2011年01月01日

明るい悲惨、ビサヤの私

寒い時期、暖かい国、フィリピンの、セブ島、ネグロス島へ出掛けるという、楽しい思いを抱いて、部屋を出た。

中は、夏物の、絽の襦袢に、単の着物、袷の羽織・・・
変な、気分である。
夏、春、冬物を、着ているのである。

そして、セブ島・・・
ああ、朝夕が、涼しい、いや、寒い。
夜は、もっと、寒い。

フィリピンは、今は、乾期の時期と、思いきや、セブ島、ネグロス島は、雨季なのである。

雨が降ると、益々寒い。
日本の冬物の、ジャンバーを着ている人もいた。

勿論、気温は、寒いといっても、20度はあるはず。

私は、暑い国というイメージを強固に持っていたので、寒くても、半袖。さらに、タイパンツ姿である。

そして、悪いことに、泊まるホテルは、古くて安いか、ゲストハウス。
夜も、送風が必要なのである。
臭いから・・・

イメージというのは、恐ろしい。
南国なのだという、思いが、薄着にさせる。
後半、くしゃみをして、鼻水が出て、ああ、今は、寒いと、納得した始末である。

飛行機は、セブ島直行便。
最初は、セブシティに入る。

前回も、泊まったホテルである。
観光地は、マクタン島である。

セブシティに泊まり、ネグロス島に行く、二日前に、マクタン島に、移ることにした。

一月の第三日曜日は、年に、一度の、お祭り、サントニーニョ祭があるという。
それで、ホテルの値段が、高くなっていた。

900ペソが、1000ぺソである。2000円。

ツーベッドルームである。
バッグを、六個。とても、大変な荷物。支援物資である。

コータのバッグの、半分も、支援物資。
兎に角、支援物資である。

だが、国内線に乗る前に、少し、支援をして、少なくしなければならない。
その前に、日本でも、荷物の分量が多く、機内持ち込みにしたほど。

50キロ以上は、持ち出したことになる。

セブシティでは、二日の間に、以前のストリートチルドレンに、逢うという。
とても、嬉しかった。

まず最初の、子どもは、すぐに、私を見つけた。
一緒に食事をすることになる。

着いた、翌日の朝のこと。

それで、彼の友達にも、パンを買って渡した。
驚いたのは、彼は、自分の注文したチキンと、ご飯を、三分の一食べると、他の、友達に、渡したことである。

さらに、私に、何も要求しないのである。

それは、翌日の、子供たちも、そうだった。
六人組みの、ストリートチルドレンが、目に入った。
見覚えのある顔。

あーーーー
元気・・・

一人の子が、私に、服を貰ったと、言う。
そうそう。
しかし、何も、要求しない。

彼らは、金にするために、ダンボールを集めて歩いていた。

その時に、渡さなければ、時期を失うストリートチルドレンが、私に、何も要求しないという・・・
実に、驚いた。

その驚きは、この旅の、驚きと、重なる。
多くの、驚きがあった。

私は、彼らの友達になっていたのである。
だから、要求しないと、気づく。

新しい子供たちは、私に、手を出す。物乞いである。
翌日も、その場に、行くと、子供たちが、手を出すので、パンを買う。
どこかで、私の行動が、見られている。
さらに、大人までも、手を出す。
ストリートアダルトたちである。

お金ではなく、食べ物を上げると、ストリートアダルトたちも、ニセモノの、バイアグラや、コンドームなどを、売りつけないことも、知った。

コータと、食事をした後、コーヒーを飲みながら、ホテルに戻る途中、向こうから、中学生くらいの、女の子三人が、やってきた。

私は、子供たちに上げた、パンの残りを、一つ持っていた。

ばったりと、私たちの、前に来た。
そして、手を出す。
パンを一つ渡すと、コーヒーも、欲しいと言う。
それが、とてもスムーズで、堂に入っていた。

私も、コーターも、コーヒーを渡した。

サンキュー
すれ違いざまの、行為である。

セブシティは、そんな、子供たちと、大人たちで、溢れている。

だが、観光地のマクタン島は、まだ、酷いのである。


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2011年01月02日

明るい悲惨、ビサヤ諸島

ビサヤ諸島は、フィリピン群島の中央に位置する。
ルソン島と、ミンダナオ島に、はさまれるようにしてある。

幾つかの大きな島と、多数の小さな島で構成されている。
主要な島は、セブ島、ボラカイ島、ボホール島、ネグロス島、パナイ島、サマール島、レイテ島、シキホール島など。

セブシティは、メトロ・マニラ、ミンダナオのダバオに次ぐ、フィリピン第三の都市。

その中で、第二次大戦の、激戦地となったのは、ルソン島北部、レイテ島と、ネグロス島であり、さらに、ビサヤの海も、大戦の場になった。

一時期、日本は、フィリピンを侵略していたのである。
そして、大戦の舞台とも、なった。

日本兵だけではなく、連合軍、フィリピン軍の犠牲者も、多数に上る。
勿論、市民も、犠牲になった。

周囲が、海であること。
それは、人の心を、明るくする。
開放的である。

だが、反面、反省無く、無軌道に生きられる。
フィリピンは、生死が、隣り合わせにある。
殺人が多いのは、開放的な性格が、悪く生かされたときである。

僅かな、お金のためにも、人を殺す。

怒らせると、最後に銃を持ち出す。
遺産相続などでは、簡単に人を殺すのである。

いつ、そのような目に遭うかもしれない。だから、生きている間は、明るく楽しく、である。

開放的なのが、良くも、悪くも、生かされる。

更に、権力も、金も無い者が、殺されても、あまり、気にされないのである。

命が、とても、軽い国である。

ネグロス島から、セブ島に、戻る日が、セブシティの、最大のお祭り、セントニーニョ祭であり、セブシティのホテル、ゲストハウスは、満杯だった。
それも、通常利用金の倍の金額。
予約も、取れない状態だった。

私たちは、それで、マクタン島の、ダイビング専門の人たちが、泊まる、安いホテルにした。ただ、泊まるだけの部屋。

30ドルの、一割引で、泊まった。
目の前が、海である。
ロケーションは、いい。

そこで、海岸に出たときに、見た一つの光景は、男の子が、子猫を、海に投げ込んで、殺すところである。

どうして
私が、付近の、おばさんに、尋ねた。
あの猫は、耳が無いの。それで、殺すのよ
えっーーー

もし、これが、タイならば、逆の対応になっただろうと、思う。
耳の無い、不自由な猫だから、大切にするという。

ということは・・・
障害児が、生まれたら・・・

そこまで、考えて、考えるのを、止めた。

話しが前後するが、セブシティで、二泊して、私たちは、マクタン島の、以前泊まった、古いリゾートホテルに、引越しした。
1200ペソである。

その辺りの、リゾートホテルとは、格段に安い。
だが、私は、部屋の前に、大きな、ベランダがあるのが、気に入っていた。
海は、見えない。
更に、海に出るためには、別の道を行かなければならない。

一泊、一万、二万の、ホテルが、ざらにある。
ツアー客が、利用するのである。

今回は、マクタン島のスラムに、支援することにした。
というのは、最初は、海洋少数民族の人たちに、衣服支援をしようと、予定していた。
ところが、最終的に、彼らの多くは、セブシティの海岸に移動していると、知ったのである。
それも、マクタン島に、向かうタクシーの中で、である。

私たちは、マクタン島から、ボートで、マクタン島から見える、オランゴ島に渡り、バチャオ族の人たちに、支援をすることにしていたのだ。

慌てた。
戻るにも、ユーターンする道が無い。
結果、次回にすることにした。

オランゴ島には、船外機を取り付けたボートであるから、どんな状況になるのかは、想像できたが・・・

そのホテルに、三泊する。
その間に、色々と、見て廻った。

リゾートホテルに続く道ではない、地元の道。
そこは、スラムに続く道である。

コータが、探した、スラムへ、二日目に出掛ける。

特に衣服が必要な、スラムを、見つけたのだ。
そして、おおよその、時間も、指定して、出掛けた。
朝の、十時頃に、行くと伝えていた。

ホテルから、ジプニーに乗る。
一人、7ペソである。14円。

バイクタクシーでも、50ペソかかる。100円。

十字路で、降りて、バッグを持って、スラムに向かう。
その間に、色々と、勧誘される。
タクシーは、勿論、色々な勧誘である。

私は、コータに言った。
帰りは、彼らを、ピタッと、黙らせてみるよ。

その通りになった。
私たちが、支援をして終わり、元の道を戻ると、勧誘の男たちが、やってくる。

私は、彼らの言葉を、手で抑えて
アイム プレイ
イノミネ パトリ エット フェリ エット スピリット アーメン
ゴット ビー ウイズ ユー

すると、男たちは、じっと、その言葉を聞いて、立ち去るのである。

それは、カトリックの司祭が、行う、祝福の言葉、祈りである。

右手の、所作が特別なものなのである。
それは、秘密にして・・・

ところが、最後になり、ある男に、それを行って、ホテルに戻ろうとして、歩いたときに、私は、着物の後ろが、破けて、尻が出ていたのである。

それを見た、勧誘の男たち、十名ほどが、大爆笑である。

子どもと、写真を撮るために、しゃがんだ時に、着物の尻が、汗で、くっ付いて、破れたのである。

私は、ノーパンである。
美しい、尻の肉が、見えたのである。

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2011年01月03日

明るい悲惨、ビサヤ諸島 3

日本にて、セブパシフィックを予約していた。
セブ島から、ネグロス島の、バコロド行きである。

朝、8:30発である。
ホテルから、6:30に出発する。
タクシーを予約していた。

300ペソだと言う、運転手。
またまた、はじまった。
兎に角、タクシーは、吹っ掛ける。

だが、それも、理由が解っている。
タクシーは、自分の持ち物ではなく、借り物であり、一日当たり、セブシティだと、1400ペソ、マクタン島だと、700ペソで、借りているのだ。

それでも、空港までは、近いし、高い。
コーターが、250ペソと、値切った。
すると、素直に従う。

そして、運転手が、話し始める。
仕事の大変さである。

二時間半かかる、町から、出稼ぎに来ているのである。
子どもが、9人で、また一人生まれると言う。

余計な話しだが、いつも、思う。
産児制限の教育がされていないのである。
更に、カトリックの国。
これが、問題である。

快楽のセックスは、禁止であり、妊娠した場合は、生むべし、である。

コンドームの配布も、ままならないのである。

カトリックは、これで、多くの支持者から、見放される。
このままでは、貧しい人々の養成を、推し進める。
せめて、若者に、避妊の教育を推進するべきである。

ストリートチルドレンの多くは、若い親から、生まれる。そして、育てられなくなり、町に放り出すのである。

よほど、頭のおかしい人でない限り、性欲というものは、健全にしてある。
それを、抑制せよというのは、無理。

性欲を、快楽と、決め付ける、宗教の教義は、実におかしい。
快楽あっての、人生である。
それは、無軌道ではない。健全な、欲望である。

だから、こそ、避妊の教育と、推進が必要なのである。

貧しい国は、特にそうである。

更に、問題なのは、子どもは、多い方がいいのである。
何故か。
死ぬからである。
病に罹っても、病院に行けない。つまり、治療無しで、死ぬ。

子どもが、多ければ、その中の一人でも、成功すれば、儲けものである。

海外に出稼ぎに出て、どれほど多くの、家族、親族が助かるか、である。

一人の、収入を当てにする。
フィリピンの、最悪の国情である。

運転手が、私たちの、活動を聞いて、言う。
私の町に来てくれ。
貧しい人で、溢れている。私たち家族は、政府に、貧しい者として、認められていると。

ああーーー
そう、どこに行っても、そう言われるのである。

搾取と、賄賂の国。
人命軽視の国、フィリピンである。

権力と、金を持つ者だけが、生き残る。
更に悪いのは、権力、金を持たない者は、人間として、認められないのである。

罪に問われても、権力と、金を持つ者は、罰せられないという。

5000円でも、金のために、人を殺す国。
民主主義とは、笑わせる。

これは、スペインの植民地時代からの歴史を書いて、説明しなければならない。
だが、省略する。

私たちは、たっぷりと、運転手の、話を聞かされて、空港に到着した。

国内線乗り場は、すでに、人が沢山いた。
早い時間の、飛行機もある。

前回、間違って出かけた、トマゲッテイ行きは、私たちの、一時間前に、飛ぶ。

水を持って乗り込めるので、私たちは、何本もの、ペットボトルを持参していた。

大きな物は、5リットルボトルである。
コータが、それ駄目じゃないのと、言う。が、私は、水は、いいんだから、駄目と、言われたら、文句を言う。

私は、常に、大声であるから、嫌われるか、銃で、撃たれるだろうと、思っている。

まあ、5リットルのボトルは、他のボトルに移せたので、問題なかった。

バコロドまでは、35分で、着く。

8:00までに、登場口にということで、無料インターネットと、タバコを吸うために、喫煙室に出たり入ったりする。

登場口には、人が並ぶからと、私は、8:00になっても、うろうろしていた。
すると、アナンスである。
驚いた。
私と、コータの、名前が、呼ばれた。
急いでください
えっ
何で・・・

それもそのはず。
登場口は無い。
飛行機には、バスで、移動するのだ。

焦って、行くと、ムッとして、係員がいた。
バスが、私たちを、待っている。
すでに、他の客は、飛行機に乗り込んでいた。

これが、タイならば、乗せてもらえなかった可能性がある。

私たちが、乗り込むと、扉が閉まった。
そして、すぐに、飛行機が動き出した。

はい、時間です、ではない。客が、全員乗ったら、出発なのである。


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2011年01月04日

明るい悲惨、ビサヤ諸島4

ネグロス島、バコロド・シライ空港である。

空港の、玄関にて、タクシーを捜す。
中々、見当たらない。
しかし、その辺に止まる車は、皆、タクシーなのだった。

あちらから、声を掛けてくる。
タクシー
ハゥマッチ
500ペソ

何、500・・・
冗談じゃない。
1000円である。

セブ島の、タクシーでさえ、セブシティまで、390ペソ。

何でそんなに、高いのだーーーー
私の声が、空港の玄関前に、広がる。

メータータクシー・・・・
と、叫ぶ。
だが、メータータクシーは、見当たらない。

そのやり取りを見ていた、一人の女性が、声を掛けてくれた。

その、知性溢れる、美しい顔かたちは、忘れられない。
美人。単なる美人ではない。
フィリピンに珍しい、才女の雰囲気。

私と、一緒に行きませんか。150ペソです。
コータと、話し合ってもらう。

一台の、大型バンが、来た。
それに乗り込む。

その前に、私は、他のタクシー連中に、よせばいいのに、こっちは、150だよ、なんで、そっちたは、500なんだ。
ウエルカム・サンキューだろう
大声で、怒鳴る。
勿論、日本語。

タクシー運転手たちは、私を避けて、目を逸らす。
この行為は、場所が違えば、銃で撃たれる。

コータは、何も言わずに、黙ってみている。
この場合は、止めると、もっと、激しくなることを、知ってのこと。

車に乗り込み、女性に、感謝を述べる。

彼女は、初めて、バコロドに来て、嫌な印象を持たれるのは、哀しいことですと、言う。

エィジアと、名を名乗る。
私たちも、それぞれ、挨拶する。

先に、私たちの、ホテルに向かってくれるという。
彼女の家は、ホテルのすぐ近くだという。

30分ほどの、車の中で、彼女との、会話が弾んだ。

そして、結果は、彼女のお母さんが、日本語が出来る。
私たちの、お手伝いをするという。
お母さんの名は、ロザンナさん。

ホテルに、電話をしてくれるということで、ホテル到着。
実際は、色々な話をしたが、思い出せない。というより、その美しい英語が、解らない、私には。

地元の、リサール大学を卒業して、フィリピン第一の、銀行に勤めている。
今回は、研修で、セブ島に出たという。

彼女の、目的は、ボランティアである。
仕事を辞めて、ボランティアをし、更に、地元の若者の、手本になりたいというのである。

世界で、というのではない。
地元を、もっと、よくしたいのである。

多くのストリートチルドレンがいる。
彼らは、若い親から、生まれる。
若い親は、育てられなくなり、町に放り出す。

エィデァさんは、それが、心痛い。
地元の若者の、手本になりたい・・・

私は、それだけで、感動した。
また、コーターも、である。

コータは、エィデアさんに、一目惚れ。

主席で卒業し、更に、ミス・リサールなのである。
その活動は、多岐に渡る。

一度、仕事を辞めて、本格的に、町のために、ボランティア活動をと、思ったが、友人たちに、猛烈に反対された。
いま、彼女は、その収入で、一家を支えているのである。
仕事を辞めれば、どんなことになるかは、目に見えている。

ホテルに着いた私たちは、兎に角、興奮である。

何と言う、出会い・・・

コータが言う。
先生が、怒鳴っていたから、出会った、と、ポツリ。

あのまま、500ペソのタクシーに乗っていれば、出会いはなかった。

それを言われて、私は、複雑な心境である。
コータは、私が、怒鳴れば、その後、疲れて、静かになるので、黙っているとのこと。
それに・・・
自分が、怒鳴られるより、いい。

何が、利するか、解らない。

この、バコロドの、三日間は、実に有意義であった。


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2011年01月05日

明るい悲惨、ビサヤ諸島 5

バコロドでの、ホテルは、誰もが知らない人がいないという、古くて、安いホテル。
一泊、750ペソ。1500円。

古いホテルは、部屋が、広いから、いい。
しかし、古いホテルは、矢張り、古いのである。

シャワーを浴びるときは、その都度、フロントに電話する。
でなければ、お湯が出ない。

更に、ねずみの住処。
二日目の、夜に、コータが、気づいた。

大きなゴキブリが出たと、コータが言う。そして、私に、ゴキブリ、潰せるよね、である。そう、私は、ゴキブリを、手で叩く。
今、出てきたから、殺して・・・お前は、女か・・・

しょうがないと、ベッドから、起きて、ゴキブリ退治に、立ち上がる。
だが、見えない。
あっ・・・走った。
そして、隙間を縫って、隣の部屋へ。

そして、寝た。
翌朝、食べ物が、少しずつ食べられていた。
私の、買った、干しイカまで・・・

ねずみ、だ・・・・・・
コータが、叫ぶ。

そうして、隣の部屋の、隙間に、なんと、ソファーを横にして、置いた。
夜中、そのソファーに、どんどんと、体当たりする、ねずみ。

さて、夕方、エィデアさんから、電話が、入る。
そして、お母さんと、代わった。
私が、電話を取る。

日本語である。

話して、これから、一緒に、ご飯を食べましょうということになった。
ロザンナさんは、日本食のレストランに、私たちを、連れてゆくという。
そのようにした。

コータに、日本食だよ、と言うと、高いね、と、答える。
確かに、海外の和食の店は、高い。

母と娘が、ホテルのロビーに、来てくれる。

予定の時間より、10分早く、来た。
曰く、日本の人は、時間を守る。だから、エィデアに、早くしなさいと、いったと、お母さんが言う。

ロザンナさんの出会った日本人は、よほど、良い人たちだったようだ。

タクシーに乗り、和食の店に向かう。
現地の人と、一緒だと、安心する。

タクシーで、42ペソで、到着した。
私は、50ペソを渡して、お釣りは、貰わない。

とても、大きな日本食レストランである。
オーナーが、日本人で、コックは、日本で修行した人たちである。

寿司から、うどん、そば、様々な、一品料理がある。
私は、大枚を覚悟した。

飲み物は、水を注文。そして、それぞれが、食べたい物を、注文する。
私は、旅の間、一切、酒は、飲まなかった。

私は、揚げ豆腐と、値段が高い、地元で有名なラブラブという魚の、煮付けを、頼んだ。
後は、皆に、任せる。

私は、日本語ができる、ロザンナさんと話をして、コータは、英語で、エィデアさんと、話しをする。
初対面とは思えないほど、うち解けた、雰囲気である。
それは、ロザンナさんが、日本人との付き合いを、知っているからだろう。

兎に角、打ち解けて、緊張感がないのが、良かった。
旅の間は、ただでさえ、緊張している。

そこで、二時間ほどを、過ごした。
料金は、1000ペソ程度。2000円である。
そんな高い食事は、しないが、それほど高い料金ではなかった。
ホッとした。

私たちの食事は、現地の人たちと、同じような、食堂で、食べる。
その値段は、150円から、200円程度である。

それに比べて、2000円の食事は、とても、高い。
だが、ロザンナさんは、日本にいた経験から、その程度の、金額は、高くないと感じでいる。

兎も角、打ち解けて、更に、明日、朝の十時に、ホテル出発ということで、約束した。

ホテルに帰る時は、ジプニーに乗る。
一人、7ペソである。14円。

何となく、私たちの、感覚が伝わったのだろうか。
帰りは、タクシーを拾わなかった。

こんな出会いは、実に稀なことである。
明日の、慰霊と、支援は、ロザンナさんが、手伝ってくれるので、余計な心配は、無い。

私は、ホテルに戻り、明日の、慰霊の場所を戦記から、確認する。

ネグロス島から、生還された、元日本兵による、戦記を持参してきた。

バコロドから、タリサイ村を通り、シライ市に出て、シライ川、そして、激戦地となった、山裾まで、行く。

実は、朝、ホテルに着いてから、昼にかけて、バコロドの海岸、更に、バコロドの、カテドラルの前の、無名戦死の碑の前で、慰霊を行っていた。

バコロドは、日本軍の司令部があった、場所である。
しかし、司令部がどこにあったのかを、知らない。ゆえに、海岸に出て、慰霊を行った。

日本軍が辿った、道を、明日、私も、辿り、所々で、慰霊を行うことにした。


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2011年01月06日

明るい悲惨、ビサヤ諸島 6

朝、10時、ホテルに、御願いした、レンタカー、運転手付、三時間、1000ペソが、到着したという、知らせが、フロントから、あった。

ロビーに下りると、ロザンナさんが、すでに来ていて、椅子に座っていた。

私は、ロザンナさんに、行くべき、場所を、話した。
最後は、マンダラガン山の、麓で、慰霊をしたい。そして、その付近の、人たちに、衣服を差し上げる。

ロザンナさんは、了解した。
そして、言う。
日本の、お寺があります。行きますか。
それでは、最後に、そこに、行きます。

国旗と、御幣にする神紙、支援物資を、持参して、出発する。

日本軍が、歩いた道を行く。

ダウンタウンから、出るまで、少し時間を要したが、それを、抜けると、スムーズに走る。

コータが、助手席に乗り、私と、ロザンナさんが、後部座席に乗る。
私は、戦記を手元にして、日本兵が、辿ったであろう、その風景を眺める。

当時と、風景は、変わらない。

サトウキビ畑が、続く。

その道でも、戦いがあった。
戦いつつ、マンダラガン山に、向かう日本軍である。

バコロドから、シライ市に向かう途中に、タリサイという、村がある。
そこでも、戦死者がいる。
その村の、どこかで、慰霊を、行いたいと思った。

運転手が、会社に電話をして、日本軍の、ゆかりの場所を尋ねていた。
ある、古い家があるという。そこを、日本軍が利用したとのこと。

運転手が、タリサイ村に入る。

ところが、金曜日は、マーケットが開かれる日であり、人が溢れていた。

その、溢れている、中に、車を入れた。

道に、敷物を敷いて、色々な物が、売られている。
人が多いので、車は、ゆっくりと、進む。

そうして、ある場所で、停止した。
運転手が、外に出て、確認するようである。

ふっと、横を見ると、フィリピンの英雄、ホセ・リサールの像があるではないか。
彼の、故郷なのである。

私は、ここでいいと、思った。

さて、運転手が、戻る。
そわそわして、落ち着かない。
車の下を見たり、自分のポケットを、探る。

ロザンナさんが、何か言う。
財布をスラれたらしい。

えっ
スリに遭った・・・

ズボンの後ろのポケットに入れていた、財布が、瞬時のうちに、抜かれたのである。

お金は、1000ペソあり、何より、運転免許証が、無くなったことが、ショックである。

免許証を所持していなければ、罰せられるという。

そこで、運転手の交代を、しなければいけなくなった。

私は、運転手に、そこの、古い家で、いいですからと、言い、国旗を持って、外に出た。
人ごみの中、古い立派な家の前で、祈る。

皆、注目していた。

兎に角、早く、清め祓いをして、立ち去ることだ。

朝からの、曇り空が、少し明るくなった。
太陽の光が、差す。

丁度、良い。
太陽を拝して、祝詞を上げる。
そくそくと、終わり、リサール像の前に戻り、写真を撮る。

運転手は、シライ市で、交代すると、言った。
それでは、シライ橋に向かってくださいと、ロザンナさんに、私は言う。

人ごみの中を、車が進む。

運転手は、ごめんなさいと、謝っているそうである。
私は、逆に、ソーリィ、ソーリィと、運転手に言った。

なんだか、申し訳ない気持ちである。

私たちが、スリに遭うというなら、話しは、解る。
現地の人が、スリに遭う。
なんとも、申し訳ない気分である。

シライ市に、向かう道路に出た。
車は、スピードを出して、走る。

さとうきび畑が、続く。
私は、この道を、兵士が、歩いたと思うと、感無量になる。

敗戦から、今年で、66年を経る。
こんな、遠くに来て、死んでいった、若者たち。
何を思う。

故郷を
遠く離れて
戦いに
出でたる兵士
あはれなりけり

連合軍の、大量の物量攻撃に対して、日本兵は、手も足も、出なかった。

死ぬ。
今日、死ぬ。明日は、死ぬ。

毎日が、死ぬことであった。
一万四千人の、日本兵のうち、一万人以上が亡くなったのである。

フィリピン、第三の激戦地である。


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2011年01月07日

明るい悲惨、ビサヤ諸島 7

その任務とは、これからの三、四ヶ月の短期間内に、ネグロス島北西部地区に、いわゆる、州都・バコロド市に比較的近距離のシライ町を中心にして、一大航空要塞を構築することだった。その要塞の基地のひとつが、今日から着手されるタリサイ要塞であるという。タリサイ基地の完成こそが、わが第九中隊に課せられた重大任務であった。
ネグロス島戦記 池 平八著
以後、引用は、すべて、ここから、取る。

私が、慰霊した、タリサイ村である。
タリサイにも、兵舎があった。しかし、今は、それを覚えている人はいない。

私たちの、目に入るのは、さとうきび畑であるが、その向こうは、田圃がある。
池氏は、その田圃の風景を、よく描写している。

この重作業、重労働は、一日の休みもなく続く。連日、灼熱炎熱の下、裸体の上半身は汗と泥、そして、涙が入り混じって皮膚の穴から浸透した。毎夕食後、全身をいくら水洗いしても、いくらこすってみても落ちない。背中であれ顔であれ、全身真っ黒。白いものはただ一つ、歯だけだ。
池 平八

車は、シライ市に向かっている。
私は、シライ川まで、行くようにと、頼んだ。

背中の皮も痛さを通り越して、血がにじむ。何回皮がはがれたことだろう。このごろでは、手拭でこすることもできない痛さであった。目だけが、異様に光る。といっても、それは他人の顔のこと。自分の周囲の戦友のものすごい形相。鏡がある訳ではない。自分の顔、形がどのように恐ろしく変わり果てているかは、知らぬが仏だ。ただ、戦友の変わり果てた、恐ろしいまでの形相を見て、己の顔もまたあのような鬼神の形相に変わり果てているのであろうと想像するのである。
そのころから、一人また一人と、マラリアやテングなどの南方独特の風土病に次々と倒れ、作業を休み始める戦友が出るようになった。
池 平八

シライ市に入り、橋に向かう。
そのシライ川には、山の温泉で、眠る如くに、亡くなった、兵士たちの、遺骨が流れた川である。

私は、早速、慰霊の準備をする。

木の枝を取り、御幣として、神紙をつける。
国旗を、ロザンナさんに、持っていただく。

橋の上は、大型のダンプカーが、時々、土ぼこりをたてて、走り去る。

丁度、太陽が出でいるので、神呼びを行う。
そして、祝詞を献上して、少し長い、追悼慰霊の儀を執り行う。

更に、この地で亡くなられた、すべての、兵士の皆様、連合国軍兵士、フィリピン兵士に、向かう。

日本兵の皆様には、お送りの音霊により、この地から、解放されることを、促す。

いつもの通り、日本へ、お帰りください。故郷へ。
あるいは、靖国へ。

兎に角、そこに、自縛することなく。

私が、祈る間、ロザンナさんも、祈っている。

清め祓いを、行う。

最後に、御幣を、川に流す。

一通り終えて、車に戻る。
運転手が、交代するという。
来た道を、戻り、少し待ってくださいと、言う。

道を戻り、少し広い場所に出た。
そこで、車を止めて、次の運転手を待つことにした。
しかし、中々、来ないのである。

丁度、街中で、車が、渋滞し始めている、時間帯のようだ。

「敵機だ、敵機だ。緊急退避、退避、退避だ」
「退避、退避だ」
避難命令の声が聞こえ。先刻までの、歓喜の坩堝が一瞬にして、恐怖の戦慄の淵にたたき込まれた。皆、右往左往しながら安全な場所を求めている。退避壕などを造成する時間は今までになかった。
次々と爆弾が投下される。爆煙が充満し、轟音と爆風で、恐怖が、全身を走る。上半身裸体の軽装の将兵が、眼前に次々とうつ伏せになる。目と鼻を両手でおおいながら伏せる。
池 平八

作業中に、攻撃を受けたのである。
最初は、友軍の飛行機だと、歓喜の声を上げていた。
しかし、それは、敵機襲来だった。

敵機は、造成中の滑走路を、攻撃するために、訪れたのである。

硬く締め固められて、太陽の光を受けて黒く輝いていた、昨日までの滑走路の姿はもうそこにはない。ほぼ完成に近い状態までに整備されて、友軍機による使用を明二十五日にひかえていたにもかかわらず、一度も友軍に使用されることのないまま、このように破壊されてしまったのだ。
池 平八

更に、滑走路を、また造成し始めると、また、敵機が襲ってきた。
遂には、兵士たちをも、狙うようになる。

ここ、タリサイの数ヶ月間、日常の重労働は、過酷で辛いものであったが、平和そのもののうちに過ぎて、戦争や戦場が存在することさえ信じられなかったのだ。昨日まで、いや正確には数日まではそうであった。
それがある日、突然「戦争」が異様な形をもって、何の前ぶれなしにやって来た。この数日の現象が、異様さが、真の第一線、戦場であるのかもしれない。
池 平八

私たちの通り道は、昔、戦場だったのだ。
だが、実感として、感じられない。

コータが言う。
平和な時に、ここに来られて良かった。
そう、コータの年齢以下の若者が多く、その地に兵士として、いたのである。

バコロドから、シライ市、そして、マンダラガン山の裾野と、その一帯は、どこで、慰霊をしてもいい。

見渡すと、マンダラガン山と、同じような、形の山が、もう二つ並んでいる。
三つの、山の景色は、実に、いい。

だが、その三つの姿を、すべて見られるのは、本当に天候に、恵まれた時である。
私たちは、セブ島に戻る日、その三つの姿を、空港のロビーで、見ることが出来た。


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2011年01月08日

明るい悲惨、ビサヤ諸島 8

シライ市内に入り、交代の運転手を待つ。
ところが、中々、来ない。

私は、車から、出たり入ったりを、繰り返す。
車の中は、冷房ガンガン、で、外に出ると、暑い。

結局、一時間を過ぎて、やって来た。
当初は、ホテルに、一時に、戻る予定だったが、二時になる。

ようやく、走り始めた。
行くべき場所は、空港を越えて、ギンバラオンという、山裾である。

その辺り、一帯を、ギンバラオンと呼ぶが、それぞれの、村には、名前がある。

私は、ある程度のところに、止まり、慰霊を行おうと、思う。

本当は、山裾、ギリギリのところまで、行くべきだった。
しかし、車の時間は、三時間である。
その間に、すべてを、行う。

シライ市から、山に向かって走る。

その道も、日本兵たちが、歩いた道である。

そして、マンダラガン山中での、激戦である。

日本兵は、一万四千人。
犠牲者は、一万人以上である。

勿論、連合軍、フィリピン軍の、死者も、入れると、もっと、多い数になる。

何の関係も無い、他国の人たちと、殺しあう。
それが、戦争の、不合理、悲劇、不可抗力・・・

個人的には、何の、恨みも、憎みも無い。

こんな、無駄なことが、あろか。
それも、若者たちである。

ほんの、一部の、政治家、為政者たちによる、作戦によって、起こされる戦争という、愚かさ。

無理やり、無駄なことを、行わせる。

見ず知らずの、敵兵を、滅多打ち、滅多切りにする。

当時、与謝野晶子は、その弟に、詠う。
君、死にたもうことなかれ・・・
すめらみことは、戦わず・・・なのである。

反戦と、天皇批判である。

最もなことである。

天皇は、すべてを、容認した。
国の最高権力者が、容認した、戦争である、という、意識である。

だが、昭和天皇が、戦争を徹底して、回避したら、暗殺も、あり得た。
そして、天皇無き、日本の戦争は、敗戦により、立ち直ることが、出来なくなったであろう。

とても、悲しいことである。

天皇擁護も、反天皇派も、同じ悩みを持つ。
そして、何故、世界は、人類は、戦争を続けてきたのか。

第二次大戦は、必要不可欠だったと、誰が、言うのか。
それは、アメリカが言うのである。

そして、そのアメリカの、長年の作戦により、日本の軍閥が言う。

戦争も、国益のためなのである。
この世は、地獄である。
平和な日本にて、その地獄という、意味を理解できない人々が、多くなった。

日本は、被爆国である。
世界で、唯一、原爆の被害を、受けた。
さて、それを、どのように、受け入れるのか。

そして、また、日本が、原爆を有していたら、日本は、原爆を使用しなかったのか。
それは、あり得ないという。
日本も、原爆投下を行ったはずである。

勝つためには、何でもする。

戦争体験者は、言う。
日本が、戦争に負けて、良かった。
でなければ、日本は、軍事政権になっていた。

そして、その政権は、国民を途端の苦しみに、陥れたはず、と。

負けて、良かったと、思った、冷静な国民が、日本人であった。

そして、天皇は、世界で唯一、逃げることのない、君主であった。
それが、日本の救いになった。

歴史の評価は、その百年後、二百年後に、なされる。

いや、千年後に、なされることもある。

すめらみことは、戦地に出なかった。
すめらみことは、その責務を、すべて、負った。

退位せず、死ぬまで、その責務を、負った。

朕の不徳のいたすところにより・・・

君主が、自らの、不徳という。
このような、君主は、世界に、唯一である。
私は、それを、誇りに思う。
生き地獄を、生きた、昭和天皇である。


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2011年01月09日

明るい悲惨、ビサヤ諸島 9

シライの町の西方を、中央山岳の三山に源を発して、水量豊かなシライ川の流れがある。この川に沿った上流十数キロの山岳台地において、残敵(米比軍)掃討作戦が展開された。
その日、早朝から行われた戦闘は、熾烈を極めた。地の利を得て、死守する残敵との交戦は、一進一退と、ようやく掃討作戦の終結を見たのは、翌日の正午を過ぎていた。
池 平八

その付近を、ギンバラオンという。
私たちは、その手前まで、行った。
広い、さとうきび畑が広がる中で、日の丸を掲げて、慰霊を行った。

ある夜、戦友の小田上等兵が、立哨時間に敵のスパイを一人発見し、俘虜とした。俘虜は数日の取調べの後、街の郊外の共同墓地において、斬殺の刑に処せられることになった。

俘虜の上半身は、数ヶ所に試し切りの刀痕が血をにじませている。そのとき一人の海軍将校がすくっと、スパイの後ろに立った。果たしてこの将校の手によって、首を切り落とすことができるか否や。全員が息を殺して彼の一挙手一投足を真剣なまなざしで見守っている。しばしの間を置き、腰の軍刀の柄に手がかかった。その後は目にも止まらぬ早技だった。右手に持った刀は、右手斜め前方に切っ先を下げている。刀身には一滴の血痕さえ見当たらない。果たして切ったのか、まだか。
全員が息をのむ静寂の一瞬、そのときスパイの首が前方に静かに下がったのであった。
池 平八

スパイは、フィリピン人である。
それを、市民が見ていたという。
悲鳴と、怒声が上がり、恨みのこもった目で見た。という。

66年前のことである。

上空に目を移すと、激しい空中戦が、まるで天空を乱舞するがごとくに展開されているのだ。敵の大軍、グラマンや双胴のロッキードに向かって、その数わずかに十機足らずの友軍機である。
この壮烈なる戦いぶりを、他の誰が、わが地上軍の将校の誰が最後まで見届けたというのであろうか。彼ら空軍の若き将校は、南の国シライの上空において日本空軍の花として、華々しくも哀れで悲しい終末を遂げたのであった。
ああ、わが空軍の軍神よ、その霊魂よ。安らかに眠りたまえ。
池 平八

私は、帰国して、三山、シライ山、マンダラガン山、クワラオン山、特に、マンダラガン山の下にて、追悼慰霊を執り行いたいと、思った。

ネグロスに散在していた、百二師団の各部隊の精鋭が、この地に集結し、やがて、有名な、ネグロスの一大決戦の行われた場所である。

このネグロスの地に駐屯して、すでに一年有余の歳月が流れた。最近における日米の現地の状況から推察すると、もはやわが軍に有利な材料は何一つ残されていない。この半年足らずの間に、わが空・海の両軍は壊滅状態となった。早急に再建すべきだが、その望みは絶たれたのも同然だった。この地上軍が、たとえ何万、いや何十万の兵力であったとしても、敵、米軍にすればとるに足りない存在である。
池 平八

そして、池氏は、日本の敗戦を感じたのである。
しかし、物語は、これからである。

レイテ戦で、負傷した、多くの兵士たちが、九死に一生を得て、ネグロス島、シライの本部に帰ったという。
更に、ネグロス島での、負傷者も。
だが、負傷者を収容する、野戦病院が無いのである。

ネグロス島に、上陸した、米軍は、その後、益々と、増強されてゆく。

ギンバラオンを経て、台地に赴き、激戦が、繰り広げられる。

やがて、沈黙が破られることになった。ある日の夜、敵陣から轟音を発した砲撃が、わが陣地の全域に対して開かれたのだ。光の玉が、薄明かりの空間を飛ぶ。一瞬、友軍の各陣営に炸裂して、光の破片が夜空に飛散する。真夏の夜の花火のごとくきらめく。そのさまは、生易しいものではない。
轟音・・・爆発音の交錯のなかで、わが友軍兵士が何人も、いや何百となく、空中高く舞い散っていく。一瞬にして、阿鼻叫喚の修羅の地獄絵が、現前に展開された。硝煙と爆音、噴煙の中に、無数の光の断片が空中高く飛散し落下する。
多くの戦友の命が、一瞬のうちに、引き裂かれ、飛散する。・・・
池 平八

マンダラガン山を、日本軍は、筑波山と、呼んだ。

ここに至り、日本軍の大軍は、レイテ、セブ、ネグロスの戦いで、多数の重火器を破壊され、弾薬も、消耗していたのである。
更に、大砲、銃器、弾薬を持たない。

つまり、人間だけの集団だったのである。

わが軍は、この後の数度にわたる戦闘をも含め、第百二師団並びにネグロスにおける海空軍を合わせた一万数千人のうち四分の一の戦死者を出した。その後の長期間における山河地の飢餓戦線では、少量の塩をなめ、水をすすり、草を食し、最後は体に巣くう多数の小さな吸血鬼、シラミを食った。その後飢えて渇いて餓死したのである。その数は、ネグロス戦死者の数倍にも当るだろう。
私の推定では、おそらく六、七千人以上の戦友たちが飢えて死んだのである。
このネグロスの戦闘が、レイテ、マニラの戦闘に比べて、規模のうえでは遠く及ばないとしても、フィリピン第三の激戦地と呼ばれるにいたったのはあまりにも悲惨な故だ。
池 平八

では、なぜ、このような無謀な戦いに、臨まなければならなかったのであろうか。それは、ネグロスの戦場だけにとどまらない。日本軍は、かつて(明治以降)の戦争において、これと同様、人命を無視し、悲惨な結末に終わる戦いを強いてきたのである。しかも戦いの場で、多くの将兵は、皇国のために死ぬことを無上の名誉とし、本望としたのである。・・・・

そのように私たちは、当時の為政者によって教育され、洗脳されてきた。だから、この思想をなんの抵抗もなしに受け入れたのかもしれない。こうして多くの兵力を消耗し、壊滅的な打撃を受け、一歩また一歩と戦線の縮小を余儀なくされていったのである。
池 平八

死の直前に、「お母さん」と、言えずに、死ぬ者。
長い戦いの中で、「天皇陛下万歳」などとの声を、一度も、耳にした事が無いと、池氏は、書いている。

この、無益で、野蛮な、戦い。
戦争というもの。

戦記は、それを、痛烈に批判する。

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2011年01月10日

明るい悲惨、ビサヤ諸島 10

私たちは、ギンバラオンの台地に入る手前で、慰霊を行ったが、再度行く時は、そのギンバラオンを通り、山の入り口まで、行きたいと思う。

更に、池 平八 ネグロス島戦記から、引用する。

しかし、それは長い年月だった。空襲、爆撃、機銃掃射の弾雨の中におびえて、精神状態に異常をきたすのが通常のことなのか。こうした歩行もできないまでの恐怖の中に、まるで精神病者か夢遊病者のように、本人自身が今なにを言ったかさえも分からない。そうなるのが人の常であろうか。戦争とは、かくも残酷で非情なものなのであろうか。まったく戦意を喪失し、生きた屍になった、世にも哀れな人間集団。こんな放心状態の精神病患者を、まだ一人前の兵力、戦闘可能な戦力として、認めなければならなかったのだ。

わが軍は、作戦を変更。夜間ひそかに、敵陣に迫る遊激戦を採用した。そして、わずかの戦果をあげたものの、その後、敵陣地は、夜間照明を強化し、遊撃隊がつけ入る隙は全くなかった。わが各部隊の陣地は連夜、砲爆撃を受け、そのつど、戦友の胴体が、頭が、手足が、骨片が空中に飛び落下した。

突撃隊というのも、特攻の一つの、形である。
斬り込み隊ともいう。

特攻隊だけが、特攻攻撃ではなかったのである。

次第に、友軍の姿が、消滅してゆく。
そして、毎日の攻撃である。
次々と、戦友が、命を落とす。
真っ当な神経であれば、耐えられない、極めて、切迫した状況の中を生きる。

もう今日限りで、戦友の遺骨箱ともお別れである。背後の山は峻険で、大量の物資や遺骨などを残された少数兵員では、とうてい運搬不可能だと判断しての処置である。
池 平八

その数、百七十五柱という。
その遺骨を、壕の中に収めて、入り口を、爆破し、塞ぐ。

大半の、遺骨は、その地に、留まったままである。

そして、そのうちに、ビラが空から、撒かれるようになる。

「日本兵の皆さま。長い間、よく戦いました。あなた方は、なぜ戦うのですか。なぜ、ただ一人の将軍の名誉と勲功のために、あなたの尊い命を。
一生一度の自分の命を、なぜ、いとも簡単に捨ててしまって、一人の将軍に捧げるのですか」

宣伝文の散布を終え、敵機が飛び去った後に、また改めて、別編隊の後続機が来襲し、爆弾投下の後、機銃掃射の弾雨を降らせる。
わが軍がいくら深い樹海の底にひそもうとも、彼らは観測機による電波探知機を利用して、日本軍の陣地を突き止める。連日、猛爆、機銃掃射、威嚇宣伝を継続する。
池 平八

そして、深い樹海の中に、一瞬にして、阿鼻叫喚の地獄が、展開される。
傷つき、斃れる兵士は、数知れない。
多大の尊い人命を損傷する。

そして、遂に、日本軍は、敗退、後退、敗走・・・である。
しかし、走れもしないと、言う。
移動の度に、歩行困難な兵士は、その場に、置き去りにされる。

長く続いた激戦の恐怖と、食料不足による疲労衰弱が重複して、わずかな爆音、飛行音を耳にするだけで、恐怖の奈落の底に辛吟して奇声を堕すもの、泣き叫ぶ者がいる。突然賭け出す者もおり・・・
池 平八

そして、落伍者は、食糧を食べつくした時点で、餓死するしかなくなるのである。

こうして、毎日毎朝のように昨日の仮寝の場所で、そして今日の朝露に濡れて、各部隊で一人、また一人と、餓えて飢えて死んでいく。
池 平八

しかし、それが、まだ、序の口だとしたら・・・
これ以上の、ことがあるのか。
あるのである。

生き延びた兵士たちの、それは、筆舌に尽くし難いのである。

すべての感情、感覚を失う。

人の死も、我が身の死も、何の感慨もなく、受け入れてゆく。

私は、池氏の、引用を、終える。
まだまだ、続くが、今回は、終わることにする。

私たちは、慰霊を終えて、戻る道の、一番近くにある、部落に入り、衣服支援を行った。

その部落に入って行く。
細い道を、行くと、男たちが、一つの屋根の下で、休んでいた。

私は、荷物をそこに、運んだ。
ロザンナさんが、皆さんに、何か言う。
男たちは、オーッと、声を上げて、何やら、叫ぶ。
すると、家の中から、人々が、出て来た。

女、子供たち・・・

早速、手渡しが始まった。
ロザンナさんも、手伝ってくれて、大忙しである。

どんどんと、人が集う。
おばあさんから、おかあさん、娘たち、子供たち・・・

慣れてくると、声が上がる。

子供たちには、文具も、用意していた。
それを、村のおばさんに頼んで、分配して貰う。

あっという間の、支援である。
勿論、私は、汗だくになる。
一人一人に、手渡すからだ。

彼らには、見たことも無い、女性物・・・
歓声が上がる。

すべてを、私終えて、車に乗り込む。
日本語で、ありがとう、という、人がいて、驚く。

昔のことは、忘れたのか、知っていても、知らない振りをするのか。
それは、もう、恩讐の彼方なのであろう。

新しい時代が始まっているのである。


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