2017年11月21日

神仏は妄想である 314

イエスは、キリストではなく、一人の自由な思想の、持ち主だった。

イエスは、キリストであるという、初期、キリスト教団によって、キリスト教が、作り上げられてきた。

更に、プロテスタントも、カトリックの儀式以外の教義に、少しばかり、手を入れて、聖書主義などと、言って、新しい教会を作る。

イエスは、キリストであれかし、という、願望の元に、キリスト教が、生まれたが、その弊害は、歴史を通じて、大変に、重いものとなった。

異教徒の排斥のみならず、虐殺、民族の虐殺と、血生臭い、行為が、繰り返された。更に、為政者と、組んでの、異端審判である。これも、野蛮極まりないものだった。

さて、1960年代、「神の死」の神学が、生まれた。
アメリカである。

それが、世界に浸透してゆくのである。

アルタイザー/ハミルトン共同の、論文集「神の死の神学」は、「神の死」というはなはだショッキングなキャッチフレーズでもって、宗教的信仰の問題を倫理的実践の問題に変え、超越の神を内在的な人間イエスの問題に転じて論じる。だが、特記すべきは、「神」そのものの死を公けに宣言する、彼らの発想のもつラディカルさである。彼らはともに、「宗教」の教師でありながら、宗教の不要を説く。その意図するところはどこにあるのか。あるいは、かかる発想は、宗教だけに限られるのであろうか。彼らの思想は突然あらわれたのであろうか。
「神の死」とラディカリズム 小原 信

これは、現代にまで、至り、多くのテーマを投げ掛ける。

丁度、その時期から、カトリック信者と、プロテスタント信者が、歩み寄り、共に、祈る場所を、求めた。
体制側の、危惧である。

決して、相容れないものだった、彼らが、信仰の危機を感じて、手を携えなければならなくなったのである。

このままでは、教会が、キリスト教が、潰れる。
会社が、倒産するように、倒産するという、意識である。

絶対的権威の、ローマ法王の、メッセージさえ、デモが、起こるようになる。

昨年、2009年も、フランスの若者たちが、ローマ法王の、コンドーム禁止に対して、デモを繰り広げた。

更に、聖職者たちの、男児、男子に対する、性的暴力に、立ち上がった。
ついに、ローマ法王が、犠牲者となった、少年に、謝罪するという。

それは、たった、一つの出来事である。
教会の、権威の失墜は、目に見えて落ちている。

現代においてGODは死んでいる。東洋のカミも、大学の「神」も、われわれの心のなかの「深み」も、「究極的関心」も、そうして、アメリカ・デモクラシーという「神」も、社会主義国家という「神話」も死んじまったのである。まことに、「神は、われわれの時代に、われわれの歴史に、われわれの実存に死んだのである」(アルタイザー)。現象的にはまさに絶望的にニヒリズムの時代、それが現代なのである。
小原 信

ここで、東洋のカミというもの。それは、何を指すのか。
それらの、カミとは、インド系の、カミを指すものであろう。

日本には、彼が言うところの、神観念は、皆無である。

神と言う言葉は、欧米の神、アラブの神、インド系の神と、日本の神とが、混同されて、理解された時期がある。

日本には、それらの、神観念とは、無縁である。

日本の、神は、祖霊のことであり、唯一絶対の人格神などは、無い。

更に、精霊信仰でもない。
祖霊は、自然に隠れる存在であり、そこから、自然崇敬の、思いが、満ちたものである。
それらを、総称して、神というが、神観念は、天地の差ほどある。

日本人に、宗教が必要ないのは、それだからである。
空気のようなものなのである。

ただ、祖霊に対する、自然に対する、所作だけがある。

神社参拝とは、あれは、本来、自然に参拝するものである。
たまたま、社を、設けただけである。
自然参拝は、祖霊参拝である。

神主という、職も、古来、村の長老たちが、持ち回りで、行ったもの。
国家資格の神主が、常駐する、神社神道は、明治期からのもの。
勿論、それ以前も、存在したが、別に、資格などはなかった。
その必要がないのである。
何せ、教義も、教理も無いのである。あるのは、所作のみ。

誰もが、神主になるのである。

その、象徴として、天皇という、存在を、置いたのである。

「神」の「死」とは、現代人のすぐれて今日的な意識の象徴である。神々のラディカルな死と喪失とを願うこころ、これをわれわれは今日ほど激しく実存的に感じ取ることはないかもしれない。神も権威も、体制も秩序も、ともにわれわれを束縛し、われわれを疎外させるものとしてネガティヴにひびく。
小原

それを、意識するもの達が、今を、生きるのである。
ニヒリズムは、長年続いている。
そして、終わることがないだろう。

そこには、様々な要因が、複雑に絡まり、その絡まりを解くことは、容易ではない。
だが、それらの、要因が、一人の人間、いや、すべての、人間を疎外しているとしたら・・・

それは、恐怖である。
妄想にさえにも、酔いしれない、人間の不幸は、余りある。
だから、
しかし、それとともに、あのバイド・パイパーのように、一人の笛吹き(メシア)があらわれて、われわれ農民たち(ねずみ)を引きつれてこのカオスの狂乱をしずめてくれるユートピアを、学生も教師も、牧師も信徒も、心のどこかではげしく待ち望んでいる。・・・・
人々の心をとらえて離さない「神の死」の神学は、その否定的、破壊的、消極的な印象にもかかわらず、その根底においては、深く肯定的、建設的、積極的な創造の情熱にあふれているのだ。その情熱とは何か。彼らは何をどのように指向しているのか。そこには神学という特殊性を越えた一般的な訴えかけはないのか。西欧人には問題であっても、日本人には関係ないものなのか。・・・
小原

キリストは、死んだか
アメリカ各界の人たちが、著した、本が、私の手元にある。
まさに、キリスト教が、変革するのか、変容するのか・・・

事実が、明るみにされた時に、人は、信徒は、どのように、何かを、解消させるのか。
勿論、それらに、関係なく、我が信仰の道を、行くと言う人もいるだろう。

そして、信仰の先には、架空の、ものが、存在するだけ。
つまり、何もなかったのである。

しかし、信ずる者は、それでいいのである。
信ずるという行為によって、救いと言うものがある。

昔の人は、言った。いわしの頭も、信心から・・・
しかし、自分の信じているものは、いわしでは、決して無いと、それも、信じるのである。

いわしの頭ならば、良かった。
何にも無いものを、在ると想定して、信じていたのである。

宗教とは、騙しのテクニックである。

ここに、現代の、深刻な問題がある。その、宗教の、騙しの事実を、人は、知ったであるから。
勿論、アホは、まだ、その蒙昧の中にいる。


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2010年01月17日

神仏は妄想である 319

神の死の神学は、その否定の意図において注意されるべきである。・・・
彼らは、そのかぎりにおいて、神学的な冒険をなしており、キリスト教的な無神論者として生きてゆこうとする者を支えようとする配慮を、牧会的に行ってはいない。しかし、ここでの否定は、冒険と改革のためゆえの否定であって、破壊のための破壊でも、否定のための否定でもない。・・・・神の死をとらえたのは、神学にはプロでない大衆であった。新しい神学者たちは、また、自らが楽をするために神を否定しようとするものでもない。われわれは、彼らが、現状維持という、現体制的なキリスト教界内での常識的な安らぎを誘惑としてしりぞけつつ、創造的な否定を指向していることを見てとるべきである。
小原 信

創造的な否定を指向するという。

それが、以前、書くはずだった、箇所、
われわれは、自らの生き方については、結局は、自らのおかれた状況のなかで、何が求められており、自らに何ができ、何をなすのがふさわしいか、を「状況」のなかで判断し、自己決定するほかはない。真理は形式的な原理のなかではなく、具体的な状況のなかにあるからである。だが、たんに状況を見よ、というのではなく、状況のなかに論理を入れつつ、他方、論理のなかに状況を入れる弁証法性が大切であるということは言うまでもない。
小原 信

キリスト教の原点とは何か。それを自らで模索せよ。神の死の神学は、われわれにこのことを教えてくれる。自明にして普遍的なる神などどこにもいない、のである。
小原 信

前回も、この部分を書いた。

普遍的なる神などどこにもいない。

と言いつつ、結局は、キリスト教という、世界の中での、出来事なのである。

それは、
神もしくは超越的なものなしに、哲学することはできない。
と、小原氏は言うのである。

これを、読むと、彼らが、より、仏教に近づいてきているようである。
キリスト教神学者は、仏教の、底の見えない、滅茶苦茶な、仏教教義を、知るべきである。

要するに、既存の、教会権威に対する、反乱である。

カトリックにも、プロテスタントにも、その教会に対する、プロテストである。
その過程の中に、どうしても、神とか、イエスとかを、組み入れなければ、話しが進まないという、蒙昧である。

勿論、小原氏は、より、時代性に合う、キリスト教というものを、模索している、神の死の神学を、解説しているのであろうが、結局、神観念から、抜けられないでいる。

神もしくは超越的なものなしに、哲学することはできない。というのである。

論旨は、理解するが、矢張り、既存の、教会教義、神学教義からの、脱出であろう。最初から、そんなものは、無いものだと、考えられないのである。

勿論、哲学なども、哲学から、更なる哲学が、つまり、弁証法によってなる。

何も無いところからは、何も、生み出せないということなのであろう。

「神の死」を言うラディカリズムは、その哲学化において、弁証法的な思惟を援用しているのである。結論から言えば、弁証法的な思惟の適用される領域(もしくは次元)が哲学としても新しさを持つと言うことである。二十世紀の哲学としての論理実証主義(分析哲学)は、観念論に対抗して経験を重んじ言語の分析を行ってきたが、弁証法をもたない哲学である。

神の死の神学者たちがキリスト教を弁証法的に考察するとは、否定が肯定に結びつく否定になること、正統との緊張感を保った異端になることをわきまえつつ、「原点」を創造的に指向するがゆえに、前衛的になることをいとわぬダイナミズムをもつことなのである。
小原 信

非常によく、分析されている、論文であるが、結局、新しい、信仰のあり方であり、人生論である。

そのようにして、哲学が、進化してきたのであろう。
更に、神学も・・・と、いいたいが、妄想の、神学体系を、変更できるものではない。

それとも、全く新しい、神学の、創造ということか。

新しい神学がたたかうのは、この聖と俗の二分法なのである。俗の中の聖、いまのなかのかつて、生のなかの死など、これらは、弁証法の有無ではなく、弁証法の適用の仕方の多様性を認めれば当然出てくる考え方である。
小原 信

この方は、矢張り、仏教、日本仏教でもいいから、学ぶべきである。

もう、仏教は、それを超えて、遥かに行っている。

そして、その仏教も、瀕死の状態なのである。

この世はわれわれの主体的な努力次第で、キリストが住みもし、住まなくもする。文化のなかに、キリストを見出しつつ、キリストが文化そのものを変革しつつあると信じる者は、世俗化されたこの世をふたたび聖化することができる。
小原 信

新興牧師の説教に、聞こえる。

世俗化、即、仏の世界である。
と、仏教は、解く事が出来る。

神の死の、神学を、批判し、評価する、哲学的態度は、評価する。
しかし、結果は、世俗化された、この世を、再び、聖化するとは・・・

勿論、それぞの、人の心が、為すことであろう。
それを、神の死の、神学を通して、語るのである。

われわれは「神の死」が人々の「かつて聞いたこともない個々人の内面的孤独化の感情」をひき起すかもしれないことを承知せねばならない。人はすべて、ほんとうは孤独なのである。・・・神すらいない世界に、働くこともなくレジャーをもつ現代人は未曾有の淋しさをもつのである。
小原 信

これは、今更である。

神が存在した、時代の人々は、孤独感を持たなかったのか・・・
そんなことは、無い。

更に、孤独化である。
そんなことは、有史以来の人の存在のことである。

ご苦労なことです。
次ぎは、アメリカの、キリストは死んだか、というタイトルで書く、各界の人たちの、言葉を、見ることにする。

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2011年01月01日

神仏は妄想である 311

イエスはキリストではない。
よく「イエス・キリスト」といわれ、それも一般的には、とくに日本ではイエス・キリストよりもキリストのほうが多く用いられている。しかしイエスはキリストではない。
イエス逆説の生涯 笠原芳光

笠原氏は、同志社大学大学院神学研究科修士課程修了である。
聖書を古典として、現代的に解読する。

私も、同じことを、言う。
しかし、私は、兎に角、素人であるから、説得力がない。
しかし、神学研究をした者が、それを言うと、説得力がある。

およそイエスという名は新約聖書の原語であるギリシャ語ではイエースースであり、語意は「神は救いなり」である。ヘブライ語のヨシュアとおなじであり、珍しい名前ではない。
笠原芳光

日本にキリスト教が、伝えられたときは、天主教と呼ばれた。それは、明治時代まで、続く。カトリシズムである。
プロテスタンティズムを、耶蘇教と、呼んだ。

もっとも、イエスはキリスト教の開祖でも、教祖でもない。イエスはキリスト教とかなり異なった宗教思想の創唱者であったからである。
笠原

旧約聖書という言葉は、二世紀に用いられている。だが、本当は、ユダヤ教聖書、ヘブライ語聖書と、称するのが、真っ当である。
四世紀になり、キリスト教団が、それを自らの聖書として、取り入れ、イエス以後を新約、以前を旧約と、名づけた。

キリスト教が、世界的宗教に発展し、以後、旧約聖書と呼ばれるようになる。

だが、これは世界史上最大の著作権侵害というべきであろう。
笠原

イエスの、死後、かつての弟子たちを中心として、グループのような、原始教団が、エルサレム、ガリラヤ、シリアなどの、各地に、いくつも作られた。その中で、当時、待望されていた、メシアに擬せられて、キリストという、称号で、呼ばれた。

イエスをキリストであると信じ、それを文書に表現した最初期の一人はパウロと考えられる。パウロはユダヤ教の大教派パリサイ派の人物であり、ローマの市民権を所有し、ギリシャ的教養に富んでいた。パウロの書いた現存する最初の文書は、紀元50年ごろにギリシャのコリントからマケドニアのテサロニケの教会、といっても初期のキリスト者の集会、に宛てた「テサロニケ人への第一の手紙」であるが、その冒頭に「主イエス・キリスト」と明記されており、文中にもしばしば用いられている。
笠原

同じ頃に、イエスの生き方、教えに、共鳴する、イスラエルの民衆に間に、イエスの教え、言葉を書いた、語録風にまとめた、文書がつくられていたと、仮定されている。それは、福音書よりも、早く、40年から、60年ごろに書かれたもの。
現在は、存在しない。

そして、最初の、福音書は、マルコである。

その、マルコを参照して、マタイと、ルカが、書かれた。

三つの、福音の他に、「Q」と名づけられた、資料が存在する。
ドイツ語の、資料という意味の、略称である。

さて、この、パウロであるが、余計なことを、書いておく。
彼は、イエスを知らない。
彼は、イエスを信奉する人々を、迫害していた人物である。

では、何故、突然、イエスをキリストと、信じたのか。
これが、曲者である。

馬に乗っていた。
突然の、光が差し込めて、イエスが、現れた。
そして、何故、私を迫害するのかと、言う。

イエスを知らないのに、光のイエスが、言った言葉を信じたという・・・
呆れる。
信じるものは、こうして、騙される。

その、霊は、イエスだったのか・・・

そして、その根拠は・・・

無い。
何も無い。

頭の悪い宗教の教祖たちと、同じである。
要するに、霊に、やられる。
霊の、判別が、出来ないのである。

そして、多くの、霊的能力者と呼ばれる人、自称する人は、そうである。

「Q」資料には、生前のイエスに接した人もいると、いわれる。

イエスの死後、およそ20年間はイエスをキリストではなく自由な教師と見る者も多くいたに違いない。
笠原

ともあれイエスに共鳴する人々にとってイエスの死は大きな衝撃であった。その死はユダヤ教とローマ国家に対して自由な生き方を貫いたことによる刑死であったのもかかわらず、民衆、ひいては人類の原罪をあがなうという贖罪の死であるとする説が、パウロやもとのイエスの直弟子によってつくられたのである。さらに当時、ユダヤ教のなかに取り入れられていて、本来は農耕文化の宗教思想であるが、そこでは黙示的思想に由来すると思われる復活という考えがイエスに当てはめられるようになった。
笠原

死後、三日目に、復活したとみなすことにより、信ずる者に、安心と、崇敬の念を与えるものとして、処置された。

そのように、信じたいから、そのようになったと、仮定、いや、信じたのである。

最初に、答えを作り、それを、説得する資料を作るという。
宗教というものは・・・
救われない。

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2011年01月02日

神仏は妄想である 312

イエスをキリストとしたのはイエス自身ではないことは、近年の聖書の歴史的・批判的研究によって明らかになっている。イエスは自らをキリストと思い、また称したことはなく、教団がイエスをキリストに仕立てたというのが、その研究の成果である。一例をあげよう。すでに1926年に聖書学者ルドルフ・ブルマンが著した「イエス」にはつぎのように記されている。・・・なおブルマンははじめは合理主義的な近代神学を批判し、のちには聖書の非神話化、すなわち実存論的解釈を唱導したが、この書ではイエスの歴史的研究を行っている。
笠原

イエスは自分をメシアと考えたか否か、もしそう考えたとしたら、どんな意味でメシアと考えたか、何時からそう考えたのか、等々に関する判断がどんなにまちまちであるかを思うなら、更に自分をメシアと考えるということは実際小さなことではなくて、そう考える者の全存在を決定的に規定したに違いないことを思うなら、私達はこう告白せざるを得ない。すなわちこの点が不明瞭だと言うなら、私達はまさにイエスの人格に就いて殆んど何も知らぬに等しいのだ、と。私個人としては、イエスは自分をメシアと考えなかったと言う意見である。
ブルマン

イエスは、メシアというのは、歴史的事実ではない、ということである。

さらにいうならイエスはキリストではなく、むしろブッダであるといったほうが正確ではないか。ブッダが自覚した人間という意味であるのなら、イエスもまたブッダであるといってよいはずである。
笠原

実に、面白い考え方である。

イエス・キリストは、嘘であるが、ゴータマ・ブッダは、正確な名称だという。

心霊学研究から、言えば、イエスも、ブッダも、人類の教え親になる。
二人とも、大師と呼ばれるという。

勿論、人類の教え親は、多数いる。
だが、誰一人として、宗教を開かない。
実践のみに、焦点を当てる。

更に、面白いのは、
このことに関して、日本基督教団の牧師であった赤岩栄はつぎのように言っている。赤岩栄は第二次大戦後ただちに戦争中のキリスト教を反省して、キリスト教とマルクス主義は有神論と無神論の対立ではなく、人間における実存の問題と社会変革の問題として両立すると説いた。そしてキリスト教の教義、儀礼、教団を批判し、やがて「キリスト教脱出記」を著して歴史的にイエスを探求するようになる。晩年、1966年に書いた「仏教の光を通してみたキリスト教」の末尾にこう述べている。
笠原
と、言う。

このイエスは、神と律法という世界中で、もっとも捉われた考えをもつユダヤ教の中に生まれ、何ものにも捉われないで人間性に生ききった人であったのだ。もし、仏教圏に生きる人たちがイエスに違和感を感ずるとするなら、それは血なまぐさい西洋人のイエスに対するひいきのひき倒しに原因いるのである。福音書の編集史研究とともに、いまや、イエスを東洋の光の中で、これまでとは別のものとして、見出す時が始まろうとしている。そこで見出されるイエスは、西洋の植民地政策のお先棒としてかつがれた栄光のキリストではなく、衆生の悩み苦しみとの連帯性に生き、それをともに克服していく「ほとけ」にほかならないのである。
赤岩栄

南米、フィリピンなど・・・
西洋の植民地政策に、おいて、キリスト教、カトリックの果たした役割は、巨大である。
ねこぞき、彼らの、伝統文化を破壊し、更には、虐殺して、キリスト教に改宗させた。

虐殺の数、南米では、おおよそ、一億人である。
どこに、栄光の神の・・・があるのか。
このような、暴力を、カトリックの名において、行ったという反省、謝罪を聞いた事が無い。

更に、現在でも、ヒステリーのプロテスタントたちが、多くの国に、入り、ヒステリーな布教を繰り返している。
そして、争いを起こしている。

更には、その中に、キリスト教新興宗教も加わり、争いに、拍車をかけている。
信じられないのである。

どこに、栄光の・・・が、あるのだ。

西洋の植民地政策のお先棒としてかつがれた栄光のキリストではない。
まさに、その通りである。

つまり、
ともあれイエスは自分をキリストであると思わず、称さなかった。キリストといって権力的な称号はイエスにはまったくふさわしくないといわねばならない。それでもイエスをキリストと信じ、キリストと呼びたい人は少なくない。もとより信仰は自由であるから、それを防げることはできない。しかし、それはイエスの意に反した行為といわねばならないだろう。にもかかわらずキリスト教はイエスをキリストと信じる宗教である。ということはキリスト教は根底から矛盾した宗教であることを端的にあらわしている。
笠原

初期キリスト教団という、グループは、まだ、ユダヤ人のキリスト教だった。しかし、ローマが、国教しとした、カトリックは、権力と結び、その権威を持って、権力と、共同して、教線を拡大した。

その前に、ローマにより、ユダヤ人キリスト教徒は、皆殺しにされたのである。

初めから、血なまぐさい集団だったということである。
それからの、ことは、歴史を見れば、一目瞭然である。
宗教戦争、イスラムとの、戦い。戦いに明け暮れた宗教である。

西洋は、ほとほと、戦いが嫌になって、もう、戦いは、この地域では、止めようと、EUが、出来た。

その原因は、すべて、キリスト教である。

そうなるべく、イエスをキリストとして、祭り上げたのであるから、どうしようもない。
加えて、白人主義である。
西洋の、白人たちは、色付き人間だった、アジアのイエスを、自分たちのグループに取り込んだ。

イエスは、白人なのである。

であるから、歴史的存在の、イエスとは、別人である。
つまり、魔神のヤハゥエの子孫として、これまでやってきたのである。

イエスと、ヤハゥエは、何の関係も無い。
その、楔から、解かれよと、イエスは、訴えたのであるから。

と、すると、何もかも、一から、やり直さなくてはならない。
イエスの、存在である。

旧約聖書と、新約聖書の間には、何のつながりも無いのである。

繋げたのは、ユダヤ教徒の革新派である。
イエスは、キリストだと、嘘偽りを、平然とついた・・・彼ら、である。


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2011年01月03日

神仏は妄想である 313

イエスを歴史上の神仏とみる資料は少なく、イエスを信仰上の対象とする文書が多くつくられていくなかで、イエスをキリストと信ずるキリスト教が形成され、発展していった。そこには原始教団がユダヤ教やローマ国家に批判され、迫害されていく社会的状況のなかで、強烈なドグマによって、心理的にそれにうちかとうとしたことが大きな原因になったのだろう。そしてイエスを自由な人間とする歴史的な思想は、そのような強力な教義を信ずる正統主義者からは、異端として無視されたり、排斥されたりした。
イエス逆説の生涯 笠原芳光

異端は、イエスの死後、間もない頃から、多く存在していたのである。
しかし、原始教団によって、排除され、少数派になっていった。
更に、中世では、教会権力により、異端審判は、凄まじいものになった。

現代では、逆な現象が、出てきた。
20年ほど前から、イエスに関する、新しい、見方である。

現代では聖書学者や歴史家はもとより、むしろ一般の人々の間にも、イエスをキリストとして信ずるよりも、すぐれた、自由な人間として考え、「イエスとはなにか」を改めて問い直そうという関心が世界的にさかんになってきている。その風潮は「イエス・ルネサンス」などと呼ばれて、キリスト教界にもしだいに大きな影響を及ぼしつつある。その意味で、いまやキリスト教は根底から揺り動かされているといわねばならない。
笠原

つまり、信仰は、イエスという存在が、自分にとって、どのような意味を持つか、という、実存的な関係が、求められる。

歴史的には、イエスは、キリストではないのであるから。

信仰と考えると、教会の存在が、大きく、その教義を受け入れる、信ずるという行為になる。
それに関しては、極めて個人的な問題であり、他の介入を許さない。
更に、信教の自由である。

笠原氏は、イエスを、思想史の中で、捉える試みを提唱する。
それは、賛成である。

思想史としての、イエスの言葉を、検証することは、理想的である。

単なる、信仰としての、存在として、考えるということは、結果、それぞれの、教団の支配の下になるものである。

教会権力の下に入ると、それは、個人の信仰を超えて、教会という、集団の信仰グループに入ることであり、そこには、支配がある。
決して、個人の、勝手な解釈は、許されない。

更には、そのシステムの中で、個人の存在が、位置付けられて、信仰と、聖職者による、支配が、跋扈する。

更に、個人の中においても、奇跡的な、事実を見ると、迷う。勿論、それは、蒙昧、妄想なのであるが、そのように、信じてしまうのである。

いつもと、違う事象が起きる。
すると、それが、特別な意味を、持っていると、考える。そこから、信仰という、迷いに入るのである。

多くの、信徒たちを見て、私は、そう思った。

最近、イエスについての研究が進んで、イエス像がある程度、客観的に明瞭になってきた。同時に、それに伴って従来の主観的な、いわばイエスをキリストと信ずる神学的な主張はアピールをもたなくなっている。そして広い意味で人間としてのイエスに関する書物がヨーロッパやアメリカにおいても、日本においてさえ、他のキリスト教関係書よりも多く出版され、読まれているという現象はそのことを端的に示している。
笠原

それは、イエスだけのことではない、
ブッダに関しても、である。

勝手に、宗教の開祖として、祭り上げる存在に、嫌気がさしているのである。

それは、勿論、教団というものの、嘘、極めて悪質な、信者支配、更には、金銭の搾取などが、横行しているからである。

最早、そんな、教団には、イエスも、ブッダも存在しない。
存在するのは、宗教家の、地位と、無法である。

ブッダは、唯一絶対の、神観念を否定した。
ところが、イエスも、実は、その神観念を否定したのである。

その、神観念を否定することにより、神という存在の、在り様を、発見したと、いってよい。

彼らは、神仏は妄想であることを、明確にしている。

今を、生きること。
それが、問題であり、テーマだった。

それは、反逆の行為である。
しかし、ブッダの、地域と、イエスの地域は、別である。
当然、表現の仕方が違う。

そして、その二人を、持ち上げて、造り上げた、教義なるもの。実は、夢幻の妄想だったのである。

それを、哲学、思想と、呼ぶ事が出来るのか。
神学が、学問に入らないように、宗教の教義は、学問ではない。

勝手な、妄想である。

更に、そこに、救いという言葉、救済という言葉が、見えるが、皆々、嘘である。

救われるという言葉にある、本質は、救われないと、同じものである。
一体、誰が、救うのであるのか。
妄想の、仏や、神か。
妄想の存在が、救いも何も、あったものではない。
それは、その人の、頭の中にあるだけのものである。
理屈の中にあるものである。

神仏が、妄想であることを、悟り、そこから、己というものを、見る行為に、微かに、救いに、似たものを、見る事が出来る。

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2011年01月04日

神仏は妄想である 314

イエスは、キリストではなく、一人の自由な思想の、持ち主だった。

イエスは、キリストであるという、初期、キリスト教団によって、キリスト教が、作り上げられてきた。

更に、プロテスタントも、カトリックの儀式以外の教義に、少しばかり、手を入れて、聖書主義などと、言って、新しい教会を作る。

イエスは、キリストであれかし、という、願望の元に、キリスト教が、生まれたが、その弊害は、歴史を通じて、大変に、重いものとなった。

異教徒の排斥のみならず、虐殺、民族の虐殺と、血生臭い、行為が、繰り返された。更に、為政者と、組んでの、異端審判である。これも、野蛮極まりないものだった。

さて、1960年代、「神の死」の神学が、生まれた。
アメリカである。

それが、世界に浸透してゆくのである。

アルタイザー/ハミルトン共同の、論文集「神の死の神学」は、「神の死」というはなはだショッキングなキャッチフレーズでもって、宗教的信仰の問題を倫理的実践の問題に変え、超越の神を内在的な人間イエスの問題に転じて論じる。だが、特記すべきは、「神」そのものの死を公けに宣言する、彼らの発想のもつラディカルさである。彼らはともに、「宗教」の教師でありながら、宗教の不要を説く。その意図するところはどこにあるのか。あるいは、かかる発想は、宗教だけに限られるのであろうか。彼らの思想は突然あらわれたのであろうか。
「神の死」とラディカリズム 小原 信

これは、現代にまで、至り、多くのテーマを投げ掛ける。

丁度、その時期から、カトリック信者と、プロテスタント信者が、歩み寄り、共に、祈る場所を、求めた。
体制側の、危惧である。

決して、相容れないものだった、彼らが、信仰の危機を感じて、手を携えなければならなくなったのである。

このままでは、教会が、キリスト教が、潰れる。
会社が、倒産するように、倒産するという、意識である。

絶対的権威の、ローマ法王の、メッセージさえ、デモが、起こるようになる。

昨年、2009年も、フランスの若者たちが、ローマ法王の、コンドーム禁止に対して、デモを繰り広げた。

更に、聖職者たちの、男児、男子に対する、性的暴力に、立ち上がった。
ついに、ローマ法王が、犠牲者となった、少年に、謝罪するという。

それは、たった、一つの出来事である。
教会の、権威の失墜は、目に見えて落ちている。

現代においてGODは死んでいる。東洋のカミも、大学の「神」も、われわれの心のなかの「深み」も、「究極的関心」も、そうして、アメリカ・デモクラシーという「神」も、社会主義国家という「神話」も死んじまったのである。まことに、「神は、われわれの時代に、われわれの歴史に、われわれの実存に死んだのである」(アルタイザー)。現象的にはまさに絶望的にニヒリズムの時代、それが現代なのである。
小原 信

ここで、東洋のカミというもの。それは、何を指すのか。
それらの、カミとは、インド系の、カミを指すものであろう。

日本には、彼が言うところの、神観念は、皆無である。

神と言う言葉は、欧米の神、アラブの神、インド系の神と、日本の神とが、混同されて、理解された時期がある。

日本には、それらの、神観念とは、無縁である。

日本の、神は、祖霊のことであり、唯一絶対の人格神などは、無い。

更に、精霊信仰でもない。
祖霊は、自然に隠れる存在であり、そこから、自然崇敬の、思いが、満ちたものである。
それらを、総称して、神というが、神観念は、天地の差ほどある。

日本人に、宗教が必要ないのは、それだからである。
空気のようなものなのである。

ただ、祖霊に対する、自然に対する、所作だけがある。

神社参拝とは、あれは、本来、自然に参拝するものである。
たまたま、社を、設けただけである。
自然参拝は、祖霊参拝である。

神主という、職も、古来、村の長老たちが、持ち回りで、行ったもの。
国家資格の神主が、常駐する、神社神道は、明治期からのもの。
勿論、それ以前も、存在したが、別に、資格などはなかった。
その必要がないのである。
何せ、教義も、教理も無いのである。あるのは、所作のみ。

誰もが、神主になるのである。

その、象徴として、天皇という、存在を、置いたのである。

「神」の「死」とは、現代人のすぐれて今日的な意識の象徴である。神々のラディカルな死と喪失とを願うこころ、これをわれわれは今日ほど激しく実存的に感じ取ることはないかもしれない。神も権威も、体制も秩序も、ともにわれわれを束縛し、われわれを疎外させるものとしてネガティヴにひびく。
小原

それを、意識するもの達が、今を、生きるのである。
ニヒリズムは、長年続いている。
そして、終わることがないだろう。

そこには、様々な要因が、複雑に絡まり、その絡まりを解くことは、容易ではない。
だが、それらの、要因が、一人の人間、いや、すべての、人間を疎外しているとしたら・・・

それは、恐怖である。
妄想にさえにも、酔いしれない、人間の不幸は、余りある。
だから、
しかし、それとともに、あのバイド・パイパーのように、一人の笛吹き(メシア)があらわれて、われわれ農民たち(ねずみ)を引きつれてこのカオスの狂乱をしずめてくれるユートピアを、学生も教師も、牧師も信徒も、心のどこかではげしく待ち望んでいる。・・・・
人々の心をとらえて離さない「神の死」の神学は、その否定的、破壊的、消極的な印象にもかかわらず、その根底においては、深く肯定的、建設的、積極的な創造の情熱にあふれているのだ。その情熱とは何か。彼らは何をどのように指向しているのか。そこには神学という特殊性を越えた一般的な訴えかけはないのか。西欧人には問題であっても、日本人には関係ないものなのか。・・・
小原

キリストは、死んだか
アメリカ各界の人たちが、著した、本が、私の手元にある。
まさに、キリスト教が、変革するのか、変容するのか・・・

事実が、明るみにされた時に、人は、信徒は、どのように、何かを、解消させるのか。
勿論、それらに、関係なく、我が信仰の道を、行くと言う人もいるだろう。

そして、信仰の先には、架空の、ものが、存在するだけ。
つまり、何もなかったのである。

しかし、信ずる者は、それでいいのである。
信ずるという行為によって、救いと言うものがある。

昔の人は、言った。いわしの頭も、信心から・・・
しかし、自分の信じているものは、いわしでは、決して無いと、それも、信じるのである。

いわしの頭ならば、良かった。
何にも無いものを、在ると想定して、信じていたのである。

宗教とは、騙しのテクニックである。

ここに、現代の、深刻な問題がある。その、宗教の、騙しの事実を、人は、知ったであるから。
勿論、アホは、まだ、その蒙昧の中にいる。


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2011年01月05日

神仏は妄想である 315

「神の死」の解釈として始めにあげられる点は、既存のものにはリアリティがない、生命にふれた生き方が感じられない、ということである。形式はあるが内容がない、安定していても喜びがないということである。・・・
「われわれ(アメリカ人)は、神を礼拝しているのではなく、われわれの礼拝を礼拝しているのである」と、かつて「リポーター」誌の記者は書いたことがある。
「神の死」とラディカリズム 小原 信

これは、マンネリである。
マンネリに耐えられるのは、大概が、老人である。しかし、若者たちは、耐えられない。
教会に、魅力がなくなったのである。
更に、神学者が、神の死を、唱え始めたのである。

衝撃である。

小原氏は、現代の世俗化現象のなかで、既存の宗教的な生き方が根底から批判され反省されはじめたということでもある、と言う。

これは、違う。
世俗化の中にこそ、求めるべきものがあると、言うべきだ。

現実遊離が、宗教の持ち味である。
更に、その妄想とである。

「神の死」を一言で言えば、彼らのもっていた神学的確信が終わりをつげたということである。もしキリスト教がマンネリズムということで問題視されるなら、他宗教の場合にも言える。問題は、人々が神に自信がもてなくなり、神以上に興味をもつものがふえてきたということなのである。だが、じつは事柄はそれだけではない。彼らの関心が、かつての「神学」にではなく、いわば「倫理」とも言うべきものに移行して来たこと、倫理的なものがかつての神学的な関心に匹敵する位置を与えられるようになって来たといった方がよいかもしれない。
小原

倫理進化学というものを、以前、私は、紹介している。
それが、宗教に変わるものであることは、明白である。

リアリティは、教会の中ではなく、テクノポリス、つまり、都市にあると、考え始めたと、小原氏は、指摘する。

それは、キリスト教だけではない。
すべての、教団としての、宗教に言える。

かろうじて、耐えられているのは、現実生活に、密着した、活動を主体とする、新興宗教、新宗教などが、それを、抑えている。あるいは、正体不明な、霊感宗教である。

更には、悪徳霊感商法まがいの、悪徳宗教である。

いかに、宗教が、怠慢であるかは、
知的・学問的信仰は抽象的であり、庶民に訴える力に乏しい。教義学や組織神学の体系、また神の存在論的証明は庶民には暗号にもひとしく、神学者という知的ゲットーに住まうものの自慰行為だとみられるのである。アカデミズムを絶対視して社会を無視することも、聖壇での説教を第一として隣人の問いをあとまわしにすることも、ひとつの偏見だとみるのである。現代では、神は人々に対するマスター・キーではなくなったのである。また現代人は、興味がなくなれば受け入れようとしない断片的・瞬間的な態度を強くしてきている。
小原

日本の場合は、どうか。
既存の仏教教団は、瀕死の状態に、陥っている。
そこからの、脱却なども、考えられないのである。

鎌倉仏教などは、何の魅力も無いものになっている。
興味を持たれるとしたら、開祖の太鼓持ちをする、作家たちの書くものが、読まれるだけである。それも、実に怪しい、解釈である。

開祖の、教えを、我なりに、解釈し直して、紹介するという、自己顕示が、目立つばかり。

ご苦労なことに、開祖の言わないことまで、推測して、言うという・・・

単なる、開祖の迷いの教えを、更に、迷って、人々に伝えていると、勘違いする。

どこにも、開祖たちの言葉からは、生きる威力が、湧くことは無い。
同じところを、ぐるぐると、回っているだけである。

山で、遭難するのに、似る。
夜を徹して、歩いて、辿り着いたところが、最初の場所だったという、ように、である。

他の学問と、違い、宗教の教義は、単なる、思いつきのような、考えを、教義としている。
閃いた、発見を、教義とするような、宗教が、現代に、何の力も与えない。そればかりか、逆に、生きる、を、逆行させる。

甚だしいのは、経典の、切り売りである。
切り貼りとも、言う。

時代に合わせて、簡略化したのであろうか。
巨大組織などは、簡単に、経典を、省略して、お勤めなどと称している。

何の、考えも、そこにはない。
単に、信徒の数を増やすという、安っぽい、考えがあるだけである。

十字架も、本尊も、曼荼羅も、何もかも、お飾りなものばかりである。

念仏や、題目を唱えて、救われる、浄土に行くなどとは、最早、誰も、信じていないのである。勿論、それを、教える僧侶も、である。

かつての占星学が天文学に、錬金術が化学に席を譲ったごとく、神学についても、何らかの変化が起こってしかるべきであり、超越的かつ超自然な神が、世俗的・内在的な神に変えられるべきだという考え方がここにはある。
小原

それは、原点回帰である。

ところが、キリスト教の立ち帰るべき肝心の「原点」がはっきりしない。ある人は聖書に帰ろうと言い、またある人は教会へ帰ろうとも言う。いや結局は、神が「原点」なのだという人もいる。しかし、問題は、その「神」がよくわからないということなのである。「根」に帰れとか、「原点」に帰れと言われてみても、それが、イエスなのか、キリストなのか、神なのか、教皇なのか。神学書も、聖書の注解書も、牧師も、司祭も、さいごのところでは、納得のゆくようには語ってくれない。
小原

小原氏は、それに対しての、答えを、すぐに書いているが、これは、問題がある。

後で、それを紹介するとして、問題提起である。

神の死の神学者たちは、われわれの立ち帰るべき原点を「無」にしてしまった。神は死んでしまったのだ、と言う。われわれは、もし根本を徹底して考えようとするのなら、キリスト教の改革のために、われわれが、ばくぜんともっていると思っていた原点が、客観的かつ確実に存在するしろものではない、ということをこのさい確認して、そのことから出発するのでなければ、われわれはあやふやな土台の上にマイホームを建てることになる。キリスト教の原点とは何か。それを自らで模索せよ。神の死の神学は、われわれにこのことを教えてくれる。自明にして普遍的なる神などどこにもいない、のである。
小原

それは、また、自明にして普遍的なる仏など、どこにもいない、のである、という、言い方も、出来る。

勿論、騙されたままに、信仰生活を、送ると言う、お目出度い人には、言う言葉も、無いし、つける、薬も無いのである。



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2011年01月06日

神仏は妄想である 316

神の死とは、いないものはいない、というニヒルに徹することである。・・・
しかし、神がいないというかまえ方を、神の死の神学者は捨て身でしてみようというのである。ここでは、一種の実存的なニヒリズムがある。あるといわれているから、自分にはわからないが、あるのだろう、というのではなくて、たとえ、あると言われても、自分にはないとしか思われない、という個人的・自伝的な「告白」が、ここには提出されている。いままで、神の死を言った人は少なくない。ニーチェもカフカもカミングスも「神の死」について語ってきた。しかし、まじめな神学者が、まじめに神がいないというのは何事なのか。
ここには、恐らく、ラディカルな神学者の自らの内的苦悩がかくされていよう。「神」の死を言うことは、したがって、ただの思いつきではなく、人々が言いたくても言えなかったこと、自分が感じているがゆえに黙すわけにゆかぬこと、などを、いわば預言者的に表明したことになるのである。
小原 信 改行は、私

旧約聖書に登場する、神のように、五千年来、神が、登場することがなかった。
更に、新約聖書のイエス以来、二千年間、イエスは、登場することがなかった。

雲に乗って、天から、イエスは、やって来ない。

もう待ちくたびれた。
あの、ヤハウェは、どうした。エホバは、どうした。

その間に、幾多の信者たちが、死んだか。
そして、彼らは、本当に天の国に、入ったのか。
誰も解らない。

大半の、霊位が、教会の上空に、漂っている。
これは、私の霊学からである。

勿論、極楽を目指した、霊位も、寺の上空に、漂っている。

いわゆる「神」はわからない。求めれば得られるともかぎらないのである。神は眠っているのか。旅にでたのか。死んでしまったのか。たしかに、神の死は、しばらく前から、思想上の大きな問題であり、謎であった。ブーバーは「神の日蝕」と言い、ティーリケは「神の沈黙」と言い、シモーン・ヴェイユは「神を待つ」と言う。
遠藤周作の「沈黙」は、日本的状況のなかでの神の不在を説明するのに大きな役割をはたした。
小原 改行は、私

さて、延々と、小原は、神の死、に関して、書き続けている。

一つ、誤りがある。
遠藤周作が、日本的状況の中で、神の不在を説明するのに、大きな役割を果たしたというが、それは、違う。
日本には、欧米の、キリスト教の神観念は、無い。

その、神観念が無い日本で、神の不在も何も、あったものではない。

遠藤周作の、誤りであり、勘違いである。
遠藤の、考える神など、日本には、存在しないのである。

それを、何故、神不在の、云々と、評論するのか・・・
実に、ナンセンスである。

更に、遠藤の、神や、イエスは、遠藤の、神や、イエスであり、彼、個人の妄想である。
更に、歴史的にも、誤っている。
完全、完璧に、甚だしい、勘違いによって、書いたものである。

何故、遠藤の、書いた、イエスが、私を踏みなさい、あなたの痛みを、私も、また、痛む・・・などという、アホなことを、書いたのか。
あれは、限りなく、日本的情緒の、情緒酔いである。

浪花節とでも、言う。
イエスが、浪花節であるわけが無い。

小原氏も、ここにおいて、神観念を、混ぜて論じている。
キリスト教の、神の死、のことであろう。

ここで、はっきり、言っておくが、遠藤周作は、キリスト教の、神というものを、全く知らないという。
更に、彼の中には、キリスト教の、神は、存在していないのである。
その、一連の作品の中には、一度たりとも、キリスト教の神、そして、イエスは、皆無である。

彼の、イエスの生涯、なども、全くの、出鱈目である。

勿論、文学作品としては、評価するものもあるが、神とか、イエスに関しては、素人丸出しである。
あれにより、神や、イエスを知ったと、思った人たちは、改めたほうがよい。

神の死の神学者は、ばくぜんと、神がいる、とは思わないのである。そうではなくて、神がいないという無を徹底させて、いままで多くの人がぼんやりと期待していたり、べったりと盲信的に信頼していた神をなぎはらってしまうのである。
小原

神学者のくせにけしからんとか、神学者だからまさかそんなことは言えない、というのは、人間疎外であり、自己疎外なのだ。私は、真剣に神の問題を考えるがゆえに、自らの立場をかえりみずに、神はいないと言い切った、神の死の神学者に拍手を送りたい。真実の不信仰は虚偽の信仰にまさるからである。
小原

真実の不信仰は、虚偽の信仰に、勝る。
そても、事実を、表明している。

ここから、はじまる。
いよいよ、新しい時代が、はじまったのである。

ということは、既存の、信仰は、改められなければ、ならない。

イエスは、新しい時代は、新しい皮袋が、必要だと、言う。
その通り。
イエスの時代から、二千年を経ているのである。
新しい、時代が、到来したのである。

それは、すべての、宗教に言えること。

滅びに瀕する、日本、仏教にも、言えるのである。
仏教は、死んだ。

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2011年01月07日

神仏は妄想である 317

神なきいま、神の死の神学者たちは何をするのか。彼らにとって特徴的なことは、彼らがイエスに集中しようとすることである。彼らは、神は殺すが、イエスは殺さない。むしろ神なきあとは、イエスにすがる。神の死の神学は、神観を破壊してイエス像を再構築するといってもよいのである。
神の死とラディカリズム 小原 信

だが、再構築するという、イエス像は、何から、得るのかと、言えば、聖書からである。
それ以外に、方法は無い。
しかし、その聖書が、改竄されたと、現代では、常識になっている。

これは、とても、大変な試みである。

とくに、ラディカルなのは、アルタイザーのイエス観である。アルタイザーによれば、イエスは神の死によって生まれた。聖書の言う神、キリスト教の言う神が人間になったこと、神が人間「肉」になること、つまり、「受肉」が、そのまま神の死をあらわしていると言うのである。この神の自己否定もしくは自己滅却が、神の愛だと言う。かくして神は、偉大な人間性として、文字通り宇宙大の現実のなかに、イエスとして現在することになる。
小原 信

これでは、詭弁である。

神が人間になった。
キリスト教の、第一義の、教義である。
結局、神が死んでも、イエスが、その役割をするということで、内容は、変わらない。

今までも、イエスは、神の子であった。

さらに、
イエスに集中することは、新約聖書のおけるイエス像を基礎とすることであり、新約聖書のなかのイエスがどのような人物であったかは、福音書の記述からわかってくる、とハミルトンは考えている。むしろ、イエスに従い、イエスをまねようとする者には、イエスが、人のために苦しみをなめ、神がいないのなら、そしてわれわれにはイエスがわかるのなら、抽象的で観念的で形而上学的な神というものを考えないでより具体的なもの、より現実的なものととりくんで生きようとするわけである。
小原 信

それならば、今までとは、たいして、代わり映えしないのである。

神の死の、神学者も、戯言を言う。

人間、イエスとして、捉えることが、出来ない、という、既存の神学から、まだ、抜け出ていないと、見る。

ただ、神なしに、新約聖書のキリスト論を考えることが、出来ると、考える、学者も存在するというが、キリスト論というところが、実に、蒙昧である。

イエスを、キリストとしたのは、誰か。
原始キリスト教団である。

ただ、新約聖書の現代版を、創作しようとする試みに、似る。

つまり、新しく、イエス・キリストを創作しようとする試みであり、結局、イエスは、メシアとなるのである。

神なしで生きるとは永遠の生命なしに生きることでもある。神の死の運動は、神なしに、永世なしに、しかし絶望なしに生きることを求める。神がいないということは、神が何か他の名前によっても存在しないということである。神を「根底」とか「深さ」とか「創造性」とか「愛」とかいうふうに名づけ直すことも、ここでは拒否される。あるのは、ただ、神なしにイエスに集中しようということだけである。・・・・
天の神も、機械仕掛けの神もいらない。いるのはただ、イエスだけだ、と言うのである。
小原 信

気持ちは、解る。しかし、人間イエスを、見るのではない。
イエス・キリストを、見るのである。

そこで、面白い、展開が、出てくる。
これは、仏教かという、考え方である。

つまり、
神なきいま、イエスに集中するとは、この世にイエスを見出すことだから、神も聖も救いも、すべて、あるとすれば、この世の中に現に在ることになる。キリスト者とは、この世のなかに神「キリスト」を見出す者のことであり、キリスト者は、俗なる世界がそのまま同時に聖なる世界でもありうること、世俗の時間がそのまま同時に聖なる時間でありうること、肉欲的なものがそのまま同時に霊的なものでありうること、つまり二つのものの弁証法的性格を信じる者として定義し直される。
小原 信

どこかで、見た、仏教の、お話である。

煩悩即菩提などという、詭弁である。

今頃、気づいてどうする・・・

弁証法的性格などというが、単なる、言葉の遊びである。

神の死を言う、ラディカルズは、聖域のすべてを、文字通り、宇宙大に相対化させてしまった、と言うが、何のことは無い、当たり前のことである。

結局、神の死を言う、彼らも、神観念から、抜け切れていないのである。

つまり、教会は、いらない、教団はいらない。
司祭と、信徒の区別も無い。

イスラムのようで、いいのである。

これは、長い間の、教会権力に対する、反乱でもあろう。

だから、
神は天にいるのではない。地上にいるのでもない。神は上にも下にもいない。神はどこにもいないのである。・・・この世以外のものは否定され、拒否されねばならない。あるのは、われわれ人間の現実の生であり、われわれがやがて死ぬということである。だが、自己の生、つまりこの世があるということは、どこまでも自己の責任として、また課題として受け取られる。神は死んでこの世がある。イエスは死んでこの世のなかにいる。ゆえに、かつてではなくていまが、あそこではなくてここが、大切であり意味をもってくる。・・・
われわれには、この世界が、この世が、われわれの生きかつよろこびを見出す世界、つまり「神の国」ということになってくる。
小原 信

まあ、ここまでくるのに、どれほどの、時間を費やしたのか。

一体、キリスト教というものは、何をしていたのか。

思い出して欲しい。
イエスは、キリストではないのである。

そして、神は、妄想である。

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2011年01月18日

神仏は妄想である 318

神の死の神学は、すぐれてアメリカ的な神学である。ここで言う「アメリカ」ということには、特別の重みがある。これまで、アメリカ人にとって、神学とは「ヨーロッパ」の神学であり、ヨーロッパの神学とは、バルト、ブルンナー、ブルトマン、ボンヘッファーなどの神学であった。アメリカという国は、少なくとも人文系の学問に関するかぎり、歴史と伝統の浅い不毛の砂漠とみなされがちであった。
小原 信

本当だろうか。
神学に関しては、そうかもしれないが、共産主義が、吹き荒れた時期、ヨーロッパから、多くの文人たちが、非難してきた国である。

歴史と、伝統が、浅いゆえに、新しい多くのものが、育った。

しかし、この砂漠は、たしかに不毛の地であり、伝統も歴史も浅いことは浅い。束縛されるもののないがゆえに、アメリカは、未来の多くの約束に満ちている。かくして、神の死の神学者は、アメリカ的な神学風土を自覚して、彼らが、明らかにあるいは潜在的にいだいていたヨーロッパ・コンプレックスからの脱出を宣言する。かくして、このアメリカの新しい神学は、「神の死」を、いわゆる「神学」としての「ヨーロッパ神学」の死としても表現するのである。
小原 信

建国から、200年ほどの、アメリカの神学を、論じているわけだが、腑に落ちないのは、建国の際の、彼ら、キリスト教徒の、反省すべき、原住民から、土地を奪った、反省から、成り立つものではないか。

結局、白人の、キリスト教というものを、論じているだけである。

それはそれは、実に、納得するものであるが、そこには、全く、自分たちの国の、成り立ちなど、眼中に無いのである。

ヨーロッパに、対立、対決するという・・・
実に、傲慢である。

神の死よりも、彼らが、考えなければならないのは、建国によって、行った行為である。それが、キリスト教徒としての、行為だったのかを、問う事が、まず、先決であろう。

神の死の、神学など、どうでもいいことになる。

キリスト教から、抜け切れない、キリスト教の、再開発なのである。

だから、小原氏が、解く、神の死の、神学というものも、空論になる。

彼も、キリスト教なのであろうが、そこから、一歩も、出ないし、更には、仏教のような、世界に、踏み出しているということに、気づいて、いるのか、いないのか。

もともとプロテスタント・キリスト教は、プロではないキリスト者がすべて、祭司的な役割をはたすという万人祭司主義をとる。平のキリスト者が責任をもつものであり、プロテストしつづけるかぎりにおいて、自己完結的ではない。体系は開かれ、ドグマも開かれている。つまり、神学を神学者から開放して、神学を神学者の私有物にせず、平信徒と庶民のものにするのである。
小原 信

そして、その活動が、社会全体の、様々な、活動に、なりうるというのが、小原氏の、言い分である。

信仰というものが誰にでもできるものであるということは、またどこにでも、どんな形においてでも、表されうるという信仰の流動性と柔軟性を示している。
小原 信

そんなことは、仏教では、すでに、新しいことでもなんでもなく、行われている。

更に、イスラムも、そうである。

これは、要するに、進退窮まった、キリスト教の、新しい展開を、促す、運動の、勧めである。

神の死の神学者たちは、この二、三年アメリカに起こって来ている変化に気づいて、それを積極的に受け止めようとする。話しをアメリカに限っても、神学ははるかに大切ではない学問になりつつあり、それだけではなく、その伝達様式も変わりつつあると言うのである。短く言えば、神学の体系などがいったいありうるのか、どれが正統で、どれが異端かがわからなくなってきたといってもよいであろう。
小原 信

はじめから、神学は、学問ではない。
妄想である。

要するに、間口を、どんどんと、広げてもいいのであると、神学者たちが、言い始めたのである。でなければ、彼らは、神学者と、名乗ることも出来ない、時代に突入するのである。

アメリカ的な神学を形成するとは、既存のヨーロッパ神学から独立することであり、それはかつての権威が崩壊することでもある。
小原 信

当然であろう。
最初から、権威などといわれるほどの、神学など無い。
それは、教会が、定めたもので、信徒には、全くの発言は、許されなかった。

それは、プロテスタントでも、同じであろう。

最後に、神の死がたんに外国でのゴシップに終わらずに、異なった風土において個性化できるとすれば、われわれ日本人は、「神の死」をどう生かせばよいのか。もともと「神」なき異教の地に、神の死をもちこむことは早すぎはしないか。こういう疑問をすでに私はいくつか聞いている。だが、私自身は、日本でも神の死を叫ぶことは早すぎはしないと思う。むしろこれをうまくとらえうるなら、日本人のためにラッキーなことだとさえ考えている。なぜなら、日本人はいま初めて日本型のキリスト教をつくり出せるかもしれないからである。
小原 信

ここで、言われる、神とは、キリスト教の言う神である。

ここ、ここに至ると、論外である。

日本型の、キリスト教を、作り出すとは、傲慢も、甚だしい。
そんな必要は無い。
それより、必要なことは、キリスト教の、不必要性である。

そして、聖書の嘘、改竄の改竄を知り、それが、宗教に、相応しくないということを、知るべきなのである。

だから、このように、とんでもないことを、言う。
非キリスト者は、自らのいだく誤った「キリスト者像」をうちこわす必要があるのであろう。

非キリスト者は、云々とは、大きなお世話である。

日本的心情を生かしつつ、神の死の神学を越えて、日本人のためのキリスト教を、誰にもわかる世俗的な言語に訳し直して、非キリスト教徒との対話をすることが求められるゆえんである。

これは、日本における、キリスト教の、新しい布教の、一端を言うものである。
しかし、それ自体が、もう、時代が、求めない、時代性になり、時代精神になっているのである。

神の死の、神学が、云々などとは、全く関係ないのが、日本人の、心情である。
更に、日本には、宗教、宗教的なものさえ、必要ないのである。

多くのキリスト者が、教会を、離れる如く、日本人も、日本の伝統から、離れつつある。しかし、日本の伝統を、息をするように、我が物として、内包している、日本人も、多々存在する。

そして、その、日本人の、心情を持ち、歴史と、伝統を、保ちつつ、日本人として、生きる人たちによって、日本は、再生し、キリスト教のような、まがい物は、必要ないのである。

神の死、というものも、言葉の遊びに過ぎない。
神というものは、観念の産物であり、神という存在は、皆無だからである。


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