2010年10月01日

チェンマイの風

今回の旅の予定は、チェンマイ在住の、小西誠さんに、一任した。
そして、その予定を、見て、唸った。
毎日、予定がある。
今までは、一日活動して、一日、休むというものだった。
途中で、疲れては、続かないと、思ったからだ。

ところが、小西さんの、予定表は、毎日のスケジュールであるから、戸惑った。
しかし、小西さんに、一任すると、言った。

バンコクに、深夜到着し、コータの滞在していた、アパート、マンションに、一泊して、翌日の、昼の便で、チェンマイに向かう。

季節は、雨季である。
チェンマイは、昼間、暑いが、朝夕と、涼しい時期である。

小西さんの迎えを、受けて、チェンマイである。
その、風は、思い出深い。

私は、五年前に、チェンマイに、出掛けた。
その時も、10月である。
国王、在位60周年の年である。

それから、今年で、四回目のコンサートを開催するほど、チェンマイとは、深い縁が出来た。

北部タイに、出掛けるときは、チェンイマに立ち寄った。
だから、チェンマイの町を、見ると、懐かしい。
田舎に戻ったような、心境になる。

空港に、小西さんが、出迎えに来てくれた。

四名で、100キロの、支援物資を持参したから、荷物が、大変な量である。

自分のものを、極力少なくして、支援物資を、大量に、運ぶ。

勿論、帰りは、すべて、無くなる。
行きは、大変だが、帰りは、楽々である。

その夜は、タイ舞踊を見られる、お店で、北部タイ料理を食べるとの、予定である。
小西さんが、前回も、それを、提案してくれたが、私は、お断りして、小西さんと、じっくりと、話したいと、御願いした。

少数民族の人たちの、舞踊と、その、紹介を兼ねての、舞踊であるから、実に、意味深いものだった。
こんなに、多くの民族がいるのだと、再認識できた。

更に、食事は、食べても、食べても、終わらない。
つまり、足りなくなると、何度でも、それを、足して、くれるという食事である。

どの程度食べたのか、分からなくなる。
気づいた時は、腹一杯で、とんでもなく、食べたことに気づく。

今回は、私と、コータと、辻さん、千葉君と、四名である。

小西さんから、言われていた、料金より、安かった。
あれほど、食べて・・・この、値段、である。

食事の時も、舞踊があり、食事が終わると、別棟に場所を移し、民族舞踊を、見る。

あっという間に、三時間を、過ごした。

時間は、夜の、10時、日本時間の、12時である。

ホテルに、戻ると、疲れが、どっと、出た。

明日は、慰霊碑を巡る。
早々に、寝ることにする。

ホテルは、旧市街の中にある、ターペー門の前の、ホテル。
前回と、同じである。
だが、内装をしていて、とても、綺麗な部屋になっていた。

一人、800バーツ、2400円。二人部屋は、1100バーツである。

旅の最中は、酒を、飲まない。
というより、飲みたくない。
それで、眠たくなるので、二重に良い。

夜は、エアコンがいらない。
丁度よい、温度になる。

チェンマイは、北部タイの、最大の都市であり、タイでは、バンコクに次ぐ、第二の都市である。
しかし、そんな雰囲気は、無い。

北部、東北部から、出てきて、働く者も多い。
しかし、貧しい人が多い。
一般紙的な人の、給与は、一ヶ月、15000バーツ前後、45000円である。それも、よい方で、ある。

マッサージ嬢などは、お客の、数の売り上げの、三割を受け取る。
客がいなければ、収入が無い。

地方から出てきて、体を売る、女性たちも多い。
家族に仕送りをするために、我が身を、犠牲にする。

貧しい国は、どこも、同じである。

私たちの、ホテルの周辺も、夜は、騒がしい。
ゴーゴーバーや、飲み屋が、軒を連ねている。

だが、その音は、遠くに聞こえる。
チェンマイの夜風は、心地よい。

久しぶりの、チェンマイの夜を、眠る。
旅の、目的は、明日から、はじまる。
流れに任せるだけである。
ああ、チェンマイの夜は更けて・・・

posted by 天山 at 00:00| チェンマイの風 平成22年10月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月02日

チェンマイの風 2

チェンマイ、二日目の朝、9月30日である。

朝食は、ホテル並びの、現地の人の食堂に行く。
その食堂は、朝の7時から、夕方で、閉まる。
長期滞在の、欧米人にも、人気があり、昼前後は、混み合う。

本日は、追悼慰霊を主とする、予定である。

出発は、午前11時。
まず、チェンマイ市内の、ムーンサーン寺の敷地内にある、野戦病院跡に、出掛ける。

車は、小西さんに御願いして、大型のバンを頼んでおいた。
日の丸と、御幣の、神紙を持参する。

寺の敷地内であるから、派手なことは、出来ない。
静かに、黙祷と、清め祓いをする。

慰霊碑のある、前の建物には、当時の、日本軍の物が、展示されてあるというが、その日は、開いていなかったので、慰霊だけにした。

昼間は、矢張り、暑い。
自然に汗が出る。

私は、単の着物を、浴衣の扱いで、着た。

辻さんは、浴衣である。
コータと、千葉君は、写真を撮ったり、ビデオを撮る。
今回は、初めて、ビデオ撮影をした。

勿論、私は、ビデオがあろが、なかろうが、やることには、変わりない。

ムーンサーン寺を出て、バンカート村に向かう。
そこには、タイ・ビルマ戦線で、亡くなった、12000名の兵士をお奉りする。
私たちは、何度も来ている。

辻さんと、千葉君は、二度目である。

とても、綺麗に整理されていた。
更に、慰霊碑を囲む壁が、新たに白い壁に、塗り替えられていた。

多くの人たちの、慰霊の思いもあり、霊的にも、清々しい。

御幣を立てて、祝詞を唱える。
いつもの通りである。

その途中で、あるお方が、お見えになった。
尊い霊体である。
と、私は、感じたので、少し、後ろに下がった。

そして、更に、祝詞を続けた。

四方を、清め祓いして、深く黙祷する。

遺体を井戸に、投げ入れられた兵士の遺体は、そのまま、井戸の中である。
更に、まだ、すべての遺骨が、集められてはいない。
もう、どこにあるのかさえ、解らない。

その周囲の遺骨に対して、追悼の鐘が、建てられた。

私たちは、その、鐘楼に上がって、鐘を突き、慰霊の思い深く黙祷する。

タイ・ビルマ戦線とは、インパール作戦のことである。
それが、一つ、そして、もう一つの、ビルマ戦線の、犠牲者もいる。

インパール作戦については、以前の旅日記に、詳しく書いている。

今回は、カレン村にて、道を誤り、若い兵士が、亡くなったとされる、山裾で、慰霊を行った。その際に、少し、それに触れることにする。

車のエアコンが、弱く感じられるほど、暑い。
朝夕は、涼しいが、矢張り、昼間は、気温が上がる。

次に向かったのは、生き残った兵士、藤田松吉さんが、建てられた、慰霊碑である。

ランプーン県パーサン郡にある。
私たちは、昨年も、訪れている。

あまり、知られていない、慰霊碑である。

藤田さんは、自ら、戦友の遺骨を集めたという。その遺骨を、納めていた塔でもある。
今は、すべて、千鳥が淵墓苑に納められたという。

藤田さんの、遺骨のみが、お奉りしてある。

今回の、私の目的は、藤田さんの、慰霊碑に、結界を張ることだった。
タイでは、霊的存在を、すべて、ピーと呼ぶ。
それは、良いもの、悪いもの、関係なく、人々は、畏敬し、恐れる存在である。

精霊もあり、人霊もある。

慰霊碑に、それらが、取り憑かないように、である。

通常の、慰霊の儀を行い、最後に、結界を張るための、行為をする。
更に、近くの川に、昔、礼拝されていた、霊的存在に対しても、ある、行為をした。
皆が、忘れてしまっているのである。

藤田さんは、カトリックだったので、辻さんに、ピエ・イエズを歌ってもらった。
私も、キリエ・レイソンを唱えた。

いつもより、時間がかかった。
そして、最後に、御幣を川に流す。
その川の主に、特別な挨拶をした。

昔、その川の主は、その地域の守り神として、皆の信仰を集めていたのである。

祠の跡も無い。
タイの人も、近代化の波に飲まれて、昔の風習を忘れる人もいる。

時間は、二時半を過ぎていた。

そのまま、ホテルに戻り、三時過ぎに、ホテルのレストランで、遅い食事をした。
私とコータ、辻さんと、千葉君、そして、案内の、小西さんである。

辻さんと、千葉君は、食事の際に、いつも、ココナッツジュースを頼んでいた。
自然の、スポーツ飲料である。
更に、その中の、白い実を、スプーンで、取って、食べる。

タイの、果物は、豊富だ。
私も、色々な果物を、食べる。
日本では、あまり、食べない。タイの、果物の、美味しさに適わない。

食事の後は、全員自由である。
皆、一眠りしたようである。

posted by 天山 at 00:00| チェンマイの風 平成22年10月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月03日

チェンマイの風 3

翌日から、チェンマイでの、朝の食事は、ホテルで、食べることにした。
というのは、泊り客には、チケットを買うと、二人分が、食べられるという、特典があったからだ。

しかし、支払いの時に、どうも、腑に落ちない。
私が、それを、理解していなかったのである。
要するに、同じ物を、二人が注文すると、一つの料金でいいというもの。

別なものを、注文すると、それぞれの、値段になるのである。
だから、四日目の朝、私は、フロントで、喧嘩をした。
日本語で、大声で、怒鳴った。
説明不足だ・・・

英語で、通訳するコーターに話し掛けて、私の方を見ない。
タイ人は、大声を嫌う。

まあ、そんなことは、いつものこと。

三日目の朝、ホテルのレストランの外で、アメリカンブレックファーストを注文する。
コーヒーを、飲みつつ、タバコを吹かす。

すると、辻さんが、やって来る。
それから、コータが、来た。
最後に、千葉君が、来た。
四人揃って、朝ごはんである。

八時を過ぎると、日差しが、強くなる。
ターペー門沿いを走る、朝のラッシュを眺めながら、食べて、話す。

昨日の、追悼慰霊の話である。
辻さんは、もう一度、行くべきだとのこと。
次回も、藤田さんの、慰霊碑に行くべき。
その理由は、人があまり、訪れない場所であり、慰霊碑として、寂しい感じがするという。

結界を張る時に、辻さんに、塩を撒いてもらった。
四方に、私が、御幣を置いて、その後を、塩で、清めたのである。

そうねーーー
私は、答えた。
私の中には、行くべき所が、沢山あるのである。
ミャンマーの、マンダレーに早く行かなければならないとか・・・

来年のことだから、また、来年考える、という、感覚である。

三人は、おかゆを食べている。
私だけが、一番高い、アメリカンブレックファーストである。
それで、腹が一杯になる量である。

今日、三日目は、サンサーイ県にある、山岳民族子女職業施設での、衣服支援と、メーリム寺の境内にある、戦没者慰霊の、お地蔵さんのところに行く。

女子物であり、寒い季節のものを、大量に持参して来た。
更に、伺う前に、生理用品を買ってゆく。

おおよそ、300名ほどが、そこで、暮らし、学んでいる。
全員が揃うことはない。
今日は、100名程度ということだった。
それなら、間に合うと、思った。

出発は、同じく、午前11時である。

辻さんと、そのための、準備をしなければならない。
衣服の仕分けである。
おおよそ、女子物は、辻さんに、任せていたので、簡単に出来る。

あらかじめ、船便で、送っていたものは、私の勘違いで、二箱ともに、子供物だった。
本当は、一箱が、子供で、もう一箱が、寒い季節の男物だったはず。
しかし、それが、大変助かることになる。

カレン族村用に、用意したものだ。

部屋に戻り、辻さんと、仕分けをする。
辻さんの、大きなバッグと、二つのバッグが、女子物である。
更に、それに、私の持ってきた物を、少し足す。

そして、今日は、千葉君に、ギター演奏をして貰う、と共に、辻さんには、歌ってもらう。
そこで、私が、踊ることになるのか、どうかは、その時に、決めることにした。

前回、私は、次は、日本の踊りを見せますと、言っていたのである。

小西さんは、必ず、早めに来ることを、知っている私は、早めに、荷物を、一階に下ろすことにした。

武士は、遅刻はしないのである。
小西さんは、武士である。
小柄であるが、合気道と、タイの、ムエタイ、つまり、ボクシングを身につけている。
喧嘩をすれば、どんな大男でも、やられるはずだ。

矢張り、小西さんは、11時前に、到着した。
運転手の、おじさんも、同じく、到着である。

早速、支援物資を、車に積み込み、生理用品を買うため、卸売りの、市場に向かう。

生理用品の、見定めは、辻さんに、任せる。
男には、どれがいいのか、分からない。

辻さんは、三種類の生理用品を選んだ。
説明を受けるが、よく分からない。
小西さんが、数を数えてくれた。

それぞれ、600個である。
料金は、約2000バーツ、6000円である。

私は、その他に、小西さんの奥さんの、お母さんにと、お菓子を買った。
カレン村に行く時の、お土産である。

生理用品を車に、積んで、施設に向かった。
町を、抜けて、自然溢れる場所にある。
とても、良い環境である。

昨年来た道を、思い出した。
林を抜けて、森の中に入るようである。



posted by 天山 at 00:00| チェンマイの風 平成22年10月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月04日

チェンマイの風 4

私たちが、施設に到着すると、職員の方々が、出て来られた。
挨拶をする。

すると、すぐに、施設内に放送が流れた。
ニープンという、日本人という言葉が、分かったので、日本の皆さんが、来ましたので、集会室に集まってください、とでも、知らせていると、思った。

私たちも、集会室に、支援物資を、運ぶ。

校長先生が、いらした。
二度目の再会である。

お元気ですか
日本語でいう。
あちらも、タイ語で、答える。

今回は、50名ほどの、女子が、残っていた。
他の女子たちは、休みがはじまり、帰郷しているもの、近くの大学に出ているものである。

施設で、暮らしつつ、学び、ある者は、近くの大学へ行く。

お寺によって、運営されている、施設である。

男子は、僧侶になって、寺で生活できるが、女子には、それが無い。それゆえ、お寺に、交渉して、女子のためにも、施設を創ってくださいとの、願いに、寺が応えたのである。

だが、男子が、先行で予算を使う。その、余りで、経営されるから、貧しい。

皆、少数民族の、女子たちである。

全員が揃った。
私は、以前、民族服を着ていたことを、言うと、校長先生が、何か言う。
すると、生徒たちは、もう一度立ち上がり、集会室を出た。

民族服に着替えてきたのである。

最初に、私たちは、タイ国王讃歌を歌うことにした。
コータみが歌詞を暗記しているので、私と、辻さんが、メロディーを唱和した。

全員が起立した。
タイの場合、国歌と、国王讃歌の際に、起立しないと、罰せられるのである。
長いものだと、懲役4年の刑を受ける。

それが、終わり、辻さんに、さくらさくらを、歌ってもらう。

それから、支援がはじまる。
私が、挨拶した。
今回は、寒い季節の衣服を多く持ってきました。
あなたが、必要なければ、家族の方で、必要なものを、二つ取ってください。

今回は、辻さんが、女子用の下着を、持参したことも、いう。
そして、下着の貰わない人には、私が、用意した、ハンカチ、ミニタオルを、差し上げることにした。

左側の列から、衣服を取ってもらう。
最初は、控え目だったが、慣れてくると、色々と、衣服を手に取り、探し始めた。

辻さんは、パンティの前に立ち、必要な人に、色など選ばせる。
私は、衣服の前に立ち、サイズを合わせてあげる。

静かだった、会場に、少し声が響くようになる。

中に、男子物も混じってあり、私は、それを掲げて、ブラザーのいる人は、貰ってくださいと、言った。
英語の授業があり、少しの英語は、通じる。
勿論、私の英語は、実に、怪しいが・・・

遠慮しつつ、手を上げる生徒たち。
それを、手渡しする。

手渡し。
それが、確実な、方法である。
手から、手へと、確かに渡す。

支援した下さった方々の、ためにも、その基本は、変わらないし、変えない。

それが、どんなに大変なことでも、である。
その、手間暇かけることに、私の支援の実がある。

誰に、渡ったのか、解らないような、支援はしない。

手と手、顔と顔が、見詰め合う、手渡しの凄さである。

相手は、私のことを、忘れない。
私が忘れても、相手は、忘れない。

すべての生徒が、衣服を取って、元の場所に着いた。

それでは、ギター演奏と、歌を披露します。
コータの訳である。

ところが、私が、日本の天皇陛下と、タイ国王陛下は、とても、親しい、友人ですから、私たちも、親しく付き合いましょうといったが、コータは、天皇と、タイの、お釈迦様は、友人で・・・

小西さんの登場である。

更に、私は、日本人と、タイ人は、とてもよく似ている。
曖昧で、争わないところ・・・

でも、戦争の時には、一緒に戦いましょうね。
その部分は、カットされた。

千葉君の、ギターソロが始まった。
真剣に聴く生徒たち。

そして、辻さんの、万葉集の歌である。
千葉君のギターと、コータの、篠笛、そして、私は、踊ることにした。
全員の、出演である。

勿論、私が、一番目立つ。
何せ、皆の、前に出て、踊る。踊る。

後で、辻さんから、先生のための、裏方だったと、言う。
辻さんの、前を、行ったり来たり・・・

皆の目が、私に向かう。

すべてが、終わり、記念写真を撮る。

若い女の子の、エネルギーを、久しぶりに感じた。

残った、衣服は、他の生徒たちに、差し上げてくださいと、校長先生に言う。

皆さんは、私たちを、見えなくなるまで、見送ってくれた。

日本語、英語、タイ語、それぞれの、民族の言葉が、入り乱れる、お別れである。

車に乗り込むと、矢張り、汗だくだった。

posted by 天山 at 00:00| チェンマイの風 平成22年10月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月05日

チェンマイの風 5

職業訓練施設から出た、私たちは、初めて訪れる、メーリム寺の境内にある、戦没者慰霊の、お地蔵さんを訪ねた。

しばし、車に揺られる。
この、揺れが、とても、疲れることになるのだが、まだ、緊張感があり、あまり感じないのである。

昨日の、車も、おおよそ、五時間であった。
そして、本日である。

少しばかり、場所を探すのに、時間がかかった。

ようやく、お寺に到着して、お地蔵さんの場所に向かう。
お寺の境内であるから、静かに行為しなければならない。

数名の、タイ人もいた。

皆、笑顔で、迎えてくれた。

その辺りにも、日本兵の遺骨が、多く発見されたという。
お地蔵さんを建てられた方は、生き残りの方の奥様である。
ご主人、亡き後、平和を願って、建立されたと、聞いた。

まず、そのお地蔵さんと、横にある、祈念の言葉を読む。

可愛らしい、お地蔵さんである。
だが、残念なことに、魂入れが、されていないようである。

タイのお坊さんが、立ち会ったというが、特別なことは、しなかったようだと、見た。

インパール作戦の、日本兵が、いかに、北部タイで、亡くなったかを、また、知ることになる。

インド、インパールから、ビルマを越えて、皆、チェンマイを目指した。しかし、チェンマイまで、辿り着けずに、力尽きて、亡くなったのである。
北部タイ全域に、広がっている。

慰霊碑は、そこで、祈るためのもの。
そして、慰霊碑は、管理されなければならない。

でなければ、不浄な霊的存在が、そこに、留まることがある。

何もしない前の、写真を撮った。
それを、見ると、矢張り、不浄霊の存在が、確認される。

タイでいうところの、ピーという、霊的存在である。

タイでは、至る所に、ピーの祠がある。
家々に、それが、ある。
そこに、供物を捧げて、鎮まるように、願うのである。

町全体の、ピーの祠から、村全体もの、更に、家々のものと、実に多い。

私は、まず、お地蔵さんの前で、清め祓いを、音霊で行った。
お寺の境内であるから、失礼のないように、である。

静かに、祝詞を上げて、日本兵の亡き人々を、思った。

祓いの、御幣は、使用しない。
最後は、拍手である。

終わった後で、写真を撮った。
最初の写真より、明るい光がある。

誰とも、知らない、亡き日本兵の、慰霊を思い、建立された、慰霊碑は、誰かが、訪れて、慰霊の思い深く祈るべきである。

昨日の、野戦病院跡の、お寺の住職が、タイ・ビルマ戦線の、慰霊のきっかけを、与えたという。

しらべかんがさん、率いる、一団が、慰霊のために、そのお寺を、訪れた時に、住職に言われた。
あなたがた、日本人は、人間であろうか・・・
ここには、多くの日本兵の遺骨が、ある。
それを、そのままにしている、あなたがた、日本人は、それでも、人間なのか・・・

一団の中には、生き残りの方もいたという。
そして、その人の口から、チェンマイに向かう途中で、多くの兵士が亡くなったと、聞く。

最初は、少し穴を掘り、埋葬した。
その後は、土をかけて、埋葬した。
そして、最後は、遺体を踏み付けて、歩いたという。

それほど、大変な道のりだったのだ。

その後、一団は、慰霊の団体を立ち上げて、遺骨収集に専念することになる。

バンカート学校の敷地内にある、タイ・ビルマ戦線戦病歿者追悼乃碑が、その成果である。
私と、コータは、四度そこを、訪れて、追悼慰霊の儀を行っている。

辻さんと、千葉君は、二度目である。

すべての、遺骨が、収集されたのではない。
まだ、どこかに、遺骨は、ある。
しかし、何処にそれがあるのかを知る、タイ人の方々も、亡くなり、解らない。

山川に、野原に・・・
今は、自然と同化して、自然に帰っているだろうと、思う。

その霊位に対して、敬意と、哀悼の意をもって、望む。

忘れては、いないという、気持ちを示す。
それだけでも、十分な慰霊である。

名残惜しく、お地蔵さんと、分かれた。

また、再び、ここに来ることが、出来るように、と、私は、思った。
その辺り一帯が、慰霊の場所である。

posted by 天山 at 00:00| チェンマイの風 平成22年10月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月06日

チェンマイの風 6

お地蔵さんの、お寺から戻り、小西さんと、遅い昼食を、ホテルで取る。

それで、今日は、タイマッサージを受けようと、皆、話し合う。
少し休んで、マッサージの店に行くという。
コータが、それでは、通りに面している店より、少し小路に入ったほうが良い店があると、辻さんと、千葉君を誘う。

私は、いつもの、安い店に行くことにする。

皆が出てから、私も、出た。

安い店は、料金が、すべて、50バーツ、150円値上がりしていた。
更に、知るマッサージ嬢が、一人もいない。
皆、年老いた人、そして、一人の、レディボーイである。

私は、どう言う訳か、レディボーイと、気が合わないらしく、その彼女に、睨まれた。

店に入った以上は、マッサージをするべきだと、フットマッサージを頼んだ。

一人の、おばさんが、私の足を、洗う。
そして、待つ。しかし、中々、治療が始まらない。
随分と待った。もう、限界だと思い、また次にしようと、思ったときに、一人のおばさんが、店に入ってきた。
その、おばさんが、フットマッサージの担当だった。
電話で、呼び出されたのだろう。

ようやく、マッサージが始まった。
しかし、生ぬるいのである。
オイルを塗り、ただ、撫でるようである。
力が、出ていない。

これは、私には、拷問に近い。
ただ、撫でられるのは、相手の気を吸う。
つまり、おばさんの、気を取ることになる。

片足だけで、止めようと思うが、何となく、躊躇する。
これでは、客は、付かない。

以前いた人たちは、こんなことは、なかった。
残念。
ここには、二度と来ない。

拷問のような、フットマッサージを終えて、諦めた。
今回は、マッサージは、これで、やらないと、思った。

周辺の店も、皆、値上がりしていた。
以前が、安すぎたのだ。

一時間、100バーツである。300円。
マッサージ嬢の、取り分は、30バーツ、90円である。

だが、コターと、後の二人は、とても、満足したマッサージを受けたという。
矢張り、小路に入ると、良いという、結論である。

辻さんは、そのマッサージ店に、再度行くほどだった。
兎に角、力が強い。テクニックがあるという。

料金は、高めである。
一時間、250バーツである。750円。
日本のマッサージと、比べると、天地の差であるが。

しばらく、皆、お休み状態になった。
今夜は、絶対行くと、決めた、チェンマイカレーの店で、夕食をする予定である。

辻さんの、奢りである。
だが、どう頑張っても、四人で、300バーツ以上は、食べられない。
実に、安い。

四種類のカレーを注文し、それに、カオニャオという、もち米で、食べる。
実に、美味しい。

七時に出て、八時にホテルに戻った。
私は、それで、十分である。
ついでに、果物を買う。

一つ、10バーツ、30円で、パイナップルと、スイカと、メロンを買う。
皆、食べやすく、切ってある。

こんなところが、タイの良いところでもある。
夜店の屋台で、食事をすれば、更に安く食べられる。
25バーツから、30バーツで、食べられるのだ。

ホテルで、食べる、十分の一の料金である。
麺類などは、そこで、食べると、美味しい。

ただ、食器を洗う場面を見ると、戸惑う。
二つの水の桶で、繰り返し洗うのだから、不衛生である。

食べる場合は、それを、見ないことにする。

だが、食堂で出される水や、氷は、安全になった。
以前のように、戸惑いなく、口に出来る。

三年前は、口に出来なかった。
氷も、危なかったのだ。

タイの、衛生も、進化したのである。

私は、早々に寝ることにした。
コータも、疲れたらしく、夜の街には、出掛けない。

そのまま、朝、五時まで、寝た。

目覚めた日は、コンサートの開催日である。
私は、五時過ぎに、ホテルを、出て、歌う歌詞を覚えるために、ターペー門広場に出て、歌の練習をした。

今回は、軍歌も、歌う。

posted by 天山 at 00:00| チェンマイの風 平成22年10月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月07日

チェンマイの風 7

第四回、日本の歌、メモリアルコンサートは、夜、六時開演である。
会場入りは、五時。

それまでに、時間がある。
ホテル前の、食堂で、四人で、食事を済ませてから、私は、少し休んで、矢張り、マッサージに行くことにした。

新しい店を探す。
沢山あるので、ひとつ一つの店の前で、中を確認する。
小太りの女を、捜す。
力があるからだ。

そして、若ければ、なお、いい。
と、一軒の店の前に、二人の女性がいた。

マッサージと、呼び掛けられる。
タイマッサージ、200バーツである。
料金は、店により、色々違ってきた。統一していない。

よしと、タイマッサージをすることにした。
一時間である。
力が強い・・・これは、良い。
だが、古典的なマッサージで、下半身を40分ほど、揉み解す。
足を徹底的に、揉むのだ。

それもいい。しかし、私は、上半身も、そのように、して欲しい。が、無理。
バンコクなどの、マッサージは、変化が、著しい。
日本人の体質を見抜いて、上半身を、しっかり、揉むマッサージも現れた。

日本人は、肩から、肩甲骨が、一番、凝る。
それに合わせた、マッサージの、技術が欲しい。

まあ、満足して、終わった。
チップを、20バーツ渡す。

ホテルに戻り、歌の歌詞の練習をする。
今回は、加藤隼戦闘隊を歌う。
軍歌である。
実に、勇ましい歌。

エンジンの音、轟々と、隼は行く、雲の果て
翼に輝く日の丸と、胸に描きし若鷲の
印は我らが、戦闘機

開戦により、マレー、ビルマ戦線で、武勲を立てた、加藤隼隊である。
だが、加藤中佐は、戦死する。
それを、映画にして、この歌をつけた。
当時は、国民の意気を高めるものだった。

子供から、お年寄りまで、幅広く集まると、聞いていた。
童謡から、歌謡曲、歌曲まで、実に幅広い、プログラムを作った。

私は、浮波の港、王将、加藤隼隊、男の純情、君忘れじのブルース、そして、人生の並木道である。

一部であるから、最初は、タイ国王賛歌、そして、君が代斉唱である。
その後、私の舞台になる。

四回目ということで、今までに無い曲をという、アドバイスを頂いていた。

男の純情、という、歌を入れたのは、意味があった。
前月、フィリピン、ネグロス島への、慰霊に出かけた。
誤って、バコロドではなく、トゥマゲッティに飛んだが、ネグロス島の戦記を読み、兵士たちが、励ましあうために、歌った歌の中に、それが、あった。
手記の作者は、その歌詞まで、入れていたので、相当の思い出があると、見た。
それで、ネグロス島の、戦禍を紹介し、この歌を歌うことにした。

男、命の、純情は
燃えて儚い、金の星
夜の都の大空に
曇る涙を誰が知る

戦死、病死、餓死・・・
そんな中で、歌を歌う。
せめてもの、慰め。
私は、そんな心境になったことはない。
彼らは、次に死ぬのは、俺だと、思いつつ、歌う。

ホールは、ホテルから、歩いて、すぐである。
出発は、四時半。コータは、四時に出た。
小西さんたちが、垂れ幕を張るために、四時に出ますということだったからだ。

辻さんは、絽の黒留袖、私は、緑の、絽縮緬を着た。
それだけでも、目立つ。
そして、お客様も、着物姿を喜ぶ。
中々、着物姿は、見られないのである。

ホールでは、すでに、小西さんたちが、第四回 天山 チャリティコンサート in チェンマイ、という・・・

驚いた。
天山である。
チェンマイ在住の、書家、書道師範の方が、いつも、書いてくださる。

天山の文字が、一筆で、書かれている。
勿論、その部分は、日本に持ち帰った。

来年は、第五回、天山チャリティコンサートになるのだろうか・・・

顔馴染みになった、皆さんと、会うのが、楽しみである。

辻さんが、リハーサルをはじめた。
千葉君との、共演である。
私は、外で、歌詞を覚える。

静かに暮れる、チェンマイの夕暮れ。

不思議なものである。そして、あはれ、である。あはれに懐かしい。

posted by 天山 at 00:00| チェンマイの風 平成22年10月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月08日

チェンマイの風 8

コンサート開場は、五時半である。
私と、辻さん、そして、小西さんの奥様が、受付に立った。

出演者も、受付に立つというのが、私の方法。
いらしてくださる、皆様に、ご挨拶する。

お久しぶりです、お元気ですか
待っていましたよ
楽しみにしていたんですよ

更に、初めて来られた方は、
情報がなくて、今回初めて、知りました、という、老夫妻もいらした。

奥様の方が、何と、ご祝儀を包んできたから、驚いた。
おめでとうございます

昨年よりも、人が多い。
ようやく、知れ渡ったようである。といっても、それは、小西さんの、お陰である。
至る所に、チラシを、配布し、チェンマイ在日の人たちが見る、フリーペーパー、チャオという、雑誌に、二度も、取り上げていただいた。

感謝しても、足りない。

開演前、5分。
私たちは、小西さんの奥様に、後を頼み、楽屋に入る。

本日は、四名全員が、舞台に出て、タイ国王賛歌を歌う。そして、全員で、君が代斉唱である。

六時に、小西さんの挨拶が、はじまった。開演である。

そして、私たちが、呼び出された。

私が、それでは、皆さん、ご起立ください。
タイ国王陛下に対し、敬意を表して、国王賛歌を歌います。
私は、歌詞を見て、コータは、覚えているので、そのまま。
辻さんが、伴奏である。
そして、千葉君が、立つ。

国王賛歌は、通常のタイ語ではない。
王室への、特有の言葉である。

発音が、難しい。しかし、タイ国において、国王賛歌を歌うことは、とても、意義あること。それも、日本人である。

タイでは、国歌斉唱、国王賛歌の場合は、起立する。
タイ人が、起立しない場合は、懲役刑がある。

カァオラチャプターーーー
静かに始まり、高揚して終わるという、歌である。

歌い終えると、自然に、拍手が起こった。
そして、君が代斉唱である。
日本人全員が、斉唱した。

コータ、千葉君が、退場して、私は、辻さんのピアノ伴奏で、浮波の港、を、歌う。

私は、舞台全体を使う。
要するに、動き回る。

日本の、高度経済成長が、始まった年に、大流行した歌があります。
王将です。

戦時中、この歌が、国民の戦意を高めました。
今は、軍歌を嫌うのではなく、その軍歌を歌った時代を、検証するという、意味で、興味がもたれています。

開戦により、マレー、ビルマ戦線にて、武勲を挙げた、加藤隼戦闘隊です。その、加藤中佐も、戦死しました。

この歌では、辻さんも、高揚して、歌詞を、伴奏しながら、朗読するという、ハプニング・・・
私は、それを、手で、制した。
歌い終わって、拍手を頂き、辻さんが、退場する。

そして、千葉君の、伴奏で、男の純情を歌う。
その前に、ネグロス島の、戦禍について、話した。

戦死、餓死、病死だけではなく、力尽きた兵士たちが、温泉に浸かりながら、息を引き取るという、その場面を読みまして、私は、佇み、何度も、読み返しました。
その遺骨は、川を通り、海に出て、日本に流れついたでしょうか。

その彼らが、励ましあって、日本の歌を歌ったとあります。
中でも、この歌の、歌詞が、書かれてあり、思い出深いものと、感じました。

そして、君忘れじのブルース、人生の並木道。

私の、舞台が、終わった。
千葉君の、ソロ演奏で、一部が、終わる。

冷房が効いているが、汗だくになる。

これで、また、一つ、予定を、こなした。
私は、辻さんのステージを、楽屋と、ホールの扉から、聴いた。

童謡を歌う辻さんと、お客様が、一緒に歌っている。
感動した。
辻さんは、何も言わなかった。しかし、皆さんが、歌いだしたのである。

最後の、二曲は、私の作詞したもの。
南の島で、亡くなられた方を思い、作詞した、帰り来ぬ風、である。
そして、逢いたくて。

あなたに逢いたくて生まれてきたの

終演である。

再び、お客様を、お送りする。
来年も、待っています
お元気で
次も、期待します

初めて来られた、81歳の男性の方は、感動した、面持ちで、このようなコンサートが無くて、残念に思っていた。今は、皆、作り物のコンサートだ。生の声を聴きたかった。という。

そして、昔を思い出したと、頭を下げた。
来年も、生きれていれば、是非きます

戦争体験者である。
気持ちは、よくよく、解った。

お客様を、送り出して、手際よく、後片付けをして、ホテルに戻る。

小西さん一家と、ホテルで、食事をする。

私は、何も食べられない。
疲れすぎて、口に入らない。
ただ、ココナッジュースを飲んだ。

兎に角、四回目を、無事に終えた。
すべては、小西さんの、協力のお陰である。
私たちだけでは、出来ないこと。

再度、小西さんに、お礼を述べた。

そして、来年のことである。
一年準備をしても、一時間半で、終わるコンサートというもの、人生に似る。

疲れた私は、来年は、一度、お休みしたいと、思うのだが・・・
いや、明日になれば、また、来年のコンサートを考えるはず。

来年は、五回目である。
そう、生きていれば、出来る。

posted by 天山 at 00:00| チェンマイの風 平成22年10月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月09日

チェンマイの風 9

10月3日、日曜日、朝、10時出発。
昨夜のコンサートの熱も、覚めやらぬ間に、カレン族、トゥンルアン村へ、出発である。

途中、バンカート学校の、新しい寮生たちに、衣服支援を行う。
その、男子寮は、日本政府の支援で、造られた。

女子寮もあるが、今回は、男子のみに、支援する。

バンカート学校敷地には、タイ・ビルマ戦線の慰霊碑があり、先日、慰霊に訪れている。

その、慰霊碑を抜けて、新しい男子寮に、向かう。

すでに、私たちを待っていて、椅子が、並べられていた。

小西さんの車に、総勢、六人乗った。
後ろの荷台に、コータと、小西さんの奥様、お嬢様が乗っていた。
タイでは、珍しいことではない。
荷台に人が、大勢乗る。

支援物資があるので、バウンドがあり、乗り心地がよいと、コータは、寝ていたようである。

到着すると、先生と、少数民族の生徒たちが、やって来た。
私たちは、急いで、衣服を出した。
男子物を、分けてあったので、即座に、手渡す事が出来た。

机の上に、衣服を並べて、自分の好きなもの、また、家族のために、必要なものを、取るようにと、言った。
最初は、遠慮がちだったが、先生たちに、促されて、生徒が、次第に、衣服を物色する。

寒い季節のものを、主にして、今回は、持参した。
ジャンバーや、ジャケットなども、必要になってきたのだ。

タイ、ラオス、ベトナム、ミャンマーなどの、北部地帯は、寒冷化が進み、11月から、1月にかけて、気温が、一気に下がるという。

寒さで、死者も出るほどである。

それは、意外に知られていない。
東南アジアは、暑いとばかり、考えている人たちが多い。

生徒たちは、一つ、二つと、取り分けた。
一通り、行き渡り、一段楽する。
私たちは、もてなしの、水と、お茶を、頂いた。

そして、私が、挨拶した。
時々、こうして、衣服を持ってきます
皆さんと、友達になるのが、楽しみです
また、会いましょう

一人の生徒が、代表して、挨拶した。
このたびは、ありがとうございます
心から、お礼を申し上げます

その生徒は、チェンマイ大学に入学が決まったと、先生が、仰った。

少数民族の生徒たちは、すべて、奨学金などで、学校に通う。
優秀な成績なのだろう。
彼も、自力では、大学進学は、出来ないはずだ。

私は、昔、札幌で、アジア人留学生たちへの、ボランティア活動をしていたことを、話した。
北海道大学には、タイからの、留学生も、多かった。

今では、帰国して、チェンマイ大学の、教授になっている人もいる。

ただ、日本での生活と、アジア人に対する、差別意識に、挫折する留学生もいた。
甚だしい場合は、自殺である。
タイ人の、女性留学生が、自殺した。
勿論、そのことは、話さなかった。

日本人は、白人に対しては、歓迎するが、アジア人を、見下げてみる人が多い。
極めて、悪質な、差別意識である。

タイでも、少数民族は、少なからず、差別の対象にされている。
残念なことだ。

就職に際しても、タイ人でなければ、採用されないことが多いと、聞く。
であるから、少数民族の学生が、就職するには、余程の、学力と、才能が要求されるという。

チェンマイ最初の夜に、タイ舞踊の食事に出掛けたが、そこでは、少数民族の、踊りも、紹介された。
彼らは、その芸や、民芸品を売って、細々と、生活を立てている。
方法が無いのである。

または、女性は、マッサージ嬢になる。
それでも、駄目な場合は、体を、売る。

住む場所も、山岳地帯が多い。
町から、遠く離れた場所に住み、文明とは、無縁な生活である。
それは、一面、良い。しかし、文明化に、着いてゆくことも必要なのである。

学歴も、必要である。
里親制で、支援するのは、大半が、少数民族の、子供たちである。

自給自足の生活で、満足できるのは、ある程度の、年齢の人たちだが、若者は、町に出てゆかなければならない。
稼ぐことが、必要になる。

どうしても、お金が必要になるのだ。
その、丁度よい具合を、見て、民族の、誇りを失わない生き方が、求められる。

私たちは、また、国王賛歌を、そこで、歌った。

少なくても、味方がいると、思う心が、強くさせる。私たちは、彼らの味方になりたいと、思う。
出来ることしか、出来いのだが・・・
再会を約束して、カレン村に、向かった。

posted by 天山 at 00:00| チェンマイの風 平成22年10月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月10日

チェンマイの風 10

カレン村へ行く道の途中に、小西さんが、瞑想を行っている寺がある。
そこに、立ち寄った。

中に入ると、丁度、瞑想指導の、ご住職がいらした。
何の飾りもない、タイの僧侶の衣を着ていた。

自然体で、どこにも、力が入らない姿勢である。

自然と、同化しているのである。

私たちは、小西さんの案内で、岩場の瞑想場所に、向かった。
大きな、磐穴である。

一人の僧侶が、瞑想をしている。

私たちは、その、大きな磐の口の前に立ち、中を眺めた。

そこに立つと、まず、息がしやすい。
そして、少しすると、体の弱っている場所に、痛みが起こる。
私は、目の奥から、側頭部である。

鼻が通るのである。

瞬間、この場所では、病が、治ると、直感した。

ちなみに、古神道では、山の中の、修行を、危険視する。
とても、危ないのである。
山の霊的存在に、憑依されたり、とんでもない、霊能力を得たりする。

滝行などは、最悪である。

しかし、この場所は、入り口が広く、公開されている。
隠されているのではないから、安全であると、感じた。

息を、意識できる。
即座に、息遣いを意識できるとは、凄い場所である。

日本でも、パワースポットと呼ばれる場所があるが、これほど、息を意識できる場所は、少ないし、大半の場所、勘違いが多い。

気が付くと、他の皆は、次に移動していた。
私も、彼らを追いかけた。

建物の中で瞑想する、場所に案内された。
そこには、誰もいない。
が、しかし、私には、二名、あるいは、三名の気を感じた。
つまり、霊体になった、方々が、瞑想していると、感じた。

そのことは、誰にも言わない。

日本の、修験道の場所には、そういう、霊体が多い。
死後も、その場所にて、修行するのである。
それは、あまり、良いとは、言えない。

修行自体に、囚われているからだ。
つまり、自縛である。

だが、あの、洞窟は、素晴らしかった。
多くの瞑想希望者が、やってくるという。

初期仏教の頃の、瞑想法を、受け継いでいると、いう。
つまり、釈迦ブッダの瞑想である。

それが、宗派、宗教を超えて、世界に広がっているらしい。

先の、住職様は、その、指導者の中でも、特出している。

宗教、特に、仏教は、行が、中心の教えである。
思想ではない。
行為が、先行する。

更に、瞑想法は、禅とは、違う。
日本の禅は、中国禅である。
インドの、ヨーガ、ブッダの瞑想法とは、異質なものである。

言葉が、先に来るものではない。
感じることが、先に来る。

解らないという言葉があるが、解らないことは、言わない。感じることなのである。
瞑想とは、感じる力であり、更に、同化する力である。
ただし、我というものを、失わない。

我というものは、とでこにも、無いという、詭弁は、言わない。
ただ、その我が、変容するのである。

兎に角、小西さんの、瞑想修行の場を、見ることが、出来たのが、幸いだった。

車に乗り込み、更に、山の中に入る。
路は、次第に、揺れる。

山道だらだら・・・
村の入り口に入ると、象の出迎えを受ける。

カレンの男たちは、象使いでもある。

すぐ目の前の、象は、迫力がある。
私は、メロンの食べ残しを、象の鼻に渡した。
その、鼻に、巻かれると、大の大人でも、危ない。

そのうちに、犬が出てきた。
鶏が出てきた。
更に、黒い子豚が出てきた。
いよいよ、カレン族の村である。

懐かしい風景である。
私は、二年前に、来ている。
ああーーーー懐かしい。


posted by 天山 at 00:00| チェンマイの風 平成22年10月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。