2010年07月15日

メーソート・ミャンマー難民を訪ねる

深夜バスで、九時間かかる。
それでは、大変だと、飛行機にする。

バンコクから、スコータイまで、エア・バンコクで、飛ぶ。
一時間と少し。
そして、バスに乗り、メーソートに向かう。

スコータイまでの、飛行機は、何の問題もなかった。
朝、七時の飛行機であるから、私たちは、朝四時に、起きて、出掛けた。

その前に、私は、バンコクで、暑さに慣れるために、四泊している。
また、バンコクで、カンボジア流民の親子に、衣服支援をしていた。

スコータイの、バス乗り場に到着して、その人の多さに驚いた。
何と、明日から、三日間、タイの三法祭という、お祭りがあり、皆、帰郷するという。

だから、バスは、満席で、乗れません、である。

私たちの、荷物は、大きなバッグが、三個、小さなバッグが、二個、そして、それぞれの、バックが、一つずつ。合計、七つのバッグなのである。

次のバスを待つことにした。
ところが、受付の、お姉さんが、混んでいるが、乗れると言う。
これ幸いと、乗ることにした。

そして、到着したバスは、満席であり、すでに、立っている人もいる。
更に、私たちの、荷物である。

バスの下の、荷物入れに、入らない。
おじさんは、両側のバスの、下を開けて、何とか、こんとか・・・不思議だが、入れてしまった。

ただ、入れた場所を覚えていなければならないと、思った。

乗車するが、座れる席は無い。
混雑する、バスの中で、立つ。
これが、また、大変に辛いものである。

だが、一時間程度で、降りる人もいて、漸く、席が開いた。
立つ人は、全員が座ることが、出来たのだ。

スコータイから、タークという、街に向かう。
時々、止まるので、約二時間ほど、かかった。

更に、バスは、二等エアコンバスである。
つまり、日本からの、払い下げのバスなのである。
乗り心地は、良くない。

タークに着いた。
兎に角、荷物である。
一つでも、忘れられない。

外は、熱風である。
私は、紗の着物を着ていたが、汗だくになる。
裸になりたい・・・

さて、そこからが、問題である。
メーソートには、ミニバスが、走る。
しかし、メーソート行きの、チケット売り場は、混雑の限り。
百名ほどが、並ぶ。
皆、帰郷する人たちである。

コータは、これじゃあ、乗れないと、いう。
しかし、ここに泊まるわけにはいかない。
今日中に、メーソートに行かなければならない。
そういう、予定である。

コータの、タイ語学校の、休みを利用して来ているのである。

すると、先ほどの、バスで一緒だった、おばあさんと、孫の二人連れが、私たちに、声を掛けた。

混んでいるから、娘に電話して、迎えに来るように、頼んだので、一緒に、乗せてあげるというのだ。

ありがたい、と、思った。

私は、バスの中で、男の子に、お菓子を、差し出して、食べていた。
席に座るのも、一緒だった。

ところが、メーソートの、広倉さんから、電話が入る。
そして、迎えに行きますと、いう。
また、小西さんからも、電話が入る。

私が、事情を説明すると、小西さんは、それは、勧められないという。
タイでは、何があるか、解らない。特に、タークから、メーソートの道は、山道であり、どこに連れられていかれるか、知れないし、身包み剥がされることも、あり得るというのである。

そんなことは、無いと、思うが、両氏が、心配するので、コータと、考えた。

ミニバスは、期待できないとすると、迎えを頼むか・・・
しかし、ここまで来て、また、メーソートに戻るというのは、大変なことだと、感じる。

私は、トイレに行った。
そこで、一台のタクシーを、見つける。

コータ、タクシーがいるよ
ちょっと、アンタ、交渉してみて

コータは、タイ語の会話は、ほぼマスターしている。

700バーツで行くといっている
少し、下げてくれと、言ってみて

戻ったコータが、それ以下に出来ないという。

ああああーーーーしょうがない、それで、行こう。

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2010年07月16日

メーソートへ 2

タクシーが、走り出したので、すぐに、小西さんに、電話をする。

タクシーに乗りました
えっ、大丈夫ですか。メーターは、ついていまか・・・
いや、料金を交渉して決めました。顔つきも、悪い人ではないと思います
そうでか・・・

不安そうである。
だいだい、その付近に、タクシーなどは無いのである。

それに、運転手の写真付の、ナンバーが掛けてあります
と、私は、小西さんを安心にさせるために、言う。

兎に角、気をつけてください

本当に、ありがたい、心配である。
何があるか分からないタイであるから・・・

その後で、運転手が、バンコクから来たことを、知る。
通りで・・・
空港から、人を乗せて、ここまでやって来た。そして、バンコクへ戻る人を、待っていたのである。

お金のある人は、バンコクの空港から、タクシーで、ここまで来る。

身包み剥がされないで、済んだ。
メーソートに向かう道は、確かに、山道、だんだらである。
体が、大きく揺れるカーブが多い。

日本の、横浜支部からも、心配の電話である。

大丈夫です。とんでもない、道を走っていますが・・・

だから、帰りのミニバスの時は、酷かった。
メーソートから、タークまでの、二時間、拷問のようであった。

麻薬のルートであるから、途中で、検問がある。
ミャンマー国境の町は、皆そうである。

タイ人は、認識カードを、外国人は、パスポートを提示する。

元首相の、タクシンが、麻薬撲滅と称して、徹底的に、調査、人を殺した町が、メーソートである。

無実の人、1800名ほどを、殺したという。
町自体を、崩壊させるような、規模だったというから、凄まじい。
しかし、それは、麻薬のルートを、わが手に、治めるための、方法だったことに、市民は、気づいた。

メーソートの人々は、タクシンを信用していない。
北部の町としては、他の、北部の町のタクシン派とは、異にする。

彼が、タイに戻れば、殺されるでしょうと、言う。
それほど、酷いことをしたのである。

それを知らず、タクシンを支援する人々は、洗脳されている。
更に、バンコクでの、デモでは、参加者に、お金が、支払われた。
特に、水商売の女たちには、日当、2000バーツである。

6000円とは、凄い。
日当であるから、それで、相当、金になったという。

タクシン派は、すべて、金である。
そこで、内部分裂も、起こった。
幹部だった、元陸軍出身の、男が、殺された。

最高幹部は、南部に、豪邸を建てて、悠々と暮らすという。
南部であれば、北部、東北部の人たちには、見えないからである。

タイ政府は、兎に角、タクシンを、捕らえて、法廷で、裁くことである。
虐殺の罪で、死刑が、相当である。

タクシーは、メーソートの、バス乗り場に、着いた。
そこからは、地元の、三輪車タクシーに乗り換える。

あらかじめ、ホテルは、決めていたので、ホテルに向かう。

ようやく、ホテルに着いたのが、夕方の四時頃である。
コータが、心配する、広倉さんに、電話をすると、すぐに、来るという。

着替えをして、広倉さんに、お会いする。
右手を、事故で、失った方である。

ホテル二階の、レストランで、お会いする。

兎に角、無事で・・・
心配かけました

初対面から、そのお人柄が、伝わる。
私が、追悼慰霊と、支援に来たことを、すべて、納得して、全面協力体制である。

予定を、申し上げる。
車の手配も、更に、回るところも、考えていらした。

難民キャンプは、沢山あるという。
私は、メラキャンプしか、知らない。だが、この雨季の時期に、メラキャンプに行くのは、とても、時間がかかるらしい。

それより、市内に、多くの孤児たちの施設や、世話をしている、団体があるという。そこは、支援が必要とのこと。
それで、私は、広倉さんに、お任せることにした。

明日の一日で、すべてを行う予定である。

広倉さんは、汗をかきつつ、お話する。
大柄な体格で、心も、大柄である。
私は、父親の時代の、人々を思い出した。
父親の時代は、こういう人が、多かった。人のために、一生懸命になる人である。

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2010年07月17日

メーソートへ 3

ここで、私たちの、活動のために、車を用意してくれたのが、最後の残留日本兵といわれた、中野弥一郎さんの、ご子息の方である。

広倉さんは、その、中野弥一郎さんと、友人だった。
家も近い。

この、中野弥一郎さんについては、本に書かれている。
様々な、マスコミの人たちが、彼を、追った。

しかし、私が目を通したものは、左翼的考え方を基本にして、彼を描く。
つまり、反日的考え方である。

だから、
誰も、天皇陛下ばんざいなどといって、死んだ兵士はいませんよ
などという、言葉が、軽々しく書かれる。

確かに、天皇陛下ばんざいより、かあさん、お母さんが、一番多いと、思われる。
更に、妻の名、子供の名・・・

当たり前である。

それを、あえて、天皇陛下ばんざいなどと・・・云々と、書く、ジャーナリストたちの、神経は、病んでいる。

私が、中野さんの家に行き、その遺骨の前で、慰霊の儀を行った。
その多くの写真の中に、昭和天皇の、お写真があった。
タイの、高僧たちと、並んでいた。

日本兵は、そして、当時の日本人の、天皇陛下に対する、思いを、今、現在の人は知らない。知るはずが無い。

天皇陛下が、存在しなければ、戦地を放棄したであろう。

こんな、馬鹿馬鹿しいことが、あろうかと、思ったはずである。
玉砕せよ、との、命令に、従わず、生きた者は、自決させられた。

実に、人の命が、軽い。
兵士は、馬以下だったという。

戦地で、上官に、人の命の尊さを訴えた、軍医などは、張り倒され、更に、自決を迫られた。

こんな、馬鹿馬鹿しいことが、あろうか。
人の命を、何と考えていたのか。
それを、天皇陛下を、利用して、語った軍部の、傲慢は、計り知れない。

天皇陛下について、という、エッセイで、私は、天皇陛下の、お姿を、書くので、そちらを、参照してほしい。

さて、中野さんの、ご子息の方に、朝、十時に来てもらうことにした。
そして、出来る限り、時間をかけずに、予定を終わらせることにした。

熱中症で、倒れては、更に、皆さんに、迷惑をかけると、思ったからだ。

それでは、ということで、広倉さんと、別れた。

私は、疲れて、ベッドに、横になった。
コータは、街の中を見てくると、出かけた。

少しして、私は、急ぎ、支援物資の整理をした。

回るところは、難民無料クリニックの、メータオ・クリニック、小学生、中学生の難民孤児院、ノーン・ブアデン、幼児の孤児院、バーン・メーパである。

メータオ・クリニックは、日本人の、支援団体が、行っている。
そこで、ボランティアをしている、女医さんにも、お会いする予定である。

バッグに、詰め直す。

勿論、いくらあっても、足りない。
後で知ることになるが、孤児院は、二十箇所以上あるという。

更に、難民キャンプも、十箇所以上あるという。
その中には、車で、四、五時間かかる、場所ばかりである。

中には、山の中腹にある、キャンプもあり、酷い貧しさにあるという。

それほど、多くの難民が、タイに逃れているのである。

ミャンマー軍事政権は、悪魔の、巣である。
少数民族は、家畜以下なのである。

その、悪行を、書くべきか、否か。

このまま、筆に任せる。

コータが、戻ってきた。

ちょっと、近くに食べ物屋ある
ホテルの並びにあるよ
じゃあ、夜は、そこで、食べよう。水も買いたい

その、ホテルの並びにある、地元の食堂には、毎日通うことになる。

兎に角、水は、大量に必要である。
脱水症状などに、なっていられない。

部屋では、エアコンで、汗はかかないが、一歩外に出ると、汗だくになる。
絶えず、汗をかく。
雨季だというが、あまり、雨に当たらなかった。

日本の、梅雨時期の似た、蒸し暑さであり、兎に角、暑い。
イスラムの、女性たちが、すっぽりと、体全体に、布を巻くのは、意味がある。暑さと、紫外線対策である。

私も、イスラム女性のように、布を、すっぽりと、被りたいと、思った。

そして、部屋では、リラックスするため、女性用の、ワンピースを買って、部屋で着た。
体全体を、蔽う、暑い国特有の、薄手の、布である。

日本でも、時々、それを着ている。
時に、荷物が来たときも、その格好で、出て、驚かれる。

もう、どうでもいい、年になった。

ただ、コータには、頼むから、住んでいる、マンション近くを、それで、歩かないで欲しいと、言われた。
日本の、変なレディボーイだと、思われるし、あんたの父親は、アレかと、聞かれるのは、困るという。
一応、コータと、私は、親子である。
法律上も、親子。
だが、コータは、私を、先生と呼ぶ。
それも、皆が、不思議がる。

それも、どうでもいい。

この世は、どうでもいいことが、多すぎる。


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2010年07月19日

メーソートへ 5

まず、向かったのは、難民の無料診療、及び、入院看護をする、メータオ・クリニックである。

丁度、日曜日であり、医師、看護士は、お休みである。
それは、残念だった。

しかし、入院病棟に私たちは、向かった。
といっても、ただの、小さめの、体育館のような建物。

そこに、入院患者と、それを、世話する人たちがいる。

準備していた、大人、子供用、更に、タオルを入れた、バッグを開ける。

入り口に、陣取ったが、そこに、人が集まる。
手に取ったものから、手渡す。

手渡す、これが、私の方法。
手渡して、差し上げる。

皆さん、神妙に、笑顔もない。
その、苦境の生活が、身に沁みて感じられる。

無料だから、来ることが出来る。
そこには、希望が無い。

笑う力も無いのである。

私は、中腰で、物を取り出して、渡していたので、ついに、腰が、怪しくなってきた。
あーーーいたっっっっっ
と、腰に手を当てた。その時、人々が、少し声を出して、笑った。

もう一度、私は、同じ仕草をした。
すると、また、笑い声である。

ああーーーー
私は、最後に、タオルを取り出した。
それが、とても、喜ばれた。
皆が、手を出す。
決して、奪い合わない。

その手に、私は、タオルを、渡す、渡す、渡す・・・

すべて、差し上げた。
バッグを、片付ける際に、一人の男性が、手伝った。
無言である。

だが、心の思いは、十分に伝わった。
彼らを、憐れむ気持ちなど、微塵も無い。
ただ、有るところから、無いところへ、運んだだけである。

タイ語も、分からない私は、ビルマ語も、当然分からない。

そして、私が、それを行うのを、広倉さんと、中野さんが、じっと、見詰めていた。
決して、手出しは、しなかった。

コータ、写真、写真
大丈夫、どんどん、渡して

それでも、私は、バカチョンカメラで、撮った。
皆さん、仲良く写ってくれる。

コープクンカップ ありがとう
私の知る、タイ語の一つである。
何とも、情け無いが、それしか、言えない。

平倉さんが、今日は、日曜で、職員が、居ませんと、言うが、私は、大丈夫です、次に、来た時、お会いしますと、言った。

最後は、日本語で、さようなら、である。

また、来ますね

次は、クリニックから近い、中野さん宅に向かう。

中野弥一郎さんの、遺骨に、慰霊するためである。

最後の日本兵と、言われた中野さんは、マスコミを嫌ったという。
平倉さんが、教えてくれた。

私は、普通の人間で、特別なことはしていないと、いつも、言っていたという。

私は、居間に通されて、即座に、神呼びを、行った。
御幣は、中野さんの庭先の、枝を貰って、作った。

その間に、家族が、集まっているのを、私は、知らない。
私は、兎に角、数霊を、唱えて、中野さんの、霊位に対座した。

うーーーーとか、おーーーーとか、皆さん、驚いたと、思う。
音霊による、慰霊の所作である。

最後に、清め祓いをした。

沢山の写真が、掲げられてあった。
中野さんの、お母さん、お兄さん、そして、タイの高僧たち、更に、昭和天皇のお写真である。

気づいた時、おじさんという人や、中野さんの息子さんの、奥様まで、揃っていた。

彼らは、日本語が、分からない。
平倉さんは、来年、遺骨を、中野さんの、古里、新潟の、小地谷にもって行くと言う。

日本に、帰りたいと、言っていたという。
当然である。
古里は、古里で、ある。

それを、運ぶという、平倉さんも、あまりに、善良な人柄である。
これについては、後で少し、説明することにする。

私たちは、即座に、立ち上がり、失礼しますと、家族の皆さんに、告げた。

そして、また、車に乗り込む。
すると、平倉さんと、中野さんの、奥さんが、車の、荷台に乗るではないか。

それは・・・
いいえ、いいんですよ
奥様が、真っ当な英語で、答えた。
実に、素晴らしい発音である。

コータは、英語で、奥さんと話し、中野さんとは、タイ語で、話した。

私は、平倉さんと、日本語である。


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2010年07月20日

メーソートへ 6

次に、向かうところは、ミャンマー難民の、孤児たちの家である。
小学生から、中学生までの、おおよそ、70名が、暮らすという。

ノーンブアデン孤児の家である。

車が、山の中に入る。
そして、細い、林の中を通る。
こんな、山奥に・・・

ようやく、建物が、見えてきた。
中野さんの、説明によると、フランスの団体が、食料支援をすることから、はじまったという。

住まいと、学習する、建物がある。
だが、写真を見て欲しい。
建物といっても、皆、手作りである。

まず、二三人の子供の姿が、見えた。
今日は、日曜であるから、皆、建物の中に入っているのか・・・

平倉さんと、奥様が、早速降りて、施設の代表の、女性と、話し始めた。

誰が、声を掛けたのか、子供たちが、続々と、集まってきた。

サワディー・・・
だが、誰も、声を上げない。
子供たちの、顔は、神妙である。
更に、笑わない。

私は、早速、バッグを開けて、支援物資を、出した。
ここでは、奪い合いはないと、それぞれの、大きさの、シャツを、木製のテーブルの上に出した。

好きなものを、取ってくださいーーー
私の日本語を、コータが、英語に、そして、中野さんの奥様が、タイ語にし、代表の方が、ビルマ語にした。

子供たちは、静かに、衣服に手を出す。
矢張り、小さな子供たちからである。

大きな子供たちは、その背後にいて、見詰めている。

私は、今回、子供用の、靴を、多く持参した。

その、靴を子供たちの前に、並べた。
さあー、自分に合うものを、取ってください。

英語、タイ語、ビルマ語に、訳されて、子供たちに、伝わる。

いよいよ、子供たちが、動き出した。
靴である。
日本の靴。

履いて、歩くと、光を放つ靴もある。
子供たちは、驚いて、少し歓声を上げた。
それも、小さな子供たちである。

大きな子供たちは、騒がないし、冷静である。

次々と、私は、物を出した。
三枚の、子供用の、毛布を取り出すと、後ろの女の子が、手を挙げる。
何という、子供たち・・・

すると、また、手を挙げる子がいる。
次々に、手渡す。

一番の、感動は、ぬいぐるみ、だった。
何も無い場所・・・・

私が、沢山の、小さな、ぬいぐるみを、取り出して、頬に当てて、一緒に寝てくださいと、表現した。

小さな手、手、手である。
私が、渡すまで、待っている。
後ろのほうからも、前に出てきて、手を、出す。

一人一人に、手渡す。

それにしても、後ろにいる、大きな子供たち、中学生であろう、どこかで、見た、表情である。
思い出した。
オーストラリアの、アーネムランドの、アボリジニの中学、高校生の、顔である。

自分たちの、現状を把握し、絶望した、表情である。
彼らは、自分たちには、国籍も無い、親も無い、そして、未来が、全く見えない・・・
それを、知ったのである。

アボリジニの大きな子供たちも、絶望感が、漂っていた。
私たちの、民族は、もう、駄目だ、希望などない・・・という、悟り。
仕事も無い。ただ、政府が、出すお金で、暮らしてゆくだけ・・・

ミャンマー難民の孤児たちの場合は、それより、悪い。

兎に角、その場から、動くことが出来ない。
国籍が無いのであるから、その町から、出られない。
そして、何も出来ないのである。

更に、諦め。

ぬいぐるみを、差し上げた後で、子供たち、小さな子供たちに、微笑みが、あった。

私は、日本語で、また、ここに来ます。待っててください。また、沢山の、プレゼントを、持ってきますと、言った。
それが、英語、タイ語、ビルマ語に、訳されて、子供たちに、伝えられた。

私が、片付けでいるのを、子供たちは、静かに見ていた。
そして、解散である。
中野さんも、平倉さんも、後ろで、それを、見詰めていた。
奥様が、色々と、気遣い、通訳、写真まで、撮ってくれた。

そして、私に、英語で、もっと、小さな子供たちの、施設に、行きましょうという。
幼児用もあり、それは、大賛成だった。

その後、平倉さんが、学校というか、学習する建物に、案内してくれた。
その、屋根である。
大きな、葉を使い、屋根を作っている。

山から、大きな葉を、取ってきて、このように、屋根にします。乾くと、ある程度固まり、雨漏りは、しません

机も無い。
ただ、敷物を敷いただけの、部屋。
小さな黒板がある。

白人の先生が、二人来ています
そうですか

私は、日の丸を掲げて、写真を撮った。

うーんと、唸るだけ。

次は、慰霊碑に行きますと、平倉さんが、言う。

代表の方に、挨拶して、私たちは、車に乗り込んだ。

さようなら
何人かの、子供たちに、声を掛けた。
手を振り、見送ってくれた。

また、林の中を、車が走る。
その時、別の車が来た。
あれが、食料を運んでいる、車ですと、中野さんが、言った。

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2010年07月21日

メーソートへ 7

カレン族と、共に戦った、日本人三名が、奉られる、自由戦士の碑に、向かった。
大きな道路に出た時、小雨が降ってきた。
ということは、スコールか・・・

スコールになれば、一時間ほどは、外に出られない。
困ったと、思った。

車は、ミャンマー国境の、ミャワディー川に、向かっているという。
戦場であった、その前に、碑を建てたのだ。

ある寺の前に来た。
その前に、慰霊碑がある。
まだ、小雨である。

車から降りて、私は、即座に、慰霊の儀を執り行う。
スコールが来ても、続けるつもりだった。

神呼びを、行い、祝詞を献上する。
神呼びで、空を見上げて、太陽の位置を、確認した。
その時、何と、雲間から、薄く、太陽の光である。

ああ、いつものことだ。

そして、雨も止んだ。

長い祝詞である。
最後に、お送りの、音霊による、霊位の自由を求める、所作である。
そして、清め祓いをする。

私の力ではない。
皇祖皇宗、天津神、国津神、八百万の神、そして、地場の、産土の神の、力である。

早々に、終わり、平倉さんから、説明を受けた。

一人は、戦死である。
味方の兵を助けるために、敵の、陣地へ向かい、味方の兵を、連れてきたとき、砲弾を受けた。四日間生きていたが、息を引き取った。
そして、二人は、マラリアによる、死である。

砲弾で亡くなった方は、青森県出身の若者である。

次に、川に向かい、平倉さんが、目の前を指して、こちらが、カレン族部隊、川の向こうの、小高い山が、ミャンマー軍の基地だったという。

この川、すぐ渡れそうですね
と、私がいうと、
ええ、昔は、よく渡っていましたよ
と、答える。

ミャンマーが、目の前である。
確かに、小船でも、泳いでも、渡れる。

そのうちに、空の雲が、薄くなる。
雨がすっかり、上がった。スコールは、来なかった。

コータに、御幣を川に、流してもらう。

どうだった
一二三で、沈んだ
ああ、そう

流れても、沈んでも、いい。
私の祈りが、通じれば・・・

川の流れを見詰めつつ、平倉さんの話を、聞いた。

ミャンマー軍事政権の、横暴さと、少数民族に対する対応などなど・・・

本当に、どうしようもない国ですよ

要するに、国民を敵と、想定しているのである。
特に、独立を目指して、戦った、カレン族に象徴される、差別と、弾圧は、非寛容である。
時々、政治犯として、捕らえて、10年以上も、刑務所に、監禁し、日常的に暴力を加える。大半の人が、障害者になるという。

人権などという、意識は、無い。

その、ミャンマーを支援し続けるのが、中国である。
更に、最新の情報では、ミャンマーで、商売をするためには、中国語が、必要不可欠だという。
どういうことか。
経済活動が、中国人に乗っ取られているということだ。

私は、個人的に、中国人に、恨みなどはないが、あの、民族は、他国に、入り込んで、その国の、システムを、滅茶苦茶するのである。

更に、軍事政権の幹部たちを、抱き込めば、好き勝手のし放題である。

私が、ヤンゴンに出掛けたときに、頻繁に停電が起こったが、あれも、意図的なものだったという。
今も、そうである。
ヤンゴンの都市機能を、麻痺させる。

国が、最大の都市を、壊滅させるという、神経は、ただ事ではない。
要するに、支配しやすくするのである。

今回、国境が、閉じられた。
選挙のための、政情不安を、外国人たちに、見られたくない。
更に、私のように、政権を批判する、文書を書いて欲しくない。

すべて、ベールの中に、包み込んでしまいたいのである。

メーソートの町に、どんどんと、少数民族が、入ってくる。というより、逃れて、やってくるのである。
勿論、着の身着のままである。

これは、他人の、他国の問題であり、関係ないこと・・・
そう思えば、思える。
私は、追悼慰霊をするために、皆さんと、縁して、支援をしている。
だが、そこから、国際社会というものを、見る目を養った。

人は今、アメリカの衰退をいい、中国の台頭をいう。
だが、一瞬身たりとも、停止していない。
動いている。

同じ状態は、続かない。

中野さんの、奥様が、私の知り合いの、幼児を預かる、孤児たちの家に、行きましょうと、誘う。
是非、御願いします。


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2010年07月22日

メーソートへ 8

次の場所は、ミャンマー難民の、幼児用の孤児の家である。
バンメーパという、名前の家である。

ところが、迷った。
複雑な道で、奥様も、分からなくなった。
何度も、行きつ戻りつを、繰り返した。

私も、どこを、どう走っているのか、分からなくなった。

電話で、中野さんと、奥様が、問い合わせている。
そして、ようやく、出た。

住宅街の、込み入った、中にある。

丁度、昼ご飯が終わり、子供たちは、お昼寝の時間だった。
静かである。

若いスタップの、男の子が、玄関の扉を開けてくれた。
そういう、スタップが、五、六人いた。
彼らも、孤児である。

代表の、女性と、男性が、歓迎してくれた。

女性が、私たちを、子供たちの、寝ている部屋に案内してくれた。

そこで、写真を撮らせてもらう。

およそ、40名が、暮らしている。
その資金は、男性のお兄さんが、毎月、シンガポールから、三千バーツ、六人円を、仕送りしてくれているという。
勿論、それでは、足りない。

私は、すべての、支援物資を、出した。
多くは、幼児物であるが、中に、大人物もあった。

兎に角、すべてを、出して、見て貰い、必要ですかと、尋ねた。
女性は、必要ですと、言った。

更に、私は、次は、どんなものが、必要ですかと、尋ねると、寒い時期の、衣類ですという。

山間部は、十月後半から、一月まで、寒い時期が、続く。
それが、更に、寒さが、増しているのだ。

タイだけではない。
ベトナム、ラオスも、そうである。
中国国境地帯は、寒冷化が、進む。

寒さによる、死者も出ているが、そんなことは、報道されない。
更に、悲しいことは、今まで、寒さに慣れていない人たちであるから、防寒の、備えが無い。

タイ、北部、東北部にも、必要なのである。
毛布もないというから、子供と、お年寄りは、大変だと、聞いた。

ここで、温暖化と、寒冷化について、語ることは、避ける。
科学者も、意見が分かれるのだ。

さて、衣類を出し終えると、甘いコーヒーが、出た。
とても、美味しく感じられる。

汗で、塩分と、糖分が、流れてしまう。
コーヒー牛乳のような、コーヒーである。

そこで、色々と、話がはじまった。

もう、この家では、限界だという。
階下には、障害を持つ子供たちも、数名暮らしているという。

男性は、別に、家を、持ちたいといった。
しかし、資金は無い。

だが、このような、施設、家は、メーソートに、沢山あると、平倉さんが、教えてくれた。

子供の施設だけでも、多数あり、すべての、施設では、支援が必要であるとのこと。

タイ政府は、見て見ない振りをしている。
違法入国であり、しかし、人道上、排除も出来ない。
それに、バンコクからは、離れている。

だが、タイ政府の、曖昧さは、北朝鮮の、脱北者たちも、助けている。

東北地方の、ある町を目指して、脱北者が、来るのである。
更に、チェンマイには、彼らを支援する、団体もある。

それに、タイ政府も、それ以上のことは、出来ない。
タイ人、特有の、曖昧さが、救いとなる。

次に来る時は、寒い時期の、衣類も、もって来ますと、私がいうと、二人の代表が、とても、喜んだ。

誰かが、助けないと、やってゆけないのである。
街の中には、ミャンマー人も、大勢暮らす。その人々からの、支援もある。

中野さんの、奥様も、ミャンマー人であり、少数民族の出である。

更に、街の中には、インド系の人たちもいる。
皆、ミャンマーから、流れてきた人たちであろう。

対岸の、ミャンマーの建物と、タイ側の建物は、明らかに違った。
全く、別物である。

ミャンマー側の、国境の町、ミャワディーは、観光客が、回れる部分だけは、整然と、整理されているが、それを抜けると、とんでもなく、貧しい。
観光客には、化けた部分だけを、見せているのである。

私は、コーヒーを飲み終えて、それで、また、来ますと、立ち上がった。
お手伝いの、女の子たちも、挨拶に来た。
皆と、写真を撮る。
知り合いの、子供たちと、会う感覚である。

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2010年07月23日

メーソートへ 9

最後に、障害を持つ子供たちの、部屋を見た。

二人の男の子は、起きていて、将棋のようなことを、していた。
後の三人は、寝ていた。
皆、中学生くらいの年である。

単なる、孤児ではなく、障害があるとたら・・・
生きるに、大変厳しいものがある。

二人の男の子と、写真を撮った。
さようなら
ニコニコ笑っている。

すべてを終わって、街に向かった時は、二時を過ぎていた。

ホテルから、朝、十時に出て、四時間を費やして、終わったのだ。

その後は、皆で、食事をしたいと、言うと、平倉さんが、それではと、お店に、向かってくれた。

皆で、食事するには、丁度よい、中華料理の店である。
大きなテーブルに、五名が、ついた。

色々なものを、注文した。
その中で、私の言葉が、唯一通じたのが、麻婆豆腐である。

その他は、平倉さんが、注文してくれた。

私が先に、箸をつけると、皆さんが、取り分けはじめた。

それから、英語と、タイ語での、会話である。
私は、平倉さんと、日本語で、会話した。

その際に、タクシン元首相の話しになった。

この町を、潰そうとしたのです、という、驚きの話だった。
麻薬撲滅と称して、麻薬密売ルートを、独占するために、無実の人を、1800人、殺した。即座の射殺である。
一説には、1200人ともいわれる。

兎に角、無実の人が、千人以上、殺されたということ。

麻薬撲滅と称して、自分のルートを作ろうとしたこと。
驚いた。

中には、本当に、麻薬密売をしていた、日本の山口系暴力団の、男もいたという。

彼が、タイに戻ると、殺されますよ
と、平倉さんが言う。

そのような、裏の話しは、表に出ないことになっている。

すべてを、金で、解決していた、首相である。
何でも、金で、肩がつくと思っていたのだ。
自分の票も、金で買う。

タイ、北部と、東北部には、ばら撒き財政を、展開して、支持を得た。
今でも、タクシンは、素晴らしいと、思い込む人々がいる。

タクシン派の、人々は、洗脳を受けているようなものだった。
知識の無い、人々を集めて、国民の権利を主張すべきである・・・等々の、話しを、繰り返し、聞かせる。
そのうちに、人々は、真実そう思うようになる。
そして、金を配られる。

その幹部たちは、その金を自由に、我が物として、使う者もいた。
そして、幹部の内部抗争である。

共産主義者がやるような、愚かなことをしたのだ。

タクシンは、最後は、大統領制への、伏線を張る。
当然、王室擁護のタイ人は、立ち上がった。

タクシン派も、反タクシン派も、王室擁護の人が多い。
それで、タイ王国は、継続していた。

色々な民族がいる。それを統一するために、王室、王様が、一番理想的な、存在なのである。
それが、タイという国である。

タイ王室は、200年程度の伝統である。
しかし、それは、かけがえないものなのである。

タイの、何処へ出掛けても、国旗と、王様の旗を、掲げている。
一般市民たちも、である。

更には、市民の家に、王様の、お写真が、掲げられる。

三年前の、憲法改正の時に、王妃によって、宗教の自由が、奨励された。
仏教国でありながら、宗教に寛容を、示した。

日本の、新宗教である、創価学会、真如苑、救世教などの、布教も、盛んに行われている。
更には、プロテスタント系の、キリスト教である。とても、盛んである。

私は、そのどれも、お勧めできない・・・

タイの伝統とも、言うべき、上座部仏教に対する、敬意があって、はじめて、タイ国における、布教が成り立つ。
しかし、我らが、唯一と、なってしまうと、混乱を招く。

キリスト教は、特に酷い、悪魔から出た宗教であると、堂々と、上座部仏教を、攻撃するのである。

さて、食事の最後に、私は、立ち上がって、ジャパニーズ、スタイルといい、皆さんに、深く、お辞儀をした。
すると、奥様が、今日は、とても、良いことをしましたと、言う。

中野さんは、いつでも、車を出しますと、言う。
次も、是非、御願いします。

この、お三方が、いなければ、このように、スムーズには、進まなかった。
本当に、感謝である。

そして、平倉さんが、船便で、荷物を送ってください、そうして、こちらに来て、渡してくださいと、申し出てくださったので、それでは、テラの会支部になって、いただけますかと、尋ねると、ええ、いくらでも、協力しますと、仰ってくださった。

そして、奥様に、必要なら、お送りした支援物資を、必要な場所に、渡してくださいと、申し出ると、解りましたと、受けてくださった。

更に、私たちが、明日、乗るべき、ミニバスのチケットを、平倉さんが、取ってくださるという。
それも、朝一番で、取りますと、言う。
混雑していれば、取れないからだ。

私は、父親の時代に見た、人たちを、思い出した。
人のために、進んで、献身的に、生きた人たちである。

今、日本に、こういう人がいるだろうか・・・と。


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2010年07月24日

メーソートへ 10

ホテルに戻り、ホッと一息。
食事をしたせいもあり、疲れが、ドッと出た。

四時間のうちに、駆け足で、回ったのである。

シャワーを、浴びて、着替える。
しばらく、ベッドに、横になった。

とても、充実した気持ちである。

皆で、食事をすると、腹いっぱい食べてしまう
それを、コータに言う。

僕も、いっぱいになった
二人で、しばし、沈黙。

昼に、これほどの量を食べると、夜はいらないと、思う
が、短い日程のせいか、街に出たくなる。

コータは、マッサージに行きたいと言う。
通って来た道沿いに、マッサージ屋があったらしい。

だが、歩くのが、面倒だ・・・

私も、夕暮れを過ぎないと、外に出たくない。

部屋の扉を開けて、タバコを吹かす。

そして、夜を待つ。

その間、今日、巡ってきたところを、回想する。

薄暗くなり、ホテル並びの食堂に出た。
明日の朝で、こことも、お別れだ。
明日は、スコータイまで、出なければならない。
そして、一泊して、翌朝の、飛行機で、バンコクである。

翌朝も、同じ食堂で、朝ごはんを食べた。

平倉さんが、ホテルに、迎えに来てくれた。
バイクタクシーを、二台連れてきた。

私たちは、それに乗り、バス停まで行く。
何から、何まで、平倉さんは、手順がよい。

バス停では、12:30発のミニバスに乗る。
ところが、それが、1:00に変更である。

平倉さんには、申し訳ないので、戻ってもらった。

最後の写真を撮る。
娘さんも、一緒だった。
何枚も、記念写真を撮る。

それで、さようなら
ありがとうございました
また、来ます

コータが、再度、受付に行き、中の、おねえさんに、確認する。
驚くべき答えである。

まだ、車が来るかどうか、解らないの
えっーーー
解ったら、教えるわ
えっっっっっっっ

12番乗り場で、待っていて
ということで、12番乗り場に、向かう。

実に適当である。
だが、これが、タイの田舎。

一時間を過ぎても、バスは、来ない。
1:30頃、別の乗り場に、一台の、ミニバスが来た。
そして、おじさんが、何か叫んでいる。

コータが、チケットを持って、おじさんに、見せた。
そのバスだった。

乗り場も、適当。

バスは、満席である。
一番後ろの席に座る。

そして、発車した。
街の中を走り、もう一つの、乗り場で、また、三名が乗り込んでくる。
ぎゅうぎゅう詰めである。

この、体勢で、二時間の山道を、走った。
とても、疲れた。

ミニバスは、スコータイ行きであるから、一度、タークのバス停に、着いて、数名が降りた。それで、少しは、間が空いた。

また、二時間、乗るのかと、思いきや、運転のおじさんは、山道を抜けたので、猛スピードで、走り始めた。

高速道路を走るようである。
どんどんと、追い越しをかける。

思った以上に早く、スコータイに到着した。
安堵。

バス停から、ソンテウという、トラックを改造した車に乗り換えて、ゲストハウスに向かう。
そこは、あらかじめ、決めていた。

バスの中で、とうきびを二本食べて、お菓子を食べたので、昼飯は、いらない。
ゲストハウスに着いて、しばし、お休みである。

部屋の中では、禁煙である。
もし、それが、見つけられたら、2000バーツの罰金とある。

それでも、私は、タバコをふかした。
後で、解らないように、工夫した。
コータは、呆れて、見ていた。

実は、私は、タバコも、酒も、あまり好きではない。

すると、飲むもの、吸うものが無いのである。

水を飲んで、指を吸えばいいとは、誰も言わない。
アマチュア作家の私は、タバコが、実に、体によい。

合法ドラックである。
更に、である。タバコは、税金が、大半である。
間接的に、消費税を、払っているようなもの。
国に、凄く、貢献している。


posted by 天山 at 00:00| メーソートへ 平成22年7月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月25日

メーソートへ 11

スコータイで、何をしたか。
何もしない。
遺跡の観光地である。

ゲストハウスの、お客は、皆、観光客だった。

私は、コータと、夜の食事をとめため、地元の食堂に出掛けた。
お洒落なレストランも、多々ある。
観光客のために、出来たものだ。
しかし、全く、興味がない。

一食、百円程度の、ご飯を地元の、食堂で、食べる。そこに、私は、意味がある。

観光には、興味が無い。
そんな時間は、無い。

その時、私は、考え続けていた。

ミャンマー難民キャンプ支援のことである。

キャンプは、沢山あるという。
それも、多くは、山間部である。

山の中腹にも、キャンプがあると、教えられた。
メラキャンプは、有名であり、知っていたが、その他にも、多々あるとは、知らなかった。

そのキャンプの中での、生活は、とても、想像できないものである。
山から、山菜を採ってきて、売る。大きな葉を採ってきて、屋根を作り、僅かな、金を得る。

支援の無い、キャンプは、それはそれは、貧しい。

私は、チェンマイから車で、行く方が、近いキャンプもあると、平倉さんから、教えられた。
それでも、四時間、五時間は、かかる。

そして、山道である。

到着しても、しばらく、動けないだろう。
しかし、宿泊施設がないので、日帰りしなければならない。

とても、体力がいる。

実は、チェンマイから、車で、五時間のところに、少数民族の子供たちが、寝泊りしている、学校があると、聞いた。
そこにも、支援物資を、持参したいと、考えている。

荷物を持って行くのだから、普通の車では、駄目である。
大型車が、必要である。

十月には、チェンマイに、慰霊と、支援と、コンサートのために、出掛ける。しかし、その時は、それで、予定が、限界である。

そして、更に、多くの支援をするとしたら、船便にて、チェンマイに先に送るということも、考える。

だが、私の頭の中には、タイだけの話ではない。

カンボジアの孤児たち、ラオスの山間部への、支援、ベトナムの北部地方への、冬物の、支援。

ミャンマー北部の、アカ族への、支援も、考える。
ミャンマーは、マンダレーにて、追悼慰霊もしたい。

インパール作戦で亡くなった、兵士の遺骨が、その山の中に、散乱し、すでに、土と、化したものもあるだろう。

インドネシアの島々への、慰霊と、支援。

そして、ニューギニアである。
追悼慰霊は、長期に渡る。
ラバウルからはじめて、ニューギニアの、東海岸線を、慰霊して、回る。
そして、支援もする。

とうてい、一人で、出来ることではない、が、やもうえない場合は、単独行動である。

更に、皆の太平洋の島々への、追悼慰霊である。

パラオでは、砂浜と、遺骨が、混じり合っているという。
ペリリューでは、玉砕である。

死ぬまでに、出来るだろうか・・・

そんなことを、考える。

私は、建物や、団体を作るつもりは無い。
今ある、建物や、団体を支援しなければならない。

学校などを建てるのは、簡単である。
しかし、それを維持する、持続するということが、どんなに大変なことか。

だから、今ある、それらの施設に、支援することであると、思う。
それが、私の方法である。

そして、それなのに、私は、南アジアへも、活動を広げようとしている。

インドから、ネパール、バングラディシュ、パキスタン・・・

支援するべき、場所は、限りない。
しかし、今こそ、日本の心を、アジアに、世界に示すべき時である。
大和心、である。

和の心
つまり、争わない、分かち合う心

私の、死に場所は、そこにある。
死に場所を、見つけた私は、実に、幸せである。
着物を着て、日の丸を持って、歩く。

posted by 天山 at 00:00| メーソートへ 平成22年7月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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