2009年07月31日

神仏は妄想である 220

人間行動進化学の観点に立つと、人間は「利己的」であること、そして、われわれが行う各種の利他行動も実は「自分の利益」につながっていることが明らかになる。愛情や友情、良心といった、利他行動の元になる感情作用は、それを持つことが「自分の利益」になるがゆえに人間が備えた、そのための装置である。その装置に動かされて各種の利他行動をすることで、われわれは、人間関係、社会関係を通じて「自分の利益」を確保して暮らしている。
内藤淳 進化倫理学入門

宗教によって、道徳が、成り立つというのは、嘘なのである。
人間が、生きるための、進化によって、得た、理知的な、行動なのであるということが、解る。

神や、仏を、持ち出さなくても、十分に、人間は、道徳的に生きることが、出来る。

道徳とは、
一定の行為を「善い」「すべき」こととし、一定の行為を「悪い」「すべきではない」こととして、それに従って行動するようわれわれに教え、命じる行為規範である。その中には、個人的な生き方に関する信念・信条(個人道徳)が含まれる場合もあるが、一般的には、対人関係や社会関係の中で「やっていいこと/いけないこと」を、「善」「悪」を通じて示す社会道徳がその中心と考えられる・・・・
内藤淳
ということなる。

宗教は、個人的、生き方に関する、信念、信条の内に入る。
それを、肥大させると、とんでもない、全体主義に陥る。

特に、一神教の、キリスト教と、イスラム教などは、信仰の対象が、違うということだけで、対立し、争う。果ては、戦争も、辞さない。
今に至るまで、中世の、十字軍の形相がある。

更に、イスラムのムハンマドは、武器により、信仰を強制もしたのである。

更に、イスラム法というもので、支配するという、愚行を今も行う。
信じられない、蒙昧が、まかり通るのである。

それでは、仏教の道徳である、慈悲の行為は、どうであろうか。
何一つ、今は、実行されていない。

仏教は、上座部から、大乗にいたるまで、何一つ、慈悲の行為を、実践していない。
また、仏教系の新興宗教も、である。

それらは、皆、教団に向けて行われる。また、行われるように、仕向けるのである。
布施の行為は、広く、多くの人々に、行われることだが、それらは、皆、教団に向けられて、莫大な布施を、教団が、頂くのである。

小乗が、行われる、東南アジアの国々の人も、広く多くの人に、タンブンという、布施行為をするのではない。皆々、寺院にタンブン、布施をして、来世の幸せを願うのである。

教えは、歪みっぱなしである。

日本の、新興宗教を見れば、更に、それに、拍車がかかり、信者や、会員から集めた布施、浄財を、土地取得、建物を建てることに、使われる。

信者、会員から得た、金で、本尊を作り、お守りや、護符を作り、更に、信者や会員に、買わせて、利益を得るという、その悪度さは、計り知れない。しかし、信じた者は、騙される。
嬉々として、布施をして、金を、教団に納めるのである。

少し、冷静に、教団を見ていると、そんなことは、すぐに解ることであるが、信じてしまうと、めくらになり、見えなくなる。

更に、恐ろしいことは、社会道徳という、基本的な道徳行為も、忘れ、教団が教える、規範に従い、行動する。

例えば、政党を持つ、宗教団体は、憲法に違反しているが、政党を持たない宗教団体も、政治家に、信者の、票を取りまとめるという、選挙権の自由を侵害する。

更に、政治家に、政治献金をする、宗団もある。

政治家も、票のために、宗教団体を利用するという。

甚だしいのは、選挙運動も、信仰の功徳を得るための、行為だと、教える教団である。

時の、権力者が、帰依する宗教を保護するというのは、歴史的事実であるが、これほど、時代が、進化し、政治にも、理想思想が、現われたのであるから、宗教と、政治は、明確に、分かたれなければならない。
更に、日本では、憲法に、政教分離が、謳われているのである。

宗教が、政治的になるということは、宗教の堕落である。
宗教は、人間の、心と、魂の、分野における、他が侵すことの出来ない、極めて、情緒的な世界である。

宗教団体自らが、それを、捨てるとは、何と言うことか。
嘆かわしいにも、程がある。

さて、
道徳とは、社会生活の中で、長い目で見てわれわれがしっかり利益を確保していくための、一種のセオリーを表している。
内藤淳

「嘘」をはじめ、盗み、人殺しなど、道徳的に「悪い」行為は、たとえその場でそれをして得するように見えても、原則として「しない」方に「自分の利益」がある。言い換えれば、そういうことをしないのが、社会生活の中で「自分の利益」を守っていく方法なのであり、それゆえ嘘や盗みは「すべきではない」。そうやって社会の中で生きていく上での「利益獲得の方法」をわれわれに指示してくれる「セオリー集」が道徳である。
内藤淳

宗教の教えは、道徳ではなく、教えの、強制である。
それには、罰というものが、用意されている。
進化倫理学の、道徳は、罰則はない、ただ、自分の利益を失うだけである。
しかし、宗教の場合は、妄想の、罰というものが、生まれる。作られる。

地獄に落ちる。

宇宙には、地獄という空間は、無い。
地獄というのは、人の想念が、作り出すものりである。
勿論、天国、極楽というものも、人の想念が作り出す、幻灯である。
要するに、妄想である。

地獄、極楽、天国というものも、妄想の産物。人の想念により、蜃気楼のように、現われる、幻である。

西方浄土というが、西方に行っても、果てない、宇宙空間が、広がるだけである。

天国といっても、単なる、教会の上空に、信者が、想像した、空間が広がるのみである。

霊界というものも、神社仏閣の上空、一メートル程度の場所に、あるものである。

馬鹿馬鹿しくて、話にならない。



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2009年08月01日

神仏は妄想である 221

道徳というのは、結局のところ利害損得で成り立っている。道徳に従って「すべき」ことを為し、「すべきことでない」ことをしないのは、「自分の利益」になる。もちろん、現実には、必ずしもその通りにならず、泥棒したのに誰にもばれなくて丸儲けしたというケースも出てくるだろうが、原則として、道徳に従って行動することは「自分の利益」になる。と同時に、それは相手にとっても利益であり、このようにして、「私」にとっても「あなた」にとっても、自分が行為者の立場でも相手の立場でも妥当する「利益獲得の方法」として道徳は成立している。道徳とは、「自分の利益」に向けて動くようにできている人間が、血縁や互恵に基づいて集団を作り社会生活をする中で、まさにその目的を成就する、そのための行動の基本原則なのである。
内藤淳

その、道徳、それぞれの、利益を社会が、監視また、罰則を定めて、それぞれの、利益を守る、道徳の、補完を、法が、行うというのが、現代社会、法治国家である。

刑事、民事、共に、それらの法は、道徳を、補完する。

・ ・・われわれは、道徳を身に付け、「べし」「べからず」の意識を内面化する。もっとも、この点、進化倫理学では、人間はもともと先天的に道徳的な意識や感覚を備えているという主張もあり、道徳的に「こうすべき」という規範意識が先天的・生得的なものなのか、それとも個々人が後天的・経験的に身に付けるものなのかは、そこでの大きな論点でもある。
内藤淳

ただし、先天的とされる場合も、後天的な経験や、教育の影響は、絶大である。

ここで、もう一度、釈迦仏陀の、倫理観である、諸悪莫作衆善奉行という言葉を、振り返る。

般若心経、能除一切苦 真実不虚 のうじょいっさいく しんじつふこ、の、部分である。

一切の苦を取り除くことができる。それは、空想でも、幻想でもなく、ダルマ、法による、摂理である。ということになる。

この苦は、顛倒夢想、てんどうむそう、ということから、現われる、苦、である。

それは、社会を形成した時に、人間が望んだ、秩序のことである。

この秩序を維持するために考えられたのが序列です。この序列を制度化したものが階級や身分です。そして人種や性別や長幼や貧富や地位や身分などを縦の関係で分ける序列という思想が定着しました。しかしこうした序列という思想は後に差別の原因になります。
藤見紀雄 般若心経の思想


倫理という言葉を使用するにしても、釈迦仏陀の、倫理と、バラモンの倫理では、全く違う。

「倫理」という言葉が使われているときその「倫理」がどんな思想に基づいているかで内容が異なるのです。近代以降の国々はベンタムの思想による「倫理観」の影響を強く受けています。このように「倫理」の内容も社会的な観念の影響を強く受けて様々であるために釈迦牟尼は「倫理」の根拠を「ダルマァ」に求めたのです。
藤見紀雄

進化倫理学では、宗教というものを、一端、置いて、倫理学という学問から、研究されている。

それぞれの、地域や、国、民族による、倫理というものは、相違する。

進化倫理学には、大いに、共感するが、更なる、追及を求める。
宗教に変わる、学問としての、成果を期待する。

シッダールタの誕生したバラモン教の社会でも人間の尊卑を測る物指しは獲得された権益に置かれていました。釈迦牟尼の提言はその社会の思想に対しての反逆だったのです。
藤見紀雄

価値の変換を測った仏陀は、理性と論理に裏打ちされた、知恵、般若波羅密多、パンニャーパーラミータである。

つまり、
現実を丁寧に観察し、帰納的な思考をした上で倫理的な妥当性を検証し、倫理的な妥当性に添った思想を演繹することによって現実的な提言を繰り返したのです。
藤見紀雄
ということになる。
顛倒夢想こそ、人々の福利を、妨げる元凶である。
つまり、それは、観念の中の、正常な心象を破壊するものだからである。

進化倫理学で言うところの、利益とは、対等の原理であると、私は、判断する。
自他を差別しない。
つまり、利他行為も、そこによって、行われる。

序列の原理をはじめとした、様々な、歪な原理の中では、利他行動も、利益を持つものとは、思われないのである。
対等であるから、こそ、利他行動も、利益を獲得することが、できるのである。

対等の原理というのは自他を差別することなく福利の保証を一元化することによって実現する思想です。この思想はその社会を構成する人々が「自分のことだけを心配する気持ち」をもっている間は実現しません。しかしこのような社会の形を決定する「原理」というのは人為的な原理ですから自然の法則ではありません。このような原理は情報によって広められたある種のヴァーチャルリアリティーに過ぎません。人々がこのようなヴァーチャルリアリティーによって形成された知識に見切りを付ければ序列の原理に縋り付く謂われはなくなります。
藤見紀雄

恐ろしいことは、
人々をヴァーチャルリアリティーに誘い込むシミュレーターはそれを恰も自然の法則に従った至上の世界であるかのようなプロパガンダを用意して情報操作を行います。そして人々に自身で考えるよりは提供された情報を素直に記憶して他人より少しでも多くの知識を身に付けることが自分にとって最も幸福なことだと信じ込ませます。
藤見紀雄
である。

そして、
序列の原理というのは何時その基準が変わるか人間には判りません。ある序列の原理が別の序列の基準の序列の原理に変われば折角昇った序列も元の木阿弥になってしまいます。一つの文化の中でももて囃されている具体的な知識が別の文化においても有効であるか否かは判りません。この不安を解消することができるのは自他の差別をなくし、対等の原理を実現する外にないのです。
藤見紀雄
となる。

これが、般若心経の、空の思想なのである。

釈迦仏陀の、思想に基づいた、倫理観を実現することが、浄土なのである。

つまり、今までの、般若心経講義が、いかに、御伽噺の域を出なかったのかが、解るというもの。

現実逃避のような、説教に、明け暮れた、日本仏教愛好家たちには、そろそろ、退出していただく時期が来た。

私が言う、神仏は妄想である、は、まさに、彼らの、神仏である。
私は、神仏が、人間であることを、知っている。

釈迦仏陀も、人間に、仏を観たのである。
西方浄土など、あるわけが無い。

釈迦仏陀は、死後の世界のことについては、一言も、言っていないのである。

死後の世界は、死んでからで、十分であり、今は、今、目の前の、生きることを、生きるのみである。


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2009年08月02日

神仏は妄想である 222

「自由」主義をとる人に対しては「なぜ平等ではなく自由を社会の基礎とするのか」、「平等」主義に対しては「なぜ自由ではなく平等なのか」という反論がすぐに生ずる。これに対して「平等ではなく自由が大事」「自由ではなく平等が大事」であることを客観的に論証するのはなかなか難しく、そこには個人の価値観がどうしても関わってくる。そうなると、「正しい社会のあり方」を示すのは、「人それぞれの価値観」による主観的な問題となってしまい、それを超えた客観的な条件を見出すことができなくなる。
内藤淳

正しい社会とは、何かと、考える議論は、法哲学の領域で、正義論と呼ばれ、古代ギリシャ時代から、様々な、理論、主張がなされてきた。

自由と、平等という、価値を根本に据える、社会制度が、正しいと、言われた時期、今も、そうであるが、果たして、それが、正しいのか。

また、一時期の、共産主義という、理念も、今では、崩壊している。

自由な社会というのも、経済的、社会的不平等とつながりやすく、格差社会に、陥りがちである。
また、共産主義の、平等も、経済活動が停滞して、社会の、活力や、豊かさが、失われる。

そもそも、「個人が自分の能力と努力に応じた成果を享受する」というのは「正しさ」の重要な要素だと考えられるが、「能力に応じて、働き、必要に応じて受け取る」という理念はそれに反してしまう。そうした意味で、「誰もが平等である」ということ自体に、「正しさ」と衝突する側面があることは否定できない。
内藤淳

ここで、釈迦仏陀の、人々の福利という考え方は、より多くの人が、または、すべての人が幸福になる道ということである。

これに近い考え方が、最大多数の最大幸福という、原理を掲げる、功利主義である。

この功利主義は、19,20世紀に、多くの人の支持を受けた。

この、功利主義に対しても、批判がある。
その最大の批判は、多数の人の幸福の裏には、少数の人を、犠牲にするというものである。

それでは、釈迦仏陀の、福利にはならない。

そして、進化倫理学も、そこで躓く。

では、誰にとっても、利益的な社会とは、どんな社会なのであろうか。

そこで、内藤淳氏は、利己的という、原点に戻って、考えるという。

・・・大前提は、「人間は自分の利益に向けて動く」ことにある。この場合の利益が「生存・繁殖とそのための資源獲得」を指すことはそこで言った通りで、個々の人間が求める具体的な資源の中身は、お金だったり土地だったり地位だったりと多様だが、いずれにしろ人間は、そうした資源の獲得に向けて「利己的」に行動するというのがここでの話の原点である。
そんなふうに「利己的」な個々の人間にとって、「あるべき」社会とは、何よりも自分が利益を得られる社会である。いかに崇高な理念が実現されていようと、どれほどの言葉でそのすばらしさが強調されようと、その中にいて「私」が生きるための資源を得られない社会では、「私」にとってちっともすばらしくない。そこにいて自分が無事に資源を確保でき、生存と繁殖が図れる社会であることが、「正しい」なり「よい」なりとポジティブに位置づけられる社会の条件である。
内藤淳

ということになる。

しかし、問題は、それぞれの人の利益が、しばしば、衝突することである。

私は、儲かるが、あなたは、損をするという、簡単なカラクリである。

「私」にとって利益になると同時に、「あなた」や他の人にも利益になるという、利益獲得機会の配分が、テーマになるのである。

そんな、都合の良いシステムがあるのか・・・

内藤氏は、こう述べる。

それは「その社会のメンバー全員に一定の利益(資源)獲得機会が配分されること」である。
と、言う。

みんなが幸福な社会の、みんなは、全員のことである。

どんな人にも、その機会が、得られる、行き渡るような、制度や、ルールが、作られることである。
全員に、配分される社会が、正しい社会であると、する。

ここから、私の言葉で、書くが、この世は、地獄であるから、必ず、自分だけが、富を独占したいという、強欲な者が現われる。
他の人に、配分したくないという人である。

必ず、そういう人は、いる。
生まれながらに、どうしようもない、魔界人である。

だが、そこで、独占していると、それは、増えませんよという、囁きがあると、考えるのが、進化倫理学である。

独占により、上位の人が得られる、利益は、目先の短期的利益であり、資源獲得機会を、みんなに均等に配分することで、結局は、利益になるのだという、壮大な、考え方である。

それを、内藤氏は、解り易く、解説する。

それは、省略して、先を続けることにする。

何故、人が、集団生活をするのか、が、問題である。

個々人が、バラバラで、暮らすことよりも、集団で、暮らした方が、自分の生存、繁殖、資源獲得に、遊離であると、人が気づいたのである。

人間は、普遍的に集団生活をする。
内藤淳

人間の天敵は、脅威を克服した他の人間の集団が、最も、脅威なのであると、内藤氏は、言う。

戦争である。

「自分の利益」に向けて動く人間は、単独でいたり少人数でいたりしては他の人間集団に襲われ、食料や土地を奪われたり、女性を掠奪されたりするので、それに対抗して自分たちの資源を確保するために集団生活をする。これを個々のメンバーかの立場から言うなら、自分が生存して各種の資源を確保するためには、まず「他集団の脅威」から身を守らなくてはならないので、その利益のために、単独ではなく集団で暮らす。
内藤淳

そうすると、集団に中に、支配者や、権力者が、現われる。
さて、すると、次の、段階は、どのようなことになるのか。


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2009年08月04日

神仏は妄想である 223

支配層・上位層も、立場と実力にまかせて集団内で思うがままに資源(獲得機会)を占有するのではなく、はじめから一定の「配分」を下位層に行い、彼らの資源確保を保証して集団の安定と存立を図った方が利益的である。つまり、集団内で優位な立場にいる支配層。上位層にとって、可能な限り自分たちで資源を占有する、そういう体制を作ることが一見「得」なようだが、実はそうではない。それは目先の「短期的な利益」にはなるが、「長期的な利益」を考えるなら、優位な立場にあっても資源占有を控え、下位の者に相応の「配分」をして集団の安定、規模の維持を図った方が「自分の利益」にかなう。そしてそれは、農民その他の下位層にとっても、専制や重税に苦しめられ反乱や抵抗運動で命を危険にさらすより明らかに利益になるので、集団の中で「資源獲得機会の配分」がなされる、「配分」的な体制が設定されることは、上位層/下位層を問わず、誰にとっても利益になる。
内藤淳

誰の立場からも、利益になるということで、正しい社会のあり方ということになる。

そして、その配分における、人為による、配分と、身分による、配分という、テーマに移ってゆく。

それは、このエッセイの主旨ではないので、省略して、配分原理としての、人権を見る。

近代以降の国家では、憲法の基本原理として、基本的人権の尊重が、謳われる。
憲法学では、人権とは、国家が成立する以前の、自然状態において、人間がもともと持っていた自然権ということになる。

これが、進化倫理学では、配分原理として、優れた意味を持つことになる。

人権には、自由権と、社会権の二つがある。
自由権には、思想・良心の自由、信教の自由、表現の自由、という、精神的自由権と、職業選択の自由、営業の自由、財産権という、経済的自由権がある。
これらは、国家集団の、国民誰もが、資源獲得のための、活動が出来るというものである。

権利保障という、形での、配分の具体化になっている。

社会権は、その中で、運や能力に恵まれない人、病気や、障害によって、働けない人などの、現実に必要な、資源を得られない人に、資源獲得機会が、行き渡るように、配慮した制度を、作る、保証するものである。

人権保障は、国家という、集団において、すべての人に、資源獲得機会を行き渡らせる、優れた、配分体制であると、いえる。

そして、それが、釈迦仏陀の、目指した、すべての人の福利なのであり、空の思想の、理念である、平等の、福利の姿である。

つまり、人間は、進化の過程で、それらを、選び取ってきたといえる。
それは、宗教ではなく、人々の、願いとして、政治に生かされてきたものである。

目先の利益にとらわれると、たとえば国家の指導者や支配層にとっては、国民の人権を抑圧して現体制に批判的な言論を封殺し、自分たちを批判する人を余計な手続きや審理を経ずに投獄したり、そういう人の財産を好きなように没収できたりした方が一見利益的に思える。しかし、そうやって「現体制に都合の悪い主張や活動は抑圧される」という社会体制を作ってしまえば、それは明白に「現体制の支配層には利益的だがそれ以外の人には不利益な社会体制」であって、「それ以外の人」の不満や抵抗の元になる。

そして、それは、

ある程度は実力や武力でそれを抑えられても、そうした抑圧的な支配体制には根強い抵抗が生じるのも世の常で、なにかのきっかけでそうした不満が爆発し大規模な暴動や反政府運動が広がるといった現実をわれわれはあちこちで目にする。
内藤淳

例えば、私は、ミャンマーを見たが、このままでは、いつまで、現政権が、それを、意地出来るのかは、時間の問題であると、見た。
更に、中国の人権問題も、然り。

人権を保障し、言論規制などを、控えた方が、現体制への批判的言論が、多少あろうと、社会全体が安定し、活性化するのである。
結果、体制も、安定し、支配層にも、利益になる。

人権保障は、国家の支配層にとっても、長期的展望に立つと、国民を含めて、国家の皆々に、利益的な、正しい、配分体制だといえる。

それが、また、釈迦仏陀の、平等の福利のあり方であるということ。

日本の国家体制は、釈迦仏陀の、方法に実に近いと言える。

このように、「正しい社会のあり方」もまた、われわれ個々人の利益に基づいて考えられる。われわれの社会が、人間という「利己的」存在の集まりであることに鑑みて、その社会の「正しいあり方」は、構成員各人の利益を基礎として決まる。メンバーのいずれにとっても利益になる「資源獲得機会の配分」はその重要な基準であり、人権保障の「正しさ」もまた、その中にいる個々人の人間の「利益」に還元して判断できる。個人の善悪と同様、社会的正義もまた、われわれ自身の利害損得によるのである。
内藤淳

倫理、道徳という、考え方に関して、進化倫理学は、とても、これからの時代に、貢献するであろうと、思う。

そして、それは、宗教という、偏狭なモノに、支配されずとも、人間が、人間として、その、人権と、権利を持って生きられるという、社会、国家政治に生かされるのである。

すでに、宗教の時代は、終わった。

結局、人間は、進化によって、より、人間であることを、追及してきた。
更に、神や仏という、化け物に、何ら左右されることもない。

信仰が、単なる、蒙昧であることに、気づく時代が、来たのである。

超越した存在を置かずとも、人間は、その進化の過程で、より、人間としての、特性、つまり、大脳を有する、人間として、未来に向かうのである。

勿論、この日本でも、問題は山積みであるが、これから、また、一つ一つと、進化を経て、進歩発展してゆくのである。

アジア各地を、回っている私は、あの、第二次大戦から、日本が、ここまで、理想の国に成り上がったことに、驚いている。

その、福祉も、福利も、日本は、断然トップを、行く。
アジア各国と、比べてであるが、大変なことである。

善悪、正不正はわれわれの利益にかなっている。「善いことをすると得」「悪いことをすると損」であり、「正しい社会」はわれわれひとりひとりにとって「得」である。・・・・
原則として人間一般社会に妥当する、普遍のセオリーである。そして、まさにそうであるからこそ、われわれにとって道徳や正義は大切であって、われわれは道徳を守り、正しい社会を作らねばならない。
内藤淳

空の思想が、このように、進化倫理学で、説かれるとは、考えもしなかったのである。

それとも、まだ、空とは、言葉で、表現しえないものであり、悟りを目指して、云々と言うのであろうか。

釈迦仏陀は、この世に生きるということを、説いたのであり、あの世に生きることを、説いたのではない。

転生輪廻云々は、個々人の勝手な、思いであり、今、この現実を、生きるという、生きる意味意識を、問うときに、はじめて、現実を逃避するのではなく、現実を最大限に利用し、生きるということになる。

アジア各国の、貧しい人々は、篤い信仰を持つ。
しかし、それを、見詰め続けていると、そこには、現実に、希望出来ない、諦めの、心と、絶望の心が、見える。
信仰が、現実逃避になっている、様を、見るのである。

ヤンゴンの朝早く、人々は、それぞれの、寺院に出向いて、祈りを、捧げる。
現政権の、退廃と、人権無視、国民無視、一部支配層だけの、政治の体制の中で、どうしようもない、絶望感から、逃避する姿に、私は観たのである。

神仏は妄想である。
神仏は、現実を変える力は無い。
人間が、この現実を、変化させ、変容させる力を持っている。

再び、インド思想史と、法華経に戻ることにする。


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2009年08月05日

神仏は妄想である 224

南インドで、竜樹が活躍していた時期、南インドの、ドラヴィダ民族は、独自の文化を、花咲かせた。
西暦後、二世紀ごろ、クラルという詩句集が作られた。
それは、タルミ語で書かれた、二行詩形の、1330の格言の集まりである。

真の施しは報酬を求めない。いったい世界は、雨を与えてくれる雲に対して何を報いるだろうか。

慈愛という富こそ富の中の富である。財産という富は愚民でも所有できる。

上記は、どこの、格言にも見られる言葉であり、考え方である。
つまり、人は、皆、多く、そのように生きることが、皆の、自分の、利益に適っていると、考えたのである。
そのまま、進化倫理学である。

仏教と、共に、ジャイナ教も、盛んだった。
教団のために、寺院を作り、ジナ像、石版などを、信者達は、寄進した。
ジャイナ霊場への、巡礼も、行われた。

ジナは、益々、超人化され、神格化されて、崇拝の対象となる。
これも、多くの宗教に見られる。教祖、開祖が、神格化されるというもの。

更に、仏教と同じく、ジナの、伝記が書かれて、更に、その前世物語も、出来るという、寸法である。
そして、仏教と、同じように、経典、宗教譚を、読誦することが、功徳あることとされた。

物語は、インドの、伝説、物語を、豊富に取り入れて、布教に利用したという。

仏教も、然りである。
純粋な、釈迦仏陀の、教えが、インド、バラモンなどから、取材されて、大量に取り入られた。

それが、次の時代には、更に、顕著になるのである。

それを、まともに信じてしまった、中国、日本仏教の、愛好者達である。

西暦三世紀に入ると、クシャーナ帝国および、アンドラ帝国が、次第に、衰微し、多数の、群小国家が、対立する。
中でも、マガダから起こった、チャンドラグプタ一世が、西暦320年に、即位して、グプタ王朝を、興した。

次の、サムドラグプタは、南北にわたる、全インドを制服し、マウリヤ王朝以来の、統一国家が、形成された。

この時代に、インドの古典文学が、花開き、更に、天文学、数学も、この前後の時期に、発展した。

しかし、五世紀には入ると、半ばに、匈奴が侵入し、グプタ王朝は、衰退し、六世紀には、また、インドは、分裂国家となった。

グプタ王朝時代の、社会構成は、インド古来の、バラモン教学が復興し、社会の固定化を基礎付ける理論として、採用された。

バラモン教の、国教化である。

社会秩序の維持のために、バラモンの法典が、規準とされた。

その間に、ヒンドゥー教諸派は、バラモン教の、学問、神話、習俗を取り入れ、バラモン教と、融合すべく、社会の上層階級に入り、支持を受ける。

更に、ヒンドゥー教の、壮大な寺院も、多数建設された。

ここで、注目すべきことは、バラモンの用語である、サンスクリット語が、全インドにわたり、公用語とされたことである。
つまり、言葉が、決定されれば、その言葉の、持ち主である、バラモンが、精神世界を、主導するということである。

仏教、ジャイナ教は、学問的研究は、盛んだったが、社会的趨勢は、弱まりつつあった。
更に、仏教も、ジャイナ教も、サンスクリット語を用い、後には、バラモン哲学の、術語を用いて、哲学的議論を交わすに至ったということである。
これは、見逃せない、点、である。

言葉の、概念を、バラモンから、取り入れたということは、バラモン流になるということである。

ここにおいて、仏教も、ジャイナ教も、ある種の伝統が、死んだといえる。

更に悪いのは、この時期に、諸派の、仏教も含めて、根本経典、教科書が、作成されたということである。

確かに、諸宗教は、宗派意識が、強くなったが、バラモンの身分制度を、受け入れる、それに、妥協するという、傾向が、顕著になった。

後に起こる、密教などは、完全に、バラモンに、影響を受けている、亜流の仏教である。
仏教とも、実は、言い得ないのである。

バラモンの、亜流とでも言うか。

社会組織に関する、理論体系としては、グプタ王朝時代前後に、諸種の法典が、作成されたが、西暦後300年頃に、出来た、ヤージニャヴァルキア法典が、特に、規制力のあるものとなった。

集権的国家成立とともに、国家神聖視の思想が、グプタ王朝時代と、それ以降、絶頂に達した。

そこでは、国王は、神的権威を持ち、人民は、国王に対して、絶対従順であるべきとされた。
国王の神聖視である。

王は、過去に、宗教的修行をしたゆえに、その功徳によって、王になったという、思想である。

それらは、仏教、ジャイナ教の経典を見れば、解る。
インドの、俗説を取り入れて、経典を作成したのである。

その、国王観を、仏教も、ジャイナ教も、容認したのである。



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2009年08月07日

神仏は妄想である 226

ヨーガ学派は、ヨーガの修行によって、解脱するということを、唱える。

その、根本経典は、ヨーガ・スートラである。
それは、西暦400から450年頃に、編纂された。

ヨーガの起源は古く、インド文明成立とともに、存在していたと、考える。そして、理論体系化されたのが、そのあたりである。

この学派は、仏教の影響も、ある。
しかし、形而上学説は、サーンキヤ学派と、ほぼ同じである。
ただ、最高神を認める点が違う。

最高神は、一個の霊魂である。
それは、永遠の昔から存在する、個我である。多数の霊魂の中で、ただ一つ威力に満ちる。そして、完全性を備えている。一切のものを、支配するが、世界創造は、行わない。

インダス文明初期から、森林樹木の下で、静座瞑想に耽る行為があった。
それは、境地の安楽を楽しむものだった。それが、次第に、宗教的な意味合いが加わり、意思を、制御する方法として、尊重された。

日常の、相対的な、動揺を超えた彼方の境地に、絶対静の神秘境地が、啓ける。その境地において、絶対者と、合一が実現する。
この、修行を、ヨーガと呼び、修行者を、ヨーガ行者と呼び、その完成者を、牟尼と、呼ぶ。

釈迦牟尼とは、釈迦仏陀のことであるが、彼が、静座して、悟った者という意味である。

更に、各学派は、ヨーガの修行を、実践法として、取り入れている。

ヨーガの語義は、心の作用の止滅である。

外部の束縛を離れ、内部の心の動揺を、静める。
五感を制して、誘惑を退け、進んで、心の集中に陥ることである。

そこでは、不殺生、真実、不盗、不淫、無所有という、五戒を定める、制戒があり、内外の清浄と満足、学修と最高神に専念する、内制、座法によって、身体を安定不動にし、呼吸によって、調息する。感覚機能を対象から離して、心をくつろがせる、制感、心を一箇所に、結合させる、総持、そして、静慮によって、念ずる対象に、観念が一致すること、最後に、三昧によって、対象のみが、輝いて心自体は、空になる。
以上を、ヨーガの、八実践法という。

ただし、三昧にも、有想三昧と、無想三昧がある。
有想は、対象の意識を、伴う三昧であり、対象に縛られ、心の作用の、潜在力を持つ。
無想三昧は、対象の意識を伴わない。対象に縛られることなく、そこには、心の作用も無く、無種子三昧とも言われる。

そして、この無想三昧が、真のヨーガであるとする。

プルシャは、観想者として、その自体のうちに安住し、ただ、精神が物質から、完全に、分離するのである。

さて、もう一つの、学派を紹介する。
それは、仏教にも大きな影響を与えたものである。

ニヤーヤ学派である。

ニヤーヤとは、理論、正理という意味である。
後に、論理学的研究一般の、呼称さなり、その本質は、理論をもって、真理を探究することと、考えられた。

仏教では、論理学のことを、因明と、呼ぶ。
方便心論というものが、著された。

ニヤーヤ・スートラは、西暦250年から、350年頃に、編纂された。

ニヤーヤ学派の、形而上学に関する部分は、ヴァイシェーシカ学派と、類似する。

認識の対象は、アートマン、つまり、霊魂と、身体、感官、感官の対象、思考作用、内官、活動、過失、死後の生存、行いの報い、苦しみ、解脱であると、定める。

ヴァイシェーシカ学派と、同じく、無数に多くの原子が、永遠の昔から存在し、不変不滅である。
それを、作り出した第一原因は、存在しない。
それらが、合して、自然世界を成立させている。

元素としては、地、水、火、風、そして、虚空を含めて、五つとする。

アートマンは、身体、感覚作用とは、異なったものであり、別に存在するものである。
アートマンの存在を、積極的に、論証している。
だが、世界主宰神については、若干の異説がある。

この、学派は、仏陀の、教えに近いものがある。

人生は、苦に悩まされる。
それは、人間が生存しているからである。

その人間の生存は、人間が、活動を起こすことから、起こる。それらの、欠点は、誤れる知である。

故に、人間に起こる苦しみの根源を突き詰めてゆくと、結局、誤れる知が、苦しみの起こる、究極の根源である。

この、根本的な誤った認識を、除去し、万有の真実相を認識して、苦しみから、離脱する。これが、解脱である。
解脱に達した人は、輪廻の輪を脱して、何物にも束縛されない。

かかる境地に到達するために、戒律を、守り、ヨーガの実践をする。

この学派が、もっとも力を入れたのは、認識方法と、論争の仕方である。

正しい知識を得るための、認識方法は、四つある。

直接知覚、推論、類比、信用されるべき人の言葉であり、それは、ヴェーダ聖典なども、含まれる。

論証がなされるにあたり、最初に、疑惑がある。
疑惑を解決しようとする、動機が働く。
動機とは、ある目的を目指して、人が働くところの、目的である。

そのためには、世人でも、専門家でも、万人が承認する、実例に基づいて、考察するものである。

そうして、出される見解は、定説として、示される。
それには、一切の学説の承認する定説と、特殊な学説の承認する定説と、他の事項を含む定説と、仮定的な定説がある。

論争に当たっては、五分作法と称する、論式の型で示される。

主張、理由、実例、適用、結論である。

最後に、叙事詩の完成を言う。
バラモンの社会的優位性が認められると、叙事詩も、おのずと、その線に則って、改変された。

西暦400年頃の、マハーバーラタが、ほぼ現形の如くに、まとめられた。

このような、環境にあって、仏教も、影響を受け、また、それらに、影響も与えた。

つまり、仏教を、理解することは、当時の、また、インド社会の、更に、そこから生まれた、様々な思想体系を理解して、はじめて、仏教、更に、大乗仏教というものを、理解できる。

単に、単独に、仏教を理解すると、誤る。

多くの仏教経典を、漢訳した、三蔵法師玄奘は、その、インドの、思想界の中で、様々な、学派を、論破し、ナーランダ一の存在になり、天竺から、当時の、中国、唐に帰国した。

それでは、もう一度、仏教の、変転に戻る。


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2009年08月08日

神仏は妄想である 228

グプタ王朝の、集権的国家体制が、バラモン教思想を主軸として、思想の固定化、体系化を目指していた情勢に応じて、伝統的、保守的仏教諸派も、体系化を目指した。

更に、当時の、公用語である、サンスクリット語を採用したのである。

幾多の書が作成されたが、後世、もっとも、重要視されたのは、ヴァスバンドゥ、つまり世親の、書だった。

更に、大乗仏教も、哲学思想は、あったが、理論体系をもたなかった。
グプタ王朝に入り、体系化するに至ったのである。

サンスクリット語にての、著作であり、学派が確立する。

中でも、特出したのは、唯識説である。
中観哲学は、諸々の事物、つまり、諸法の空であることを、種々の論法によって、論証したが、体系的哲学説を持たなかった。
そこで、現実存在が、何故、かくのごとき、秩序に従い、成立しているのかと、その所以を、一定の体系的原理に基づき、組織的に、説明したのが、唯識派である。

唯識派を、ヨーガ行派ともいう。
ヨーガの行によって、唯識の理を観ずるからである。

唯識派の開祖は、マイトレーヤーである。
後世の、伝説により、弥勒菩薩と、同一視された。

マイトレーヤーの教えを受けて、唯識説を組織的に、論述したのは、アサンガ、つまり、無著である。

先の、ヴァスバンドゥは、アサンガの、弟であり、小乗を研究して、倶舎論を著したが、後に、アサンガの指導により、大乗に帰依し、多数の著書を著した。

唯識説は、人間の現実存在を構成している諸々の法は、実有ではなく、実相は、空である。
しかし、無差別一様な空という、一つの原理に従い、一定の秩序ある現実の差別相が、現れることはない。
諸々の法が、現にあるごとく、成立するためには、それぞれ空に裏付けられた、原因がなければならない。
それを、種子、しゅうじ、と呼ぶ。
種子とは、法を生ずる可能性である。
可能性は、それ自体、有でも、無でもなく、空である。
客体的なものではなく、純粋の精神作用、すなわち、識である。
それは、分別して、知る働きである。

万有は、識によって、顕現したものにほかならないとして、唯識を主張する。

外界の対象は、夢の如きであり、実在しないものである。
識の分別により、仮に映し出されたものである。
この動きを、識体の転変という。

識体が転変して、三種の識を成立させる。
第一に、アーラヤ識であり、根本識と呼ぶ。
一切の諸法の種子による。

第二に、思量の働きを成す、マナ織である。
アーラヤ識を、よりどころとして、それに依存して起こる。
アーラヤ識を対象として、我執を起こす。
我見、我疑、我慢、我愛を伴い、これによって、汚され、染汚意と、称する。

第三に、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の六識であり、それぞれ、色、声、香、味、触、法を認識するというもの。

人が、自己の対象を、空と悟り、実在するものを、認めない場合は、心は、唯識性に住する。

その、究極の、境地において、無心であり、無得である。
その境地は、生死と、ニルヴァーナとが、異なったものではない。
そのいずれにも、住しない。
それは、真如の智慧、般若を有するゆえに、生死に、住しないのである。

そして、慈悲を有するがゆえに、衆生を救うことに努め、ニルヴァーナに住することもない。

このような、理屈を延々として、考え続けたのであるから、驚く。

如来蔵思想というものがある。
唯識説と似る。

凡夫の心のうちに、宿る、如来たる可能性を持って、如来蔵という。

その、観念に基づき、衆生の迷いと悟りを、成立させるという、説を唱える思想である。

これが、日本の仏教に、大きな影響を与えたと、思われる。

大乗とは、衆生心である。
心に、如来の本姓が宿るという、思想で、日本仏教の説教が、ここから、出る。

心の本来の面は、あらゆるものの、総体である。
不生不滅という、絶対の世界と、生滅するという、相対世界とが、一体をなしていて、同一でも、異なるものでもない。それを、アーラヤ識という。

いずれにせよ、当時の、バラモンの、思想的体系に、対抗して、出来上がったものである。
互いに影響を与えたことは、歴然である。

それを、進歩発展というのか、屁理屈というのか。

ただ、仏教は、バラモンの階級的差別に関しては、徹底抗戦したようである。

つまり、平等主義である。
これだけは、評価できる。

グプタ王朝以降の、動きについては、いずれまた、進めることにする。

再度、法華経に戻り、書き続けることにする。

唯識についても、また、登場させて、議論したいと、思う。
空の思想から、何故、慈悲の思想が出るのか、それが、疑問である。

随分と、それは、飛躍していると思うが、空が、何故、慈悲を生ずるのか、である。


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神仏は妄想である 227

法華経から、遠回りをして、ここまで書いてきた。
ここで、解ることは、空、の思想というものも、解釈によって、多々意味が違うということである。

空、というものの、観念を作り上げるのは、大変なことである。
そして、何故、空、というものを、必要としたかである。

空、というものは、何も無いという状態ではないということが、朧に解ったと、思うが、それは、また、行為によってでなれば、体得できないのかもしれない。
更に、本当は、そんなものは、無いが、有るかの如くに、対応しているともいえる。

無というものが、有と、対立するもので、無という状態は、心の、置き方の問題であることも、解った。

空とは、違い、無とは、単独に存在するものではない。
また、無とは、存在しないということでもない、ということが、解った。

更に、インドの空、無、というもの、中国思想、その言葉によって、一度、解釈されているものを、日本が、取り入れているということである。

漢語に、拘ると、本来の、無、空、という言葉の、意味が、変容する。

老荘思想の、無の境地というものに、近い感覚が、禅でいうところの、無に、近いということも、解ったのである。

だから、日本の仏教という場合は、中国仏教というものが、前提にあるということ。

であるから、仏典が、その、解釈ものが、バラモンの、サンスクリット語によって、書かれることによって、その言葉の観念は、バラモンよりのものとなり、それが、果たして、釈迦仏陀の、教えにあるものなのかという、疑問が起こる。

実に、釈迦仏陀の言葉とは、遠い仏法なるものが、誕生した。

法華経による、久遠実成の仏陀とか、秘密仏教、密教による、大日如来とかは、全く、妄想の産物であり、更に、神格化するなどとは、初期仏教には、無いことである。

真言密教などは、全く、仏教とは言えないものである。
バラモンの呪術の部分を取り出して、大日如来を創作し、更に、仏典を勝手に、解釈して、仏になるなどというのは、大嘘である。

空海によって、日本に伝えられたが、彼は、野心が強すぎる。
しかし、鎌倉仏教の開祖たちは、空海に、束になってかかっても、適わないだろう。

魔の力の強いことと、いったらない。
大魔であり、鎌倉時代の開祖たちは、小魔である。

それらの、流れを汲む仏教愛好者たちである。
程度が、知れる。

時代の風雪に耐えてきたのは、建物であり、その精神は、今は、堕落の一途である。

誰一人、開祖たちの中で、仏になったというものは、いなかった。
今でも、迷い続けている。

どこを、どう探しても、極楽などはないし、更に、阿弥陀如来というのは、地獄から、天国までの、間があり、ただただ、広い宇宙空間が広がるだけ。

仏典に入れ込んだだけ、迷うのである。

久遠の仏という存在も無いので、相変わらず、南無妙法蓮華経と、唱えて、迷い続ける様は、哀れである。

結局、建物の上空に集い、何やら、そこでも、生前のように、侃々諤々である。

中には、指導者もろとも、とんでもない、空間にいて、茫然自失の者もいる。

理屈、言葉遊びに始終した者ども、死んでからも、それを、続けているという様。

我が心の中にある、仏というものを、信じていたが、一切、仏など無かった者は、一体、どうすれば、いいのか。
すべての人の心に、仏性が宿ると、詭弁の最澄は、今頃後悔しているだろうが、後の祭りである。

人の心の中に、仏性など、あるわけが無い。
それは、キリスト教徒が、人は皆、神の子であるというのと、同じ。
人が、神の子であるなどというのは、真っ赤なうそである。

何より、仏や、神など、無いのである。
無いものが、どうして、宿るのか。

信じきれば、救われるという、大ばか者の言葉に、騙されて、ここまで、やってきたが、もう、お終いである。

三蔵法師玄奘は、頭脳明晰で、志高く、天竺に出掛けて、一度覚えたことは、二度と、忘れなかったが、膨大な経典を、持参して、それを、漢訳した。
それが、日本に伝わり、混乱の極みである。

玄奘の、描き出した、仏典の解釈によって、更に、日本仏教は、歪になり、どんでもない、宗教というものに、成り果てた。

仏典解釈が、漢字の解釈となる、という、驚きである。

それは、玄奘の、解釈を探るということで、釈迦仏陀を、探ることではないと、気づかない、アホどもである。

作られた、教え。
人間が作り上げたもの、それは、完全ではない。
しかし、それが、完全であるかの如くに、説くとは、笑止千万である。

中には、それを、取り上げて、仏教は、作られてゆくものであり、今、私の教えが、もっとも、正しいと、新興宗教並みのことを、行う者多数。

いずれにしても、仏教に迷うという、姿は、哀れである。
いや、宗教に迷うということは、哀れである。

宗教というもの、人間の、ファンタジー性が、いかに、高いものであるかということの、現れである。
それは、人間の、大脳化ゆえである。

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2009年08月09日

神仏は妄想である 229

さて、法華経、如来寿量品第十六という、経典には、インド人の、驚くべき、数の世界が、書かれている。

結論から言うと、勿論、こけおどしである。

これまでおっしゃった無量無辺の世界というのは、「無限の空間」のことでした。それは、じつは「無限の時間」のことをおっしゃるための前提だったのです。
庭野日敬

この人は、本当に、無限という言葉の、意味を知っているのだろうか。
単なる観念として、使用しているのである。
悟ったつもりになれば、いくらでも、そう思うことが出来る。

信じる者は、騙される。

この世界を粉にして、それを一粒ずつ置いていった世界というのさえ、もはや考えることもできない広大無辺のものだったのに、こんどは、その微塵を置いた星も、一粒置くために通過した五百千万億那由他阿僧祇という星を全部合わせてすりつぶし、微塵とした数というのですから、こうなるともう数というものではなく、絶対というほかはありません。
庭野日敬

絶対、無限ということを、言いたいがために、そういう解き方をしたというのである。
釈迦が、である。
違う。釈迦ではなく、インド人の、妄想である。

ごひゃくせんまん おく あそうぎこう
という、長い年月という、アホ振りである。

無限の過去と、表現する、庭野さんである。

無限の過去から、無限の未来に存在する、仏という、化け物を、説明しているのである。

こんな、化け物に、救われると、言われて、はいそうですかと、答えられるものだろうか。
それは、すべて、人間の想像した、妄想した、世界のことである。

見ることも、聞いたこともない、架空の話を、信じて、お任せして、救われるのは、どこの、話だろうか。

彼ら、宗教団体の、救いというのは、その仲間を増やせということである。
一人から、二人、そして、三人と、増やしていきなさい。
そうすれば、お金になります。
金が集まれば、大きな建物も、建てられます。
教祖一家の生活も安泰です。
楽に暮らしてゆけます。
と、どうして、言えないのか。
それを、救われるという、詭弁にして、信者に言わせる。

人間は、人間を救うことは、出来ないのである。
それを、釈迦仏陀は、はっきりと、言明している。

すべては、自業自得である。

驚くべきことは、多々あるが、庭野さんは、こうも書く。

当時インドでいちばん勢力のあったバラモン教の神々、自国天、増長天、広目天、毘沙門天といったような諸天も、やはり仏の教えをきいて救われる衆生のうちであり、また人間より神通力のすぐたれ存在であっても、その神通力をもって仏法を守る善神として認めておられるのです。
庭野日敬

これは、認識不足も、いいところである。

それが、今では、バラモンから、移行した、ヒンドゥー教によって、釈迦も、一人の神にされているのである。

更に、インド魔界の神々を、取り入れて、善神、仏を、守る神々として、拝み奉るのは、日本だけである。

神も、仏を守るという、考え方は、日本でも起こった。
だが、それは、正式の日本の、カムではない。
あくまでも、インドの神々である。
そして、それらは、日本で、呼ぶところの、神、カムではない。

甚だしいのは、本地垂迹という、考え方まで、現れた。
つまり、仏は、日本の神の姿を取るというものである。

神の本当の姿は、仏なのであるといもの。
空海は、大日如来を、天照大神と、重ねた、非道振りである。

物事を、分析することに、長けたインド人であることは、認めるが、しかし、それは、ひとつの思想であり、それを、信じるというのは、全く、別の問題である。

インド思想史を、見回してみれば、思想というものも、どんどんと、進化発展してゆくのである。

この、仏教、更に、法華経の言葉の世界に、人が迷うと、そこから、抜けられなくなる。
あたかも、知ったと、勘違いする。

何も、事は、変化していないのに、である。

面白いのは、信心というものの、種類まで、考えていることである。
信根、精進根、念根、定根、慧根の、五個があるという。

そうして、分析をして、どんどんと、その迷いの世界に、脅して入れるのである。

結果は、完全、心が、それらに、侵略される。
洗脳以上の力である。

もう、そこからしか、ものが考えられないのである。

一度、信じさせてしまえば、楽なもので、次から次と、新しい言葉を与えて、迷わすのである。
こういう、教えというものを、学び、覚えても、糞の役にも立たないのであるが、何かの役に立っていると、思い込み、更には、救われると、信じる様は、実に、哀れである。

そして、結果は、どうだ。
皆々、死ぬ。
死ねば、口無しである。
口無しであれば、その後のことは、聞くことが出来ない。
つまり、宗教、ぼろ儲けである。

悲惨すぎる。

ちなみに、庭野さんは、仏に成ったと、表明したのか。
悟りを得て、菩提に入ったと、宣言したのであろうか。

一人の開祖も、誰一人として、我、仏になれり、と、宣言した者は、いないのである。
こういうのを、説き逃げという。

釈迦仏陀、死んだ。
開祖も、死んだ。
すべての、理屈を築いた者も、死んだ。
さて、どうして、本当の事が、解るのか。

更に、彼らは、霊界の何処にいるのか。
誰も、知らない。
その、信者も知らない。

見たところ、宗教家の大半は、あくどいだけであり、世のためには、何も、利益が無いのである。
それは、すべての宗教に、言えることである。

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2010年06月01日

神仏は妄想である 260

チャクラについての、詳しい話は、省略する。

確かに、体の、部分には、特別な、意識の焦点があることは、否定しない。
だが、私は、体のすべてが、チャクラだと、考える。
チャクラという、観念を持つならば、である。

自己に意識を、向けるという、方法の一つが、タントラの方法であり、それが、インドの伝統的、瞑想法なのである。

タントラの思想が他の思想とくらべて際立っている点は、男であれ女であれ、人間はだれでも今いるこの現実世界から目をそらさずに生きていると信じるところにある。つまり逆に、タントラは、精神的であれ、物質的であれ、あるいは性的にであれ、自分を取り囲む生の営みに全面的に没頭するよう、われわれの目を向けさせるのである。
ムケルジー

われわれをがんじがらめにしている人間の本性的な側面そのものが、実は解脱への踏み石になりうるのである。
ムケルジー

人間の本性的な側面が、がんじがらめにしている・・・
だが、それが、解脱への、踏み石になりうる・・・

煩悩即菩提という、詭弁がある。
それと、同じことを言う。

こうした考え方に立てば、セクシャルな衝動もまた、無限と有限とが一つであることを示す宇宙の真理の扉を明けるための道なのである。「アーサナ」すなわちヨーガの姿勢をとって、男女の交合が成し遂げられるや、われわれは歓喜を味わうとともに、それぞれの可能性に目覚めることになる。
そして、
交合のあいだ、男女は行者として周囲に気をとられることはない。その心は解脱を願って燃え上がる。セックスのエネルギーを持続させることで、内面圧が高められる。こうしてセックスの活力がきわめて強力な潜在力に変えられる結果、霊魂が解脱にいたるのである。
ムケルジー

つまり、セックスタントラである。

インドには、カーマ・スートラとともに、四つの性の解説書がある。
それぞれが、影響しあっているのだろう。

享楽主義に根ざした人間の快楽を求める衝動も、精神的な経験に変えることができるのである。
という。
快楽主義の肯定である。

大きな快楽に身をゆだねても、それが正しい手ほどきと正しい動機付けがなされるならば、そのこと自体が一つの精神活動とみなすことができる。

インド人の、屁理屈全開である。

人間の肉体は全体として、確かに生物としての働きや心理的な働きがありながら、宇宙の力が自由奔放にあらわれる一つの道具となるのである。
ムケルジー

おのれのなかで、相対立するものを一つとすることで、それぞれの人間は、すべての経験を調和させ、そうして二元性を捨て去り、現象世界を超える。
ムケルジー

改めて、申すまでもなく、そんなことは、潜在的に、知り得ることである。
ただ、相対立するものを一つとし、二元性を捨て去りとは、観念である。

ここで言う、人間の側面、つまり、余計なものは、人間を生かしているものでもある。

性的欲求、欲望までも、タントラに取り入れて、それに、理屈をつけて、合一思想などを、語るということに、私は、一緒の、魔術的、怪しさを感じる。

現象世界を超えるというが、現象世界を超えて、どうするのか。
今、生きている、世界は、現象世界である。
その、現象世界を生きるという、命題が、生きることであろう。

超えて、どうする。

また、超えられると、考えること自体に、迷いを感じるのである。

タントラの図形には、男性原理と女性原理、つまり、「二にして一なるもの」の静止の面と活動の面が描かれている。かれらは触れ合える限り触れ合い、抱き合っている。このことは、二つのものが本来的に一つになるといった、相対立する力が全体として融和してしまうことを示している。
ムケルジー

様々な、セックス体位の、図が、描かれている。

結合させた男女が織り成す、肉体の結び目、つまり、交合の様が描かれる。
スタイルの異なる、84の基本体位がある。
実行可能で、心身に有益であることが、体位決定の条件となる。
可能な限り、全感覚を高めるのである。

それが、正しい動機付けと、正しい手ほどきが、必要であると、言う。

魂は、個人と宇宙が同一であることを、忘れ、解脱を得るまで、輪廻を繰り返すという、考え方がある。

インドでは、早くから、輪廻の思想が、幅をきかせていた。
勿論、仏教も、それを、取り入れている。

そのように、考えてもよい。
更に、輪廻思想を、主にして、生きることも、良い。

だが、解脱という、超越感覚は、非常に危険である。
宇宙と、同一である、意識に、あい成りました。
つまり、悟りました、である。

実は、悟らなくても、宇宙と、同一化しているのである。
何も、特別なことをしなくても、宇宙と、一体になっているのである。

何故なら、宇宙の外では、生きられないからである。
それを、強く意識せよ、ということなのだろう。
意識しても、しなくても、あるべきように在るのである。

このような瞑想を深めていくと、人は自分および世界について、新たな観察を加える力が身についてくる。事実、もし人間が相対的な見方に執着するような態度を毅然としてこばみ、それを乗り越えようとするならば、相対的な見方がどれほど輝かしいものであっても、それに縛られるようなことはないのである。

この「悟り」とは、いったいどんな意味があるのだろうか。悟りをひらく道、つまり悟りとは何かをわれわれに理解させてくれる道がみいだされないがきり、それはわれわれの理解を超えたものとなる。これが、タントラ・ヨーガの道である。ヨーガは、最も高度な精神集中をする上で必要なのである。このヨーガによってのみ、人は無意識のなかに眠っているすべてを展開させることができるのだ。
ムケルジー

つまり、狂うということである。
無意識の中に、眠るものを、すべて展開させれば、人は、狂うのである。
狂わずにいるということは、無意識のすべてを、展開させていないという、ことである。

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