2010年01月01日

ジャカルタ・スマトラ島・パダンへ 1

この旅を、書く前に、インドネシアという国が、まだ、建国60年の国であることを、述べておく。

日本の敗戦と共に、スカルノ初代大統領は、インドネシアの独立を、宣言した。

丁度それは、オランダ軍を追い出した日本軍が、敗戦で、撤退した、その隙間を突いての、独立宣言である。

もし、日本が、大東亜圏という意識を持たず、アメリカとの、戦争もしなければ、インドネシアは、まだ、オランダの植民地とされていた、可能性がある。

というのは、オランダは、日本軍が、撤退した後、更に、植民地化を目指していたからである。

そして、ここが、問題であり、ポイントである。
インドネシアの各勢力が、各地で、オランダ軍と、戦ったのである。
独立を勝ち取るために、である。

それが、出来たのは、日本が、見せた、心意気である。
白人には、適わないと、諦めていた、インドネシアの人々に、日本が、そんなことはない。戦って勝つのであると、伝えたのである。
その行為を、持って、である。

ここに、大東亜戦争、第二次世界大戦の、別な意味がある。

日本の敗戦により、多くの植民地化された、東南アジアの国々が、独立を勝ち取ったのである。

有名な歴史家の言葉を、持ち出すまでもなく、それも、一つの、あの戦争の意味である。

更に、その中に、日本軍から、脱走とされた、日本兵が、その、独立運動の、戦いに、参加したのである。
これは、インドネシアの人々に、更に、勇気を与えた。
日本兵の指導の元に、戦ったグループもある。

その、日本兵は、インドネシアでは、英雄として、讃えられ、奉られている。

各地で、闘争を続けたインドネシアに対して、国際社会が理解を示し、オランダに、再植民地化を断念させた。

そして、1949年に、連邦共和国となり、翌年、1950年に、共和国となって、完全な独立を、果たしたのである。

スカルノは、建国の父と、呼ばれる。

彼は、社会主義政策を進めたが、国内の経済状態が、悪化し、共産党政治に反感を持っていた、国軍との、対立が、深刻化した。
1965年、国連を脱退し、独裁化を強めた。
しかし、同年、9月30日、共産党勢力による、クーデターにより、体制が、崩壊する。

だが、そのクーデターも、国軍によって、一日で、鎮圧された。
この事件をきっかけに、軍司令官の、スハルトが、国の実権を握ることになる。

1968年、スハルトが正式に大統領となり、国連復帰も果たす。

スハルトは、親米路線に、政策を転換し、様々な、プロジェクトを導入して、開発の父と、呼ばれるようになる。

だが、国の利権を、一族で、独占し、30年以上もの、独裁政権をとった。
その、弊害は、大きかった。

1998年、スハルトがまたも、大統領に、選出される。
七期目の任期である。

この、スハルトの、汚職や、不正蓄財は、実に、膨大である。
日本の莫大な支援金や、福祉関係の資金なども、自分の、蓄財にしたのである。

あまり、言いたくないことだが、インドネシアの政治家は、まだ、汚職に関する、罪悪感が少ない。

未だに、スハルトの、行為を、裁くことが出来ずにいるのは、大なり小なり、政治家というものが、スハルトに準じているということである。

さて、続ける。
その後、1997年の、タイバーツ暴落からの、アジア通貨危機により、経済状態が、悪化し、首都ジャカルタをはじめ、国内各地で、スハルト政権に対する、暴動が起こるのである。

大都市では、学生などによる、反政府運動が、激化し、スハルト退陣、政治改革を求めて、多くのデモ行進が、軍の治安部隊と衝突した。

それは、瞬く間に、全国に広がり、一般市民は、この国の、経済、金融を握る、中華系の人々を、襲うようになった。
当然である。

政治家は、汚職、不正蓄財、そして、中華系との、結びつきによる、更なる、利権獲得である。

誰のための、国なのか、と、国民は、問うたのである。

国内には、600万人の、中華系住民がいた。
そのうち、騒動のために、3万人が、国外に脱出したのである。
と、共に、海外に、資金も、流出した。その額、800億ドルである。

インドネシア経済は、更に、悪化することになる。

この、混乱を受けて、スハルトは、次期大統領選には、出馬しないことを、表明したが、民主化勢力は、即時辞任を要求した。

国会前での、座り込みは、5万人にも、達したという。
更に、体制内部からも、スハルト辞任の要求が、出されるようになった。

1998年、5月、スハルトは、ついに、辞任を表明した。
32年間の、独裁政権だった。

その後、副大統領の、ハビビに引き継がれが、スハルトの腹心である。
スハルトは、陰の支配者として、存在することになった。

与党や、軍の内部での、権力闘争も激しくなり、スハルトが、推し進めた、国内移民政策による、軋轢も、表面化する。

ジャワ島などから、移住する民と、以前からそこに住む、先住民の対立が、軍や、警察でも、抑えきれなくなったのである。

加えて、長年、独立運動が続いていた、元ポルトガル領で、キリスト教徒の多い、東ティモールや、マルク諸島、西カリマンタンなどで、対立が激化した。

住民同士の、対立が、いつしか、民族や、宗教対立の形相を、帯びたのである。

数百人規模の、殺戮から、難民が発生する。

こうした、対立激化の、裏には、イスラム国家への、支持を集めるための、策略だったといわれる。

つまり、インドネシアのイスラム化を目指す勢力である。

1999年、ハビビ政権は、東ティモールの独立を容認するという、閣議決定を行う。

そして、その年の、6月の、総選挙では、スカルノを父にもつ、メガワティ女史率いる、闘争民主党が、第一党になる。

10月の、国民協議会は、イスラム組織、ナフダトール・ウマラの、ワヒドを選出し、副大統領に、メガワティを指名した。

そして、2001年7月、ワヒドも、献金疑惑などで、解任される。
国民待望の、メガワティ大統領が、誕生した。

その、メガワティも、期待外れに終わる。
全く、その器ではなかったのである。

国内問題で、政局が、混乱し、メガワティ批判も、噴出するのである。

そして、現在は、2004年に選出された、ユドヨノ大統領が、国民の期待を、背負うのである。

2010年01月02日

ジャカルタ・スマトラ島・パダンへ 2

朝の五時前に起きて、準備する。
といっても、荷物は、すべて揃っている。

お握りを作るのである。
前日の、残りご飯で、四個。

自分で、作った、お握りが、どうして、こんなに美味しいのか、解らないが、美味しいのである。

60キロ以上の荷物なので、タクシーを予約している。
六時前に、タクシーが来た。

バス乗り場まで、タクシーで行く。
これから暑い国に行くので、実に、奇妙な着物姿になる。

襦袢は、夏物の、絽であり、着物は、春物の単、そして、羽織は、袷である。

飛行機の中は、寒いので、そのまま乗り込む。

その前に、登場手続きがある。

勝負は、その時である。
積み込む荷物の、重さである。

矢張り、オーバーした。
45,8キロ。

受付のお姉さんが、少しオーバーしています。
そちらの、荷物で、軽いものを、乗せてみてくださいと、言う。
私は、機内持ち込みの、ぬいぐるみを入れた、バッグを乗せて、重たい、一つのバックを、取った。

43キロである。
はい、それで、結構です。

何と、やさしい、お姉さんか。

私は、自分のバッグと、支援物資のバッグの、二つ。
コーターも、同じく、である。

クレジットカードの、ゴールド会員なので、無料待合室に向かう。
飲み物、飲み放題である。

ゴールドカードは、保険もついているので、コータも、入会した。

海外で、死ねば、一億円である。とは、いうものの、誰に、その金が渡るのか、である。
一番は、母親、二番は、弟。

まあ、そのくらい、恩返しである。

チャイナエアラインに乗る。
台北経由、ジャカルタ行きである。

私は、台北から、ジャカルタに、直行すると、思っていた。
ところが、香港で、更に、乗り継ぐのであった。
それは、予想外。
とても、疲れたのである。

香港で、そのまま、飛行機に乗っているのかと、思いきや、乗り換えなのである。

時間待ちがある。
ああ、格安航空券である。

香港で、時間が、一時間、早くなる。
時差である。
ジャカルタに着くと、更に、一時間早くなる。つまり、日本時間より、二時間の差で、早くなる。
つまり、日本が、12時だと、ジャカルタは、10時である。

夜の、9時過ぎにジャカルタ到着。

はじめての、ジャカルタである。
インドネシアは、バリ島だけに、出掛けていた。
また、スマトラ島も、はじめて、である。

ところが、入国鉄続きの前の、ビザを買うための、行列が出来ていた。
こんなに、客がいるのに、担当者は、二人のみ。
入国まで、一時間ほど、かかったのである。
待つことに、私は、どっと、疲れた。

本当は、怒鳴りたくなったのである。
窓口が、両方で、六つもあるのに、担当者が、二人とは、何だーーー、である。

荷物は、すでに、出ていた。
それを、台車に乗せて、外に出る。
そして、タクシーに乗るしかない。公的なタクシーのチケットを買う。

タクシーに乗り、街の中心地に向かう。
あらかじめ、決めておいたホテルに、到着。

そして、驚く。
料金が、倍以上になっている。
2500円程度のはずが、8000円近く。
しかし、夜であるから、別のホテルを探すことは、出来ない。

荷物も、大量である。

渋々、チェックインした。
部屋は、とても、綺麗で、広い。
料金並みの、部屋である。

だが、そこには、一泊だけにした。
明日は、安いホテルに変更する。

ジャカルタ滞在は、四泊である。
その間に、スマトラ島・パダンの国内線チケットを買うことにしていた。

私は、疲れて、外に出る気力がないので、コータに、買い物を頼んだ。
水と、ビールと、焼きそばである。ビールなど、飲みたくないのであるが、何となく、アルコールが欲しい。
旅の間は、アルコールを欲しないが、あまりの、疲れのせいか、酒が飲みたいのである。しかし、その付近に、日本酒など、売っているわけがない。

屋台が沢山あるから、持ち帰りの、焼きそばがある。
ミーゴレンである。

その間に、シャワーを浴びて、着替えて、タイ・スタイルになる。
タイパンツと、Tシャツである。

コータが、戻り、ビールを飲み、ミーゴレンを食べる。
そして、寝る。

缶ビールは、一口二口で、酔った。
飛行機に乗った後は、すぐに酔う。

兎に角、寝ることである。寝て、疲れを、取るしかない。

ジャカルタにいるという、感覚は無い。
ホテルの部屋は、日本のホテルと、変わらないのである。

2万2千ほどの、島々の国、インドネシアである。
その一つ、ジャワ島に、首都がある。

ジャワ島の、イメージは、ジャワカレーである。
その、貧弱なイメージで、今回の旅が、はじまった。


2010年01月03日

ジャカルタ・スマトラ島・パダンへ 3

翌朝、早く目覚めた。
というより、いつも通りである。

六時頃であるから、日本時間では、八時である。

何気なく、ホテルの、案内に目を通していた。
すると、小さな、袋が、目に付いた。

YAYASAN
袋には、ややさん、とある。
ややさん・・・
あれは、バリ島で、言われた言葉・・・

ややさん、って、誰だ。
日本人なのか、バリ島の人なのか・・・
私たちは、議論していた。

ところが、違うのである。

朝食付きであるから、私は、一階ロビーの横にある、レストランに出た。

一人で、食べていると、コータも、起きてきた。

二食分程度を、たらふく食べて、フロントに行き、チェックアウトの時間と、ややさん、につて、聞くことにした。

12時、チェックアウトは、分かった。
おおよそ、どこも、ホテルは、12時である。

YAYASANの、封筒を出して、尋ねた。

私の英語が、分からないのか、女の子は、奥の男を、呼んだ。

ややさんとは、団体であること。
そして、そこの、ホテルが、中心に、ややさんを、作っていることが、解った。

私は、この街の、ストリートチルドレンに、服や、食べ物を、渡したいと言った。
すると、男は、こう言う。
それは、法律で、禁止されている。それを、すれば、警察に逮捕されるというのだ。

すべて、ややさんを、通して行うこと。

えっーーーーーー
そんな法律が、出来た・・・

何度も、警察に捕まるから、駄目という。
後で、その話が、嘘であることが、解るが、その時は、信じるしかない。

パダンで、その、YAYASANというものについて、詳しく教えてくれた人がいる。

つまり、ややさんとは、日本の、NPO法人と、同じようなものなのである。

そのホテルが、中心になって、法人格を取り、支援活動をしているということである。

そして、説明した、彼は、私に、そのホテル主体の、ややさんに、寄付、支援することを、勧めたのである。つまり、自分のホテルの売名行為に、多くの支援を集めたい。それで、私に、牽制したのである。

だが、それを、知ったのは、パダンである。
それでは、ジャカルタでは、出来ないと、思った。

部屋に戻り、コータに話す。

男は、この街には、至る所に、ストリーチチルドレンがいる。貧しい人々がいると、言った。

更に、スラムである。

私たちは、ホテルを変更するために、タクシーを予約して、まず、スラム街を見て、そして、別のホテルに、移ろうと考えた。

勿論、2000円前後のホテルである。

時間があるので、私は、ホテル付近の様子を、見に出かけた。

街の中心地であるが、ごみごみとして、ホテルが立ち並び、その間に、屋台やら、地元の食堂などが、立ち並ぶ。

もう少し、足を延ばすと、大統領府に出るのだが、止めた。

夏の暑さである。

歩くだけで、汗が出る。

部屋から、自分たちで、荷物を運び出した。
ボーイに上げる、チップを、ケチったのである。
タクシーに、荷物を積み込み、行き先は、スラム街。

それは、ジャカルタの西方面である。
その道、空港への、高速が走る。
つまり、私たちは、夜、その高速道路を通ってきたが、暗くて、見えなかった。

だが、昼間である。

その、高速道路に入り、少しすると、スラム街が、見えてきた。
その延々と続く、川べりに、建てられた、小屋、小屋、小屋の数々・・・
終わることのない、スラムが、続く。

世界最大のスラムと、いわれる。
タクシー運転手は、どこまでと、聞く。
行けるところまで。

港の前に出る。
そこも、スラムである。

この付近にホテルありますかと、運転手に聞いた。
三つあるというので、一番安いホテルに、と、促した。

丁度、そのホテルは、スラムのど真ん中にある位置である。

ここに決めた。
タクシーを止めて、部屋があるか、確かめた。

ツーベッドルーム、一泊3300円である。
高い。しかし、そこに決めた。

三泊することになる。

2010年01月04日

ジャカルタ・スマトラ島・パダンへ 4

部屋に入り、しばらく、呆然としていた。
今、見た、スラムの風景に、絶句していた。

そして、冷静になって、ホテルの案内を見て、驚いた。

ホテル、スパ、カラオケ完備のホテルであり、更に、中華系である。
一階から、四階までは、それらの、施設であり、五階と、六階が、ホテルだった。

話は、順に進める。

食事である。
昼の食事を、三時頃にした。
一階に、レストランがある。そこは、ルームサービスもする。

中華料理である。

味は、そこそこ。しかし、値段が高い。
税金、サービス料で、15パーセント、上乗せされる。

次第に、ホテルの全貌が、理解できてきた。
私は、疲れて、部屋に戻り、コータに、水と、ビールを買わせた。

私は、海外に出ると、アルコールは、飲まないが、昨夜と、今夜は、飲みたい気分なのである。結局、二日で、止めたが。

ビールは、嫌いである。
しかし、日本酒に変わるものがないゆえに、ビールにする。

コータの報告である。

道路を挟んだ、向かい側に、そごうデパートがある。
そこには、アメリカ資本の店舗も、多く入る。

この、スラムの向かいに、そごうデパートとは、驚いた。
確かに、高速を走っている時に、その文字を見たが、こんなところにあるとは、思いもしない。

考えた。
ここでは、支援をしない予定であるが、少しなら、一つのバッグなら、と、思った。

コータに言うと、ホテルの、横の道から、スラムに入る道があるという。

よし、明日、そこに入り、少し、衣服を差し上げよう。
そして、そごうデパートを見に行くことにした。
レストランが多いというので、夜の食事を、そごうデパートですることにした。

それまで、私は、タバコを吹かし続けた。

午後五時になると、突然、音が聞こえ始めた。
二階から、四階部分のカラオケスペースからである。
それが、何と、12時間、続くのである。
つまり、朝の五時まで。

そこには、コータが、二度偵察に出かけた。
後で、それを、書くことにする。

夜の食事に、そごうデパートに出掛けた。
ショッピングセンターのような、三階、四階は、レストラン街である。

驚いたのは、和食の店が、見た限りでは、二件はあった。
更に、これから開店する店も、和食の店である。

そこは、高級店であり、私は、一度入って、鮨を、三個注文して食べてみたが、まずまずである。

インドネシア料理を頂く。
実は、これから行くパダンは、パダン料理の発祥地である。
それが、インドネシア料理の元になっている。

全体的に、辛い料理である。
おかずを選んで、ライスを、つける。

一皿に、盛られる。

300円から、500円程度である。
これが、パダンに行くと、100円程度で、食べることが出来る。

ちなみに、一万円が、94万ルピアだった。
おおよそ、100万ルピアである。
つまり、一万ルピアだと、100円である。

10万ルピアが、1000円。
それに慣れるまで、混乱する。

食事は、二人で、いつも、五万ルピア程度である。

食事を終わり、水を買って、部屋に戻る。
水は、必須である。水道水は、飲めない。
熱中症にならないためにも、水は、多めに買う。

ジャカルタでは、2800ルピアで、買えた。
パダンでは、5000ルピアになる。
時に、同じものが、4000ルピアのこともあるから、適当なのだ。

私は、早々に、シャワーを浴びて、寝る準備である。
私が、寝る頃、コータが、下の階のカラオケムールに出た。

今回は、鍵を持って出た。
矢張り、ここでは、部屋の鍵を開けておくのは、危険である。

私が、眠っている間に、コータも戻り、寝たようである。
朝は、私が早く起きる。コータは、寝ている。

食事は、付いていないので、昨日、水と一緒に、買った、パンや、ハムを食べて、水を飲む。

その日は、スラムに出掛けて、少しの衣服支援をするつもりである。
出来れば、昼前に、出掛けたい。日差しが強くならない、うちにである。

2010年01月05日

ジャカルタ・スマトラ島・パダンへ 5

翌日、昼前に出掛けようと、ホテルを出て、スラム街への、道を行く。
ホテルの横の道である。

その丁度、曲がり角に、屋台がある。
そこに、四人の女が座っていた。
一人の女と目が合った。

凄い顔である。
ごつい顔に、厚化粧。何だーーー
コータが、レディボーイだという。
それで、再度、顔を見た。そして、他の女たちの顔も見た。

彼ら、いや、彼女たちが、笑いかけるので、お愛想で、ビューティフルといった。
彼らも、何か言ったが、解らない。

ここで、商売しているということは、と、コータが、声を低めて、睡眠薬強盗でもするのかもと、言う。

女と、勘違いして、部屋に入れて、彼女たちに、睡眠薬を盛られて、寝ている間に、金目のものを、盗まれるという、手である。

さて、スラム街の入り口に来た。

扉がある。
それは、鉄格子のようなものである。
その先に、男たちが、三人ほど、座っていた。

私たちが、入ると、彼らは、いいよという、雰囲気で、先を促した。

スラム街も、場所により、鉄格子の囲いがある。
皆で、その区域を、守っているのだろう。

私たちは、不思議な存在だった。
私は、浴衣を着ていた。
そして、バッグを提げている。

まず、ぬいぐみを、取り出した。
それを、小さな子に、渡す。続けて、また、渡す。
すると、親たちも、出てきて、何が始まったのかと、見る。

私は、衣服を取り出して、必要ですかと、問い掛ける。

プレゼントと、言った。
子供用だ。
子供の体に合わせてみる。オッケー、いいね。

次々と、渡す。
そして、奥に入ってゆく。

そのうちに、人が集い始めた。
いつもの、パターンである。

別のスラムの入り口にいる、おじいさんに声を掛けた。
手で、招く。
衣服を出すと、皆を呼んだ。
そこで、また、次々と、渡す。
人が多く出てきた。

一人の、おばさんが、私たちを、招く。
こっちに来てというように、聞こえる。

住宅の置くに入る。
おばさんが、皆に、声を掛けると、どっと、人が出て来た。
そこで、少しパニックぎみになった。

バッグの、日の丸を見て、ジャパンと言った。
そう、ジャパン、日本から・・・

歓声が上がる。
次から次と、衣服を出すと、誰か解らないが、それを、受け取る。
さあ、私の周辺を人が取り囲んで、わいわいと、声が上がる。

少しの、フェイスタオルを取り出すと、我先にと、手が出る。
それも、あっという間の出来事。

最後の、フェイスタオルを、取り出すと、それも、一瞬で、無くなった。

ワーと、歓声が上がる。

写真だ、写真と、私が、コータを促す。
すると、皆さん、集まるのである。
ワーといいながら、全員が、写真に入った。

何とも、実に良い雰囲気である。
先ほどの、おじいさんも来て、私も欲しいというが、もう、差し上げるものがない。

戻る道々、声を掛けてくる。
サンキューである。
更に、次は、また、来るの。
来ますよ。

一人の女が、子供を抱いて、この子に、ボールが欲しいのと、いうように聞こえる。
そういえば、先ほど、どういう訳か、ボールが一つあり、別な子に上げたのだ。

私は、汗だくである。

笑顔で、皆さん語り掛けてくれるが、インドネシア語が、分からない。

汗だくなので、一度、ホテルに戻ることにした。
先ほどの、レディボーイたちも、まだ、屋台にいた。

兎に角、暑い。
日本との、温度差は、20度である。
水を飲むしかない。

一度、部屋に戻り、休憩した。
一つの、バッグが、無くなった。
だが、これ以上、差し上げるのは、無理である。
コータが、国内線で、詰めなかったら困るから、丁度良かったと、言う。

確かに。
荷物が、多すぎるのである。

昼ごはんは、別なスラムへ行き、屋台で、麺類を食べてみることにした。


2010年01月06日

ジャカルタ・スマトラ島・パダンへ 6

スラムの通りには、屋台通りがある。
皆、小屋であり、それが、ずらりと並んでいる。

様々なものを、売っている。
インターネットや、電話を掛けられる店もある。

一件の、麺類屋台に入った。
すでに、地元の人々が、食事をしている。

バクワンという麺類だったと、思う。
麺は、ミーというから、ミーバクワンという名になるのか。

私は、好きな麺を選んで、おばさんに示した。

目の前にある、麺を示せば、理解してくれる。
コータも同じものを、頼んだ。
更に、私は、テーブルに置かれた、揚げたお菓子を一袋、食べた。

おばさんが、二つのどんぶりを、目の前に置いて、コーラと、尋ねる。
コーラーが必要かということだ。

ノー、いらないよ
でも、水を貰おう

小さなペットボトルを、頼む。

それで、二人で、18000ルピア、つまり、180円である。

分量は、日本のラーメンの半分程度。
汁は、麺が浸る程度、入っている。

ただ、どうも、油っぽい。
それでも、美味しく感じられる。
出汁が、いいのだろう。

食べ終えて、ホテルに戻る。
時間が経つに、つれて、胸焼けしてくる。
矢張り、油のせいである。

しかし、食中りになることは、無い。

暑い日差しを、浴びるので、部屋では、兎に角、水を飲んで、休む。

次は、国内線の飛行機チケットを、買わなければならない。

コータが、出掛けた。

私は、少し間、荷物の整理をする。
さらに、バッグの中身を確認する。

暫く、ベッドに身を横たえた。
本も読まない。物も書かない。何も、しないのである。

ここには、後、今夜と明日と、二泊する。
そして、スマトラ島の、パダンへ向かう。

コータが、帰ってくるまで、私は、ベッドで、うとうとしていた。
戻ったコータの話を聞いて、明日、その場に出かけたいと、思った。
何でも、川沿いのスラムの方へ出掛けたたらしい。

支援物資は、無いが、行って、見るだけは、見ておこうと思った。

飛行機のチケットも、明日、取ることにした。

それでは、夜の食事をどうするのか・・・
そごうデパートに行くことにした。
そして、ついでに、水などを買ってくる。

1, 5リットルのペットボトルで、安いものは、2800ルピアである。28円。実に、安い。

それを、持てるだけ買うということにした。

そごうデパートは、少し歩いて、歩道橋を渡る。
実に、不便である。

兎に角、大きな道路を越えなければならないのである。

七時前に、ホテルを出た。

私たちが、行ったのは、四階の、安いレストラン街である。
屋台のように、店が出ていて、注文し、それを、中央のテーブルで、食べるという、セルフサービスである。

パダン料理を、選んだ。

ライスに、好きな、おかずを選ぶ。
カレーのような、汁物に、私は、イカの煮付けを、選び、同じく、コータは、チキンを選んだ。

そして、小の、水のペットボトル一本である。
二人で、38000ルピア。380円である。

アラッ、美味しいねーーー
と、言いつつ、次第に、辛くなってくる。しまいに、本当に、辛い。
ハーッ、辛い。

顔から、汗が出る。
ちょっとーーー、これ、本当に辛いねーーーー

辛いもの好きな、コータも、辛いというから、本当に辛いのである。
しかし、美味しい。

食べ終わり、すぐに、立ち上がり、地下のスーパーに出た。
そこで、大きな買い物籠を取り、店内に入る。

兎に角、水である。
と、その時、目にした、女性用の、長いワンピースが・・・
値段を見る。
何と、39000ルピアと、59000ルピアの物がある。

私は、安い方から、一着選んだ。
私の、室内着である。
出来るだけ、裸でいたい私は、イスラム教徒の男たちが、着るような、服が欲しかった。または、ローマ法王が、着るようなものである。

これで、いい、と、籠に入れた。
そして、水と、パンと、ハムである。

もう、ビールは、いらない。
アルコールは、飲まない。飲めないのである。

コータが、よく解らない、お菓子を買った。
お菓子ねーーー
それではと、私は、賞味期限の迫る、割引の籠に入っている、ビスケットを選んだ。

割引の物を買うという、喜び。
私は、日本でも、大半の食品の買い物は、割引の物を買う。
これは、癖である。

レジに行き、籠から、物を取り出して、清算する。

日本のように、レジで、籠のまま出さない。
品物は、皆、取り出して、清算するのである。

重たいのは、水である。
五本買った。

コータに、三本持たせ、私は、二本と、他の物を持つ。
そして、ホテルに戻った。

その夜は、コータが、カラオケの店に、偵察に出掛ける。
私は、寝る。
夜、10時になると、私は、眠くなるのである。

2010年01月07日

ジャカルタ・スマトラ島・パダンへ 7

ジャカルタ最後の日、つまり、四日目の朝である。

コータは、寝ていた。
昨夜、カラオケに出掛けている。
私の、寝ている間に、戻っていた。

私は、タバコを吹かしつつ、ぼんやりと、外を眺めた。
今時期は、ジャカルタの、雨季の終わりであるが、雨に当たらなかった。

今日も、晴れである。

時計を見ると、六時を少し過ぎている。

日本時間で、八時なので、実家の母に、電話をする。
ただ、声を聞かせれば、安心するので、電話をする。

ああ、大丈夫かい、解った
それだけである。

母は、話も、ろくに聞かずに、電話を切る。国際電話は、高いと、思っている。
私も、コータも、携帯電話を、持っている。

私たちの携帯は、それぞれの国に行き、内部のチップを変えると、どの国でも、使用できる。
勿論、期限があるので、注意。

大体、半年以内であれば、番号を変えることなく、使用出来る。

今回は、コータの電話だけを、使った。

だが、私は、自分の携帯電話の、それぞれの、国の番号を知らないのである。

必要な時は、メモを見る。
日本の携帯電話の番号も、覚えていない。

尋ねられるたびに、手帳のメモを見る。
どうして、覚えられないのか、解らない。

カーテンをすべて開けると、部屋が、明るくなる。
コータが、目を覚ました。
だが、すぐ、起きることは無い。

どうだったーーー
カラオケである。
売春だね
それだけで、意味が解った。

飲み代は、安い。
そこに、みやび、という、女たちが着く。それが、売春斡旋である。
みやび、とは、日本占領時代の名残のようだという。

みやび、と、呼ばれた女たちは、皆、体を売る。
一日、一緒にいると、80万ルピア、つまり、8千円。
セックスが付くと、180万ルピア、つまり、1万8千円であるという。

コータは、それは、ボラれる値段だという。
そんなに、しないはずだと。

日本人だと、解っての、値段である。

8千円で、十分だと、言う。
やり手婆あがいる、のである。

朝、五時まで、営業していて、地元の、男たちも、来ていると、言う。
ただ、彼らは、お金が無いから、歌うだけだとのこと。

女を買うのは、中華系と、韓国系であるらしい。

ホテルの、部屋は、三時間使用と、六時間使用がある。

実は、私は、それを、間違えて、三日間使用だと、その料金になり、六日間使用だと、その料金になると、勘違いした。
英語力の無さである。

五階の部屋が、多く使用されるらしい。

更に、ストリップシューがあり、とても、激しいものだったとのこと。
コータは、体を擦り付けられて、飲み物を、ねだられた。
それが、彼女たちの売り上げになる。

ストリップシューに出演するのは、年増の女たちである。
全裸に近い、パンティ一つになるという。

コータの出費は、20万ルピア程度だった。つまり、2千円である。

ボーイや、歌う専門の女の子もいるという。
他の客が、コータに、ボーイも、みやび、だと言ったらしいが、真偽のほどは、解らない。
まあ、金を出せば、ボーイも、売るのであろう。

それで、カラオケの話は、終わりである。

スパは、風呂であるが、そこでは、何が行われるのか、分からない。
私は、ボーイに、マッサージを勧められたが、気乗りしなかった。

部屋にも、出張するというが、やり取りが、面倒である。
タイのように、マッサージの店が少ないのが、残念だった。

昼前に、飛行機のチケットを、買いに出掛けた。
ガイドブックには、5000円程度から、チケットがと、書かれてあるので、それを、鵜呑みにしていた。

ホテルの並びに、旅行代理店がある。
大きな通りが、三つ交差した場所を、通る。

信号が無いので、渡るのが、大変である。

ようやく、そこを通り抜けて、代理店に入った。
愛想のよい、若者の前に行った。
エアポートチケットと、私は、言ったが、通じない。
後は、コータに、任せることにした。


2010年01月08日

ジャカルタ・スマトラ島・パダンへ 8

飛行機の、チケットの値段が、高くて、驚いた。
一人、一万程度である。

私は、他の、会社の安いチケットは、無いのかと、コータに言わせた。
そこでは、二つの会社しか、扱わないようだった。

結果、一人、9000円程度の、チケットに決めた。
それは、昼前の、便だった。
丁度よい。12時が、チェックアウトである。

さて、支払いの段になり、ルピアを出す。
二人の、お金を出しても、足りない。
すると、相手の男が、予約にしますと言う。
後で、持ってきてくださいと、なった。

両替は、そごうデパートの、地下である。
予約書を貰い、そのまま、そごうに向かった。
本当は、そのまま、タクシーを拾い、コータが出掛けたという、スラム街に出掛けるはずだった。

両替は、二万した。
パダンでも、両替が出来ると、ガイドブックに書いてあったからだ。多く、両替して、よいことはない。

そして、さて、このまま代理店に戻る前に、そごうデパートから、タクシーで、スラム街に出向き、そのまま、代理店に、行くことにした。
支援物資がないから、ただ、見るだけである。

タクシーは、すぐに、捉まった。
道を指し示して、向かった。

川の両側が、スラム街である。
橋の、真ん中で、車を止めた。
二人で降りて、写真を撮る。

日の丸を持参したので、日の丸を持って、撮った。
川縁に、垂れるように、家というか、小屋が、立ち並ぶ。

更に、そのスラムの中に入りことにした。

運転手は、親切だった。あまり、言葉が通じないが、私たちの、思いを、理解した。

スラム街の中に入り、車を降りた。
私は、身振りで、タクシー運転手に、また、戻るからと、告げた。車をユーターンして貰うように言うと、運転手は、理解した。

一件の、小さな小屋の、お店に入り、水のペットボトルを、買った。
そこの、家には、小さな三人の子供たちがいた。

丁度、彼らに合うサイズの服を、持っている。それに、ぬいぐるみも、である。
残念だと、思う。

周囲の人が、私たちの存在に気づいて、注視する。

写真を、撮ることにした。
子供たちと、一緒に、である。
一枚撮ると、横で、大きなボトルに、水を入れていた、おじさんが、俺も、撮ってくれと言っているように、聞こえた。
一緒に、写真を撮った。

周囲の人たちが、なんだかんだと、言う。
私は、ジャパンと、言った。
すると、皆で、頷いて何か言う。

私は、今度は、服を持ってきますと、身振りで言った。
何となく、通じたようである。

タクシーに乗り込むと、皆が、手を振る。
夜は、危険でも、昼間は、ご覧の通り、安全である。

名残惜しいが、そのまま、先ほどの、代理店に向かった。

今度は、運転手に、代理店の名刺を渡した。
運転手は、解ったと、走り出した。

メータは、9000ルピアに近くなっていた。
丁度、代理店の前に着いた。
10万ルピア、1000円を出して、お釣りは、チップとした。

代理店の若者に、足りない分を、出して、支払いが、終わった。
そのまま、また、そごうデパートに向かい、昼ごはんを食べることにする。

スラム街で、水を、大きなボトルに詰めていた、おじさんの、仕事の意味が解った。
スラムの、食堂に、水を売っていたのだ。

食堂といっても、小屋である。
そこでは、水を入れる、大きな入れ物がある。
その水で、洗い物をするのである。つまり、同じ水で、食器を洗うという、不衛生極まりないのである。

日本のように、水を出したまま、洗うことはない。

そういうこともあり、デパートで、食べることにした。

日差しに当たると、疲れる。
すでに、私は、日焼けしていた。見る見る、日焼けするのである。

ミーゴレン、焼きそばを食べて、アイスクリームを注文した。
タイでは、あまりの甘さだが、ジャカルタのものは、丁度よい甘さだった。
更に、ゼリー状の飲み物を、試しに、飲んでみた。

ジュース感覚で、飲む。大きな、ストローがついていた。
腹が一杯になり、ホテルに戻る。

ホテルフロントで、明日の、チェックアウトを、確かめる。
更に、タクシーの用意である。

朝、10時前に、出ることにした。
その日の、予定は、すべて、終えた。

2010年01月09日

ジャカルタ・スマトラ島・パダンへ 9

翌朝、大量の荷物を、ロビーに運んでいると、警備のおじさんが、飛んできて、手伝う。
いつも、警備のおじさんとは、親しくなる。
言葉が通じないが、何となく、心に流れてくるのでる。

タクシーは、すぐに来た。
荷物を、乗せる。
ボーイも、手伝う。
私たちは、ごく普通の泊り客だった。

ネクストタイム スティ ヒァー
また、泊まると、言って、皆にさようならを、言う。

本当に、また、このホテルに泊まる予定である。
何せ、スラム街の、ど真ん中である。

今度は、一人で来ても、大丈夫。
ボーイたちが、協力してくれると、思う。
彼らは、12時間労働である。

だから、結構、仕事の合間に、楽しんでいる。

今回、私は、一切、チップを渡さなかった。しかし、彼らの態度は、変わらない。

三日目、四日目は、ボーイも、私にマッサージを、勧めなかった。
そういう、客ではないと、見たのである。

タクシー運転手も、親切だった。
荷物を下ろして、カートのある場所を示す。
私たちを、見送って、くれた。
きちんと、メータ料金である。

タクシートラブルが多いと聞いていた。
メータを、改ざんして、料金を高く取る。最初から、メータをつけず、望外な料金を、要求するだのと。

一度も、そんなことはなかった。

ジャカルタの空港は、五つある。
私たちは、国内線の、1Aである。

ライオン航空と、覚えやすい。
人で、溢れていた。

搭乗手続きに、すでに、人が並んでいる。
その、後ろに並ぶ。
それからが、大変だった。

列が進み、真ん中辺りに来たとき、停電である。

電気が、止まるということは、すべてが、止まる。
暗くなり、エアコンが止まり、更に、コンピューターが止まる。
手続き、中止である。

どんどんと、人が入って来る。

やっと、電気が戻る。
うぁーと、歓声が上がる。

そして、また、停電となり、人々が、うぁーと、声を上げる。
それが、暫く続いた。
皆、動き停止である。

私の二人前の人で、止まったまま。

おじいさんが、倒れる。
暑さと、人ごみのせいで、人々に、支えられた。
カートに、一時、体を横にする。

私も、イライラしてきた。
ついに、カウンターに行き、まだなの・・・と、日本語で言う。
女の子が、何やら言うが、解らない。

そのうちに、出発時間の迫る、飛行機が出た。

すると、カウンターから、声が上がる。
デンパサール行きの人、出てきて、というように、である。
手書きで、手続きが、はじまった。

私たちは、後回しである。

次は、どこそこの便が、出ます。
乗る人、出て来てと、叫ばれる。

混雑、混雑である。

私と、コータは、その間に、二度トイレに行った。

カウンターの女の子とも、顔知りになる。
ついに、私に、チケットを見せろと、身振りで、言う。

彼女が、チェックし始めたとき、電気が点いた。

うぁーーーーと、歓声である。

エアコンもついた。

よく解らないが、私たちが、優先された。
兎に角、荷物を、重量計に乗せる。
どさくさに、紛れて、どんどんと、乗せる。
そのまま、オッケー。
ほんとう・・・・大丈夫なの・・・・

しかし、搭乗券を、貰って、すぐに、その場を離れた。
そして、国内線の、使用料金を払い、乗り場に急いだ。

乗り場の前に来ると、通路の真ん中の、お姉さんに、呼び止められた。
何でも、一人、2万ルピアという。

私は、何で、払うの。今、払ったよ、使用料・・・

日本語である。
コータが、きっと、保険だよと、言う。

私の声が大きいのか、お姉さんは、黙った。
見ていると、払う人もいる。保険なのだ。

そして、待合室に、入る。

もう少し、時間がある。
そこで、タバコを吸う場所を、探した。
すると、一度、持ち物検査場を、出なければいけない。
警備のおじさんに、スモーキングルームと言うと、あっちと、示してくれる。
オッケーオッケーと、言われたので、そこを、出る。

戻ると、検査なしで、通してくれた。

人の視線が、チラチラ感じるのは、着物のせいである。
夏物、絽の着物を着ていた。


2010年01月10日

ジャカルタ・スマトラ島・パダンへ 10

飛行機の中では、一切の、サービスはなかった。
お陰で、眠っていられた。

パダン到着である。
予定通り。

国内線であるから、何の問題もなく、荷物の出るのを、待って、外に出た。

タクシーの呼び込みが来る。
まず、公的なタクシーの、チケットを買う。

そのタクシー運転手は、そのチケットの、値段を、12万ルピアと言う。
ホテルの名を言うと、その場所への、料金が決まっている。

タクシーに乗ったのは、ホテルを変更した時のみ、以後、帰りのホテルタクシー以外は、乗らなかった。
皆々、ボルのである。
知らないと思い、吹っかけてくる。

街中までは、結構な時間がかかった。
30分以上である。

一泊、25万ルピアのホテルに向かった。予約はしていない。

街に近づくと、倒壊した建物が、目立ってきた。
三階建て以上の、建物は、ほとんど、倒壊したという。

瓦礫の山も、多々ある。
地震の激しさを、伝えるものだった。

三階建ての建物の、多くは、ホテルである。軒並み、ホテルが、潰れたのだ。

であるから、中々、よいホテルが無いのである。

残ったホテルは、皆、平屋か、二階建てである。

ようやく、ホテルに到着した。
二階建てのホテルである。
ゲストハウスに近い、感覚の建物。

車から、降りて、部屋の有無を確認すると、大丈夫だった。
荷物を下ろして、案内を乞う。

一階の、ベランダ付の部屋である。
部屋に入り、水シャワーであり、トイレには、紙が無い。ということは、手水である。
備え付けの、尻用のシャワー設備もなかった。
バケツに、水を入れて、そこから、尻を手で拭く形。

更に、洗面台が無い。
実に、不便である。

兎に角、三時を過ぎているので、腹が空いた。
二階に、レストランがあるというので、登ると、レストランというほどのものではなく、長いテーブルを置いてあるだけ。

メニューと、言うと、ミーゴレンか、ナシゴレンのみと、言う。

私は、焼きそば、コータは、焼き飯を注文した。
そして、水の、ボトルである。

食べたら、兎に角、水を買わなければならない。

このホテルには、一泊だけにすることにした。
後で、コータが、ホテルを探すことになった。

私は、部屋に戻り、休憩である。

コータが、出掛けた。
水を買い、ホテルを歩いて探すのである。

ホテルは、中小路なので、周囲の状況が分からない。

私は、本日は、動かないことにした。
ただ、部屋の前の、椅子に座り、タバコを吹かした。

そして、お客の入って来るのを、見ていた。
最初は、泊り客が、見えなかったが、夕方近くになると、どんどんと、やって来る。
驚いたのは、その客が乗ってくる、車である。

皆、立派な車に乗っているのである。

一度、部屋に入り、ベッドに、体を横たえた。
暫くして、また、部屋の前で、タバコを吹かす。

私の両隣の、部屋にも、客が入った。
意外に、人気のホテルらしい。だが、皆、インドネシア人である。

外国人は、私たちのみ。

右隣の部屋に、若い、インドネシア人の男、二人が、入った。

この、二人とは、朝、色々と話をすることになる。

コータが戻ったので、話を聞く。
ホテルは、少し遠く、ビーチの近くに、33万ルピアであるとのこと。
3300円である。高い。

しかし、他のホテルも、同じようなものだという。更に、ホテルは、大半が、倒壊したために、ミニホテル、ゲストハウスしかないという。

でも、ここのホテルでは、活動がしにくいと、言う。
結局、乗り物を使うことになるのである。

それなら、少し高くても、そちらで、いいということになった。
部屋も、空いているという。

明日、移ることにした。

コータは、更に、食事もして来たという。
私も、夜の食事をするために、コータに案内してもらうことにした。

パダンの夜は、遅い。
夕方を過ぎても、空が明るいのだ。

ホテルを移るということになったので、荷物を開けなかった。
ただ、タイパンツと、Tシャツのみにした。

少し、暗くなったので、出掛けることにした。
瓦礫の山を眺めつつ、歩く。

街の中心は、少し歩くことになる。
一つの通りに出た。
どこかの、田舎の風景である。

地元の、食堂に入ることにした。
パダン料理である。

コータは、すでに食べたので、私が、注文した。
食べたいものを、指で差す。
すると、おばさんが、皿に、ライスと、おかずを盛り付けてくれる。

カレー風のおかずを、選んだ。
食べた。美味しい。が、辛い。その、辛さが、次第に、酷くなってゆく。
顔から、汗が出てくる。

辛い
私が言うと、コータが、うん辛いらしいと、答える。
本当に、辛いのだ。

その辛さが、複雑で、何の辛さと、言えない。
唐辛子も、胡椒の辛さも、その他、多々ある、辛さである。

辛さの微妙繊細である。
ああ、これが、パダン料理か、である。
料金は、8000ルピア、80円である。

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