2010年09月01日

あらっネグロス島へ

今回の、旅の主たる、目的は、フィリピン、ネグロス島における、戦争犠牲者追悼慰霊である。

セブ島直行便にて、セブ島から、その隣の島の、ネグロス島へ出掛ける予定だった。

勿論、衣服支援も、行う。
それは、セブ島、ネグロス島の、両方である。

ところが、とんでもない、間違いを犯した。
ネグロス島の、バコロドという町の近郊、シライ市という場所に、2008年に、日本の円借款によって、空港が建てられた。
私は、その空港から、シライ市にある、シライ川にて、激戦地だった、その山中の皆様の、追悼慰霊を行う予定だった。

飛行機のチケットを買う時に、私は、当然、バコロドに行くものと、納得していた。
ところが、その翌日、コータが、チケットを見ていて、行き先が、ネグロス島の、南の町、トゥマゲッティであることが、分かったのである。

えっ

バコロド行きではないの・・・
じゃあ、バコロドの空港は、閉鎖されているの・・・
船で、行くしかないのか・・・

それも、思い込みであった。
その、チケットを扱う、旅行代理店は、バコロド行きのチケットを、扱っていないだけだったのだ。
それも、知らなかった。

ネグロス、イコール、バコロドと、思い込んでいた。

しようがない、トゥマゲッティに行くことにした。
これも、何かの意味があるのだうろうと、良いほうに、考える。

そして、ネグロス島に行く朝、四時に起きて、空港に行くと、唖然・・・
バコロド行きがあるではないか。
それも、朝の、八時半の便である。

コータ、変更できないか、聞いてきて・・・
だが、24時間前まででなければ、変更は、効かないと、言われた。

ため息 ため息 ため息である。

飛行機に乗り込んで、私は、寝た。
30分ほどで、トゥマゲッティに到着する。
低空飛行になったとき、私は、窓の外を見た。

美しい。島々が、実に、美しいのである。

トゥマゲッティで、三泊することになる。

フィリピン、ビサヤ諸島は、日本軍の、戦の場であった。
セブ島には、最初に上陸している。
ネグロス島では、激戦である。
そして、その、隣のパナイ島にも、基地があった。

フィリピンの島々を舞台に、日本軍は、連合軍と、戦ったのである。

後半、ネグロス島の、戦禍を少しばかり、紹介する。
次回の旅の日記には、じっくりと、深く、その戦いの様を、紹介することにする。

兎に角、とんでもない、間違いを犯して、この旅が、はじまった。
とはいえ、めげている、暇は、無い。

セブ島にても、衣服支援をし、更に、色々な情報を耳にした。
目に入るものは、すべて情報である。
だから、とても、疲れた。

単なる、観光旅行であれば、目にするものを、無私する。しかし、私の旅は、いつものように、様々なことを、見聞して、考える旅である。

テーマー別にして、この旅日記を、書くことにする。

セブ島までは、五時間である。
いつもの、飛行時間より、短い。

薬を飲んで、飛び立つ前に、眠ってしまう。
食事の時間になると、目覚める。
そして、また、眠る。
それが、一番である。

セブ島は、観光地であるが、その場所は、セブシティではない。
セブシティと、橋で結ばれた、マクタン島が、名目上、セブ島といわれる。
観光客は、セブシティに入ることは、あまりない。

その、マクタン島には、最後の一泊だけ、過ごした。
確かに、観光地である。
ある一部だけは。

ところが、驚いた。
別の場所には、スラムが、広がる。
それも、海の上まで、張り出した、長屋のような、家々である。

漁業を営んでいた、少数民族の人たちだと、知る。
更に、彼らが、海上で、物乞いするのを、見た。

セブシティの港に入る、船に、小船で、近づき、乗船する客に、物乞いするのである。
コインを、投げると、全裸の男の子たちが、海に潜り、そのコインを拾う。

そして、それを、海に投げ入れた、客に見せる。
一つの、ショーのようだった。

その貧困の様は、表現できない。
次に、出掛けたときは、その、海に突き出た、長屋のスラムに、支援に行くことにする。

観光地と、隣り合わせのような、全く別な世界を、見た。

何故、魚を捕ることで、生活が出来ないのか。その疑問も、解明したいと、思った。

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2010年09月02日

あらっネグロス島へ 2

通常、セブ島といえば、セブシティから、突き出た、マクタン島のことをいう。
そこは、観光地であり、ビーチ沿いに、ホテルが立ち並ぶ。

私たちは、マクタン島ではなく、セブシティに、直行した。
ホテルは、街中を避けて、街の北寄りにある、ホテルにしていた。

一泊、900ペソ、1800円のホテルである。
ホテル周辺は、静かだった。
そこで、二泊し、ネグロス島への、飛行機のチケットを予約し、もし、必要なら、その地区でも、衣服支援をする予定だった。

フィリピン料理は、不味いと、思っていたが、セブ島に来て、その思いが、変わった。
意外に、薄味で、食べられるものである。

ホテル近くの、120ペソ、240円での、食べ放題の店に入った。
驚くべき、安さであり、更に、品揃えが、豊富で、驚いた。
私は、二食分を食べた。

その日は、それで、終わり。
翌日に、旅行代理店のある、ロビンソンデパートに、出向いた。

その時、道端で、寝ている、二人の男の子、ストリートチルドレンを見た。
私は、後で、彼らのために、衣服を持ってこようと、思った。

急ぎ、ネグロス島の、チケットを予約する。
その時、私は、ネグロス島の空港は、バコロド空港のみと、思い込んでいた。
その空港は、2008年に、日本の円借款により、建設されたものである。

ところが、その旅行代理店では、バコロド行きのチケットを、扱っていないのである。だが、それに気づかない。
兎に角、ネグロス島一本やりである。

6日に、行き、9日に、戻る。
そうして、予約した、チケットの内容に、気づいたのは、後のことである。

トゥマゲッティという言葉を、何度か、聞いたが、それが、空港のこととは、理解しなかった。
よく解らない英語だと思い、オッケーを繰り返していた。

さて、急ぎ、ホテルに戻り、男の子の、衣服を持参して、また、ロビンソンに、戻ろうとした。
ところが、通りを歩く、目の前を、五人のストリートチルドレンが、現れた。

そこで、すぐに、手渡すことにした。
彼らは、見つけた時でなければ、渡せないのである。

とても、喜んだ。
二人の少年の、ズボンは、破けて、一人は、チンチンが見え、もう一人は、尻の半分が見えた。

ところが、二人分として、持参したので、足りない。
そこで、彼らに、ここで待っていなさいと、言い、再び、ホテルに戻り、バッグに、多くを詰めて、戻った。

歓声を上げて、喜ぶ。
年は、見た目、八歳から、十歳程度である。だが、栄養不足で、見た目より、年齢が高い場合がある。

一通り、衣服を渡すと、少年の一人が、腹が空いていると言う。
そこで、じゃあ、何か食べ物をと、思った。
すると、また、少年が、すぐ近くに、食堂があるという。

そこに、行くことにした。

地元の人たちの、食堂である。
彼らを連れた、私たちを、食堂の、若い女性が、怪訝な顔をして、見る。

私は、ライスと、おかずを、選んで、彼らに、食べさせるように、言う。
すると、少年たちも、あれが食べたい、これが食べたいと、指定する。

私は、スープも注文した。
ところが、本当に、スープだけを、盛り付ける。
すると、一人の少年が、早口で、女性に言うと、スープに、肉の塊を入れた。

肉を入れてくれと、言ったのだろう。
言った者、勝ちである。

そして、清算をすると、全部で、125ペソ、250円である。
実に、安い。

コータが、彼らの写真を撮ると、皆、一人一人、ご飯を持ったところを、撮って欲しいと言う。
そんなところが、子供らしい。

そして、私たちは、ホテルに戻った。
しばらくして、あっと、気づいた。
私は、ロビンソンの傍の道端で、寝ていた、男の子に、衣服を渡すはずだったと・・・

そして、再度、二人分の、衣服を持って、出掛けた。
しかし、一人は、いなくなっていた。更に、もう一人の少年は、起きる気配がない。

彼の、頭の横に、食べ物が、置かれていた。
誰かが、置いたのであろう。
無理に、起こすのが、躊躇われた。

しばし、様子を見ていたが、全く起きないのである。

彼の横に、衣服を置いても、誰かが、取ってゆくこともあると、私は、諦めた。
そして、もう一度、後で、来てみようと、思った。

外に出ると、汗だくになる。
ペットボトルの水を、三本買って、ホテルに戻ることにした。

次に、街中の、ゲストハウスを探すことにした。
一泊、600ペソ、1200円の、ゲストハウスが見つかった。
私は、拙い英語で、予約した。
ホテルの予約は、すべて私がした。

それを聞いていた、コータが、完璧な英語と、褒める。
だが、通じる場合と、全く、通じない場合がある。

一番、がっかりしたのは、ネグロス島の、ホテルで、従業員と、英語で会話したときに、私は、日本語が出来ませんと、言われたときである。私の英語が、英語として、聞こえないということであった。
ジャパニーズイングリッシュだったのだ。


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2010年09月03日

あらっネグロス島へ 3

セブシティの中心部、その中でも、更に、中心の、ダウンタウンの、ゲストハウスに泊まる。

近くに、メトロ・ガイサノという、デパートがあり、少し歩くと、フィリピン最古の教会の一つ、サント・ニーニョ教会がある。
更に、新しい教会も、その傍にある。

その、界隈が、ストリートチルドレンの、溜まり場であると、知ることになる。

彼らは、夕方から、動き始める。
まず、真っ当なのは、教会にお祈りする人たちに、ロウソクや、花輪を売る。
更に、ゴミ箱から、食べ物を、探す子供もいる。

親のいる子もいるが、兎に角、貧しいゆえに、自分の食べる物は、自分で、確保しなければならない。

矢張り、広い意味での、ストリートチルドレンである。

私たちは、二日で、三度の、支援を行った。

夕暮れから、夜にかけて、行う。

最初は、新しい教会辺りからはじめて、サント・ニーニョに向かう。
小さな子供たちが、多い。
一人に渡していると、次から次と、子供たちが、現れてくる。

よちよち歩きの、幼児は、母親に言われて、私たちの元に、来る。
下半身が、裸の子が多い。

今回は、子供用を、多く持参した。
渡した子供たちは、とても、喜んだ。

さて、そこから、サント・ニーニョに向かうと、10名ばかりの、子供たちが、下水道から、吹き出す水で、水浴びをしているではないか。

水道管から、水が洩れて、下水道に流れているのである。

驚いた。

女の子たちも、全裸である。
これは、写真に撮ると、掲載できないかもしれない・・・と、思いつつ、衣服を取り出して、手渡しをはじめた、が、足りない。

男の子も、女の子も、どんどんと、私の傍に来て、ズボン、シャツと、ねだる。
しかし、足りない。

私は、皆に、明日、ここに、もう一度来るから、ここで、待っていてと、英語で、話した。
中に、英語が解る子がいて、皆に、お知らせしていた。

必ず来るから

裸の女の子に、腕を取られて、抱きつかれそうになった時は、少し、ドキドキした。
これは、少女売春が、可能であろうと、想像した。

それは、セブ島に来る前に、その、情報を得ていたからである。
フィリピンの法律では、19歳から、売春は、可能であるが、それ以下の年齢は、罰則がある。

帰国して、写真を見て、矢張り、危ないと、思った。

私が、子供たちに、渡している間に、とても、セクシーに写真に、収まる女の子が、写る。

翌日、その場所に出掛けると、昨日とは、少し顔が違った、子供たちもいた。
兎に角、手渡しをはじめると、昨夜の、子供たちも、やってきた。

幼児を、おんぶした、女の子が来た。
男の幼児は、全裸である。
一切の、衣服が無い。

彼女に、幼児のもの、彼女用のものを、手渡した。
とても喜ぶ。
幼児は、彼女が、衣服に夢中になるので、泣き始めた。
私が、幼児を、後ろから、抱えるようにして、抱くと、泣き止む。
その写真もある。

怒涛の如くの、手渡しを終えると、昨夜の、顔見知りの子達が、食べ物が欲しいと、言う。
そこで、何を食べたいのかと、尋ねると、フィリピンで、展開している、ハンバーカーの店の名を言う。

そこで、五名を引き連れて、その店に向かった。

コータに、ハンバーガーを買わせ、私は、水を買うために、別の店に行く。

水を渡し、ハンバーガーを渡して、終わりである。
ところが、後から、一人の男の子が、着いて来た。
私たちの、帰り道、一緒に着いてくる。

私は、口に手をやり、食べ物ほしいのと、聞く。
彼が、頷くので、近くの、パン屋さんに、立ち寄り、二つのパンを買って、与えた。

とても、名残惜しそうに、私を見つめる。が、連れてゆくことは、出来ない。

手を振り、別れた。

ストリートチルドレンは、地元では、相手にされない。
差別の対象なのである。
それが、悲しい。

確かに、彼らを相手にしていれば、毎日、毎日、彼らのために、何かをしなければならなくなる。そんな暇は、誰にも無い。
自分のことで、皆、一杯である。

私は、彼らを忘れるが、彼らは、私を覚えている。
それが、次に、行くときの、救いである。

衣服を渡すと、必ず、食べ物を、求められる。
食べ物は、一日、最低、一度は、必要である。
衣服は、長く持つが、食べ物は、毎日のことである。
深く、考えさせられる。

子供たちだけでなく、青年、大人も、ゴミ箱から、食べ物を探す光景を、目にする。
老人福祉は、無い。
道端に寝る、老人の気持ちを思うと、心が乱れる。

マニラも、大変だが、島々も、大変である。
兎に角、貧しい。
更に、貧しい者は、差別される。

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2010年09月04日

あらっネグロス島へ 4

セブシティの、港の傍に、サンペドロ要塞がある。
スペイン統治時代、1738年から、イスラムの海賊などから、防御のために、造られた、要塞である。

マニラの、イントラムロスと並び、最古の要塞である。
その後、アメリカ統治時代は、兵舎として、更に、日本軍による、捕虜収容所として、利用された。

私は、そこで、慰霊の儀を、執り行った。

観光客で、賑わう要塞に入り、人がいなくなったのを、見て、祈りを上げた。
朝の十時過ぎだが、日差しが強く、暑い。
長い、祝詞の間に、汗だくになった。

慰霊の儀を終えて、すぐに、そこを出た。
そして、御幣にした、薔薇の花を、海に流すべく、海岸に歩いた。

その際も、支援物資を、持参していた。

まず、港に出て、花の御幣を、流し、それから、港に近くいる、人たちの元に行き、支援物資を、渡す人を、探した。

目に付いたのが、生まれたての、赤ん坊だった。

私は、その赤ん坊の傍に行き、プレゼントと、言い、幼児の衣類を、差し出した。

すると、人が集まりだした。
私にも、子供がいるという、男たちが、殺到した。

ボーイか、ガールかと、問い、それに、答えて、手渡ししたが、次から次と、人がやってくるので、私は、場所を移動した。

だが、人の波は、更に、大きくなる。

限界を感じて、場所を移すが、それでも、人が増え続ける。
駄目だと、感じた。
とりあえず、一度、支援を止めることにした。

ネクスト、タイム
そう言いつつ、私は、その場を、離れた。

一度、ゲストハウスに、戻るつもりだ。

誰も彼も、やって来て、収集がつかないのである。

彼らは、その場で、何がしかの、仕事を探して、生活する人たちだった。
特定の、仕事は無い。

その、海岸に、後で、船で、到着するとは、考えられなかった。

通りに出て、ジプニーを乗り、一度、ゲストハウスに戻ることにした。

ところが、若い母親とみられる、女性が、追いかけて来た。
私には、娘が一人いるの・・・
御願い・・・服をください・・・

私は、再度、そこで、バッグを開けた。
すると、また、人が集う。
その女性だけに、渡して、また、急ぎ足で、その場を、去った。

すべてを、渡しても、いいが、そうすると、ストリートチルドレンに、渡すものが、なくなる。

通りに出て、ジプニーを待つ。
沢山の、ジプニーが走る。

ジプニーとは、トラックの荷台を、改造して、客を乗せて、街中を走る、ミニバスのようなものである。
7ペソで、乗る事ができる。

だから、行き先ではない、場合は、降りて、また、行き先に向かう、ジプニーに乗る。

私は、出来るだけ、そういう、公共の、乗り物に乗ることにしている。
何故か。
それは、地元の人々の、顔が見えるからだ。

勿論、外国人は、注意が必要だ。
スリに遭いやすい。

財布を入れた、バッグは、肩掛けバッグに、入れて、それを、胸の前に、置く。

海外では、日本にいる時とは、違い、とても、そういうことに、緊張する。

その、緊張が、疲れになる。
そのために、私は、一日おきの、予定を立てる。

暑い国での、緊張は、とても、体に負担である。
一日、何事かをすると、一日は、休む。
観光旅行だと、そんなことは、考えない。

地元の人と接するというのは、そういう、ストレスも、受けるということだ。

悲しいことだが、ストリートチルドレンにも、注意が、必要である。
支援をしている間に、私の、胸の前の、バッグの、チャックを、開けようとする、子供もいる。

そういう、子は、それが、当たり前の、行為になっているのだ。
スリ、盗みという、行為が、身についている。

本当に、悲しいことだ。
しかし、それが、現実である。

だが、そんな子は、本当に少数である。
味方であると、私を、認識する子は、絶対に、そんなことは、しない。



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2010年09月05日

あらっネグロス島へ 5

追悼慰霊は、三度、行った。

一つは、セブシティの港に面した、サンチャゴ要塞跡である。
そして、トゥマゲッティのビーチにて、ビサヤ諸島の海で、亡くなった、皆さんの、である。
更に、トゥマゲッティから、セブ島に渡る、船から、早朝、私とコータが、それぞれ、別の時間に行った。

サンチャゴ要塞跡は、スペイン統治時代のものであるが、日本軍が占領していた時、捕虜収容所として、利用された。
大砲が、そのまま、残る。

薔薇の花を、御幣として、清め祓いを行った。
更に、その付近、港付近に住む人たち、特に、子供服を持参して、手渡した。

丁度、慰霊を終えて、港に向かうと、多くの人たちが、いた。
薔薇の御幣を、海に戻してから、その傍に行くと、生まれたての、赤ん坊がいた。

即座に、幼児物を取り出して、渡すと、その母と、祖母であろう、とても、喜んだ。
すると、私も、私もと、人が集まる。

トゥマゲッティのビーチの朝、人がまだ、まばらな時に、長い祝詞を唱えて、追悼慰霊の儀を行った。

その際は、日の丸だけを、掲げた。

周囲の人たち、海で泳いでいた、子供たちも、注視していた。

無事に済み、再度、早いうちに、激戦地だった、コバロド、シライ市のシライ川で、慰霊を行おうと、思う。

海上慰霊は、勘違いによるもので、セブ島に戻る船の上で、行った。

それは、セブシティに帰る予定の日に、フライトが無いと、分かったからだ。

9日に、戻るはずが、チケットを見ると、8日になっていて、すぐに、セブパシフックに、問い合わせた。
すると、9日は、フライとが無いという。
それでは、何故、受付の女が、説明しなかったのか・・・

いや、したのかもしれないが、ペラペラ英語が、聞き取れなく、そのまま、勘違いしてしまったようだ。

8日の、夜七時頃から、慌てふためいた。
どうする・・・

コータが、フロントに相談に行く。
すると、深夜12時に、出発する、セブシティ行きの、船があるという。
それに乗るしか、方法が無い。

急いで、帰り仕度をする。

フロントの女性は、親切で、コータを連れて、船乗り場まで、行き、二人分のチケットを取ってくれた。

11時までに、乗船すること。

その間の、私は、ベッドで、寝ていた。
おおよそ、10時過ぎまで。

コータに言われた。
大物だね・・・こんなときに・・・である。

支援物資が無くなったので、荷物は、軽い。
バイクタクシー、トライシクルに乗り、船乗り場まで、行く。
乗船すると、すでに多くの人が、乗っていて、四段ベッドに寝ていた。

私たちは、300ペソの最高の部屋である。
エアコンが効いている部屋。
私は、個室かと、期待したが、大部屋である。

そこにも、すでに、人々が、眠っていた。

これは、大変だと、思った。
その船の揺れである。
船酔いする可能性あり。

すぐに、薬を飲む。
兎に角、眠ればいいと。

そして、そのまま、眠った。
私は、大物である。
船酔いせず、眠った。というより、薬のお陰で、大物に成る。

船が海上を走る、大きなうねりを感じたが、眠り続けた。
目覚めたのが、朝の六時頃である。

コータが、寝ているので、起こさず、甲板に出て、日の出を拝し、慰霊の、黙祷を捧げる。

その前に、コータが、起きて、一人で、慰霊をしたと言った。

兎に角、無事にセブシティに到着し、翌日の帰国便にも、乗れることになった。

そこで、最後の、宿泊を、セブ島の、観光地、マクタン島のホテルに泊まることにした。だが、観光地のホテルは、高い。唯一、調べたホテルの中で、1200ペソ、2400円の、ホテルを目指した。

港から、タクシーに乗る段になり、私は、また、大声を上げた。
一人のタクシー運転手が、マクタン島までなら、550ペソと、言ったからだ。

空港の、タクシークーポンでも、390ペソである。
コータが、抗議したが、私は、怒鳴りつけた。

勿論、日本語だから、相手は、解らないが、それでも、怒っていることは、解る。

そうすると、一台のタクシー運転手が、メーターで行くという。
即座に、そのタクシーに乗り込む。

メーターで、行けば、200ペソ以内で行けるのである。

どこでも、タクシー運転手を、怒鳴りつけるようになった。
外国人からは、三倍程度、頂くと、決めているようである。

ジャカルタの、空港でも、タクシークーポンを買えと、おじさん二人に、詰め寄られ、私は、何と、おじさんの肩を、押して、私は、メータータクシーで、行くのだと、怒鳴った。

周囲の人たちからも、笑い声が聞こえた。
おじさんたちは、その上がりで、生活しているのである。

それも、理解するが、私は、貧乏旅行である。
妥協できない。

バリ島でも、運転手を、怒鳴り続けた。
そして、やっと、メーターを下ろした。

それ以後、バリ島で、タクシーに乗ると、皆、メーターを下ろす。
どこかで、情報が、行き渡っているのか・・・

着物を着た、髪の長い日本人の男には、注意せよ・・・

ただ、最初から、真っ当な料金で、乗せる運転手には、必ずチップを渡す。

荷物があるから、タクシーに乗るが、なければ、バスや、公共の乗り物に乗る。
ホント、旅の移動は、大変である。


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2010年09月06日

あらっネグロス島へ 6

ネグロス島、トゥマゲッティでの、支援である。

私が、ホテルで、寝ている間に、コータが、街中を、歩いて、支援に相応しい場所を、探した。

それは、川沿いにあった。

下流から、上流にかけて、スラムが、続くという。
その一つの、地区に入り、衣服は、必要ですかと、問い掛けた。すると、声を掛けた、おばさんが、勿論、必要と、いった。そして、それなら、地区を、担当する、事務所に、申し出てくださいと、言ったという。

コータは、すぐに、その示された、事務所に向かった。
そこで、説明を受けた。

場所は、無料診療所と、子供たちの施設としている、建物で、行って欲しいと、言われた。

私が、夕方の四時と、指定していたので、それを、告げると、それでは、地区の人たちに、連絡しておくということになった。

私と、コータは、すべての、支援物資を、持参して、三時半にホテルを出た。
荷物を、持って、地区まで、歩いた。

地区の、入り口に来た。
私は、早速、見つけた、子供たちに、ぬいぐるみを、手渡した。

すると、どんどん、子供たちが、集まる。
歓声が上がる。

準備していた、施設の、おばさんが、こちらに来て、下さいと、呼ぶ。

私たちは、施設の前に、出た。
すると、地区の人たちが、どんどんと、集まる。

担当の、おばさんが、何かいうと、皆、列を作った。

混乱せずに、支援が、出来たのは、おばさんの、助力である。

皆、並んで、私たちの、支援物資を、待った。

とても、いい、雰囲気である。

我先にという、行動はなかった。

私が、支援物資を、一つの、テーブルに、出した。
すると、おばさんが、列を作る人たちに、一人、一つと、渡すのである。

私は、別に、子供たちに、衣服を渡した。

和やかな、雰囲気で、とても、スムーズに、進んだ。
大人物は、担当のおばさんが、一人一人に、合うものを、渡してくれた。

今回は、残念だが、男物は、無い。
子供物と、女物である。

最後に、私が、ハンカチを、渡すことになった。
私は、ママ、ママと、言って、女性たちに、手渡した。
歓声を、上げつつ、女性たちが、それを、受け取る。

すべてを、私終えて、写真を撮る。
皆、とても、嬉しい表情、顔だった。

何枚も撮った。

戻る道々も、多くの人たちと、写真を撮った。
男たちも、何か言う。意味は解らないが、その表情から、ありがとうと、聞こえる。

若い男の子たちも、一緒に写真に、収まった。

兎に角、私たちは、彼らの、敵ではない。
彼らの、味方である、という、意識を感じた。

その、地区の女の子たちは、皆、美人で、肌が、美しい。
とても、セクシーである。

私に、腕を絡ませる、女の子もいた。
少し、ドキドキする。

地区の人たちで、飼っている、ブタがいた。
子豚である。
私が、その檻の前に立つと、男の子が、やって来て、一緒に写真を撮った。

何か、いいたそうである。
何と、悲しいことか・・・
言葉が、分からないのである。

ネクスト、タイムね
また、来るね

日本語で、言うしかない。

最後の最後まで、私たちを、追い掛けて来た、男の子たちが、何か言う。
コータは、現地の、ありがとう、という意味だという。

私も、その言葉を、繰り返して、分かれた。

地区の入り口に出ると、また、人々がいる。

とても、歓迎してくれる。
ジャパニーズは、通用しない。
日本人は、何とかこんとかと、言われる。

よく、聞き取れない。
タガログ語でもない。
ビサヤ諸島の、言葉があるという。

ビサヤ語である。
こうして、私は、また、縁を作るのだ。

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2010年09月07日

あらっネグロス島へ 7

今回、私は、勘違いのために、ネグロス島の、激戦地であった、バコロド近郊の、シライ市、そのシライ川に沿っての、マンダラガンの山での、戦争犠牲者の、追悼慰霊が、出来なかった。

しかし、少し、その戦禍を紹介する。
次回の旅日記の、時は、より詳しく、紹介することとして・・・

ネグロス島戦記 池 平八著
そこから、兵士たちの、死に様の、一つを、紹介する。

このような、死に様も、あったということを、知って欲しい。

多くの戦友の命が、一瞬のうちに、引き裂かれ、飛散する。右の陣地で、そして中央陣地で、はたまた左方陣地で、間断なく光の渦が、逆巻く。生き地獄の鬼火が、各所に次々と燃え上がり夜空を真紅に染める。そのつど戦友の生命が乱舞しながら闇の底に消えて行く。

日本軍は、連合軍の、猛烈な、攻撃を受けた。
それは、徹底したものである。

その、戦友の死の様をみて、池氏は、
人間の名状しがたい生の尊厳さを、改めて体得した。
と、書く。

さて、私が、一番、驚き、そして、佇んだ、死に様である。

敵の熾烈な爆撃に、駐屯軍は他の安全な場所を求めて去り、ここにはもう他部隊はいないと思っていたのであるが、下方の温泉場では、毎日数十人の見知らぬ戦友たちが入浴していた。

自分たち以外にも、まだ相当数の残留者がいるのかもしれない。一見して彼らは健康体のようである。毎日入浴する兵たちが、同一人物であるか別人であるのかわからないが、朝から夕方までの長時間、湯につかり続けている。

彼らが入浴するので、私は汚物の洗濯はできるだけ下流でするようにした。だれも無口で、話し合っているようすがない。ひたすら湯につかっている。

その後、数日間も敵の空爆はなく、静かな日々の連続だったが、突然、異変が起きたのである。

湯の中の兵が昨夜一人、今日一人と、死んでいくのだ。

石にもたれて下半身を湯の中に浸したままで息絶え、やがて流れに揺れながら湯の底に沈んでいく。

名も知らぬ戦友が、死んで、水中に沈んでいる。

ゆらゆらと揺れ動く者。そうしたなかであとから来た戦友は無表情、無言で温泉に入っている。

だれもかも、この私にしても、己の周囲に起こる事象に反応しなくなっている。全ての感動も感情も驚きの色もない。きたるべきものがきたにすぎない。ただそれだけのことである。生き残った者も、明日まだ生き続けられるとは限らない。いずれは、われもまた多くの戦友と同じ運命の道をたどるのだ。心の中に、こんな潜在意識をもっている。兵はただ死するのみなのだ。

やがて、湯の中の死体は、一日、二日と温泉の湯でふやけて溶け始める。

手足の指先から、透明なゴム製の手袋を脱ぐように、一ミリ、二ミリ・・・五ミリ、透き通るようにうすい皮膚の手袋ができる。

五本の指先からこれだけ脱けるのに約二日を要した。

この手袋が皮下の肉と分離して抜けるものであろうと、毎日洗濯のつど、観察していたのであったが、自然の状態のままでは、これ以上は無理であるらしく、その後は一ミリも長くはならない。ゆるやかな水の流れに、指先でかすかに揺れている。

やがて、体の各部分の皮膚は次々と破れ、肉はただれ、下流に流れ去る。その静かな水の流れを無言で見つめつつ、汚れた水を遠くにおしやりながら洗濯する。

四、五日後になると、遺骨が水底に静かに横たわった。

神秘な水葬の儀式が厳粛に執行されるように、美しく磨かれた白骨が水中で静かに眠る。

人骨の中で、もっとも重い頭蓋骨は、その後、数日間も水底に沈んだままであった。

そうした温泉に、兵士が一人、また一人と訪れて眠りながら入浴する。

戦友の腐乱死体が浮いていようと沈んでいようと、だれも拘泥などしないのだ。

だれもが無関心に湯につかり、やがてまた黄泉の国へと旅立っていく。

その後、スコールによって増水した渓流が濁流と化し、温泉に沈んでいた戦友の白骨を流し去った。濁流はまた清流に戻り、元の温泉郷が再現された。神の手による浄化であろうか。

下流に押し流された戦友の白骨は、このネグロス島の島を離れ、黒潮の流れにのって太平洋へ出る。八重の潮路の長い海の旅の果てに、はたして北の国、故国日本の浜辺に無事にたどり着くだろうか。そうあってほしいと祈ったのだが・・・

上記、私が、読みやすく、改行している。

この、遺骨は、流れに乗って、日本の浜辺に着くことは、なかったであろう。
また、山の中に、散乱した、遺骨も、今は、自然の中に、埋没しているだろう。

死んだら、終わりだから、それは、それでいいのか。

そんなことは、無い。
人には、想念がある。思念がある。
それは、死後も、残る。

顕在意識が、無感動でも、潜在意識は、深い悲しみと、絶望であろう。

死人に口なし、である。

誰かが、この、兵士たちの、思いを、言葉にしなければ、ならない。

一体、人生とは、何か、と、問い掛けることが、出来る人は、幸いである。
彼らは、それを、問いかける間もなく、戦地に赴き、死ぬことになったのである。

賢い者も、愚かな者も、だれかれなく、戦争という、狂気の只中に、入れられた。

池平八氏の、言葉に
熾烈極まりない戦い、飢餓、あまたの若き戦友たちの悲惨な死、そして副官の死。それらを思えば、この遅過ぎた降伏に、憤りを感ぜずにはおれない。
と、ある。

心からの、冥福を祈る。
そして、必ず、追悼慰霊に、私は、行く。
私が行かなければ、誰が行くのか。


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2010年09月08日

あらっネグロス島へ 8

トゥマゲッティの、ホテルは、歴史的建物、ベル・タワーの通りに面した、道路を一つ隔てた、新しいホテルである。

だから、ガイドブックに載っていない。
一泊、900ペソ、1800円。
ツインルームで、広い。

最初に、もっと、安いホテルに向かったが、フロントの対応が悪いことと、部屋が、息苦しいので、変更した。

日本と違い、チェックインの時間が、早くても、入れてくれる。

そのホテルの一階にある、レストランに入って、食事をしていた時に、ホテル前に、二人の男の子、ストリートチルドレンが、現れた。

二人は、喧嘩をしているように見えた。
実は、じゃれあっていたのだが・・・

一人の、やられていた、男の子に、水を買って渡し、服を上げるから、待っていてと、言う。身振りである。
男の子は、頷いた。

そして、部屋に戻り、二枚の、シャツと、ズボンを持参した。
彼に、渡す。
すると、さきほど、買って上げた、ペットボトルの、水か無い。

どうしたの
指を差す。道路に、捨てられ、車に、破られていた。
どうして
すると、彼は、もう一人の、男の子を指差した。

あいつが、捨てたのか。
私は、その子を、呼んで、日本語で、叱った。
私の声は、大きい。それで、萎縮してしまった。
だから、彼を、呼んでも、その日は、来なかった。彼にも、衣服を渡したかった。

翌日、ビーチで、慰霊をして戻ると、彼らに、会った。
更に、もう一人の、男の子もいた。
彼らより、年上である。後で知るが、15歳だという。10歳程度にしか、見えない。

私が、掲げていた、日の丸を持ちたいと言う。
そこで、彼らに、渡した。
昨日、叱った、男の子も、けろりとして、着いて来た。

私は、裸足の、男の子に、サンダルを買うことにした。
近くに、市場がある。
そこまで、出掛けた。
そして、彼の好きな、サンダルを買って渡した。

一度、ホテルに戻る。
そして、昼の食事をするために、出た。
焼き鳥が美味しいと、聞いていたので、焼き鳥を食べることにした。

ホテル近くの公園の、前の店である。
すると、また、彼らが、現れた。

一緒に、食事をすることにして、私は、その店に誘う。
一人の、私が叱った男の子が、楽しそうについて来た。
そして、テーブルに着くのだが、二人の子は、入り口で、もじもじして入らない。

と、その時、店の奥から、走り出してきた、男がいる。
二人の子が、逃げた。

私たちも、外に出で、何が起こったのかを、見た。
小さな方の、男の子が、捕まった。
そして、何やら、男に、説教をされて、涙ぐんでいる。

コータが、その中に、割って入った。

彼らを店の中に、いれることは、出来ない。
物を買って、外で、食べさせるなら、良いとのこと。

昨夜、男の子は、店の厨房に入り、食べ物を盗んだというのである。

そして、それは、常態化していた。
どおりで、店に入らないはず。

私は、店に戻り、兎に角、一羽分の鶏肉を、注文し、ご飯を、五人分注文した。
彼らのために、ジュースを三本。
公園で、一緒に食べようと、思った。

開放された、男の子と、二人の子を、呼んで、食べなさいと、促した。
男に、叱られた子は、中々、来ない。
私が、何度も、手招きして、ようやく、来た。

三人が、食べ始めた。
食欲旺盛である。当たり前だ。食べ盛りである。

しばらくすると、店から、先ほどの、男が出てきて、私たちに、挨拶し、握手を求めた。
私たちは、子供たちに、食べさせて、食べなかった。

少し、離れた場所で、彼と、話をした。
彼の、名前は、ジョンソンさんである。

ミンダナオ島の、出身で、ここでは、農場を経営し、食堂を経営していた。

そこで、彼の話を、聞くことになる。
まず、私たちの、好意に、感謝した。
そして、話し始めた。

問題は、根が深いのです。
フィリピンは、貧しい。しかし、このままでは、いけない。
食べ物、衣服、その次に必要なものは、住まい。
子供たちに、それを、提供し、そして、教育が必要です。
そうでなければ、あなたたちの、好意も、単なる一時の、バンソウコのようなものになる。

その、通りである。

だから、私も、農場を経営して、働く場所を、提供し、親に働かせ、子供たちには、学校へやるように言うと語る。

つまり、ストリートチルドレンが、大人になっても、物乞いの精神から、抜けられず、子供が出来ると、子供を、働かせようとするらしい。

更に、施設を造り、何人もの人が、現状を打開しようとした。しかし、皆、途中で挫折する。それは、続けられなくなるからだ。

一人の人間では、無理である。
多くの人間が、関わって、運営しなければ、続かない。
今は、政府系の、施設がある。
そこに、支援を、是非して欲しい。

いつまでも、フィリピンが、このままでよいはずがない。
フィリピン人の、誇りを持つような、子供たちを、育てたい。

ジョンソンさんの話は、長かった。
そして、情熱に溢れたものだった。

私は、それを聞いていて、私の考え方と、方法が理想的だと、知る。
新しい建物を、造るのは、簡単である。しかし、それを、持続させることは、至難の業である。

だから、私も、建物や、施設を造らない。
すでに存在する、施設、学校に、支援するのである。

話している途中で、近くの人が、椅子を、運んで来た。
すると、これが、フィリピン人ですと、ジョンソンさんが、言う。

フィリピン人の、誇りを、取り戻す・・・

素晴らしいことである。

私は、次にこちらに、来た時に、あなたの店に立ち寄りますと、言った。
最後も、握手をして、別れた。

子供たちは、すでに、すべての食べ物を、食べていた。

私たちは、食事のことを、忘れ、一度、ホテルに戻った。


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2010年09月09日

あらっネグロス島へ 9

これから、私は、セブ島を拠点にして、フィリピンの、各島へ、慰霊と、支援に出掛けるだろう。

日本軍は、フィリピンの島々で、戦争を繰り広げた。

しかし、何故、フィリピンは、貧しさから、抜けられないのか・・・

様々なことが、考えられる。

その歴史は、スペイン植民地時代に、さかのぼる。
長きに渡る、スペインによる、植民地の間に、フィリピン独自の、文化や伝統が、破壊された。

それは、特に、カトリックによるものである。
最初は、イスラムの島々が多かったが、武力で、キリスト教を押し付けた。

今でも、キリスト教に、虐殺された、ミンダナオ島の一部が、反政府となって、抵抗している。

更に、アメリカによる、統治である。
すべて、アメリカ式に、変えられた。
アメリカの文化が、最高という意識は、今でも、ある。
だが、アメリカの文化といっても、伝統ではない。
実に、そこの浅いものである。

そして、第二次世界大戦の、一時期、日本軍が、統治する。
その時に、少しばかり、日本軍は、フィリピン、独自の、伝統と、文化を、回復するようにと、指導した。

だが、それも、一時的なもの。
日本の敗戦で、もう一度、アメリカ支配に陥る。

アメリカは、フィリピンに、莫大な資金を投資した。しかし、それらが、国民に行き渡る前に、消える。
つまり、政治家により、搾取される。

アメリカ軍の、駐留も、無くなった。
要するに、捨てられた。

今、フィリピンの歴史的遺産といえば、すべて、スペイン時代に、建てられた、教会である。
その長きに渡る、支配のうちに、フィリピン人は、何かを忘れた。

熱心な、カトリック信者が、多いが、それは、当初、押し付けられたものである。
だが、時代を経て、ついに、拠るべき所が、教会となったのである。

貧しい人々は、すべてを、搾取されている。

政治からも、教会からも、である。

更に、お金がなければ、教会で、葬儀もできないのである。

私は、何度も、人々が、教会ではなく、地元で、葬儀をするのを、見た。
路上に、遺体を置いて、カンパを募る。
墓の費用である。

フィリピンの歴代大統領は、悲しいかな、一部を除いて、すべて、身内に、支援金を流した。
国家の予算が、個人的に、流用される。
政治家もまた、同じく。

政治の伝統のようである。

多くの島があるが、島は、兎に角貧しい人たちが多い。
だが、その中でも、富裕層がいる。
すべて、中華系である。

地方の議員を、抱きこみ、彼らの、希望通りの、法整備を、作っている。
金の流れが、彼らに向かうように、である。

レイテ島に、出掛けた時に、バイクタクシーの、運転手に聞いた。
それは、毎日、借りるのであり、自分で、持つことは出来ない。
そのように、法律が、条例が、作られている。

その、バイクタクシーを、貸すのが、中華系である。

人々は、二重、三重に、搾取されている。

革命を起こすしかない。
しかし、革命も、瞬時にして、終わる。

軍隊が、一体となって、起こさなければ、無理である。

だが、その軍にも、汚職が広がるのだろう。
不穏分子は、密告される。

さて、歴史の、種を探しても、詮無いこと。

現在の、アキノ大統領が、どこまで、フィリピンの民衆の、期待に応えるか。

フィリピンは、スペイン統治時代の、その前の歴史を、学び、フィリピンの、誇りを、取り戻して、欲しいと願う。

英語教育に、力を入れたが、それは、海外に働きに出るために、必要なもの、のみである。
英語教育が、国の力には、ならなかった。
それより、自国の言葉を、しっかりと、身につけて、そこから、物を考える力を、養うべきだった。

今でも、エリートたちは、アメリカを目指す。
しかし、目指すアメリカには、何も無い。

フィリピンの希望は、日本である。
伝統の国、日本が、フィリピンの、希望になりえる。

ミンダナオ島の、反政府軍は、必ず、政府との話し合いに、日本を指定する。
何故か。
他の国は、すべて、キリスト教国である。
イスラム国家は、ひとつもない。
そこで、日本を指定し、日本の、冷静な対処に、期待するのである。
日本は、世界の平和に、貢献できる、唯一の国となる。

宗教の国で無いということだ。
日本は、伝統の国である。
その、日本の役割が、世界平和の貢献に、大きく寄与できる。

私は、実感として、それを、感じる。

新しい時代は、宗教闘争の時代ではない。
長い歴史を有する、世界が、納得する、伝統を有する、日本が、希望となるのである。


posted by 天山 at 00:00| あらっネグロス島へ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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