2010年06月15日

ラオス・ビエンチャンの醒めない眠り

ラオスへの、支援活動は、今回で、三度目である。

一度目は、コータが一人で、バンビエンという町の山間部の村に、出かけた。
二度目は、私が、北部の第二の都といわれる、ルアンパバーンの近郊の村に出掛けた。

そして、今回は、首都ビエンチャンの近郊の村に、出かけた。

タイまで、直行便で、タイ、スワナプーム空港から、国内線で、東北部の、ウドンターニという町に行き、そこから、バスで、陸路で、ラオス入りした。

ビエンチャンまで、バンコクから、直行便があるが、陸路で行くのは、金額的に、半額であるから、それにした。

バンコクに三日滞在して、ラオスに出掛けた。

バンコク、パタヤでの様子は、別に書くことにする。

国内線で、ウドンターニに到着したところから、話を始める。

バス並みの、格安航空である。
空飛ぶバスといわれる、A・Aという、航空会社である。

満席だった。
エアコンが、ガンガンに効いている。
それを知っていたから、私は、日本から出てきた時と同じく、着物を着て、乗った。
正解だったが、その前後が大変だった。

タイは、今が一番暑い時期なのである。

ウドンターニには、一度来ている。
空港は、変わっていない。
ただ、バンコクに戻る時に、空港に入る時の、荷物検査が、省略されていた。

夕方に到着した。
私は、そのまま、バスに乗り、その日のうちに、ラオス、ビエンチャンに入ることにした。

乗り合いバスに乗る。

およそ、50キロほどある、タイ、ラオス友好の橋まで行く。
そこで、タイを出国し、そして、橋を渡り、ラオスに入国する。
その手順は、前回、コータを見送ったので、知っていた。

タイを出国した時、一人の日本人の青年に、声を掛けられた。

23歳の、H君といった。

手順が分からずに、私に尋ねてきたのだ。
私と同じ、乗り合いバスに乗っていた。

本当は、友好の橋のある、ノーンカイという街に、留まるはずだったが、バスが、国境まで来たので、そのまま、ラオスに入国することにしたと、いう。

私は、彼と、ビエンチャンまで、一緒に行動した。

まず、タイ側の橋で、タクシーの運転手に、声を掛けられる。
金額を聞いて、ノーと言った。

20バーツで、橋を渡るバスがある。
二人で、それに乗った。
そして、ラオスに入国する。

ラオスは、三ヶ月滞在なら、日本人は、ビザがいらないのである。

入国する際に、二人で、50バーツを払う。
私は、この、50と、15を、よく聞き違える。

だから、百バーツを出して、そのまま、出た。
お釣りは、H君が、貰ってくれた。

また、バスに乗る。ビエンチャンのバス停行きである。
私は、二つの荷物、支援物資を持っている。
H君が、バスに積み込むのを、手伝ってくれた。

そして、バス停から、街に入るために、タクシーに乗る。

300バーツが、相場だと、知っていたので、200バーツという、男のタクシーに乗ることにした。
それは、すべて、私の判断である。
H君は、私に従う。
H君は、まだ、泊まる場所を決めていなかったが、私の決めたホテルの、近くには、沢山のゲストハウスがある。

私は、一泊、21ドルのホテルに、決めていた。
体調のことを、考えてである。

絶対、熱中症になると、思っていた。

そのタクシーの中で、ようやく、H君と、ゆっくり、話す事が出来た。
私の目的を言うと、そんな話は、はじめて聞いたという。

そこで、もし、よかったら、興味があれば、手伝ってくれないかと、打診した。写真を撮ってもらうだけでも、助かるのである。

そんなのでよければ、手伝いますと、言ってくれた。

彼は、美容師と、理容師の資格を取るために、学んでいるという。
丁度、その合間が出来たので、10日間の旅に出たという。

彼の荷物は、何と、背中の、ぺしゃんこの、バッグ一つである。

メコン川沿いのホテルに、到着した。
そこで、彼と別れる。
それぞれの、電話番号を交換した。
ところが、二人共に、誤解していた。

私は、タイの携帯電話であり、彼は、日本の携帯電話を、海外で使用できるようにしていた。だから、翌日、どうしても、つながないのである。

それに、気づいたのは、私が、ビエンチャンから、ウドンターニに着いた時だった。

だから、彼は、私に同行できなかったのだ。
後で、ホテルの前まで来ていたというが、それなら、フロントに尋ねて欲しかったと、思った。が、日本の若者は、今、そこまで、気づかないのかもしれないと、思った。

午前中まで、ホテルにいると、伝えていたのである。

勘違い、誤解・・・色々ある。

21ドルの部屋は、金額としては高いが、広くて、居心地がいい。
5ドルから、10ドルの、ゲストハウスは、沢山ある。

現地時間では、夜の十時近くになっていた。

食事をしていないのである。
早くしないと、駄目だと、着替えて、すぐに、下に降りた。
すると、ボーイの一人が、ホテルの並びに、ジャパニーズレストランがあると、尋ねていないのに、教えてくれる。

ガイドブックの地図には、載っていない。
だが、ホテルの並びに、暖簾を下げた、日本食レストランがあった。

そんなことは、今までにないことだが、私は、日本食レストランに入った。
ラオスの、チャットも、以前の残りがあり、両替しなくても、大丈夫だったこともある。

だいたい、日本食のレストランは、料金が高い。
矢張り、そうだった。

そして、また、今までにないことだが、日本酒を注文したのである。

一合を二本飲み、てんぷら蕎麦を注文した。
地元の、食べ物の、十倍はする、料金である。
そして、お客は、全員が、日本人である。

不思議な感覚だった。

2010年06月16日

ラオス・ビエンチャンの醒めない眠り 2

ラオスも、タイと、同じように、日本との、時差は、二時間遅い。
日本の、朝八時は、六時である。

翌日、六時頃に目覚めて、まず、ホテル周辺を歩いてみた。

すぐ目の前が、メコン川であるが、工事しているために、入れない。

その一つの、建物には、中華なんとか総会なる、文字がある。
つまり、中華系の建物・・・

ということは、そこに、中華街が出来るのか。
しかし、後で、別の場所に、中華街があると、知る。

昨年の、アジア競技大会開催で、すべてを中国の資金で、まかなった。その際に、中国から、中国人五万人の受け入れと、中華街の建設を、提示されて、現政権は、それを、受け入れた。

十年と、中国は、言うが、決して、そんなことはない。
中国人は、増殖して、居座るだろう。

ビエンチャンは、兎に角静かである。
あまり、人がいない。
首都などとは、思えないほどである。

北部の、ルアンパバーンのへ方が、活気があった。
そして、私は、それを、期待していた。

朝の食事も、至る所で、売っていると、思っていたが、全然、見当たらない。
もっと、市場の方に、行かないと、無いのだうろか・・・と、思いつつ、歩いた。

朝なのに、とても、暑い。

町内を一回りして、ホテル近くの、誰もいない、地元のオープンカフェに、入った。

コーヒーを注文する。
なんとかこんとか・・・といわれたので、うんうんと、頷く。
何を言っているのか、全く解らない。
ラオス語は、タイの、イサーン、東北地方の方言だと聞いていたが、タイ語は、勿論わからないから、ラオス語も、解らない。

出てきたコーヒーを飲んで、まずまずである。
ところが、半分ほど飲んで、その下に、何かある。
何だろう・・・
そのままにして、飲んだ。

カップの下には、コンデスミルクが、入っていた。
もし、スプーンで、掻き混ぜていたら、甘くて、飲めたものではなかった。

タイもむそうだが、ノーシュガーといわなければ、とんでもなく甘いコーヒーが、出てくる場合、多々あり。特に、田舎は、そうである。

一度、ホテルに戻る。

そして、フロントで、尋ねた。
英語で、貧しい人たちが、住む場所に行きたいが、どの辺りなのか、と。

ボーイたちも、参加して、地図を広げて、皆、色々と、話し合う。

そして、結論は、この辺りだということになった。
私は、地図にしるしをつけて、それでは、車の手配を御願いしたいと、言った。
すると、一人の男が、やってきて、時間を決める。

料金は、7万チャットである。
一万円が、80万チャットである。
おおよそ、千円である。

それではと、三時に御願いした。

そして、部屋に戻り、朝の食事を、どうしようかと、考えた。
どこにも、露店は、無いので、コンビニに買い物に、行くことにした。

ホテル近くに、一軒だけ、コンビニがある。

そこで、フランスパンと、ハムのようなものを、買ったと思う。
記憶が曖昧である。

部屋に戻り、それを、食べる。
あまり、食欲が無い。暑さのせいだろうと、思った。

ただ、昼は、地元の食堂に行き、ラオスの、食べ物を、食べたいと、思った。

部屋の、掃除は、断った。
タオルのみ、チェンジしてもらう。

そして、H君の連絡を待つが、なかなか、電話が来ない。
そこで、私からも、電話をするが、通じない。

何度も、H君に、電話をした。
だが、通じない。

折角の、チャンスである。
私の活動を、知ってもらうためにも、同行して欲しかった。
もし、それで、次の旅を、決めるなら、無料で、飛行機に積める支援物資の量を、多く出来ると、思った。

何度も、何度も、電話した。
どうして、通じないのか・・・

結局、日本を通じて、かけなければ、通じない電話だった。それを、後で知る。

昼を過ぎたので、私は、また、外に出た。
そして、地元の、食堂を、探した。

中心部は、レストランが多いが、ラオス料理の店ではない。
皆、欧米人向きの、レストランである。

ついに、私は、そのレストランの、呼び込みの人に、尋ねた、ラオス料理の店は、どこにあると。
すると、あっち、と言う。
その、あっちに行く。

ようやく、地元の、食堂に、出会った。

私は、麺の一つを、指差し、それを、注文した。
百円にもならない、金額である。

そこで、ようやく、ラオスを感じることが、できた。


2010年06月17日

ラオス・ビエンチャンの醒めない眠り 3

いつものことだが、支援する状況は、その時になってみなければ、解らない。

私は、出発の、三時まで、部屋で待機していた。
出来るだけ、外に出ない。
歩き回れば、熱中症になるだけである。

三時になり、私は、バッグ二つを持参して、ロビーに降りた。
すると、タクシーは、すでに来ていた。
タクシーといっても、大型のバンである。

英語の堪能な、おじさんが、運転手だった。
その英語は、訛りなく、聞きやすい。

乗り込むと、市内の、ある親のいない子供たちの、家に行くという。
それは、聞いていなかった。
もっと、遠くを意識していた。

オッケーと、私は、答えて、おじさんの英語の説明を聞いていた。

どこで、身につけたのか、文法も、正しい。
ブロークン英語ではない。

ラオスは、中年以上の人は、多く、ソ連に留学していたという。だから、ロシア語は、話すが、英語は、出来ないと、聞いていた。

若い人は、勿論、英語である。

市内の、孤児たちの家には、すぐに着いた。

その、玄関は、鉄格子で出来ている。

子供たちの、数人は、椅子に座り、後ろ向きであった。
おじさんが、何か言う。

私は、その後に、ついていった。

子供たちが、集まって来た。
私は、早速、ぬいぐるみを取り出して、一人一人に、渡した。

コープチャイ、と、口々に言う。
ありがとう、である。

私は、おじさんに、写真を撮ってもらうべく、カメラを渡した。
その時、一人の、世話役の青年が、写真は、駄目だと言う。

そこから、少し違うと、感じてきた。
私は、私だけでも、いいから、写真を撮るといった。

そして、彼に、子供たちに、衣服を上げてもいいのかと、問い掛けた。
おじさんも、同じように、言う。

しかし、返事がない。

私は、次第に、興奮して、オッケーか、ノーかと、再度、尋ねた。
それでも、青年は、何も言わない。また、世話役の青年たちが、二三人出てきた。

そのうちに、何となく、解ってきた。
突然の訪問で、戸惑っているのである。
そして、社会主義の、あの、閉鎖性である。

写真を撮るなということは、見せたくない、知られたくないと、考える。

市内には、ストリートチルドレンの姿がない。

隠したいという、思いである。
そして、上司の命令がない場合は、どうしていいのか、解らない。
突然の、訪問に、対処する方法がない。

こんなことは、初めてである。

子供たちの、服装は、着の身着のままである。
洗濯もしていない、衣服を着ている。

そして、一人の青年が言った。
これだけで、いいです、と。
つまり、ぬいぐるみ、だけでいいというのだ。

オッケー
私は、バッグを持って、引き返した。

そして、おじさんに、郊外に出て欲しいと言った。

ここで、後で解るが、郊外に行くことで、料金が変わったのだと、おじさんは、後で言う。
最初の約束と違うのである。

最初は、郊外に出るという、話で、交渉したはずである。

それは、また、後で書く。

おじさんは、車を走らせた。
しばらく、走らせた。

その間に、おじさんは、チャイニーズのことを言う。
そして、私も、チャイニーズだと、思ったという。
更に、チャイナの話である。

あまりに、中国の話が多いので、私は、チャイナ イン ラオスだろうと、言った。
つまり、中国の中のラオスになるのだろうと、言ったつもりだ。

すると、おじさんは、黙った。

昨年の、12月に、アジア競技大会が、開催されている。
ラオスの、威信をかけて、である。
しかし、すべて、中国の支援で、出来た。
それにより、ビエンチャンに、中華街を造り、五万人の、中国人を受け入れるのである。

きっと、そのことを、誇らしく思っているのだろうが、私から、言えば、中国に取り込まれるだけである。

車は、20分以上も走り、一つの、村の入り口に、到着した。


2010年06月18日

ラオス・ビエンチャンの醒めない眠り 4

村の入り口には、掘っ立て小屋の、食堂があった。
運転手が、車を止めた。

数名の人たちがいた。
子供もいた。

私は、バッグを持って、こんにちはーーーと、日本語で、挨拶した。
そして、すぐに、子供たちに、ぬいぐるみを、渡した。
それで、私が、何かを持ってきた人と、解ったようだ。

次に、文具を出して、スクールボーイ、ガールと、言った。
運転手が、通訳している。

そこに、ノートや、ペンを出した。
最初は、皆、控え目である。

ラオスの人は、おとなしく、控え目で、静かである。

次に、衣服を出した。
そして、広げて見せた。
すると、一人の女性が、手を出す。
そして、支援がはじまった。

少し人が集う。
それが、だんだんと、多くなる。

タオルも出した。
受け取る人、衣服を指差す人・・・

混乱なく、静かだ。
男の子も、やってきた。
彼には、バッグを差し出した。
照れながら、受け取る。嬉しそうだ。

運転手に、写真を撮ってもらう。
数枚、撮って、私は、オッケーと言い、次の場所へと、促した。

すぐに、車は、村の中心に出た。

高床式の、建物。しかし、実に、粗末なものである。
その下に、子供が、二人、寝ていた。

そこで、支援をすることにした。

ハーイと、私は、声を掛けた。
少し、驚いている。

見ず知らずの人が、やってきた。
だが、運転手が、なにやら言うと、起きだしてきた。

私は、丁度良い、板の間があったので、そこに、バッグを置いて、中のものを、取り出した。

すると、いつの間にか、人だかりである。
次から、次と、人がやって来た。

そうして、次から次と、衣服を手渡しすることになる。
サイズを見て、それぞれに、手渡す。

そのうちに、手伝う人も、現れる。

バッグの中から、衣服を取り出したり、文具を取り出して、子供たちに、分け与える。

運転手に、写真を撮るように、頼む。

大半は、子供用だが、中に、大人用、特に女性物が、多かった。
男の人も来たが、中々、彼らに合うものがない。
だが、バッグの底から、男物が出てきた。

二人の男が、歓声を上げた。
ズボンである。
丁度良い、サイズだ。

とても、暑いが、それを、忘れた。

すっかりと、バッグの中身が無くなった。
そこで、それぞれ、写真を撮る。

だが、実に静かである。
不思議なほどに、静かなのである。

バイバーイと、声を掛けつつ、私は、車に乗り込んだ。
何事もなかったかのようである。

言葉が通じないのが、難であるが、物によって、何とか、通じた。

車に乗って、私は、浴衣が、汗だくになったことを、知った。
車の冷房が、とても、気持ちよいのである。

ホテルに戻る道は、意外に、時間がかかった。ということは、市内から、結構離れた場所に来たのだと、思った。

運転手と、英語で少し会話したが、何を話したのか、忘れている。

ラオスは、人が少ない。
市内に入るが、あまり、人影がないのである。

首都とは、思えない、ビエンチャンである。

さて、ホテルに到着して、私は、約束通りに、7万チャットを、運転手に出した。すると、20万チャットと、言う。
どうして
遠い所に行ったと、運転手が言う。

私は、ホテルのフロントに、向かった。
しかし、約束した、フロントの男も、ボーイもいない。
一応、フロントの男に、最初の紙を出してみた。

20万チャットと、言うが・・・

運転手が、フロントの男と、話す。
そして、フロントの男が、私に、遠くへ行ったからと、言う。

しかたがない。
私は、20万チャットを払うことにした。

最初に、遠く方へ行くはずだったのだが・・・

解釈できることは、運転手が、困っている人たちということで、孤児の家に行くとした。最初に、地図で示された場所ではなかった。孤児たちの家で、十分だと思ったが、途中で、中止にした。そこで、遠くへ行くことにした。それで、料金を高くした。

更に、日本人であるから、お金は、持っていると、考える。

実際、ビエンチャンには、日本人の年金暮らしの人たち、男たちが、実に多かった。

部屋に戻り、空になったバッグを見て、終わった開放感を得た。
ただ、20万チャットは、少し高いと、思う。

一万円が、80万チャットである。
つまり、20万チャットは、2500円である。

帰りの途中で、運転手が、よくやってくれたので、四日目の帰りの、バス停まで、頼んだ。
9万チャットと、言った。

バス停から、来たときは、タイバーツで、200バーツ、つまり、600円である。
9万チャットは、1250円であるから、高い。倍である。

兎に角、観光客からしか、お金が、取れないのである。
仕方がないことだ。

メーターがない車は、本当に注意して、料金を決めないと、大半が、高い。
それで、私も、いつものように、地元の人が乗る、バイクタクシー、トゥクトゥクにすることにした。勿論、そこでも、交渉しなければ、ならないのであるが。

2010年06月19日

ラオス・ビエンチャンの醒めない眠り 5

前回、ラオスの、ルアンパバーンに出掛けた、旅日記で、ラオスの歴史に触れた。

今回は、その政治と、経済に触れる。
そして、何故、今回の、旅日記の題が、ビエンチャン、醒めない眠り、と、したかについて、書く。

ラオスの、人口は、おおよそ600万人である。
内陸山岳国として、経済的に、実に不利な位置にある。
経済発展は、短期的には、望めない国なのである。

フランス植民地を経て、1975年、人民民主共和国建国以来、ラオス人民革命党の、一党独裁体制である。

それは、ベトナム共産党と同じく、インドシナ共産党から、派生したものである。

80年代の、半ば、ソ連、ベトナムなどの、社会主義改革の波が、ラオスにも、起こる。

当時の、カイソーン大統領が、経済、政治、文化の、自由化を進める、「新思考」なる、政策指針を、打ち出した。

経済面では、市場経済への移行を柱に、改革、開放政策を、推進する。

ただし、国の、実際の、政治を動かすのは、55名の、党中央委員であり、中でも、11名の、政治局員が、内政の重要ポストを、兼務する。

立法機関は、一院制である。
国民会議に委ねられる。しかし、選挙は、選挙区ごとの、直接投票で、それが、秘密投票で、行われるという。

この、国民会議が、憲法の承認と、修正、正副大統領の選出、首相の承認、社会経済発展計画などの、重要な決定を行う。

一党独裁という、政治体制と、市場経済というのは、実に、矛盾するのである。

更に、ラオスには、誇るべき、伝統ある、歴史がない。
勿論、今は、ラーンサーン王国の、建国者であった、ファーグム王の、偉業を讃えて、人民革命党や、封建制から、現在の国家を築いた点を、高揚させて、その王国と、党を結びつける、キャンペーンがなされている。

神話も、伝統もない国は、国民を一つに、まとめることが出来ないという、良い例である。

更に、フランス植民地時代に、真っ当な教育制度を、敷かなかったゆえに、今でも、教育制度は、整わない。
それは、また、少数民族の多さにも、原因がある。

ラオス政府の公式の、民族の数は、49であるが、実際は、まだ多い。

言葉の、統一もされていないのである。
ラオス語での、授業についていけず、学校に行かない子供たちも多い。

人口の、80パーセントが、農山部に住む。
首都の、ビエンチャンは、それらに比べて、実に豊かである。
格差が、実に、甚だしい。

平たく言えば、首都を中心にした、政府、つまり、独裁政権の周囲は、豊かであるが、その他大勢は、実に貧しく、教育も、行き届かないということである。

更に、驚くべきは、2001年の、第七回党大会で、削除していた、マルクス・レーニン主義用語を復活させたという。
イデオロギー路線に、回帰するというのである。

まさに、時代と、逆行しているのである。

一党独裁という、体制は、北朝鮮、ミャンマーに、続く。
激しい様子には、見えないが、矢張り、その弊害は、多くの国民に、帰する。

その証拠は、ビエンチャンの生活水準は、突出して高く、次に、県庁所在地のある、都市である。
それ以外の、農村地帯は、呆れるほど、貧しい。

更に、この地域格差が、拡大しているのである。

つまり、中国共産党のように、共産党幹部に、まつわる人々は、実に、経済的に、豊かでいられる状態が、ラオスにも、見えるのである。

金の流れを知る政府関係者に、つらなる者たちが、良い生活をしている。

首都ビエンチャンは、まさに、それを見せ付ける。

国民国家の、意識が希薄であり、国が、一部の人たちのものになっているのである。

そして、その眠りから、醒めることがない。
醒めようと、しないのである。

観光産業にも、力を入れている。
多くは、欧米人たちが、押し寄せている。

私が、市内の孤児たちの家に、出掛けての、対応は、ミャンマー並の、状態である。
ただし、頭隠して、尻隠さず。

私は、四泊の予定で、ビエンチャンに入ったが、二泊で、タイに、戻ることにした。
昼間のバス停で、見たものは、乞食である。
障害者、知的障害者の乞食たちである。

ストリートチルドレンは、隠すが、それらを、隠さない。
頭だけを、隠しているのである。

ビエンチャンの市内は、静かである。
人が少ない。
その、少ない人たちが、国の大半の、予算を享受する。

私は、更に、メコン川沿いに、立てられる中国系の建物の看板を見て、この政府は、ラオスは、中国に、身売りすると、感じた。

ベトナムからの支援よりも、中国からの、支援が多くなる。
つまり、安穏として、暮らしたい、一党独裁に、連なる人々は、それでいいのである。

国を、造るという、意欲に欠ける。
それは、今までの、他国に依存した、そのままである。

ビエンチャンには、二度と、来ないと、思った。

気概が感じられない。

ラオスの誇りというものが、皆無である。

ルアンパバーンに出掛けたときは、少なくても、ラオスであるという、誇りと、意欲が、感じられた。
ここには、それが無い。感じられない。

2000年前後に、小規模な、反政府的事件が起きた。
すかさず、引き締めが、随所に見られたという。

要するに、緩やかな、言論統制であり、独裁である。
世界が、どの方向に進んでいるのかを、知らない。
知っても、平然としているのか。

つまり、私には、醒めない眠り、と、見えたのである。


2010年06月20日

ラオス・ビエンチャンの醒めない眠り 6

三日目の朝、予定を切り上げて、タイ、ウドンターニまで向かうことにした。
本当は、四泊する予定だったが、魅力のない街にいても、しょうがない。

それなら、ウドンターニに、二泊することにした。
いずれ、ウドンターニへは、冬物を運ぶ予定であるから、丁度良かった。

チェックアウトの、12時前に、ホテルを出た。
あの、タクシーのおじさんらに予約したのは、キャンセルである。
勿論、何の連絡もしなかった。

あの、一日で、20万チャットも、稼いだのだ。言うことはないだろうし、また、もう二度と、ここには、来ないから、会うこともない。

ホテルを出て、バターミナル方向へ歩く。
すぐに、トゥクトゥクが見つかる。
あちらから、声を掛けてきた。

料金は、4万チャットであり、打倒な値段である。
ブロークン英語で、お互い、それで丁度良い。

道が、空いていて、スムーズに、バス停まで、行った。

帰りは、支援物資がないので、楽々である。
コープチャイと、おじさんに、言って、お金を払い、バス停前で、降りる。
すると、一人の青年がやって来る。
言葉が解らないが、ウドンターニと言うと、キップ売り場に連れて行ってくれた。

更に、乗り場まで、教えてくれる。
何か、売りつけるのかと、思いきや、それで、終わり。
要するに、親切なのだ。

国境をバスで、越える。
つまり、出国と、タイの入国をするのである。
その度に、バスが、止まり、客を待つのである。

出発時間まで、一時間ほどもある。
私は、近くを歩くことにした。
しかし、実に、暑い。
ただでさえ、汗をかく。
水を買って、それを飲みのみ、歩いた。

市場などがある。
そして、目に入ったのは、物乞いたちである。
障害者が多数。
女の子を連れた、母親もいた。

私は、心を鬼にして、お金は出さなかった。出せば、キリがないからである。

しかし、矢張り、我慢できず、三回、2000チャットを、出した。

少し歩くと、日本語で、話し掛けてきた、おじさんがいる。
驚いた。

えー、私は、日本で、25年働きました。今は、日本の年金を貰って暮らしています。娘が、日本にいます。私の家は、大きな家です。と、色々と、話す。
日本の年金で、暮らしていると、いうのだ。驚いた。

ところで、私は、夜の食事は、ホテル沿いの、和食の店で、食べた。
その時、すべての客が、日本人の男たちだった。
そして、皆、年金暮らしである。

一人の、おじいさんが、ここは、安くて、若い姉ちゃんも、遊んでくれるから、いいと、言っていた。

車椅子に乗っていた、おじいさんもいた。

久しぶりに、日本語を話すのか、おじさんは、中々話しを止めない。
私は、頷いて聞いていた。

ようやく、話が、ひと段落ついたので、私は、お元気でと、いい、その場を去った。
そして、市場の中に入り、見て回った。
ほとんど、食べ物を売っている。

矢張り、暑いので、私は、バス停に戻り、日陰のベンチに座った。
さて、トイレに行きたくなった。
トイレは、向こう側にある。
荷物は、どうするか。
フィリピンでの、盗まれたことを思い出した。しかし、隣に、座っていた、女の子に、身振りで、荷物を指して、御願いと、言った。
もし、彼女が、ドロボーなら、終わりだが、戻ると、大丈夫だった。
大切なものは、持っていたが、それでも、危ないことである。

トイレに入るのに、1000チャットを、払った。
それでも、綺麗とは、いい難いトイレである。

ようやく、出発時間が来た。
バスに乗り込む。満席である。

私の隣の席に、若い女の子が、座っていた。
ラオス人である。

ずーっと、携帯電話をいじっている。

その子も、何かと、親切にしてくれた。
ここで、降ります。荷物は、置いていて、大丈夫です。
勿論、言葉ではない。身振りである。

出国をする。
満席のバスから、皆、一度降りて、出国手続きをする。

皆が、揃うと、次は、友好橋を通り、タイ側に行く。
そして、入国手続きをする。
バスが、客を待つ。

タイ入りして、ようやく、バスが、ウドンターニに向けて、走る。

私も、隣の女の子も、寝た。
気づいた時、私たちは、恋人同士のように、なんと、肩を寄せ合って、眠っていたのだ。
二人で、それに気づいて、何となく、気まずい雰囲気である。

バスは、ウドンターニの市内に入っていた。
バス停に到着して、私たちは、さようならも言わず、バスを降りた。


2010年06月21日

ラオス・ビエンチャンの醒めない眠り 7

ウドンターニのバス停は、混雑していた。
その中でも、トゥクトゥクの売り込みが、激しい。

私の傍にも、一人のトゥクトゥクの運転手が、やってきて、売り込みる。

私は、町外れの、一泊250バーツのホテルと、決めていた。
あまり、しつこいので、料金を聞くと、70バーツである。
少し高い。

だが、乗ることにした。
すると、すでに、母と女の子が、乗っていた。

何と、家族一家で、ある。
ということは、トゥクトゥクを住まいにも、しているのかもしれない。

驚いたのは、女の子の、教科書である。
タイ語と、日本語の対比である。

それを、母子で見て、私に話し掛けてきた。
文具があれば、その子に、渡したいと思った。

ウドンターニは、東北地方、イサーンの都市である。
ここから、バンコクや、パタヤに、出稼ぎに出る。

更に、タクシン派の活動拠点の一つであり、市内では、反政府運動が盛んでもある。
私の、滞在していた日も、町の中心部で、デモを繰り広げていたらしい。

私は、町はずれの、ホテルだったので、それを、見ることはなかった。

ホテルは、古い大型のホテルで、主に、タイ人が利用する。
250バーツは、ホテルとして、安い。ゲストハウス並みの、料金である。
750円である。

部屋も広く、エアコンが、点けっぱなしになっている。
フロントで、管理しているのだ。
お客が入ると、エアコンが機能する。
しかし、それが丁度良いのだ。
24時間、点けていても、丁度良いくらい、暑いのである。

ホテルの裏手には、市場が、二つもある。
私は、それで十分だった。
市場に行けば、何でも揃う。
食堂も、ある。

浴衣を、脱いで、シャワーを浴びて、タイスタイルに、着替えて、水を買うために、外に出た。
ホテルの並びに、コンビニがあり、とても、便利である。
何はともあれ、水は、必要不可欠。
ペットボトルを買って、ホテルに戻り、安心して、ベッドに、横になった。

旅の間は、興奮しているから、あまり感じないが、旅を終えると、その疲れが、どっと、出るのである。
だから、旅の間に、休むことなのである。

そこで、H君を思い出し、電話を掛けることにした。
そして、電話番号をじっと、見詰めて気づいた。
これは、日本の携帯番号である。つまり、一度、日本を通して掛けなければ、通じないと。

そこで、日本に電話をするように、掛けてみた。
それで、つながった。

H君は、丁度、チャンマイに着いたところだった。
つまり、私と前後して、ビエンチャンを出たのだ。そして、そのまま、長距離バスに乗って、チェンマイに向かったのである。

一晩かけて、チェンマイに着いたようだ。
彼も、電話をしていたようである。
彼は彼で、日本を通して、私にかけていた。私の番号は、タイの番号であるから、通じない。

彼は、北の地方を回り、27日に、帰国すると、言った。
私は、26日に、帰国する。
それでは、日本で、会いましょうということで、電話を切った。

彼は、薄いリックサック一つの、荷物である。
もし、彼が、一緒に旅に出てくれたら、彼の荷物として、支援物資を、飛行機に積み込む事が出来る。
その後は、自由行動にして、協力を御願いしたいと、思った。

とりあえず、電話がつながり、安心した。

私は、しばらく、ベッドで、休む。

夜の食事は、ガイドブックにあった、イサーン料理の店に行くことにした。
もち米の、カオニャオと、おかずを食べる。
店の前では、鶏肉と、ブタ肉を焼いている煙が、もうもうと、立ち込めている。

二件並んである。
私は、その一軒に入り、鶏肉と、カオニャオを注文した。
イサーン料理は、パパイヤサラダの、とても、辛い、ソムタムという料理がある。
それと一緒に、カオニャオを食べるのだが、私は、遠慮した。

容赦なく、辛いので、食べるには、気力がいる。
今、タイ全土で、その、ソムタムを、食べる事が出来る。
タイ料理としても、定着するだろう。

町外れだから、実に静かである。
人も少ない。

ホテル前から、その店の横は、広い公園になっていて、博物館が建っている。

帰り道、その公園で、寝泊りする人たちを、見た。ホームレスである。
あまり、悲惨さは、無い。
少しばかりの、食べ物を食べていた。

この街には、冬物の衣類を持って、来る予定である。
特に、郊外に行くと、寒さで、死ぬ人もいるといわれる。
この街が、出来た経緯も、ベトナム戦争時代である。

2010年06月22日

ラオス・ビエンチャンの醒めない眠り 8

翌日の、一日は、まったく予定は無い。
午前中に一度、近くの市場に見学に出た。

魚、野菜、その他諸々が、売ってある。
その一つ一つを、見て回る。
その、活気がいい。
ただし、暑い。

昼の食事をする店を、探した。
市場の食堂は、とても、安いのである。
その、一軒を見つけて、ホテルに戻った。

それだけでも、汗が噴出していた。

明日は、夕方の国内線で、バンコクに戻る。
そこで、チェックアウトの時間を、遅くしてもらうために、フロントに行く。
タイムオーバーだから、追加料金がかかるはず。だが、二時までいても、追加料金は、いらないという。
それではと、二時まで、部屋にいることにした。

そして、ホテル前の、女性が所有する、トゥクトゥクに、明日の、二時に、エアポートまで行くといい、料金を尋ねると、100バーツである。
それで、決めた。

昼になったので、市場の食堂に行く。
客は、いなかった。
店主と、奥さんは、大歓迎してくれた。

タイ語が、話せるかと、聞かれた。
出来ないと、言うと、奥さんが残念そうである。

タイ風ラーメンを頼む。
麺は、指差して、決めた。
さらに、魚介類を選び、主人が、示した、野菜も、入れることにした。

いつもより、量が多い。
暑い中、暑い麺を食べる。

30バーツ、100円である。
美味しかった。タイ語で、アローイという。
何度も、アローイといって、私は、店を出た。

果物が、食べたいと、市場で、小売している、おばあさんのところに、行く。
そこで、マンゴーを指差す。
5個で、15バーツである。
私は、皮を剥けないので、皮を剥いて欲しいと、身振りで、言った。
おばさんは、頷いて、一つ一つの、皮を剥いて、さらに、食べやすく、切ってくれた。

一人では、食べきれない量である。
ホテルに着いて、ベッドメークの、おばさんに、二個分を差し上げる。

マンゴーは、腹持ちがよく、夜まで、腹が一杯だった。

夜の食事は、イサーン料理の店に行く。
昨夜の、隣の店に行くことにしていた。

シャワーを浴びて、兎に角、体を、休めることにする。
私は、熱中症の対策をせず、外に出るので、実に危険である。

熱を、体に溜めたままにしていると、確実に、熱中症になるので、部屋で、体から、熱を取る。

そして、水を良く飲むのである。

ラオス、ビエンチャンの、支援は、あっけなく、終わった。
更に、二泊だけの滞在である。

ラオスは、地方に行くべきだと、考えた。
北と南へ、行くことにする。
山岳地帯の、村々には、物が、限りなく、不足している。

ラオスが、それなりの、国になるには、気の遠くなる、時間が必要である。
前回の、旅日記にも、書いたが、教育が、真っ当に行われていない。
それは、フランス植民地時代に、さかのぼる。
フランスは、知識人を増やすことを、恐れて、教育を、おろそかにした。それが、一つの、政策だった。

現政権も、教育に関して、まだ、曖昧である。
建物は、あるが、先生が来ない、教科書が無いという、状態である。

ごくごく、選ばれた者だけが、中国、上海などに、留学する程度である。
国民に、教育をさせないという、裏には、賢くなってもらっては、困るという意識があるものと、見る。

秘密選挙自体が、怪しい。
矢張り、独裁政権と言うしか無い。

多くの支援を、他国から、得ているが、国民のために、使用されているのかは、不明である。

少しでも反政府の行動があると、即座に、取り締まるというのも、独裁政権の、特徴である。

ラオスの、若者たちに、希望は、見えない。
どうしても、今の生活の中でしか、生きられないとの、諦観がある。

文明社会の、恩恵を受けられる人は、少数である。
国に、活力を与えるためには、若者に、教育が、必要不可欠である。

予算が無いため、海外からの、支援により、専門学校が、出来るようになったと、言うが、それ以前の、教育が、なされなければ、特別な子供たちだけが、通えるだけである。

貧しい村々では、文具もないのである。

更に、子供たちは、早くから、生活の手伝いに追われる。
結果、そのまま、大人になり、希望なく、生きることになる。

バイクタクシーか、トゥクトゥクの運転手になる程度の、希望である。

2010年06月23日

ラオス・ビエンチャンの醒めない眠り 9

夜は、イサーン料理店に行き、鶏肉と、豚肉の焼いたものを、注文し、更に、もち米である、カオニャオにする。
もち米は、実に、腹持ちする。

結局、イサーン料理の、定番である、ソムタムは、食べなかった。

カオニャオは、バンコクでも、一袋、一回分は、5バーツ、15円である。
それに、おかずを買う。
100円以内で、食事が出来るのである。

高級レストランに行く必要はない。
地元の人と、同じものを、食べて、地元に解け込むのである。

早々に、ホテルに戻る。
後は、寝るだけである。

シャワーを浴びて、少し、ぼんやりと、タバコを吸う。
タイでは、ホテルの部屋でも、禁煙であるところが、多い。
更に、ラオスも、部屋では、禁煙である。

店内は、皆、禁煙で、喫煙したい人は、外のテーブルに座る。

寝る前に、ホテル並びのコンビニに行って、水を買う。
兎に角、水が必要である。
明日の分まで、買った。

それで、準備万端である。

翌日は、朝六時に、目覚める。
日本では、八時である。

横浜支部や、実家に電話をする。
無事であることだけである。

朝の食事は、昨夜の店で、残した、豚肉と、カオニャオを食べた。
それで十分である。

昼は、空港で、食べることにした。
空港のレストランでは、タイ料理の、バイキングがあるのだ。

二時になり、ホテル前に出ると、約束していた、トゥクトゥクの、おばさんがいた。
サワディーと、挨拶して、早速、乗り込む。
さて、トゥクトゥクでは、どのくらいの時間がかかるのか、解らない。
ただし、夕方、五時過ぎの、便であるから、間に合う。

30分ほど、走り、空港に到着した。
100バーツを払い、コープクンカップと、お礼を言って、降りた。

前回の時は、空港の入り口で、持ち物検査があったが、今回は、それが、省略されていた。

更に、何度、外に出て、タバコを吹かしても、出入り自由になっていた。以前は、一回一回、検査された。

時間は、十分にあった。
これから、バンコクに戻り、三泊ほどして、パタヤに行き、カンボジアから、流れてきた人たちに、支援物資を配る予定である。

空港の中は、冷房が、利いていて、実に、気持ちがよい。

タバコを吹かすたびに、汗をかいて、また、空港に入り、ホッとする。

そして、楽しみにしていた、レストランの、タイ料理の、バイキングを食べる。
色々あって、楽しい。
値段は、100バーツと、高いが、それなりの、価値はある。
珍しいものは、どのようにして、食べるのかを、店員に尋ねる。

ご飯や、ソーメンのような麺の上に、おかずを乗せて、食べるのである。
好きなだけ食べられる。

腹一杯になり、私は、ようやく、レストランを出て、受付カウンターに向かった。
漸く、バンコク行きの、チェックインが、始まった。

帰りは、荷物が少なくて、楽チンである。
AAの、格安航空である。
時間通りで、助かった。時には、とんでもない、時間に、変更ということもある。

チェンマイで、それに、当たったことがあり、日本に帰れないと、思った、一幕も。

座席が、決められてあるのも、新しくなっていた。
以前は、自由席だった。
私は、自分の席が気に入らないので、別の空いている、席に移った。
すると、添乗員が、席を替わるのは、20ドルだという。
驚いた。
それではと、元の座席に戻った。

離陸する前に、私は、眠った。
そして、気づいた時は、バンコクに着いていた。

すぐに、搭乗する四階まで、上がり、タクシーを掴む。
タクシー乗り場には、行かないのである。

今、客を降ろしたタクシーは、メーターで、走る。
タクシー乗り場だと、運転手に、なんとかこんとかで、プラス50バーツとか、言われる可能性があるからだ。

すぐに、タクシーは、捕まった。
マンションアパートの、住所の名刺を出して、運転手に渡すと、運転手が、道が、難しいので、50バーツプラスだと、言う。
ああ、これだから・・・

今回、日本から、バンコクに着いて、同じように、そこで、タクシーに乗ると、500バーツと言われて、私は、怒鳴り散らした。
日本語で、だから、バンコクのタクシーは、評判が悪いんだ・・・
メータでなければ、乗らない。降りると、名刺を取り戻そう取ると、オッケーオッケー、メータといい、メータを下ろした。

運転手とは、喧嘩するな、怒らせるな、本当に、怒ると、ピストルを持っているので、撃たれることもあると、注意されていたが、私の性格は、変えられない。

しばらく、沈黙が続いたが、ふっと、前を見ると、十字架がかけられてある。
アーユー、クリスチャンと、尋ねると、イエス、カソリックと、答えるではないか。

そー、カソリック
ゆー、カソリックと、聞かれたので、イエスと、答えると、話しが、始まった。

陰険な雰囲気が、楽しい話になった。
彼は、家族の話をはじめた。
子供が二人いる。生活は、大変だ。

実は、怒鳴った後で、コータに電話をして、マンションの前で、待っていてと言った。運転手に、怒鳴ったから、あんた、対応してと、言った。

結局、200バーツ程度で、50バーツを、チップで、上げた。

無事、コータのマンションに到着した。

しばらく、バンコクで、休むことにする。

スワナプーム空港には、市内へ行く、リムジンバスもあるが、私は、乗り場が、解らない。また、そうだとしても、タイ語が読めないから、タクシーが、一番いいのである。
しかし、今、空港から、地下鉄線が出来上がる。すると、大変便利になり、タクシードライバーと、喧嘩しなくても、よくなる。

ただし、そうなると、タクシーは、大変である。
地下鉄に、客を奪われる。

彼らも、タクシーを一日、2000バーツで、借りて、運転手をしている。そして、その、タクシーの持ち主は、中華系が多いのである。

一日、2000バーツを稼いでも、何もならない。
だが、走っても、たいした額にならない、日もある。
更に、彼らは、地方からの、出稼ぎが多い。

本当に、生きる、生活することは、大変なことである。

2010年06月24日

タイ・パタヤの影

ビエンチャンから、バンコクへ戻り、そこで、少し休んで、パタヤに行くことにした。

丁度、バンコク騒乱のさなかである。
地下鉄が、全線、停止していた。

コータの、語学学校も、休みになった。
それで、最初は、一人で、行く予定が、コータも、一緒に行くことになった。

近くのバス乗り場は、騒乱のせいで、封鎖である。

荷物を持って、タクシーの運転手に、パタヤ行きの、バス乗り場を尋ねる。
別のバス乗り場があると、言う。
コータは、不審に思うが、兎に角、そこに行ってみることにした。

パタヤでは、カンボジア流民の親子に、支援するためである。

長距離バス乗り場である。
タイ全土に、出掛けるバス乗り場を、はじめて、見た。
とても、大きい。

いつもなら、タクシーを使い、パタヤに行くが、バスが、断然安いということで、バスにした。
一人、135バーツである。
タクシーなら、1500バーツが、通常料金である。
それでも、少し賢くなった、私たちは、1000バーツで交渉する。
高速料金を含めて、1200バーツ程度になる。

だが、バス料金は、実に、安い。
地元の人たちが、乗るのである。

ところが、バスでは、二時間半がかかる。
それでも、安いバスに乗る。
急いで行くことも、ない。

バスからは、バンコク市内の至る所で、火の手が上がるのを、見た。
タクシン派が、市内で、火を点けているのだ。

何とも、異様な光景である。
現実感が無い。

バスは、高架道を走るので、見晴らしがいい。
そこで、見つけた場所がある。
子供たち、ストリートチルドレンが、暮らしている、場所である。

高架下の野原に、住んでいるのだ。
これは、覚えておこうと、思う。
次回、彼らを、訪ねて行くことにする。

バンコクを過ぎたので、眠ることにする。

気づいた時は、パタヤの郊外だった。

パタヤについては、何度も書いている。
タイ、最大の歓楽街である。
安全、安心な、歓楽街ということで、私の好きな街の一つである。

バスを降りて、タクシーで、いつもの、ホテルに向かう。
いつも、450バーツで、泊まることが、出来たが、今回は、繁忙期で、600バーツになっていた。

二泊する予定である。
そして、次の二泊は、南の方にある、ゲストハウスである。
有名な、ウォーキング・ストリート付近である。

要するに、カンボジア流民が、多くいる場所の近くである。

いつもの、ホテルだから、従業員とも、顔馴染みである。
更に、お客とも、顔馴染みの人がいる。

そして、昼ごはんを、食べるために、と、出掛けた。
久しぶりに、ビーフステーキを食べることにした。
勿論、安い店である。

二人で、その店に向かった。
それなりの、大きなビルに入っている店である。
ところが、閉店である。休みではない。閉鎖したのである。

入れ替わりが、激しい。
それでは、と、大きな通りに出て、中華料理の店に行く。
そこには、一度だけ、行くことにしている。
料金が高いからだ。

パタヤに滞在している、間の、一回のみである。

ただし、兎に角、料理の量が多い。

焼き飯を、案の定食べ切れなかった。
それを、タッパに入れてもらい、ホテルに戻る。

その通りを歩けば、必ず、物乞いなどがいる。
一人の、足の悪い女性がいた。

カンボジアと言うと、頷くので、焼き飯を渡した。
あなたの、友達は、どの辺にいるのと、尋ねた。
少し、英語が通じる。
両方にいるということ。
つまり、この通りを歩けば、彼らに会えるということだ。

私は、あとで、あなたにも、衣服を持って来ると、身振りで、言い、別れた。

大体、夕方から、夜にかけて、物乞いたちが、通りに出る。
また、ストリートチルドレンは、ビーチ沿いに多くいる。

今夜から、回ることにして、ホテルに戻った。

兎に角、暑いのである。
ペットボトルの水を、大量に買う。
五リットルのペットボトルの水を買い、それを、小さなボトルに、移しておく。

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