2010年02月17日

殺されるよりましだ・プノンペン 17

「われわれが建設中の国のためには、よい革命家が100万人いれば足りる。その他の住民は必要ないのだ。われわれは敵を一人生かしておくくらいなら、むしろ10人の友人を倒すほうを選ぶ」というのが、協同組合の集会でよく聞かれたクメール・ルージュの演説だった。

彼らは、こうしたジェノサイドの論理を実行した。

ポル・ポト治下では、非業の死こそ日常茶飯事だった。

当時は、病気で死ぬより、殺されて死ぬ方が、圧倒的に多かった。

三番目の殺し方とは、中央につながる部隊が、東部地域におけるように、失脚した地方幹部の集団、疑わしい村々の全村民、さには、住民全体を、現場で、大量に殺戮する。

どの場合でも、明確な告発はなかった。
「オンカーは殺すが、決してその理由を説明しない」というのが、当時の住民の新しい、諺になった。

死刑の、主たる理由を挙げると、最も適当なのは、食料ドロボーである。
コソ泥の場合でも、大量に死刑が、適用された。

果樹園で盗みを働いた少年たちは、仲間に裁かれた。
裁く仲間も、それを拒否することは、出来ないのである。
そして、死刑を宣告され、その場で、即座に頭を撃ちぬかれた。

一頭の子牛を分け合ったというだけで、一家全員が、殺されることもあった。

殺される理由は、どんな小さな、逸脱行為も、可能な限り、妄想逞しく、解釈をほどこすことは、簡単だった。

結婚以外の、性的関係は、無条件に死刑とされた。
若い恋人たちは、勿論だが、好色な幹部たちも、死に至った者は、多い。

アルコールの摂取も、死罪の一つだった。
それは、幹部と、旧人民に該当するものだった。
新人民は、食糧探しだけで、十分、命の危険に晒された。

与えられた、任務を達成できないことも、極めて危ういことだった。
些細な、間違い、事故でも、命にかかわることがあった。
更に、多くの身体障害者、精神病患者が、殺害された。
無能であり、客観的には作業の妨害者でもある、彼らは、新人民の大半より、尚一層、役立たずだからだ。

共和国軍の、傷痍軍人は、消滅させられるのに、最適な存在だった。

民主カンプチアにおける暴力の全体水準は恐るべきものだった。しかし、大部分のカンボジア人を恐怖に陥れたのは、死の光景そのものよりも、絶えず人が消え去ることをめぐる謎と、その予見不可能とだった。死はほとんど常に、目立たぬように隠されていた。
黒書

「彼らの言葉遣いは、最悪の瞬間でも心がこもっていて、とても優しかった。彼らはこの丁寧さを捨てることなしに、殺人まで行ったのだった。彼らは愛想のよい言葉を用いて死を投与した。・・・彼らは、われわれの疑念を眠り込ませるために、われわれが聞きたいと望むどんな約束でもすることができた。私は、彼らの優しい言葉が犯罪にともなうか、あるいはそれに先行することを知っていた。クメール・ルージュはどんな場合にも、たとえわれわれを家畜のように屠殺する前であっても、礼儀正しかったのである。」

カンボジアでは、ある午後遅く、あるいはある夜、兵士が「尋問」のために、「学習する」ために、あるいはお定まりの「森での当番」といった理由で、ある人を連れに来たものである。外に出るや、しばしば腕をうしろに回させてしばのりあげると、それで一巻の終わりだった。


今日では、非常に多くの死体投棄穴がーーーその数は、徹底的に調査された州の各々に、1000箇所以上あり、そうした州は、合計20州にのぼる。

「男も女もこやしにするため絶えず殺されていた。その死体は、耕作用の畑、主としてキャッサバ畑のいたるところにあった。死体のための共同溝に埋められた、キャッサバの根茎を引き抜くと、しばしば、人の全頭骨が掘り出されたものだ。その眼窟のところを通って、この食用の根が張っていた」

スリヴィンスキの調査によれば、
犠牲者の29パーセントが、銃殺によるもの。
頭蓋骨を潰された者は、53パーセント。
吊るされて、窒息死させられた者は、6パーセント。
喉を掻き切られた者、及び撲殺された者、5パーセント。
である。

すべての証言が一致しているのは、公開で行われた処刑は、わずか、2パーセントである。

公開処刑の、かなりの数を占めるのは、失脚幹部の、見せしめ処刑がある。
熾き火を満たした、穴の中に、胸まで、埋めるという。または、頭に、石油をかけて、焼くというもの。

しかし、瞬時に、殺された者は、幸運だったといえる。

例えば、刑務所の事実である。

最も控え目に言っても、そこでは、囚人の生活を楽にするどころか、いや彼らをただ生存させるだけのためにも、何の処置もとられていなかった。
黒書

飢餓線上の食料の配給、医療が施されることなく、過密状態、恒常的な鎖による、拘束である。

女性因と、軽罪の男性因は、片方の足首を一般的には、男性は、両足に鎖がつけられる、さらに、時には、両腕を背中で縛られたまま、床に固定された鉄の棒に、手錠で、並んでつながれた。
トイレに行くことも、体を洗うこともなかった。

そのような、状況では、新入りの囚人の、平均余命は、三ヶ月と、見積もられた。

収監を、学習会などと、呼んでいたのは、中国、ベトナムの、再教育という、真似からはじまったようである。

だが、それは、全く意味が無い。

外国から、帰国した、多くは、学生たちであるが、彼らは、その親と、共に、収監された。
それは、他でもない。
一度に、全員を厄介払いできるようにである。

「一本の草を引き抜く時には、すべての根を残らず引き去らなければならない」というスローガンの具体化で、このスローガン自体、極端な毛沢東主義者にとって親しい「階級の遺伝性」をラジカルに表現したものだった。
黒書

だが、更に
それにもまして酷かったのは、最低年齢の条件なしに収監されたきわめて年若い「非行者」の運命だった。

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2010年03月15日

バリ島は静かに死ぬ 1

バリ島は、静かに死ぬ

二月は、寒中である。
その二月に、暖かいバリ島に出掛けるのは、楽しい。

幾度、バリ島に出掛けたことか・・・
その回数も、忘れるほど。

今回も、慰霊と、衣服支援である。
それは、テロ犠牲者の慰霊碑と、バリ島戦争犠牲者の追悼慰霊である。

そして、繁華街である、クタ・レギャン通りの、ストリートチルドレン、更に、その付近の、バリニーズの住居にての、衣服支援である。
前回より、その内容を、深くし、より、貧しい子供たちに、支援することが、できた。
そして、ジンバランという、漁村での、貧困地区での、支援である。

前回、出掛けた場所は、まだ、いいのだが、衣服を渡す相手を、訪ねて行く活動であるから、暑い日差しの中では、相当なストレスもあった。

さて、バリ島について、今回の、題名をつけたのは、いよいよ、観光地として、有名な、バリ島にも、陰りが、見え始めたこと。
それには、大きな問題が沢山あること。

そして、バリ島は、インドネシアの一部であること。

インドネシアという国は、日本の支援がなければ、先に進まない国であること、両国民は、知らない。
如何に、日本の支援に頼り国造りをしているか、ということ。

二万以上の島国である、インドネシアの政治は、まだ、混迷の色強くある。

東ティモールは、独立したが、まだ、独立を求めている地域もある。

バリ島の、文化、その異国情緒、バリヒンドゥーのお祭りなどにも、魅力があり、勿論、寺院の観光もある。

神々の島との、歌い文句だが、バリ島には、神々より、精霊、あるいは、浮遊する霊の方が、多く、更には、化け物化した、見えない世界の、モノがいる。

下手に、祭りに参加して、具合の悪いなる人も、多々いる。
それを、旅の疲れだと、納得する人の多いこと。

それでは、旅の様子を、伝えつつ、バリ島が静かに死ぬ様を、書いていく。

三名の、旅で、衣類は、100キロ近くを持参した。
勿論、無料で、飛行機に乗せられる量は、一人20キロである。

登場手続きの際に、案の定、重量オーバーである。

女性の、受付では、決められない状態で、上司が出てきた。
そして、サービスで、一人五キロオーバーならば、いいということになった。

つまり、三人で、75キロである。
残りの、25キロは、三人で、分担して、機内持ち込みにした。

ただ、徐々に、無料積み込みが、厳しくなるようである。

兎も角、すべてを、持ってゆくことが、出来たのは、嬉しいことだった。

そのせいで、乗り込む時間まで、ゆっくりと、していられない。
慌しく、食事を済ませて、昼前の時間に、飛び立った。

ガルーダーである。
案の定、空いていた。
つまり、私たちは、決められた席ではなく、空いている、席に、それぞれ移った。

機内食が、出るときだけ、起きて、後は、体を横にして、寝られたのである。

十分に、眠り、バリ島に到着したのは、夕方である。

今回は、入国が、飛行機の中で、行われた。
一月から、入国手続きが、変更になったのである。

更に、乗る前に、入国料金を支払うという、ことだった。
それも、値上がりしていた。

10ドルが、一人25ドルに上がっていたのである。
私たちは、七日間であるから、以前なら、10ドルのビザだった。

帰りは、一人、150000ルピアである。1500円。
合わせて、4000円である。

それを、機内で、パスポートと一緒に提出して、入国審査が、終わる。

だから、入国審査のために、並ばなくてもいいのである。
また、帰りは、出入国カードがいらないことになった。

だが、帰りの、出国では、それで、揉めた。
カードを出せという。
私は、必要ないと、言った。

後ろから、コータが、システムチェンジと、言うが、検査官は、カードがなければ、駄目だというのである。

仕方なく、元に戻り、飛行機会社の、カウンターで、カードを貰い、それに記入して、ようやく、出国手続きが、済んだ。
済まなかったのは、コータであった。

英語で、検査官を怒鳴った。

あらあら、ここは、軍事政権なのに・・・と、思いつつ、見ていた。
検査官が、コータの怒りに、触発されて、コータを、呼び止めたが、コータは、気づかず、私たちのところに来たので、私は、検査官を無視して、登場口に向かった。

あれで、私も、怒っていたら、飛行機に乗られなかったかもしれない。

一月に、方法が、変わったということを、知らない、という、その体制に、日本ではありえないという、感慨を抱いた。

私は、入国した時に、わざわざ、入国官に尋ねにいって、確認していたのである。

必要ないと、言われた。
だが、必要あるという。
更に、別の関係者に尋ねると、知らないという。

本当に、呆れる。

ガルーダーに乗るお客に対する、サービスとして、はじめた、企画なのかもしれず、帰国してから、ガルーダーに、意見書を出した。
返事は、来ていない。

一緒に、乗っていた、日本人たちは、どうしたのか・・・気にかかる。

まあ、私たちのように、怒鳴る人は、いないだろうから、穏便にやったであろう。

手続きとしては、日本では、有り得ないことである。

さて、格安ツアーなので、送迎の人が来ている。
ガイドさんも、一緒であるが、私たちは、出迎えと、見送りだけの、関係である。

予定を聞かれたが、何もしないと、言って終わり。
兎に角、帰りの日の、迎えに来る時間を、確認して、終わりである。

昨年と、同じホテルにしていた。

何と、ホテルは、少し新しく衣替えしていた。

このホテルが気に入ったのは、お湯がきちんとでること、と、朝食が、バイキングで、たっぶり、食べられるからだ。
部屋も、綺麗だ。

大量の荷物に、ボーイたちが、驚いていた。一度では、運びきれなかった。
新しいエレベーターが、増えていた。
昔のものは、従業員用になっている。

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2010年03月16日

バリ島は静かに死ぬ 2

部屋に入り、ホッとしていた。

そして、私は、送迎の車のガイドの、話を思い出していた。

まず、クタ地区は、危険になったという。
ジャワの人も、ロクボクの人も多く、引ったくりや、強盗なども、多いと聞いた。
夜は、特に注意して欲しいと、言われた。

バリ島は、北海道程度の、広さがある。
意外に、大きな島である。

その、一角、クタ、レギャン地区が、観光の街だったが、それが、北へ伸びて、スミニャック、クロボカンなどと、広がっている。

更に、ガイドは、日本人の観光客は、クタを嫌い、ウブドゥに、行くようになったという。

ウブドゥは、芸術の村々である。
だが、そのウブドゥも、時間の問題である。

人が集えば、人が、また、集う。
クタのようになる可能性は、大きい。

ただし、バリ島のリピーターは、バリ島の色々な場所に点在して、旅するようになった。

日本人は、団体旅行が多い。
勿論、個人旅行の人もいるが、目的のある人と、単に、バリ島が好きな人に、分けられる。
バリ島は、好き嫌いの、極端な反応がある。

好きになる人は、バリ島を、第二の故郷と、思う人も多い。

そして、好きな人にとっては、バリ島の人、バリニーズは、とっても良い人たちなのだ。

ところが、バリニーズにも、良い人、悪い人がいる。

バリ島の悪いモノは、すべて、ジャワや、ロンボクから来た人たちだというのは、極端な、バリニーズ好意主義である。

以前の、旅日記にも、書いたが、バリニーズに、多くの日本人が、騙された。
バリ島に、家を建てるために、土地を買う。しかし、外国人は、土地を買えないから、バリニーズに、代理で買って貰う。
ところが、家を建てて住んでから、土地問題が出る。

そして、名義は、私のものだとの、言い分で、裁判でも、負ける。
日本人は、バリニーズの人の良さに、信用するが、相手は、騙すつもりなくとも、騙すという行為になるのである。

一切の、契約書を作らない、日本人の負けである。

要するに、バリニーズより、日本人の方が、数倍、人がよい。素直だ。人を信じるのである。

原宿に出るような、気分で、バリ島に旅する、若い、特に、女たちを、見た。
非常に危険である。
何の、防備もないのである。
危機意識も無い。

私を騙して、という、姿、風情なのである。

バリニーズあるいは、ビーチボーイと、擬似恋愛を体験するために、やってくるような気分である。

そして、本当に、そのように行動する。
私は、何人も、そういう、日本の、醜い若い女たちを、見た。

騙されて、嬉々として、喜ぶのである。

甚だしいのは、結婚詐欺や、商売詐欺に遭う。
本当に、結婚してしまう女も多い。

バリニーズとの、結婚は、120パーセント不幸になると、断言する人もいる。

結婚する、バリニーズは、カーストの、低い身分男たちが、多いからでもある。

だが、その、カーストを理解できないのである、日本の女たちは・・・
ある女は、今は、そんなこと、ないと、平然として言う。
では、カーストの高い人と、出会うかと、いえば、彼らとは、会うことも、叶わないのである。

社会の底辺に、生かされている、バリ島のカースト制を、全く知らないのである。

高いカーストの人たちは、高い塀で、囲まれた家の中に住み、人前に出ることは、稀である。

インドネシア政府は、高いカーストの人を、政治家並みに、扱うことも多い。
世界会議などにも、出席する、王族の末裔もいる。

観光客の、目で見ていては、決して分からないことである。

クタ、レギャン地区は、荒れていた。
それは、廃れたということと、商売が、うまくいかないこと、更に、客が少なくなったこと。

日本人観光客は、何年も前から、彼らに馬鹿にされていた。
だが、精々、四五日で、帰るのであるから、大したことではなかった。

しかし、今回は、ハッキリと、日本人を馬鹿にしているということが、あからさまに分かるのである。

味の素、こんにちは、おげんきですか、どこゆくの、何さがしてる・・・
色々と、声を掛けてくる。
以前は、それだけだった。
しかし、今回は、その後に、言葉がつく。
それは、現地の言葉、バリ語であるから、意味がわからない。
だが、それは、罵倒している言葉だと、分かるのである。

一々、彼らに反応しているのは、疲れるから、無視することにした。
すると、背中に、言葉が浴びせられるのである。

クタ、レギャン地区は、明らかに、滅びを予感させる。

一年前の、店が無くなっているのは、当たり前。
地元の人の利用する、食堂だけは、そのままある。
観光客を、目指しての、店は、コロコロと変化している。

ここから、バリ島の死がはじまる。

バリ島は、静かに死ぬのである。
そして、それは、バリ島にとってもよいことである。

観光収入だけに頼っていた。
観光が廃れれば、皆、廃れる。
しかし、伝統文化は、残る。平和が残る。
何より、ゴミが、減るのである。

その伝統文化なるものも、実は、時の浅いものである。
本物の、バリ島の文化は、これから、作り始まるのである。

今までは、客を意識してのものだった。
これからは、バリ島の人のためにある、文化である。

この、旅日記は、インドネシアのバリ島という、意識を持って書いてゆく。

インドネシアは、その建国から、日本の支援なしには、機能し得なかった、イスラムの国、軍事政権国家である。


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2010年03月17日

バリ島は静かに死ぬ 3

バリ島に、到着した、翌日、兎も角、テロ犠牲者慰霊碑に向かった。

二度目の、慰霊である。

ところが、前回は、内陣に入ることが出来たが、今回は、その周囲の鉄の扉が、締まっている。中に入ることが、出来ないのである。
私たちは、仕方なく、慰霊碑の正面の外から、慰霊の儀を、執り行った。

バリ島に、出掛ける、一ヶ月ほど前に、ジャカルタの、アメリカ大使館から、バリ島に、テロの危険性ありとの、声明が出されていた。
そのせいかもしれなかった。

だが、滞在中も、帰国後も、テロは、無い。
滞在中に、ヌサドア沖で、震度6の、地震が発生したのみ。

地震は、深夜発生した。
その予兆は、私と、コータが、大喧嘩したことである。
互いに、苛立ちが、酷かった。

また、後で書くことにする。

昼前の、慰霊で、人は少なかった。
ただ、私たちの、行為を、幾人かの人たちが、見守っていた。

日の丸を掲げていたので、興味を持ったのかもしれない。

そのまま、ホテル付近に戻り、地元のレストランで、食事をする。

クタの通りの店よりは、随分と安い料金である。
例えば、ジュース類は、5000ルピアである。通りの、店だと、38000ルピアとなる。

短期ツアーの観光客は、中小路まで、入らないから、通りの店を利用する。
50円と、380円の違いは、大きい。

更に、地元の食堂だと、もっと、安い。
パダン料理の食堂だと、三人で、食事をしても、350円程度である。

今回は、二万円を両替したが、すべて、使い切れなかった。
一万円も使っていないと、思う。

何せ、同行の、辻さんは、一万五千円両替したが、使い切れなかったのである。
お土産を買ってもである。
お土産は、地元のスーパーで、買う。

観光客向けの、特別な、買い物の、建物には、決して行かない。
その名を書けば、営業妨害になるので、書かない。

その日、私とコータは、衣服支援のために、新しい場所を、探した。

二人で、バッグを持って、クタの中小路を、歩いた。

必要な人たちを、探す。

一本、中小路に入るだけで、別世界がある。
建物は、小屋といって、いい。

観光客は、決して入らない小路である。
時々、欧米人が、バイクで、迷って入る。

地元の人たちが、利用する、屋台の付近で、女たちと、子供が数人いた。

声を掛けて、その中に入った。

バッグを開けて、必要ですかと、問うが、言葉が分からないのか、首を振る。
つまり、売りに来たと、思ったのである。

コータが、少ない、インドネシア語で、差し上げますという。
すると、女たちが、寄ってきた。

私が、取り出したものを、ああーっっと、声を上げて、受け取る。
更に、一人のおばさんが、あっちの方へと、言う。

おばさんの、後を付いてゆく。

おばさんは、雑貨屋さんだった。
その店先に、椅子を出された。
そして、何と、私たちに、売り物の、ビンのお茶を、出してくれた。

その家には、子供が、二人いた。
女の子と、男の子である。
早速、私は、二人の衣服を取り出して、渡した。
とても、喜んだ。

私たちの、行為を、おばさんは、非常に、感謝していた。
それは、行為で、解る。

トリマカシではなく、サンキューと何度も、言った。

私たちは、少しして、また、中小路を歩いた。

非常に貧しい、小屋が、立ち並ぶ場所に出た。

そこでは、男の子たちが、五人、いや六人ほどいた。
私は、フラム、ジャパン、プレンゼントといって、入った。

しかし、小屋の中から、高校生くらいの男の子が出てきて、子供たちを、制した。
怪しい人に、見られた。

私は、バッグを開き、まず、ミニカーを子供たちに、示して、渡した。
すると、子供たちは、歓声を上げた。

更に、コータに高校生くらいの男の子が、英語で、話し掛けた。

その間に、私は、
子供たちに、サイズに合う、ズボンを取り出して、渡した。

一人の母親も、出てきた。
子供たちは、嬉しくて、飛び跳ねた。
そして、母親も、私の腕をつかみ、嬉しさに、言葉にならない、歓声を上げた。

実は、二人の、男の子は、水浴びをして、体を洗っていたのだ。
裸である。

その二人は、水を拭うこともなく、私の差し出した、ズボンをはいた。

下着も、持ってくるべきだった。

兎に角、突然の、私たちの、出現に、ただ、驚き、そして、歓喜した。

そんなこと、一瞬前まで、考えていなかった。
ところが、こんな、嬉しいことがあったのである。

そこを、去る時に、振り返ると、一人の男の子が、自分の家であろう、小屋に向かって、小躍りして、ミニカーと、ズボンを、振り上げて、いたのだ。

ああ、良かったねーーーーー

私は、コータに言った。
本当に、良かった。

今回、最初の、衣服支援である。


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2010年03月18日

バリ島は静かに死ぬ 4

バリ島は、インドネシアという、二万以上の島々からなる国の、丁度、真ん中辺りに位置する。

19世紀の、東南アジア植民地争奪戦の中で、オランダが、バリ島に進出をはじめる。
1849年、バリ島北岸の、ブレレン王家と、西部のジュンブラナ王家を、武力制圧して、支配下においた。

更に、1894年、隣のロクボク島西部の、バリ人王朝を滅ぼし、1906年には、バリ島南部の、タバナン王家、そして、1908年、バリ島の名目上の支配者であった、クルンクン王家を全滅させた。

更に、残る王家とも、講和を結び、バリ島全域を、支配化に治める。

オランダの目的は、アヘン貿易と、農業、商業に対する、税の徴収であった。
この、税の徴収、治安維持のために、植民地政府は、旧来の、王家、貴族たちの権威を認めて、彼らに、その業務を代行させるという、間接的統治機構を作り上げた。

そして、奴隷制を廃止し、王族の火葬に際しての、妃たちの、殉死を禁止し、病院と、学校建設、灌漑用水を整備し、コーヒーなどの、換金作物の栽培を奨励した。

バリ島を支配するために、オランダ植民地政府は、18世紀に、オランダを破ったフランスの、アジア進出を恐れた、イギリスが、ジャワに進出した頃の、総督だった、ラッフルズの、バリ島に対する、見方を取り入れ、ヒンドゥー教が生きていることを、基本的な見方としたことを、そのまま、取り入れた。

ジャワなども、イスラムを取り入れる前は、ヒンドゥー教が息づいていたのである。
バリ島は、唯一、それを、守っていた。

そこで、カースト制という、制度を固めて、その、土着の、機構を間接統治に、利用したのである。

上層の僧侶と、王族、貴族と、それ以外の、平民を明確に分けて、支配に生かしたのである。

上層の者たちには、道路舗装などの、強制労働を免除し、更に、下級貴族には、村の領主の位置を与えて、徹底した、身分階級を実践した。

それにより、地位や、貧富の差が、急速に拡大することになるのである。

それ以前の、バリ島は、戦闘、紛争の絶えない状態だったと、いえる。

現在の、バリニーズには、ジャワからの、血が多く流れている。
今に、始まったことではないのである。

オランダ植民地による、統治は、バリ島に平和を、もたらしたともいえるのである。

その、オランダの、統治官は、統治するため、バリ島の、情報を克明に、記録した。
その、伝統的制度、慣習などについてである。

更に、芸術芸能方面でも、バリ島に興味を持った、西洋の芸術家たちが、新たな、アンディアをバリ島に、与えたのである。

現在見る、バリ島の、芸術全般は、その成果でもある。

必要なものを、取り出して、観光客に、見せるという芸能は、その時に、出来上がったものである。
勿論、バリ島に伝わる、文化芸能であるが、西洋人によって、花開いたといってよい。

また、それを、咀嚼した、バリ島の人々の、才能も、豊かだった。

しかし、現在見ているものが、バリ島の伝統であると、誤解することが多い。それは、作られた伝統行為である。

文化は、進化する。
バリ島の文化の進化に、大きく、関わった西洋の芸術家たちの、努力も、甚大であることだ。

さて、太平洋戦争時に、一時的に、日本軍の、占領がある。

戦闘による、被害は、無かったが、日本軍に対する、食料調達によって、バリ島は、今までに無い、食糧不足が起こった。

その、犠牲になった人々も多数存在する。
日本軍に、抵抗して、暴行を受けた人たちもいるのだ。

その後、日本敗戦によって、バリ島にも、独立の目覚めが起こった。

再び、インドネシアを植民地化しようとする、オランダ軍との、戦いが、各地で始まった。バリ島も、然り。

その中には、日本軍から、脱走して、バリ島の独立戦争に参加した、日本兵も多々いる。

それは、バリ島だけではなく、ジャワや、スマトラ島などにも、日本兵は、参加している。

1949年、インドネシアは、連邦共和国となり、1950年、共和国となった。
その時、バリ島も、共和国の一員として、歩むことになる。

つまり、バリ島は、インドネシアの中の、バリ州なのである。

インドネシアの政治を、理解しないで、バリ島の理解は無い。

日本は、インドネシア独立から、多大な、支援を行っている。今、現在も、日本は、インドネシアの最大の支援国である。

インドネシアの、歴史的保存や、建物など、日本の支援なくては、成り立たない。
バリ島における、様々な、歴史的建物、博物館なども、日本の支援による。

日本は、戦後保障という形で、支援をしているが、すでに、その域を超えて、様々な分野に、支援の輪を広げている。

アジアでも、インドネシアは、最も、日本に近い国である。

インドネシア共和国になってから、安定したバリ島であるが、オランダ統治時代に、完成された、身分制度は、目に見えない形で、残っている。

インドの、カースト制度に近い形で、今も、生きている。

それは、貧富の差に、如実に現れている。
それを、理解しなければ、バリ島を理解できない。

高い壁を、廻らした、建物に住む人たちは、カーストの高い人たちである。

そして、長屋、小屋のような建物に、住む人たちは、平民とされた、人たちである。

この、伝統とも、言うべき、身分の差別の解消は、とてつもなく、長い時間がかかる。

インドも、そうだが、バリ島も、この、カースト制度というものを、理解しなければ、あらゆることが、理解できないのである。

インドは、憲法により、カースト制度を廃止したが、未だに、その実現には、至っていない。

日本人女性の多くが、結婚するという、バリニーズの男たちは、平民である。
そこから、バリ島を理解するが、必ず、身分制度の、壁に突き当たるはずだ。

更に、平民の人々は、貧しい。
その、貧しさは、持つ者から、貰うという、伝統行為に、結びつき、結婚後の生活が、考えていたものは、全く違うという、状況に悩まされる人は、多い。

日本でさえ、因習の古い地域の人と、結婚することは、大変なことが、多々ある。
それが、外国、文化の違うバリ島では、それ以上に、困難があるといえるのだ。


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2010年03月19日

バリ島は静かに死ぬ 5

翌日の夕方、私たちは、先に、約束したように、長屋住まいの地区に、出掛けた。

あれっ、あまり人が集まっていないと、思った。
が、私が、子供たちに、ぬいぐるを、渡していると、続々と、部屋から、皆さん出て来た。

私は、子供用、辻さんは、女性物を担当した。

そのうちに、凄まじいことになっていった。

辻さんの、周囲に女たちが、囲み、辻さんが、見えない。
どのように、渡しているのか、不明。
更に、私の周囲には、男たちも、現れて・・・

子供たちに、一通り、渡し終えて、辻さんの方を見ると、変わらず、混乱、混雑している。

三つのバックを持参していった。
もう一つも、辻さんの方に、ある。

それは、追加のためのものだが、辻さんは、それも、開けてしまったらしく、どんどんと、人の波である。

辻さんの方から、貰えないと言って、私の方に来る、女性もいたが、私のバッグには、何も、残っていない。

しばらく、混乱が続いた。
だが、中に、冷静な男性がいて、私の持参した、日の丸を掲げて、皆さんに、何か言っている。

そして、日本語で、ありがとう、という、掛け声が、はじまった。
子供たちも、ありがとう、と、言う。

私は、その男性に、写真を撮りたいと、言うと、彼は、皆さんに、声を掛けた。

すると、写真を撮るために、少し、平静になった。

辻さんは、汗だくである。

コータは、辻さんの方にいたが、なす術がなかった。

写真を撮った。
そして、驚いた。

子供たちが、私の手を取り、初めは、握手かと、思いきや、手の甲を、額につけて、感謝の意を表すのだ。

これは、特別な、挨拶である。

フィリピンでも、子供たちが、私に、そんなしぐさで、感謝した。

何も無くなったとこを、確認して、私たちは、その場を去ることにした。

皆さん、日本語で、ありがとう、と、言う。

私たちは、汗だくで、よろよろと、別な小道に入った。
が、支援するものが無い。

兎に角、見て回ろうと、歩いたが、やはり、途中から、ホテルに戻ることにした。

大したことを、している訳ではないが、とても、疲れるのである。

手渡しという、行為が、このようなものであること、辻さんは、しみじみと、感じたと、言った。
前回とは、また、違う感じである。

ただ、私は、もう、クタに来ることは、しばらく無いと、思っていた。
残念だが、もっと、大変な場所が、多々ある。

クタ、レギャンという、観光客の、多い場所は、廃れ始めて、そこで、営業する人たちには、何か、殺気のようなものを、感じる。

彼らは、それを、危機感とは、知るのか、知らないのか。

日本人の姿は、めっきり、減った。
皆、ウブドゥの方に、行く。
安全で、自然に溢れて、人もやさしいからだ。
しかし、すぐに、クタや、レギャンのようになるだろう。

すでに、引ったくりや、ドロボーが、多くなってきたと、聞いた。

それらが、すべて、ジャワから、ロンボクから来た人たちと、一概に言えないのである。
バリニーズにも、良い人も、悪い人もいる。

更に、オランダ植民地以前の、バリ島は、戦いに、明け暮れていたのである。
つまり、バリニーズは、戦闘的なのである。

まさか・・・と、思う人がいるはず。
バリ島を好きになった人には、バリ島のすべてが、良く見えるのである。

日本人に、嘘偽りを言って、金を出させるのは、ジャワやロンボクの、人たちより、バにリーズの方が、圧倒的に、多いのである。

私が、最初に出掛けた頃の、バリ島では、日本人女性を、騙すテクニックの本が、すでに、売られていた。
今は、もっと、巧妙になっているだろう。

現地の男、バリニーズと、結婚する、日本の女もいるが、今では、現地の女と、結婚する、日本の男たちもいる。

とても、いいことだが、決して、幸せになることは、無いだろう。
幸せになる人は、バリ島の、姿を理性的に、理解する人である。

前回、見合い結婚をした、日本の男性の方のことを、書いたが、彼は、はっきりと、断言した。
相手方の、家庭が、どの程度の、家庭であり、こちらが、それを、理解しなければ、結婚は、うまくいかない、と。

カースト制のことについては、触れなかったが、それは、身分のことを、言うものである。

更に、外国人は、バリ島の土地を買えない。
バリニーズに、代理で、買ってもらう。
しかし、最初に、書面で、契約をしておかなければ、完全に、それは、相手に、取られてしまうと、言う。
裁判をしても、証拠が無いゆえに、完全に負けるという。

どこでも、同じだが、バリ島好きな人に、冷え水を浴びせる言葉になるが、バリニーズを信用しては、駄目である。

一見、純朴に、素直に、良い人に、見えるバリニーズに、騙された人は、数多くいる。
騙されたことに、気づかないでいる人も、多い。

知り合いになった、日本人に、土地のことで、揉めていて、裁判をしなければ、土地が、取られてしまう。だから、裁判費用が、必要なのです。
50万円を、貸して下さい。

それで、一度、味をしめると、次から、次と、金を、無心するようになる。

日本の女に、結婚すると、言って、金を絞り取るなどは、限りなく、多いのである。

騙されていることに、気づいていないという、悲劇もあり、自分だけは、そんなことは、無いと、思う、頑固な女に多い。

仕事をするために、車が必要だ。車のお金を出す。
すると、事故を起こしたので、また、お金が必要だ・・・
延々と、騙す。
そして、何と、騙すことが、仕事だというのである。

日本の女を騙す仕事で、家族を養うのである。
全然、罪の意識は、無い。

バリ島の平民は、持てる者から、貰って当然だと、考えるのである。
色々な人たちが、警告を発している。

このままでは、バリ島は、静かに死ぬ、以外になくなる。

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2010年03月20日

バリ島は静かに死ぬ 6

夜になると、人で溢れていた、クタ・レギャン通りも、驚くほど、人が少なくなった。
ただし、ビーチ側の、小路に入ると、賑わいがある。といっても、一部だけである。

そこから、街が、北へ移動して、スミニャック、クロボカンと、広がっている。

つまり、分散してきたのだ。
お客は、オーストラリア人が多い。

更に、スミニャックには、世界から、ゲイたちが、来るようになった。
ゲイが、普通にいられるようになった、街である。

私が、更に、驚いたのは、あれほど、多数いた、ストリートチルドレンが見当たらないということだった。
特に、女の子たちは、全員いなくなっていた。

前回、出会った、子たちに、逢いたいと、出掛けた場所では、一人の男の子を、見かけて、尋ねた。

皆、もう、ここには、いない。遠い所に行ったという。
彼に、衣服は、必要かと、聞くと、欲しいというので、サイズの合うものを、手渡しした。

更に、付近を歩いて、二人の、男の子見つけた。
服を上げると、とても、喜んだ。

私は、聞いた。
あなたたちの、住んでいる場所に行きたい、と。

すると、遠い、遠いと、言う。
タクシーで、行こうと、言うと、それでも、遠い所だという。

それでは、彼らは、夜は、通りで、過ごして、朝帰るのだろうか。

私が、見つけたのは、ビーチで、一人、通りで、三人だけだった。

つまり、人が少なくなり、商売が、出来なくなったので、皆、他に移ったということである。
更に、組織的に、子供たちを使う、大人が、移動させたのかもしれない。

子供たちに、衣服を渡していると、大人も、やって来て、服が欲しいと言うが、大人のサイズのものがなく、渡せなかった。

以前、出会った子供たちには、一人も、逢うことが、出来なかった。

それで、私も、決心がついた。
ここは、今回で、お仕舞いにしょうと。

それだけではない。
様々なことを、考えさせられた。

観光客に、支えられて、存在する、街であるから、それなりの、ルールや、常識が、出来上がってもいいものだが、そんな気配は、一つもない。

メータータクシー以外の、タクシー、バイクタクシーたちの、勧誘は、実に、露骨に、嫌味になっていた。

しっこい、のは、許せるが、言葉が、汚くなっている。
更に、私たちには、解らない、バリ島の言葉で、罵倒する者もいる。

私は、私たちは、一切、無視することにしたが、その背中に、バリ語で、浴びせる言葉は、汚い。
それが、意味は、解らないが、気で、解る。

商売が、うまくいかず、拗ねている、状態である。
要するに、精神的に、幼いのである。

そして、最悪なのは、立ち並ぶ、店にいる者たちが、投げ掛ける、言葉である。

以前とは、違った。
明らかに、馬鹿にしているのだ。

拗ねただけではなく、現状を、どうすることも出来ないゆえに、観光客を、馬鹿にして、鬱憤を晴らすのである。
特に、日本人観光客に対しては、酷い。

日本人は、声を掛けられると、つい、それに、答える。
それが、馬鹿にされることの、一つ。

白人は、相手にしないのであり、更に、主人だと、振舞うのである。

長い、オランダ統治時代の、精神が、今も、残滓としてあり、その、植民地根性から、抜け切れないのである。
勿論、彼らは、それを、意識していない。

更に、日本人観光客、ツアーでは、現地の人と、触れ合わなくても、いい状態が、作られている。

ツアーの中に、すべて揃っている。

更に、高級ホテルのツアーなどは、全く、現地の様子など、見ない。
専用の、バスが用意されて、それで、観光地を回る。
お土産も、専用の、ビルがある。

ツアー以外の、個人旅行者は、ウブドゥなどに、行く。

だが、クタ、レギャン地区が、死ねば、バリ島全域に、広がる。

バリ島在住の日本人女性を、含めて、三人の、日本人女性が、数ヶ月のうちに、殺された。

在住の女性を、殺したのは、顔見知りの、ホテル従業員たちである。

これから、益々、治安が悪くなる。更に、それが、他の地域にも、広がる。
ウブドゥに、観光客が、集えば、ウブドゥも、そうなる。

ジャワから来た人が、ロンボクから、来た人たちが、悪いという、お話は、通用しない。
何故なら、純粋バリニーズというものは、いないからである。
それは、植民地時代以前の、歴史を見れば、解るのである。

バリニーズを過大に、評価することは、出来ない。

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2010年03月21日

バリ島は静かに死ぬ 7

今回の、慰霊と、支援は、昨年の、サヌールビーチにて、更に、その奥の村の中に入ろうと考えていたが、急遽、ジンバランという、バリ島南部、高級リゾートホテルの多い、ヌサドアの上に位置する、漁師町の、海岸線にした。

メータータクシーで、行けるというのも、料金交渉をしなくて済むのである。

気温が、30度あるので、夕方に向かうことにした。

四時過ぎに、タクシーをつかまえて、支援物資と、日の丸を持って、乗った。

まだ、太陽は、西の空にある。
沈むには、時間がある。

シーフードの店が並ぶ、ジンバランのビーチに、着いた。
とても、暑い。

だが、日が沈んでは、支援が出来ないと、早速、ビーチに出て、慰霊する場所を探す。

その間も、シーフードの店から、勧誘の声がかかる。
実に、煩い。

それらを、無視して、慰霊の準備をした。
今回は、線香を炊く。
バリ島のものである。

追悼慰霊は、独立戦争で戦った、日本兵と、バリ島の犠牲者、そして、オランダ軍兵士たちである。

特に、ジンバランは、各国軍隊が、バリ島に乗り入れた場所である。

私は、沈黙して、まず黙祷からはじめた。
そして、太陽を拝して、祝詞を上げ、線香を霊位に差し上げた。

じりじりとして、太陽の熱が、激しい。
汗だくになる。

辻さんに、日の丸を、掲げてもらい、線香で、祓い清めをする。

おおよそ、30分程度の間だが、暑さで、とても、疲れた。

慰霊を終わり、そのまま、通りに出て、支援する場所を探した。

シーフードの店を過ぎて、市場に出た。
そこは、バリ島全域に、卸している、市場である。

卸値は、安いものだった。それが、あの料金になるという、感慨である。

私たち三人は、市場の中を、一巡りした。
そして、支援する、地元の人の住む、村を探した。

すぐに、集落があった。
小屋の、組み合わせである。
あまり、人の姿が、見えない。

数名の男たちが、木の椅子に座っていた。
そこで、衣類を見せて、必要ですかと、尋ねた。
男たちは、いらないと、言う。

私は、オッケーと、言って、そこを、立ち去ろうとした。
すると、子供たちが、出てきたので、ぬいぐるみを、渡した。
突然のように、人が、小屋の中から、出てきたので、驚いた。

私たちは、衣服を取り出して、必要ですかと、尋ねると、皆、欲しいと言う。

そこで、支援が始まった。

次々と、人が出てくる。

先ほどの、男たちも来たので、驚いた。後で知るが、売りに来たと思ったようだった。

どんどんと、人が溢れて来て、混雑してきた。
さて、すべてを、出してしまおうと、バッグの、中身を曝け出した。

物乞いの、親子なども、やって来た。

最後に残ったのは、文具である。それを、見た、子供たちが、歓声を上げる。
えんぴつや、ボールペンである。

子供たちに、配っていると、大人も、参加する。
大混雑である。

私は、物乞いの親子を、別に、集落から、連れ出して、少しの、お金と、子供に、文具を、上げた。
すると、それを見ていた、一人の、おばさんが、日本語で、ありがとうと、言うのである。

差し上げるものが、無くなって、辻さんも、コータも、集落から、出て来た。

私たちは、逃げるように、市場の、端に、戻った。

あまりの、暑さに、飲み物を、地元の人が利用する、店から、求めた。
ファンタなど、何十年振りで、飲んだ。

しばし、そこで、休んでいると、色々な人が、話しかけてくる。
少しインドネシア語が、出来る、コータが、一人のおじさんと、話した。

おじさんは、転々と、仕事をしているようで、地図を描いて、コータに説明している。
その、地図を見て、驚いた。
私が、知っている、地図と、全く、逆なのである。

つまり、南極を上にして、地図を描くのである。
カルチャーショックである。

北極が、上という、意識の地図が、頭にある。
しかし、赤道直下にある、人々は、南極が上なのである。

そうだ、こういう見方も、必要なのだと、つくづく思ったのである。


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2010年03月22日

バリ島は静かに死ぬ 8

植民地時代の前の、バリ島の歴史を、俯瞰する。

9世紀頃から、バリ島では、王様の、事業や、王様と、特定の村との、取り決めなどを記した、碑文が、残されている。

碑文は、インド系の文字である。
つまり、スマトラや、ジャワの王国から、もたらされたものであると、考える。

その頃の、スマトラ、ジャワは、インドや中国と、盛んに交易を行っていたのである。

バリ島に、そうした、交易の影響が、及んだものと、思われる。
その一つの商品が、米である。
バリ島の、米の生産が目当てで、バリ島中南部を中心とした、王国が、形成されたと、推理される。

11世紀に入ると、バリ島の王、ダルマウダヤナは、東ジャワの王宮から、妻を向かえ、その長男を、東ジャワの宮廷に養子に入れた。そして、王になる。
ゆえに、東ジャワの王朝文化の影響が、強まった。

その後、東ジャワでは、王朝が、変わり、1284年、その王朝が、バリ島を攻撃したことが、ジャワの古文書に記されてある。

その王朝を、継いだ、マジャパイト王により、1343年、再び、攻撃を受ける。
それにより、中南部のバリ島王朝は、滅ぶのである。

その後、バリ島の、王朝は、マジャパイト王から、遣わされた、ジャワの貴族である、クパキサンという者から、はじまり、その王朝は、ゲルゲルに都を置いて、16世紀半ばに、即位した、バトゥ・レンゴン王のもとで、最盛期を迎える。

王は、ジャワ島の東に、出兵し、傀儡政権を立て、イスラム勢力に備えたのである。

また、東にも、兵を出して、スンバワ島、ロンボク島を支配下に置いた。

宮廷では、カウィといわれる、古典文学、仮面劇、影絵芝居などの芸能、音楽、彫刻など、ヒンドゥー・ジャワの影響を受けた、文化が盛んだった。

信仰は、ジャワから渡来した、ヒンドゥーの祭司たちが、刷新をもたらし、中でも、王を補佐した、祭司ニラルタは、タナロット、ウルワットなど、現在の、観光名所となる場所に、寺院を建立し、バリ島の、ブラフマナー族の、始祖として、祭司と、その一族の地位を、確立した。

しかし、その栄華も、一代で、終わり、クルンクンに都を遷してからは、権威としては、保持されたが、その実権は、各地の貴族によって、奪われた。

それらの、貴族は、いずれも、マジャパイト征服時に、渡来したとされる、伝説的なジャワ貴族の子孫であると、主張し、それぞれの地域に勢力を持ちつつ、互いに、覇権を競ったのである。

あるものは、東ジャワに兵を出し、あるものは、ロクボク島に、兵を出して、その西部を支配下に置いた。

その戦いに、明け暮れつつ、一方では、ゲルゲルの宮廷文化を、地方に、広めたのである。

軍政割拠の時代が、続いた時期があるのだ。
それが、皮肉なことに、オランダの植民地化により、平和を得ることになるのである。

東インド諸島を統治した、イギリスのラッフルズ副総督は、ジャワ島を回り、ボロブドゥール寺院などを見て、イスラム勢力以前に、ヒンドゥー文化があることを、知る。
そして、その、ヒンドゥー文化が、唯一、バリ島に息づいていると、結論付けた。その、彼の、考え方が、バリ島を、植民地化した、オランダも、引き継いで、バリ島を、ヒンドゥー文化を元に、支配した。

ゆえに、カースト制などを、そのまま、保存したのである。
それが、現在まで、脈々と、息づいている。

インドでは、法律により、カースト制度を、廃止し、身分差別を無くすように、努めたが、それでも、根強く、差別が残っている。
それは、バリ島でも、そうである。

普段は、それらは、見えない。
更に、観光客には、全く見えないのである。

見えないから、無いのではなく、その制度は、歴然と、明確に、存続している。
その、建物を見れば、瞭然である。

多く、塀を廻らせた家々が、それである。
一般人との、付き合いは、限られる。

インドネシア政府も、暗黙のうちに、その身分制度に、従い、バリ島を統治しているのである。

王族の、子孫は、政府代表として、海外に出ることもある。

バリ島に、深く入り込むには、この、カースト制度を、理解しなければ、本当の、バリ島の、ありようが、解らない。

王族、貴族の、子孫は、豊かであり、将来の、仕事に関しても、希望が叶う。

ウブドゥなどは、芸術の村として、知られるが、カーストが、低いゆえに、高いカーストの者が、弟子入りしても、師匠の作品に、自分のサインを平気で書き入れることが、できるのである。

高いカーストは、立ち上がっても、低いカーストの者は、立ち上がれない。

様々な、礼儀作法が、今でも、生きている。

日本人の、女性たちが、結婚する、男たちの、カーストは、低い。
120パーセント、結婚が、不幸であるといわれる、理由も、この当たりにある。

低いカーストというのは、貧しい。
更に、親類の中で、持つ者から、貰うことは、当たり前である。
要するに、金を持つ、日本女性が、嫁に来ると、親戚一同が、その金を目当てに、やってくるという、状態もある。

その、文化的背景を、知らずに、結婚して、愕然とするという。
更に、日々の暮らしの中にある、宗教儀式である。

朝早くから起きて、供物を作るのは、女の仕事である。
それらは、皆、ゴミになる。

何にもならないことに、意味を見出して、毎日毎日を、過ごさなければならない。
最初は、目新しいが、一年も、経ると、うんざりするだろう。

日本には、そんな、習慣は無い。

バリ島の、女性と、結婚した、初老の男性に話を聞いた。
見合いすること。
相手の、家庭のレベルと、こちらのレベルが、おおよそ、同じであることが、一番重要であると、言った。
その方は、幸せであると、言う。

しかし、恋愛により、相手の家庭を知らずに、結婚する人は、必ず後悔するだろうと、言った。

矢張り、問題は、見えない、カースト制にある。
低いカーストの男たちに、騙される日本女性たちは、騙されることを、喜ぶ。

ある女性は、相手に妻子がいることを知り、驚くが、そのバリニーズの男が、開き直り、一夫多妻だといったという。

こちらから見れば、騙しているが、あちらからは、それが仕事なのである。
決して、上に這い上がれない、社会が、バリ島であるから、下の者は、手段を選ばなくなる。金を得ることに、である。

更に、バリ島では、毎日が、祭りの様子だが、実は、観光客が入ってくることによって、そのようになったのである。
それを、バリ島の伝統だと、知らぬ者は、思う。

人に見せるという意識が、実に強い。
それが、また、観光客を喜ばせることだと、知っているのである。

実際の、バリ島の、信仰形態は、今でも、作られ続けてある。
昔から、行われていたという、儀式は、少ないのである。
バリ島から、観光を取ったら、何もなくなるが、実は、それが、バリ島を救うことにもなる。

皮肉なことで、バリ島が、静かに死ぬ、ことで、バリ島は、守られるのだ。


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2010年03月23日

バリ島は静かに死ぬ 9

今回の、バリ島滞在、一週間は、ホテルを変えることは、なかった。
すべて、ホテルから車で、出掛けることが出来たのである。

それゆえ、嫌でも、その辺りの道を、何度も歩くことになる。

そこで、本当に嫌になるほど、声を掛けられた。
いつものことであるが、何処行くの、何を探しているの、タクシーは、両替は、ありがとうー、などなど、声を掛けられる。
皆、日本語である。

そうして、気づいたことは、彼らは、日本人を、馬鹿にしているということである。
勿論、商売の、勧誘のためでもあるが、基本的に、日本人観光客を、馬鹿にしているのである。

どうして、そうなったかのか・・・

それは、多くの日本人観光客が、騙されるからである。

レギャン通り沿いの、飲食店は、料金が、数倍、時には、10倍以上も、高い。
しかし、短期日本人旅行者は、知らずに、それでも、安いと、飲食するのである。

ところが、小路を入ると、それより、はるかに安い料金で、飲食が、出来る。
日本人は、格好のカモなのである。

言いなりになる、日本人である。

そして、それは、間違いではない。
短期の、観光旅行では、いたしかたないのである。
だが、通りにたむろする、アホな勧誘者は、はなから、馬鹿にして、日本人を相手にする。

一度、バリ島に観光に訪れた人が、二度三度、来ることは、あっても、それでも、数は少ない。
バリ島旅行の、リピーターは、勘違いをして、バリ島に、憧れているだけである。
その本当の姿を知れば、二度と、バリ島には、訪れないはずである。

汚い、臭い、煩いのである。
更に、日本人の口に合うような、バリ島の料理は、皆無である。

今では、バリ島の代表料理になっている、ナシチャンプルという、炒めご飯と、色々な取り合わせの、料理も、不味いのである。
バリ島だから、食べられる程度である。

油と、味付けの濃さには、うんざりする。

食欲のない時は、スープヌードルにしか、救いはない。
それも、麺は、日本のインスタント面と、同じである。

それではと、日本料理店に行く。
すると、その料金に、驚く。
足元を見て、値段をつけているような、気がする。
税金も、店によって、まちまちである。

私たちは、最後は、パダン料理に、救いを見出した。
辛い料理であるが、素材の味が、そのままで、楽しめた。

クタ、レギャンの、観光地は、バリ人が少なく、ジャワや、ロンボクの人たちが、多いと、言われる。しかし、バリ人も、矢張り、多い。

稼ぐことが、出来る観光地に、人が集うのは、当たり前である。
しかし、バリ人は、良い人、他から来た人は、悪い人という、単純な見方は、出来ない。

バリ島崇拝者は、それを、言うが、違う。
バリ人も、悪い人は、大勢いる。
そして、バリ島は、それらの人たちによって、静かに、死んでゆくのである。

自然も、文化も、結局は、人に尽きる。
人が、どうあるかということが、すべての、問題である。

このまま、バリ島が、アホのままで、続いたら、バリ島は、飽きられて、捨てられる。

要するに、観光を主にする、バリ島は、死ぬのである。

そして、その後に、残るものは、ゴミと、退廃である。

一度、観光で、良い思いをした人たちは、それを、忘れられない。

更に、問題は、バリ島の問題意識である。
それが、皆無である。
それほど、意識が低い。

貧乏人の、浅はかな、行為が、命取りになる。

どだけの、日本人女性が、騙されて、結婚したか。
それは、ジャワでも、ロンボクの男たちではない。バリ島の男たちである。

騙すことが、仕事である彼らは、結婚も、騙している。
カーストの低い者が、日本人女性を、騙して、結婚して、少しでも、良い暮らしを立てるという、都合の良い、考えは、もはや、通用しない。

と言っても、まだ、騙されたい、馬鹿な、日本の女たちが、いる。

いずれは、解ることだと、気づかないほど、バリ島の、男たちは、アホなのである。

何度も言うが、バリ島の男と、結婚した、日本の女は、不幸になるのである。

何故なら、バリ島には、結局、何も無いからである。
その文化も、何もかも、バリ島自身から、出ているものではない。
すべて、迎合である。

観光客に、迎合して、出来上がったものである。
更に、その文化の、仕掛け人は、外国人である。

勿論、インドネシアの中の、バリ島は、異質の文化を有する。
イスラム国家には、無い、バリヒンドゥーという、文化を擁する。
だが、それも、極めて行けば、今も、それを、形作る行為が、続けられているという。つまり、バリ島は、作られているのである。
作られ続けているのである。

伝統として、機能するのは、まだまだ、時間がかかる。
観光客が、見る、バリ島の伝統文化というものは、つい、先ごろ出来たものである。

私は、バリ島の自然が、好きだ。
街を離れて、自然の中に、身を置くと、実に、幸福を感じる。
だが、それと、バリ島の、現状は別である。

インドネシア政府は、観光地として、認知したのであれば、バリ島の、自然を守る、法整備と、行政の、働きが必要である。

まず、第一に、ゴミ問題に、取り組むべきである。

そして、上下水道の整備である。
水道から出る水は、茶色い。
雨が降ると、下水道は、溢れる。

だが、インドネシア政府に、期待することは、期待はずれになるようである。
賄賂と、搾取の多い政治家たちである。
更に、軍事政権下にある。

最大の、支援国日本の援助が、無ければ、成り立たない国である。

インドネシアという国にある、バリ島という場所を、考えると、そのような結論に達するのである。

インドネシアは、二万からなる、島国である。
バリ島以外にも、多くの島がある。

新しい、バリ島に変わる島が、出来るかもしれない。
それは、時間の問題である。

そうして、バリ島は、静かに、死ぬのである。
また、そうして、バリ島は、静寂を取り戻し、本来のバリ島を、回復するのである。

私は、それを、願う。

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