2011年10月20日

霊学39

小此木氏の、自己愛人間を、見ているが、ここで、少し寄り道して、自我とも自己というものを、更に、詳しくしてみたい。

河合隼雄氏の、無意識の構造、から、拝借する。

人間の意識は自我を中心として、ある程度の統合性と安定性をもっているのだが、その安定性を崩してさえも、常にそれよりも高次の統合性へと志向する傾向が、人間の心の中に存在すると考えられるのである。
河合

この場合の、心の中とは、脳の中である。
何度も言うが、心理学で、言われる、心とは、脳の働きである。
いずれは、脳の働きに触れることになるが・・・

本人の意識がこのままの状態で安定してゆこうとしているとき、いわばヒステリーの症状まで、送り込んでくるような主体はいったいなになのかという疑問が生じてくる。これに対して、ユングは、人間の意識も無意識も含めた心の全体性に注目し、そのような心全体の統合の中心としての「自己」の存在を仮定するようになったのである。
河合

自己を、仮定したという。

一応、仮定である。

最も、ユングは、心の全体性という考えを、心の全体の中心としての、自己という明確な考えを持つのは、東洋の思想から、とても大きな影響を受けたのである。

仏教の、唯識などの、考え方は、心理学より、先に、進んでいたともいえるのである。

これは、一つの例である。

さて、西洋人は、意識を重視する。しかし、ユングは、無意識も、実に大切であり、大変なものであると、考える。

そして、ユングは、こう言う。
自己は心の全体性であり、また同時にその中心である。これは自我と一致するものではなく、大きい円が小さい円を含むように、自我を包含する。

その、無意識も、意識の下に、個人的無意識、そして、その下に、家族的無意識と、文化的無意識と共に、それらを、総称して、普遍的無意識として、認識した。

ユングは、分裂病、現在の統合失調症の患者から、ヒントを得たのである。

何故、彼らの妄想が、幼児期における経験と関連するコンプレックスなどによって、説明できないのだろうという、疑問からである。

これは、とても、重要なことだ。
知らないことは、現れないのではなく、無意識の世界に、保存されてあるという、発見である。

後に、霊というものも、この無意識と関わってくるのである。

それにしても、無、意識とは・・・
意識が、無い。

本来ならば、唯物系の人たちは、それを、否定してもよさそうなものだが、心理学といわれると、何となく、認めているという、不思議。

無い意識を、認める・・・という。

人も、無意識のうちに、してしまったと、平然として、言う。
それに、何の疑問も、持たないのである。

普遍的な無意識の説明のために、河合氏は、これを、書いている。

自己はユングの定義に従うかぎり、あくまでも無意識に存在していて、意識化することの不可能なものである。人間の自我はただ、自己のはたらきを意識化することができるだけである。このため、のちに示すように、われわれは自己をそのシンボルを通じてのみ知ることができると考えるのである。自己のシンボルの顕現は、人に深い感動を与え、それが宗教体験の基礎となると、ユングは述べている。そして、キリスト教や仏教におけるキリストや仏陀を、自己のシンボルとしてみることができると述べている。
河合

つまり、信仰は、その人の心の中にある、そのもの、なのである。
外に、出会うのではなく、内に出会うのであり、それは、自己の無意識にあるものなのだ、ということだ。

河合氏は、
心理療法家のところに、訪ねてくる人は、なんらかの悩みや問題を持っている人である。実際に、話しをお聞きすると、どうしてそんなことが起こったのだろうと思うほど、運の悪いときに運の悪いことが生じているのである。
と、言う。

そして、多くの場合、本人の責任は、あまり、問えないのである。
と、いうことである。

何気なく、書いているが、これは、重大なことである。

本人の責任は、あまり、問えない問題を、抱えている・・・

本人が、である。

昔の人は、二度あることは、三度あるなどと、言ったが、そのように、運の悪いことが、何度も、続くということがある。
本人の責任は、問えない。

河合氏は、アレンジメントと、言う。
誰が、アレンジメントしているのであろうか。

無意識・・・

個人の自我のほうから見るとまったくばかげていたり、避けたいことであったりすることも、自己のほうから見るときは、ひとつの巧妙なアレンジメントであると見えることは多い。われわれ心理療法家は、その両方の見方ができる人として、そこに存在している。
河合

そして、もっと面白いことに、ただ横に坐っているだけと思っていた、われわれ治療者自身も、そのアレンジメントの中にうまく組み込まれてしまって、右往左往させられていることに気づくことすら多いのである。自己というものは恐ろしいものである。
河合

自己というより、私は、河合氏の方が、恐ろしい。
随分と、素直な人である。
そして、その世界での、権威者でもある。

学者で、これほど、謙虚な人も、珍しい。



posted by 天山 at 00:03| 霊学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月21日

霊学40

無意識の世界を探索してゆくうえにおいて、われわれがイメージということを大切に考える。
河合

そして、シンボルである。
しかし、学者により、違いが大きい。

一般に心理学においては、内面を表すものとしての、イメージと、その逆に、外界の模像としての、イメージを考えることが多く、イメージを知覚対象にない場合に生じる視覚像と定義する。

イメージに対しては、実験心理学的な考え方と、無意識の心理学の考え方は、両極端を示す。
実際に、個々のイメージは、両者の中間にあり、内界、外界の両方からの、影響を受けて存在する。

臨床家としては、イメージを内界の表現として、考える立場であると、河合氏は、言う。

内界の表現としては、言語がある。だが、人間は、言語によらないときでも、表現しているのである。
それを、身体による表現、身体言語という。

言うに言われぬ思いが、身体によって、語られる場合があるということだ。

イメージは、その中間に位置するものだとのこと。
つまり、イメージ言語である。

日本人は、実に、この身体言語と、イメージ言語を深く追求した、民族であると、いえる。

これを語ると、長くなるので、先に進む。

イメージは単純な記憶像から、夢やヴィジョンにいたるまでいろいろとあるが、それはすべて本人の主観的体験であり、その人の報告に頼らないとなにも解らないのがその特徴である。そこで、その人の表現にまたねばならないが、それは言語に表現される場合と、絵などによって非言語的になされる場合とがある。
河合

そして、イメージとして、取り扱うものを、分類すると、
視覚像そのもの、それは、自分の主観的体験。
視覚像の表現、それは、言語による表現と、非言語的表現である。
外在化されたイメージである。

イメージを通して、人間の無意識の世界に接近してゆくのである。

イメージは、具体性、集約性、直接性、多義性などを有し、心的内容をわれわれに生き生きと伝えてくれるものである。
河合

ユングがイメージと概念とを比較して、前者は生命力をもつが明確さに欠け、後者はその逆になると述べているのは興味深い。われわれは概念をできるかぎり明確に規定し、それを操作して合理的思考を組み立ててゆくが、その背後に存在するイメージにも注目し、われわれの思考が生命力を失ったものにならぬようにしなければならない。
河合

さて、次は、シンボルである。
一般心理学では、シンボルを、なんらかの他の対象を代表しているもの、と、広く定義されているが、ユングは、シンボルを記号や標識と区別している。

ユングは、
言葉やイメージはそれが明白で直接的な意味以上の何ものかを包含しているときに、象徴的なのである。それはよりひろい「無意識」の側面を有しており、その側面はけっして正確に定義づけたり完全に説明したりされないものである。誰もそれを定義したり説明し切ろうと望むことはできない。人間の心が象徴の探求を始めると、それは理性の把握を超えた観念に導かれる。
と、言う。

シンボルは、言葉で、説明しきることの出来ない、何か、を表現する、もっとも適切なものとして、非常に高い意味を持つものだと、河合氏が、言う。

更に、また、心の意味を、完全に言語的に把握したと、思うとき、それは、シンボルできなくなっているとも。

イメージと、シンボルは、体験の言語化しがたい部分を、描き出す。
それゆえ、無意識の探求には、不可欠の素材なのである。

そして、臨床家たちは、それらを通じて、その特性を出来る限り、言語化し、意識化することに努めるが、それでも、尚、常に把握し残された部分のあることを、忘れないと、同時に、言語化を焦り過ぎて、それらのもつ生命力を奪わないことと、河合氏が言う。

実際、言語化を、焦り過ぎる者、多数であり、更に、人間を超越したかのような、専門家も、多数いる。

解らない、とは、言えない、言わないのである。

心理学のおおよその、理論を知るだけで、人の心の、分析が出来るのである。更に、あたかも、そのようであるかの如くに、分析するのである。

実に、恐ろしい、行為である。
自分が計った、計りで、あなたも、計られる・・・とは、聖書の主イエスの言葉である。
心理学を身につける者に、そのような馬鹿者が多い、事実。

ユングも、何度も、自身の、イメージと、シンボルの世界に、嵌り、狂う手前まで行く。壮絶な戦いをしたはずである。

私は、二十歳過ぎに、毎晩、毎晩、大海を泳ぐ夢を見た。
そして、必ず、目覚めて、その意味を探ろうとした。
心理学などの知識など、僅かな頃である。

そして、ある日、それが、無意識の世界であると、確信して、夢を見なくなった。

実に、恐ろしい思いをした。
我が内にある、無意識の世界を、見るという行為は、実に恐ろしいのである。
つかみ所がない。

無意識の世界に、溺れて死ぬ・・・
そんな思いに駆られた。

そして、生まれ持った、性質である、パニック障害を認めて、ようやく、心理学と、霊学に関して、少しばかり、確信ができたのである。


posted by 天山 at 00:05| 霊学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月19日

霊学41

さて、小此木氏の、自己愛人間より、
ここで、私は自己愛のパーソナリティのもっとも重要な特徴の一つとして、主観的な思い込みの中で暮らし、本当の現実とつながらないところで自信をもち安定しているという事実をあげたいと思います。
もう少し厳密ないい方をすれば、彼らは主観的なイリュージョンの中で暮らしているのです。イリュージョンというのは、錯覚と訳されますが、ここでは現実の経験をすべて自分の自己愛をみたすように都合よく解釈し、そう思い込んでしまう心理状態という意味で用います。
小此木

錯覚しつつ、暮らす。
そして、それは、よほどの衝撃が与えられない限り、誇大自己そのものであるような、幻想の中で、暮らすというから、驚く。

しかし、時に、自己幻滅の状態に陥っても、ある程度の適応力を持つ、自己愛パーソナリティは、幻滅体験をきっかけに、一時的破綻状態に陥っても、再び、誇大自己を、取り戻す事が出来る、条件を見つけ出す。そして、自己愛幻想を、回復させるという。
これも、驚きである。

であるとすると、錯覚して、生きていても、人に迷惑をかけなければ、まあ、何とか、生きられるということである。

錯覚の、人生を生きる。
そして、本人が幸せである・・・

自己愛パーソナリティの人は、自分自身が何かを思い込んで、そのことで自己愛をみたしている間は、再び元気になります。たとえそれが、まわりからみて主観的なものであり、時にはイリュージョンであっても、本人にとっては誇大自己をみたすものであれば、それは十分なのです。
小此木

対人関係でも、相手が、どうあれ、自分の誇大自己を満たすのに、相応しい人であれば、いいのであり、その他は、いらない。
とういことは、対人関係でない。
人を、モノのように、扱うのである。
自己愛を、満たすのみ、相応しい人・・・

随分と、行き過ぎた時代になったものである。
つまり、本当の、人間の付き合いなどが、出来なくても、生きて行けるのである。

人間が、自己愛の、道具になる。

さて、もう一つの特徴である。

自分の誇大自己をみたし、さらに肥大させていこうとする飽くことのない貪欲さです。
小此木

名声、権勢、栄光、自己顕示・・・

つねに極端な自己中心性があって、他人から称賛を浴びたり、自分の能力を発揮して自分の理想化した誇大自己を実現することに、すべてをかけている人間であるわけです。そして、同時に他人に対する関心とか共感性が欠けている。天職とか使命感に燃えて、これを実現できるのは自分しかいないと思い込み、そういう自分が特別待遇を受けるのは当然だと考えるわけです。
小此木

人間は、多少なりとも、そういう要素がある。
しかし、それが、極端になり、もはや、そういう自分を、絶対的に考えてしまうと、病理的になるのである。

端的な存在が、教祖になる人たちである。

人にも、そういう、誇大自己の要素があり、その、バランスにより、時には、それを受け入れるという、心の所作を持つのが、普通である。
だが、人の誇大自己は、受け入れないのである。

後に、小此木氏が、病的な自己愛が、肥大化する人として、上げているが、振り子が、振り解けてしまう人たちである。

その前に、もう一つの、特徴は、羨望心が異常に強いということである。

羨望というが、精神分析では、羨望と、嫉妬を区別する。
ねたみ、という。

自己愛パーソナリティの人がねたみ深いというのは、羨望心が強いという意味です。
小此木

それは、他人が、自己愛の満足を得ることを、許せない。
つまり、他人の自己愛に、共感する事が出来ないのである。
更に、他人の、自己愛の、傷つき、悲しみや、痛みに、関心なく、解らないのである。


自分勝手な人として、くくられるが、それは、実に恐ろしい、心の病になる。

そういう、人が、組織の上に立つと、絶望的である。

羨望心も、また、多かれ少なかれ、人の心にあるものである。
しかし、それも、バランスを保っている。
その、バランスが持てない人がいる。

現代の家庭崩壊の、元が、そこにあることもある。
それぞれに、自己愛を満たすためだけにある、家庭である。

健康な自己愛は、ミューチュアリティ、相互性があると、小此木氏が言う。

そして、
このような現実の満足体験は性欲の満足と同様にそれなりの完結性があります。
小此木

相互性を、エロス的コミュニケーションの体験から、出発するものだとの、提言である。

要するに、与えることと、与えることによって、それぞれが、受け取る関係である。

与え合うという、関係が、自己愛の健全な姿であるということだ。

何も、精神分析から、言わなくても、遠い昔から、言われてきたことである。
ところが、こうして、精神分析、心理学・・・などから、言われなければ、納得できないという、ボンクラが多くなったのである。
普通の言葉ではなく、それらしい、学問的・・・なにか、小難しい・・・
兎に角、ややこしい説明を好むようになったのである。

そして、それだから、真っ当だと、考える、歪さである。

これは、日本人が、堕落した、西洋化の一つである。


posted by 天山 at 01:04| 霊学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月20日

霊学42

健康な自己愛は、自分と相手の欲求が、一致する、相互性、エロス的コミュニケーションの体験から、出発している。

このような現実の満足感は性欲の満足と同様にそれなりの完結性があります。
小此木

性欲という、基本的、本能による、満足感が、心の満足感を計るものだということに、注目する。

しかも性欲と異なるのは、その満足体験が自己価値として残るわけです。性欲はそこで消費されれば終わりという部分がありますが、このような心理的な満足は内在化して自己価値になっていくわけです。
小此木

自我理想、アイデンティティという形に、自己愛が、社会化されれば、安定した、自己愛の充足をもたらすと、言う。

それでは、病的な、自己愛とは、何か。

それを、小此木氏は、
野武士の群れのようなもの、と、言う。

つまり、一国一城の主になることの、出来ない、人。

お城に代わる、自衛手段や、合法的な組織に代わる、権力の誇示のために、巨大な軍事力を、常に、維持しなければ成らない、人、と言う。

この巨大な軍事力に相当するのが、自己愛パーソナリティの主役である誇大自己なのです。
小此木

誇大自己が、現実に合わないほど、大きくなる。その満足のために、大変な労を要する。

では、誇大自己が、どのようにして、出来るか・・・

その概念は、アメリカ、シカゴの精神分析医ハインツ・コフートによるもの、とのこと。
コフートによれば、誇大自己は、三つの要素からなる。

第一は、親に可愛がられたりするという、現実の自己愛の満足によって、作られる。
第二は、実際に、満足を得られないだけに、こうありたい、という、代償的に思い描かれる理想的な自己。
第三に、全能力を持っていて、自分を賛美し、褒め称えてくれる、理想的な父親像、母親像である。

この、三つの要素が、融合して、一つになったものが、誇大自己であるという。

実際にそのような誇大自己が構造化されて、心の中に肥大して残っている人間を自己愛パーソナリティといいます。
小此木

だが、
誇大自己を現実のものとして体験するためには、思い込み、一人合点がつきもので、周囲の悪意や敵意はつねに意識から排除されていなければなりません。
小此木

こうした心理を、ポリアンナ心理、そしてポリアンナイズムと呼び、この、ポリアンナイズムが肥大していくと、自分と周囲を理想化し、敵意や悪意を否認し続ける。
それを、専門家は、軽躁的防御と呼ぶ、心理作用により、常に、自分を元気づけ、調子付けていないと、いられない人物になると、言う。

ここまで行くと、ある事が、思い出される。
宗教である。

彼らの中には、信者に対して、ポリアンナイズムを、起こさせようと、説教を繰り返すのである。

すべての人に対しての、悪意や敵意を止めて、すべて、善であると、捉えなさい、である。
どんなに、悪意があっても、こちらが、それを悪意として、捉えないでいると、相手が、善意を起こすというものである。

自分が、変われば、相手も、変わる、と言う。
そして、誇大自己を作り上げて、せっせと、陽気に、元気にと、励ます。しかし、その反動は、突然訪れる。

それが、パニックになるか、恍惚とした、信仰の妖しい迷いに至るのかは、人それぞれ。
善人とか、聖人並みの、怪しい感覚を持つに至る。

現実に、即していないが、信仰とか、その集団の中では、恍惚として、しまうのである。
これを、ぬるま湯に浸かった、信仰集団と、私は、呼んでいる。

あるいは、オタクと呼ばれる人たちにも、それが、多いだろうし、それだから、オタクになったのである。

オタクの延長戦に、信仰の、ぬるま湯の集団が、待ち受けている。

自己放棄という、自己愛も、そこでは、現れる。
すべてを捨てて、神仏へ・・・

実に、恐ろしい。

だが、そうなると、火事場の馬鹿力が、出る人もいるのである。
教祖や、有名な信仰者、あるいは、宗教的慈善家などになる。

その時点での、自己愛ポリアンナイズムである。
そこで、止まる。

霊能者の、幼稚性などにも、言える。
山勘でも、霊能力になってくるのである。

恐ろしいのは、それらの人たちに、振り回される人である。
自己愛が、もはや、手の下しようもないほど、肥大化する。

この、手法で、宗教を作り上げることも、出来ると、考えておくとよい。

更に、誇大自己は、どのようにして、出来上がるのか、である。
二つの捉え方があると、言う。

一つは、上記のコフートの考え方で、もう一つは、境界パーソナリティ構造の研究で有名な、オットー・カンバーグの、考え方である。
小此木氏の、解説で、書き進める。


posted by 天山 at 07:17| 霊学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月21日

霊学43

もっともカンバーグは誇大自己という言葉よりむしろ病的な自己愛という言葉を使っています。
小此木

カンバーグは正常な発達ラインから逸脱して、病的な自己愛が構造化されてできあがるのが自己愛パーソナリティだといっています。これに対してコフートは、正常な発達段階のある段階に固着して、その発達段階の自己愛が構造化されたものが自己愛パーソナリティだといっています。
小此木

カンバーグは、病的な、であり、コフートは、発達段階の一つとしている。

病的な自己愛が肥大してできたと、考えるか、発達段階のあるところで、固着したと、考えるか、である。

コフートによる、誇大自己は、どんなふうにして、出来上がるのか。
自己―対象、セルフ・オブジェクト、つまり、自己と対象が情緒的に、はっきりと分化していないという意味。

簡単に言うと、子どもの心のままである。
主観的に、相手が、自己―対象、セルフ・オブジェクトになっているということ。

相手と、同化している、状態と、理解する。
私と、あなたは、同じ・・・という、勘違いである。

フコートは、
自己―対象とは、こうした自己表象と対象表象の分化ができあがる以前の段階での話しなのです。
小此木

それは、フロイトが言う、乳幼児の発達段階における、快感は、みんな自己であり、不快なものは、みんな非自己であるという、考え方。

快感自己に当るものを、自己―対象と、みなすと解りやすいのである。

それは、
自分にとって何でも思い通りに快―欲望の満足を得られるという全能の自己の感覚です。
小此木

そこで思い通りにできる自分と思い通りにしてくれる母親は、全納感の中で一つに結びついた自己―対象になっているわけです。
小此木

それを、大人になってから、相手に投影させると、おかしくなる。
全能である思う、錯覚経験から、抜け切れない人が、自己愛を肥大させる。

ところが、現実は、母離れのように、確実に来るのである。
そして、幻滅を味わう。

そこで、
理想化された自己―対象について、各発達段階に応じて、脱理想化が起こっていく。その脱理想化によって、ありのままの現実的な自己表象と現実的な対象表象が分化・発達していくわけです。
小此木

言われてみれば、当たり前のことだが、このように、学者が書くと、説得力がある。

さて、ところで、その脱理想化の、幻滅、挫折が、あまりにも大きいと、自己―対象が、急に失われた状態になり、その時、恐怖、衝動が、自己愛を奪うのである。

子供も、大人も、同じ。

分離不安だけではなく、自己破滅・・・まで、至ることもある。

むむしろ子どもの自我の発達に応じて、少しずつ次第に幻滅して、全能感が減少し、そのぶんだけ現実感をもてるようになるのであれば、精神発達にとって、それは必要かつ有意義な体験です。
小此木

随分と、のんきなことを、言うものである。

それを、経なければ、真っ当な、大人になれないのである。

それが、自然に行われることである。
こうして、著者が、書くというのは、それが、自然に行われなくなったからだろう。

何も、面倒な言葉を重ねて、語ることもないはずなのである。

ここで、小此木氏は、母親を早く失うと、
母親の喪失は自己の喪失・破滅になってしまう。そして自分と未分化な全能の母親が、子どもの幻想の中にそのまま存続してしまうわけです。自分と分化しないままの全能感のある母親が残ってしまうのです。
と言う。

そうなると、対象喪失は経験できないわけですが、それと同時に、それだけ現実のかかわりには狂いと歪みが生じてしまう。ポリアンナ的な現実否認が恒常化してしまうのです。
小此木

それは、恐ろしいことである。
結論は、病的に自己愛が、肥大し、自己愛パーソナリティが出来ると、コフートは、言う。

こういう人と、関わる人たちは、次々に、理想的な対象の役目を担わされ、この理想的な対象としての、かかわりの中で、理想的自己も満たされる。

そして現実の自己は、この全能感をみたして、自己愛の満足を得ることをひたすら追求するようになります。これが自己愛パーソナリティであり、その中核が誇大自己なのです。
小此木

それは、つまり、イリュージョンの世界、錯覚の世界に沈没する、生き方になるといわれる。

時代は、そういう人の物になったのか・・・

幻滅と、脱理想化が、破綻して、突然、街中で人を襲う。
または、離人症になり、うつ病になり、手のつけられない、人格を持つ。

心理学では、ほぼ、二歳半くらいに、自己表象と対象表象の分化が、出来ると、言われる。

それでは、正常な発達というものを、小此木氏の、解説で、見ることにする。


posted by 天山 at 00:01| 霊学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月22日

霊学44

正常な発達とは、どのようなものか。

自己―対象への固着が起こらずに、正常な発達が進んで次の段階になると、自分はそんなに全能なものでもないし、母親も現実的な母親として、無力で悪い面もあるということがわかってきます。
小此木

これは、当たり前のことで、特に言うこともないが、それが、現代では、損なわれているということである。

ではこの場合、肥大していた幼児的自己愛、つまり幼児的全能感にみちた自己―対象はどうなるかというと、現実の自分が確立され、それに対立する自我理想と超自我になるわけです。
小此木

それは、理想化された親が、同一視を通して、内在化する。
そして、現実の親は、現実の親として子どもに見えてくるという分化が、進む。

自己―対象が、超自我、自我理想として、現実の自分と対立する。それが、正常であると、言うのである。

理想化された親、つまり、もう一つの自分の存在である。

それが、内なる声とか、良心とか、色々と、言われる。
中には、神の声という人もいる。

病的な自己愛の持ち主は、自我理想も超自我もすべて誇大自己の中に吸収されてそれ以上に分化していきません。すると、一見すると超自我にしたがっていたり、自我理想に従って行動しているかのようですが、実はそれは誇大自己をみたすためのものにすぎません。
小此木

そして、それは、実に恐ろしいのは、現実の未熟な自分に気づかず、絶えず、誇大自己の錯覚の中にいるということだ。

すべての存在が、その誇大自己を満たすための、手段に過ぎなくなる。
これを、コフートが言うところの、自己愛パーソナリティの心理構造ということになる。

このように、自己愛パーソナリティでは、超自我や自我理想も、自分そのものになってしまうのですから、自分が法律そのもののようになって、外界に対してもそういう態度になるわけです。
小此木

本来は、誇大自己から分化した、理想化した親と、現実の自分の関係が、自我理想と現実の自我との関係になるということ。

自己愛パーソナリティでは、それがならないのである。

自分と対立したものを、精神の中に、持たない人たちである。

また、精神の中に、対立したはずの、自我理想が、歪む人がいる。
それが、実に道徳的で、規律的なものであるが、実は、それも、自己愛パーソナリティなのである。

早い時期から、何らかの、強制によって、洗脳されている場合など、である。
小此木氏は、それについては、触れていないが、そのいう人たちが、いる。

頭脳優秀な人にも、多い。
つまり、頭脳優秀であることから、幼児期から、礼賛されて育ち、その礼賛された自分が、誇大自己を作り出すのである。

ある時期からでも、それは、あり得る。
全能感を持ったままに、成長する。
今では、もっぱら成績が良い場合に、そうなる。

挫折を知らない人として、言われることがある。

自己愛パーソナリティでは、何でも自分の思い通りになるという親像をとり入れている。そのために、自分と対立する自分を超えた、超自我・自我理想ができないままになってしまうわけです。
小此木

自分が、正しいと、どんな状況の時にも、それを人に押し付ける。法律に触れることをしても、自分がやる場合は、正しいのである。

全く、通常の話し合いが出来ない人である。
全く通じないから、馬鹿かと、思うが、違う。
自己愛パーソナリティなのである。

現代は誇大自己ばかり肥大して、超自我や自我理想に分化しなくなってしまった時代といえるでしょう。
小此木氏は、そう言う。

それは、つまり、自分の土俵でしか、話し合いが出来ない。自分の土俵でのみ、言葉が通じる。さらに、人の痛みなど、全く関係ないのである。

例えば、タレントを見ると、すぐに自分と比べる。そして、自分の位置からのみ、言葉を発する。
あたかも、自分がタレントになっているかの如くである。
つまり、内が対立していないから、外にも、対立を見出さないのである。

一冊の本を読む。
ベストセラーである。しかし、自己愛パーソナリティの人は、唯一、自分だけが、読んで知っていると、思う。

損得の世界では、もっと、明確である。
父親が亡くなり、遺産相続である。
自分が正しいのであるから、預金も、株式も、生命保険も、すべて自分の手に中に収めてしまい、それで、正しいと、思うのである。
相続人が他にいても、それを平然とやってしまう。

そして、争う段になると、知らない、無いと、平然として言う。

更には、遺書さえ、隠す、捨ててしまう人もいる。
要するに、自分のことしか、頭に無いのである。

人のことは、どうでも、いい。
小此木氏は、現代は、そういう人たちの時代だというのである。
つまり、様々な面で、そういう、自己愛人間が出現して、世の中を作っている。それは、霊的世界に関しても、そうなのである。

昔と違い、狐憑きが、いなくなったが、別に憑くものが、現れた。
神とか、天の声とか・・・

posted by 天山 at 02:55| 霊学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月23日

霊学45

小此木啓吾 自己愛人間から、見ている。

戦前から戦後、現代に至る社会は、かつてフロイトが個の自立のために必要であると考えたいくつもの集団幻想を、主体的にではなくむしろ受身的に破壊するプロセスをたどってきました。
小此木

ちなみに、この本の発売は、1981年11月である。
つまり、30年前である。
それから、また、変転している。

だが、興味深いことなので、取り上げていく。

第一は、女性の性愛に対するタブーの解体です。いまや女性もまた男性と同様に性愛をみたす権利があるという動かしがたい認識を確立しました。

第二は家庭幻想の崩壊です。親は神聖でとても偉いものなのだから、子どもは親のいうことを聞かねばならないという幻想がありました。それに対して、実際には子どもは親を単純に神聖視するわけではない。親もセックスする人間であるという現実は公然化し、家族、親が神聖であるという幻想は破壊されてしまいました。

第三に国家幻想への幻滅であり、第四は宗教に対する幻想の喪失です。フロイトはこれらの集団幻想からの自由な知性に基づいた個の確立を人類の普遍的課題であると考えていました。それを主体的に人間の内面にそって行う道を示したわけです。
小此木

ここで、そのフロイトが、作り上げた、精神分析に対して、批判を控えて、先に進める。

集団幻想からの、自由な知性に基づいた、個の確立・・・
それが、人類の普遍的課題である・・・
そのフロイトの課題に、新しい倫理進化学という、学問が生まれている。

心理学や、精神分析だけではない、学問の世界が、広がっているのである。

心理分析のみによる、分析も、限界があることを、認識しなければ、心理学に対する、妄信になってしまう。陥るということである。
心理学の分析を、絶対と思い込む、賢い馬鹿が、世に溢れている。

それに、関しては、後々、書き込むことにして、小此木氏の、論説を見続けることにする。

自分を支配している、集団幻想から、内面的、主体的に脱却することが、自己自身の人間の課題とした、フロイト以降、この問題は、モノ的な力によって受身的に解体してきたということができます。
と、小此木氏が、指摘する。

家庭も、解体し、親の権威も、地に落ちた。国家の権威も、宗教の権威も、イデオロギーも、失われた。

つまり外から見れば、20世紀初頭にフロイトが個々人の内面で達成しようとした主体的課題はすべて外的な世界のこととしては没主体的に達成されたのが現代です。
小此木

その結果、性のタブー、親の権威、国家、宗教、イデオロギーに対して、こうした文化的、歴史的なものは、価値の無いモノとして、それを作り出し、解体するのは、自分たちであるという、全能感を抱くようになった。

自己愛の肥大化が、気づかぬうちに、誰にでも、起こっている。

確かに、個々人の生活、生き方に、それは言えるだろう。
様々な、例を上げて、説明できる。

しかし、日本の場合を見ても、国家、宗教、イデオロギーの権威が失われたが、それが、新しく提供されたとも、言える。

国家も、宗教、イデオロギーのひとつとして、まとめて、新しい、イデオロギーが生まれて、そこに、身を投じる人たちもいた。

その空虚感を埋めるため・・・

あの、オウムという、新興宗教を、どう解釈するのか。
小此木氏が言う、現代の状況の中で、病として、生まれたのか。

更に、多くの新興宗教は、何故か。
それらは、既成の宗教団体に対する、反乱なのであるのか。

また、国家という、イデオロギーに対して、極右、極左が、生まれている。
これは、何故か。

小此木氏の言う、既成の様々な、価値観の崩壊と共に、実は、邪悪なものが、多々生まれているのである。

考えが甘すぎるとは、言わないが、彼の見た世界は、実に、狭いものである。

世界的に見ても、イデオロギーは、極端に権威を持った。
原理主義・・・
テロリストはじめ、様々な、原理主義者たちが、世界を恐怖に陥れている。

つまり、心理学、精神分析というものは、単なる、一つの遊びであり、ある程度の、知的ゲームとして、認識することもできるのである。

心理学者の岸田秀も、心理学を真っ当に批判している。
いずれ、それも、紹介する。

実は、上記の権威なるものは、変容して、なおも、続いているということである。

例えば、新興宗教の教組は、家庭や、親、国家幻想さえも、凌駕して、権威を持った。そうでなければ、人はあれほど、騙されない。

足裏診断で、天の声を聞くという、教組は、詐欺罪で、起訴されなければ、今も、続けていただろう。

確かに、個々人の生活、生き方も、変容した。
変容したのであり、喪失したのではない。

なるほど・・・
と、思わせるのが、心理学の特徴である。
あたかも、そうであるかのように、分析する。

そして、それが、学問とされることから、それで判定されると、少しズレていても、納得するという、馬鹿げた対応を、せざるを得ない。

憑依現象なども、心理学が、云々すると、もう、霊的作用などは、マヤカシ、誤魔化し、嘘偽りと、判断される。

確かに、多く、心理的要素が、重なるが、霊的要素を見ることが、出来ないでいる。

小此木氏の、自己愛人間を続ける。


posted by 天山 at 08:08| 霊学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月01日

霊学46

自己愛的同一視について、小此木氏の、お話しを見る。

自分に対して、親切にしたり、世話をしたり、愛情を向けていても、それは自分のことを、本当に解っていて、そうしているのではなく、結局は、ただ、感情本位に動いている。そうすると、その相手が、実に、自己中心的な人に見える。

最近の若い男女はもちろん夫婦でも友人同士でも、長いことつき合っていたのだが、実際には相手は何も自分のことなんか本当に思っていなかったのだという空しさを相手の心に残すような自己愛人間がふえています。
小此木

人間にとって、自分と自分でないものの、境界線が、どこにあるのか・・・

まず物理的にいえば、自分の肉体によって限られているわけですから、そこに境界線があるように思われます。しかし、自己愛の対象は必ずしも自分の肉体だけにとどまるものではありません。精神的な自己というものは、自分にかかわるすべてよいものだとみなしたいというように、無限に拡大していくことができるものです。このことをナルシスティック・エクステンション、自己愛の延長物、というわけです。
小此木

そして、その対象が、抽象的な存在の場合もあれば、具体的な人物の場合もある。

精神分析では、自己愛的同一視と、呼ぶ。

現代のようなモラトリアム人間の時代の一つの特徴としてスポーツ選手やタレントのようなスターには、ファンやごひいき心理の中で起こすが、国家・民族はじめ自分を超えたより大きな組織・集団あるいは歴史的存在に対しては、昔のようなアイデンティティを意味する自己愛的同一視が起こらなくなったことがあります。愛国心や愛社精神が若い世代になじめなくなったものも、そのため、ということができます。
小此木

この、自己愛的同一視は、フロイトが、同性愛を分岐するところから、始まった。

今では、そんな単純なものではないが、とりあえず、紹介する。

つまり、自分が母親に愛されたいという気持ちを、同性愛的に対象の少年を愛することで、満たそうとする、とのこと。

フロイトは、同性愛は、その心理の裏に、自分が母親から、愛されたいという気持ちが強くあるという。

それで、かつて、自分が母親から、愛されたように、母親に同一化して、相手を愛する。自分が母親になって、相手が自分になる。

自己愛型の対象選択というのは、相手を自分と同じように思って、相手を愛するというかかわり方をいいますが、その意味で、同性愛がその代表的なものだというのです。
小此木

この考え方で、どれほど多くの、同性愛者たちが、困惑したか・・・

学問の権威に晒されたのである。
同性愛は、そういうものだという、観念を持たせられた。

面白いのは、
同性愛の男性は、女性が自分と同じペニスをもっていないということで、女性を軽蔑してしまう。そこで女性が価値のないものになってしまう。価値を見出せないものには惚れこめないわけです。
小此木

同じ体を、持っているから、つまり、ペニスがあるから、自分と同一視である、ということである。

そこで、同性愛は、自己愛が強すぎるために、本当は自分しか愛することができないという心理の持ち主なのだと、フロイトは、主張した。

小此木氏も、
もちろん現代の精神分析では、本ものの同性愛がこれだけのメカニズムで起こるとは考えていません。むしろここでは、フロイトがどんなふうにして、自己愛的な人間関係の分析をはじめたかを知ってほしいとと思います。
と、言っている。

それにしても、そこに至るまで、フロイトの説に、振り回されていたのであるから、恐ろしい。

だが、先に進む。

フロイトが、次に問題にしたのが、惚れ込みである。
自分の中に作り上げた理想自己、かくありたいという自分を、相手に投影して、相手を美化するという、自己愛のメカニズム。

これを、簡単に言うと、小さな親切、大きなお世話、である。

自己愛人間は一見相手に惚れ込んだり、親身になって世話をしたり、思いやりを抱いたりしているようにみえることがあります。表面温かく親密で相手本位の態度をとることもあります。本人自身も相手を本気で愛しているように思い込むこともあります。・・・

しかし、自己愛人間のすべてこれらのかかわり方は、実は、相手の立場や気持ちを、本当に認識したところでかかわっているわけではない点に特徴があります。つまり自己愛的な同一視のメカニズムによって「相手と一体であるかのように」「愛しているかのように」「かわいがっているかのように」「面倒みているかのように」かかわっているのです。
小此木

要するに、・・・つもり、である。
ところが、いつの間にか、そう思う本人が、相手に、調子を合わせてもらったり、相手に配慮されたり、我慢してもらうという、逆の関係になっていく。

実際に依存しているのは、主観的には自分が面倒をみていると思う側なのだが、逆転してしまうというのが、自己愛人間の特徴である、とのこと。

これが、そのまま、続けば、問題がない。
だが、現実は、続かない。
つまり、破綻が起きる。

それでは、どのようにして、破綻が起きるのか・・・

精神分析医の常識として、うつ病になりやすい人は、このような自己愛的な同一視によってしか相手とかかわることができないといわれています。フロイト自身もそうであったといえるようです。
小此木

患者より、医者の方が、問題が多いという、現実である。
だから、患者の苦しみを共感できるとも、いえる。

特に、心理学、精神分析などに、凝る人は、その人自身が、悩んでいるのである。
だから、それで、人を判断するな・・・と、私は言う。

戦時に、ノイローゼ、神経症が、極端に減ったという。
そんな隙がなかったのである。

後進国より、先進国の方が、圧倒的に、精神疾患が多いのである。


posted by 天山 at 00:06| 霊学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月02日

霊学47

小此木氏は、日本的人間関係の自己愛的ということを、説明している。

実は、日本人の親密な人間関係では、常にこうした自己愛的同一視が主役を演じています。
小此木

つまり、相手を自分の一部として思い、親切、世話、教育をするということである。
それは、契約関係ではない。
その代わりに、恩を返す、という言葉がある。

契約関係は、ユダヤの基本的、人間関係といっても、いい。
更に、それが、欧米まで、拡大した。

つまり親身に面倒をみていればいつか「恩を返す」気持ちになって報いてくれるだろうという期待が強いわけです。
小此木

そして、それを、ひっくり返すと、日本的な支配関係になるというもの。

いずれにせよ、日本人の場合、つねに心理的に自己愛の延長物としての愛情の対象をもっていないと寂しいという人が多いようです。
小此木

更に、加えて、日本的マゾヒズムを挙げている。

私が日本的マゾヒズムの特徴としてあげているのは、相手本位で、とても思いやりがあって、共感性が高いということなどです。
小此木

これは、自己愛人間論から理解すると、他者の自己愛をとても重んじるという対人関係上の態度が、日本人には伝統的にあるということです。人権尊重思想が入ってきた場合でも、それは本人自身が自分の人権を主張するという形にはならないでむしろ、日本人の中にもともとある配慮・思いやりの文化というか、自分を殺しても相手の自己愛を尊重しようという相手本位の気風とマッチしたものに吸収されてしまったわけです。
小此木

大声で、自己主張するという、自己愛人間ではないのである。

アメリカ人が、心理構造として、誇大自己が肥大しているのとは、違うのである。
日本人は、誰もが、日本的マゾヒズムの仮面をかぶっているということ。

そして、日本的マゾヒズムは、自己愛が満たされる期待を、内に含んでいる。

自分の自己愛の満足を犠牲にして、子どもの自己愛を満たすことで、満足するという形。そこに、自己愛的同一視のメカニズムが、働いている。

つまり日本的マゾヒズムの対人関係様式そのものが実は日本的自己愛のみたし方でもあるわけです。
小此木

マゾヒスティックになることによって、自分の自己愛を最終的にみたそうという隠された願望があるわけです。
小此木

欧米的な、それは、むき出しの強欲さ、自己主張が出て、人を顧みない、共感性がない。
日本的自己愛人間は、日本の社会の中で、適応様式として、日本的マゾヒズムを使う。

だが、時代性と、時代精神というものがある。
それにより、そのあり方も、複雑になってゆく。

国際化された、時代、日本人の中でも、自己主張する人が多くなった。しかし、それでも、日本的マゾヒズムを隠しているから、より、複雑になる。

欧米人のように、強い自己主張をしないが、実は、とても強い主張があり、それが通らないと、恨む、忘れない、そして、その観念が固着してしまう。

賢いといわれる人たちに、多くいる。

賢い人たちは、それだけで、肥大自己を抱えているので、その苦しみも、倍化する。
一人でも、その肥大した自己意識を、認めないと、その恨みは、強い。

日本的な自己愛は、お互いが自他未分化なまま自己―対象になり合って暮らしていることを意味していますが、この認識は日本社会が母性社会であるという考えにも対応するとらえ方です。
小此木

そのうえ、戦後は父親的な世界が破綻している。それに比べてまだ確実なのは、母親が子どもを産み育てるということです。
小此木

児童心理の中で、父親が、母親の間に介在することによって、母子の一体感の、イリュージョン、錯覚が破壊されて、父の子ということで、初めて、子が、社会の中に父の名、つまり、社会性を持つ存在になるという。

フロイトは母権社会は父権社会に比べると原始的であるが、その理由は、母権社会は感覚的な自己愛的なものしか許容できない社会だからである、といっています。これに対して父権社会は、より進歩した理性的社会である。なぜならばその子どもが、どの父親の子どもであるかは生物学的なきずなとして証明できない。その父親の子どもであるということは、信頼とか契約という理性的・社会的なものが入ることによってはじめて成り立つからというわけです。
小此木

だが、上記は、もはや、古い考え方である。

生物学的に、証明できる時代に入ったのである。

要するに、母親とは違う、第三者の存在により、子どもは、社会性に目覚めるのである。その、第三者は、父親でなくとも、いいのである。

確かに、父親不在・・・云々という、話しは、よく聞いた。
しかし、親は無くても、子は育つという、昔からの、言葉も、生きている。

小此木氏は、父親も、第二の母親化して・・・
母親と子どもという、ウエートがとても、大きくなった、と言う。

ウエートが大きくなってもいい。
近親相姦が、無ければ、健全である。
近親相姦が、多くなるから、問題なのである。

自己愛的な人間関係しか子どもにもてない母親に育てられると、子どももそういう自己愛的な関係しか身につかないわけです。自己愛的な人間関係様式が母親から子どもへと再生産されることになるわけです。するとそこでは母と子の関係の水準で誇大自己がつくりあげられてしまって自我理想が身に付くようなエディプス・コンプレックスを克服する段階に達しないことになります。
小此木

私の言い方にすると、人は、見ていたモノに影響されて、見たモノのようになる。
だから、その人を、理解すると共に、見ていたものを、推察する事が出来るということである。


posted by 天山 at 00:05| 霊学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月03日

霊学48

性愛や性の営みを、自己愛を満たすための手段とする性格を、性の革命で、有名なウイリアム・ライヒは、男根期自己愛性格、ファリック・ナルシスティックキャラクター、と、名づけた。

男根期自己愛性格とは、非常に自己主張が強くて、理想化した自分があたかも実際に実現しているような確信を抱いてなくてはいられないようなパーソナリティです。
小此木

男の子が、自分のペニスを大切にする男根期の時期で、フロイトは、この段階で、ペニスは、自己愛の中心だと、説明する。

この段階では、自己顕示欲、権勢欲、競争心、優越意識などが特別に大きな価値をもっています。そしてこの段階の男根期の自己愛に固着する人が男根期自己愛性格です。
小此木

それは、また、単なる欲望の満足というより、理想的な自己に関する、幻想を現実化したいという、願望があるということ。

男根期自己愛性格の人は、常に戦闘的で、自分を主張して、人に対して優位に立っていないと、いられないということになる。

他人との、協調性や、永続的な、関係を持つ事が出来ない。
更に、多婚的で、自分の男根期自己愛を満たすためだけに、女性と関わる。

何か、アラブのイスラムの男たちを、連想させる。

女を一度、自分のものにしてしまうと、関心が無くなり、相互に満足を経験するという形で愛を深めることよりも、女を性的に征服して、自己愛を満たすことが、目標である。

イスラム法を見れば、その通りなのである。

ここで、固着という、心理に注目である。
人は、どこかの成長過程で、その段階に、固着することがある。
それは、体が、成長しても、精神が、その段階のままであるということ。

この、固着が、実は多くの、問題、悩みの元であることが、多い。
だが、それに気づくことは、また、苦痛である。

彼らには、決して本当の意味での父性像はありません。男根期に固着しているのですから、永遠の少年なのです。本当の父性像は、男根期自己愛を克服し、法とかルールに従うということを通してはじめて威厳や権威が出てくるのです。
小此木

ライヒは、それには、二つの要因があるという。
一つは、母親から、ちやほやされること。男根期自己愛性格の男は、幼い時期から、母親の寵愛を、一身に受けている。
もう一つの、要素は、去勢不安が強いということ。

1920年代、ライヒは、すでに、自己愛パーソナリティの原型ともいうべき、男根期自己愛性格について、明らかにしていたのである。

ここで、心理学者の、深読みがある。
ペニスを持つ母親である。
去勢不安の時期に、ペニスを持つ母親という、幻想を抱き、ついに、ペニスを持つ母親として、同一化するという。それが、男根期自己愛性格であるという。

つまり本当の男になっているのではなく、実はペニスを持った強い母親に同一視しているのです。
小此木

このペニスを持っている母親像とは、とても恐ろしくて、冷たくて、強いというイメージをもっています。体験的には自分をそれまでとても大事にして誘惑しておいて、最後に去勢してしまうという母親像です。ですから男根期自己愛性格の男性は、母親が自分に対してさんざんかわいがって最後に見捨てたように、女性と付き合っても、相手の気持ちを引きつけておいて、捨ててしまう。母に自分がされたように、女性に対して自分がするわけです。
小此木

そして、自分にペニスがあることを、確認し、去勢不安の否認を繰り返して、母に対する恨みを、女に対して、復讐するという。

ここで、テーマになるのは、相手に対する、愛情ではなく、自己愛が、どれだけ満たされるかであり、自己愛が傷つけられた幻想体験を、相手に味合わせる心理、との、説である。

これを、鵜呑みにして、学ぶ心理学という、妄想の世界に、入り込み、遂には、自分が心理学によって、救われないということで、幻滅する、学者諸氏がいるのだろうと、想像する。

解ったような、説明なのである。

心理学が、人類学と、結びつかないと、説得力がないのである。
更に、遺伝学である。

これは、心理学の遊びである。
意味付けする、遊び程度なのである。

多くの、賢い馬鹿が、こうして、心理学用語を使い、人を分析するのである。
それを聞いて、納得する方も、馬鹿ならいいが、そうではない時、単なる妄想合戦になる。

何故、超心理学なるものが、生まれたか。
それは、単なる心理学では、解決出来ない問題があるということで、出来たのである。

更に、神秘学による、精神分析も、である。

ユングも、狂う手前で、漸く、集合意識、民族意識、家系の意識に気づいた。

潜在意識の追求である。

ただし、この心理学の統計にも、一理も二理もあることは、理解する。
もう少し、続けて、小此木氏の、自己愛人間を見ることにする。

そして、更に、深層心理なるものに、向かう。
現代の人間の心理から、より深く、人間の心理を、探るしか、方法が無い。

過去の人間の例を出して、説明するのは、事後預言と同じである。
新しい人間に、過去の人間の例を、当て嵌めて、判断するのは、怠慢である。

新しい人間は、全く、新しい手法で、分析するのがよい。
その点で、日本の心理学は、実に、怠慢、怠惰である。
欧米の心理学の学説を、説明するのに、始終する。


posted by 天山 at 00:34| 霊学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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