覚えた。

その彼の、父母は、今回の、地震で、亡くなった。
彼は、三人の下の兄弟たちのためにも、働かなければならない。
特に、被害の受けた村に、住んでいた。

ガイドの仕事は、三日間で、20万ルピア、2000円だ。

彼が、日本語の歌を歌うという、行為に、私は、なにか、胸に迫るものがあった。
彼の中の、日本人の血である。

その時、イギリス人が、部屋から、出てきた。
パギと、挨拶した。
あちらも、礼儀正しく、挨拶する。

握手を求めてきた。
私は、サーファーの初心者で、今回はじめて、ここで、サーフィンに挑戦していると、言った。

私は、日本語で、相槌を打った。

二人が、出掛けた。

その後、日系の彼と、会うことになる。
そして、また、面白い展開があった。
また、そのイギリス人とも、帰りの、ジャカルタの飛行機が同じで、言葉を、交わした。

旅にて、出会う、そのこと、実に面白い。

実は、この旅日記に、書かない話も多い。しかし、それを、全部書いていると、終わらない。省略して書いている。
もし、私が、原稿料を貰う仕事をしていたら、書いていたはず。
報告という、意味で、この旅日記を、書いているのである。


2010年01月16日

ジャカルタ・スマトラ島・パダンへ 16

その日は、ビーチに突き出た、ヌラバヤ公園に出掛ける。
昨日、支援した場所から、川を渡り、向こう側に行く。

暑くなる前、昼前に出ることにした。
しかし、日差しは、強い。

支援物資の、バッグを二つと、日の丸を掲げて、行く。
昨日、支援した場所を通ると、おじさんの一人が、私に手を振り、ズボンを示して言う。
サンキュー
ああ、差し上げた物を、履いているのだ。

私たちは、漁師たちのいる、場所に行き、向こう側へ行きたいと、言うと、オッケーと、答えるので、船に乗ることにした。

ところで、幾らか。
料金を尋ねると、一人の、おじさんは、8万ルピア、そして、もう一人の、おじさんが、10万ルピアという。

何で
向こう側に、行くだけなのに・・・

船が、私たちに、向かってくる。
一寸、待って。

何で、10万ルピアなんだ・・・・

私は、冗談じゃあない。向こう側に渡るのに、何で、10万ルピア、1000円も、かかるのだーーーーと、叫んだ。
そして、更に、何言ってんだ。冗談じゃあない。10万ルピアなんて、冗談じゃあない。

私の剣幕に、驚く、漁師たち。

船が近づいたが、私は、そこを立ち退いた。
コータが、後に続く。

更に、冗談じゃあないと、大声を上げた。

そこから、少し歩くと、向こう側へ渡る、渡し舟がある。
少年二人が、やっていた。
幾らと、聞いた。
5000ルピア、50円である。

後で知るが、漁師たちは、クルーズをさせたかったようである。
川から海に出て、戻り、向こう側に付けるという。

彼らは、大声を嫌うらしい。
相当に、驚いたと、思う。
何せ、私の声は、ただでさえ、大きいのである。

川を渡り、私は、すぐに、川と海の間で、慰霊の儀を行った。
日の丸を掲げて、清め祓いの、祝詞を唱える。

周囲の人も、注目である。
子供たちも、多数集まった。

小さな、市場で、魚の競りをしていた。
漁師たちが、そこで、捕れた魚を、売るのである。

そこを通り過ぎて、一つの、入り口に向かった。
小屋が、立ち並ぶ。

小高い山の、麓になる。

まず、最初の、小屋から、衣類が必要ですかと、問う。
すると、すぐに、人が集った。

それから、先は、無我夢中である。
若い男が、赤ん坊の、衣類が欲しいと、言ったのが、印象的だ。

次から次と、人が来た。
その集落の人々に、伝わったのか、人が大勢、詰め掛けた。

私は、汗だくになり、バッグから、衣類を取り出した。

コータが、写真を撮るが、ある、おじさんが、ここは、昔日本軍の、要塞だったと言う。
その、おじさんが、私たちを、誘導した。
すると、何と、防空壕や、大砲のある場所がある。

私が、感動したのは、汗だくの、私に、一人の、おばさんが、小さな水の、冷えたペットボルトを、持ってきたことだ。

そこでは、ペットボトルの水は、普段は、飲まない。とても、貴重なものである。
それを、私に、渡してくれた。

更に、おじさんは、私たちに、日本軍の道を案内した。
しかし、私たちは、道が、分かったので、上まで、歩いてみると、案内を、遠慮した。遠慮して、良かった。
歩いて、それが、とんでもなく、長い道であることを、知った。

浴衣を着ていた私は、汗が噴出して、絞るほどになった。
更に、上に向かうと、心臓が、飛び出しそうになる。
コータが、心配して、私を、制する。
しかし、歩みを止めると、先に進まなくなると、私は、登った。

不整脈の心臓が、高鳴る。

日本軍が、この、小高い山を、要塞にして、防御していたのである。

ついに、上まで、登った。
そこは、パダンのビーチが、見渡せる場所である。
ああ、ここなら、海岸に、近づく、敵を、すぐ、見つけられることが出来る。

美しい、パダンの、海が見渡せる。
無人島が、沢山ある。

私は、その頂上で、祝詞を唱えた。

丁度、昼時だった。
地元の、恋人であろう、若い男女が、昼ごはんを、食べていた。

私たちは、その、頂上で、写真を撮るために、男に、声を掛けた。
彼は、快く、私たちを、写してくれた。

今度は、下りである。

私は、下る時に、日の丸を掲げて、日本兵の苦労を、思い、祝詞を唱え続けた。
途中、中途で、止まり、祈る。

祈る。
祈る。

遠く、故国を離れた、日本兵の、思念を清め祓う。

すでに、多くの方は、亡くなっているだろう。
戦闘は、少なかったはずである。

そして、下り、先ほど、小屋が建つ場所に戻ると、皆さんが、待っていた。
感激した。

言葉は、解らないが、慰労してくれる。

日本軍の、要塞跡の、上に立てた小屋は、地震でも、倒れなかったという。

実に、頑丈に建てたものである。

皆さん、親切だった。

防空壕や、砲台のある場所で、写真を撮ってくれた。

日本軍によって、殺されたインドネシア人もいるのである。
日本軍の、統治に反対した人々である。

しかし、反日感情は、希薄であり、逆に、親日感情が、厚い。
何故か。
それは、日系人が、多いのである。

尋ねると言うが、尋ねないと、言わないのである。

私は、あの、大東亜圏という、意識を、再度、確認した。

何故、私という、日本人に、やさしく接するのか・・・
彼らの中に、日本と言う、イメージが、悪くないのである。
インドネシア独立戦争に参加した、日本兵の存在が、大きいことは、言うまでも無い。

2010年01月17日

ジャカルタ・スマトラ島・パダンへ 17

山の頂上から、今度は、下山である。
冗談ではなく、私の浴衣は、汗が、垂れるほどである。

下山しつつ、私は、清め祓いの言葉を、唱えていた。
更に、地元の人の墓などもあり、慰霊をして、下山した。

私たちが、向かった後も、彼らは、私たちを、待っていてくれた。

丁度、日本軍の、大砲のある場所である。

おじさんや、若者が、二人いた。
おじさんと、若者が、コータに、説明している。

それぞれで、写真を撮った。
実に、親切だった。

私は、バッグの中を確認すると、ズボンと、シャツが、それぞれ、一枚ずつある。
若者の、一人に、それを渡した。

その付近は、街中とは、違う、スラムに近い感じである。

勿論、パダンには、そのような所が、多々あると、後で知る。

兎に角、私は、支援と、更に、思いがけない、慰霊まで、することが出来たのである。

その後で、今回の地震で、亡くなった方々の、慰霊の儀を、再度、ビーチで、執り行った。三度、慰霊の儀を、行ったのである。

下に降りて行くと、差し上げた人々も、待っていた。
皆、笑顔で、迎えた。

また、来ますねー、と日本語で、言う。

川の岸まで、戻った。
すると、一人の、おじさんが、渡し舟の場所を教える。
私は、再度、少年の、渡し舟に乗って、向こう側に戻った。
そのまま、ホテルへの道を歩いた。
今度は、ビーチ沿いではなく、街中へ向かう道を歩いた。

しかし、日差しと、疲れで、ミニバスに乗ることにした。
2000ルピア、20円のミニバスである。

部屋に入り、すぐに、浴衣を脱ぎ、シャワーを浴びて、浴衣、帯を、干すことにした。
帯まで、汗で、濡れている。

昼を過ぎていた。
一息ついて、ホテルの隣の、レストランで、食事をすることにした。

私は、ジャカルタで、買った、ワンピースの裾の長いものを、着た。
これが、一番楽だった。

フロントの、女の子が、それ、似合いますと、言う。
でも、女性用でしょう
大丈夫、似合えば、問題ないよ
それで、安心した。

レストランでは、パダン料理ということで、ボーイの提案するものを、注文した。

パダン料理の応用が沢山ある。
それらは、すべて、辛い。ただ、麺類で、ビーフンは、出汁のみの、味であるから、中和させて、丁度よい。

この頃は、日本を出て、和食を食べたいと、思うことが、なくなった。
現地の食べ物で、十分である。

私は、充実感で、一杯だった。
本当に、良かった。
すべての、予定は、終わった。それが、出来たことに、満足していた。

夕方は、街中に、出掛けて、バザーの様子を見ることにした。
それまで、部屋で休む。

部屋で、休んで、夕方、まだ、日の出ている間に、ミニバスに乗って、街中、中心部へ、出た。

一番大きな、デパートが倒壊した後に、人々が、それぞれ、店を出している。
とても、混雑していた。

コータが、髪を切りたいというので、美容室を探す。
何と、パダンで、一件のみという、美容室に入った。
他の、店は、皆、倒壊したという。

その店も、横の階段が、壊れていた。
かろうじて、ビルの、真ん中の階段が、使えるのである。

マッサージもある。
コータは、髪を切り、私は、マッサージを受けようと思ったが、何と、何人も、待っている。それぞれ、二時間以上待たなければならないという。

私たちは、諦めて、下に降りた。
そして、横にあった、麺類屋に入った。

白麺と、黄色麺があり、私たちは、黄色麺を注文する。
日本のラーメンの半分の量である。

それを、食べていると、物貰いの、子供が入ってくる。
私たちの、横に、小学四年生くらいの男の子が、立って、手を出す。

私は、お金は、上げないが、食べ物を上げることにした。
一緒に、麺を食べるかと、尋ねるが、いらないと、言う。
兎に角、しつこく、手を出す。

黙っていると、他の客を回り、また、私たちの、傍に来た。
もう一度、麺を食べるかと、聞くが、いらないと、言う。

少年は、少し諦めたのか、店の、上がり台に座り込んだ。

私は、少年の傍に行き、冷蔵庫を指して、ジュースは、いるかと、聞いた。
すると、頷く。
そこで、店員に、彼に好きな飲み物を上げるように言う。

少年は、一つの、ジュースを一気に、半分ほど、飲んだ。

ああ良かった。
更に、私は、少年に、麺を作る店の前の、厨房を差して、食べるかと、聞いた。
日本語である。
すると、少年が、頷く。

そこで、店主に、少年に、麺を上げることを言う。
少年が、店主に、何か言う。
注文をつけているのか。

私たちの、座ったテーブルに、座り、出来上がった麺類を前にした。
会計のおじさんが、ありがとうと、言えと、言っている。

私たちは、食べ終わったので、支払いをした。

少年は、照れながら、私に笑いかける。

こういう、ことは、至る所で、多々あることだ。
お金を上げても、彼のものにならない場合も、あるのだ。
大人が後ろにいて、巻き上げる場合もある。

だから、食べ物、衣類などを、上げた方がいいのである。

私たちは、少し、街中を歩いた。
瓦礫の山であり、中心部を、離れると、全く、森閑としている。

シャッターを下ろしている、店舗も多い。

もういいだろうと、ミニバスに乗って、ホテルに戻ることにした。


2010年01月18日

ジャカルタ・スマトラ島・パダンへ 18

夜である。
日系三世の、あの、青年が、また、ホテルにいた。
暫し、歓談する。

彼は、少し、占いめいたことを、した。それは、私たちの気を引き付けるための、ものだった。
彼は、亡くなった、おばあさんが、付いていて、色々と、教えてくれるという。
私たちの、体の、悪いところを、指摘した。

私は、長年、占いをしていたので、彼の手の内は、見えていたが、黙って聞いていた。

私が、先に、部屋に戻った。
しかし、コータが、中々、戻らないのである。

一時間ほどして、コータが、戻った。

その話の、顛末である。

彼は、私が、いなくなると、コータに、切り出した。
君は、イスラムの男の、ペニスを見たことがあるかと、言う。
コータは、バリ島で、見たと、言った。
すると、彼は、イスラムの男のペニスも、色々ある。君は、それを、見たくないかと言う。コータは、曖昧に返事をした。

彼が、どうして、そんなことを、急に言うのか、解らないのである。
だが、彼の目的が、解った。

色々と、話をしていると、彼は、コータに、君は、僕を買う気はないのかと、言った。
要するに、売り込みである。
実に、あはれ、なことである。

コータに、男と女、どちらが好きかと、聞いた。
コータは、その場を、切り抜けるために、レディーボーイが好きだと、言った。
地震の前は、レディボーイも、いたが、今は、女の売春宿だけしかないと言う。

そして、再度、僕を買う気は、ないかと、聞いた。
コータは、矢張り、レディボーイでなければと言った。

その間に、色々な話があるが、結論は、買ってくれということだった。

コータは、部屋に戻り、選定ミスだと、言う。
彼は、私に、それを言うべきだったと。
そうすれば、買わないまでも、私なら、10万、20万ルピアを彼に、渡したはずと、言う。
確かに、私は、彼に、お金を渡したいと、思っていた。その、理由は、占い料として、である。
だが、彼は、コータを、口説いたので、失敗した

三人の、兄弟を抱えて、生活するのは、大変である。
実に、悲しい話であるが、最後は、体を売ることを、考える。
きっと、サーファーの中には、ゲイもいて、彼を、セックスのために、買う者もいたのだろう。
今回の、イギリス人は、ゲイではなかった。

それで、コータに、挑戦したのだ。

パダンの、海には、無人島が、沢山ある。
そこで、サーフィンをする。
二人であり、ゲイの客であれば、当然、そういうことも、あり得る。
それで、収入が、増えるのである。

貧しい国の、女たちは、体を売る。
それが、一番早い、稼ぎである。
そして、男も、それが出来れば、そうしたい。

私は、コータの話を聞きつつ、実に、あはれ、な、気分を抱いた。
私を、口説けば、私は、きっと、彼に、買ったつもりで、お金を、渡した。
日本語の歌を歌うほど、日本を恋しいと、思うのである。

これは、不可抗力である。
誰も、それには、逆らえない。
別名、運命である。宿命である。

私も、コータも、実に、気分の悪い、時間を過ごした。
貧しさは、罪ではない。しかし、貧しさゆえに、自らを、貶める行為を、しなければならないという、こと、それに、同情ではなく、悲哀を、感じる。

彼の、幸せを、祈る。

最後の、一日は、ゆっくりと過ごした。
すべてを、終えて、安堵した、心持で、何か書き付けたくなる。
しかし、インターネット喫茶は、日本語が、出来ない。
本も無く、書き付けることも出来ない。

最後の日は、ホテルの中を、行ったり来たりしつつ、昼の食事は、地元の、食堂で、した。
二人で、200円にも、ならない。

水も、高いが、50円である。
もう、10円、20円の差を、考えずに、5000ルピアの水を買う。

フロントの、女の子に、明日の、飛行機の時間を、言って、タクシーを頼む。
すると、ホテルの車を利用すると、その時間まで、部屋を利用出来るという。

ホテルの、車は、空港まで、12万ルピアである。
私は、それに、決めた。

ジャカルタの空港で、夜を過ごし、朝の便で、日本へ向かう。

国内線から、国際線の乗り場に、向かい、そこで、朝まで、過ごした。
日本人なら、トランジットのホテルを利用するようだが、私たちは、空港の、ベンチにいた。

何度も、ホテルを教えてくれた人がいる。
私は、すでに、ホテルを知っていた。その値段も、知っていた。
六時間程度で、一万円ほども払ってられない。

そこで、深夜働く人々を、見ていた。

深夜の、空港は、何も、危険なことはなかった。

そして、香港へ向かい、台北で、乗り換え、日本に、到着した。
その間、12時間ほどである。

体重が、二キロ増えた。
つまり、三回、機内で、食事をしたからである。

書き足りないことは、多々ある。
しかし、後日に、譲る。

私は、これから、度々、インドネシアに行くことになる。
二万二千ほどの島々である。

死ぬまでに、すべての島には、行けないと、思う。


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