2010年06月24日

神仏は妄想である 283

チベット密教の流れを、見ると、アティーシャがチベットを、訪れたと同時期に、在家仏教の間でも、新たな局面が展開していた。

カギュー派の誕生である。
キュンポと、マルパという、二人の在家密教行者によって、創設された。

彼らは、それぞれ、別行動にて、インドに出掛け、教えを受けた。

カギューとは、教えの伝統という意味である。

二人には、交流はない。
そして、後世に、キュンポの法系は、四つ、マルパの法系は、九つに分裂して、互いに、激しい対立抗争を、繰り返した。

だが、これらの、一派は、教理体系の構築などには、関心を示さず、もっぱら、行法の実践に、自分たちの、存在価値を、見出していた。

さて、1073年、中央チベットの西部、サキャというところに、コンチョクギャルポと名乗る、人物によって、サキャ寺が、建立された。

そこを、拠点に、形成された、宗派が、サキャ派である。

以前は、古訳を使用していたが、後に、新訳の密教も、取り入れて、修学することになった。つまり、ニンマ派から、サルマ派への、展開である。

コンチョクギャルポの子である、クンガーニンポは、チベット仏教史上、最大級の天才と、言われる。
彼は、インドから輸入された、各種各様の、密教を再統合させ、独自の、見解を加味して、「道果説」を築き上げた。

そこには、解脱を求めて、修行を重ねる過程、道は、すでに、悟り、つまり、果が、実現していると説く。

その、典拠となったのが、密教経典で、最も、性的メタファーに富む、ヘーヴァジュラ・タントラで、インドの、大成功者として、名高い、ヴィルーパが、その創設者とされる。

サキャ派は、継承の方法も、独自の方式で、継承者は、血統第一だった。
主として、親子の相続で、時には、叔父と甥の相続もあったという。

そして、原則的に、歴代の主は、妻を持ち、その下に、生涯に渡り、童貞を保つ、出家者の集団がいた。

彼らは、やがて、ユーラシア大陸の、全域を把握した、モンゴル族と、いち早く手を結び、チベットの、聖俗両面の、支配を握ることになるのである。

政治の面から見れば、この時期は、チベット全体を、統治できる、統一政権は、存在していなかった。

各地に、根ざす、氏族、豪族たちが、その覇権を巡り、抗争を繰り返すのである。

それは、宗教、宗派にも、言えた。
短期間のうちに、教団が、成長する、可能性があったのである。

しかも、後伝期になってから新たにもたらされたタイプの密教が、まったくもって厄介な代物だった。性的ヨーガの実践や黒魔術的な要素を多分にふくみ、その解釈をめぐっては、本場のインドですら物議をかもしだしていたからである。
正木 晃

霊力。
密教行者の典型である。
チベット語では、ンガクパと呼ぶ。

基本的に、在俗の、密教者である。

密教行者の仕事の中でも、最も大切なことは、畑に植えられた、麦を、雹の害から、守ることであった。

自然現象も、制御するという、彼らを、農民、村人たちは、信じた。
そして、それによって、生計を立てていた。

密教行者は、仏教の僧侶として、正規の教育を受けなくても、身につけた霊力だけで、生計を立てる。
いうなれば、霊能者、シャーマンのカテゴリーに入る。

時によると人に害を加える悪い呪詛をして人を殺すようなこともするというのがチベット人の信仰である。だから誰々はどこそこの修験者に逆らったがために悪い呪詛をされてとうとう死んでしまったというような話はどこででも聞く事なんです。
チベット旅行記 河口慧海

時には、呪詛同士の戦いまでするという。

こうなると、仏教などという、宗教の話ではなくなる。

更に、その修行の最高の法を、書く。

師匠が、性的ヨーガをして、女の膣の中に、射精し、その、膣の中の液体、精液も、陰液も含めて、弟子の口に入れるという、方法で、伝授するという話は、もう、正気とは、思えないし、また、上等とも言えない。

終わっている。

霊力であるから、宗教も、宗派も、更には、仏教の教えも、何も無い。
単なる、魔力以外の、何物でもない。

真言宗の、最高の儀式の中にも、若い僧侶の、精液を読経の中で、抜き出し、それに、墨を混ぜて、御札を作るということがあると、聞いた。現在も、行われているのか、不明であるが、そのようである。

このように、ある修行が、行き着くと、本来の、教えなどが、吹っ飛んでしまう行為に、至るということである。

どこの、宗教にも、霊能者というものが存在する。
その者に、よって、教義が、立てられたりする。

この、チベット密教は、反社会的な行動も、容赦なく、やってのける。
例えば、それを、真似たのが、あの、地下鉄サリン事件を起こした、教団である。

ポアするという言葉で、人を殺す。
チベット密教にも、度脱という言葉があり、それを、容認する。
つまり、罪を犯す前に、殺してもよいという、理屈である。

以上、少しばかり、チベット密教について、紹介したが、いずれ、また、詳しく、書くことになるかもしれない。

空海の密教の、行き着く先にあるものとして、チベットに伝わった、密教のことを、紹介したに、留まる。

いずれにせよ、宗教の蒙昧は、計り知れない。

ちなみに、霊能力を、釈迦仏陀は、最も、嫌った。
それは、インドが、魔界に支配されていることを、知っていたからである。
霊能力を、行使することは、必ず、魔界と、接触することを、知っていた。
ゆえに、弟子たちが、霊能力を得ることを、嫌い、また、その能力を得ても、使用することを、禁じたのである。



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2010年06月25日

神仏は妄想である 284

密教を見るため、空海を見た。
そして、その源流である、インドの、タントラ、更に、密教の完成ともいえる、チベット密教も、俯瞰してみた。

更に、私は、空海と最澄との関係を、と、考えて、立ち止まった。
このままでは、まだまだ、仏教が、続く。

最澄を、つまり、天台宗というものを、語ると、南都六宗にも、目を向けなければならない。最澄によって、南都六宗は、その魅力も、政治的力も、失う。

ということは、まだまだ、書き続ける必要がある。
しかし、一旦、仏教を、休止して、新たな展開を作りたい。

いずれ、新仏教の生みの親ともいうべき、天台宗を、最澄を、書くことにする。
そこから、もう一度、仏教というものを、見つめる。

さて、それでは、私は、どこに、向かいたいのか。
新約聖書である。

リチャード・ドーキンスによる、神は妄想である、の際に、多く、旧約聖書に、触れたが、私は、カトリック、プロテスタントが、使用する、新約聖書に、批判のメスを入れて、その、本当の意味と、誰が、何の目的で、新約聖書を書いたのかを、問うことにしたい。

新約聖書として、認定された、聖書の他に、外典と呼ばれる、ものがある。
正規の聖書として、取り上げられなかったものである。

何故、それらが、取り入れられなかったのか。
私の、手元に、それらの、準聖書がある。
世界で、出せないものが、日本では、翻訳して、出せるという、状況である。

危険な書物といわれるもの、日本語に、翻訳されているもの、多数ある。

何年か前に、キリストの棺、という、本が、出された。
実に、センセーショナルな内容である。

イエスには、家族があった・・・
その、イエスの家族の墓が、科学で、徹底検証されて、キリストといわれた、ナザレのイエスの墓であると、鑑定された。
しかし、キリスト教国では、勿論、歓迎されるどころか、迫害される。

要するに、信じ込んでいる、イエス・キリストの、嘘の話の方が、いいのである。
今まで、信じ込んでいた、嘘話の方が、都合がよい。
真実なんて、必要ではない。

人が、一旦、信じてしまうと、このように、蒙昧になる。
つまり、信じることで、抜けられない、迷いの道に入り込むのである。

子供の頃の、御伽噺と、同じ程度で、満足するという、未熟である。

兎に角、信じることから、はじまるという、詭弁は、信じさせると、楽なのだ。
宗教者は、皆々、そうである。

信じてしまうと、思いのままに、動かせる。

今、世界では、モスリム旋風が、巻き起こっている。
モスリムたちの、世界席巻と、中国人たちの、世界席巻で、世界は、混乱する。
更に、元の、伝統文化などは、破壊し、尽くされる。

ヨーロッパに、おける、キリスト教文明の、終焉が、目の前に迫るほどなのである。

歴史を、見ても、イスラム教は、地場の、宗教を破壊して、入り込み、イスラムの世界に、仕立て上げてきた。

シルクロードの、仏教国が、今では、見事に、イスラム教になって、続いている。

その一つに、宗教指導者は、いるが、司祭と、信者は、信者自身が、演じるのである。
信者は、司祭でもある。
日々の、祈りは、信者の自発的行為であり、誰も、そこには、介入しないのである。

日本を出れば、すべての、空港の中に、イスラム教徒のための、祈りの部屋がある。
どんな、田舎の、空港にも、ある。

恐るべし、イスラム教である。

その隙間の中に、日本をはじめとする、新興宗教が、入り込む。
教線の拡大を、画策を狙う。

信者、会員を、一人でも、多くの持つことが、宗教団体として、力を持つと、信じている。

日本国憲法には、信教の自由が、謳われている。
理想的なことである。

信仰とは、極めて個人的な、情緒である。
何人も、その、情緒を犯しては、ならない。

さて、この世に、唯一、絶対というモノは、存在しない。
絶えず、揺れ動き、流動している。

確定してあるものは、無いのである。

確実なことは、ここに、私という、我を有する、存在があるということ。

真理の法を、よりどころとし、我が身を頼め、とは、釈迦仏陀の、遺言である。

神仏に、頼れとは、口が裂けても、言わなかった。
すべては、私の心の中で、行われることなのである。

人間としての、英知を捨てて、何かに、頼り、身を任せるということは、実に、恐ろしいことである。
ましてや、それが、化け物のような、神や、仏であれば、なお更のこと。

神や、仏は、人間が、想像し、創作し、妄想したものの、一つである。

その、神や、仏を、超えるべく、人間は、進化し続けている。
要するに、人間が、人間を超える努力である。
それを、進化という。

新しい時代は、新しい、器が必要である。

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2010年06月26日

神仏は妄想である 285

マタイの福音書を、解体する。

その手引きは、神学者、田川建三氏の、宗教とは何か・マタイ福音書によせて、から、取り入れる。

以下の、引用文は、すべて、田川氏による。

貧しい者は幸い

これは嘘だ。たとえどんなことがあっても、人間が貧乏だからといって、それで幸福だ、なんぞというわけはない。
田川

最初から、やる気十分である。
新約聖書作家たちへの、挑戦である。

マタイによる福音といえば、マタイという人が一人で、書いたものと、思うが、違う。
簡単に言えば、マタイ教団が、書いたもの。まとめたものと、いえるのである。

この、福音書は、ユダヤ教からの、改宗者のために、特に、イスラエルとシリアに住む、改宗者のために、書かれたといわれる。
そのため、他の、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書とは、違い、ユダヤ教の、祭儀へ、言及する箇所が、多いといわれる。

要するに、読者を絞り込むのである。

それが、カトリック、そして、プロテスタントの、キリスト教から、聖典とされるものである。

勿論、聖典があり、外典もある。
外典は、聖典として、取り入れられなかったものである。が、読むべき価値は、ある。

知らないものは、無いものであるから、クリスチャンたちは、教会が、定めた聖典を、正しいものと、信じて、疑わない。

信じる者は、決して、救われることが無い。
信じる者は、騙されるのである。

貧困はその人の生活を苦しくする。生活の苦しさは、労働の過重を呼びおこす。労働の過重は極度の疲労をこきおこす。それも自分だけのことではない。妻も、家族みんなも。貧困は一日だけの架空の実験ではない。毎日続く状態である。こういうものは毎日続けば慣れて軽くなる、というものではない。毎日同じ重さを加えてくる。肉体の疲労が毎日続く状態であれば、一方ではそれは必ず、病気か、病気に近い健康状態を結果する。病気にならずに頑張ったとしたら、寿命を縮めるのがおちだ。他方では、精神的いらだちを結果する。疲れた時にとがってくるのは神経なのだ。しかも自分だけではなく、家族全体がそうであるとすれば、せめて、精神的にだけでも豊富な余裕があれば、と希求するのは当然だが、程度以上の疲労はそれを支えきれない。かえって、自分のいらだちが相手のいらだちを増幅し、相手のいらだちが自分のいらだちを増幅する。
田川

これは、マタイ福音の、山上の垂訓という、有名な場面の説教を、批判するものである。

幸い、貧しい者

この有名な台詞には、動詞が無い。
だから、どういう動詞も、そこに、想定することができる。
訳文により、いかようにも、手を入れることが、出来るということだ。

フランシスコ会聖書研究所訳
自分の貧しさを知る人は幸いである。
天の国はその人のものだからである。

だが、
貧しい者が幸いである。
貧しい者こそ幸いである。
貧しい者も幸いになるだろう。
貧しい者こそ幸いなれかし。

「幸い、・・・・な者」という動詞を含まない言い方は、旧約、ユダヤ教に伝来の言い方である。それは特に、いわゆる知恵文学に多い。そしてそれは宗教的かつ倫理的な生活の智慧として語られてきたものであった。
田川

幸い、汝イスラエルよ
幸い、知恵を見出す者
幸い、主により頼む者は皆
幸い、貧しい者のことをおもんばかる者

幸い、とは、祝福の言葉である。
伝統的に、多くの場合、宗教的説教の意味で、語られてきた。
イエスの、幸い、貧しき者、も、同列の平凡な説教と、みなそうとしたことも、ありなのである。

田川氏は、上記の、詩篇から引いた、貧しい者に、慈善を垂れる、富む人は、幸いであるという、言葉と、イエスの、貧しい者は幸い、という言葉には、無限の距離があるという。

イエスの言葉は、詩篇の言葉への、挑戦であるという。

幸い、貧しい者という、発言が嘘である、ということを知る者のみが、この動詞の省略された言い方が、一方では固定的な平板な真理から、他方では挑戦としての逆説までを表しうる表現形式なのだ、ということを発見するのである。貧困について語られている言葉は、貧困の事実を知るところからしか理解しえない。
田川

これを、解説し、説教を繰り替えす、司祭や牧師たちは、体の良い言葉の、羅列をする。

心の貧しさであり、それは、神を求める心、信仰の、現れである云々。

個人的好みや、信者の心を、酔わせる言葉を吐くのである。
どこにも、心の貧しい人は、幸せであるとは、書いていないのである。

主イエスは、端的に、旧約の逆説を言うのである。
貧しい人は、幸いである。

だが、それは、嘘なのである。
貧しさが、幸せであるはずがない。
それは、田川氏の、上記の言葉でも、解る。

貧しさは、人間を、また、その人間性までも、狂わせ、更には、貶める。
貧しさから、這い上がるために、人を人とも、思わず、行為する人もいる。

聖書解釈は、実に、血みどろの戦いになるのである。

この、言葉を、ただ、ただ、信仰に持ってゆくように、説教を繰り返す、指導者たちである。

唯一、神のみを、頼め。
神のみが、あなたを、救う。
全く、検討違いの、説教を、平気でする。

その、見当違いの、説教を聞いて、信者は、死ぬまで、騙されるのである。


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2010年06月27日

神仏は妄想である 286

イエスの逆説的な言葉は、それが語られた瞬間から、弟子たちによって骨抜きにされていった。この言葉がマタイによって編集された過程もそうである。マタイという個人がはじめてイエスの言葉をひんまげた、というのではない。イエスの生前からすでに、改竄、修正、聖典的権威づけの試みははじまっていただろう。半世紀にわたる集団的改竄の努力がマタイ福音書に山上の説教という形をとって定着する。その伝統をさらに近代的な宗教的観念性の中にひきこんで料理したのだから、近代の神学的解釈者の解釈が愚劣になるのも無理はない。
田川

そこで、田川氏は、神学者の解説を、載せて、斬るのである。

ある神学者の言葉。
だからこれらの幸いの言葉は、神の行為の秘密を表現している。神が貧しい者に向き給う、ということの中に憐れみとして示される神の行為の秘密を。

生活苦を知らない、司祭、牧師、神学者の、戯言であり、意味不明な、解釈である。

要するに、正しい信仰を持つ者が幸いであるというのである、結局は。
それで、信者を騙す。

神が与え給うのだから、貧しくてもいいじゃないか。だから、神が要求なさることにはおとなしく従うべきである・・・
田川

・ ・・・神学者諸氏の発想が行き着くところは、貧しい者の憤りのとげをぬいて、宗教的謙虚さへとかかえこむことにある。
・ 田川

ある神学者の言葉。
貧しい人や不幸に人たちとは、此の世からは何も期待しえないで、神にすべてを期待し、神に信頼している人たちである。

全く、現実生活を知らない、神学者の解釈である。
つまり、信者から、搾取しておいて、言い分がいい。
彼らは、それで、心を痛めることがない、ほど、鈍化しているのである。

司祭、この場合は、カトリックの神父であり、牧師とは、プロテスタントの指導者である。

彼らは、現実生活を知らない。更に、現実生活にいても、その指導者になると、突然のように、現実を無視する。

神への、信仰により、と、すべてを、神に転ずるのであるから、世話が無い。

国連をはじめ、様々な、団体が、世界の貧困対策というものに、向かっている。
宗教だけは、空想、妄想の、教えで、それらを、煙に巻き、堂々としている。
勿論、国連、様々な、団体の中には、宗教的、動機のある者もいるだろう。更には、宗教団体、特に、キリスト教関係などは、積極的に、ボランティア活動を行う。

だが、それで、解決するものではない。

そこには、必ず、卑しい布教という、隠れた策略がある。

タイ、チェンマイにて、様々な、ボランティア団体を集めて、討論会を行った。
その中で、最も、タイ側から、疑問を持たれたのが、日本の団体だったという。

つまり、日本の団体の、ボランティア行為の、動機が、解らないというものだった。
日本も、今は、大変なのに、何故、タイにて、ボランティア活動をするのか・・・

それは、他の団体は、すべて、ミッション系であるから、その目的が、明確だった。布教である。タイ側の人たちは、それらの、団体には、質問しなかったという。聞かなくても、その理由が解るからである。

日本の、団体には、何か魂胆があるのではないかと、疑ったという。
例えば、タイの支配の、複線なのか・・・等々。

しかし、日本側の団体は、ただ、単に、助けたいというものであった。
出来ることをしたいという、素直な思い。

誰も、日本の神道を布教するなんて、考えもしないし、日本の天皇を、タイの人たちに、理解してもらおうなどとは、考えないのである。

最も、ボランティアらしい、日本の団体であった。
だが、それでも、疑われたという。

何かの魂胆があるから、そんな、無益なことが、出来ると、通常の人は、考える。

宗教団体が、行う、奉仕には、必ず、それは無いと、言っても、そこに、微かながらも、布教という、目的が発生するのである。

東京カテドラルにて、コンサート使用を申し込む時に、担当の、方から、言われた。
わたくしたちは、福音宣教の立場から、利用者様に、ご理解を頂いて、お貸しします、である。

勿論、そこを、利用するのは、大半が、教会関係者との、つながりがあれば、楽々である。

私は、使用しなかった。
その、尊大な謙遜の言い方に、実に、いやな気分を感じた。

信仰に、熱心になればなるほど、偏狭になるのは、どこの、宗教も、同じである。
決して、自由な発想は、生まれない。
更に、完全に、他を差別する。

さて、イエスの説教における、貧しい者、貧困というものが、全く、理解されずに、勝手に、解釈されて、歪められ、信者は、いいように、騙されるのである。

この、飛躍は、宗教に、つきものである。

聖書研究を見る。
直訳では、霊によって貧しい人。
人を幸福にするものは、自分の力で手に入れられる、この世の富ではなく、祈りによって、神から、与えられる、恵みだけである。

このような、詭弁を平気で、言ってのける、宗教家というのは、まさに、悪魔的である。
神から、与えられる、恵みという、その、恵みを、愚かな人たち、信者は、勝手に想像する。

ああ、これが、神様の、恵みのお陰だ・・・と、思い込む。
何か、些細な、喜びも、そのように、思い込む。
人間の、努力などは、完全に無視する。

霊において、というのは、マタイによる、解釈的附加である。
というより、マタイ的学派の、と言うと、田川氏は、いう。

山上の説教は、編集者、マタイや、ルカが、修正しながら、採用したものである。
それまでに、実に複雑な経過を、辿っている。

田川氏は、マタイ的教団の、教師たちは、彼らの律法学者的知識を、総動員して、これを、詩的様式からも、宗教的内容からも、より完成した一つの詩文にみがきあげている。と、いう。

最初は、原始キリスト教団によって、一つの基礎伝承として、まとめられた。

貧しい者が、霊において、と、変えられた。
更に、飢える者が、義のために飢え渇く者と、変えられた。

義とは、ユダヤ教の基礎にある、法的発想の中心概念である。

イエス自身は、常に、法的発想とは、いわば正反対の位置から、ものを言っていた。それゆえ、マタイ、マルコ、ルカという、三つの、共観福音書では、イエス自身の発言には、義という言葉は、マタイ以外、一度も、使用されていないのである。

マタイ教団により、義という、概念を取り入れて、統合したのである。

よって、伝承にある、逆説的な、イエスの、説教とは、質を異にするのである。

イエスの言葉を、勝手に解釈して、勝手に、信者を騙す手口にしたという、仰天である。

あたかも・・・である如くに、淡々と、教団化を図り、のうのうとして、人々を、支配するという、手口。

甘い、生ぬるい言葉を掲げて、つまるところ、偽善であるが、そのようにして、更に、カトリックという、教団にまで発展することになる。

人を、夢見させるのが、宗教の本質であり、現実と、事実から、目を逸らせる。

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2010年06月28日

神仏は妄想である 287

田川氏の、指摘は、更に、鋭いものになっていく。

本当は「神の国はその人のものになる」という言い方は、当時のユダヤ教の環境の中では、驚くべき発言なのだ。神の国とは「神が支配すること、神が支配するところ」の意味である。従って、人間はその中に入れていただく、救わるべき人間だけがそこに入れてもらえる。というのが「正しい」言葉遣いとなる。あるいは、終末に際して「神の国」の方が「来る」。その時此の世は「神の国」に変えられる、と信じられた。神の国については、普通はこの二つの言葉遣いしかなかった。

それに対してイエスは平然と言い切った。「神の国はその人のものになる」なんぞと。
もちろんこれまた逆説的発言である。
田川

ユダヤ教指導者たちは、人々に、そんなことをしていては、神の国に、入れないと、思想的圧力をかけていた。

そこで、イエスは、その彼らの、偽善的態度に、もし、神の国があるのなら、彼らこそ、貧しい者こそ、入るべきであるというのだ。

あまりに、イエスの言葉は、激しい。
それほど、当時、ユダヤ教の指導者というものたちが、奢っていたのである。

しかし、マタイ福音書は、ユダヤ教に迎合する。
ゆえに、イエスの激しい言葉を、中和させるために、ユダヤ教的な言葉遣いに、変更し、当時の、ユダヤ教の宗教的敬虔主義の伝統に、属するように、編集された。

その中和させる、言葉の象徴が、受け継ぐ、という、言葉である。
ユダヤ教で、よく用いられた表現である。
選民イスラエルの遺産を受け継ぐという、趣旨をはらむ。

田川氏は、マタイ教団は、ユダヤ教の説教的産物であり、その種の敬虔主義を受け継いでいるという。
更に、その伝統は、前一世紀、「ソロモンの詩」と呼ばれる、一群の詩を作った、敬虔主義からのものであり、更に、それを、継承するのが、クムランのエッセネ派であるという。

イエスは「貧しい者」に「霊において」という句をつけて精神化することはしなかった。
田川

それでは、イエスは、何を言ったのか。

イエスは、貧しい者、飢える者、泣く者、と、並べておいた。
飢える者とは、貧しさの、具体的な貧困の、問題である。

更に、泣く者とは、貧しさが、社会的抑圧としてあるということだ。

現実を、見た、イエスの発言を、宗教指導者、その他、諸々の、宗教の太鼓持ち知識人たちが、精神主義を掲げて、いいように、解釈するのである。

要するに、反吐が、出るような、説教である。

イエスは、貧しさに、ある者の生活を、徹底して見たのである。
そこにある、とんでもない、苦痛と、苦難と、悲しみである。

生活苦のない、金持ちは、幸せであると、言えば、貧しい人は、死ぬしかなくなる。

貧困が、苦痛の原因であることを、知りつつ、イエスは、声を荒げて、いうのである。
貧しい者を、真綿で、絞めるような、説教では、救われない。更に、精神主義でも、駄目。それは、貧しい者の、苦痛を知るからこそ、声を大にして、もし、神の国があるならば、貧しい者、幸いという、以外に、方法は無いのであると。

どうしようもない、現実という、世界。
その中で、宗教というものが、如何にあるべきか・・・

イエスは、私には、寝る穴も無いと、いう。
それは、自ら、貧しくならなければ、貧しい人の心に、声など、届かないのであるということ。

ご大層な、建物を建てて、ご立派な衣装を身につけて、司祭や、牧師が、壇上から、説教をするような、ものが、キリスト教ではないということ、である。

アメリカでは、テレビ伝道師という有名、牧師たちが、登場して、説教を垂れる。
彼らの生活は、如何なるものか。
神を、売り物に、十分な、蓄えを持ち、豪華な生活をして、悠々として、神の国、云々と、ほざく。

イエスとは、程遠いのである。

そして、神、神よと、祈り、大袈裟に、跪き、上手に芝居をして、信者、会員を、増やし、政治的権力まで、有するという。
イエスが、聞いたら、泡を吹くような、行状である。

聖なるもの・・・
そんなものを、持ち合わせる、キリスト教徒が、この世界の、どこにいるのか。

マザーテレサか・・・
カトリックの、広告塔として、活躍し、死後、即座に、聖人の手前の福者に、格上げされた。
彼女は、此の世で、すべて、褒美を得た。

そのような、大々的なことで、イエスは、善なる行為を示せとは、言わない。

イエスの、絶望は、如何なるものか。

ちなみに、マザーテレサのような活動をしている、シスター、それ以外の女性たちは、数多くいる。
何故、マザーテレサだけが、あれほどに、有名になり、傲慢不遜な説教が、出来たのか。
それを、よくよく、考えてみるとよい。

まさに、聖者を演じる、役者のようである。

修道会を立ち上げて、ローマ法王の、認可を得る。
何故、個人的活動と、しなかったのか。
寄付は、受け取りません。
しかし、何故、莫大な寄付が、集まったのか。

要するに、カトリックの、逆転挽回の、役割を負ったのである。
カトリックの、聖人となるべく、彼女は、祈り、活動した。
イエスや、マリアに化けた霊の、仕業だとは、知らない。

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2010年06月29日

神仏は妄想である 288

実際、イエスはくどいほど、「だから私は汝らに言おう」と繰り返す。しかもそれは、きわめて断言的である。イエスがこのように自分の判断を断言的に主張しうる根拠は何なのか。―――先に結論を言っておけば、このように、根拠は何なのか、と問う問いこそが、多くの場合、思想的自立をつぶしてしまう。
田川

しかしまず、ここでは、福音記者マタイがイエスの反逆の姿勢を、再度どのようにうまく正典的信仰の中に組み入れていったか、という巧みな処理の仕方を知っておく必要がある。さもないと、イエスがせっかく、しかし私は言う、と叫び出さなければならなかった理由も、マタイ的正統意識の中に吸収されて、わからなくなってしまう。
田川

社会が、正しいと、決めたこと、そして、社会通念上の、常識というものがあれば、それなりの、根拠、権威がなければならない。
しかし、イエスは、言う。
私は言う、と。

イエスは、ユダヤ教の、律法と、対立した。
それは、イエスが、最も、嫌った、偽善があるからである。

最も、古いマルコの福音は、イエスの、事跡を中心に描くが、マタイは、違う。
イエスの行動も、教えの、例示でしかない。
そして、更に、ユダヤ教の、律法主義を、権威として、イエスの、律法批判を書き入れている。

反対命題、アンチテーゼを、あえておくのである。

意図的に、書かれた福音なのである。

マルコの場合は、抽象的な、教え、ではなく、イエスの発言の、一つ一つが、具体的場面に即して、書かれる。

だが、マタイは、意図的に、イエスの教えの、中心的内容を、十分に展開する。

マタイ教団は、ユダヤ教と、決別して、キリスト教の独自性を確立する必要があった。
強烈に、旧約聖書の批判をする、イエスを、教祖として、掲げなければならないという、意図である。

イエスの口から、天地が過ぎ去るまで律法の一点一画たりとも過ぎ去ることはない、と、律法の絶対権威を主張する、彼らが、イエスの、律法批判を、立て続けに、書き入れる。

とても、努力したのである。

そして、マタイ教団は、イエスの言葉を、通して、ユダヤ教の権威を、示しつつ、新しい、イエスの教えに、義、という、命題を置いている。

田川氏と、少し違うが、私は、とても、狡賢い連中が、集い、教団として、ユダヤ教の権威も、利用し、更に、新しい、義としての、つまり、ユダヤ教を発展させた、キリスト教の原型を、作り上げるという、作業である、を、目指したと、考える。

自分たちの、正統性を、イエスの言葉を通して、語るのである。

であるから、実在の、イエスは、置物である。
更に、イエスの、本意ある、教えが、実に、不明確になる。

この、作られた、マタイの福音を、解釈、解説する、者たち、つまり、司祭、牧師たちの、手前勝手な、言葉の羅列は、詭弁を通り越して、嘘なのである。

どうにでも、解釈出来る。
どうにでも、人を騙せる。
経典とは、そのようなものである。

私が、律法や預言者を破壊するために来た、などと思ってはならない。破壊するどころか、成就するために来たのである。
マタイ 5章

汝らに告ぐ、もしも汝らの義が律法学者、パリサイ派の義よりも大きいのでなければ、汝らは決して天の国にはいることができない。
マタイ 5章

権威ある、律法を、成就するために、イエスが来た、という、とても素晴らしい、企画を、考えたのである。

マタイ教団の、律法学者たちは、厳格主義であった。

今も、昔も、宗教家、それに関連する、者どもは、皆、当時の、律法学者や、パリサイ派なのである。

規則を、考案して、信者に、守るように、強制する。そして、信者を、騙して、我が物とし、支配する。
宗教家の、支配力は、甚だしい。

つまり、マタイ教団は、
イエス・キリストは旧約律法を破壊するためにではなく、成就するために来たのだ、と言う時に、一方では、キリスト教内部で、キリスト教信仰は旧約律法の終わりであり、破棄である、と主張するもの達「たとえばパウロ主義者」に対して論争的に、他方では、キリスト教外部のユダヤ教徒から、お前たちは律法を破壊しようとする破壊主義者である、とする論難に対して護教的に、このように言い切っているのである。
田川

もう一つ、イエスの言葉に、
律法の戒命の最も小さいものの一つでも破棄し、また人にもそうするようにと教える者は、天の国において最も小さい者と呼ばれ。そういう小さい戒命までもみな実践し、また人にもそうするように教える者は、天の国において大きな者と呼ばれよう。
マタイ 5章

この「天の国において」という句は、「天の国という尺度から見れば」という趣旨である。つまり、天の国の尺度から見れば最も小さい者というのは、救われて天の国に行く可能性の最も小さい者、という意味である。要するに、そういう人間のみが救われて天の国に入ることなどありえないよ、と断罪しているだけのことである。
田川

これがまた意図的キリスト教の基礎的な視点であるのだから、二千年にわたって全世界のキリスト教がこのマタイと、それから律法の破棄を主張するパウロとを、新訳正典の二本柱としてかかえつづけることができた、というのは、一種の詐欺である。
田川

実は、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネという、四つの福音書は、皆同じ、価値観ではない。
それぞれが、別の価値観をもって、イエスに対している。

更に、キリスト教は、主に、パウロ主義が、教義となるのである。

パウロの、矛盾を説けば、キリスト教の、矛盾が、解る。

さて、これからも、続けるが、現代、天の国というのは、もはや、死語になりつつある。
神の支配する場所である、天国という、場所・・・

イスラム教も、神が、作られた神の国を、天国と言う。
更に、ユダヤ教も、である。

同じ神から、発しているが、それぞれの、天国は、別々である。
不思議だ。

ユダヤ教は、イエスを、メシアとして、認めない。
イスラム教は、イエスを、預言者の一人としている。
そして、イスラム教は、最後の預言者が、ムハンマドである。

それぞれが、いかに、頑固で、偏狭であるかは、追々書き付けてゆく。
そして、それらは、すべて、妄想である。


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2010年06月30日

神仏は妄想である 289

イエスは、新しい、福音なのである。
つまり、それを、象徴するのが、洗礼者ヨハネである。

律法の時代は、ヨハネで、終わっている。
だが、相変わらず、律法の支配が、強固に続いているのである。

因習的な、律法に従って、何になるのか。
イエスの、疑問である。

三千年ほどの、長きに渡り、律法は、どんどんと、形骸化して、いる。しかし、それを、主に、人々を、脅し続ける律法学者たち。

心の入らない、律法の行為を、いくら繰り返しても、しょうがないのだと、イエスは、激昂する。

だから、初期のキリスト教団が、護教論的に、イエスの言葉を、是正しようとした、付け足しと、解するのが、自然である。

天地が過ぎ行く方が、律法の一点一画がくずれるよりも容易である。
と、イエスが、言う、ように書いたのである。

彼らはイエスと違って、まだまだユダヤ教の支配体制の中で自分たちの安住の場所を見出そうとしていた。だからユダヤ教律法とまっこうから対決するようなイエスの発言をそのまま正直に継承したくない。何らかの仕方で誤魔化す必要がある。それで、今やもはや律法の時代は終わったのだ。我々は現実にそういう時を生きようとしている、というイエスの発言の伝承の直後に、それと正反対の方向のせりふをつけ足したのだろう。・・・
田川

だが、問題は、それでは、ユダヤ教と同じになる。
イエスの教えより、ユダヤ教の一派にしかならない。

とすると、それでも、自分たちの方が、よほど厳格に行い、更に、相手に対する、優位性を、主張するしかない。
マタイ的キリスト教としての、ユダヤ教対策である。

そこで、イエスに、私は、破壊するためではなく、成就するために、来たと、言わせる。
律法、予言の完成者こそ、イエスであるという、訳である。

だから、驚くべきことに、マタイ教団は、ユダヤ教に対して、我々の方が、正統なユダヤ教であり、より大きなユダヤ教であるという、自己主張をしたのである。

こうなると、正統争いである。

伝統的、ユダヤ教の、義、より、大きな義、を、有するという、マタイ教団である。

これは、徹底した批判者の批判を骨抜きにして後世に残す場合に用いられる手法である。
田川

これに対して、学者でさえも、イエスの倫理は、ユダヤ教の服従の倫理の徹底化であった、という解釈をするものもいる。

イエスは、メシアである前に、当時の、鋭い批判者であった。
その批判に、立ち向かうことが、出来ないほどである。

イエスの、行動に随所に見られる、律法破りは、見逃せない。

生きた人間の言葉を、イエスは、叫んだといえる。
反逆精神の、最たるもの。

因習や、迷信を廃する、姿勢。
歴史は、イエスから、新しい時代が、はじまったと、西暦を、作った。
確かに、イエスは、新しい時代の、幕開けだった。

そして、古い時代の人々に、殺された。

何より、一番最初に、犠牲になるのは、真実というものである。

マタイ教団は、成功したか。
否である。

イエスの反逆精神を正統主義の中にかかえこむことはついに不可能であった。
田川

だが、イエスの、「しかし、私は言う」は、何の論理操作もなく、鮮明に鳴り響く、と、田川氏は、言う。
私も、その通りだと、思う。

旧約律法がその権威の最重量をかけて法的規定で人間を処理しようとしてきても、「私は断乎宣言する」の一言でもってはねのけられる。
田川

ここで、田川氏の、力強い、言葉がある。
この「私」はいわゆる客観的真理に対するいわゆる主観的確信の「私」ではない。「私」とあれば、主観とか「主体」とか言い換えていればすむ、と思い込んでいるのは、近代主義的な哲学者の安易な発想にすぎない。
田川

これは、生きた人間が、叫びだすときの、私、なのである。

私、といえば、意識過剰、主観的確信を、絶対化して、他人に押し付ける心情的ラディカリスムだ、などときめつける者たちは、結局、法と秩序の権威のかげに逃げ込んで終わってしまう。
と、田川氏は、言う。

続けて、
むしろ逆なのだ。明らかな人間的事実をさし示してものを言う時に、その事実を見ているのが自分ならば「私は言う」と叫ぶことで十分なのだ。その「私」は、それ以上何ものによっても権威づけられる必要はない。「しかし」という反逆に裏打ちされている限りは、そこにイエス自身の「私」の権威がある。我々もまたそのように言い切ることができる時、そこに我々の力がある。
田川

だから、私も言う。
今、新しいイエスや、新しい時代の、先駆けを、説くものが、現れれば、過去の考えの人々に殺される。

今、イエスが、現れれば、今の、キリスト教徒に、殺される。
すでに、それらの、教えは、因習になり、迷信に、堕落しているからである。

キリスト教徒が、勝手に、製作した、数々の、形式、特に、カトリックにおける、秘跡というもの、すべて、後世の人たちが、勝手に、作り上げて、信者の支配と、した。

聖典と、認めた、聖書の中から、抜き出して、それらを、構築した。
イエスは、それらを、何一つ、定めていない。

神が愛であるように、互いに愛し合うことが、第一の掟である。
違う。
私が愛を行為するように、あなたたちも、互いに行為しなさい、である。

人間を差別し、改宗しない者を、殺戮し、果ては、民族を滅亡させ、戦争を仕掛け、植民地にして、その利益を奪い、白人主義を謳い、世界を混乱に至らしめたのは、キリスト教国である。

どれほど、懺悔しても、救いは無い。
何一つ、イエスの、教えを、行為していない。

西欧の歴史を、見れば、一目瞭然である。
戦いに、明け暮れた、歴史。

イエスの、教徒ではなく、キリスト教徒なのである。

イエス不在の、キリスト教という。

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2010年07月01日

神仏は妄想である 290

ここで、少し、当時の時代背景を、描くことにする。
更に、話が、横道にそれても、それは、必要なことである。

当時の、ユダヤ教の姿は、想像以上の、ものだった。
それは、支配者階級である。

戒律主義、差別的偏見、物欲のとりこ、傲慢の極み、傲慢の塊である。
イエスは、彼らに対して、徹底的に、攻撃し、鋭い批判を展開した。

勿論、だからこそ、最高刑の、磔刑を受けたのである。

イエスは、民衆の人気者、大変な支持を受けた。
何故か。
それは、虐げられた人々の中に入って、行ったからである。

ユダヤ教の、支配者層は、政治的支配者でもあった。
その、支配者層によって、搾取され、差別された、人々の、この世での、救いは無い。

当時は、更に、ローマの支配の中に、組み込まれて、民衆は、二重支配に、苦しめられていた。

救いようの無い、民衆に、イエスは、心から、同情した。
と、共に、本来は、民衆のために、現世の救いも、与えなければならない、役割をするべき、ユダヤ教の支配者層は、皆無だった。

現在の、キリスト教の、支配者層に、実によく似ている。

現世の生活にも、救いが無い、状態を生きる人々の、救いは、矢張り、神だった。
だが、その神の側につくのが、律法学者であり、パイサイ人である。

イエスは、色々な、差別から、人々を、解放した。
当時のユダヤ人ほど、差別感情の激しいものはない。

隣国サマリア人、異邦人、婦人、子供、貧しい人々、心身障害者、らい病、取税人とは、ローマの委託を受けて、税金を取り立てる者である、更に、遊女たちである。

選民意識から、出た、これらの差別は、まことに、根の深いものである。

マルコ福音には、
私が来たのは、健康な人たちのためではなく、病気の人たちのためである。義人を招くためではなく、罪人を招くために来た。

差別されていた人々は、罪人として、扱われていたのである。

恐ろしい、排他的主義である。

歴史は、それが、逆転して、ユダヤ人迫害に至ることを、教える。

自分たちは、神に選ばれた者である、という、意識過剰は、甚だしく、イエスの、怒りは、それに向けられた。

実際、イエスは、宗教教団を作る意思は無い。
ユダヤ人の、意識改革であった。

当時の、イエスの世界というものは、実に、狭いのである。
地の果てとは、どこまでのことを、言ったのかは、誰にも、解らない。
しかし、イエスは、ユダヤ教の地域の、地の果てを、指していたのである。

現在の、全世界のことではない。

傲慢とは「自分を義人だと自任して他人を見下げる」ことであるが、それは神との垂直な交わりを阻害するだけではなく、他人との平等な交わりをも破壊する。ゆえにイエスは傲慢という非人間化からの開放を行ったのである。
キリスト教新講 由木 康

そして、偽善からの、開放である。

イエスは、罪人と、言われた人々、貧しい人々、病人に対しては、実に、哀れみ深く、対応したが、律法学者、パリサイ人には、容赦なく、大変厳しい態度で、臨んだ。

その、彼らに対して、
外側は美しいが、内側は、死人や骨、あらゆる不潔なもので一杯である。
外側は、人に正しく見えるが、内側は、偽善と不正とで、一杯である。
と、攻撃した。

その激しさは、生半可なものではなかった。
イエスを、亡き者にしようと、彼らが、策を練るほどであった。

一体、このような、人間が現れた時に、既成の権力を持つ人たちは、どのように、対処するだろうか。
暗殺を考える。

更に、イエスは、ユダヤ教の、神にも、その、攻撃を向けるのである。
というと、おかしい、イエスは、神の子であろう・・・
いや、神の子は、ユダヤ人、すべての人のことである。

私の父と、イエスがいうところの、父が、ユダヤ教の神のことだろうか。

ユダヤ教の、神とは、アブラハム、イザク、ヤコブ、ヨハネの、神である。
更に、モーゼの神である。

磔刑の、イエスは、最後に、神よ、神よ、私の神よ、何故、お見捨てになるのですか、と、旧約にある、言葉を、投げ掛ける。

実際、イエスの神と、旧約の神、ヤハゥエ、エホバは、違う。

イエスの、時代になると、神は、沈黙したままである。
あの、嫉妬と、怒りの神が沈黙したのである。

イエスは、多く神という、言葉を、用いない。
天の父、私の父、である。

当時は、神の名を呼ぶことも、注意に、注意した。
それなのに、私の父と、言って、憚らないのである。

聖書研究の、限界が、見える。
旧約の神と、イエスの神は、別物である。
そして、もし、同じならば、イエスも、魔神の仲間であるということだ。
ヤハゥエとは、霊である。
ユダヤ民族の、神と、名乗る霊なのである。

私以外を、拝んではならない、という、魔神であり、化け物の霊である。

イエス以後、その神が、ユダヤ民族に、対して、何事か、指し示したか。
否である。

ユダヤ教は、旧約の、契約から、未だに、一歩も、出ていない。
だから、今でも、メシアの、出現を待つ。
そして、それは、永遠に訪れないのである。
それは、すべてが、終わったからである。


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2010年07月02日

神仏は妄想である 291

マタイ福音書の、冒頭では、イエス・キリストの系図というものが、書かれる。

アブラハムはイサクを生み、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちとを、
ユダはタマルによってペレズとゼラとを・・・・

エッサイはダビデ王を生んだ。

イエスが、ダビデの、子孫であり、約束された、キリスト、メシアであることを、説得するのである。

聖書研究では、アブラハムの名を記したのは、神がアブラハムに約束された、全人類への祝福が、キリストによって、与えられたことを、示すと、いう。

ヤコブはマリアの夫ヨゼフを生んだ。
キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった。

だから、イエスは、ユダヤ教の、完成者なのであると、言いたいのである。

しかし、イエスは、聖霊によって、身ごもったのであり、血統ではない、はず。
マリアの子であり、ヨゼフの子ではない。

マタイは、ダビデのすえである、ヨゼフが、妻マリアから生まれる子の、父としての資格を持つことによって、この子こそ約束された、メシアはダビデのすえから出るという、預言を成就するものでると、教える。
とは、聖書研究である。

血の関わりより、聖霊、つまり、神の意思の方が、強いのである。

あまりの、こじ付けに、唖然とする。

処女降誕は長々と書きつられた系図を無効にしてしまう。その意味においても、処女降誕の記事は不可解である。
聖書の読み方 北森嘉蔵

ところが、北森氏は、とんでもないことを、書く。
それこそ「連帯化」の真理にほかならない。連帯化は、一方ではAがBと一体化し内在化することであるが、しかし他方ではAはBから超越して他者性をもっていることを必要とする。処女降誕はその超越的他者性を示すのである。

系図によって人間と一体化した救い主イエス・キリストは、その系図とは無関係な処女降誕によって、人間から超越した他者であることを示すのである。

救いとは、罪びとから超越している聖なる神が、罪びとの世界に内在して罪びとと一体化することによって成り立つのである。

上記、勝手な言い分、勝手な解釈である。
全く、説得力がない。
超越的他者性・・・
詭弁である。

更に、その蒙昧は、続く。

もし罪びとと一体化するだけであるなら、それは罪びとを現状肯定することになってしまうであろう。救い主が罪びとから超越した聖なる存在であることによって、救いが罪びとの現状肯定に終わらず、その現状批判と現状変革とを伴うことになるのである。

これが、神学者である。
系図を取り上げた、マタイの解釈ではなく、希望的願望を、書き上げるという、愚である。

更に
はじめから罪びとと一体化しているだけの存在なら、救いと称しても、結局は「すねに傷持つ身同士」」で傷をなめ合っているようなことになるにすぎない。
と、なる。

この人は、自分が、矛盾しているとは、全く考えていない。
イエス・キリストが、メシアであるという、前提に立ち、解釈するからである。
つまり、信じている。
信じているから、とんでもない、飛躍したことも、平然として、書く。

イエスの、系図の解説を、淡々とするというならば、解る。しかし、そこに、すでに、イエスを、メシアであると、信じることが、前提にあるから、全く、説得力がない。

イエス在世当時の、律法学者と、変わらない。
今、イエスが、目の前に現れると、偽者だと、弾圧するであろうことは、難くない。

責任を負うのは、相手の現状に対する批判と変革とを伴う。この批判と変革は、相手からの超越性によってのみ成り立つ。完全に内在化してしまえば、相手を批判することも変革することもなくなる。
北森

通常の、問題を解決する、手立てとしてならば、それを受け入れられるが、イエスが、メシアだということの、解釈とすれば、受け入れることは、出来ない。

キリストは罪びとの責任を負って十字架の刑罰をうけ、罪びとをその刑罰から救い出す。それは完全な救いであって、人間のがわでのいかなる条件をも要求しない。無条件の救いである。それが系図の中にふくまれるメッセージである。
北森

ここでは、人間を、罪びとであるとする、前提がある。
人間は、罪びとなのである。

しかし、そのキリストは本来的に罪びとであるのではなく、罪から超越した聖なる存在であるままで、罪びとと連帯化するのである。この超越性が処女降誕の中にふくまれるメッセージである。
北森

メシアとして、作られてゆく、イエスであるということだ。

処女降誕を信じることが、クリスチャンの、まず最初の試み。

ユダヤ教の、背景を、見回して、イエスの存在が、アブラハムから、ダビデにつながる、系図の上にある存在を言い、それが、旧約に約束された、メシアであるという、段取りを、マタイ教団は、その、権威と共に、書き上げなければならなかった。

イエスを、メシアとして、作らなければならない、使命があった。

処女降誕だけでも、十分に、説得力があるものだが、ユダヤ教、ユダユ人を、意識しての、記述である。

信仰宣言は、我は全能の神を信じ、乙女マリアから生まれ、死から甦る、主イエスを、信じます、である。

最低限の、それは、信仰宣言である。
が、二千年前の人には、通ずるが、今は、無理である。

神話として、生きているというならば、それもまた、善しであるが、それが、事実であるというのは、あまりにも、無理がある。

それは、完全な救いであって・・・
何を根拠に、完全な、救いというのか。

まさに、妄想というしかない。


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2010年07月03日

神仏は妄想である 292

処女降誕とは、イエス・キリストが男女の性的結合によらないで生まれたということである。これはまさに「異象」である。人間が男女の性的結合によって生まれるという自然現象を破るものとして、異常な現象である。そこで、もし処女降誕がこのような異常な「現象」が起こったと承認することを意味するなら、それは信仰の告白ではなくなる。
北森

奇跡についての、説明をしているのだが、それが、宗教信仰の現象の奥にある、本質を見るものであるという。

宗教信仰は本来「本質」の領域にかかわるのであって、「現象」の領域にかかわるのは科学ないし常識である。
北森

奇跡は、意味の領域に属する。
北森

つまり、その、内容のもつ、宗教的意味であるということ。
それを、決断によって、受け入れる者にとってのみ、生きてくる。

それでは、信じる者だけが、その宗教的意味を、知るということになる。

私は、処女降誕という、奇跡など、どうでもいいのである。
イエスという、人間が、当時の、ユダヤ教の中にあり、その、偽善を暴き、弱い人々、更に、罪人といわれた、人と、真っ当に対座したということが、魅力なのである。

上記、簡単に言えば、信じるか、否か、ということである。

奇跡は、信仰されるものとして「ある」のである。
北森

勿論、信じる人に、信じるなということは、出来ない。
いわしの頭も、信心からである。

その、いわしの頭も、信心というものと、別であると、屁理屈を書き連ねる、根性が気に入らない。

たとえば生物学的に処女降誕に類する現象が証明されたとして、それを承認することが処女降誕の信仰告白であるというなら、すべての人間が信仰の決断なくして、キリスト教徒となり得るであろう。・・・普遍的に認識される事に対しては、信仰は要求されないからである。
北森

処女降誕を、あくまで、奇跡として、見ることが、信仰であり、更に、飛躍して、イエス・キリストの本質的な意味、それは、イエス・キリストの愛に、他ならないと、語る。

実に、恐ろしい、理論である。

イエス・キリストが、処女降誕で、生まれたということに、意味を、持たずとも、イエスという、人間の教えを、受け入れることが、出来る。
どうしても、そのような、奇跡を、意味ある、本質として、受け入れると、考えるという、錯乱である。

更に、飛躍することは、イエスの、愛は、どのようなものであったか。
それは、愛に価しない者に対する愛であった、と、語る。

人間は、愛に価する者だけを愛するのである。したがって、愛に価しない者を愛することは、人間の自然的ありかたを超えたものとして、まさに奇跡である。
北森

罪びとを愛するイエス・キリストの愛は、自然的人間にとっては奇跡である。
北森

一体、この人は、何を言っているのであろうか。

これが、神学者といわれる、人の書き物である。

更に、処女降誕に対して、愛に価しない者への、愛に、真っ向から対立するのは、性愛である。性愛は、それが健全なものであろうとするなら、必ず愛に価する者へ向けられるはずである。
性愛は本質的にいって、愛に価する者への愛である。
北森

であるから、処女降誕は、人間の自然的なありかたを超えた「本質的な意味」としての「罪びとへの愛」を語るためのものである。
と、なる。

そのような、意味としての、処女降誕であるというのである。

聖書が、語りたいことは、イエスの、本質的な、意味としての、罪びとへの愛という、奇跡を、処女降誕の奇跡で、語るということなのであるという。

ここまで、偏狭になれば、第一級の、神学者なのであろう。

人間を、初めから、罪びと、であると、断定して書く。
これが、キリスト教の、原罪説である。

これも、信じるか、否かである。

この世に、生まれたこと、自体が、罪びと、なのであるという、妄想である。

聖書が、語りたいことが、云々として、語るが、彼は、その証拠があるのか・・・
ある訳が無い。
そのように、教えられたのである。そして、その、教えを、信じたのである。

そして、信じる者は、騙される。

私は、処女降誕の奇跡から、イエスの、愛の奇跡、つまり、愛するに価しない者への、愛というものがなくても、イエス・キリストの、存在を、否定しない。肯定する。

神学というものが、学問に価しないというのは、これを、読んでみて、よく、解るのである。

つらーっとして、読んでいると、そんなものかと、思われるが、このような、妄想を、彼らは、撒き散らすのである。

そして、驚くべきは、原罪というものである。
生まれながらに、罪人であるという、意識。それを、持てという。
それも、信仰の、世界の問題である。

生まれながらに、罪人という、意識を、持たなければ、キリスト教徒になれないのである。

自虐に、他ならない、考え方。
一体、誰が、考え出したのか。
実に、おぞましい、自虐感覚である。

これを、考え出した者、当然、自虐感覚に、囚われたのである。
それを、教義とした、キリスト教である。

宗教の、蒙昧が、明確に、現れた。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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