2011年08月06日

霊学29

アイデンティティ、パーソナルな同一性というものの、起源について、小此木氏の、記述を見る。

母親が子どもに対して持っている人格像をみることを通して子どもが自分を認識していくときに、「おれはこういう人間なのだ」と心に抱くようになるわけです。世に有名な天才、偉人の伝記には、フロイトの場合のように、その人が生まれる前のエピソードがつきものです。その読み取り方としては、親の中にその子どもに対しての生まれる以前からのこうしたイメージや期待があって、それが本人の中に人並みはずれた巨大な自己像を形成し、はぐくんだという解釈も成り立つわけです。
小此木

ところが、それが、曖昧で、あまり、意識の無い人の場合は、どこかで、心が、変形するようである。
成功したが、何となく、劣等感にさいなまれる。社会的地位を、得たが、不安感がある。また、その、逆に、尊大無礼になる。
傲慢になる。
本当は、自分に自信がないのだが、虚勢を張る。

負けず嫌いだから、知らないということが、許せないので、猛勉強をする。
しかし、いつか、力尽きるのである。

自我虚構の、自我拡大意識と、私は、言う。

子どもが自分の全体的な自己像を自分のものにしていく過程には、ことに母親が子どもに対してもっている一貫した子ども像と自分を同一視して、その見方で自分のことをみるようになります。そしてその自己像を自分のものにしていくということがあります。
小此木

この、自己認識の仕方を、明確にしたのが、ラカンの「鏡像段階」という。

鏡に映る、自分の全体像を見て、これが自分だと、固定して、映る自己イメージと、自分を同じものと同一視する。そこで、全体的な、自己表象、自己像というものが、出来あがるという。

ここで大切なことは、二つあって、一つは全体的で一貫性のある自己像というものは、鏡に映って初めて認識できるということです。ですから、それを子どもの体験に即していうと、母親がいつも自分のことを同じ自分だと見ている同一性と一貫性が大切なわけです。
小此木

子どもは、今日と、昨日の自分が、ばらばらなものとして、体験している。
そこで、母親が、一貫して、子どもに対する、人格像があることが、子ども自身の、一貫性した、自己像を作る助けになる。

不変性と一貫した自己像を持つのが、大人の心に、一貫して続く、アイティンティティということになる。

もし、これが、うまくいかないと、心は、分裂する。
それが、神経症になるのか、他の精神疾患になるのか・・・

そして、面白いことは、次である。

もう一つ、このような自己像は、無味乾燥な知覚とか認知のような知的な認識だけでできあがるものではないということです。まさにそれはあのナルシスの神話通りに惚れ込みの対象としての自己像がはじまるということです。つまりその起源において、自分の存在を知ることは、惚れ込み対象としてしかあり得ない、ということです。惚れ込み対象としての自分と意識・認識の対象としての自己は、この起源的な状況ではまったく一つのものなのです。
小此木

もし、憎しみ、嫌悪、無関心の対象としての、自分しか、見出せないとすれば、そこに、全体的な自己像を作り出すことが、出来なくなる。
つまり、同一性と、一貫性が、見出せない自分となる。

健康な、自己愛というものを、育てなければ、生きるに、とても、大変であり、時には、精神疾患、犯罪に関わる人格を育てる。

それでは、孤児などの、場合は、絶望的であろうか。
違う。
母親に、代わる存在があればいい。

人は、人によって人になる、ということである。

母親が、内面的に確実な存在となり、外部にも予測可能な存在になる。
その体験の一貫性、連続性が、同じ体験であること。
それが、自我同一性の基礎となる。

この発達が一定の段階に達すると赤ん坊はほほえむようになる。
エリクソン

自己愛から、始まる、人間の心の成長である。

最初に、母親の愛を受けて、自分を愛することを、知る。
自分を愛することに、成功できた人は、人生の逆境にあっても、強く歩むことができる。
何故か。
自分を愛しているからである。

絶望的な状況の中でも、それを、超える力は、自己愛なのである。

母と子の関係は、探れば、探るほど、面白いが、省略する。

原始時代は、その、自我の意識が、曖昧だったのは、そこまで、母と子の関係が、進化していなかったのである。

自我と、自然との、一体感などの、原始的体験は、また、それで、自然の中に生きる人間を、進化させた。
更に、人間の大脳化である。

さて、この自己愛から、愛の意識が、拡大していく。
自分と、関わりあるものに対する、思いである。

親兄弟は、勿論、祖父、祖母、そして、親類・・・
さらには、友人、知人・・・
そして、地域社会に対する思い。
更には、国に対する思い。
愛国心である。
それは、教育せずとも、自然発露の形で、成長する。
ただし、止められた場合は、歪められる。
敗戦後の、日本人は、愛国心を、止められたといえる。だから、日本人が、歪になった。自然発露であるところの、思いが、歪められると、自虐的になる。
自虐史観などは、その最たるもの。


posted by 天山 at 05:09| 霊学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月07日

霊学30

そもそも自己愛は自体愛的な原始的な自己感覚にその起源があるように、何か温かみがあって居心地が良くて、住み慣れていて、ある種のくさみがあるようなーーー言語以前のものでみちている自己感覚と密着したものであり、しかもそのような自分の隠れ家であり、安全装置であり、防御でもあるようなものです。
小此木

言語以前の自己感覚・・・
これは、心と深いつながりがある。
身体意識とも言う。

心は、脳が作った・・・という、人が多くなった。脳科学のお陰である。
しかし、脳以前の、感覚、それを、私は、身体感覚と呼び、それを、心のあり様として、捉える。更に、言語以前ということが、大切である。

言語というのは、左脳によるもの。
それでは、身体感覚は、右脳である。

では、心は、右脳か・・・
違う。
身体感覚のうちでも、それは、心臓である。

これに関しては、後々に、詳しく書く。

今は、自己愛である。

ところが、人間はプライバシイとか、秘密の自分とか、自分ひとりにしかわからないひそかな自己愛とともに、対人関係における相互性とエロス的コミュニケーションの中で、現実の経験の裏づけを受けて発達する社会に是認された自己愛=アイデンティティをもつようになる。
小此木

さて、ここでは、対人関係と、エロス的コミュニケーションである。
対人関係における、相互性とは、制度化したり、社会化したりした形での、維持するアイデンティティである。

それを、共有した人たちとの、連帯した感覚であり、その関わりが、アイデンティティとなるのである。
国家、宗教、主義、主張である。

単独では、アイデンティティにはならない。

エロス的コミュニケーション・・・
これは、また、大変なテーマである。
簡単に書いているが、これを、説明するために、費やす言葉は、大量になる。

エロスの定義から、始めなければ為らない。

ですから、人間が健康な自己愛をみたして発達させるには、このようなミューチュアルな関係を、どけだけ多く発見し、経験し社会化していくことができるかが課題になるのです。
小此木

そこで、フロイトの、自律性の発達段階が、出てくる。
肛門期、男根期・・・

小此木氏は、幼児的でプリミティブな自体愛を捨てさせて、その代わり、より発達した社会性をもった、自己愛を与えることが、子供の教育に必要であると、説く。

さて、相互性とは、対人関係や、社会に限らず、根源的には、自然と人間との間にも、成立する、調和した、感覚なのであるということだ。

人間の強さとは、相互性への、信頼をどのようにして、身につけるか、どうやって、相手、それは、自然から、人間、社会、歴史まで、含めて、相互性を見出すということ。そして、それを、確立してゆくかということになる。

相互性を持った自我と、社会の出会いに成功するか、否かが、その人物の人生の、別れ道になる、場合が、少ない。

そこで、この、自己愛の、本来のテーマは、現代人の、自己愛を、考えるものである。
つまり、病的な自己愛が、肥大化した人間の様を、考えることである。

健康な、自己愛ならば、語ることもない。
それが、損なわれ、傷つき、その防衛の代償としての、自己愛が、跋扈するから、問題なのである。

通常の、心理学の教科書をお勉強するなら、これを、書く必要は無い。
良い教科書は、多々ある。

その病的で、自己愛が肥大化すると、どうなるのかである。

そして、小此木氏も、それが、テーマなのである。

それを、知ることにより、自己回復を促す。
そして、健康な自己愛を、取り戻すことなのである。

端的な例を、上げる。

学業優秀で、見た目も、ハンサムな男が、ある程度の、出世をした。
ところが、彼は、成長の過程で、健全な自己愛を、創造できなかった。
非常に、現代に多く見られる傾向である。

最初から、勝ち組にいるような、錯覚から、言葉、態度に、人を軽蔑、卑下した見方をする。

最初から、つまり、生まれながらに、自分は、他の人間と違うのだという、明らかに、病的な自己愛を作り上げてきたのである。

その、最大の、根拠が、学歴、学業優秀なのである。
勿論、そのように、努力したのであるが、それが、唯一の自己愛の、拠り所となる。
そして、幾つになっても、対人関係では、納得しない、満足出来ない、人間関係しか出来ない。

それは、結婚生活でも、そうである。
妻は、我に従うべきモノ。
妻にさえも、歪んだ自己愛を、投影するのである。

更に、悪いことは、他人をも、歪んだ自己愛からしか、理解できないのである。
だから、指導的立場にしか、立てないのである。
だが、誰も、それを、望まない。
そして、悲劇が起こる。
孤立である。

それは、周囲の人たちにも、問題がある。
学歴の高い彼を、尊敬しなければならないという、無意識の意識が、働くからである。
誰も、彼のことを、批判出来ないのである。

だから、更に、孤立する。


posted by 天山 at 07:02| 霊学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月13日

霊学31

さて、自己愛も、愛されることによって、満たされるものである。

それを、受身的対象愛という。
これが、自己愛の源流と言う学者もいる。

つまり、自己のみでは、自己愛は、満たされないのである。
愛されることによって、満たされる自己愛は、矢張り、人間と、人間の係わり合いにあるといえる。

小此木氏は、
自分が人から愛されることを求める情緒的な愛情欲求という。

別の言葉で、言えば、甘え、である。

ただ、学者によって、それが、微妙に違うことがある。

一つは、自己愛には、中間態のような、他の源流もあり、その一つとして、満たされるものを、そのまま、受動態の自己愛の満足であるというものと、人から愛されたいという欲求が満たされないときに、自分で自分を愛する、という、欲求が起こるというものを、自己愛と、呼ぶ。

後者の説は、愛されたい気持ちが、満たされないから、自分を愛する、セルフ・ラブ。ももう一つは、自分が愛されたいから、まず、自分の方から、相手を愛するという、能動的な形があるという。

たとえば、母親がほぼよい愛情を注いでくれないと、その子どもは自分で自分を愛するほかなくなってしまう。そこから、自己中心性とか、周囲への無関心、人々の共感性の乏しさ、幻想的な全能感などが生じるというのです。
小此木

この問題を考える、古典的な考え方に、オナニーがある。
オナニーは、代理満足として、行われるというもの。

オナニーと自己愛あるいは自体愛とは密接に関係しています。
小此木

上記の、考え方は、古いものである。
時代は、もっと、進んだ。

オナニーを自己愛の代理満足とするのは、オナニーの変態的状況である。

自己愛が、オナニーによって、性愛に至るのは、病である。
だが、それも、時代は、オナニストとして、認めた。

心理学者の説は、時に、頷かせながら、勝手な解釈に陥ること、多々あり。

母親のスキンシップの代わりに、自分のおチンチンにさわる、こうしたリビドーの動きは、受動的対象愛がみたされなくなって、自分で自分を愛する自己愛が高まるのは、思春期です。
小此木

思春期に関しては、如何様にも、解釈できる。

ここで、誤ってはいけないことは、心理学というものの、語り尽くそうとすることの、曖昧性である。
あたかも、そのように、思われるような、言葉を使用して、納得させる。
心理学者が、無反省なのは、ここである。

心理学は、統計学などといわれるが、違う。
学者の興味によって、起こされた学問である。
勿論、それを理由するには、否定はしない。だが、それが、すべてではない。

特に、思春期などは、まさに、百人百様である。
相談者を納得させるために、使用される、心理学用語に、相談者が、騙される。つまり、心理学用語に、自分の問題を、当て嵌めようとするのである。

なるほど、言葉というものは、新しい概念や、観念を伝えるものであるが、それだけではない、もの、が、人間にはある。

小此木氏は、レオナルド・ダ・ヴィンチの例を上げて、彼が、同性愛傾向を持っていたのは、母親との、結びつきが異常に強かったためだと、フロイトが言っているといい、自分が母親から、愛されるように、自分が母親の立場になって、少年を愛したと、分析していると、言う。

これなどは、勝手な思いつきである。

ダ・ヴィンチは、少年愛たったのである。
少年の、ペニスを口にするのが、とても、快感だった。
それで、いい。

そこに、母親との、強い結びつき・・・
はては、母親との、薄い結びつきによって・・・
彼は、同性を愛した。と、冗談ではない、解釈を、勝手にする。
そして、それが、学問とされて、勝手に人を、分析しようとする、その時、心理学者の、傲慢不遜が、現れる。

また、それに、真似た、馬鹿者が、人を、心理学用語を、使用して、分析するという、呆れた状態を、生む。

心理学は、進化し続けている。
過去の、分析は、その時点で、もう、古いものなのである。

だから、同性愛も、治すという、傲慢さを、持ち合わせる。

レオナルドにおける、自己愛の、メカニズムなど、誰が解ろうか。
もはや、亡くなった人、存在しない人を分析するのは、反論出来ないからである。

犯罪が、起こると、心理学者なるものが、マスコミにて、分析をよくするが、隣の爺さんに聞いた方が、真っ当な場合が、多々ある。

家庭環境が、複雑で、不幸感を抱き、社会に対して、憎悪を向けた結果・・・

そんな人は、数多いる。
何故、彼を犯罪に走らせたのか・・・
何も、応えられない。

そこで、彼の因縁、霊的問題ですと、言えば、大衆は、笑うだろう・・・
しかし、それこそが、本当の原因だったら・・・

posted by 天山 at 23:54| 霊学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月14日

霊学32

愛されたい気持ちがみたされないときに、自分で自分を愛する自己愛のメカニズムが働きはじめます。この自己愛のメカニズムは、自分を愛してほしい対象に自分がなる、つまり同一化のメカニズムを基本にしています。それによって、自己愛がみたされるという意味で、これを「自己愛同一化」とよびます。
小此木

自己愛は、フロイトのいう、リビドー、バリントのいう、愛情要求と自己保存本能が、むすびついた欲求であり、生きている限り、それは、求められ、満たされなければならない、らしい。
らしい、とは、小此木氏が、言う。

自己保存本能と、自己愛のつながりについては、自己破滅、恐怖、去勢の脅し、依存と主観的安定などが、問題になる。

自己愛という言葉を、私の言い方に変えると、本当の自分に逢いたい、欲求であると、言う。

ところが、心理学では、というか、屁理屈を好む学者は、どうしても、父、母との、関係に帰結させたいようである。

だが、続けて見てゆく。

フロイトや、フロイト以後の研究家は、その精神分析に、自己愛の構造というべき、自己愛を満たす、心理的な仕組みが、どのように、出来たのかということを、研究した。

そこで、おおよそ、自己愛の、構造は、幼稚園児くらいらしい時期、つまり、フロイトの言う、エディプス・コンプレックスを克服した時期に、当る。

そして、その構造は、現実の、自分、つまり、リアル・セルフ、理想自我、つまり、アイデアル・セルフ、自我理想、つまり、アイデアル・エゴ、超自我、つまり、スーパー・エゴなどから、成り立つという。

日本人の、心理学者の怠慢は、西欧の心理学を、そのまま、鵜呑みにして、紹介することに、ただそれだけに、費やされる。
だがら、日本の心理学は、最低である。

昔の言葉に、
親はなくても、子は育つ、という言葉を、知らないようである。

更に、驚くべきは、その、構造と、機能を知ると、自己愛の心理が、よく解るというのである。
であるから、心理学を学んだものは、人の心を、手に取るように、解ると、誤解し、はては、妄想する。

病んでいるのが、自分だとは、知らない不幸である。

例えば、私の親類に、心理療法家として、活躍し、大学の教授になっている者がいる。
彼は、両親の面倒を見る事無く、実家に帰ることもせず、その父親が、寝たきりになっていても、平然として、福祉、心理療法について、講義しているらしい。

本人自身が、病んでいることを、知らないという、良い例である。

頭脳労働のみ・・・
現実生活、生きるということと、学問が、別問題なのである。
心理学者に、こういう、馬鹿が多い。

であるから、その学生も、頭脳理解のみ。
現実的に、何の貢献も出来ない。

しかし、一つの概念をしばらく我慢して理解すると、自己愛の心理がいままでとは違ったもっと細かい働きとして、手にとるように見えてきます。
小此木

それを、全員に、当て嵌めるという、暴挙である。

心理学者の罪は、重い。

だが、面白いので、見てゆくことにする。

自我理想、リアル・セルフに、現実の自分が、一歩近づくと、自己愛を満たし、豊かにする。
その反対に、自我理想通りに、いかない、自我理想に照らして、駄目な存在だと、感じられると、不全感、挫折感を起こる。
そして、己を恥じる気持ちを持つのである。

それで、逆に、自我理想通りに、順調に、進んだ者は、どうか。
それについては、答えは、おおよそ、解るが、実際は、とんでもない、人間に成長する。

スーパー・エゴといわれる、超自我までも、巻き込んで、その傲慢不遜が、余りある人間に成長する。
他人を、道具としか、扱えない。
更には、自分のために、他人を犠牲にしてでも、自我理想を、求めて、生き続ける。

ここで、小此木氏は、自我理想も、超自我も、われわれの心のあり方、行動を規制する内面的な、規範になっていると、言う。

違う。

そういう、人しか、見なかったのである。
または、自我理想も、超自我も、目覚めさせないで、生きてきた人を、知らない、見なかったということである。

ここで強調したいのは自我理想の場合も、その家族なり社会なりに一定の価値規範というものがあって、この規範が自我理想や超自我の形で、それぞれの心の中に内在化して一つの精神構造になったものです。そうした価値規範が確固とした秩序の存在する社会の中で、はじめて自我理想も超自我も内在化していくのです。
小此木

それでは、どのように、心の中で、内在化するようになるのか、と、いうことになる。

ここで、一つ提言するが、脳学者の活躍が、目覚しい時代、心理学者は、脳学者と、共に、お勉強すべきである。

脳学者に言わせると、心の中・・・ではなく、脳内の仕組みの中で、という、表現になるはずである。

だから、本当は、ここから、少し、寄り道して、脳の有り様を、紹介したいところだが、また、膨大に長くなり、元に戻るのが、大変なので、別に、書くことにする。

posted by 天山 at 23:19| 霊学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月27日

霊学33

受身的な形で、行為する人を、超自我型の人間。
積極的な形で、行為する人を、自我理想型の人間。

実は自己愛の重要な機能として、自分の様々な欲求をコントロールする機能があります。ほかの欲望を抑制するとその代わりに自己愛がみたされるという回路が構造化すると自我理想になるのです。もっと積極的な形になると、自己愛をみたすために、それ以外の欲望を断念したり、抑制してしまったりする場合もあります。それが自我理想の欲望コントロール機能です。
小此木

上記に対して、自己愛の傷つきをおそれるあまり、他の欲望を断念したり、放棄する場合がある。このパターンが構造化されると、超自我になってゆく。

欲望の満足を断念したり、フラストレーションに耐えることで、自己愛が高まるということが、起きる。

だが、それが、極端になると、自己愛の満足ばかりが、心の関心事になり、人との愛情、触れ合いなどより、立派になることだけを、価値規範にするようになる。

そのまま、年齢を重ねると、どうなるのか・・・
権威主義の、更に、支配欲の強い、そして、自分の正義を通す、偏屈な人間になる。

それは、幼児期に決まる。
決まると、変更できないのか・・・
それを、変更するには、大変な、苦痛を伴う。

男根期、三歳から四歳は、心理学では、エディプス・コンプレックスの時期である。

象徴的には、去勢不安が起こると、される。
去勢とは、単に、男根を切るということではない。

むしろ自己愛論的にいえば、男としての自尊心とか誇り、自信というものをおびやかし、奪われるということです。この場合の男根は、そうした男の子としての自己愛を象徴するものです。そしてこのエディプス状況で、もし自分の欲望をほしいままにすれば、去勢不安が起こるという体験が心の中に内在化して、超自我ができあがっていきます。この場合の超自我は子どもの自己愛をおびやかし、傷つけても欲望の断念を強いるような父親、母親への同一によってつくられていきます。
小此木

男としての自分を、父親との闘いの中で、どのように確立するかということが、課題になるとは、小此木氏が言う。

そして、女の子の場合は、父親を巡って、母親との対立を通して、自分をどう確立するのか、課題になると言う。

いずれにせよ、それは、ある特定の人に言えることで、すべての人には、当て嵌まらない。

これを、一般の人、すべてに、当て嵌めて、解釈、分析すると、アホな心理学者の、一丁上がりである。

さて、自我理想は、思春期、青年期を通して、はじめて、明らかになる。

つまり、子ども時代の、自我理想が、青年期の、アイデンティティの形成に、つながっていく。

歴史的、思想的意味を持つ、社会化された、アイデンティティになるかどうか、思春期から、青年期にかけての課題になると、小此木氏は、言う。

子供時代は、あの人のようになりたい・・・
野球選手、サッカー選手・・・程度である。

それが、叶わぬと、解ってくると、身の丈に合った、理想を作るということだ。

精神であるところの「自己」は、実際の世間において、どのような不安定さを示すだろうか。浮動常なきその実相の研究が必至となってきます。精神は環境に対する絶えざる抵抗力ですが、同時に、抵抗する自己の正確な認識を得たいと常に焦慮しているものです。そして見出すものは自己そのものがすでに危機的存在だということであります。
愛の無常について 亀井勝一郎 現代語訳は、私。

言葉の世界である、精神を、心理学用語を使わず、このように、考えることも出来るのである。

続けて、
我々は様々な知識を得たいと焦りますが、それらをとおして、一番知りたがっているのは、結局「自己とは何ぞ」ということではないでしょうか。各人にとって、自分の状態、自分の運命を知るほど興味深く、また恐ろしいことはないはずです。危機の自覚は、精神の演ずるでろあう人生劇の予見をひどくおそるるものなのであります。
亀井

知識、例えば、心理学の知識を得て、少しの安心を得る・・・
いや、すべて、心理学にて、解釈してしまおうとすることもある。

心理学が、解りやすく解釈されると、なお更に、その知識を得て、自分を、そして、他人を分析して、その気になるという・・・

兎に角、安易に安心を与えるという意味では、占いと、同じ程度に、心理学は、入りやすい。
だから、素人、心理学者が、多くなる。

人はどんな運命を辿ろうとも、死という大限定は避けられない。それが生を鮮やかに我々に自覚せしむるのですが、その生たるや漠然としてとらへ難く、しかも迅速にすぎて行く。生の漠然さと死の確実さの不安から、つい我々は党派とか宗教とかに性急な「拠り所」を求めて、自ら自己限定におちいる。
亀井

上記のような、思索に耐えられないゆえに、安易な心理学という、知識に頼ることになる。

最も気楽な生き方は、他人から自己限定して貰って、自己をもたないことです。
亀井

更に、他人を限定して、安心する。

知識の多い人ほど、そのような傾向を帯びる。
知識が、迷いであるとは、知らない。

こうして、こうだから、こうなって・・・
実に、安易である。

勿論、私は、心理学を否定しないばかりか、思索の糧として、利用する。

まだまだ、続く、自己愛。


posted by 天山 at 17:01| 霊学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月28日

霊学34

現代人の自己愛について・・・現代人はアイデンティティと自我理想を失い、理想自我との一致による自己愛満足をもっぱら追求する人間であり・・・
小此木

小此木氏が、自己愛人間で、語りたいのは、それである。

理想自我の概念を発展させたのは、パリの、ラカンである。

自我理想と、理想自我の違いについて、小此木氏の、説くところから、見る。

ラカンは、自我理想は、エディプス・コンプレックスの段階、自と他が、明確に区別された三者関係の中で、初めて、形成されるという。
これは、社会性をもった、道徳的価値規範を取り入れたところで、成立する。

では、理想自我とは、自己愛の成り立ちと、深く関係する。
それは、自己の実像を直接見ることのではない人間が、最初に自己を認知するのは、理想化した自己像を描いて、この理想化した自己像と、鏡に映った自己像を、同じものとするということ。

母親の心の中にある、良い自分というものが、自己像になる。
その時、悪い自分は、排除される。
良い自分とは、母親が抱く、理想化した子供像になる。

この時の、自己像のように、自我以前に出来上がった、原始的なものが、理想自我の、芽生えであるという。

前自我、プレ・モアとも、言う。

つまり理想自我とは、自分の気に入っている、まさに自己愛そのもののような自己像なのです。それは自分の中で主観的につくりあげられたものであり、それに自分がいつも一致することを求めているのです。
小此木

理想自我への、同一化は、自己愛の社会化の過程で、自我理想形成以前の、プロセスを、更に、細かく分析して、明らかにしたものと、なる。

理想自我から、自我理想へ・・・
アイデンティティという、段階で、健康な自己愛の発達が、進んでゆく。

理想自我は自我理想と違って、社会的な規範とか身近な世界から隔たった歴史的・思想的な意味をもった世界とつながるものではありません。
小此木

また、それは、自我理想に比べて、大義名分、主義主張という、自分たちの世界を超えた、価値付け、意味づけをもたない段階の理想像であると、小此木氏が、言う。

小此木氏は、モラトリアム人間社会という、提言で、有名になった人である。
それは、アイデンティティを獲得するための、猶予状態を、表す言葉である。

猶予状態を、いつまでも持ち続ける、心理構造が、社会的性格になったというものである。

つまり、それは、アイデンティティから、自我理想を、心の中に、内在化していない人たちの社会になったということである。

それが、良い、悪いの、問題ではない。
時代が、そのようになったと、警鐘したのである。

現代は社会・歴史自我理想がなくなってしまい、個人個人の身近で身辺的な理想自我をみたすような仕組みが人々の自己愛をみたす社会になってしまっているといえます。
小此木

だから、商業主義が宣伝、広告などで利用して、画一化された理想自己を、大量に生産している・・・

理想自己とは、小此木氏が、創作した言葉で、マスコミやカタログ文化で、作り出された、美化、理想化された、自己イメージのことと、言う。

少しばかり、こんがらかる。

自我理想は、アイデンティティに発展する。
それは、現実の社会的義務、責任の遂行となる。

自我理想は、一つの社会の中で、小さくとも、一定のルールや、掟がある。
それにより、一度、自己愛が、去勢によって、否定され、掟を守ることで、成立する秩序と理念を持った、世界のこと。

この世界は、個々人の欲望や自己中心的な感情を一度克服してはじめて、確立されるような世界です。
小此木

とは、小此木氏が見る、世界である。

我々が生きる根拠は、前途が漠然として未知だというその不安に根ざしているわけで、それ故に抵抗の意志や賭の意識が生まれてくる筈なのです。
亀井勝一郎

心理学で、説かれる、人生論・・・
言葉の世界、つまり、精神論から説かれる、人生論・・・

心理家で、説かれると、何となく、そんな気になるという、気分的な、納得。それが、一番の問題である。

小此木氏が、見ていた時代より、更に、時代は、進化しているのか、あるいは・・・

人類に進歩はないのです。
亀井

おっと

自己を何ものかに委ねて、自己を限定して貰って安心する人々と、自己ひとりの固有性に思い惑いながら、不安の中に大胆に飛び込んで行く人と、人類はつねにこの二つの階級に分類されていたものではないでしょうか。
亀井

階級闘争とは、究極ではここにのみ生ずる筈のものです。自由を与えられても、それを行使することを知らない永遠の奴隷というものがあります。開放されてもなお自己をもとうとせぬ精神の農奴があります。
亀井

心理学を学んで、自己限定する人の多いこと。

たった、一つの、ものの見方なのである。
占いと、変わらない。


posted by 天山 at 17:23| 霊学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月29日

霊学35

しばしば現代社会は価値観が多様化し、イデオロギー不在の時代といわれます。不確実性の時代とも呼ばれるように、これだけは間違いなく確かなことだとだれもが確信できるような何かを見出すことはむずかしい。しかし、お互いにはっきり言葉にして、理論づけていないにせよ、暗黙のうちにだれもが認めているものに個々人の自己愛を尊重すると言う思想があります。
小此木

上記のことは、日本の社会、日本人のことである。
世界的な、状態ではない。

唯一絶対神を、奉じる、ユダヤ、キリスト、イスラム教の社会は、違う。
更に、仏教国である。特に、上座部仏教の国である。

つまり、現代はそれぞれの自己愛を大切にすることだけは、どこからも反対意見の出ない確かな価値観になっている時代なのです。
小此木

つまり、誰もが、同じ人間であり、平等であるという、幻想である。

日本には、自己愛主義、ナルシシズム、という、価値観を持ったというのである。

小此木氏の、この本は、1981年に出版されている。
それから、30年を経る。

要するに、自己愛は、人類が、精神に目覚めてから、当然の如くにあったもので、その自己愛の形相が、時代によって、変化、変容しているのだということ。

今も、また、自己愛に関して、変化、変容している、様を書き付けなければ、ならないのだろう。

当時の、小此木氏の、見た、自己愛は、
自己愛人間とは、アイデンティティをもたないパーソナルな自己愛をひたすらみたすことで暮らす人間のことをいうのです。
小此木

と、いうことになる。

そうしたパーソナルな自己愛を超えた、お互いに共通の理想、同じ主義、主張の下に、社会化され脱個人化されたアイデンティティ感覚が失われたために、すべてを、パーソナルな自己愛のためのものとしか受け取らない時代になってしまったのです。
小此木

これは、当時の、日本人の、精神分析である。

それでは、問題は、どこにあるのか・・・

アイデンティティとは、自己愛が、つねに、社会、歴史などという、外の世界との、関わりの中で、決定されてゆくものと、ある。

アイデンティティとしての自己愛は、社会、文化と結びつく現実の裏づけをもつもの。それは、個人的な主観的幻想や、観念によるものではないという。

パーソナルな自己愛とは、リアリティに欠ける、自己愛ということになる。

そのような、アイデンティティを失ったなら、たとえ、生きていても、心は本当に、生きていない状態になると言う、学者もいる。

確かに、私が、出掛けた、オーストラリア、原住民である、アボリジニは、政府の援助により、生活するが、その民族のアイデンティティを失い、いや、失わされて、ただ、生存しているだけの、存在になっていた。
それは、悲劇的だった。

そこまでに、しておいて、次は、保護であり、キリスト教のボランティア活動である。
どこまでも、優越主義から、抜けない、その様は、悲劇を通り越し、喜劇であった。

アボリジニの、若者たち・・・
彼らは、その生まれを知り、その生き方の停止を知る。
その顔、体全体に、恐ろしい倦怠感を漂わせていた。

アイデンティティを失うとは、これほどの、悲劇なのか・・・

現代の、産業化社会が、進む中で、それぞれの、民族、部族の持っていた、アイデンティティが、すなわち、歴史的、社会的な自己愛が、次第に、抹殺されてゆくのである。

敗戦後の、日本人と、高度経済成長期の日本人と、そして、その後の、日本人との差は大きい。
小此木氏は、高度経済成長期の日本人の、精神を分析したのである。

その後、バブル崩壊し、更に、経済低迷と、大震災が、襲い、さあ、どんな日本人が、現れてきたのか・・・

エリクソンという、学者が、産業社会の中で、民族的な自己愛を抹殺されて、そのときどきの、裸の自己愛の追求と、目の前の欲望の満足だけに走ってしまった人たちが、大量に生み出されているということを、憂えている、と、紹介する。

だが、日本人は、そうではない。
少なくとも、日本人は、アイデンティティを失わずに、済んだはずである。
その影が、薄くなろうと、全く失ったという、状態ではない。

だが、小此木氏は、
開発途上国の人々の文化ショックによる悲惨と同じことが、われわれ先進諸国に暮らす人々にも少なくとも社会心理の面では潜在的に起こっているのではないか。
と、言う。

起こっているのではないか、ではない。
起こって当然である。
それが、進化であるか、退化であるかは、別にして、時代が、進めば、人間の精神も、変化、変容する。

私は、進化だと、思っている。

良い悪いの、問題ではない。
当然、起こるべきものである。

心理学は、分析し、分類し、統計として、掲げることが、仕事である。
小此木氏も、精神科医である。
その、分析を元に、まだ、考えることが、多々ある。


posted by 天山 at 13:34| 霊学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月17日

霊学36

基本的な点では、みんな同じだということが、それぞれの自己愛をみたすポイントについては幻想ではなくなっています。そしてこの自己愛満足度が拡大して意識されるためにみんな同じだ、という平等幻想がもてる社会になっています。
小此木

日本の社会は、確かに、人々の平均化と、画一化が、進んでいる。
それが、顕著だったのが、バブル前から、その間である。

自己愛の、傷つきを、感じないで、生きられる時代。
そのように、小此木氏は、解釈し、分析する。

平等幻想・・・
端的に言えば、運動会では、一等はなし。皆、ゴールしたということで、終わるというもの。

ところが、矛盾しているのは、誰もが、同じ大学に入ることは、出来ない。
そこで、平等に、好きな大学に、入学させろ、とは、言わないのである。

親が、平等幻想に、侵されている。そして、子供たちが、その犠牲になるのである。

さて、
どこかで自己像を限定しなければ、自分に対するナルシシスティックな感情は無限に広がるわけです。
と、小此木氏は言う。

それは、何が、自分なのか、という、自己の描き方によって、自我感情の満足が得られるかどうか、違ってくる。
何が、自分なのか・・・

それを、
自己定義とか自己限定を自分にするということを意味します。
小此木

そして、
現代人の自己限定は、アイデンティティに結びつくような社会性をもった自己定義ではありません。
と、言う。

つまり、モラトリアム人間は、もっと、パーソナルなレベルで、それぞれの自己愛を満たす、人生設計を立てる。

モラトリアム人間は、天下、国家、思想・イデオロギーの自己選択という大きな視点からみればその選択にもとづく自己定義ないしは契約についてモラトリアム(猶予期間)を提供されているのですが、そこのところを棚上げしたところで身近なパーソナルな面では、自分を限定することで適応がいいわけです。
小此木

それは、アイデンティティは、確立していなが、それに代わるものとして、自己中心的な自己愛の限定を、行っているということ。

これは、社会の進化によるものなのか・・・策略なのか・・・

つまり、様々な、情報によって、自己愛の満たし方を、教えられている、時代。

私たちが何によって情報を得て自分の芳心や考え方をもつようになるかというと、マスコミの役割が大きいです。
小此木

それは、非常に、画一的になっている。
それによって、皆と、同じ、という、平等感覚が、安心感を与える。

こういう、社会の中にあって、果たして、危機意識、危機感というものが、持てるのか・・・
いや、持たなくてもいいと、情報は、教える。

それは、情報操作、情報調整・・・なのか。
皆が、共有しなければ、ならないと、決める、決められた、ことか・・・

たとえば国外から一つの思想が伝えられる。或いは国内に一つの思想的文学的意味をもった事件が起こる。何かの拍子でそれがジャーナリズムの上に拡大されると、忽ち百千の見解があらわれて流行現象に化す。流行現象とは濫用のことです。
亀井勝一郎

その、濫用を、平等と、思い込むということである。

そして思想とか事件そのものの本質は、忽ち見失われるという状態は、度々経験することでしょう。ジャーナリズムは、その本質上、必ず超拡大再生産による異常伝達力を志すものです。つまりセンセーショナルがその固有の性格で、これにかかったら最後、いかに深遠な思想でも微妙な事件も、骸骨のように露骨化されてしまう。そして異常伝達力による濫用は、必然に一切を単純化する傾向をもつ。単純化せずしてはこの種の濫用は不可能なのです。
亀井

誰もが、解るということは、必要なことである。
しかし、ある程度の人のみ、解るものということも、必要である。

そこに、身の程という、分別を持つ。
日本人の、アイデンティティを言うなら、この、分別という言葉が、しっくりと、くる。

深遠な思想、微妙な事件・・・
それも、単純化して、濫用する。

ベストセラーに付きまとう、モノである。
流行ものに、付きまとう、モノである。

ジャーナリズムは節度を破壊します。破壊するのが運命なのです。
亀井

では、マスコミ・・・同じこと。
それは、実は、人のアイデンティティを破壊して、成り立つ。いや、その手前で、破壊する。

お互い、同じ考えや、情報を語り合い・・・
同じであることを、確認しあって、成り立つ関係・・・

それを、アイデンティティと、錯覚した、日本人がいる。
妖怪のような、人間の集団とも、いえる。
そこに、気概など、生まれるはずもない。

例えれば、ある宗教団体の中にいる、一人・・・
そこでは、信仰の対象を共に、奉じて、共感することで、成り立つ、関係がある。
個性などは、持っての他である。

集団に埋もれて、幸運を感じる人。

ぬるま湯に浸かる、人間関係である。
実に、薄気味の悪い関係と、アイデンティティがある。

だが、社会全体が、そのようであったら・・・


posted by 天山 at 00:55| 霊学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月18日

霊学37

同じ自己愛の満足でも、アイデンティティを全うすることによる自己愛の満足は、そのアイデンティティにふさわしい社会的役割を達成しなければ得ることができません。ですから、その場合の自己愛の満足は、現実性をもちアイデンティティをともにする人々との間での社会性を持っていました。ところが、現代人の裸の自己愛の満足は、自己愛のもつ幻想性をそのままあらわしています。またこの幻想性が、マスコミや消費生活で商品化されるのに都合がよい心理的な条件になっています。
小此木

自己愛は、社会的な自己のあり方が、曖昧になり、不確かなものになれば、なるほど、人は、パーソナルな自己愛の幻想的な、満足を、その代わりにする。

それが、現代人の、特徴だと、言うのである。

パーソナルな自己愛の、幻想的満足・・・

これは、危ういことである。
今も、この状態が、続いているのか・・・

つまり、現代の自己愛の特徴は、非常に主観的で、幻想的な満足に基づいているといえます。一人でコンピューターゲームを楽しむ、カタログ販売で自分の欲しいものを選ぶ、テレビを見るなどによってみたす自己愛は、一人っきりでみたせる自己愛です。
小此木

小此木氏の、提案は、また、分析は、人に愛されたり、社会的役割を果たすことによる、自己愛満足に比べて、もっと、主観的で、幻想的なものだと、言う。

別な言葉で、言えば、自己疎外である。
健康な自己愛ではない。

アイデンティティ、自我理想型の自己愛の、満たし方のシステムが、破綻した時代。

かつて、時代は、国家などによる、様々な集団が、人々の、自己愛を、搾取し、人間的な欲望を強制した時期があった。
だが、現代は、その代わりに、パーソナルな自己愛満足を、消費生活の中で、限りなく繁樹され、搾取され、その満足に、中毒して、依存しているとの、分析である。

別な言葉で、言えば、馬鹿になったということである。

ですから現代社会が提供する理想自己に飽き足らず、今なお真剣に自己実現を求めるような人物は不適応に陥ります。
小此木

更には、落ちこぼれ・・・
そして、社会的、無名化である。

それでは、小此木氏が、真っ当だという、自己愛は、
たとえばかつてのアイデンティティ社会には、歴史的社会的に一定の役割があって、その役割を果たすと歴史・社会が評価してくれて、歴史的・社会的な自己愛がみたされるという構造が、人間の健康な自己愛を維持するために確立していました。それに伴って、社会には一定の枠組みがあり、確固たる価値観があり、その中で人間の自己愛が安定してみたされていたわけです。
と、言うのである。

そして、当時の、日本社会を、
わが国社会の現実をみると、決して本当の平等社会でないし、差別構造もなくなっていない現実が存在している事実を指摘しているのです。イリュージョンの中にいるので、そのことが感じられなくなったり、みえなくなったりしているのです。国際社会をみれば、わが日本社会の現実はもっと厳しいものがあります。
と、言う。

今も、そうである。
しかし、イリュージョンの中に浸っているので、感じない、見えない、いや、感じようとしない、見ようとしないのである。

つまり、自己愛を保つためには、現実否認することが絶対的条件なのです。
小此木

だが、しかし、時代は、変化、変容するのである。

戦後の日本人はこれまでは、理想自己に一致するような現実をつくり出すために大変な努力をしてきました。それが生産性であり、技術力です。しかし、そういう仕組みが崩れたとき、幻想的な自己愛をみたすことができなくなって、これまで未解決だった恐ろしいものに直接ぶつかると、とても危険なことになります。
小此木

そして、そのように、なった。
東日本大震災と、原発事故である。

特に、原発事故は、大きな衝撃を、日本中に与えた。
すぐさま、反原発、脱原発の動きである。
それは、とても、性急なものになった。
次ぎの手を考えないうちに、原発をすべて、止めてしまうという、恐ろしい決定である。

車は、急に止まれない・・・のである。
しかし、急に止めようとする。
そうすると、すべてが、停止する。
その停止は、死活問題である。

現実を知らない、政治家が、決める。
そして、国民も、答えを出せないまま・・・曖昧模糊・・・として、狂うのである。

小此木氏は、ここで、突然、死という、現実を、持ち出して、分析のまとめを、する。
つまり、死は、そのイリュージョンの中にいて、ぬくぬくとしている、存在に、目を覚まさせるものだと、言う。

そして、この、死に方が、臨床上の仕事になってきたと・・・

ところが今やアイデンティティを失った現代人は、死に対するこれらの対応力も一緒に失ってしまいました。
小此木

死は、人間の持つ、全能感覚を破壊する、決定的な、リアリティとなる。

受動的な死以外を、考えられない、人たち。
能動的で、主体的な、死を、考えられなくなったのである。

裸の自己愛のままの受身的な死に方なのです。
小此木

posted by 天山 at 07:12| 霊学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月19日

霊学38

自己愛パーソナリティとは、何か・・・
小此木氏の、解説から、紹介する。

まず第一に、
自分についての誇大感―――自己誇大感をもっている。
自分は、特別だ、自分は他人より、すぐれている。心の中に、人並みはずれて、素晴らしい理想的な自己像を持つ。

第二に、
理想的な自己像を、いつも現実化しようとする。限りない、成功も権力を獲得すること。
才能を発揮すること。より美しくなること、などの、理想の実現を、休み無く、追い求める。

第三に、
絶えず、周囲からの、称賛、賛美、好意、親切、特別扱いを得ようとする。

だが、それは、
自分の心の中の理想自己の実現にしか、関心がないために、自己愛パーソナリティの持ち主は、自分本位の一人合点、思い込みといった性格傾向をもっています。
小此木

第四に、
理想的な自分を持ち続けようという、気持ちが強いので、周囲からの、批判を受けたり、現実の自分が、うまくいかない場合、そのことに、無関心だったり、無視したり、否認したりする。

一般に自己愛パーソナリティの持ち主は、自分の失敗、誤り、周囲の悪評などについて、ひとたびそれを知ったり認めたりしてしまうと、自己愛がひどく傷つき、絶望的になったり、屈辱感や劣等感にさいなまれる。あるいはすべてが空しくなって、無気力状態に陥るということがあります。
小此木

第五に、
理想的な自分になるために、他の、あらゆる欲望、感情など、すべてを犠牲にしても、かまわないという、貪欲さがある。

ここで、小此木氏は、
犠牲にされる感情の中には、人と親密さを分け合うとか、誰かと愛し合うとか、日本流にいえば、義理人情の絆や付き合いを大切にすることも含めて考えてください。
と、言う。

ここで、現代に言われる、社会不適応という、症状の存在が、注目されていることである。
それが、高じると、社会不安障害という、病になることもある。

それは、理想化した自己像を、全く裏づけのない人が求める場合である。
それは、社会的に、大きな不適応を、きたしてしまう。

才能がないのに理想自己だけ大きい人物は、どこかで破綻して不適応を起こすために、世間から「おかしい」とすぐに見えてしまうわけです。
小此木

ここで、精神科医と、つながるのは、第四の形である。

激しい挫折感、屈辱感、怒りなどが、生じて、自分も、周囲も、対処できなくなる。また、抑うつ反応を示すことになる、場合である。

抑うつ反応が、特に多くなっている、時代である。
それが、単なる、心の風邪ではなく、上記の場合が、多々ある。
それは、また、社会が、そのようにしたとも、いえる。

誰もが、幸福になれるような、教育現場を見れば、解る。
差別することを、神経症のように、嫌う、父兄や教師たち・・・

それが、差別ではなく、区別であると、知らない。混同してしまう。
皆、一緒に、ゴールインということは、この人生に、決してありえないことである。

だが、それを、知らない。知らない振りをしているのか・・・

平等の思想の、誤った、解釈である。

最近多いのは、自己愛パーソナリティ型の登校拒否少年、少女や挫折・無気力型の青年、中高年になってからの破綻などです。
小此木

これは、今も、続いている。

とても、解りやすい説明をしている。
幻想的な理想自我があたかも本当であるかのような錯覚(イリュージョン)の中で学校に通っていたので、それなりに一生懸命やっていた。ところが、貧弱な現実の自分が突然眼に入る経験があって、イリュージョンから覚めてしまう。
小此木

そこには、勿論、親の育て方に、大きな問題があった。

錯覚の中で、挫折するというのは、平等社会という幻想の、特徴であるとも、いえる。

そうなるはずだった・・・と、言って、相談に来る人がいる。
そうならなかった・・・だから、絶望する。
しかし、健康な、絶望感は、違う。

私の考えが、甘かった・・・
やり直そう・・・

だが、やり直しが出来なくなり、無力感に、陥る。そして、抑うつ。
更に、抑うつ状態で、薬を処方されて、過ごしているうちに、時間が経つ。どんどんと、取り残されているという、絶望感が、更に、抑うつを酷くする。
そして、破綻、である。

自己幻想の中だけが、私であるという、病。

そして、それは、今、現在抱いていない人にも、訪れることがある。
中高年で、そうなった場合は、度し難いのである。

突然無気力になってしまったり、自宅にひきこもってしまったりする秘密は、自己愛をみたす回路の故障にあるのです。
小此木

だが、私は言う。
何故、霊学を書くために、このようなことを、紹介しているのか・・・

実は、この、状態に陥った人が、ある日、突如として、霊感や、霊能に、目覚めるという、場合がある。
勿論、それも、幻想なのである。

行き場所がなくなり、苦肉の策として、人の驚く、霊感や、霊能力という、おかしなものに、取り付かれる人たちである。

無気力や、絶望感に、陥り、抑うつで、虚無が支配する、心に、魔がさすのである。

だから、私は、心理学や、精神衛生、精神医学などを、俯瞰している。
そうでなければ、霊、つまり、思い、想念、思念などの、真っ当な、お話しは、できないのである。


posted by 天山 at 00:00| 霊学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。