2012年01月04日

霊学49

男根期自己愛型の自己愛パーソナリティを唱えた、ライヒ自身、実はそのまま、男根期自己愛パーソナリティ障害の持ち主だったという。

ライヒは、男女間の、オルガスムスを、心身の健康の指標とした、有名なオルガスム理論を展開した。しかし、彼自身は、性の理論である、オーゴン・セラピーに迷い込み、晩年は、誇大妄想に捕り付かれた。

それに対して、小此木氏は、
実は彼が求めていたのは、生理的なオルガスム体験ではなく、セックスを通して得られる誇大自己の満足だったのです。
と、言う。

さて、現代の自己愛人間にも、男根期自己愛型の、自己愛人間が、多数いる。
しかし、真の父親像に同一化した、男らしい男ではない。
だが、適応しているのである。

男根の威力は地に堕ち、そのため心理構造としては男根期自己愛的な性格をもちながら、しかもフロイト、ライヒ時代のような男根的な衝動を失い、自己愛的な面がより肥大したパーソナリティの持ち主が、自己愛人間です。
小此木

それは、現代では、自己顕示欲が強く、幾人もの女に愛されたり、賞賛を受けることで、自己愛を満たすため、男らしく、演じているのである。

その男の中には、母なるものが、重く存在しているということである。
つまり、ペニスのある母親と、同一視した、男・・・

しかし、時代に、適応しているということは、治療の対象にはならない。
だが、一旦、問題が生ずると、手がつけられないのである。
治療の方法が、見出せないとでも、言う。

さて、では、女性は、どうか。

フロイト、ライヒの時代では、
男根期にペニスがないことに気がついて、男の子に比べて自分が劣等であると体験する。このときに、自分にペニスがないことを否認して、自分も男の子同様にペニスを持っているという幻想を維持していくように自己愛を発達させる。
小此木

だが、このような、女性は、反動的に男性に対する、競争心が強く、男と同じなのだと、自己愛を保つのである。

これを、ペニス羨望の強い女性、男性抗議の強い、マスキュリン・プロテスト、と呼んだ。

ここでも、固着が問題になる。
女性が、男根期自己愛性格が、固着すると、ペニス羨望が、異常に強い、マスキュリン・プロテストになってしまう。

健康な成長を続けた、女性は、ペニスだけが、大事なのではないと、自然移行で、女性になってゆく。

だが、ペニス羨望の強い女性は、男関係では、常に競争的になるか、自分が同一化できるような、巨大なペニスを持つ人が、現れるとき、自己愛型の愛情を、向けることで、かろうじて、男に愛情を持つ。

フロイトは、男根的な自己愛を失い、そこから、女性心理がはじまると、考えていた。

更に、この自己愛の発達の違いによって、男性性と、女性性が、分れると、考えた。

女性は男性のペニスをもらいたいという願望をもっているので、そこで男性のペニスを取り込む。その結果妊娠して赤ん坊が胎内に宿ると、これまでは男性からペニスをもらうという依存的だったものが、自己愛型に変わる。
小此木

妊娠すると自己愛が肥大する。そして、自己愛の延長として子どもが生まれる。ですからフロイトの女性論では、女は妊娠して子どもをもたない限りは、去勢コンプレックスによる自己愛の傷つきを本当にいやすことはできないということになります。つまり母性になることではじめて、女性は一人前になるというわけです。
小此木

そして、子どもに対して、自己愛を満たした状態で、子どもとの、共生関係が生まれ、この母親の自己愛が満たされた状態で、育てられて、子どもの、健康な自己愛が、育つ。

だが、先ほど、ペニス羨望の強い女性は、子どもとの間に、健康な一体感を持つ事無く、別のコースを辿る。
それが、現代の自己愛人間女性であると、小此木氏が言う。

確かに、ウーマンリブ運動などでは、そのような、女性たちを、多く見た。
それが、男女平等という名の元に、とんでもない、発想と、発案をして、世の中を、驚かせる。

簡単に言うと、男社会に対する、挑戦と、競争心である。
それには、色々な理由が挙げられるだろう。

家、家系の喪失、父親の喪失・・・
更に、男の側の変化。

心理学が、解き明かせないのは、時代性と、時代精神である。

フロイトは、自分を理解するために、考えたことを、それなりの理論にした。
それだけである。

その後も、心理学者たちは、わが身のことを理解するために、発展させた。

このように自己愛人間化するにつれて、男性、女性いずれも男根期以上の対象愛の成熟をやめ、自己愛的なイリュージョンの中で、男女のかかわりをもつ時代になったということができる。
小此木

この、発言は、重大である。
つまり、自己愛的な、錯覚の中で、男女の関わりを、持つというのである。

固着と、錯覚の時代。

性行為も、夢の一瞬で、終わる。
それが、自己愛を満たす行為である。
ホント
相互関係など無し。錯覚の中で、セックスし、オーガズムを得て、満足、満足している、人間ということか・・・

本当に、人間とは、孤独なものである。

だが、しかし、これは、序の口。
人間の孤独、それを、身も凍るような、無意識の世界を見つめてみると、更に、深まるのである。

潜在意識を強化してとか、潜在意識を有効に使い・・・
などと、成功哲学が言うが、それが、無意識を開放することになったら・・・
気が狂うのである。




posted by 天山 at 00:03| 霊学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月18日

霊学50

自己愛人間は一見相手に惚れ込んだり、親身になって世話をしたり、思いやりを抱いたりしているようにみえることがあります。表面温かく親密で相手本位の態度をとることもあります。本人自身も相手を本気で愛しているように思い込むこともあります。自分を親切で世話好きで、人のためにつくす人間だと思うこともあります。人のために奉仕したり、愛他精神で一杯なこともあります。
小此木

自分を美化したり、理想化し、相手も、そのことで、喜び、感謝していると、思い込む。
自己―対象に、自分と相手を形作る。そして、一体感を味わう。

しかし、自己愛人間のすべてこれらのかかわり方は、実は、相手の立場や気持ちを、本当に認識したところでかかわっているわけではない点に特徴があります。つまり自己愛的な同一視のメカニズムによって「相手と一体であるかのように」「愛しているかのように」「かわいがっているかのように」「面倒みているかのように」かかわっているのです。
小此木

相手になる人は、よほど強い人でなければ、この自己愛人間に、呑み込まれてしまうのである。

自己愛人間を、傷つけたくないと、思えば、我慢を強いられるのだ。
友人、恋愛関係でも、最初は、うまくゆくが、いずれ破綻する。

主観的には、自分が相手を世話しているが、実は、相手に依存しているということに、気づかないのである。

勿論、二人共に、錯覚の中に、安住すれば、問題無い。
割れ鍋に綴じ蓋という、ことわざがある。

ただし、破綻した場合は、うつ病になりやすいのである。
つまり、自己愛的に同一視によってしか、相手と関わることが出来ない人が、うつ病にかかりやすいのである。

一般的に自己愛的な同一視が起こるのは、相手が自分と同じ気持ちを持ったり、同じ感覚を持っていると思い込むときに一体感が起こって成立するわけです。ですからそれが濃厚なときには、熱烈に愛情が通っていい関係をもつことができるのですが、ひとたび食い違うと深刻な破綻が生じてしまいます。しばしば、この破綻―幻滅をきっかけにうつ病状態におちこんだりします。思い込みがはずれて、裏切られた、背かれた、だまされたという怒り、うらみ、くやみにさいなまれます。
小此木

ただ、日本人の場合は、常に、このような自己愛的同一視が、主役を演じる、民族であることを、自覚すべき。

日本には、契約という、考え方が育たなかった。
それは、それで、良いことだったが、その代わり、互いの思い込みによって、関係が始まるのである。

恩を返すという言葉が、日本人の心に、強く持たれるのは、それが前提にある。

いずれにせよ、日本人の場合、つねに心理的に自己愛の延長物としての愛情の対象をもっていないと寂しいという人が多いようです。
小此木

改めて、日本人の人間関係が、自己愛的同一視のメカニズムを、主役にしているという特徴を感じる。

それは、戦国時代から、準備され、江戸時代に完成する。
主君と家臣の関係・・・

自と他が未分化で自分と相手を理想化して、よい関係を想定してかかわり合う傾向がとくに強いようにみえます。
小此木

さて、小此木氏は、日本的自己愛人間と、日本的マゾヒズムの関係について、述べている。

私が日本的マゾヒズムの特徴としてあげているのは、相手本位で、とても思いやりがあって、共感性が高いということなどです。
小此木

以下は、私が要約する。

他者の自己愛を、とても、重んじるという、対人関係である。
それが、伝統的にあり、人権尊重思想が入ってきた場合でも、本人自身が人権を主張するというのではなく、日本に元々ある、配慮、思いやり、相手を尊重しようという、相手本位の気風と、一致したものになった。

それが、母親と子どもの関係のように、子どものために、一生懸命尽すという形で、子どもの人権尊重精神を、日本的マゾヒズムと結びつけたという。
しかし、結果、子どもの自己愛を助長してしまった。

欧米人と、比べると、彼らは、大声で自分を主張するが、日本人は、日本的マゾヒズムの仮面をかぶっているという。

日本的マゾヒズムをかぶると、それは、自分が欲しいものを、自分が満たすより、子どもに満たさせる、自分の自己愛を、犠牲にして、子どもの自己愛を満たすことで、満足する。

自己愛的同一視のメカニズムが働いているのです。つまり日本的マゾヒズムの対人関係様式そのものが実は日本的自己愛のみたし方でもあるわけです。
小此木

みんな思いやりとか親心というマゾヒズムの仮面をかぶるわけです。
小此木

しかし、
それが実は親自身の自己愛をみたすためのものなのだということが子供にもだんだんとわかってくる。こうした子どもの目ざめが家庭内暴力などを引き起こすことにもなるわけです。
小此木

小此木氏は、少し話しが飛躍している。
それと、これとは、別物であると、私は言う。

会社と自分を自己愛的に同一視して、マゾヒステックに会社のために献身する。しかし、それを通してみんなからほめられたり、評価されたりすることを期待しているわけです。ですからマゾヒステックになることによって、自分の自己愛を最終的にみたそうという隠された願望があるわけです。
小此木

そして、その思い込みが、外れると、恨み、辛みが起こり、恩知らず、と言うことに成ると言うが・・・

分析をよくする者、実は、分析に溺れる。

つまり日本的な誇大自己は、最終的には自己愛をみたすためなのに、見かけの上では非常にマゾヒステックな形であらわれます。ところが西洋的なあり方は、むき出しの強欲さと自己主張が出て、人を顧みないし、共感性がない。日本的な自己愛人間は、日本の社会の中で、適応様式として、日本的マゾヒズムを使うわけです。このような自己愛のみたし方が日本人特有のみたし方なのです。
小此木

ここまでは、当たり前といえば、当たり前である。
問題は、現代において、それが、歪んできたことである。

このように、分析されると、なるほどと、思うが、何のことは無い、それが、普通のことなのである。日本では・・・

問題は、これが、どのように、心の病気に、結びついてくるかということである。
また、適応障害になるか、である。


posted by 天山 at 00:09| 霊学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月10日

霊学54

これから、小此木氏の、文章を多く引用して、心理学、精神分析などに従事する人たちが、如何に、このように作られた観念により、患者や相談者をくくってしまうかということを、示したい。

勿論、私は、小此木氏の、業績には、敬意を表している。
だが、鵜呑みにすると、先が無いということ。

心理学に対して、批判が少なすぎる。故に、心理学者は、その勝手な、しかも一部の分析により、その観念により、人を判定してしまうという、誤りを言う。

操作原則は、やがては、ロボット問題が象徴するように、人と人とのかかわりを社会から排除していきます。
小此木
これは、あまりに、大雑把である。

しかもそれを操作する人々は、すべて一人相撲的に、あるいは自己中心的にパーソナルなその操作を行います。このような操作原則感覚が身に付くにつれて、われわれの自然と人間それぞれに対するかかわりのすべてが自分たちの思い通りに操作しうるようになるべきだという全能感が身についてしまいました。
たとえば、この操作原則感覚は、逆に人と人とのかかわりまでも、自動応答機械とのかかわりと同じようなものにしようとする気持ちさえ生み出すことになってしまいました。
こうした生活感覚の大規模な変容が、人類全体としての全能感を高め、何でも思うとおりになるという自己愛幻想を肥大させているのです。
小此木

ほんの一部の、世界、先進国などを、人類、世界全体・・・
更に、ほんの一部の都市生活をする人たちを、全体として分析する。

これを鵜呑みにして、判定するとしたら・・・
実に、恐ろしい。
勿論、一部の人には、そのような兆候があるだろう。

これが、あの大航海時代の、イギリスと同じ考え方である。
そして、大差別の思想を作ったのである。

自動応答機械・・・
それを利用して、本当に、人間がそれほど、変容するものだろうか。
考えすぎである。

それは、時代性、時代の進化であり、それに多くの影響を受けるが、病気の人たちとの、かかわりが多い人の、一片の考え方である。

人と人の関わりが、変容して、人と人との関わりが何か、変なこと、変なものになってきたという・・・それが、変である。

ほんの一部の人たちが、影響されて、そのようになっていることを、人類が・・・

人類全体が全能感を高めてなどいないし、この日本にも、全く、そのような感覚を持たない人たちが大勢いる。

例えば、自然を相手にする人たちなどは、何を言うのかと、言うだろう。
思い通りに行かないことばかりだと、言うだろう。

更に、サービス業など、そんな考えでは、客の心を掴むことなど出来ない。
と、一部の世界で、観念を作ることが、恐ろしいのである。

家庭内暴力、登校拒否という子どもたちの問題も、自己愛の肥大がもたらした弊害です。
小此木

どうして、このように、断定できるものか。
それは、ほんの一部の子どもたちの、ことだろう。

それに関して、小此木氏は、延々として、解りやすく説明するが、省略する。

時代の一断片を取り上げて、ここまで、観念を作り上げる、学問という世界にいる人に敬意を払いつつ・・・
少しばかり、呆れる。

父親に対しても、家庭での父親のだらしないところばかりを見ていて、彼らは父親を過小評価している場合が多いのです。そして、人が朝早く起きて会社に行ったり学校に行ったりするという定め、現実のいやなものを我慢したり、断念して生きていくという現実原則を認めようとしないのです。
小此木

これで、判断された、低血圧の子どもは、悲劇である。
現実原則が、低血圧で、朝が起きられない・・・

私は、幼稚園の頃から、遅刻して来たといい、自己嫌悪している相談者に、低血圧でしょう、しょうがいなよ、と言った途端、えっ、それでいいんですかと、問われて、それでいいと言うと、その人は、晴れやかな顔になり、私が自分の体質を理解する方が、最も大切で、その自分に合う環境で、学んだり、仕事をしたり、するといいと、言った。

朝が駄目なら、夜間の学校もある。

その説明が、延々と続くのは、小此木氏の、性格であろう。

古い執行原則でいえばもともと学校へ行くのは、おもしろいからおもしろくないからというのではなく、人間である以上は行かなければならないところなわけです。
小此木

時代は、変わったである。
進化したのである。
だから、アホだった人が、立派に成功する時代に成ったのである。

古い、と書いているように、小此木氏の、分析も古いものになったのである。
30年前は、この、お説に従って、多くの人が、理解したと思い込んだのである。

心理学というのは、言葉の手品であり、思い込ませるのである。

人間性の心理という、ジョン・コーエンの書いた本の最初に、
心理学は今日、非常に興味をそそられる段階を通過しているところであるが、そこでは、仰々しい学説やドグマや硬直した公式などが、心理学の主題の真の範囲とその本性についてのより深い認識にゆっくりと道をゆずりつつある。
心理学がその歴史的な発展の途次において乗り越えねばならなかったさまざまの困難は、植民地としての立場を放棄してこれまでの帝国主義の君主の支持なしに自身の足で立とうとしている国の困難にたとえられよう。

長い間、心理学は哲学の植民地であった。
そして解放の戦いの後困苦に耐えてかちえた自由を手にしたとき、心理学は後を振り返ってみたりする必要はなく、完全に哲学なしにすますことができるものと信ぜられた。しかしながら、これはあまりにも楽天的にすぎる夢であることがわかった。
哲学によって支配されるべきではないということと、哲学上の先入観が心理学の理論と実際に入り込むのを拒むこととは、全く別のことがらである。

心理学は、おそらく他の諸科学よりもなおのこと、いつも哲学とことばを交わす間柄にとどまらなければならないであろう。というのは哲学と心理学とは、知識の起源に関して(認識論)、論理学と数学の直観的基礎に関して、心の本性について、倫理学と美学の諸問題について、そして組織的な探求の方法に関して、共通の関心を分かちもっているからである。

改行は、私。
次ぎに、続ける。


posted by 天山 at 06:06| 霊学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月11日

霊学55

1969年に書かれた、ジョン・コーエンの、著書、人間性の心理学から、引用している。

およそ、40年前である。

認められなければならぬことは、心理学上の諸問題が実験的取り扱いや数学的操作に適っているあり方はきわめてまちまちだということである。それにもかかわらず、心理学の膨大な文献がこうした操作の目標に向けられている。・・・
コーエン

こうした操作とは、商業上の、教育上の、産業上の、軍事上の圧力である。
それが、心理学の目的を形作ったという。

人間は単に研究の「対象」であるばかりではなく、また諸科学の発展にとって欠くことのできない知識の源流でもある。
人間はまた芸術と人文科学の発展のための知識の源である。
心理学は、一方では諸科学と芸術との間に、他方では自然科学部門と社会科学部門との間に、一つの戦略上の位置を占めている。
心理学がこれらすべての学問に対してもっている関係は複雑である。
学問の世界における心理学と種々の学科との間の精確な論理的な関係を窮めることは、やりがいのある仕事であろう。
文学、言語および言語学、歴史、芸術史、比較宗教学、これらそれぞれが心理学とはっきりしたきずなをもっているが、同じことは、建築および都市計画、経済学、行政、そして法律にもあてはまる。
そして、認識論に対し、心理学と共通の関心を抱いているのは、ただ数学と物理学だけなのではない。
コーエン
改行は、私。

心理学というものの、定義を模索している。

心理学は、それが一切の豊かさと情念とをかけた人間の研究にゆきあたったとき、はじめて究極において学問の世界に正しい位置を占め、実生活のできごとの世界(家事や社会的または国際的なできごとの世界)において、その固有の役割を果たすことになるだろうとわたくしは思われる。
心理学にとって人のモデルは、人のあらゆる行為と業績とを考慮し、人の創造的な熱望はもちろんのこと彼の闘争と力の限界を考慮に入れるようなものでなければならない。
コーエン

あまりにも、広大な考えである。
とすれば、安易な心理学の知識を持って、小手先で、人の心なるものを、分析してみせても、説得力は無い。
そういう、心理学の知識を持ち、単純な解説をする、賢い馬鹿が、日本の心理学者に多い。
また、賢明だと、自分を信じて疑わない、賢い馬鹿も、である。

隣の、爺さんに、聞いた方が、もっと、実りある解説が聞ける場合もあるのだ。

コーエンの書き出しは、とても、激しい否定と、過激な言葉である。

心理学はいろいろな学問のなかで最も修練の足りない学問であり、あらゆる狂想的な作品の養育所であり、その遊び場であり、あらゆる既知と未知のことばで混乱しているバベルの塔であり、偽札と偽造貨幣の造幣局であり、こじつけの、そしてありそうもないさまざまな理論を売りつけるあらゆる行商人のための市場である。
コーエン

私などの、激しさとは、違う。
自己主張を主にする、欧米人のそれである。

心理学は、ごまかし、陳腐、鋭い直観、素朴さ、想像の高い飛翔、退屈なドグマ、鋭敏な推理とそして全くのたわごと、これらの混合物である。
コーエン

更に、酷くなり、
心理学図書室の書棚にあるすべての教科書書類には、それを読むときに必要な塩を書き付けておくべきであり、図書室の読書机には大皿に盛った塩を置いておき、定期的に塩を補充しなければならない。
ある種の書物(特にパーソナリティの神秘的な内奥を開明すると自称しているものには)思い切って「毒薬」と書いておき、読後に服用するよう解毒剤か吐剤を処方しておくべきである。
コーエン
となる。

パーソナリティなどとは、実際、言ったが、勝ちなのである。
すると、お馬鹿が、追従して、世間に広めてくれる。
更に、お馬鹿は、それを持って、人にパーソナリティを説くという・・・

どこから、取り上げても、パーソナリティというものを、作り上げることが、出来るということだ。

更に、フロイト、ユングなどを付加すれば、信じるのである。
信じる者は、騙される。

そうして、小此木氏に、戻ると、色々なことに、疑いが起こる。
その、疑いのために、長々と、書き続けてきた。

操作原則感覚だけが、肥大した、
自己愛人間は、自分の外の対象とかかわりにおいて、つまり対象との相互関係の中で生きるのではなく、むしろ、自分の内側の、内的自己空間の中で、自らの空想・幻想による満足を味わい楽しむ内的嗜好性があります。
小此木

と、観察した、事柄を上げて、解り易く解説している。
本当は、よく見続けていれば、誰もが解ること。
その、誰もが解らなくなったということに、問題があるという、気づきである。

そして、それは、ウォークマンで、音楽を聞き入る、現代人だけに言えることではないのだ。
内的嗜好性は、いつの時代もある。

それが、突然、出て来たものではない。
当たり前のことを、精神分析医が、書くと、当たり前ではなく、最も、学問的な言葉に聞えるのである。

学問ではない。
学問的である。

要するに、占い師の、別物のようである。

日本の心理学者で、それに、早々と気付いた、岸田秀は、それを書いたのである。
また本人も、そう言う。
勿論、彼の論文には、無い。
エッセイの形で、書いている。

現代の物質文明は、人々の感覚的感受性を、ますます繊細に、そして巧みなものに向上させていくが・・・
こうした感性の世界の質と量の進歩は、外界を内界化し、内界を外界化する作用をもつだけに現代人の自己愛人間化を促進する一つの要因になっています。
小此木

この本の題は、自己愛人間、である。
出版した当時では、現代の人間評論であり、心理学とは、言わないだろう。

posted by 天山 at 06:48| 霊学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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