2010年04月01日

救われないマニラ・救いようのないフィリピン 1

寒い日が、続いていた。
三月に入っても、寒い。

フィリピン行きは、9日である。
支援物資は、すでに、用意していた。
おおよそ、60キロである。

マニラで、昨年の暮れに、水害があったことから、それらの人々にとの、思いである。
しかし、水害だけではなかった。スラムの大火事も、あったという。

それらの、人々は、ビーチ沿いに、退去していた。
そこで、暮らしていたのである。

朝は、六時にタクシーを予約して、成田行きのバス乗り場に出た。
コートを着ていないので、実に寒かった。
だが、あちらは、暑いので、いつものように、襦袢は、夏物の、絽の襦袢に、袷の着物と、袷の羽織である。

台北で、乗り換えする。
支援物資は、矢張り、分量が多く、少しばかり、搭乗手続きで、戸惑った。
だが、機内持ち込みを、少し増やして、無事に、チェックインした。

私は、バスの中で、お握りを二つ食べた。
コータは、何も食べていない。そこで、コータのために、食べる場所を探した。

クレジットカード会社の、待合室に向かったが、そこでは、食べることが出来ないと、知る。
無料のコーヒーを飲み、早めに、出国することにした。

まだ、出国手続きの、カウンターは、空いていた。
すぐに、手続きを終えて、乗り場に向かう。

十分に時間があるから、待合の椅子で、コータが、お握りを食べることにした。
私は、相変わらず、喫煙ルームに向かう。

マニラ到着は、夕方である。
日本時間より、一時間、早くなるのである。日本が、七時だと、フィリピンは、六時である。

私は、三度目であり、コータは、二度目である。
しかし、マニラに行くという気分は、重かった。

汚い、煩い、臭い・・・更に、危険である。
更に、・・・色々ある。

旅慣れたと、思う。
四年目に入り、余裕も出てきた。
追悼慰霊と、支援活動である。

今回の、追悼慰霊は、フィリピンの、慰霊の聖地といわれる、カリラヤという場所がある、パグサンハンという、町に行く。マニラから、バスで、三時間である。
そこでは、二箇所の、慰霊地に向かう予定である。

一つは、日本人によって、建てられた、慰霊碑が、多い、比島寺、ひとうてら、と呼ぶ。
そして、アメリカが、カリラヤに作った、広大な土地にある、戦争犠牲者追悼慰霊碑である。
更に、アメリカ軍、フィリピン軍の、犠牲者も追悼する。

その前に、マニラでの、支援である。
三泊して、支援物資を、すべて、差し上げる予定である。

実は、この旅日記を書くのは、少し憂鬱である。
今回は、フィリピンの批判が、多い。更に、フィリピンを、分析する。

そして、今回は、はじめて、マニラ首都圏のパサイ市という街で、スリに遭った。
パソコンや、カメラ、その他諸々を入れた、バッグを、一瞬の隙に、盗まれたのである。

パサイ市は、特に、スリ、かっぱらい、強盗が多い。
空港に近いせいもあり、犯罪多発地帯である。

それもあり、今回は、実に、厳しくフィリピンを、見つめた。

フィリピン、特に、マニラ首都圏では、ボランティア活動も、危険であると、言われる。政府は、ボランティア活動をする場合、福祉担当の部署に、申し出て欲しい旨を、入国の案内に書いているほどである。

ボランティア活動をしている際も、襲われる危険があるというものだ。

更に、銃社会であり、誰もが、簡単に銃を、持つ事が出来る。
アメリカの真似である。

深夜の、便で、マニラに到着する場合は、本当に、危険である。
タクシーに乗っても、二台の車で、前後を挟まれて、止められ、脅されて、物をすべて、奪われる事件が多い。

私たちも、フリーのタクシーに乗らず、チケットを買って、そのタクシーに乗る。
フリーのタクシーも、危険だと、言われる。
何処へ、連れて行かれるか、解らない。
特に、一人の場合は、より危険である。

そんな国に、出掛けるのは、フィリピンは、戦争犠牲者が、日本兵だけでも、50万人いるからである。

フィリピン全土を、巻き込んで、アメリカ軍と、大激戦を展開したのである。

現地の人たちにも、多大な迷惑を掛けた。

それもあり、衣服の支援も、積極的にしたいと思う。
更に、フィリピンは、貧しい国である。
その、貧しさも、構造的なものである。

いつまでも、成熟しない、政治と、行政である。

更に、人口の、2,3パーセントほどの、中華系が、経済、金融などの、大半を、牛耳るのである。
フィリピン人は、華人たちに、いいように、使われているのである。
更に、それが、法制化しているから、尚、悪い。

政治家の、搾取と、不正、も甚だしい。
地方の政治家は、中華系の場合も多い。

2010年04月02日

救われないマニラ・救いようのないフィリピン 2

いつものように、マニラ、エルミタ地区の、ホテルに泊まる。
中級ホテルといわれるが、断然、安い。
一泊、1500ペソである。つまり、3000円。

勿論、私たちの旅では、高い部類であるが、マニラのホテルから見れば、安い。
ゲストハウスでも、その前後の料金である。

古いホテルなので、部屋が広いことも、気に入っている。
私は、三度目であるから、従業員とも、顔馴染みになった。

到着した夜の食事は、ホテルの前にある、地元の、食堂で食べた。
二人で、140ペソ。280円である。実に、安い。

私は、飛行機で疲れたので、早々に寝た。

そして、翌日の朝、早くから、散歩に出掛けた。
マニラ湾に、向かう道を歩く。
そして、エルミタカトリック教会の前の、店で、コーヒーを頼む。
それは、インスタントで、カップにお湯を入れて、コーヒーと、砂糖、ミルクの粉を貰い、自分で、それを、入れて混ぜるのである。
25ペソ。50円と、高い。

それを飲みながら、教会前の、公園で、人々を、見ている。
朝は、仕事探しの、人々が多い。
日雇いの仕事を、求めて、人が公園に集う。

私は、支援する場所である、付近を回る。
今回は、水害に遭った場所に、出掛けたいと、思っていた。

コーヒーを飲み終わって、早速、いつも、気になっていた、小路を歩く。
スラムといってよい、場所である。

少し、通りの中に入ると、そんな光景が見えるマニラである。

この小路が続くまで、見て回る。
今朝は、ここで、衣服を差し上げようと、決めた。
ホテルに戻り、コータが、寝ているので、一人で、二つのバッグを持って、出掛けた。

最初は、子供たちに、声を掛ける。
ボーイ、ガールと、呼びかけると、皆、寄ってくる。

バッグを開けて、一人一人に、サイズの合うものを、取り出して、手渡す。
すると、どんどんと、人が集うのである。

とても、緊張するが、また、楽しい。
大人たちも、自分たちに、回ってくるのを、待っている。

子供たちが、また、どんどんと、集まる。
次第に、収集がつかなくなる。
すると、大人たちが、子供たちを、制する。

大半が、子供用である。
裸の、幼児も多い。
子供の中には、まだ、貰っていないと、言う声が、聞こえる。
私は、タガログ語が解らないが、そのように、聞こえる。

少しずつ、前に進むが、それより、集う人が、多くなる。

子供たちに、囲まれてしまった。
もう、大半の衣類を上げてしまった時、私が、再度、しゃがもうとした。
その時、着ていた着物の、尻の辺りが、破けた。

私は、パンツをはかず、着物だけを、着ていた。
子供たちが、ノーパンと、叫んだ。

そこで、支援が、終わった。

笑い声と、衣服を貰った嬉しさから、子供たちの歓声が上がる。
実に、平和な、ひと時だった。

大人たちは、サンキューと、口々に言う。
だが、子供たちが、更に、増えた。
また、子供たちに、囲まれたが、もう、渡すものがなく、更に、尻の辺りが、裂けたので、バッグで、後ろを隠す。

一人の、年長の男の子が、小さな子供たちを、制した。

手をだされても、渡すものがなくなった。
ネクストタイム、と、言いつつ、私は、来た道を、戻る。

衣服を渡している間に、写真を撮ってもらった。
バカチョンカメラである。

今回の、写真は、すべて、このカメラで、撮ったものだけになった。
その後、写した、コータの、デジタルカメラが、盗まれたからである。

そのことは、後で書く。

兎に角、二つのバッグの衣類を渡して、ホテルに戻った。

コータは、まだ寝ていた。
十時近くになり、私は、ホテルの中に出来た、新しいスーパーに向かい、朝の食べ物を、買った。

ホテルは、一階部分を、貸していた。
コンビニがあり、更に、前回来た時に、出来ていた、スーパーである。

パンや、ジュースを買い、部屋に戻る。

ホテルも、改装中であり、私たちの、三階では、半分が、工事していた。
前回来たときも、そうだった。
であるから、私たちの、部屋は、改装を終えて、綺麗になっていた。

トイレ、シャワーも、新しくなっていた。

次に来たときは、少し料金が、高くなると、言われたが、料金は、そのままだった。
その付近は、ホテルの激戦区であるから、値上げが、出来なかったのだろう。

コータが、寝ている。
翻訳をしていて、夜型になっているためだ。

私が、朝のご飯、パンを食べはじめて、ようやく、目覚めたようだ。

すでに、朝、支援に出掛けたと言うと、驚いていた。
写真も、撮ってもらったから、大丈夫だと、言った。

支援物資は、まだ、十分にある。

大型の、バッグが、二つと、小型のバッグが、三個である。
朝は、小型の、バッグを、二個、持って行った。

夕方、また、行くことにした。

マニラでは、三泊の予定である。
その間に、支援物資を、すべて、差し上げる計画である。


2010年04月03日

救われないマニラ・救いようのないフィリピン 3

マニラを少し紹介する。

フィリピンの首都である、マニラは、メトロ・マニラ、マニラ首都圏として、17の行政地区に、分けられる。

ルソン島の、ほぼ中央にある。

中でも、マニラ、ケソン、パサイ、カロオカン、マカティ市の、五つが、中心部になる。

更に、都市の中心といえば、マニラ市の、リサール公園付近であり、現在も、多くの観光客が、集まるのは、エルミタ、マラテ地区である。

マラテ地区の、南が、パサイ市であり、空港に近く、犯罪率が、最も高い。
私たちも、そこで、盗難に遭った。

東の、マカティ市は、比較的安全であることから、ツアーなどの、観光客が多い。
また、エルミタから、ゴーゴーバーなどを、移転するものも多く、夜の遊びも、盛んである。

リサール公園の、北側には、バッシグ川を渡り、チャイナタウンがあり、一般庶民の、生活エリア、キアポ地区、そして、スラムとして有名な、トンド地区がある。

トンド地区は、前回一人で、一度、訪ねている。
それは、入り口に過ぎなかった。
まだまだ、街の奥に入っていかなければ、ならない。

だが、地元の人も言うが、非常に危険だといわれる。
更に、水害の場所に行くことも、危険だと、言われた。

日本で、自然災害がある場合、決して、略奪や、強盗などの、行為は、起きない。しかし、その他の国では、ハイチを見てもそうだが、略奪や、強盗などが、目立つ。

私は、そこに出掛けて行く必要なく、ビーチ沿いで、支援物資を、差し上げることが、出来た。

場が乱れると、人の心も乱れるのが、日本以外の国である。
日本は、極めて、稀な国であるということだ。

マニラ首都圏の、どこへ行っても、大変な量の、車である。
特に、ジプニーという、庶民の相乗りバスが、多い。
黒い煙を吐きながら、走る。

停滞と、排気ガスによる、汚染は、甚だしいものがある。
そして、下水道の、不備が、街の中を、匂わせる。
勿論、水道の水は、飲むことが出来ない。

海外に出て、一番先に、用意するものは、兎に角、水である。

いかに、日本の水道水が、安全であるか。
水を豊富に持つ、それだけでも、幸せである。

恒常的に、貧困がある。
普通の人の、一ヶ月の、給料は、一万ペソ前後である。二万円である。
だが、それでは、生活することが、難しい。

子供のいる家庭では、大変なことである。
両親揃って、共働きになる。
それでも、仕事があれば、いい方である。

街中に、多い、トライシルクという、バイクにサイドカーをつけたもの、また、自転車のものたちは、路上生活者が多い。
夜になると、家族で、サイドカーで寝ているのである。

トライシルクは、利用しないことにしている。
まず、吹っかけられる。
現地の人なら、40ペソのところ、観光客だと、100とか、200、あるいは、少し遠い場所だと、3000ペソなどと、言われる。
タクシーでも、そんなに、かからない。

その、タクシーも、メーターを下ろさない運転手が多い。

エルミタのホテルから、パサイ市の、バス乗り場に、向かう時、タクシーに乗った。
メーターを下ろさない。
そこで、メーターと言うと、あそこまで行くには、大変なんだ。だから、200ペソだという。

決して、そんなに、かからないことが、解っているので、コータが、交渉した。
150では
190だ
160では
うーん、解った。
こんな簡単なものではないが、そうして、交渉しなければならない。

こういう、場合は、メーターを倒しても、100ペソしないからだ。

矢張り、帰国日に、パサイ市の、ホテルから、タクシーを止めて、尋ねると、200ペソと言う。
それじゃあ、いい
と、言うと、運転手は、メーターを入れた。
空港まで乗り、料金は、100ペソにも、届かない。

前回、私は、騙されたことを、その時、知った。
前回、パサイ市の、ホテルから、タクシーに乗ると、フリー、ただであると、言われた。ホテル側が、出すというのである。
何と、サービスの良いホテルかと、思ったが、それは、運転手の、作戦なのである。

空港に到着すると、ただ、だから、チップをと言う。
私は、100ペソだした。すると、もう一枚と言うのである。
仕方ないと、もう一枚、100ペソを出した。つまり、200ペソを、払ったのである。

最初から、200ペソを貰うために、フリーだと、言う。
そして、チップとして、200ペソを、ねだる。

実に、こずるいのである。
そして、この、狡さが、命取りになっている。

頭が、その程度しか、働かないのである。

フィリピン人の、多くは、今、目の前のことしか、見えない。見ない。
先々のことを、想像する、能力に、劣る。

今さえ、得られれば、いいのである。
それが、全土に、及ぶ。
そうして、長期展望が、出来ないから、経済、金融、その他諸々を、中華系に、押さえられてしまう。

三年後の、一万より、今の、100ペソしか、見えないのである。
これは、致命的である。
この話は、今回の、一つの、テーマである。

2010年04月04日

救われないマニラ・救いようのないフィリピン 4

コータは、体調が悪いらしく、昼になっても、起きない。
日本で、ある英語の本を翻訳していたのである。

夜型なので、私とは、逆の生活になる。

それは、しょうがないこと。

その日は、支援を止めることにした。
朝の、支援で、終わり。

そこで、私は、昼ごはんを食べるために、昨夜と別の、食堂に出掛けた。
そこは、馴染みの店だったので、お土産を持参した。

小さなバッグに、ハンカチを数枚入れた。

いつもの通り道である。
最初に、向こうから、声がかかった。日本語である。

久しぶり
異国で、こんな声かけは、嬉しい。

家族総出で、商売をしている。
店の前に並ぶ、おかずを選んで、ライスを貰うのである。
それで、75ペソ。150円。

食べ終わり、
お土産を出して、皆を、呼ぶ。
私に声を掛けた女性の子供もいた。

その子にも、上げた。
すると、母親に、何か言われて、一冊のアルバムを持ってきた。
そこには、彼女が、日本の着物姿になっている、写真があった。

学校の行事で、日本姿になったという。

ビューティフル・レディーと、私は、感嘆した。
更に、皆が集って、私の、お土産を物色する。

店を、取り仕切る、マザーがいる。
その方にも、差し上げた。
すると、すぐに、ハンカチを、首に巻いた。

皆、喜んだ。
すると、先の女性が、日本人と結婚した娘がいるという、女性を呼んできた。

今は、名古屋に住んでいて、子供が、一人いるという。
そして、日本に、行ってみたいと、言う。

日本は、綺麗な街でしょうと、尋ねられた。
ビューティフルと、私は、答えた。

私が、何の目的で、来ているのかを知っている。

その、付近でも、最初に、支援物資を配って歩いたのだ。

また、来ますと言い、一度、ホテルに戻り、目覚めたコータと、スーパーに、買い物に行く。

水を大量に買う。

支援は、明日、行うことにした。
コータは、徹夜の疲れだけではなく、フィリピン、マニラに来たという、ストレスも多かった。

マニラは、矢張り、緊張する、街である。
至る所のガードマンが、ピストルや、機関銃を持っている。
いつ、銃撃があるか、解らない。

こちらが、狙われなくても、巻き添えになることもあるだろう。

更に、煩わしいのは、勧誘である。

兎に角、日本人である、観光客であると見ると、ヤバイおじさんたちから、声を掛けられる。

女は、いるか・・・である。
または、女いる。安いよ・・・である。

いらないと言うと、男かと、聞いてくる。
いらないと、答えると、バクラかと、聞いてくる。
バクラとは、女装の男たち、レディボーイのことである。

ある時などは、普通の女性が、呼び込みをしている。
見るだけよーーーと、声を掛けてくるのである。

見るだけでいいから、女たちを見て、ということである。

三流から、一流まで、それぞれ、置屋のような、バーがある。
昼間から、そんな勧誘である。

そして、物売り。
持ち歩いて、売っている人たちである。
靴や、サングラスや、ベルトなどなど・・・

無視するほかにない。

大型のペットボトルの水を買い、ホテルの部屋に戻る。
その他、冷蔵庫があるので、少しの、果物などを買う。

ようやく、コータも、いつもの状態を、取り戻したようである。

マニラは、これから、本格的な、暑さを向かえるが、それでも、私たちには、暑い。
季節の変わり目であり、空気が、乾燥している。
それに、排気ガスと、道端で、肉などを焼く、匂いで、充満する。

町中が、臭いのである。
道端で、暑さに、横たわる犬などを見ると、何とも、言えない気持ちになる。
コータの、気持ちも、理解するのである。

2010年04月05日

救われないマニラ・救いようのないフィリピン 5

散歩から、戻ったコータが、ビーチ沿いを見てきたという。

多くの人たちが、暮らしているとのこと。
私は、即座に、そこに支援物資をもって、行く事を決めた。

正解だった。
スラムの大火事で、焼け出された人たち、家族が、大勢、そこにいた。

夕暮れ、一番大きなバッグを、持って、二人で、ビーチ沿いに出掛けた。
まず、子供たちである。
子供たちに、衣服を上げていると、大人たちも、どんどんと、集まってくる。

一つ一つ、衣服を取りだすと、歓声が上がる。
次から次と、手渡してゆく。

コータが、写真を撮る。
その、デジタルカメラが、後で、盗まれるのである。
本当に、残念である。

私の、もっていった、バカチョンカメラの一部だけが、証拠としてあるのみ。

さて、随分と、端まで、歩いて、手渡した。
再度、その道を戻る。

とても、疲れた。
浴衣が、汗で、濡れる。

私たちは、そのまま、夕食をとることにした。
丁度、帰り道に、日本食の店がある。
そこに、入ることにした。

先ほどまでは、食欲を感じなかったのである。
矢張り、結局、私は、日本酒を飲むだけだった。

注文した、食べ物は、すべて、コータが食べた。

海外に出ると、酒は、欲しないが、その夜は、何となく、飲みたくなった。

二合を飲んで、酔った。
そのまま、ホテルに戻り、シャワーを浴びて、ベッドに横になる。
心臓が、バクバクする。
矢張り、海外で、酒を飲むと、体に負担になるのだ。

一度、目覚めたときは、朝の二時頃であるが、そのまま、朝六時まで、寝た。

七時前に、朝の散歩に出掛けた。
そして、また、同じように、教会の前の、公園で、コーヒーを飲む。

昨夜、支援物資を手渡しした、ビーチ沿いに出てみた。

昨夜のことを、覚えている人たちから、挨拶される。
と、共に、食べ物の無い子供たちを、見つける。

私は、元に戻り、手作りのハンバーガーを売る、おばさんの行商から、ハンバーガーを全部買った。六つあった。

それを、持って、ビーチ沿いの、子供たちに、渡す。

私を、追いかけて来た子供もいる。
親に、教えられて、来たのである。

それでも、足りなくなった。
また、大人たちも、手を出すので、矢張り、行商で、パンを売り歩く、青年から、一袋、買って、それを、一つ一つ、差し上げた。

フィリピンの、菓子パンは、腹持ちがする。
五個あまり、私は、そのまま、それを持って、ホテルに戻ることにした。

ホテルに着いて、玄関を入ろうとすると、一人の男の子が、私に手を差し出した。
食べ物が欲しいという、サインである。

先ほどの、パンを一つ渡した。
すると、その子の親が、やってきた。
ゴミを集めて、生活する、家族である。

それぞれ、私は、父親と、母親にも、渡した。
すべてを、渡せばよかったと、思ったのは、部屋に入ってからである。

兎に角、今日は、残りの支援物資を、すべて、渡してしまう、計画である。

明日、追悼慰霊のために、パグサンハンという、街に出掛けるのである。
出来るだけ、荷物は、減らした方がいいのだ。

出掛けるのは、昼前にした。
昼を過ぎると、暑くなるからである。

次の場所は、最初に、マニラに来て、偶然、見つけた、スラムで、子供たちに、衣服を渡した場所に、出掛けたかった。

コータと、二人で、最後の支援物資を持って、ホテル前から、ジプニーに乗った。
昼間の、ジプニーは、安全で、安い。
7ペソ、14円で、乗る事が出来る。

ところが、ジプニーの行き先が、解らないので、別の道に入るときに、降りなければならない。

目指す方向へ、走らないので、途中で、降りた。
そして、目指す場所に向かう、ジプニーに乗ろうとした時、道端の、物乞いの親子に、気づいた。

乗るのを止めて、その親子に、衣類を渡すことにした。
すると、子供たち、また、路上生活の、女が、やって来た。

皆に、それぞれ、手渡す。
そして、一人の女の子に、友達は、いるかと、尋ねた。

すると、いるいると、言う。
じゃあ、そっちへ、行こうと、私は、案内してもらうことにした。
私は、日本語である。
子供には、伝わるらしい。

女の子は、母親の元に、私を連れた。
そこには、路上生活をしている、グループが、大勢いた。

それも、ビーチに近い道である。

どんどんと、人が集う。
その、騒ぎに、警察官、四名が、監視に来た。

残りの、衣類は、子供用と、女性用が多く、男たちには、渡せなかった。

一人の、警官に、声を掛けられた。
何をしているのか、と、聞こえた。

アイアム、ジャパニーズボランティア、プロフェッサーと、言う。
変な英語である。

私は、日本人のボランティアの代表である、と、言ったつもりだったが、コータが、中に入り、通訳した。
警官は、オッケー、オッケー、サンキューと、言って、頷いた。

更に、周囲の、警備員たちも、やってきて、私たちに、サンキューを、繰り返した。
更に、日本語が出来る、若い女性も、来て、日本語で、ありがとう、また助けてくださいね、と、言う。

少し歩くと、一人の少女に、呼び止められた。
こっちにも、来てくださいと、言われたように思い、向こう側に渡った。

すると、幼児が、四人と、少女と、母親がいる。
子供用は、最後に残るもので、丁度無くなった。
少女にも、三枚の衣服を上げた。
そして、母親にも。とても、喜んだ。

まだ、少し、女用の、大人物が、残っている。そこで、次の、場所に向かった。

2010年04月06日

救われないマニラ・救いようのないフィリピン 6

最後に残った、支援物資を持って、歩いた。
すると、一人のおじさんが、近づいて来て、こっちに来てくれという。

すると、屋台の物売りの、おばさんの所だった。
要するに、彼女に上げてくれというのだ。

私は、彼女には少し、派手かと思える、衣服を差し上げた。すると、おばさんが、頬を紅潮させて、喜んだ。

ビューティフル
という、私の言葉に、おばさんが、頷く。

そして、もう一つ、バッグを渡した。
それも、とても、喜んだ。

すると、おじさんが、そのバッグをおばさんから、取り上げようとしている。
あーーー喧嘩しないで、と言うと、おじさんが、私に、謝る。

ほとんど、女性物だったので、おじさんに、差し上げる物がないのだ。

そして、また、歩いた。
バッグは、軽い。

道端で、親子三人が、ぼんやりと、座っていた。
男は、仕事が無いらしく、寝ているようだった。

母親に、衣服を見せて、必要ですかと、尋ねた。
すると、頷く。
まず、子供用の、夜具になる、衣類を差し上げた。
そして、母親にも、寒い夜のためにと、ある物を、上げる。

旦那が、目を開けたので、矢張り、夜のための、衣服を上げた。
その時である。一人の男が、自分も、奥さんがいるから、衣類が、欲しいというので、最後の衣類を取り出して見せると、三枚選んで、取った。

すべての、衣類が、無くなったのである。
だが、それからが、問題。

その男が、私たちに、どこへ行くのかと、聞くので、ホテルというと、衣服を貰ったので、ただで、ホテルまで、送るという。

私は、少し躊躇したが、頷いて、男の後ろについていった。
馬車だった。
コータが、危ないよ、お金、取られると、言う。
しかし、男の誘いに乗った。

私が、馬車の椅子に乗り、コータが、乗った。
すると、別の男もやってきて、同乗する。

男が、馬車を走らせた。
ホテルは、格安ホテルであるから、あまり、場所が解らないようだったが、私が、通りの名を言うと、走り出した。

だが、途中で、何となく、怪しく思い、ある大型スーパーの場所に、変更した。
ホテルの場所を知られたくないと、思ったのだ。

すると、スーパーの、二丁手前で、馬車が止まった。
私は、100ペソのお礼を出そうとした。
そして、それを、男に、渡そうとすると、男が、受け取らないのである。

コータが、いらないって言うんだから、いいよ、と言う。
そこで、コータが、降りて、私が降りる時である。

男が、2000ペソと言う。
えっ
馬に、2000ペソ必要だ、と言う。

愕然とした。
矢張り、ボッている、というより、嘘だったのだ。
カモにしたのだ。

私は、疲れもあり、怒りより、悲しくなった。
一緒に乗っていたのは、厳つい男で、用心棒のようだった。
その男が、降りて来て、私に、何か言う。

私は、歩きつつ、その男の話を聞いていたが、全く、内容は、聞いていない。
怒りが、湧いてきて、さて、どうしようかと、思った。

男が、スーパーの前に、馬車を止めないという、理由も解った。
騒ぎになって、警官が来るのが、怖いのだ。

私は、手に握っていた、100ペソを、厳つい男に渡して、先を歩いた。
無言である。

暴力行為に及ぶことも、十分にある。
しかし、私は、何度も、ヘイ、ヘイと、呼ぶ声を無視して、歩いた。

彼らは、それ以上、追いかけて来なかった。
というより、少しは、良心が、咎めたのだろう。

しかし、これが、フィリピン、マニラの人の程度である。
これで、よく解るのだ。
恩を仇で返す。

ただでいいと、言い、乗せて、望外な金額を、要求する。
馬車の相場は、100ペソから、500ペソである。
半日の観光でも、2000ペソは、高い。

マニラの、人々の、経済状況は、惨憺たるものである。
皆々、貧しい。

仕事も少ない。
朝、仕事を求めて、日雇いの仕事を斡旋する、事務所の前に、多くの人が、並ぶ。それを、知っているが、結果は、このような程度のことにしか、頭が、回らないのである。

彼らは、善意を行う者ならば、金も払うと、踏んだのだ。
それが、浅はかである。

女たちは、体を売る。
男たちは、仕事を探す苦労がある。

行き止まりの、日々を過ごしているのである。
そして、それが、政治に、生かされない。要するに、政治に、何も期待できない。

絶望の日々なのである。

前回、親しく声を掛けてきた、男も、私が、街中で、衣服を配っている姿を見て、私をコンビニに誘い、子供の粉ミルクを買わせた。
その時、私は、あはれに思い、買った。

しかし、二度と、しないと、決めた。

マニラで、それをすると、際限が無くなる。
そして、それは、彼らのために、ならないのである。

貧しい国の人々は、有る者から、貰って当たり前だと、考える。しかし、マニラは、それが、無制限になるのだ。

実に、頭の程度が、知れるのである。

フィリピンの優秀な人材が、国外に出るという、理由が、解るというもの。

国の、国民に対する政策は、有って無いようなもの。
国家の体を成していないのである。

唯一、フィリピンでも、ミンダナオ島の、ダバオという、フィリピン第二の都市といわれる、街は、日本人の精神が生かされて、秩序と、礼儀作法がなっている。

昔、ダバオには、一万人以上の、日本人が移住して、マニラ麻の生産に従事していた。
日本人町は、アジアで最大規模だった。その子孫たちが、ダバオの町を、成長させたのである。

フィリピンは、日本を手本にして、先に進まないと、先は、無い。
すでに、先の無い、未来の見えない暗闇を、行くあてもなく、歩いているのである。

2010年04月07日

救われないマニラ・救いようのないフィリピン 7

マニラから、バスで、三時間の場所に、パグサンハンという街がある。
そして、そこから、10キロ山の中に、カリラヤという、フィリピン最大の、戦争犠牲者追悼慰霊の聖地がある。

日本、アメリカ、フィリピン兵士の、犠牲者を慰霊する。

マニラの、ホテルから、まず、パサイ市の、バス乗り場まで、行く。
私は、ジプニーに乗り、高架鉄道に乗ってと、思ったが、コータの不調もあり、タクシーでは、100ペソ程度という、ホテル・ドアマンの言葉に、タクシーで、バス乗り場に、行くことにした。

タクシーを、つかまえる。
パグサンハンへの、バス乗り場と、言う。
タクシーが走った。が、メーターを下ろさない。

メーター、メーターと、言うと、パサイのバス乗り場までは、大変だから、200ペソだと、言う。
こういうところ、マニラである。

コータが、猛烈に交渉した。

結果は、160ペソに落ち着いた。
普通の日本人なら、400円であるから、何も言わないだろう。

それで、日本人は、舐められる。

ところが、タクシー運転手も、バス乗り場が、不明。
多くの、バス乗り場があるので、ぐるぐると、回る。
ようやく、見つけた。

車から降りると、一人の男が、私たちの、荷物を、タクシーから下ろして、バスへ、積み込む。随分、親切だと、思った。
しかし、チップである。

20ペソを、出した。
すると、もう一枚と、言う。
私は、無視して、トイレは、どこかと、聞いた。
男は、しょうがいな顔をして、トイレの場所を示す。

バス乗り場の、後ろにある。
トイレの前に来ると、強い匂いである。
実に、臭い。

入り口で、男が寝ている。
その上に、書いてある文字を見た。
料金が必要である。

男が、入れと、手招きした。
私は、小便をした。

そして、出る時に、お金を払う。
さて、2ペソなのか、5ペソなのか。

自己申告なのであろうか・・・
私は、2ペソを、渡した。オッケーである。
でも、もし、私が大便をしたら、5ペソなのか・・・

しかし、大便をしても、2ペソしか払わない人には、男が、何と言うのか。
更に、小便か、大便かを、どうして、見分けるのか。

不思議だった。
男は、寝ているだけである。
確認しない。
腑に落ちなかった。

さて、バスである。
エアコン付きバスである。
最初は、寒く感じられたが、何と、満席になった。すると、エアコンの寒さが、人いきれで、丁度良くなった。

三時間バスに揺られるのは、辛いと、思ったが、うまい具合に、眠ることが出来た。
ただ、時々、バスが止まり、物売りの人たちが、入ってくる。
それに、起こされる。

それが、何度もあった。
飲み物、食べ物、その他色々である。

ところが、バスの中で買うものは、通常の料金より、高いと知る。
倍もする値段である。

私も、タロイモのチップスを買ったが、20ペソだった。

さて、セントクルスという、場所で、降りて、そこから、バイクタクシーか、ジプニーに乗り換える。

バイクタクシーが、勧誘にしつこい。
最初は、50ペソだったが、私たちが、黙っていると、40ペソに落とした。
ジプニーでは、10ペソ程度である。

なかなか、ジプニーが来ないので、私は、バいくタクシーにしょうと、コータに言う。
渋々、バイクタクシーに、荷物を積み込むが、コータが、こんな狭いところに、二人で、乗るんだよーーーと、不満である。

私は、大声て、わかったーーーーージプニーにすると、言った。
それは、バイクタクシーを牽制する意味でもあった。

と、ジプニーがやって来た。
即座に、乗り込む。

バイクタクシーのおじさんは、唖然である。

ジプニーは、7ペソだった。
一人、14円である。

これが、楽しい。いかに、安く、旅をするか、である。
乗り合いの、ジプニーに乗っている、地元の人たちは、親切である。
ホテル付近で、私たちに、降りた方がいいと、教えてくれる。
無事に、バグサンハンに、到着した。

2010年04月08日

救われないマニラ・救いようのないフィリピン 8

パグサンハンという街の、売り物は、急流下りである。
街の中心部は、ほんの一角。

観光客は、一日、あるいは、半日観光で、川下りをして、マニラなどに戻る。
であるから、街に入って来た、観光客は、川下りの、客だと、考えられる。

私たちにも、その勧誘が、しつこく着いて来た。

ホテルを探していると、こちらだという、若者がいて、着いてゆくと、ゲストハウスであり、泊まるには、不適切なホテルだった。
元に戻り、地図にある、ホテル周辺に戻り、一軒の、ゲストハウスを見つけて、部屋を見せてもらった。

観光ガイドブックには、載っていない、ゲストハウスである。

まず、エアコンがある。
温シャワーを尋ねたとき、面白い答えが返ってきた。

水シャワーではなく、ぬるいシャワーだという。
結局は、水シャワーだが、気温により、ぬるくなるということである。

熱いお湯が、必要ならば、部屋に持ってゆくという。

一泊、1000ペソである。
しかし、ベッドは、ダブルというが、狭い。
そこで、ベッドを追加できるかと、尋ねると、100ペソで、追加するというので、1100ペソの料金で、決めた。2200円である。

そこで、三泊することになる。

荷物を運んで、まず、食事である。

メインストリートに出て、レストンを探した。
一本の大きな通りのみである。
その並びの、レストランに入った。

焼きそばと、コータが、チキン料理を注文した。
その、不味いこと。兎に角、味付けが濃い。
どうして、こんな不味いものが、作れるのかと、驚いた。

これなら、単に、ご飯と、チキンの揚げたものでいい。

レストランというところに、入ったのは、その店だけである。
それ以外は、地元の人が食べる、食堂に入った。
そして、スーパーで、買い物して、パンや、ハム、チーズを、食べた。

水は、必要不可欠。大型のボトルを買って、部屋に置いた。

部屋の前は、パグサンハン川の支流が、見える。
綺麗だとは、言えない川である。
兎に角、住民が、何でも、川に捨てる。

生活汚水なども、流れている。
泥の川である。

ただ、それ以外の、風景は、良かった。
川の汚いのを、見なければ、いいのだ。

ホテルは、私たちだけが、お客だった。
ほとんど、泊まり客がいないようである。

その、ゲストハウスでも、川下りの、斡旋をしていた。
私たちも、そのために、来たと、思われて、早速、担当のおじさんが、やって来た。
だが、私たちは、追悼慰霊に来たと、明確したので、その後は、一切の、勧誘は、なかった。

その夜は、部屋で、スーパーのから買ったものを、食べて、終わった。
コータが、夜散歩に出掛けたが、私は、寝てしまった。

矢張り、田舎である。
マニラより、断然、安全で、部屋の鍵をかけるのを、忘れるほどだ。


翌日は、まず、日本人墓地、慰霊碑のある、比島寺、ひとうじ、に行くことにしていた。

暑くなる前の、時間、午前中に出掛けることにした。

ホテルから、歩いて、向かった。
国旗と、御幣の、神紙を持った。

山道である。
途中で、一人、バイクタクシーの、おじいさんが、声を掛けてくる。
ひとうじ、まで、乗りませんか、である。

私たちは、断った。
それでも、後を付いて来る。結局、最後まで、着いて来た。

30分ほど歩いた。
私は、日本兵の思いを少しでも、感じたいがために、歩いた。
この山の中を、彼らは、先行きのことを、知らず、ただ、命令に従って、行動したのだ。

寺に着いた。
驚いた。

寺の中は、売店になっている。
その奥の真ん中に、観音像が、置かれていた。

私は、まず、すべての慰霊碑を、見渡せる、場所から、祝詞を上げた。
そして、すべての、慰霊碑に対して、清め祓いを行った。

その時には、付近の人たちも、それを、見物に出てきていた。
あの、バイクタクシーのおじいさん、もである。

更に、一つ一つの、慰霊碑を、お参りした。
中に、戦艦武蔵の慰霊碑もある。

そして、名前の刻んだ、墓標も、多い。
遺族が建てたという。
だが、残念なことに、その慰霊碑の中には、洗濯物が、干してあるのだ。

その寺を、管理している、女性が、いたが、あまり内容を理解していないかのようだった。ただ、私は、彼女に、200ペソの、献金をした。

多くの、写真を撮った。
しかし、コータの、カメラが、盗まれたので、私のカメラの、一枚の写真しかない。
本当に、残念である。

日本軍は、この辺りから、ルソン島北部に向かって、侵攻した。
道無き、山道を、越えて、どんなに大変だったろうと、想像する。

随分な時間を、そこで、過ごした。
そして、戻ろうとすると、先ほどの、おじいさんが、声を掛けてくる。
街まで、乗りませんか。
あまり、しつこいので、コータに、料金を尋ねさせた。
すると、200ペソと、言う。
暴利である。

私たちは、歩いて、戻ることにした。
ところが、寺の坂を上がったところでも、おじいさんと、別の若者が、待っている。
そして、街まで、乗らないかという。
若者は、100ペソという。

私たちは、無視して、歩いた。
再度、声を掛けてきた、おじいさんに、ついに、私は、喧しいと、怒鳴った。
そして、ようやく、引き下がった。

途中で、街行きの、ジプニーが来たので、それに乗った。
7ペソである。
200ペソが、いかに、高い料金か・・・
本当に、嫌になる。

その日は、その慰霊活動で、終わりにした。


2010年04月09日

救われないマニラ・救いようのないフィリピン 9

私は、その大隊の殿中隊、第十二中隊を率いてフィリピンの戦場にやってきた。
ルソン戦記 河合武郎

移動につぐ移動、という、箇所を読む。

輸送船のなかでは軍馬は悲惨な状況におかれた。船倉を何段にも仕切って、その最下層に軍馬は積み込まれた。風通しの悪いなかで、南下するにつれて船内の温度は上昇し、馬は全身汗まみれになってバシー海峡をわたった。

彼は、野戦重砲指揮官である。
人間だけではなく、軍馬の、悲惨さを、語る。

ルソンに上陸してから、環境はさらに悪化した。酷暑と糧の不足である。彼らはみるみるうちに痩せこけていった。ひろい雪原で走りまわっていたことの丸々とふとった面影は消えうせて、見るもあわれに姿になってしまった。

さらに、くわえての悪条件はたびたびの陣地変換である。北サンフェルナンドに上陸後、われわれはルソン島の南部、パダンガスに直行させられた。パダンガスの海岸線に敵が上陸してくるという上層部の判断で、この敵を水際で撃滅するという使命感に燃えて、われわれは休む間もなく、懸命になって十五溜四門の陣地を構築した。陣地をつくるということは、チョッとした穴掘りとはけたちがいの苦労である。

そのころ、レイテ戦はたけなわであった。敵機は、はやくもパダンガスにおけるわれわれの陣地構築を妨害するために、空襲をしかけてきた。火を噴いて飛んでくるロケット弾の中をかいくぐりながら、十一月の下旬、ようやく出来あがりかけたわが陣地に、移転の命令が達せられた。

パダンガスは、ルソン島の、南部に当たる。
そこから、北に向かうことになるのだ。

こんどは、北方のリパというところの飛行場付近に新しい陣地をつくれという。われわれは、不平も言わずしたがった。

この、リパは、マキンリ山の北西寄りである。
私が、慰霊をした、パグサンハンとは、随分と遠い。

その、リパから、ラグナ湖の、西側を通り、マニラの、北東にある、イポダムに、陣地を作っている。

何故、パグサンハンに、慰霊碑を建てたのか・・・
それは、丁度良い、場所が、見つからず、山の中ということで、建てやすい場所として、選ばれたのだろうと、思う、
更に、カリラヤという、場所に、慰霊の聖地を、アメリカが作ったと、思える。

レイテ戦はすでに山が見えていた。敵はつぎはネグロス、そしてルソンへと、飛び石づたいに押し寄せて来ることは、われわれ第一線の者にも推察できた。
一刻もはやくリパで新たな陣地をこしらえ、敵の奇襲にそなえなければならない。不信と焦燥のなかで、しかし命令どおりに懸命になって十字鎌をふるい、もっこをかついだ。

昭和十九年十二月二十四日、クリスマスイブの晩、工事の目途がついたわれわれは捕まえた大トカゲを料理して、ささやかなパーティーを開こうとしていた。そこへ突然、ふたたび陣地変換の命令がきた。

一同、さすがに唖然としたが、命令にしたがわないわけにはいかない。われわれは徒労に帰したリパの陣地をあとにして、さらにルソン北上の旅についた。

けっきょく三ヶ月のあいだ、われわれは南部ルソンのパダンガスから中部ルソンのイポまで、二箇所で大きな土木工事をやりながら、延々百キロの夜行進をしてきたことになる。
ルソン戦記

昭和十九年であるから、敗戦の色濃くなった、時期である。
すでに、情報が、交錯して、統一されないままに、上から命令が、くるという、状態になっていたと、思われる。

結果、マニラの、水源地である、イポダム周辺で、陣地を作り、アメリカ軍の、総攻撃を受けることになるのだ。

イポダムでは、一万人の日本兵が、亡くなっている。

兵士たちと、共に、軍馬が、犠牲になったとは、知らなかった。

ルソン決戦が、ルソン防衛に変わり、その態勢がととのうまでには、さまざまな変転があった。
と、書かれている。

すでに、アメリカ軍が、断絶有利な戦いを、進めていた。

さて、私が、慰霊を行った、パグサンハンは、矢張り、戦った場所、その進軍した場所から、離れている。

しかし、それも、致し方ない。
兎に角、日本兵たちは、南部ルソンの山々を通り、マニラから、50キロある、イポダムに最終の、陣地を作り、玉砕したのである。

後半になると、特攻攻撃と、同じような、斬り込み隊が、編成され、敵を撹乱させるという、方法で、戦いを延ばしただけである。

さらに、悲劇なのは、情報が、交錯し、ある者は、山の中に、入り込んで、行方不明となる者も、いたのである。

戦争は、悲惨だが、負ける側の、悲惨さは、言葉が無い。

ルソン島の、山々の中に、未だに、遺骨が、散乱しているのだろう。
実に、気の毒なことである。

場所を、限定できないという、こともあり、ルソン島の、どこでもいいから、慰霊碑をという、遺族の気持ちも、解る。

勿論、私は、マニラから、東北50キロにある、イポダム付近に出掛けて、追悼慰霊の儀を執り行いたいと、考えている。

そして、兵士たちだけではなく、共に、戦った、軍馬の慰霊も、行いたい。

この戦争により、フィリピンだけでも、111万人が、犠牲になっている。
一般人も、勿論、その中に含まれる。

戦争とは、人が人を殺すことである。
当たり前のことだが、実に、惨いことであり、悲しく、そして、儚いことである。
戦争を回避するために、どんな努力も、厭わない。それが、新しい時代の、思想となると、
私は、信じる。

2010年04月10日

救われないマニラ・救いようのないフィリピン 10

カリラアという、慰霊の聖地といわれる場所に行くが、その前に、ストリートチルドレンのことを、書く。

パグサンハンという、田舎町でも、彼らがいた。
私が知り合った、チルドレンは、最初のレストランに入ったときから、だった。

彼は、私たちが、レストランに入ると、玄関先で、私たちに、手を出して、物乞いした。すると、店員が、彼を追い出す。
そして、何か言い合う。
互いに、顔見知りなのであろう。

それでも、彼は、諦めずに、私たちに、物乞いをした。
その度に、店員が、彼を追い払う。

私と、彼が、話すのは、その後で、矢張り、地元の人たちが、利用する、食堂だった。
そこで、はじめて、私は、彼と、もう一人の、チルドレンに、チキンと、ご飯を買って上げた。

更に、何度か、顔を合わせた。
その時に、話し掛けた。
だが、言葉が通じない。
英語が、話せなかった。
ただ、彼が、五歳であることを、知った。
ようやく、通じたのである。

五歳の彼は、毎日、物乞いをして、暮らしている。
その彼が、地元の人から、お金を貰うところを、見た。

車が来ると、駐車場に入れるのに、誘導するのだ。
そして、それで、何がしかの、小銭を貰うのである。

私は、関心した。
また、別の、子供も、そうして、小銭を得ていた。

彼は、私に、その小銭を見せてくれた。
左手、一杯に、小銭があった。

その彼に、私は、衣服を上げるものがないというのが、残念だった。
彼の着ているものは、すでに、汚れが酷かった。

数は、少ないが、田舎町でも、ストリートチルドレンがいるのである。

何度も、顔を合わせるたびに、彼は、私に笑いかけた。
とても、可愛いのである。
五歳といえば、日本では、幼稚園である。

暖かい国だから、そうして、暮らしてゆける。
だが、彼らに、食べ物などを、上げるのを、地元の人から、構わなくていいと、言われた。

見ていると、小銭で、トウモロコシなどを買って、食べている。
二本で、25ペソ、50円である。
それを、一本買って、同じチルドレンと、半分に分けて、食べているのである。

ちなみに、マニラでは、それが、一本、20ペソ、40円である。
丁度、季節は、トウモロコシが、美味しい時期だった。
私も、毎日、買って食べていた。

果物なども、小分けにして、道端で売るので、それを買って食べる事が、出来る。
そうして、何とか、生活しているのだ。

日本では、決して見られない、光景である。

何度か、彼に、お金を渡そうかと、考えたか・・・
だが、それは、止めた。
それを、はじめると、キリがなくなるのである。

ストリートチルドレンは、中学生くらいまで、いたように思う。
だが、中学生くらいになると、また、別の、お金を得る方法があるのだろう。
物乞いされることは、無かった。

さて、いよいよ、カリラヤという、慰霊の聖地に出掛けることにする。

矢張り、午前中である。
あまり、暑くない時間帯を、選んだ。

最初は、ジプニーで、行こうと思い、教会の前に立った。
すると、物売りのおばさんが、話し掛けてくる。
カリラヤに行くというと、ジプニーが来たら、教えてくれるという。
だが、中々、カリラヤ行きの、ジプニーがやって来ない。
その間に、バイクタクシーから、勧誘される。

彼らは、200ペソで、行くというのだ。往復では、400ペソになる。
私たちは、無視して、ジプニーを待った。
だが、30分しても、来ない。

さて、警官も来て、声を掛けてくれた。
あまり、本数が無いようである。

その時、若いバイクタクシーの、お兄さんが、私に声を掛けた。
200ペソで行くよ。
私は、高いと、言った。
すると、往復で、300ペソでいいと、言う。

300ペソ、600円。
このまま、時間が過ぎると、どんどんと、暑くなる。

よし、決めた。
乗ることにした。

そして、その200ペソが、安いということに、気づくのである。

山道を、延々と上がる。
想像していたより、時間がかかり、風景は、見事だったが、その、震動も、酷かった。

そして、カリラヤの日本庭園に到着した。
アメリカは、慰霊地に、日本庭園を、造ったのだ。
実に、粋な計らいである。

ところが、慰霊碑まで、歩くというと、歩いても、遠いので、バイクタクシーのお兄さんが、そこまで、行くという。

本当に、遠かった。
実に、広い庭園なのである。

そして、日本兵の慰霊碑に、到着した。
驚いた。

立派な、慰霊碑が、日本政府によって、建てられてあった。
更に、その慰霊碑の前の道を、多くの人が、懸命に、拭き掃除をしているではないか。

慰霊碑の前の、敷石をゴシゴシと、洗っている。

これは、アメリカの支援によって、成されているのだと思うと、アメリカに対する気持ちが、変化してくる。
戦争犠牲者の、追悼慰霊に対して、アメリカは、実に、よくしている。
タイの、カンチャナブリを訪れた時も、連合国軍の墓地は、管理者がいて、見事に、整然と、整理され、清掃されていた。

私は、早速、御幣を作り、国旗を、掲げて、慰霊の儀を、執り行った。
日本兵、アメリカ兵、フィリピン兵の犠牲者に、黙祷を捧げた。

そして、日本兵に対しては、いつもと、同じように、祝詞を上げて、清め祓いし、引き上げを願う。

言霊と、音霊による、古神道の形である。
しばらくの、祈りの間も、人々は、清掃を続けていた。

私は、事を終えて、皆さんに、ありがとうございます、と、声を掛けて、惜しみつつ、その場を、離れた。

再度、バイクタクシーに乗り、入り口に向かう。
その、慰霊地を見ただけでも、先の大戦が、いかに、犠牲の多いものだったかが、解るのである。


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