2009年07月21日

神仏は妄想である 250

一切智智とは、どんな智慧か。

法界体性智
智慧の本体である。他の四智の総合である。
密教では、全宇宙を法界という。この、智慧によって、宇宙の真理を理解体得するという。

大円鏡智
法界の、万象を如実に顕現する智慧である。実相を知る智慧である。実相の智慧を、清浄にして、円満、つまり、完全なる鏡に、たとえる。

平等性智
一切諸法の根本における、平等なる相を知る智慧である。宇宙の実在は、千差万別の姿を持つが、それを、存在たらしめている、根本の力、つまり、法則は、一つである。すなわち、平等である。

妙観察智
存在するものは、すべて、一つの法則によって、存在する。そのあらわれている相、その関係を見抜く智慧である。

成所作智
所作、つまり、活動して、成る智慧である。
一切諸法において、万物の実相を知り、平等にして、差別をあらわす宇宙の原理を体得するものは、一切法において、自由であり、自在である。すなわち、仏は、自由自在である。こころのままに、活動して、すべて成功しないということがない。
である。

これを、五智という。

桐山氏は、
大円鏡智は、われわれが持つ第八アーラヤ識を、ある行によって転換させたときに生ずる智慧だというのである。
また
平等性智とは、われわれの第七マナ識を、ある行によって転換させることにより得る智慧だという。
また
妙観察智とは、第六意識を、ある行によって転換するときにあらわれる智慧だという。
また
成所作智とは、前後識を、ある行によって転ずるときに発する智慧だという。
また
法界体性智は、第八アーラヤ識よりさらに深奥にある第九アンモラを識転換させたとき、おのずから獲得する智慧だという。

そして、桐山氏は、その方法が、あるというのである。
虚空蔵菩薩求持聡明法
こくうぼさつぐじそうめいほう
である。

この法を、修行して、空海は、即身成仏したという。

私は、かつて、この法を、自分の体験にもとづき、「目がカメラになり、耳はテープレコーダーになる」と表現した。
実際に、この法によって訓練した頭脳は、一度、目にし、一度、耳にしたことは、ぜったいに忘れぬ記憶機構を持つようになる。しかもそれはただ単になんでもおぼえてしまうというだけではなく、創造力を飛躍的に増大させ、発想が常人とまったくちがうようになる。まさに、大脳の生理機構が一変してしまうのである。
桐山

桐山氏は、師匠がなく、独自に、それを、独習したという。
空海も、桐山氏も、自己申告である。

空海は、
大聖の誠言を信じ、阿国大滝の嶽に登りよじ、土州室戸の崎に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す
と、言う。

つまり、修行満願の日、明星が飛んできて、空海の口に入り、聞持、記憶の悉地を得たという。

明けの明星が、口に入る。

ここ、ここに至ると、冗談ではない。
明けの明星が口に入ったと、思い込むことは、勝手なことだが、その勘違いを持って、我、即身成仏せりとは、笑わせる。

かつて仏陀がなし、ナーガールジュナ、アサンガがなし、空海、・・・
が、なしたように、だ。そうでなければ、密教は、所詮、観念の遊戯、自己満足の域を脱せぬことになろう。
それを救うのが、この求聞持聡明法である。
桐山

桐山氏は、現在、88歳前後であり、二度の、脳血栓で、倒れている。

これは、おかしい。
脳血栓で、倒れはしないはず。

いやいや、即身成仏しても、体は、人間だから・・・

何とでも、言える。

わたくしはいま五十代半ばであるから、九十歳くらいになって、求聞持脳二十歳くらいになるのではないかと思われる。その頃がわたしの知能活動の最盛期になるであろうと思う。
桐山

今は、車椅子で、やっと、動ける方である。
肉体の、衰えを、見抜けなかったのが、不幸である。

昔、天理教の幹部が、信仰で、ガンを治したと、大いに喧伝していた。が、その方は、今でも、生きているのか・・・
死んでいる。

ガンが、治るのは、特別なことではない。
治る人もいる。

たまたま、信仰していたというだけである。
私は、何も信仰していない人も、ガンが治ったという人を、知っている。

それに、結びつける、根性が、気に入らない。

余談であるが、神道系の、霊的能力者が、空海の、明けの明星は、天狗です、という。
天狗は、そういう、驚いたことをする、という。
さも、ありなんである。

霊的レベルが、低いのである。

奇跡のようなことを、見せると、大半の人は、信じる。
そして、騙される。

高いレベルの霊は、奇跡など、起こさない。
それは、霊能的能力のある人は、当たり前に、理解する。

インド
あの土地は、そういう、レベルの低い、霊的存在が、跋扈する。
それに、引っかからなかったのが、釈迦仏陀である。

ナーガールジュナも、アサンガも、引っかかったのである。

空海は、修験道に似たものであり、それに、中国の密教思想を付加したもの。
修験道とは、道教の影響が大きく、丁度、中国の、密教を付加できたのである。

インド、バラモン教の、呪術が、中国道教の影響を受けて、密教も、中国式になり、即興のプロ、空海が、陥ったのである。

そんなことを、しなくても、空海の、業績は、評価に値するものである。
ここでも、野心が、曇らせた。

欲望の中で、野心は、恵みではない。
野心は、野心に、帰結する。



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2009年07月22日

神仏は妄想である 251

ここで、少し空海を、見ることにする。

ほとんど、無名の、私度僧に過ぎなかった空海が、唐から、戻り、筑前で、三年間の待機をしなければならなかった。

だが、時が来た。

朝廷や、貴族たちの目が、冷たかったが、嵯峨天皇の即位により、空海は、注目されることになる。
唐の文化に、非常に関心を持った、嵯峨天皇の配慮により、空海は、一躍時代の、寵児となるのである。

天皇の、保護の元、高雄山寺を中心に、密教を広め、弘仁三年、812年には、最澄らに、灌頂を与えたのである。
あの、最澄に、灌頂を与えた・・・
つまり、最澄を従えたのである。

その後、高野山を開き、真言の道場とし、更に東寺を下賜された。つまり、天皇から、頂いたのである。

名声と、権勢の中で、62歳の生涯を閉じる。

その間の、活動は、密教に留まらず、文学、美術、書道、教育、建築、灌漑治水、医療など、ありとあらゆる、文化面に、及ぶ。
実に、教祖足りえる、活動である。

だが、その、天才的能力の、空海が、何故、密教を選んだか。
いや、密教の修行によって、天才になったのか・・・

桐山氏は、密教の修行によるというだろうが、私は、空海の、生まれ持った、天性の才能という。

もし、空海が、時を得なければ、どんなに、天才であっても、世に出ることは、出来ない。それだけの、運を、得て、生まれた。

空海は、勝手に修行していた時に、名も知らぬ沙門、おおむね、修験道の者であろう、から、虚空蔵求聞持法を、受けたといわれる。
しかし、確かなことは、解らない。

つまり、空海の創作と、考えてもいい。

虚空蔵求聞持法は、後に、中国で知ったものだが、それを、すでに、授かったという方が、面白い。また、謎めく。

空海の、訪れた、長安では、最新流行の、仏教だったということも、ある。

716年に、長安に着いた、善無畏、ぜんむい、が、大日経を伝え、720年に、金剛智が、金剛頂経を伝えた。

前者の系統では、一行が出て、大日経の解説を、為し、その思想を解明した。
解明とは、解釈であるから、自己申告である。

後者は、不空が、現れて、更に多数の、経典を、請来したという。
その弟子である、恵果が、空海の師である。

恵果は、両方の系統を、統合しようとしたと、いわれる。

顕教、けんぎょう、つまり、密教以外の教えでは、満足しなかったのが、空海である。

それらは、単なる、知識の学問であった。

空海は、それよりも、実際的な、能力を得たかった。
その能力とは、仏になるというもの、つまり、即身成仏するという、密教の、修行である。いや、方法である。

すでに、四国で、即身成仏していた、空海は、その根拠を得たかったと、私は、考える。

勿論、即身成仏というのは、観念である。

空海は、密教は、法身仏の説法だと、理解する。
つまり、仏直々の教えである、と。

顕教は、応仏、化仏という、仏の、手前の段階の者が、教えたもの。
それは、言葉は、顕かであり、簡略であるというもの。

しかし、密教は、法身仏の、説法であり、密蔵である。
言葉は、秘密で、奥深く、真実を、説いている。

もし、そうであるならば、鎌倉仏教などは、子供だましである。

言葉遊びに、始終する、単なる、思索、思考の、遊びである。
まあ、その通りなのであるが、秘密の言葉による、真実を説くものとは、また、薄ら、馬鹿馬鹿しいのである。

要するに、何とでも言える。

密教を説く、法身仏は、究極の仏であり、衆生の能力などとは、お構いなしに、最奥の真実を、直接、説くというのである。

それが、無常の生死流転の世界を、超えて、真理の世界が、開ける・・・

仏陀にほぼ近い境地の人や、それにつぐ十段階の菩薩も、仏の室に入ることはできない。まして小乗のものや、凡夫では、誰が仏の堂に昇ることができるだろうか、と、空海は、言う。

だから、秘密の教えなのである。

詐欺師、空海の、本領発揮である。
空海は、その、十段階を、説いている。

最後の、秘密荘厳心が、密教であり、その前の、九段階は、顕教であるというのだ。

だが、実は、天台も、法華経において、仏の最奥の真理が、表明されている。その世界に達してみれば、それまでの、教えも、すべて法華経に至る道であると、する。

また、華厳経では、仏が、悟りを開いたばかりのとき、人々の理解能力に関係なく説かれた、悟りの世界を、ストレートに説いたもので、その世界に入るには、長い修行の過程を必要とすると、説くのである。

仏教が、統一された、教義を得ていない。滅茶苦茶であると、西洋の宗教学から、言われるのは、当たり前である。

更に、釈迦仏陀の、仏なのか、久遠実成の仏なのか、色々ある。

要するに、仏教の仏とは、人それぞれの、嗜好なのである。

それは、神仏というもの、すべてに言える。
信仰している人それぞれの、神仏が、現れる。

つまり、極限すれば、私の神仏は、いずれ、私に行き着くのである。

私が、それであった。
神仏は、私であったと、なるのである。


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神仏は妄想である 252

即身成仏とは、何か。
日本仏教は、これにより、撹乱された。

この身のままに、仏になる、つまり、それは、他宗派が、いうところの、悟りである。

原始仏典には、仏の教えを聞いて、ただちに、悟りを得るということも書かれているが、次第に、教義が複雑になるにつれて、仏の悟りに至るには、何度も輪廻を繰り返して、修行を積まなければならないという、観念が、登場し、一般化した。

菩薩でさえ、その修行が完成して、仏になるには、サンアソウギコウ、阿僧祇という数え切れない意味の巨大な数の単位であるが、ほとんど、無限ともいえる、長期間の修行が必要となる。

つまり、脅しである。

ペテンである。

しかし、逆に、悟りは、遠くにあるものではないという、華厳経における、観念もあった。

それも、勿論、ペテンである。

だが、インドでは、つまり、本場では、そのような観念は、発展しなかった。
正統派の立場からは、それは、あくまで、前世で修行を積んだと特別の、場合である、とのこと。

広く一般の、修行者には、可能なものとは、考えられなかったのである。

いずれにせよ、悟りとは、それぞれの観念でしかない。

それでは、釈迦仏陀は、何を言ったのか。
静かに息を吸い、静かに、心の働きを、見つめて、心を、我がものとして、生活するという、生活指導を行ったのみ。

何故、怒りの心が、起こるのか、何故、悲しむのか、何故、嬉しいのか、何故、泣くのか・・・
兎に角、心を、見つめて、その心を、何にも囚われない状態にしておきなさい、である。

それは、内省であり、内観である。

外の世界以上に、わが心の世界は、無限に広いのである。
それを、言った。

法則と、秩序を、見なさい。
そして、我が心を、見つめなさい、である。

悟り・・・
何故、悟りが必要なのか。

さて、東アジアに、仏教が、伝えられると、輪廻の思想などは無い。
それゆえ、現世での、悟りというものを、追求し、可能であると、考えられるようになる。

それが、禅である。
特に、中国仏教である。

しかし、禅は、果たして、仏教のものかと、言えば、多分に、中国思想、老荘思想が、影響を与えたことは、以前に書いた。

更に、密教は、中国でも、一時的な思想だった。
であるから、中国では、即身成仏の思想も、展開することなく、発展もなかった。

それに対して、日本では、即身成仏の思想が、思想的に、大きなテーマになった。
空海のせいである。

更に、最澄も、法華経に基づく、独自の、即身成仏を、掲げた。

だが、空海は、密教以外に、即身成仏の方法は無いと、断定する。
他の宗派、顕教では、密教の悟りは、得られないのである。
空海の、作戦勝ちである。

最澄の、即身成仏は、法華経の、竜女の成仏を持って、即身成仏するのであるという。

海中に住む、竜王の八歳の、娘が、仏に宝珠を捧げて、変じて男となり、仏に成ったという、お話からである。
これには、無理がある。

竜は、人間ではない。
更に、それは、御伽噺である。

苦し紛れの、即身成仏である。

それでは、空海の、即身成仏義、を、見る。

六つの原理は障碍なく交じり合い、常に融合しあっている「本体」
四種類の曼荼羅は一体のものであって互いに離れることがない「性質」
身体・言語・心の三種のはたらきに仏が働いて、これを、三蜜加持という、速やかに悟りが顕われる「はたらき」
幾重にも重なって帝釈天の網のようであるこの身のまま「仏になること」と名づける「障碍のないこと」
おのずから自然のままに完全な智慧を身につけ
心の性質も心の本性も無限にわたりそれぞれが五つの仏の智慧と限りない広大な智慧とを具えている鏡のように完全に智慧であるから真実の悟りの智慧である「成仏」

これで、それ以来、撹乱され続けてきた。

前半四句で、即身を、説き、後半の四句で、成仏を説く。

前半は、即身成仏が可能になる原理を説き、後半は、仏の悟りに達した、境地を説く。

実は、裏技がある。

仏になるというのは、われわれは、元から、仏の素質、いや、仏なのであるから、即身成仏が可能となるというのは、本来、われわれは、すでに、仏と同質であるという、前提がある。
これを、本来成仏、という。

言わせておけば、いい気になって、である。

彼らは、何とでも、言う。
りんごは、みかんからは、出ない。
仏は、仏からしか、出ない。
人間が、仏になるのは、本来、仏であるから、だ、である。

空海は、凱旋するように、死んだ。
運である。

最澄は、論争の中で、死んだ、
運である。

その、論争相手は、法相宗の、徳一である。
つまり、最澄は、悉皆成仏。
人は、皆、仏になるという。

徳一は、三蔵法師玄奘の、絶対仏になれない、人間がいるとの、教義を、掲げた。

それを、無性という。
いずれ、それについては、書くことにする。

ちなみに、空海は、六つの、原理を、言うが、後に出た、かくばん、という、密教家は、五つとした。
六でも、五でも、ペテンであるから、どちらでもいい。

かくばん、に、関しては、論じるほどのものでなし。
省略。
今でも、霊界で、迷っているらしい。


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2009年07月23日

神仏は妄想である 253

最澄の曖昧さは、具体的に、どのようにして、即身成仏するのかという、方法が、説かれていないこと。
ゆえに、今でも、天台宗は、迷い続けている。

その後、天台宗は、密教化したが、曖昧なまま。
更に、禅、念仏などを、取り入れた。
しかし、今でも、不十分であることは、明らかである。

要するに、最澄は、ただ、勘違いしたのである。
その、勘違いに気づかぬままに、死んだ。
そして、どうなったのかを、誰も、言わない。

果たして、最澄は、成仏したのか。

していない。
何故なら、成仏というのは、観念であり、事実ではない。

さて、院政時代から、仏教が、次第に大衆化してゆく。
在家信者にも、可能な、密教の形態が、発展する。

その頃から、死者供養のために、五輪の塔を建てるようになる。
そうなると、即身成仏は、生前成仏とは、限らなくなる。
死後の成仏の可能性まで、広がる。

最澄は、苦し紛れに、現世だけではなく、三回の生まれ変わりの間で、成仏すれば、即身成仏であるという。そこまで、即身成仏に捉われたのは、何故か。空海に、対する思いである。
何とか、空海に、対決する、対処する、考え方をと、思ったのである。

その後、即身成仏という、考え方、観念、思想は、仏教の、死者供養の、重要な思想的源流となったことは、否めない。

この馬鹿馬鹿しさと共に、戒名などという、呆れた、形式が、出来上がってくる。

戒名とは、別名、仏弟子であるということの、名である。

意味もあるし、意味も、無い。

在家の信者に、戒名を与えるというのは、単なる商売である。

何でも無いものを、無用なものを、金にならないものを、売るのが、宗教である。

実に、馬鹿馬鹿しいのは、空海は、即身成仏したのであるから、死んだわけではなく、高野山で、禅定に入ったまま、弥勒仏の出現を待っているとの、アホらしい、伝説を生んだ。ところが、それを、本当に信じて、今でも、空海は、生きていると、高野山では、言う。

ある人は、
通常の死がじつは「死」ではなく、永遠の仏としての「生」であるという逆説的な信仰である。
と、言う。

つまり、永遠の、生の思想は、実は、裏返せば、死の思想である。

天才的詐欺師である、空海は、更に、壮大な、創作話を作る。

声字実相義、である。

身・口・意、の、三蜜のうち、口蜜の観点から、言葉の根源を論じたものである。

馬鹿な新興宗教の、真如苑では、この三蜜を、天台蜜、真言蜜、そして、我らの、真如蜜だと、教えている。
全く、論外である。

更に、とんでもない、教義を作り上げ、更に、霊能者養成まで、やっているという、馬鹿さ加減は、救いようがないが、信者は、救われていると、信じきるという、アホさ加減。
騙す方も、騙される方も、終わっている。

真言、陀羅尼といえば、呪文である。
空海は、それを、密教独自の法として、提案した。

兎に角、他宗派への、牽制である。

法身説法である。

その、法身は、最奥究極の仏そのものであり、衆生の能力などには、お構いなしに、根本の真実を直接説くという。

その、法身の根源的な本体が、六大である。
六大が、説く、言葉こそ、最も根源的な、説法である。

声字実相義では、その具体的な、姿を説くのである。

それは、自然の語り出す音であり、地獄から、あらゆる衆生が語りだす言葉である。

五大にみな響きあり
十界が言葉を具えている
六塵はことごとく文字である
法身はそのまま実相である

要するに、すべてが、仏の真理を語るというのである。
音という音すべてが、仏を、語る。
そして、それが、法身による、実相の開顕だというのである。

ある人は、
汎神論とも言ってよい自然説法の主張は、日本人の自然観にマッチするところが大きく、後に修験道などにも取り入れられて、広く普及することになる。また、あらゆる感覚的な事象がすべて仏として説法するという発想からは、感覚的な表現を重んじ、さまざまな造形芸術や、壮麗な儀礼を発展させることになる。
と、言う。

だが、しかし、自然の音が、そのまま、仏の説法だと単純に、解釈できないところが、空海の狙いである。
まだまだ、一層、深い深い奥に、隠されているという、ペテンの様。

生死の闇は、どうしても、こうしても、消えるものではない。
どこまでも、仏の声を求めて、追記せざるを得ないのである。
終わらない旅なのである。


ある人は、
矛盾に満ちた密教の世界を通俗化すると、きわめて日本的に受容されやすい汎神論に形を変ずる。密教の深遠さと、それが通俗化したときの分かりやすさと、その両方を併せ持つところに空海の天才的な見事さがある。両立不可能な矛盾を抜け抜けと両立させて平然としているところに、空海の巨大さと恐ろしさがあるのである。
と、言う。

単なる、こけおどしである。

何のことは無い。

古今集の、紀貫之の、序文を読めば、そんなことは、一発で、解る。

空海は、日本の言霊を、密教化したたけである。

それを、偉大な創作として、見せたところが、詐欺師の、天才的なところである。

嘘は、大きければ、大きいほど、信憑性があるということ。
これで、お解かりだろう。


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2009年07月24日

神仏は妄想である 254

ここで、再度、インドの、文化背景から、密教というものを、俯瞰する。

約五千年前、インダス河の渓谷に、ハラッパ、モヘンジョダロなどの、高度に発達した、文明が栄えた。
その遺跡から、インダス渓谷文明が、紀元前三千年ころの、インド最古の文明であることが、歴史的証拠として、明らかにされた。

ハラッパ文明が、発掘されて、シャクティ信仰と、シヴァ信仰が、古代インド人の基盤となっていたことが、解った。

その二つの、信仰から、タントラ信仰の二つの面が、解る。

特に、その崇拝の中心が、女性像であることから、インドでは、シャクティ崇拝、女神信仰が、極めて古いものであること。それは、地母神からはじまり、シヴァ信仰とも、密接に関わる。
そして、この二つの、信仰の中に、タントラ行法が、様々な形で、行われていた。

多くの女神像、ヨーガの姿勢で座るシヴァ神とみられる、神の印章が数多く発見された。

シヴァ信仰は、タントラ行者が、リンガ、つまり、男根、ペニスである、それを、シンボルにして、崇拝するという。

タントラの、行法と、神秘主義が、接近し、紀元前1500年頃に、アーリア民族が、後期ヴェーダ文化の思想と、信仰に、大きな影響を与えている。

インダス文明は、その頃に、滅びたのではなく、インド人の生活中に、脈々と、伝えられ、吸収させていった。

今日残る、文献を見ても、アーリア族は、思考、感情も、優れていたといえる。

ヨーガ哲学の、分野でも、彼らは、今日まで人類が高めた、最高峰に達していたといえる。

紀元前1500年頃まで作られた、ヒンドゥー教最古の、リグ・ヴェーダ、では、人間の魂の、目覚めの知識、宇宙の神秘をめぐる永遠の問いが、なされている。

さらに、ウパニシャドという、秘伝書である。
そこでは、人間の魂が、もともと神でありながら、運命に従う点を、見事な方法で、分析する。
究極的な真理を探究しつつ、魂を引き上げ、生と死、エネルギーと物質などを、真理と一体化しようとしている。

仏教においても、それらを無視することなく、普通の宗教行事を、幅広く取り入れていった。

アショーカ王による、仏教の国教化、その後の、紀元前二世紀頃も、仏教熱が、インド人の生活に取り入れられた。

文化の影響力として、仏教は、アショーカ王の時代から、数世紀の間は、力があったが、バラモン教が、ヒンドゥー教として、復活し、隆盛を見る前兆に際して、仏教は、再び、新たな、打開策を見つけださなければならない、ところまで、追い詰められた。

仏教の大乗派の、登場である。

仏陀生誕の地で、勢力を失いつつ、その影響を、インドのガンジス川以外の、国々で、教線を広げていった。

それは、インド美術と、共に、である。

例えば、中央アジアの、トゥルファンや高昌、チベット、中国、朝鮮、そして、日本へ。
アフガニスタンの国教にある、バーミヤン、ハッダの洞窟彫刻、カシガール、ヤルカンド、コータンの町々。
スリランカ、ビルマ、タイ、カンボジアの、アンコール、インドネシアのボロブドールなどである。

さて、密教形成の元には、タントラがある。

この、タントラについて、俯瞰する。

インドの文化の基盤を理解する上でも、タントラ理解は、欠かせないのである。

すべての、宗教に、哲学や、思想に、タントラは、多大な影響を与えた。
タントラの世界を知ることは、密教を知る上で、特に必要な、教養である。

タントラとは、精神的な知識を示す、サンスクリット語の、広げるという意味を持つ、言葉から出た。

知識を広げる、つまり、己に目覚めるための、知識を身につけるという意味である。

更に、タントラは、宗教ではない。

それは人生体験であるとともに、人間がもって生まれた精神的な力を引き出す方法であり、体系なのである。
アジット・ムケルジー タントラ 東洋の知恵

タントラの教えは、先住民族である古代インド人に知られていた。
更に、タントラの意味を、考えると、インド・アーリヤン系に起源を持ち、古代インドの伝統の中にある。
伝統である。
決して、宗教ではない。

更に発展し、紀元前1500年頃にできた、バラモン経典、ヴェーダ文学と関係深く、タントラの儀礼には、ヴェーダの行法に起源をもつものもある。
このタントラ儀礼が、インド哲学の基礎にもなるのである。

この、タントラが、形式を持つのは、ヒンドゥー教、仏教にも見られる。
そして、様々に、発展生成していった。

ウパニシャドの秘伝書、ヨーガ、仏教の影響を受けつつ、インド、中世期、八世紀から、十世紀までに、完全な展開をすることになる。完成といっても、いい。

ここで、確認しておくが、伝統によって、宗教も、支えられてあるということである。
伝統に支えられない宗教とは、今で言う、新興宗教、あるいは、新宗教である。

単に、どこからかの、教義を、少しばかり、変形して、教祖が生まれる。
そこには、伝統を、有することは無い。
つまり、出来損ないの、宗教なのである。
そして、商売としか、言いようが無い。

私が、何より、重んじるのは、伝統である。
それは、民族の有意義な幻想であり、民族を生かす、共同幻想となり、必要不可欠な幻想となるのである。


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2009年07月25日

神仏は妄想である 255

タントラの教えは、非アーリア系の先住民族である、古代インド人に、知られていたものである。

紀元前3000年頃の、インダス文明に属する、ハラッパ文化の中に、ヨーガのポーズや、女神崇拝像が、見られる。
それは、インド・アーリアン系に起源をもち、古代インドの伝統の中心を、なしていたといえる。

更に、紀元前1500年頃にできた、バラモン経典、ヴェーダ文学と密接な関係があり、タントラの儀式には、ヴェーダの、行法に起源をもつものもある。

更に、タントラ儀式が、多くのインド哲学の基礎にもなっているのである。

タントラ形式をもったものは、ヒンドゥー教にも、仏教にも、見られる。

更に、タントラの形式が、生成発展してゆくことで、ウパニシャドの秘伝書や、ヨーガ、そして、仏教などの思想的影響を受けつつ、インド、中世前期、八世紀から、十世紀までに、完全な形、展開になるのである。

ほとんどの、タントラの聖典には、著者がいない。
その聖典の種類は、実に、膨大である。
更に、大幅に違いがあっても、聖なる御言葉という意味の、アーガマとか、二ガマと、呼ばれる。

ヒンドゥー教や、仏教には、早くから文献があるが、タントラの行法ができたのは、聖典ができるよりも、古い。

文字で書かれた最古の、タントラ聖典ができたのは、西暦のはじめ頃であるが、成立が遅いものは、18世紀まで、年代が下がるものもある。

一つのタントラ聖典には、様々な時代の、考え方が付け加えられている。そのため、時代を特定するのは、難しいといわれる。

この、タントラの影響は、インドに留まらず、文献としてみると、世界各地、特に、ネパール、チベット、中国、日本、東南アジアの地域に広がり、地中海文化にも、及んだ。

タントラとは、己に目覚めるための、現実的方法である。
能力に応じて、様々な人間の、要求に見合った方法が、取られた。

目指す目的は同じでも、各人が、それぞれ、独自の方法で、邁進するという、自由がある。更に、自由といっても、束縛を否定するわけではない。積極的に、目覚めるという意味での、自由と、束縛である。

そして、目覚めることにより、宇宙に満ち溢れた普遍的な知識を、身につける事が出来るという。

タントラは、人生の目的や価値に気づかせるために、精神と肉体の、両面にわたる、理論と実践を展開してきたのである。

タントラは、原子理論や、時間・空間の関係や、天体観察や、宇宙論、そしてまた手相学、占星術、化学、錬金術などを高度な水準にまでひきあげ、磨きあげてきた。宇宙の原子理論をタントラが発展させたのは、大変早い時期である。
タントラ 東洋の知恵 アジット・ムケルジー

タントラによれば、宇宙は、オームという、単音節のマントラのような、基本音から、展開してきたという。
宇宙で、見たり感じたりする物体は、すべて、震動を凝縮した音なのであると、なる。

その、震動の一歩進んだ段階で、原子が誕生する。
宇宙は、たえず生成し、分解し、再び、生成すると考える原子集団から成ると、捉える。

そして、人間が、自分の体の、どこに、霊魂の中枢があるのかを、見出すことも、抽象的なシンボルを通して、様々なヨーガの行をすることも、すべて、タントラに則るのである。

タントラは、さまざまな形で現れる大自然や人生に、現実重視の要素をもちこんだという意味で、他に類を見ない。どのような形で顕われている大自然であれ、人生であれ、人間がおのれに目覚める上で役に立たぬものはない。
ムケルジー

その、タントラの人体星宿図を見ると、人間の肉体を、霊魂を発展させる最も強力な道具と見なすのである。
人間というものは、宇宙のミクロな次元を、肉体という枠組みの中に秘めていると、考える。

その図は、人体と天文現象との密接な関係を示す。
人体各部に記されたシンボルは、小宇宙としての、個々の人間に、天体が、どのように影響しているのかを、図にしたものである。

腕には、肩先から、太陽、月、火星、水星、木星、金星、土星、羅喉星、計都星の記号がある。
もう一方の、腕の符号は、月の二十七星群を表す。
九つの惑星と、太陽系の十二の星宿とともに、世界の人間の運命を支配している、弓なりになった人間の肉体は、絶えず、天体のエネルギーの流れに、反応する一つの、壮大な活力に満ちた大宇宙を表し、その宇宙本来の広大な網の目から、逃れることはできないと、する。

タントラによれば、この世に顕れるものは、すべて、プルシャという、男性原理と、プラクリティ、または、シャクティという、女性原理からなる、二元論である。

そこでは、男女の交合が、シヴァ神と、シャクティとの、創造的な結合まで高められるという、思想として、説かれる。

ありとあらゆるものに宿る、シヴァとシャクティは、火のように激しい抱擁、交合の結果、最高の非二元性、それを、解脱という、無二の悦楽の中で、ただ一つの原理となる。

単に、この、考え方が、誤解されて、交合ヨーガ、つまり、セックスヨーガとか、処女崇拝などの儀礼と、された。
呪術と性などという、解説するものもある。

タントラには教義といったものはなく、それはむしろ新しい世界観の誕生と考えられるべきなのである。
ムケルジー

更に、ムケルジーは、
タントラは、幅の広い人間観を大局的に説き、一切を包括した思考システムと経験に裏打ちされた技法をもって、人間それぞれの霊魂の根源を創造的に目覚めさせようとする。そこにタントラの今日的価値もあるといえよう。
と、言う。

密教発生に、大きな影響を与えた、タントラの思想を、詳しく見ることによって、密教の誇大妄想の様が、理解される。

自然発生的に、生まれたインド思想である、タントラの、究極は、性である。
シヴァと、シャクティに、表現されるように、二元論、男と女、ペニスと、ヴァギナによる、世界生成、宇宙生成のお話なのである。

そこから、始まり、そして、そこに、戻る思想が、タントラである。
しばし、タントラの、世界や宇宙、生物、無生物、生命、人間、更には、霊魂というものを、どのように、考えるのかを、見ることにする。

それは、人間の、妄想性を、見ることにもなるのである。


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2009年07月27日

神仏は妄想である 256

究極的には、神聖な悟りから更に、神聖な悟りへと発展してゆく、直感の学問であり、それを通じて、神聖な知識が示される、精神の行法、それが、タントラといわれる。

ここに、アレッと、思う言葉がある。
更に、神聖な悟りへと、発展するのである。

つまり、悟りとは、悟り続ける行為ということになる。
それでは、禅の言う、大悟とは・・・
カーッと、悟るということは、無いということであり、それは、妄想であり、迷いであるともいえる。魔境ともいう。

とんでもない、勘違いか・・・

タントラには、悟り切ったということはない。
終わりの無い旅なのである。

シャクティの進言によって、シヴァが、この世にもたらしたといわれるが、シヴァが登場すると、どうしても、ヒンドゥー教に引っかかる。

さて、タントラは、精神生活の理論と、実践との、両方によっている。
理論は、ニガマとして、実践は、アーガマとして。

アーガマは、シヴァから、その妃パールヴァティーに話し掛けるという、形式をとったタントラであり、二ガマは、逆に、シヴァに語りかける形式である。

アーガマは、人間のうちに眠る宇宙的な力、クンダリニーを目覚めさせる、タントラの秘教的な部分である。

ムケルジーは、
実際的な行法と科学的な考え方をもつタントラは、いわば道徳をこえている。
という。

それは、天からのお告げであり、心や魂の、神秘を示し、人間を本来の姿に、目覚めさせるという。
だが、人間の、本来の姿というものを、知る人がいるのか。

ヒンドゥー・タントラと同じように仏教タントラでも、男性と女性とは、本来の姿からいえば、方便と般若つまり行動と知恵であると信じている。
ムケルジー

悟りには、純粋な知恵すなわち般若と、無限の行動性すなわち方便もしくは大悲の二つの面がある。
鈴木大拙

ヒンドゥー・タントラでは、シヴァが受動的な力と考えられているため、シャクティは能動的な力とされている。シャクティはシヴァの内在的な原理なのである。その他の点では、ヒンドゥー教と仏教の神々は同じものといってよい。
ムケルジー

というより、仏教は、ヒンドゥー教に飲み込まれたのである。
仏陀も、ヒンドゥー教の、一つの神としてある。

タントラの文献はたいへん豊富であるが、その多くはまだ翻訳されていない。現存するタントラ文献で重要なのは、650年ころできたとされる「秘密集会タントラ」である。おそらくは、大乗仏教の有名な学者であるアサンガによって作られた最も古い仏教タントラの一つで仏教が滅び去って禁欲的な秩序が崩壊したさいに生まれた「秘密会議」の産物であったために、そのように名付けられたともいう。
ムケルジー

もう一つの、文献も、仏教起源である。
文殊師利根本タントラである。

1000年頃の「ルドラヤーマラ」1100年頃の、「プラフマヤーマラ」は、ヒンドゥー教のタントラである。

タントラの科学的考え方は、形而上学に似る。
その中に、儀礼と芸術が一つになり、科学が教理に自由を与え、タントラの儀式に経験的な側面をもたらした。

タントラははじめからある目的をもち、宇宙の本体にも関心を示しているが、それは紀元前500年頃の、「ヴェーダ」のサーンキヤ数論体系や、紀元前2000年から1000年頃の、バラモンの正統派の思想と溶け合った枠組みをそのまま受け継いだまでである。
ムケルジー

実に、このタントラの、妄想も、甚だしいものがある。
例えば、三種のグナという、三つの、グナが、人間の背骨の基底で眠る精神的、霊魂的エネルギー、クンダリニー・シャクティと、出会うと、そのエネルギーが目覚め、人体内を
蛇のように上昇し、最終的に、人間を解脱へ、導くという。
ただし、この場合の、人体とは、観念的な、目に見えない、肉体をいうというから、呆れる。

面白い考え方は、
物質界の運動のプロセスは、つねに空間と時間と因果とに関連していると考えられる。時間とは、「過去」と「今」との区別はあるものの、一つにつながったものである。連続する時間のなかでは、単なる一瞬だけが真実であり、宇宙全体はこの単なる一瞬のなかで進化していく。その他のものは、過去も未来も一時の潜在的な現象に過ぎない。空間は時間と同じように、単なる相対的なものであり、相互関係あるいは位置関係に基づいて構成されていると考えられる。
ムケルジー
とある。

古代インド思想では、音、その基礎である、震動の重要性が、知り尽くされていたという。

音は、空間の特殊な性質であるとする。
それゆえ、物質面から見た音は、物体が、機械的に衝突した場合、分子のなかに震動が生じ、次々に、周囲の、空気分子に突き当たり、その結果、音を作り出すと、考えた。

音は、波が海に広がるように、空間を広がりゆく。そして、連続した、同心球状のフィラメント層のかたちで、放射しつつ、増幅されるという。

そして、音は、微妙に弱まってゆく度合いで、識別されると、考えた。

この音に関しての基礎は、タントラで、スポーター・ヴァーダとして、述べられる中心的教義で、儀式の重要なタントリック・マントラの基礎とされている。
つまり、真言と、訳されるものである。

音節の繰り返しによって、震動するリズムが、肉体の中に生じて、霊魂の世界を呼び覚ますと、いわれる。

余談である。
念仏も、題目も、更に、繰り返し、同じ文句を唱えるというのは、一種の自己催眠に入るのである。
それを、霊魂の世界を呼び覚ますとは、評価のし過ぎである。
特殊な、精神状態に陥る事を、霊魂の世界に・・・とは、言い難い。


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2009年07月28日

神仏は妄想である 257

タントラの行者たちは、個々の人間と宇宙とが出会う「場」となる接点の上に、宇宙の交叉点を定めた一つの体系的な行法を発達させてきた。
ムケルジー

それが、ヤントラという、図形であり、マンダラという、神々の姿や形を描くもの、そして、耳に聞こえるものとしての、マントラ、真言として知られる、サンスクリット語の基本音節を、唱えるものである。

タントラによれば、生物であれ無生物であれ、すべてのものはある特定の周波数をもった震動音だということができる。
ムケルジー

音と形は、互いに関連して、すべての形は、ある強さを持った、震動音であり、すべての音には、それぞれ目に見える形が対応していると、考える。

音は、形の反映であるという。形は、音から、生まれたということである。

音によって、あらわれる動的な力を図形化したのが、ヤントラである。
ヤントラとは、助けとか、道具という意味がある。

それは、瞑想を助けるために。そして、具体的に神をかたどり、図像として、紙に書かれたり、金属に彫り付けられたりしている。

点、線、三角形、四角形などから、ヤントラ図形がある。
抽象図形が、組み合わさり、静と動の両面が、バランスを持って描かれる。
特徴は、中心部に、すべての図形が描かれていることである。

ヴァルナ・マーラーという、瞑想の際に用いられる文字の輪を見ると、サンスクリット語アルファベットは、宇宙固有のカテゴリーと共に、宇宙の原理の完全な合成を、表す。
文字の輪は、精神集中の焦点として、用いられ、儀式の間、その神秘的な音節は、知覚を強めるために、唱えられるという。

神聖な音を、古代インド人は、聖なる知識の、源としてきた。
神を理解するための、図形は、大小様々あるが、最小の図形では、究極の真実が、エネルギーの震動として、捉えられる。

きちんと、区切られた、一文字一文字が、神と見なされる。
それを、見て、その並んだ形を判読し、精神集中によって、真実を直感するのである。

更に、
ヤントラの図形のなかで、人間は霊魂力の焦点を示す中心と、自分自身の意識の核となる部分とのあいだに緊密な関係を見ようとするが、「マンダラ」のなかにも、全く同じようなことが実は表現されているのである。
ムケルジー

円を意味する、マンダラは、全体や、総合を模った、宇宙の原図としてある。

そして、霊魂のエネルギーの強力な核の部分を、表す。
マンダラは、終わりに始まりがあり、始まりに、終わりがあるという、エネルギーが、永久に釣り合うことを、示す。

視覚的な、比喩として、四角、三角、迷宮模様などといった、図柄が、描かれる。
それは、タントラ崇拝に、幅広く用いられ、その儀礼の基本的な部分を、なしている。

密教の曼荼羅も、然り。

修行者は、その視覚的な形の中に潜む曼荼羅の、原初的真髄を、心に描く手ほどきを、受ける。ついで、瞑想を通して、曼荼羅を、霊魂の力として、自己の内部に、取り込む。そして、全体を象徴する、円は、退化と進化の原型としての、働きを示すものとなる。

タントラの、ヤントラ図形として、最も有名な、シュリー・ヤントラを見ると、男性原理の上向きの四つの三角形と、女性原理の五つの三角形を組み合わせて、四十三の、小さな三角形から成る。三角形の、外側は、蓮華輪と四角で、囲まれている。

この、ヤントラは、存在世界全体の、ビジョンを観想するためのもの。
図形の、各部は、それぞれ、宇宙原理に関連して、神々のマントラも、ヤントラの各部に記されている。

それらは、瞑想中に、活性化して、修行者は、宇宙と同化する究極の悟りを求めて、シンボルを心に描くという。

ここで、文字に、神を見るというのは、日本の言霊に似ているが、全く違うということを、言う。
そして、また、音そのものにある、真実云々も、言霊、更に、音霊、おとたま、という、日本の伝統の考え方に似るが、違う。

ヤントラ行法は、催眠である。
要するに、勘違いを、起こすということ。

その、図形を見つめていると、中心に吸い込まれるように感じ、更に、精神を集中させるが、それは、催眠である。
自己催眠による、妄想を促すものである。

マンダラを、霊魂の力として、自己の内部に取り込むというが、それは、催眠術の暗示と、同じである。

それに、真言、マントラが、加わると、完全に、特殊感覚を、得て、微妙な心境を生ずる。その生ずるものを、宇宙の震動と感応させて、一体化するという、とてつもない、妄想が、生まれる。

人間の、肉体が、宇宙の写しであるという、根本的な考え方は、理解するが、それによって、解脱や、悟りという、観念を得るというものは、自己陶酔の、何物でもない。

実は、三角形というのは、女性性器の、ヨーニを表すものである。
円も、三角形と、見なされるという。
そして、この、女性性器の、ヨーニは、ヤントラの本質的要素である。

更に、そこから、ヒンドゥー教の、三位一体の三神の一つ、宇宙破壊のシンボルである、シヴァ神に捧げられた、碁盤の目の模様のヤントラを見ると、シヴァ神の、四つの相が、ヨーニ、つまり、女性性器が、台座上の、シヴァ・リンガ、つまり、ペニスとして、碁盤目状の二十一の格子模様に中に、表される。

これは、交合の象徴である。

瞑想、精神集中、そして、神々を祀る、儀式で、吉兆の礼拝対象となるのである。

実は、釈迦仏陀は、それらを、嫌い、排除したのである。
それは、仏陀にとっては、邪道、外道であった。
そんなものによらない、心の姿を、見つめて、静かに、現実を見つめる行為を、伝えたのである。

更に、タントラを、深めてみることにする。


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2009年07月29日

神仏は妄想である 258

タントラにおけるヤントラとか、マンダラと同じく、卵形をした「ブラフマーダン」や、球形をした「サラグマラ」、あるいは「シヴァ・リンガ」といったイメージは、全体世界を悟ったときにあらわれてくる。ブラフマーンダの正しい概念では、全体世界は卵の形で表される。女性原理つまり活動のシンボルであるシャクティの子宮「ヨーニ」のなかに立つシヴァ・リンガは、よく知られているが、これはあらゆる運動と震動の根源なのである。
ムケルジー

タントラの、教えの基本は、実在とは、分かちがたい全体である、との、考え方である。

これが、宇宙的な意識として、示される。

それが、シヴァとシャクティとの結合であるという。
シヴァと、創造力のシャクティとは永遠に結びついたまま、二つに分けられない存在としてある。

宇宙的な意識には、本質的にみずから進化したり退化したりする能力がひそんでいる。もちろん個々の人間にも、この宇宙意識を見につけ、それと同化するような潜在能力がある。この宇宙意識を直感的に知ろうとするのがタントラの目的である。個人というのは、離れ孤島のようなものでは決してなく、それぞれが全宇宙的な図式にはめこまれたものなのである。
ムケルジー

インドに行き、少しばかり、そのような修行に興味を持ち、大半の人が、精神的におかしくなる。
それは、このような、タントラ修行をした、霊たちが、関与する。

更に、ある種の、特殊能力などを、身につけたりする。
勿論、それは、魔界関与のものである。

タントラには、肉体、精神、霊魂と、様々なレベルで、一体となったり、または、別々に、全感覚を、呼び覚ます方法が数多くあるという。

ムケルジーは、
悟りへの道は、自己完成をめざすものでなければならないが、それは否定するとか、逃避するという方法では達成されるはずもない。
と、言う。
つまり、平たく言えば、信じろということである。

全体世界、全ての経験を完全に映しているのが、シヴァとシャクティであり、それは、男性と女性である。

つまり、瞑想によって、個人と宇宙、男と女という、二つの極が、完全に合体する。そして、それによって、全き世界を悟ることになると、いうのである。

人は、一つに結合した、シヴァとシャクティになる。それが、悟りであり、その状態を経験すると、恍惚たる喜び、アーナンダを感じるのであるとの、説である。

ヒンドゥーでも、仏教でも、究極の到達点は、二つの完全な、結合であると、考える。

しかし、全く、ご苦労なことである。
何ゆえに、男と女として、生まれてきたのか。
それを、完全に無視して、男と女の合一により、全体世界とか、宇宙の意識と、同化するという、実に、馬鹿馬鹿しい考え方を、延々と演じてきたということである。

以前も書いたが、人間の体は、宇宙の縮図であるという、タントラの考え方がある。
外界と、内部世界を同じものとして、直観する最高の要諦の一つに、クンダリニー・ヨーガがある。

クンダリニーとは、体に潜むとされる、宇宙エネルギーで、三巻き半とぐろを巻いた、力強い宇宙の女性エネルギーを表す蛇の姿で描かれる。

そのエネルギーが、休止の状態から目覚め、種々の意識の段階をへて、人体内を上昇してゆく。そのシンボルは、ミクロ宇宙としての、脊柱に沿って、位置する、霊魂センター、つまり、チャクラといわれる箇所である、そこを上る。

その、意識の変転は、支配神、マントラ、宇宙の要素、動物のシンボルなどで記された、蓮華形のチャクラとして、描かれる。

脊柱の基底から、頭頂へ上り、そこで、最終的に神と結合するという。

クンダリニー・ヨーガを通して、瞑想のうちに、生まれ出る霊魂の流れは、内部宇宙と、外部宇宙を合体させつつ、無限に続く。

確かに、それは、あるだろう。
自律神経訓練法などからも、意識を集中させることにより、様々な、症状を改善する方法がある。

ここで、この方法も、信じるという、心的活動が必要であるということ。

時間をかけて、壮大に作られた思想である。
そして、それを、信じて行うこと。

ここで、霊魂の云々という言葉から、人間に備わる霊魂の存在を、認めない人は、全く、関与できない。

まだまだ、タントラの世界を、眺めることにするが、空海が、起こした、真言密教というもの、全く、このタントラからのものである。

改めて言えば、仏教タントラを、輸入したといえる。

つまり、仏教も、タントラの伝統を、受け入れて、それを、行うことで、その存続を図ったのである。
つまり、それは、仏教を超えてあるものだったと、いえる。

当然、釈迦仏陀も、それは、知っていたし、また、実践しただろう。
座るという行為は、すなわち、座禅である。

仏陀が成道したというのは、菩提樹の座りである。
それは、ヨーガの一種である。

三蔵法師玄奘も、天竺に出掛けたのは、その、ヨーガの法を知るためである。
ただ、玄奘は、その理屈、理論のみを、学んだのみ。

結局、インド思想の、タントラを知らずに、インドから発生した、宗教は、理解できないということになる。

実に深いものであり、日本の仏教を奉ずるもの達には、仰天である。

念仏や、題目やら、少しばかりの座禅などは、吹き飛ぶ。

全く、その本質を知らないことになる。
理屈だけが先行して、言葉遊びに始終するのである。

だが、私は、このタントラの思想に、危険を感じている。
これは、特殊体質の人間が、できるものであり、通常の、普通の人が、こんな世界に入り込んだら、簡単に言うと、精神病の世界に入ることになる。

実に、危険な、行である。

君主危うきに近づかずである。

健康のために、体を動かす程度の、ヨーガをやっている分にはいいが、このような、奇怪な世界に入り込むのは、魔を呼び寄せることになると、断言する。


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2009年07月30日

神仏は妄想である 259

タントラ行者は、シャクティを絶対者というか唯一者と同じだと見る。というのは、男性原理と女性原理が神聖なかたちで合体したものを表しているのがシャクティだからである。おのれの真の姿に目覚めていくプロセスでは、最終の目的は肉体のなかに「クンダリニー」のエネルギーを呼び起こすことに他ならないが、それはシャクティを小宇宙である人間の肉体に移し変えたものと考えてもいいだろう。
ムケルジー

そこで、肉体の中に、エネルギーの中枢を、見出した。それが、チャクラである。

目を覚ました、クンダリニーは、種々のヨーガの行法によって、七つの、チャクラを、こじ開けながら、上へ、昇る。
クンダリニーは、上昇しつつ、それぞれの、チャクラに、蓄えられたエネルギーを、吸収し、最終的に、純粋エネルギーである、シヴァと、合体するという。

その前に、確認しておく。

女性は、すべて、女性原理の写しと見られ、実在の本質を表す、宇宙エネルギーの、生まれ変わりとされる。
タントラでは、男性原理は、様々な、要素を兼ね備えた、女性原理に匹敵するが、女性原理のほうが、優れているというのである。

シャクティが、宇宙的力であり、宇宙の循環サイクルの、主導力である。
更に、母体であり、永劫不滅な物質がものを生み出す力を反映するという。

そして、生きることを、全面的に肯定する態度を、表し、それとは、逆の一切の態度を、区別し、区分する根源であるという。

ここで、いかに、タントラの説明を聞いても、納得しないことがある。

結局、逆の一切の、態度を、区別し、区分するという。つまり、それらは、悪魔であるという、段取りである。

悪魔の示す、虚偽、暗黒の邪悪な力との宇宙的な闘争を、くまなく、描くという、マルカデーヤ・ブラーナという、一挿話を描いた、写本がある。

今まで、説いてきた、タントラの方法も、ここにいたると、結局、女神と、悪魔の戦いという、お話になってくる。

この、行法を行い、シヴァと、合一しても、それは、主観である。
人間は、肉体という、フレームに、宇宙のミクロな一面を秘めていると、考える。
つまり、肉体の中に、ミクロな宇宙をなす、同じような、エーテル状の、そっくりな人間がいるということだ。

それを、微細身と呼ぶ。

それは、目に見えない。
精神面で、肉体そのものと、関連するというのである。

チャクラについて、もう少し、詳しく見ると、タントラの聖典によって、多少の違いがあるが、霊魂の中枢は、六つあるといわれる。

人体にあって、蓮華に似たような、六つの霊魂センターは、脊柱基底にある、ムーラーダーラ・チャクラをはじめ、生殖器の近くに、スヴァーディスターナ、臍の近くの、マニプーラ、心臓に近い、アナーハタ、喉のそばの、ヴィシュダ、眉間のアージニャーなどである。
七番目の、サハスラーラ・チャクラは、頭上にある、四本の指の幅ほどの、千の花弁の蓮である。

七番目の、チャクラは、クンダリニー・シャクティが、純粋意識である、シヴァと出会う、ブラフマランドラといわれる、場所である。

サハスラーラは、あらゆる、両極端が、そこで、遺筆になる経験を味合わせる至高の、意識の中枢といわれる。

タントラヨーガの、最初の、瞑想は、肛門と、生殖器の間、会陰部の脊柱基底にある、霊魂中枢で、宇宙の要素、地球、四角形で示される、世界の創始者、ブラフマーの支配下にあるという。

クンダリニーが目覚め、チャクラを通過してゆくときは、激しい熱が生じる。クンダリニーが、上昇すると、肉体の下部は、冷たく、不活発になり、一方で、クンダリニーの通過する部分は、炎の如く、熱くなる。

クンダリニー・ヨーガは、物質が精神化される、プロセスであり、一切を超越した、経験を理解するための、内面への、旅であるという。

このような行をなしとげたとき、それをなしとげた最初の兆候が現れてくる。すなわち顔面は太陽のように輝き、肉体は沈静し、自らとも調和し、宇宙と一体化したリズムとも調和していく。
ムケルジー

後に、空海の言う、即身成仏である。

タントラの伝統のある国、インドには、聖者が多い。
大師といわれる人々もである。

更に、マザーテレサのような、聖者といわれる人も現れる。

本物から、ニセモノまで、である。
だが、本物も、ニセモノである。

人類の、意識の目覚めを、云々という。
不思議なことも、多々起こる。

世界中から、人を集める。

聖者たちは、すべてを、それは、私だと言う。
超能力など、吹っ飛ぶような、全能の力を発揮するのである。

彼らの言う、宇宙意識というものが、どこの、宇宙意識なのか、知らない。
それを、体験しなければ、解らないだろう。

何を持っての、宇宙意識との、合一なのか・・・

それは、私だと、言う、聖者や、大師たちの、意識は、どこの、宇宙意識と、繋がるのか。

私は、知らない。
しかし、私の、宇宙意識とは、違うことは、解る。
次元を別にする、多次元の世界は、妄想一色である。

不思議なことに、それらには、宇宙意識というが、宇宙の外という意識が無いのである。

勿論、宇宙意識が、ある、次元の世界のことで、宇宙は、意識と、呼べるものかも、解らない。

更に、宇宙の外の意識と、なれば、妄想することも、出来ない。

私は、タントラを否定しない。
だが、体験していないということであり、更に、私には、異質に感じられて、それを、採用するかと、問われれば、採用しない。

大半が、精神的に、狂うからだ。

万が一、大師たち、聖者たちのようになっても、延々と、それを、繰り返すのみである。

更に、霊的進化云々となると、それは、その世界だけの、ことであるとしか、言えないのである。

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