2010年02月01日

殺されるよりましだ・プノンペン 1

今回の、旅は、カンボジア・プノンペンである。

その追悼慰霊と、衣服支援の様子を、書き記す。

追悼慰霊は、ポルポトの大量虐殺により、亡くなった方々の、慰霊である。
このことについては、多くを書くことになる。

そこで、最初に、旅の大まかな、日程を書く。

ベトナム航空の、格安チケットで、バンコクまで行く。
朝、10:30発の、ホーチミン行きで、乗り換えて、バンコクには、現地時間で、18:10到着である。日本時間では、20時になる。

その日から、三泊、バンコク・スクンゥィット通りの、ゲストハウスに泊まる。
一泊、600バーツ、1800円である。
その辺りでは、そんな料金の、ゲストハウスは、無い。

以前は、550バーツだったが、リニューアルして、50バーツ高くなった。
日本人は、泊まるはずがない。
連れ込み宿ともいわれる、ゲストハウスである。
しかし、アラブ人たちが、利用する。

近くが、アラブ人街である。

だが、私は、そのゲストハウスが好きで、その辺りならば、いつも、泊まることにしている。
部屋は、シンプル。
何も無い。

エアコンがついて、大きなダブルベッドか、ツインベッドである。

今回は、ツインベッドの部屋が、空いていた。

更に、温シャワーだと、思っていたが、今回、それが、水シャワーであると、知る。
いつも、温いお湯が出たので、温シャワーだと、思っていたが、今回は、バンコクも、涼しく、シャワーを浴びると、冷たいのである。

そこで、コータに、フロントに行かせて、お湯が出ないと、言わせた。
すると、いつも、水シャワーですよ、との、答えである。

それを、聞いて、私が、驚いた。
えっーーー、それなら、いつもの、水は、暑さで、水が温くなっていたのだ、と。

まあ、そういうことで、発見だった。

そこに滞在するのは、プノンペンに行くための、格安航空券を買うためと、コータが、翻訳している、ある英語本の、ための、事実確認のためもあった。
それは、私には、関係ないので、省略する。

今回の発見は、いつもと、違う場所で、現地の人たちが、食事をする、屋台の店を沢山、見つけたことである。

100円あれば、腹いっぱい、食べられる屋台が、続く、道を見つけた。
更に、果物なども、通りを、少し変えただけで、半額程度の、値段になった。

とても、得した、気分である。

そして、マッサージである。
だが、いつもの、マッサージ店に行くと、あの、プちゃんが、別の店に移っていたのである。

プァンというが、私は、プちゃんと、呼んでいた。
姉妹四人で、バンコクで出て、住んでいた。
その、長女である。

結果、プちゃんの、店を、探して当てて、会うことが、出来たが、仕事が少なくて、他の、姉妹は、ノンカーイ・東北地方の、家に戻ったという。
彼女、一人が、残って、働くことにしたという。

一時間の、マッサージをしつつ、そんな話を、聞いた。
翌日も、オイルマッサージをした。

スクンゥィットも、不況らしい。
あの、繁華街も、不況なのであると、いう。

夜の店は、まだ、健在らしいが、私は、夜の店を知らない。
ゴーゴーバーである。
要するに、外国人が、タイの女を買うというもの。

四日目の、午後三時の、飛行機で、プノンペンに向かう。
およそ、一時間で、プノンペンである。
国内線より、時間が、かからない。

最初のホテルは、10ドル、1000円のホテルに、二泊した。
ところが、部屋が、かび臭くて、たまらないのである。
衣服にも、かび臭さが、つくほどである。

安いホテルだが、止めにして、近くの、20ドルのゲストハウスにする。
しかし、そこは、快適で、なんとなく、日本のビジネスホテルのようで、ここが、日本でも、アメリカでも、どこでも、変わらないようなゲストハウスである。

そこで、プノンペンの、町を感じられる、ゲストハウスに、移る。
15ドル、1500円のゲストハウスに、二泊した。
つまり、プノンペンには、五泊する。

食事は、ゲストハウス近くの、屋台や、食堂である。
すべて、現地の人が、利用する場所。

プノンペンの人々の、暮らしが、見えた、良い環境だった。

私は、この旅日記に、殺されるよりましだ・プノンペンという、題を、追悼慰霊したときに、思いついた。

虐殺された、人々の、ドクロを、並べた追悼慰霊碑を、訪れた場所で、それを、思った。

ちなみに、私の感受性であるが、この旅を、始める前から、辛い、抑うつ状態に、陥った。それは、追悼慰霊を終えるまで、続いたのである。
追悼慰霊を、終えて、よくやく、その、抑うつ状態から、脱した。
要するに、霊位の、感応であろう。

これは、極めて、個人的情緒であるから、私だけの、問題である。
それでは、プノンペンと、ポルポトによる、大量虐殺を、眺めつつ、旅日記を、書くことにする。


2010年02月02日

殺されるよりましだ・プノンペン 2

今回の、荷物、支援物資は、詰めるだけ詰めた。

二人で、20キロ無料の他に、それぞれ、機内持ち込みで、10キロ程度のバッグである。
60キロかと、思いきや、70キロを超えていたようだ。

登場手続きの際に、それで、時間がかかった。
少しの詰め替えをした。

そして、まだオーバーしていたが、受付の、お姉さんが、妥協する。

それは、タイまでは、大丈夫だった。
だが、タイから、カンボジア・プノンペンに乗る飛行機は、駄目。
妥協などしてくれない、格安航空会社である。

それで、何とか方法を、考えた。

バンコク・スクンゥィットの、ゲストハウスで、それじゃあ、先延ばししていた、バンコクの、スラムを訪ねながら、支援をしようということになった。

クロントゥーイ地区である。
そこにある、お寺を目指して、タクシーに乗ることにした。

そこは、川に面して、小屋や、長屋建ての建物が、続くという、スラムである。

タクシーの運転手が、私たちの行動を理解してくれて、まず、お寺の敷地内に車を入れて、その辺りを、教えてくれた。
更に、私たちが、戻るまで、待っていてくれるという。
ここには、タクシーが、来ないから、帰りが大変だと言うのだ。
一度、支払いを済ませているので、その間は、無料である。

二つの、バッグを持って、迷路のような、スラム街に入る。

一番、大変なところは、何処かと、訪ねて歩いた。
が、誰に聞いても、ここは、皆、貧しい人ばかりだと言う。

コータが、タイ語で、私たちの、目的を話した。
すると、ここで、やってくれと、懇願される。

一台の、屋台の台に、衣服を出してくれと言われた。

その間に、人々が声を掛け合い、集める。
だが、子供が一人しかいない。
子供たちは、遊びに出たという。

適当に、台の上に、衣服を並べた。
すると、皆さん、好き好きに、それらから、取ってゆく。
私は、ただ、眺めていた。

あっという間に、すべてが、無くなった。
きっと、だれかれに、後で、渡すだろうと、思われた。
スラムは、まだまだ広いのである。

私は、もっと、川べりや、迷路のようなスラムの道を、入り、手渡したかった。
だが、それは、次の機会にすることにした。

皆さん、大変喜んでくれた。
それだけで、いい。

ここは、皆、貧しい
この言葉が、象徴するように、皆、貧しい人のタウンである。

その中で、小さな商売をする人たちもいる。
特に、屋台の食堂が、印象的だった。

食べ物を、安く提供するのは、商売というより、福祉である。
そういう、おばさんたちが、必ずいる。
その地域の、お母さん的、存在である。

私たちは、待っていてくれた、タクシーの元に、戻った。

そのまま、ゲストハウスに戻ることにする。

運転手さんが、私たちの予定を、尋ねるので、カンボジアに行くと、言うと、何時かと、聞くので、明日と言った。
飛行機か
そう
それなら、迎えに来ます
昼の12時に来てください。

旅の出会いは、こんな風に、進む。

兎に角、バンコクのスラムに出掛けられたことが、良かった。
いずれは、継続して、スラムに支援をしたいと、思っていたのだ。

何度も行く間に、皆さんと、顔馴染みになる。
そして、更に、生活の細部を知ることになる。

タイは、中産国と、言われている。
貧しい国から、脱したと。しかし、まだまだ、それは、遠い。

中産国の、生活をしている人は、一部である。
バンコクから離れれば、離れるほど、その格差が、広がる。

北部や、東北部、そして、山間部の、少数民族たち。
日本の二倍の、広さの国である。
更に、少数民族も多い。
そして、難民である。

助けを必要とする人たちは、多い。
国の責任である。と、共に、アジアの国々の、協力が必要である。

私は、私に出来ることをするのみ。

繁華街でも、道を一本別にすると、全く、風景も、内容も違う街が、バンコクである。

今回は、そんな、バンコクの表情を、よくよく、知ることになった。
同じものでさえ、場所によって、半額で、買えたりする。
庶民の、屋台で、食べることが、私には、当たり前になった。

2010年02月03日

殺されるよりましだ・プノンペン 3

ベトナム・プノンペンに出掛ける日、私は、夏物の大島を着た。
バンコク、スワナプーム空港で、エア・アジアに乗る。

バンコクから、プノンペンは、一時間程度である。
国内線より、時間がかからない。

荷物の重さが、気にかかる。
案の定、オーバーであるから、私たちは、バッグを一つずつ機内に、持ち込むことにした。

無料積み込みの、40キロと、それぞれ、10キロで、60キロあまりである。

機内サービスは、一切無い。
食べ物、飲み物は、機内販売するという、徹底した、削減主義の、格安航空である。

一眠りすると、カンボジア・プノンペンに着く。
私は、少し、飛行機の窓から、プノンペンを見渡すことが、出来た。

緑の中に、街がある。
そして、川沿いに立ち並ぶ、スラムである。
後で、その場所を見ることになる。

あらかじめ、ビザを取っていたので、並ぶことなく、すぐに、入国審査を受ける。
入国では、25ドルを支払う。
帰りも、25ドルを支払う、つまり、50ドルもかかるのだ。

荷物を受け取って、出口に向かう。
タクシーの呼び込みである。

私は、それを避けて、外に出た。
トゥクトゥクという、バイクタクシーに乗るつもりである。
7ドルで行けるから。

カンボジアは、ドルが使える。
短期滞在なら、ドルだけでも、十分。ただし、おつりで、カンボジア・リアルを貰うことがある。

一万円が、43万と少しであるから、千円が、4万3千リアルで、百円が、4300リアルである。

一ドルの場合は、変動せず、4200リアルである。
これは、また、頭の体操になった。

話し好きな、トゥクトゥクの運転手だった。
一時間前まで、ざんざん降りの雨だったという。
突然、晴れたのであるらしい。

私は、バッグの、日の丸を指して、日本はお日様の国ですと、言った。
運転手は、頷く。
そして、日の丸と、言った。

ホテルは、あらかじめ、決めていた。
王宮近くの、古いホテルである。

何せ、一泊、10ドルというのが、魅力的だった。
ゲストハウスでも、そんな料金は、珍しい。

ホテルは、たいそう大きく、立派だった。
そして、部屋である。
天井が高く、昔の風情を感じさせる。そして、大きい。

ところが、何故、この料金なのか・・・
それは、匂いである。
強烈にかび臭いのである。

二泊したが、衣類にも、かび臭い匂いが、つくほど。
そして、従業員は、遊び感覚。
その方が、気が楽だという、問題ではない。

経営自体を、放棄しているようである。
その隣に、新しいホテルを建てて、そちらの方が、主たる経営のようである。

兎に角、部屋で、一息ついた。
初めての、プノンペンである。

翌日から、行動することにした。
まず、追悼慰霊である。

観光は、一切しない。

昼を過ぎていたので、まず、何を、どこで、食べるかである。
勿論、地元の人の行く、食堂に行く。

ホテルの並びにある、老夫妻が立ち働く、食堂に入った。
店の前に並べてある、おかずを選ぶと、ご飯がついてくる。

美味しいとか、不味いという、問題は無い。
ただ、何が食べられるのかということだ。

そして、兎に角、安い。二人で食べても、百円と少し程度である。

それから、街中の、セントラル・マーケットに向かって歩いた。
両替をする必要がある。
リアルを持っていた方が、都合がいいのである。
ドルだと、切捨てられて、損になる。

20分ほど歩いて、混雑している、セントラル・マーケットに着いた。
宝石屋で、両替した。
一万円である。それで、滞在中、十分に足りた。43万リアルである。

その辺りを歩いて、道端の、麺を売る、路上の食堂の前に立ち、その麺が食べたくなった。

店の前の席は、混雑していたが、私たち二人の席を、女の子たちが、空けてくれた。

出来上がり、食べようとすると、女の子たちが、色々と教えてくれる。

色々な調味料があり、それを、適当に混ぜて、自分の好きな味にして、食べるのである。
ベトナムの、フォーのイメージの汁そばだった。

美味しい。とても、出汁が利いていて、美味しいのだ。

と、ふっと、店の横で、どんぶりを洗っている様子を目にした。
ああ、見なければ良かった。

三つの、バケツで、どんぶりを洗う。
一つ目は、洗剤で洗い、二つ目のバケツに付けて、洗剤を落とす。そして、三つ目のバケツで、最後の仕上げで、一度、どんぶりを水に通して、終わり。

それの、繰り返しである。
その間に、水を取り替えることはない。
実に、不衛生である。
しかし、それが、当たり前なのであるから、目をつぶるしかない。

美味しい、汁そばも、少し美味しさが、減退した。

二人で、一万リアル程度。一万円の、43分の一である。
百円が、4300リアルであるから、二百円と少しである。

と、そこに、物乞いの兄弟が、来た。
手を差し出す。
着の身着のままの姿である。

私は、日本語で、食べると、聞いた。
上の男の子が、頷くので、おじさんに、二つ作って貰うように言った。

お金を払う段になり、今度は、赤ん坊を抱いた女が、口に手を当てて、物貰いの格好である。

私は、その女にも、一つ注文した。
そして、お金を払い、その場を逃げた。

去ったのではない。逃げたのである。
つまり、次から次と、物乞いが来る予感がしたのである。

案の定、私たちを、追いかけて来た、物乞いたちがいる。

2010年02月04日

殺されるよりましだ・プノンペン 4

プノンペン、二日目の朝、私たちは、ホテルで、一ドルの朝食をとった。

本日は、まず、追悼慰霊である。
何処へ・・・

キリング・フィールド
そこは、プノンペンの南西12キロの、チュンエク村にある。
ポルポト政権時代に、プノンペン市内にある、トゥール・スレン刑務所に収容された人々が、そこに運ばれて、処刑された場所。
遺体は、村の、129ヶ所に埋められた。
後に、その一部が、掘り返されて、その、掘り出された、8985の遺骸が、安置された。
慰霊塔である。

ホテルの前から、少しばかりの、支援物資を持って、トゥクトゥクに乗り、キリング・フィールドに出掛けた。

街中を通り、実に、土ぼこりと、車の排気ガスの多い、通りを走り続ける。
私は、着物の袖で、口を押さえ、コータは、支援物資の中から、タオルを取り出して、口に当てた。

トゥクトゥクの速度は、遅い。
しかし、信号機の少ない、とても、危ない道を、走る。
この運転手は、実直そうで、口数少なく、私たちのストレスが少ないという、良い運転手だった。

道端に、たむろする、トゥクトゥクの運転手たちは、実に、煩い。
仕事を得るために、その話しかける様は、理解するが、日本人は、騙せる、騙されても、何も言わないと、思っているのである。

その話は、別に後で書く。

さて、キリング・フィールドに到着すると、すでに、バスが、三台と、多くのトゥクトゥクが、来ていた。
観光スポットになっている。

しかし、慰霊塔を見た私は、観光スポットになるという、訳が解らなかった。

慰霊塔は、それほど、悲惨極まりないものだった。

その辺りは、処刑された跡や、遺体が、埋められた穴などを、公開している。
私は、慰霊塔のみ。

丁度、人が、慰霊塔にいない時である。

慰霊塔の前に立った。

絶句した。
骸骨が、下から上まで、積まれている。
そのままである。

もし、日本であれば、こんな奉り方はしない。
一度、更に遺骨を火葬して、地下に納め、その上に、慰霊塔を建てる。

その、慰霊塔の様自体、異常で、異様である。

私は、慰霊塔の前で、菊の花と、線香を売る男から、それを買い、持参した、神紙を取り付けて、御幣を作り、ただ、太陽に向かい、礼拝し、慰霊塔の骸骨に向かって、清め祓いを行った。

ただ、音霊による。
それ以外の言葉は、無用である。

黙祷である。

その間、人は、誰も来なかった。

何を祈るのか。
彼らの、無念さを、感じるのみ、である。

様々な、人間の感情を複雑に絡めて、その慰霊塔が、存在する。

実は、私は、この旅に、出る少し前から、今までに無い、抑うつ状態に陥っていた。
それは、バンコクに着いても、そうだった。
一体、どうしてしまったのか。
寒い冬のせいかと、思ったが、暖かいバンコクに来ても、抑うつは、続いた。

その訳が、慰霊塔の前で、追悼慰霊の行為をしている時に、解った。

これである。
霊位の、感応が起こっていたのである。
慰霊をするという、私の心に、すでに、霊位の感応が、起こる。
これは、私の感受性である。

慰霊を終えると、その、抑うつ状態は、すーっと、消えた。

私が、線香を上げて、花を大きな花瓶に挿すと、人がやって来た。
欧米の人たちは、慰霊塔の中にまで入り、その、骸骨を見ている。

その神経が、理解出来なかった。
考古学の、資料でも見ている雰囲気である。

コータが、辺りを見ている間、私は、ベンチに座り、タバコを吹かした。

他の場所を見る気はいない。

コータが、戻り、サイレントツリーと言われた、木を見たという。
どんなに、処刑されることに、騒いだ人も、その木に、吊るされると、静かになったという、木であるという。

その辺りに、遺体の埋められた穴が、見学出来るようになっているという。

これは、見せしめである。
私が、この旅日記の題を、殺されるよりましだ・プノンペン、と、つけたのは、それである。

このようになりたくなければ、反抗するな。
ただ、黙って、従え。
さもなくば、このように、殺される、という、メッセージとして、受け取った。

2010年02月05日

殺されるよりましだ・プノンペン 5

ここから、カンボジアの歴史を、俯瞰する。

フランスの植民地時代から、見ることにする。

1863年、8月、ノロドム王は、それまでの、シャムとベトナムの二重属国状態を、脱するために、アンドゥオン王が、1853年、アジア進出していた、フランスと接近し、その後を継いで、フランスと保護条約を結んだ。

つまり、フランスの、支配下に入ったのである。

更に、1884年、協約の締結によって、フランスによる、植民地体制は、強化された。

1887年、フランス領インドシナ連邦の成立とともに、インドシナ植民地の一部に、編入された。
1953年に、独立するまで、フランスの支配を、受け続けた。

ここでの、問題は、植民地時代を、通して、フランスは、王朝、王権、仏教の、カンボジア固有の伝統を、温存した。
しかし、経済開発や、近代教育制度の導入などは、取り入れなかったのである。

そして、中国人移民、ベトナム人の労働者を、受け入れ、カンボジア人の代わりに、経済開発の担い手として、利用したのである。

結果、カンボジア人、つまり、クメール人の民族意識は、低迷した。

今だに、中国人と、ベトナム人が多く、クメール人は、実に曖昧な意識を持ち、更に、経済活動からも、取り残されていると、私は、見た。

第二次世界大戦後、フランスからの、独立を目指した。

その先頭に立ったのが、1941年、19歳で、即位した、シアヌーク国王だった。

1949年、フランス連合の枠内での、限定的独立を獲得したが、司法権、警察権、軍事権などが、フランスに残されて、真の独立とは、いえない状態だった。

そのため、国内では、シアヌークに対する、非難が起き、地方では、べトミン、つまり、ベトナム独立同盟系の、ゲリラ、反共勢力による、活動が活発になる。

そこで、シアヌークは、1953年、合法的クーデターにより、全権を掌握し、フランスとの、直接交渉に乗り出すのである。

1953年、4月以降、国際世論に訴えて、フランスから、譲歩を引き出し、11月、完全独立を、果たすのである。

独立を果たした、シアヌーク国王は、東西陣営の、どちらにも、組しないという、非同盟中立として、独自の路線を進めた、中立外交を訴えた。

これは、戦乱のインドシナ半島における、また、ベトナム戦争の戦火を回避する、現実的な方法だったといえる。

シアヌークは、仏教社会主義、王制社会主義を唱えた。
王制と、民主主義、社会主義は、矛盾しないと、主張する。

1955年、シアヌークは、王位を、父スラマリット殿下に譲り、退位する。

その直後、国民統合を目指し、新体制として、人民社会主義共同体、サンクムを、結成する。
総裁に就任し、王制と、仏教を護持しつつ、計画経済政策を導入するのである。

だが、それは、左右イデオロギー勢力を内包した、国民運動としての、政治組織であり、その実態は、シアヌークによる、独裁主義政治運営であった。

1960年代、後半、中国に倣った、自力更生による、経済政策が、失敗し、財政悪化すると、サンクム内における、左右勢力の均衡も崩れ、1970年3月、右派ロン・ノン将軍により、外遊中のシアヌークは、国家元首を解任される。

だが、右派の、政権は、ベトナム戦争のカンボジア領内への、拡大を招くことになり、カンボジアは、戦乱に巻き込まれるのである。

ロン・ノル将軍のクーデター後、北京に亡命していた、シアヌークは、カンプチア民族統一戦線の結成を宣言し、共産勢力、クメール・ルージュと、協力することを、表明した。

1970年以降、ベトナム戦争は、カンボジア国内に、拡大され、1973年以降は、カンボジア人勢力同士による、内戦へと、突入した。
結果は、国内の混乱である。

1975年4月17日、クメール・ルージュを中心にした、カンプチア民族統一戦線が、プノンペンに入城した。

内戦は、事実上、終結した。

が、政権を握った、ポル・ポト派が、急進的な共産主義政権を目指したため、国内は、再び、大混乱に陥ったのである。

ポル・ポト政権の、3年8ヶ月は、カンボジアの悪夢である。

現在も、その、悪夢にカンボジアは、悩まされ続けている。

35年前のことである。

まだ、記憶に、生々しく残るものである。

この、ポル・ポトによる、大虐殺の有様を、私は、共産主義黒書から、抜粋し、書き続けてみることにする。

少しく、重たいテーマであるが、これを書かなければ、カンボジアという国を理解できないと、共に、これからの、カンボジアとの、関係構築のためにも、欠かせない、知識であると、思う。

このようなことが、本当に、行われたという、現実である。

主義というもの、教義というものを、突き詰めてゆくと、原理となり、それが、原理主義を生み出し、悲劇を起こすという、事実である。

それは、政治形態だけに、言えるものではない。
哲学、思想、宗教と、あらゆる主義に対する、原理的行動への、警告である。

私は、日本人が、曖昧、たゆたう、という、精神構造を、培ってきたことを、実に、幸せに思うのである。


2010年02月06日

殺されるよりましだ・プノンペン 6

キリング・フィールドから出て、トゥクトゥクを探した。
10台以上の、トゥクトゥクが、止まっている。

広場に出ていた私に、二人の少女が、近づいて来た。
二人は、裸足である。

私に、英語で、同じ言葉を繰り返しのである。

要するに、食べ物をください。私たちは、貧しいと、言う。

私は、日本語で、ちょっと、待っていて、今、あなたたちに、衣服を上げるから、と、言い、トゥクトゥクを探した。
コータも、探している。

トゥクトゥクの運転手が、居眠りしているのだった。

私の、大声で、目覚めたようで、向こうから、近づいて来た。

早速、二人の少女、小学四年生くらいに、見えたが、もっと、上かもしれない。カンボジアの子供たちは、小さくても、年齢が高い場合が多い。栄養のせいだろう。

バッグから、衣類を取り出して、二人に、差し出すと、どこからともなく、子供たちが、やって来た。

どんどんと、増えるのである。

子供用の、靴も持参していたので、裸足の子供たちには、大喜びだった。
サンダルや、運動靴のようなものもある。

大人も、やって来たが、その時は、子供用だけであるから、何も、差し上げることが、出来なかった。

学校帰りの子供も来た。
しかし、決して、豊かな様子ではない。
ある限りの、支援物資を出して、渡した。

コータが、向こう側にも、子供が一人いるのでと、上下の衣服と、ジャンバーを持って、向かった。

その間に、トゥクトゥクが、行き先の向きを変えて、コータを待った。

皆に、さようなら、と声を掛けて、その場を離れ、街に向かった。

慰霊と、支援は、この活動の、最たるものである。
それが、一度に、行えた。

私は、それに、満足したが、先ほどの、追悼慰霊の慰霊塔のことを、思うと、気が重たい。
あれは、一体何だったのか。

疑問と共に、怒りと、哀しみが、湧いてきた。
様々な、戦争犠牲者の追悼慰霊をしているが、今回の、犠牲者の死には、何の意味があるのだろうか・・・

ポルポト政権によって、抹殺された、人々。
ただ、生きているというだけで、殺された人々。

余りに、無残である。

疑問は、ますます膨らみ、帰国してから、徹底的に、調べてみようと、思った。

パンプレットに書かれていることでは、納得しない。

レーニン、毛沢東と、激しい虐殺を行った。そして、ポルポトである。
この流れに、共産主義という、思想がある。

何故、これほどの人の命を奪っても、共産という主義のために、殺されなければならなかったのかという、疑問。

トゥクトゥクは、また、酷い空気の街中に戻った。
私は、着物の袖で、口元を押さえた。

ホテルに戻るまで、その中で、我慢しなければならない。
更に、バイクの震動である。
体に、響くのである。
次第に、全身が、震動して、とても、疲れる。

日本で、このような乗り物は無い。
30分以上乗っていると、全身が、痺れたようになる。

だが、タクシーは少なく、一番手軽な、乗り物である。
プノンペン市内では、バイクの後ろに乗る、バイクタクシーか、トゥクトゥクである。

ようやく、ホテルに着いた。
明日の、予定を、運転手に告げる。

スラムに行きたい。その中でも、特に、貧しい人のいる場所だというと、運転手が、解ったと言う。

私は、おおよその、見当をつけていた。
が、運転手は、予想に反して、全く、私たちの、考える支援の場所に連れて行ったのである。

私たちは、部屋に戻り、すぐに、シャワーを浴びた。
そして、部屋のかび臭い匂いに、矢張り、ここは、出なければと、思った。

コータが、先ほどの、運転手に、ゲストハウスを紹介されたと言った。
インターネットが、無料でつなげるという。

翌日、そのゲストハウスに移ることにした。
だが、このホテルの倍の料金であることに、後で気づく。

トゥクトゥクの料金は、15ドルだった。
市内観光の真っ当な、料金である。

ホテル料金の、10ドルは、確かに、格安である。
翌日の、ゲストハウスは、20ドル。
だが、私たちには、高いと、思った。
一泊だけして、別のゲストハウスに、また、移ることになる。

2010年02月07日

殺されるよりましだ・プノンペン 7

突然カンボジアにおいて、クメール・ルージュ以外に手持ちのカードがなくなったハノイは、(武器、軍事顧問、ベトナムでの軍事訓練など)あらゆる手段を使い、そしてカンボジアの大部分をクメール・ルージュの名で、あるいはむしろシアヌークの名で占領する日を待ちつつ、クメール・ルージュを支援する道を選ぶことになった。
共産主義黒書 以後、抜粋は、すべて、これである。

シアヌークは、昨日まのでの敵である、ポルポト率いる、クメール・ルージュと、手を結ばざるを得ないところまで、ロン・ノル将軍の、追い落とし工作から受けた、屈辱に、憤慨していた。

であるから、シアヌークは、クメール・ルージュと、カンプチャ民族統一戦線を結成し、ロン・ノルとの、内戦に、突入した。

共産阻止の、アメリカ軍は、戦闘地域に、54万トンという、爆弾の雨を降らせた。
それは、クメール・ルージュの前進を遅らせたが、アメリカに対する、憎しみに捉えられた、多数の農村の新兵をクメール・ルージュの軍隊に結集させる結果になった。

クメール・ルージュのプロパガンダのなかで繰り返し論点として現れる次の大きなうそもまた、大量爆撃ということ事実の裏づけあってのことだった。「われわれは世界最大の強国に打ち勝った。だから、あらゆる抵抗にも、自然にも、ベトナム軍にも、その他に打ち勝つだろう」
黒書

1975年4月17日、プノンペンの征服と、共和国最後の諸都市の征服は、負けた側自身がほとんど100パーセントの安堵感をもって迎えたほど、待たれていたものだったという。

この残酷で、無意味な戦争以上に、酷いものはありえないと、人々は、思っていた。

しかし、それ以上の、悪夢が待っていようとは、誰もが、知らない。

悲劇のはじまりは、そこからだった。

クメール・ルージュは、彼らの勝利を手をつかねて待っていたわけではなく、すでに、目を覆うばかりの、暴力と、極端な、施策の傾向を示し始めていたのである。

開放が、進むにつれて、犯罪者専用のはずの、拘留センターと、見分けがつかない、「再教育センター」が、国中に溢れるようになる。

ロン・ノル将軍の、率いる、共和国の兵士は、戦闘員である前に、裏切り者だった。

拘留された者がたどる、当たり前の運命は、死であることが、初めから決定していたのである。

様々な、情報があるが、一つ、プノンペンから、車で、40分ほどのかつての王都である、ウドン占領の際には、一万人の、虐殺が起こっている。

また、非戦闘員の大量移住は、1973年という時から、早くもはじめられていた。

1975年、勝利直後の、プノンペンの完全無人化は、住民にとっても、予想だにせぬものだった。

世界の人々は、カンボジアで異常な出来事が展開されていることに初めて気づいたのだった。
黒書

「見せしめ」に殺された頑強な抵抗者や、あるいは処刑された敗軍の兵士には事欠かなかったが、当時は住民たちが組織的な蛮行にさらされたりはしなかった。
黒書

強制移住は、「三日間だけ」のことと、お情けの嘘にすがり、24時間以内に、家と財産を置いて、出発しなければならなかった。
その結果は、惨憺たるものになった。
それは、生き延びた人には、決して消えることのない、トラウマとして、残ることになる。

こうして、クメール・ルージュの行うことを、検証してゆくと、反吐が出るほどの、信じられない、行為が、出てくるのである。

一体、ポルポトは、何を目指したのだろうか。
何をしたかったのだろうか。

その疑問が、益々強く、深くなるのである。
共産主義黒書に記された、分厚いそれを、すべて、紹介することは、出来ない。
私の都合で、特徴的な事柄だけを、挙げてゆく。

1976年まで、名目上の国家元首である、シアヌークを、その地位に相応しく迎えに行くという、口実の元に、できるだけ多くの、中級、高級官僚を、そして、何よりも、軍の兵士を選び出すことが、狙いだった。
彼らの、大部分は、すぐさま虐殺された。
あるいは、刑務所にて、死んだ。

都市住民の、殺到によって、農村生活は、大混乱に陥る。
資源と消費のバランスが大転換を起こした。

古くからの、人民、基幹人民、戦争のはじめから、クメール・ルージュの支配下にあった、住民、70年代世代とも呼ばれる、旧住民と、新人民、75年代世代とも、呼ばれる。

その二つの、住民の間に、大きな溝を作る、あらゆる策が、講じられた。
憎しみを増幅させるという、手段である。

それにより、人民の分裂を促すのである。

両世代の間に、差別的な法体系が、確立される。
それぞれは、村の一定地区から出ることを、禁止された。
互いに話し合うことも、結婚することも、できないという、狂気の、差別である。

これが、後に、監視社会と、密告社会を生み出し、更に、それに、子供たちまで、巻き込まれるのである。

その、子供たちを利用した、密告から、残虐行為から、私は、カンボジアの、未来の絶望を観た。

人間不信の、最たるものである。

監視、密告社会は、中国の、文化大革命の悲劇にも、現在の、ミャンマー、北朝鮮の、人権無視の行為にも、つながる。

ポルポトは、それらの、すべての悪行を、まとめて、行ったといえる。徹底的に、である。

2010年02月08日

殺されるよりましだ・プノンペン 8

キリング・フィールドから、戻り、部屋で休んだ。
昼の食事は、ホテルの並びにある、地元の人たちの食堂である。

おかずを選ぶと、ご飯がついてくる。
二人で、二百円程度だった。

それから、また、ホテルへの道を戻った。
そして、少し散歩をしてみることにした。

ホテルの前を通り過ぎて、向こう側へ渡った。
そこは、塀に囲まれてある、不思議な、街である。

その入り口で、日本語の、カタカナ文字を見つけた。
ニコニコハウスと書いてある。

中を覗いた。
子供が、数名いる。

どうして、日本語なのかと、疑問に思う。
そして、今日は、と、呼びかけてみた。

はーい、と、男の子と、女の子が、出てきた。
少年少女ではない。

大学生くらいか・・・
こんにちはと、もう一度言った。

ここは、日本に関係がありますか、と、尋ねる。
はい、日本の支援で、やっています。

国際ボランティア基金という、日本の団体から、支援を受けて、地域の、ストリートチルドレンたちに、食事と、勉強を教えているという。

ならば、と、私は、
文具とか、おもちゃなど、必要ですかと、聞いた。
はい、必要です。
それなら、後で、持ってきますね
私が言うと、二人は、ありがとうございます、と、答えた。

まさか、こんなところで、そんな施設を見つけるとは・・・

一度、私たちは、その施設を出て、少し、近所を見て回ったが、私は、先に、ホテルに戻ることにした。
コータが、もう少し、見るという。

私は、ホテルに戻り、文具と、おもちゃ類を、バッグから、取り出した。
本当は、衣類も、差し上げたいと思ったが、それは、街中の、子供たちに、上げなければいけない。

コータが、戻ったので、それを、持参して、もう一度、出掛けた。

今度は、大人数名もいた。

私は、持参したものを取り出して、どうですかと、尋ねた。
先ほどの、青年が、頂きますと、言う。

そこで、机の上に、それらを乗せた。
すると、男性の指導者であると思われる方が、ノートを持ってきた。

そして、名前と、持参したものを、記して欲しいと言う。

すべて、日本語である。
しかし、詳しい話になると、英語になった。

コータが、詳しい話を聞いている間、私は、持参した、文具や、おもちゃを、整理して、並べた。

あまり、多くはないが、とても、喜んでくれた。

この施設は、子供たちに、朝と、昼の食事を出して、勉強を教えていた。

私は、一番必要なものは、何ですかと、尋ねると、衣服というではないか。
衣服もあるのに・・・と、思った。
しかし・・・今、出してしまうと・・・
では、次に来る時に、衣服を持ってきますと、言った。

皆で、写真を撮ることにした。
必ず、また来ますと言って、挨拶していると、一人の若い僧侶が、やってきた。

そして、私たちに、話し掛ける。
ついには、彼の、部屋まで、行くことになった。

彼は、田舎から、学ぶために、プノンペンにやってきた。

彼曰く、私は、英語が話せます、しかし、私は、日本語で、話したいのです、と言う。

日本語は、ニコニコハウスで、一年間学んだという。

そういえば、何人かの子供たちが、日本語で、私たちに、こんにちはと、挨拶した。当たり前に思ったが、子供たちも、日本語を学んでいるのだ。

若い僧侶の部屋は、大人数で、生活している、一つのベッドだけである。

兎に角、彼は、日本語で、自身のことを、私たちに話してくれた。
不明瞭な言葉もあるが、何となく、解る。

言葉は、矢張り、話すことなのだと、納得した。

いずれ、彼は、自分の村に戻り、お寺を再建するという。

カンボジアでも、タイと、同じように、上座部仏教である。
であるから、人生に、一度は、出家の経験をする、男性もいる。

そのまま、僧侶として、人生を生きる人もいる。
その、僧侶たちの、住まいでは、子供たちに、色々と、教えているようだった。

私が見たのは、民族音楽を、教えている場面である。

彼とは、また、再会を約束して、別れた。
彼は、寺に住んで、大学に通って学んでいた。
兎に角、学問に熱心だった。

胸に篤いものを、感じた。
カンボジアの未来を、少し、見たような気がした。

2010年02月09日

殺されるよりましだ・プノンペン 9

カンボジアの人口のほぼすべてを農村に送っただけでは、カンプチア共産党の指導者は満足しなかった。数ヶ月前にやっと定住したばかりの新人民のうち、非常に多くの割合の者は、新たな強制移住の地へと向かわなければならなかった。今度はいかなる発言権もなかった。たとえば、1975年9月の一月だけで、数十万人が東部地域および南西部地域を離れ、北西部地域へ向かった。青年と、低年齢の子をもたない成人を配慮したうえ、村から遠く離れ、時には何ヶ月もぶっつづけで訓練した「労働隊」のことは別にしても、三回も四回もつづけて移住させられることは珍しくなかった。
黒書

体制側の意図は四重だった。まず第一に、政治的リスクのある、新人民と旧人民のあいだの、また新人民同士の、永続的な絆をいっさい絶つことであった。第二に、新人民がなけなしの財産をもっていくことや、種を播いた作物の収穫を妨げることで、彼らを常に一層「プロレタリア化」することであった。第三に、住民の移動を完全な管理下におき、それによって大工事の着手や、国の周辺部にある過疎の山地やジャングル地帯の農地化を可能にすることであった。度重なる強制移住「時には徒歩で、よくても荷車で、あるいは一週間持つことができた場合、スピードが遅く超満員の列車に乗っての」は、栄養も不足で、薬のたくわえも尽きつつある人々にとっては、もはや耐えがたいものだったのである。
黒書

プン・ヤッタイの証言
それは実際には個人主義的傾向の持ち主を探り出すための調査だった。・・・・
これによって都市住民は自分の厭うべき傾向を捨て去っていないことを証明したことになる。こうして彼は、生活条件の困難できびしい村で、もっと厳格なイデオロギー的処置を受けなければならないことを明らかにしたわけだ。われわれはみずから志願することによって、自分自身を告発していたわけだ。誤りのないこの方法によって、クメール・ルージュは、最も不安定で、自分の運命に最も満足していない移住者を探り当てていたのである。

そして、それだけでは、済まなかった。
1976年から、1979年の間、粛清と大殺戮の時代が到来するのである。

住民を分類し、排除しなければならないという、狂気が、少しずつ権力の頂点に登りつめてゆくのである。

親ベトナム派と、フー・ユオンとが、早々に、抹殺された。
「王国政府」の外交官は、全員が、共産主義者というわけではなかったが、1975年に、召還され、二人を除く、全員が、拷問の上、処刑された。

しかし、それぞれの地域の初期の自治権が、かなり大幅だったより、第二に、経済の失敗が明らかになってきたことにより、第三に、1978年以降、国境地帯で、ベトナム軍が、たやすく反撃を展開したことによって、それまで、一度も正常な運営を経験したことがないように思われた、カンプチア共産党のなかで、裏切りの疑惑が、いっそう、掻き立てられたのである。

独裁政権の、たどる道、そのものである。

共産党の、序列で、第六位だった、ケオ・メアスが、1976年9月に、逮捕されて以降、加速的に、共産党の指導部は、内側から、貪られ、四部五裂の形相を呈するようになった。

裁判は、行われず、明白な告発すらなく、投獄された者は、全員、恐るべき拷問の果てに、暗殺された。

それは、将来、ポルポトの絶対優位を、脅かす恐れのある、すべての人々を、壊滅させるためだった。

ポルポトの、妄想は、スターリンを超えた。

「階級敵にたいし・・・とりわけわれわれの隊列のなかにいる敵に対して、熾烈で容赦なき死闘を」
「われわれの隊列のなかにいたるところに、中央にも、参謀本部にも、地域にも、基本組織の村落にも、敵はいるのだ」

この時、すでに、最高責任者13人のうち、5人と、地区レベルの書記の大半が、処刑されていた。

1978年の、新指導部メンバー七人のうちの、二人も、消されていた。
その中には、ポルポト自ら、脚を一本折るまで殴りつけたといわれる、副首相ポン・ベトもいる。

以後、粛清は、自動的に継続された。

CIAのスパイだという、密告が、三件あれば、逮捕されるのに、十分だった。

そして、更に、それは、下の組織にも、実行されていく。

住民、七万人の一つの、地区だけでも、CIAに協力する裏切り者だということで、四万人が、粛清された。

しかし、ジェノサイド的様相は、まだ、東部地域においてだった。
敵対的なベトナムが近くにあり、軍と政治の指導者、ソー・ピムは、この地域において、堅固な権力基盤を維持していた。

ここでしか見られない、現象として、地方幹部による、中央への反乱が、1978年の五月から、一ヶ月ほど、短期に内戦の形相になったのである。

しかし、四月には、東部地域の幹部、409人が、ツールスレン監獄に監禁されていたのである。

今は、博物館として、プノンペン市内に、それはある。
私は、全く、見る気にもならなかった。

六月に、ソー・ピムは、望みのないことを知り、自殺する。
彼の、妻と子供たちは、葬式をしていたところを、虐殺された。

これは、地域の武力勢力が、反乱を試みたのちに、ベトナムに移り、のちに、ハノイの軍隊と共に、プノンペンに進軍することになる、救国民族統一戦線の萌芽を形成するのである。

中央は、更に、東部住民を、クメール民族の体内にいるベトナム人、を、死刑にした。
その数は、10万から、15万人とも、いわれる。

更に、生き残った者は、他の地域に強制移住させられ、移住先で、皆殺しにされた。

北西部地域のある協同組合では、ベトナム軍が到着した時まで生きていたのは、3000人のうち、約1000人だけだった。これらの残虐行為は、体制崩壊の前夜にあって三重の転換の跡を印している。その第一は、女性も子供も老人も、成年男性とまったく同程度に殺戮されたこと、第二は、旧人民も新人民と同じように殺されたこと、第三は、この任務の大きさに手をつけられなくなったクメール・ルージュが、時として「75年世代」を含めた住民にむりやり虐殺を手伝わせたことであった。
革命は、狂気そのものになりつつあり、今やカンボジア人の最後までを呑み込もうとしていた。
黒書


2010年02月10日

殺されるよりましだ・プノンペン 10

クメール・ルージュ政権がカンボジア人の少なからぬ部分を絶望に追いやったことは、国外への脱出の規模の大きさが証明しているとおりだ。かなり少数だった1975年四月の入国者を別にすると、1977年十月には、約六万人のカンボジア人がベトナムへ逃げていた。
しかし、脱出には極度の危険がともない、つかまればかならず死刑に処せられ、しかも、数日間、いや数週間にもわたる恐ろしいジャングル内の彷徨をーーーすっかり消耗しきってしまうだけではなくーーー覚悟した上でなければ考えられなかったので、この企てを思いついた人の大部分はたじろがざるをえなかった。
それでも出発した人のごく一部だけが目的地に無事にたどりついたにすぎない。
黒書

これが、現実に起こったということを、否定する何物も無いのである。

二十ヶ月に及ぶ国境地帯での散発的なーーーはじめは密かにーーーついで1978年一月以降は公然たるーーー衝突の後、ついに訪れた1979年一月のベトナム軍の到来は、大多数のカンボジア人には「開放」と感じられた。「そしてこれが現在にいたるまで正式な呼び方でもある」
1967年の蜂起の「英雄」であるサムロート村の住民が、他の多くの人々と同じように、彼らの幹部だった逃げ遅れたクメール・ルージュを殺戮したことは象徴的である。

彼らクメール・ルージュの幹部は最後の瞬間まで残虐行為を犯す機会を逃しはしなかった。

ツールスレンを含む多数の刑務所には、開放すべき人間は事実上一人も残っていなかったのである。多くのカンボジア人がその後ベトナム軍への幻想を捨てたにしても、またハノイの意図が初めから人道的ではなかったにしても、当時は異論を提起されたこともある次の事実は、いささかも否定することができない。すなわち、とくに1978年においてクメール・ルージュ体制によって推進された事態の展開ぶりを見れば、実に数え切れない多数の個人が、ベトナム機甲師団によって死から救われたという事実である。

この国は非常にゆっくりとではあるが再生することができるようになった。住民は徐々に移動する自由を、自分の畑を耕す自由を、信じたり、学んだり、愛したり・・・する自由を取り戻すことができるようになったのである。
黒書

スターリンも、毛沢東も、自国民を虐殺し続けた。
そして、共産党独裁による、政権を樹立した。
だが、ポルポトのような、虐殺、更に、虐殺は、どこから、出たものであろうか。

共産主義という、イデオロギーに問題があるのではない。
独裁ということに、問題がある。

主義というものは、理想である。
そして、その理想に近づくために、方法がある。
だが、世界広しといっても、共産主義国が、成功、いや、少しでも、国民を幸せに、導いたことは、無いのである。

ただ、一時的にではあるが、幸せの幻想を抱いた時期はあるだろう。

原始社会、古代社会は、共産制だったという、見方があるが、全く違う。
そこには、祭祀があり、原始社会の、秩序があった。

一見、共産制に見えるが、全く違うものである。

無形の権威というものに、集約される、王権、祭祀権などがあったのである。

それは、畏敬である。
共産主義には、畏敬するものが、無い。
あるのは、指導する人間の、絶対性である。

古代の、王権や、祭祀権は、絶対的存在ではない。
民に、求められて、存在する、権威だった。

また、全体主義でもない。

現在の、共産国、中国、北朝鮮などは、全体主義である。
そして、一党独裁政権である。

人権は、無視される。

言論統制が、敷かれる。

国民に、自由は、許されない。
更に、国家は、独善的に、国民を指導する。
国民をモノとして、扱う。

中国共産党は、チベット、ウイグル族を、虐殺して平気でいる。
更に、民族壊滅をも、指導するという、独裁である。

更に、それを、推進すべく、ミャンマー、ラオス政権などに、支援金を渡して、その独裁を、国外まで、広げようとしている。

ソ連は、崩壊したが、現在の、ロシアも、ソ連の有り様から、中々、逃れられないでいる。

植民地政策時代の、西洋人と、現在の、ロシア、漢民族は、実に似ている。
その、野蛮さである。

虐殺は、日常的である。

そして、捏造する思考力である。

歴史を捏造するのは、朝飯前である。

カンボジア理解のために、共産主義黒書を、読み進めているが、反吐が出るものである。
ナチスドイツの、ユダヤ人虐殺を言うならば、共産主義思想による、大虐殺を大々的に、喧伝しなければならない。
更に、現在も、共産主義の名において、秘密裏に行われる、虐殺をも、言うべきである。

日本の馬鹿な、共産主義者は、まだ、本当の共産主義の国が、現れていないだけで、云々と言うが、どう、見積もっても、共産主義という名の、革命は、人間の、悪行である。

勿論、赤狩りといわれ、共産主義を奉ずる人を、弾圧した歴史的事実もある。
何故か。

どちらにも、独裁支配と言う、イメージがあるが、民主的自由主義というものが、結果的に、人類の選んだ、理想に近い方法であるということ。

その中に、社会主義的、要素があり、つまり、福祉政策重視の要素がありと、その国のあり方によって、流動性がある。
国家とは、国民の共同幻想が、基本にある。
その、共同幻想とは、伝統に裏付けられる。

伝統を廃した、新国家というものは、蜃気楼である。
自然災害や、国の大事があれば、脆くも新国家は、大きく揺れる。
更に、崩壊という、事態に陥るのを、見ても、よく解るのである。


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