2009年07月11日

神仏は妄想である 240

いま一つの問題は、原始仏教は、欲を制することこそ、悟りにいたる道であると説いたと考えられている。つまり、欲の否定である。これに対して、密教は欲を肯定する。いわゆる「大楽」思想である。そこで、欲を否定する原始仏教と、欲を肯定する密教の間には、大きな隔絶を生じ、その断絶を埋めるものがないという考え方である。
桐山

釈迦仏陀は、欲を止滅することが、苦からの解脱の唯一の道であると、説いたというが、本当なのか。

更に、それを、行うことを、行と言う。
行、とは、修行のこと。

それは、釈迦仏陀滅後のことであろう。

欲を、止滅させることは、二の次である。
釈迦仏陀は、心のあり方、心の様を、見つめることを、説いたと、私は、知る者である。

欲に翻弄された場合、心が乱れる。ゆえに、心を、乱れさせてはならない。
そこで、欲を、抑えるというのではない。
欲というものの、本質を、見極めてみなさいというのである。

更に、桐山氏の、詭弁が、続くことになる。

密教は、原始仏教の、欲を止滅するところから出発して、その欲の質を変換させてしまう方法を完成した。その方法は、実は仏陀の時代からあったのだが、密教はそれをより普遍的にシステム化したのである。これが密教の「法」とよばれるものなのだ。・・・
桐山

これは、読み過ごしてしまうと、大変なことである。
欲の質を、変換させるというのである。
それを、普遍的にシステム化したという。

これを、考える前に、更に、読み進めると、

従来の仏教学の大きな誤りは、密教を思想的にのみ研究し、密教の「法」を、原初的意識の段階にとどまる呪術的なものと混合・誤解したところにある。密教の出現こそ、「行」の欠落した大乗仏教の偏向性を是正しようとする、一種の仏教復興運動なのだ。
桐山

混合・誤解したという前に、大乗仏教には、それら評価する思想などが、あったのだろうか。
大乗の、欠落した、行とは、何か。

桐山氏は、更に、いつも通りに、分析する。
いつも通りというのは、皆、このように、分析するということである。

上座部仏教は修行にこだわりすぎて独善的・排他的な傾向を強めたが、一方、大衆部系は、「行」より「信心」を重視し、釈迦の説いた根本仏教から離れていった。
桐山

と、多くは、そのように分析する。

そして、上座部系の中で、小乗化することを嫌い、自由にヨーガを行じた人々がいた。これが、後の、中観派、ヨガ唯識派の源流であり、この中に、「空」と「識」の二大理論を打ち立てた、ナーガールジュナと、アサンガという、二人の理論家がいる。

大衆部の大乗は、この理論により、思想的完成をみたが、その経典には、修行法が、欠落していた。
その後、この思想を、元に、修行法の編成、体系化を目指す大乗の一派が、現れた。それが、ヨガ唯識派であり、根本密教復興運動としての、密教の起源は、そこにあるという。

上記の、空と、識、については、以前に少し書いた。

密教の起源が、そこにあるのではなく、インド思想史を、見たときに、密教の起こりを見た通りである。

単に、バラモンの呪術のみを、取り入れても、しようもないこと。ゆえに、思想的基盤を、そこから得たというものである。

要するに、理屈づけである。

更に、原始仏教経典を、自在に利用して、そのバックボーンとした。つまり、解釈である。
いかようにでも、解釈できるのが、仏教なのである。

行にしても、仏陀も、苦行をした経験を持つ。更に、苦行を捨てて、深い瞑想をした。
そこで、自己申請である、解脱を得たのである。

釈迦仏陀が、得たという、解脱とは、どんなものかは、誰も解らない。
本人のみが、解っていることであり、更に、本人のみが、そこにいる。
釈迦仏陀にならなければ、釈迦仏陀を、理解できないのである。

そこで、密教も、自己申請である。
どんなに、理屈を捏ねても、その成仏というものは、自己申請である。

初期仏典に、苦行について、仏陀が語る記述があるが、確認することは、できないのである。

要するに、桐山氏の、密教肯定は、仏陀が、行った行、ヨーガと、禅定であるというのである。
それによって、智慧を得た。
それは、超常的特殊な方法で、行をしたというのである。

仏陀教団では、修行を完成した人は、三つの明知を持つと、いわれる。
超人的な、三つの能力である。

この辺りに、なってくると、桐山氏の、論述に、引き込まれる。

特殊な、ヨーガの瞑想法であるという。

一切の心の、働きを、止滅させて、一点に集中統一するものである。

ここで、それらのことを、書いた、経典を、写すことは、しない。

結論を言えば、明知を得ると、前世の有様が解る。宿命通という。
死後の世界を見通すことが、出来る。天眼通という。
生存の尽きてなくなることを確認する。つまり、完全に、人間としての、因縁を解脱し、涅槃に入るという。漏尽通、ろじんつう、という。

超能力であり、霊能力でもある。

仏陀教団には、そのような、完成した人がいるという。
そして、仏陀も、勿論、それの最初の人である。

だれにでも理解されやすい平易な教理や生活上の実践が、比較的能力の劣った弟子たちのために説かれ、そうしてそういう弟子たちは多かったであろう。(八正道はそういう弟子たちに説かれた)
桐山

こうなってくると、差別化である。

八正道は、比較的劣る弟子たちのために、説かれた教えである。
能力のある、弟子たちには、超能力が、芽生える、修行法が、伝えられたということになるのである。

もっとも、根本的なことは、密教、それも、大乗から、出たと、断言している。
大乗から、出たものならば、程度が、知れる。

誰にも、仏性があり、誰もが、修行すれば、超能力が得られる。霊能者になれるという、馬鹿げた、とても、うそ臭いもの。

大乗の誤りは、すなわち、皆々、救われる。仏になるというもの。
誰もが、宝くじに当たりますという、程度のもの。
愚かな人を騙すには、もってこいである。

宝くじに当たりません。
信仰が足りない、修行が足りないと、言う。

空海は、天才である。
その、空海に、切り込むことにする。



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2009年07月12日

神仏は妄想である 241

ナーガールジュナ、アサンガと流伝して、空海にいたって大成した仏陀の秘密教説は、空海没してここに一千二百年、時代の変化は、天才空海の確立した教法に、きびしい変革を迫っている。
桐山

ナーガールジュナとは、竜樹である。
大乗の祖といわれる。
そして、アサンガとは、マイトレーヤ、つまり、弥勒菩薩から、ユガ師地論を、聞いたといわれる。その弟ヴァスバンドウも、アサンガの指導で、小乗から、大乗に変更した。

桐山氏は、アサンガは、マイトレーヤそのものだと、断言する。
それは、それでいい。
何でも、伝記によれば、とそつ天という、神の世界に上って、教えを聞いたという。

要するに、奇跡である。
大乗を人々に、信じさせるために、云々という、お話である。

小乗より、大乗が、正しいという、理屈である。

インド思想史から見ると、大乗に、インドの様々なもの、民間の信仰も取り入れて、成り立ったという、密教である。

大乗仏教成立の後をうけて密教が登場したのは、修行法を欠いた仏教を是正するための仏教復興運動だった。
と、桐山氏は、何度も、力説するが、竜樹も、アサンガも、釈迦仏陀を、知らない。

竜樹は、理論における、完成者であり、アサンガは、方法を完成に導いたという。
そして、空海となる。

現在、日本仏教の主流は鎌倉仏教であり、それは重ねていうが、修行法を欠落した大衆部の経典をよりどころにした仏教である。決して仏陀の正統な仏教とはいえない。
桐山

そして、密教が正統という。

鎌倉仏教によって、日本仏教は、後退したというのである。それは、「法華経」「無量寿経」を主とする、在家仏教教団にとってかわられたからであると。

あれらは、在家仏教教団なのか・・・
確かに、妻子を持ち、財産を有している。
檀家制度に、あぐらをかいて、のうのうとして、僧侶というのは、実に、その通りであろう。

在家と、考えれば、批判も、優しくなる。

さて、同じく、大乗経典を、頂くが、それぞれが、正統だと、思い込む様は、まさに、宗教らしい。

一言付け加えれば、それらの、仏教も、中国を経てきたということである。
更に、経典は、漢語である。

漢語に、装飾された、経典であるということ。

そして、空海は、中国僧に、灌頂を受けていること。
決して、釈迦仏陀ではない。
ちなみに、灌頂とは、キリスト教の洗礼に似る。
下手をすると、灌頂というものも、その、影響にあるかもしれないのである。

インドで、始まった、大乗の亜流の、更に、亜流の、仏教もどきが、中国製として、整い、それを、空海が、日本に持ち帰った。

法華経の教義に、密教の修行法を取り入れて成ったのが、「大日経」であり、胎蔵界の法であり、華厳経の思想に、密教の修行法を取り入れて、成ったのが、「金剛頂経」であり、金剛界の法であると、桐山氏は言う。

実に、おかしい。
だから、正統だというのだろうか。

その修行法というものが、何故、正統といえるものなのか。

結局、大乗経典の、法華経と、華厳経というものを、利用して、作られたものである。
それでは、話が、また、元に戻る。

法華経は、お話である。
壮大な、創作であると、何度も言った。

そこから、また、密教が、はじまるのか。

空海が清涼殿で、大日如来になってみせたのは、「即身成仏」してみせたのではない。間違ってはいけない。あれは、即身成仏してみせたのではなく、その技法を見せたのである。それは、アサンガが、現身説法して、現身成仏の技術を見せたように、である。と、桐山氏は言う。

何とでも、言えるのである。
過去のものは、いくら、妄想しても、いいのである。
自分を正当化するためには、どんな理屈も、つけられる。

空海は、手品師のようであったということ。

大日如来という、仏も、不思議なものである。
法身仏、ほっしんぶつ、であり、真如の法、そのものである。理仏であるというから、屁理屈の仏なのである。

いうなれば、真理である。
それが、大日如来とは、釈迦仏陀も、言わないのである。

その、大日如来が、説いた教えが、密教であるともいう。

こうなると、妄想甚だしいものが、勝つ。

空海が現じて見せたようなすがたかたちをした大日如来という仏は、この世の中に存在しようはずがないのである。存在しているのは、われわれの心の中である。
桐山

その通り、われわれの心の中に、あれと、思えば在る。無いと思えば、無い。
つまり、自己暗示の何物でもない。

在ると信じて、何か事を行う。つまり、修行である。
その、修行も、何が本当か、実は、誰も知らない。
知るはずがない。
何故なら、そんなものは、無いからである。

無から、有を生み出すのが、人間の脳である。
それは、人間の想像力である。
それは、実に、素晴らしい。
しかし、神や仏を、持ち出すと、途端に、堕落する。

実際の、現実生活ではなく、単なる、妄想の妄想を、編み出すのみ。
妄想を、紡ぎだしているだけである。

必ず、当たるだろうとの、願いの元に、皆々、宝くじを買う。
それ以下の行為であろう。


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2009年07月13日

神仏は妄想である 242

ところで、密教というものを、日本の精神史から、見つめた、亀井勝一郎の、日本人の精神史研究を、見る。

平安期の最大の特徴は、十世紀から十一世紀にわたる藤原の全盛期にみられるが、しかし九世紀における空海(弘法大師)の出現と密教の成立は、日本精神史の重大な事件であって、まづここから語らなければならない。
亀井

そのように、位置づけほど、それは、大きな出来事であった。

奈良期に接続しつつ、民族変貌期の巨大な頂点を示すとともに、日本人の思考方法にひとつの規範を与えたからである。また民族的規範における讃仰が後世長くつづいたことである。
亀井

万葉集には、仏教の影響が実に、希薄であるが、反面、国分寺のような、仏教精神の、受け入れがある。
それが、相対することはなかった。

しかし、文学は、漢詩文の影響と、その模倣は、激しく、更に、純粋大和言葉も、同時に連続していたのである。

亀井は、その、文学と、信仰の二面性という観念で、取り上げる。

そして、
空海が直面したのは、この二元性及び仏教自体のもつ多様性(多くの如来・菩薩・天部の大群)をいかに一つの秩序に包括するかという問題であった。
と、言う。

ここで単なる理論的操作として、「統一」とか「綜合」という言葉を使うのは危険である。どこまでも信仰を基本として、仏教自体のもつ汎仏論的性格を、或る極限まで拡大したならば、それは可能ではないか。言わば信仰の極限とは何か、これが空海のさがし求めたところである。思想上の混乱を経てきた時代の要請でもあるが、そこには彼自身の博学の苦悩ともいうべきものもあったにちがいない。
亀井

文芸評論家は、評論という、表現の、芸術活動である。
空海を、そのように、評価するということも、納得する。

空海はむろん歌人ではない。彼の作として伝えられた短歌はあるが、伝説であり、しかも歌としては稚拙である。それにも拘らず二元性の克服の方向を辿ったのは、「神ながら」自体と鎮魂のしらべが変質してくるとともに、彼の宗教的体験とは一種の詩的体験であったからである。言葉の誕生と生成の秘密を、密教的に解明し組織化した面を私は挙げたい。
亀井

しかし、亀井は、空海の、宗教体験を知らない。更に、密教的という、言い方は、実に、曖昧である。

そして、亀井は、
それだけではなく、仏教各宗の教義はもとより、日本固有の神々をも、「曼荼羅」のうちに包括しうる可能性を示した。
と、言う。

これは、単なる、野心である。

後世の神仏習合を直接説かなかったが、彼の密教は「神ながら」と密着しうる要素をもっていた。・・・
空海は史上最後の密教思想詩人と言えるのではなかろうか。
亀井

空海の、過ごした時代を、俯瞰してみると、奈良の、平城京から、京都の平安京への、遷都がある。
そして、淳仁天皇三年、759年は、万葉集の歌が、この年で終わる。

この頃から、九世紀にかけて、上代以来の、名門が、没落してゆく。そして、藤原一族の時代である。

更に亀井は、藤原によって、天武以来の皇親政治は、完全に終焉したという。

すなわち、藤原一族によって、政治というものが、変わったというのである。
藤原摂政時代である。
しかし、それも、いずれ、院政期となって、藤原の没落に至る。

藤原の、血が天武の血統を、薄めた。
しかし、逆に、天智の血統が、台頭してくるのである。

さて、唐文化の影響は、七世紀以後、深まる。そして、平安京への、遷都とともに、一段と、徹底される。
「うた」が、衰退して、漢詩文の黄金時代がくる。
平安京の、規範も風習も、極端に、唐化される。

大伴家持に代表される、復古への、憧れは、あったが、平安京のエネルギーに、取り込まれてしまう。
大伴家持の、万葉集編纂は、その代表的作業である。

さて、空海である。
彼は、衰退する、佐伯一族の、出である。
藤原氏の、進出は、幼少の頃より、実感として、感じていたはずである。

儒学、文章学を学び、官へ仕えることを、薦められたが、それを、拒否して、出家するという、動機には、時代の、変貌にあるともいえる。

そして、野心である。

政治の上では、もはや、生きているうちは、中央政界での、確約は、望めないのである。

そして、当時の、国分寺中心の、仏教と、僧尼たちの、退廃。
出家と、在家との、区別が、曖昧であったために、生じた、風俗を、乱す行為。

そして、貴族たちの、退廃振りである。
その貴族たちは、アクセサリーのように、仏教を利用していた。
軽薄な、無常観である。

宗教の最大の敵は、それ自体の内部に醸成される惰性だ。すべての退廃はそこに発すると言ってよい。
亀井

その、惰性を、空海は、観たようである。

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2009年07月14日

神仏は妄想である 243

亀井勝一郎は、空海の、見つめたものを、分析する。

第一は、八世紀末の国分寺中心の仏教内容と、僧尼の頽廃についての疑惑である。すでに三論、成実、法相、倶舎、律、華厳の六宗成立していたが、各論を検討しながら、彼はおそらく迷い途方にくれたてであろう。儒教や道教にも接し、漢詩文の才能にもめぐまれていたので、これら各論各説が、心のなかで紛糾に紛糾をかさねていたにちがいないのである。そこに、多面的才能をもつ青年空海の、最初の祈りが生じた。
亀井

確かに、空海は、多面的過ぎるほどに、才能があったと、思う。

最初の、三教指帰、さんがうしき、は、三つの教えの比較である。
そして、唐から、帰国して、書いた、十住心論、である。
究極の救いとは、何か、という、テーマを、我がテーマとした。

第二は、宗教的実践としての祈祷をいかにすべきかという問題である。仏教伝来における「恐怖と祈祷」について・・・仏教が浸透するため直接の媒介となったのは、病気と天災と死の恐怖である。とくに病気治癒という切実な現世利益にとつて、薬と祈祷は必至のものであった。僧は一面では看病師の役割をも果たしてきたのである。
亀井

日本固有の、巫女の役割も、次第に、僧が代行するようになったという。

実は、空海の、密教以前にも、密教的要素は、すでに、伝来して、山岳信仰系において、行われていた。しかし、妖言妖術として、取締りの対象とも、なったのである。

亀井は、天平仏教は、造形仏教と、言ってもいいほどの、ものであるという。それは、否定しない。
拝む対象の仏像の、製作を第一にした。

造型芸術にとくべつ深い愛情をもっていた空海は、これを徹底しようとした。日本人のこの点での才能や、八世紀を通してのおびただしい仏像仏具に接しながら、これをあますところなく包括する宗教上の体系を模索したと言ってよかろう。
亀井

だが、仏像仏画を信仰の対象とする、危険な方向へも進んだのであり、それは、実に危険な賭けでもあった。

今でも、曼荼羅に対して、多くの人は、理解できないがゆえに、神秘性を認めている。
単なる、絵である。
しかし、そこに、宇宙が、精神世界の云々がとなると、危うい。
あれは、芸術として、絵画であると、認識しているうちはよいが、信仰の対象にするには、危険すぎるのである。

だから、亀井も、宗教と、芸術との関係が、問題になるという。

九世紀の、勅撰漢詩集は、日本の歌の、衰退を意味したと、分析する。その中で、つまり、変革期の中での、空海の活動である。

古来、日本人が有していた「かむながらのみち」が、変質したと、亀井は、言うが、私は、そうは、思わない。
単に、時代性、時代精神というものが、呪術、密教の、呪文を容認する形になったと、思う。しかし、それも、一時的である。

造型能力が信仰の中心課題となったように、造語能力も信仰の中心課題となったということだ。彼の宗教的体験が、いかにして詩的体験であり、その逆もそうであったか。これが空海の秘密だが、宗教と芸術との相交わる接点において彼はどのように対処したか。
亀井

七世紀からの、唐文化の絶大なる影響下にあり、民族が変貌を遂げる時期に当たり、世は、まさに、混沌の形相の中であり、つまり、平城京から、平安京へ移る時代の要請もありと、無秩序の世界の中に、身を置きと、亀井は、言うが、変動期ということは、理解するが、そこで、宗教行為の中に、新しいもの、我なるものを、打ち立てるという、空海の目指すものは、野心に他ならない。

もし、本当に、即身成仏という、テーマだけならば、天皇に目立つように、行動はしない。

若き時に、山に籠もったように、山に籠もれば、いいのである。

そこに、空海の、邪念がある。
野心がある。

政治の世界では、無理であるから、精神世界で、と、考える。
天皇をして、空海に、依存させ、天皇を帰依させる。
それが、野心ではなくて、何だろうか。

宗教が、権力者と、つながることは、宗教の堕落であり、イエスキリストが、言ったように、私の国は、天にありだから、この世のこと、現実の政治の革命など、考えることではないと、明確にする。

だが、空海は、その多角的才能もあり、世の中と、様々に関わり、政治とは、別にして、世の中の、指揮を目指す。
そして、それは、他の宗派の、追い落としにもなるのである。
他宗を認めても、やることは、他宗を、排斥することである。

実際、それを、実行した。

空海は、才に溺れた、日本発の、宗教人である。

更に、仏教の、無常観というものを、独自に解釈して、そこからの、救いを、徹底したかのように、見えるが、それは、評価のし過ぎである。

空海は、儒教も、道教も、無常を超えられないとして、観た。
そして、仏教への、帰依の、動機として、無常観を、徹底して、見つめて、行為した。

その一つに、美女の死体の描写に、入念の筆をふるうのである。

美女をめぐり、その快楽を想像し、その妄想に、悩まされるという、誰もが、持つ欲望を、無常観より、解釈するという。
快楽からの、誘惑に、いかに、打ち克つか。

ここまで書いて、結局、空海も、そこで、佇むということだ。

快楽への誘いに対していかにうち克つか、そのときの心の戦いにおいて無常観をよび起こしたとみてよい。快楽への想像力と、死への想像力と、その格闘の涯に、当時の文例に従って書いた文章であろう。
亀井
その文章を、現代訳して、紹介してみる。

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2009年07月15日

神仏は妄想である 244

美女の花というべき目は、緑深き近くの川の流れのようであり、玉のような、美しい耳たぶは、松風の通う、谷のようである。しかし、朱をほどこす、紅の頬も、青きハエの集うところとなり、紅に、染めた唇も、化して、鳥に、ついばまれる穴となる。百の媚の巧みな笑みも、枯れて、晒され、暴かれて、骨の中には、更に見るものはない。千の媚を作った、姿態も、朽ちて爛れ、体の中は、見るも、無残である。・・・・白い手も、沈み、草中の腐敗となる。臭い匂いは、体から、吹き上がる
木村天山訳

美女をめぐる快楽に対して、死体をもって、対処する。
無常観想像力の、駆使であると、亀井は、言う。

このような、感覚は、古代日本には、なかった。
欲望は恵みであり、死体は、穢れとして、土に埋めて、見ることはなかった。
死体は、抜け殻であり、魂の世界に、遊び、子孫を見守る、先祖霊となるのである。

空海の、思考は、中国からのものである。

世の一切の無常と、生死のはかり難きを語り、「このゆえに勝心を因の夕に発し、最報のしんに仰ぐにあらずよりんば、誰か能く漂々たる海底を抜いて蕩々たる法身に昇らん」と、仏教が究極の真理たることを説き、・・・論破するわけである。
亀井

これが、18歳の頃の文章であるとすれば、確かに、頭脳明晰、とてつもない才能に恵まれていただろう。

しかし、頭脳明晰は、その明晰により、誤ること、多々あり。

ただし、当時の、18歳を、現代の、年齢として、理解することは、出来ない。
今は、昔の人の、倍の年月を生きる。

空海の修行は、ここから、はじまるのだ。

そして、二十歳前後から、三十歳までの、唐に行くまでの間、およそ、十年間は、不明である。

山岳に隠れて、修行を続けた。
ただ、高野山では、発見されている。

後年に、天皇に、高野山を乞う文章に
空海少年の日、好んで山水を渉覧して、吉野より南に行くこと一日、さらに西に向かって走ること両日日程にして、平原の幽地あり。名づけて高野といふ。
と、ある。

奈良学僧には、学ばず、山岳にて、禅定と、修法を主としていた、らしい。
らしい、であり、不明である。

空海は、名文家である。
もし、密教でなければ、日本文学に、多大な影響を与えたであろう。
世界的、名文の、文学を作り上げたと、思う。

しかし、それは、密教という、怪しげな、精神世界に、生かされた。

その、怪しげな、密教というものを、空海を通して、見ることにする。

その前に、先の、美女に対する、死体を想定しての、欲望壊滅などの、考え方は、中国には、腐るほどある。
しかし、それは、単なる、遊びの、言葉の羅列である。

そうして、無常という感覚に、酔うのである。
何も、真実、無常などは、どうでもいいのだ。
センチメンタルとでもいう、ほろ酔いである。

憂いにある、その憂いを楽しむのである。

少し、その心境に、浸ってみようかという、程度のもの。

老師になれば、欲望など、覚えることはなくなる。
何せ、年寄りであり、すでに、欲望を覚えるほど、精力は無い。
その、老師に、説教されて、欲望からの、開放などとは、笑わせる。

彼らは、若き時に、その欲望に翻弄された経験から、若き修行者を、脅す。
その程度の、精神レベルである。

若くして、欲望の無いものならば、それは、病気である。
または、体の、どこかが、故障しているのである。

生まれつきの、インポテンツでなければ、若い男は、同然、反応する。反応して、当然であり、自然なのである。

その、人間の欲望の自然の様を、否定しては、何も、成り立たない。

それを、克服するとか、囚われないためにとか、滅するとか、実に、馬鹿馬鹿しいのである。

マスターベーションをして、心の、もやもやが、消えるならば、その方がよい。
それを、罪などと、脅すのは、支配欲である。

何から、何まで、宗教は、人間を支配しようとする。
そして、最後は、政治、経済、人間の、ありとあらゆるところに、入り込み、支配しようとする。

そして、それはまた、人間が、神仏の名を借りて、行うという、蒙昧である。

美女が、腐ってゆく様を、想像して、欲望を、滅するとは、何と言う、いやらしい行為か。

下品極まる。

この、嘘に、嵌る者が、宗教、神仏というものに、騙される。

古代日本の伝統には、そんな趣味は無い。
欲望を恵みとして、その欲望を楽しむ心を、恋と呼び、その、恋心から発する、思いを、心象風景をして、民族の、心の原風景とした。
それを、言葉にしたのが、もののあはれ、である。

一切の、屁理屈は無い。
そして、無いものを、在るものとは、しない。

つまり、妄想を、最も、嫌ったのである。

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2009年07月16日

神仏は妄想である 245

いづれの日かいづれの時か更につきん
貴き人も賎しき人もすべて死に去んぬ
死に去り死に去って灰燼と作んぬ

三界の火宅の裏に焼かるることなかれ
斗藪して早く法身の里に入れ
空海 経国集

斗藪とは、煩悩を祓うという意味。

上記は、密教的な要素は、ない。それよりも、法華経の世界に近い。

無常観は生を凝視するとともに死を凝視する眼であり、「死」眼を通じて生の意味をさぐる行である。それは同時に自己の空無の確認である。
亀井

空海は、天才であったと言ったが、上記のような、漢詩を読むと、単なる、無常観の虜になった、一人であり、唐、中国思想の影響を受けたというのみ。

人間はいかにして迷妄を去って、悟りの世界に入りうるか。いはゆる「転迷開悟」は、各宗に共通の根本の課題だ。
亀井

しかし、それが、嘘ならば。
そんなことが、あるわけが無い。それが、妄想であるとしたら・・・
私は、それを言う。

究極の救いとは何か。空海は自覚してそれを求めた最初の人だが、いかなる場にも自己を限定せず、能うかぎりの心と行動の振幅を示したところに、彼の固有性とともに苦悩があったと思う。
亀井

更に、亀井は、博学の苦悩があったとも、言う。
博学の空虚感も同時に、味わった。そこに、祈りが生じた。この場合の、祈りは、究極のものを示してくれるなにものかとの、邂逅の願いだと、亀井は、言うが、それは、評価のし過ぎである。

確かに、鎌倉仏教には、空海のように、多角的に活動した宗教家、開祖はいない。
どちらかと言うと、オタク的に、信心というものを、考えた人々である。

スケールも違う。
手っ取り早く言えば、天皇と、政治の上に、密教を置いて、支配するという、欲望と、野心である。

そうでなければ、本地垂迹などという、アホなことを、考え付かない。
つまり、日本の神々は、仏の化身である。
神々の上には、仏がいる。

そして、大日如来を天照と、ダブらせた。
大日如来については、後述する。

神々の上には、仏がいるというのは、インドの考え方である。それも、仏教のみの、である。
インド魔界の、神々を、仏の守護神として置いたという、堕落は、甚だしい。
それも、大乗である。

インド大乗仏教が、節操も無く、バラモンなどからの、影響を受けて、更に、インド民間信仰の様々に影響を受けて、変節、変節してゆくのである。
発展ではない。

更に、ヒンドゥーまでとも、限りなく、接近して、ついに、インド仏教は、ヒンドゥーに、飲み込まれたのである。

釈迦仏陀は、今では、ヒンドゥーの神の一人としてある。

大乗が発展するということは、堕落した、変節した、迎合したということである。

最も、堕落したのは、密教までも、仏教に取り入れたことである。

インドに起こった、密教は、仏教とは、似ても、似つかぬもの。更に、中国にて、起こったものは、それの、また、変形したものである。

空海は、密教の、何に、心を奪われたのか。

無常観というものを、超えられたのか。

超えられたというならば、それは、自己申告であるから、信用できない。
であるから、空海が、何を言ったのかを、検証する。

というより、修法というものである。
この、修法というものが、実に、怪しい。
更に、密教は、修法なくして、成り立たないのである。

成仏という、蒙昧に、迷う空海が、どのようにして、成仏という、妄想に至ったのか。

生きながらに、仏になるという、詐欺ペテンに、自らが、嵌まり込んでしまった、空海という、天才の、悲劇である。

亀井勝一郎は、実に、真面目に、このように書く。
ここで仏と人間との距離が問題となる。人間研究の結果は、この距離の無限を自覚せしめるであろう。たとえば自己の内心を観じたとき、それが煩悩と悪の巣であることを自覚せしめられたならば、どうなるか。それこそ、発心の動機にちがいないが、その深さは、この距離の無限をいよいよ明らかに自覚させるであろう。
と、言う。

どうしても、煩悩と、悪の巣が、内心と、観じたときと、それが前提になるのである。それは、どこからの、観念であろうか。
どこから、そのような、病的な観念を得たのであろうか。

自己内省とは、釈迦仏陀の、生き方指導であったが、釈迦仏陀は、単に無常観という、ものの見方を持って、人生を見たのではない。

そんな、煩悩と、悪の巣の人間ならば、死ぬことである。しかし、死ねない。だから、仏という妄想に、身を委ねるしかない。

天才空海は、何故、己、独りとして、その道を生きなかったのか。
実は、成仏という、即身成仏という、妄想により、世の中に君臨するという、欲望に生きたのである。
であるから、最悪の、詐欺師となる。
日本始まって以来の、ペテン師である。

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神仏は妄想である 246

永久に救われざる存在としての自己確認という、一種の絶望に見舞われないだろうか。すべての求道の根本にはこの種の絶望があるにちがいない。
しかもなお成仏への道があるとすれば、生まれ変わり生まれ変わっての殆ど永劫の修行の結果か、さもなければ死後の可能性にすぎない。そうならばこの肉身における成仏の可能性とは、不可能と同じことになるではないか。求信の途上で、誰もが直面する壁のようなものであり、またこの点でニヒリズムにおちいる。
しかし「可能性」とか「不可能性」とかいうが、それはどういうことか。そうならば相対的なものにすぎない。仏智は無分別、無限定である。仏と人間の距離についての自意識そのものが、妄想ではないと言い切れるかどうか。これを撤去し、仏性「即」人間の世界に生きる道はないか。
亀井勝一郎

仏と、人間の、距離とは、妄想である。

すべての、大乗は、その妄想に、まっしぐらである。
釈迦仏陀は、ただ、生活指導としての、内道、内省、つまり、心のあり方と、その、見つめ方を教えたのである。

死後の世界云々も、霊のこと、云々も無い。
それらには、触れなかった。触れる必要がなかった。
いかに、心を平安にして、生きるか。それが、テーマだった。

心を平安にして生きる。そして、平安にして、死ぬ。
ただ、それだけの、釈迦仏陀の行為と、指導だった。

ここ、ここに至ると、それが、とんでもない、化け物になったのである。

三蜜加持すれば促身に成仏する。
空海

三蜜加持とは、何か。

仏の心のはたらきと、わが心のはたらきを同体にし、
仏のことばのはたらきと、わがことばのはたらきを同体にし、
仏のからだのはたらきと、わがからだのはたらきを同体にする。
桐山靖雄
具体的にすると、三蜜加持とは、「印契」いんげい「観想」「真言」である。

印契とは、手と指を使い、様々な形をつくる。
印相というもので、印を結ぶという。
それで、様々な物事を象徴するという。
身蜜ともいう。

観想とは、心の中で、定められた物事を、強く観念すること。
意蜜という。

真言とは、仏の真実の言葉とされる、梵語で成り立つ、一定の章句を口で唱える。
語蜜という。

この三つの所作が、連続して、一つの法を成立させる。
この、三蜜加持の手法をもとに、「金剛界の法」と「胎蔵界の法」と、二つの、即身成仏の体系がある。

説明する前に言うが、これは、自己暗示である。
自己暗示に入る、方法である。

密教が、釈迦仏陀の教えではないことが、よく解るものである。
これは、全く、バラモンのものである。
もし、これで、即身成仏するのならば、別に、こんな方法を使わなくしても、いくらでも、成仏できる。

我、成仏せりと、思い込めば、足りる。

全くもって、こけおどしである。

読みやすくして、以下、少し説明する。

金剛界の法である。

仏眼 合掌して、二頭指各々中指の上の節の背につけ、ニ小指の頭あい支えて、中間を開く。二大指もまたしかなり。
これ如来五眼の印なり。
胸の前に当てて真言七辺を誦して、身の四処を加持せよ。
真言にいわく。
のうぼう ぼぎやばとう うしゆにしや おんろろそはろじんばら ちしつちしつたろしやに さらばらた さたにえい そわか

このようにして、印を結び、真言を唱えて、心に仏を観念すると、成仏、すなわち、仏になるというのである。

一体、仏とは、何かということになる。

更に、梵語の、文字を、思い描き、それぞれを、体のそれぞれの位置で、思い描く。

あ ばん ばん らん らん か か か きや きや あ
という、梵語に意味を与えて、自己暗示をかけるというもの。

自律神経訓練法というものがある。
両肩が、温かい、温かい、温かい。
両腕が、重い、重い、重い。

それを、実に複雑に、ならやら、儀式的に行うことによって、何やら、何やらの、心境になってゆくというものである。

桐山氏は、
仏眼、この印明をむすぶがゆえに、自他一切の障害を排除して法が成就する。
というが、ご苦労なことである。

これから、少しばかり、桐山氏の、解説で、その方法と、意味を紹介するが、実際の、真言密教では、通常の言葉の理解では、理解できないし、彼らは、成りきっている、つまり、自己暗示に、嵌りまくりなので、人も、我も、解らない言葉で、語ることしか出来ない。

ただ、言い分はある。
実際に、行じることだと。そうすれば、解るというのだろう。

死ぬまでの暇つぶしでも、そんな暇は無い。
空海の時代なら、ともかく、そんなことで、時間を使っていたのでは、世界国家のためにならないばかりか、悪因縁を作るのが、オチである。

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2009年07月17日

神仏は妄想である 247

入我我入観

これは、文字の通り、対象とするものが自分の中に入り、自分もまた対象の中に入るということであるが、「入る」ということは、「合体一致」するということである。したがって、これが完全になされたら、当然、対象そのものになってしまうことになる。
桐山靖雄 密教入門

これが、密教の、根本原理であり、即身成仏とは、この、入我我入の対象を、仏に置いたものであると、いう。
この技法を体得したら、対象次第では、何にでも、変身できるというわけだ。

そして、驚くべきは、ここでは、大日如来を対象とする。
勿論、密教では、修法の種類によって、どんな仏にでも、変身するのである。

その前に、大日如来という、存在は、想像の産物である。
一体、どうして、その想像の産物と、一体になるのか。

頭が、イカレているとしか、思えない。

われわれの目の前に、本尊の浄土を思い浮かべ、そして、そこへ浄土におられる本尊を迎えて、これを合致せしめ、これに供養してから、入我我入観という、本尊と自分と無二一体であるという観想を凝らす・・・

例えば、不動明王に場合は、不動の真言を唱え、不動の心を心とし、我が三業が、仏の三蜜と一致する本尊加持の作法を修し、不動と無二一体であって、本尊我に入り、我本尊に入る。一切衆生もまた本尊に入る。本尊と我と一切衆生と無二であるとの観想を凝らすことが、入我我入観、即ち、身蜜の一致を示したものである。

仏の身、語、意のはたらきを、三蜜という。
それに対して、凡夫は、三業である。

三蜜加持とは、凡夫の三業を、仏の三蜜と合致させるという意味であり、入我我入は、その、最も、中心とするところである。

入我我入観は、三蜜加持のうちの、身蜜の成就である。

ここで、入我我入と、入我我入観とは、違う。
入我我入は、三蜜成就して、即身成仏を完成した状態であり、観の方は、身蜜だけの、一蜜成就法である。

そこでは、まだ、語蜜と、意蜜が、成就していないということになる。

意蜜成就の法は、字輪観と言う法である。

仏の心のはたらきを、観ずるものである。

真言密教では、本尊の種字の字義を観ずるのは浅略であるといい、その真言を観ずるのは深秘であるとし、その梵号の一々の字を観ずるのを最深秘とし、秘中の秘であるとする。
桐山靖雄

その、梵号とは、ア、バ、ラ、カ、キャの五字を、観ずることである。
この、五字は、地・水・火・風・空の、五大要素であり、森羅万象、宇宙のあらゆるものが、この五大によって、成り立つ。

この、五大において、我と仏とは、無二一体である。

また、この五字には、同時に、五智が含まれている。
つまり、五字は、五智の種字真言でもあり、五智獲得に通じて、これを観ずることは、意蜜の、行になるというのである。

まさに、インド哲学の、粋を集めての、行である。

つまり、バラモンの行である。

甚だしいのは、大日如来との、一致、合体などという、とんでも、妄想である。
更に、想像の産物としての、様々な、仏との、合体だの、一致だのと、掲げる。

勿論、本人は、その気であるから、何の問題もない。

それを、修行として、やる、というなら、止めることもない。
だから、それが、唯一絶対の、法であると、言うならば、私は言う。
妄想である、と。

生身の肉体を、持ち、糞、小便、目糞、鼻糞、耳糞と、糞まみれの、人間が、一時的に、仏になったという、感覚を得ても、所詮は、人間、つまり、生身の人間から、離れることは、出来ない。

ただ、知的刺激としては、お勉強するに、暇つぶしの最たるものである。

一体、全体、人間は、こうも、救われぬものなのか。
何故、人間として、生きて、それで、善し、としないのか。
どうしても、妄想の只中に、身を入れて、他とは、違う存在であると、差別を、優越意識として、持ちたいものか。

更に、その、基本は、妄想である。

空海という、人間の、偉大性、巨大性は、認めるが、ここ、ここに至ると、教祖、開祖が、持つ、異常性を見るものである。

我は、人と違う。
我は、特別な者であるという、意識。

それは、どんな宗教を、信じる人にも、共通する、選民意識に、似る。

宗教の教祖に見る、偉大性は、その、勝れた才能に見ることが出来るが、上記のような、行を持って、仏と、合致するなどいう、妄想は、とても、受け入れられるものではない。

現代で言えば、カリスマ性というのだろうが、それぞれの才能の場面での、カリスマ性というならば、理解するが、妄想の産物との、一体、合体、一致などというと、あはれ、というしかないのである。

この、密教系から、出た、多くの宗教団体は、兎も角、そのような、異常、異質な、感覚を善しとする。

甚だしいのは、霊能力者養成などという、馬鹿げた、修行を奨励するものもある。

特別な力を、得たいという、妄想の欲望を、手玉に取るのである。
人間は、人間以外のモノに、憧れてはいけない。

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2009年07月18日

神仏は妄想である 248

五相成身観

即身成仏・五つの過程
五相成身観は、凡夫が、仏になるまでの、過程を五種類に分類したものである。

密教の即身成仏の技法は、さきに述べた通り、三蜜加持が中心であるが、その三蜜行の中で最も中心となるものは、いうまでもなく、意蜜の行である。この意蜜の行( 観法・または観想) にはいくつかあるが、その最も主なものは、この五相成身観と阿字観( 本不生観ともいう) である。このうち阿字観は「大日経系統」すなわち「胎蔵法」に属する法で、五相成身観は「金剛頂系統」すなわち「金剛界」に属する観法である。
桐山

五相成身とは、
一にはこれ通達心、ニにはこれ菩提心、三にはこれ金剛心、四にはこれ金剛身、五にはこれ無上菩提を証して金剛堅固の身を得るなり
とは、空海の、菩提心論にある。

その方法は、結跏趺坐して、数息観に入る。
静かな呼吸とともに、一から七までを数え、もどって、七から、一までを数える。
無識身三摩地といい、心を空虚に、何事も、心に留めない。
無心、無我の心を得るためである。
その境地に入ったら、続いて、「空観」に入る。観想中の、けんだつばしょう、は、空想上の城、旋火輪は、棒に火をつけて、くるくるまわすと火の輪のように、見える。
しかし、その火は、実在しない。
だから、もとに、架空の存在で、われわれが、実在と見ているものすべてそのように架空の存在に過ぎないと観ずるもの。
すなわち、「空」の定に入るのである。
この空の定に入ることにより、智を表示する、蓮華部の仏の加持を得て、その加持力により、次の、通達菩提の三昧に入る。

その後、延々と、行が、続くのである。

例えば、お茶のお手前のように、進んでゆく。
そして、即身成仏となるのである。

ちなみに、桐山氏も、観無量寿経による、阿弥陀仏の浄土に生まれるための、十六の観法を、紹介している。

一、 日没を観じて西方極楽を想う日想観
二、 水と氷の美しさを観じて極楽の大地を想う水想観
三、 水想観を完成して極楽の大地を想う地想観
四、 極楽の宝樹を想う樹想観
五、 極楽の池水を想う八功徳水想観
六、 極楽の宝楼を想う楼想観
七、 阿弥陀仏の蓮華の台座を想う華座想観
八、 仏像をみて阿弥陀仏の姿を想う像想観
九、 阿弥陀仏の真のすがたを想うことによって、一切の諸仏のすがたを見ることが、できる、遍観一切色身想観
十、 阿弥陀仏の脇侍である観音を想う観音観
十一、 おなじく勢至を想う勢至観
十二、 一切の浄土の仏・菩薩などを想う普観想観
十三、 以上、10から12の、観想のできないものが、大身、小身の阿弥陀仏などを、観ずる雑想観
そして、最後に、それぞれの能力、素質に応じた、修行により、極楽に生まれるさまを想う、14の、上輩観、15の、中輩観、16の、下輩観である。

この、十六観法は、極楽浄土に、往生成仏するための、修行法である。

それら、一切を、切り捨てて、念仏、一本槍で、救われると、説いたのが、法然、親鸞、その他、諸々である。

そこで、桐山氏は、
あきらかに、即身成仏の修行法としては、密教の三蜜加持の方法が最もすぐれ、最も進歩したものである。法然、親鸞は、皮肉にも、より高度に進んだ三蜜を捨てて一蜜をとることにより、それより古くて劣った「観無量寿経」を、「大日経」とおなじ地位にまで引き上げたのである。ただし、それは、目に一丁字もない平安、鎌倉の庶民を布教の対象にしたがゆえに可能であり、妥当であったのだ。

更に、日蓮にいたっては、最澄の苦悩である、法華経に、いかにして、三蜜加持を取り入れるかというものを、あっさりと、題目一蜜のみを採用することで、解決した。

日蓮は、仏教の知識なく、教養乏しい、庶民を対象にしたがゆえに、可能であり、妥当となったのである、と、桐山氏は、言う。

最もである。

鎌倉仏教は、三蜜加持を捨て、経典中の、観法をも、放棄した。

堕落。
そのように、専門職の、僧たちには、見えただろう。

ここで、桐山氏は、面白いことをいう。

私は思うのだが、まことに皮肉なことながら、鎌倉時代の民衆は、平安密教の高度で複雑な三蜜加持では成仏できず、単純素朴な唱題唱名念仏でなければならなかったが、高い教養と複雑な心理構造を持つ現代人は、それとはまったく逆に、単純素朴な唱題唱念仏で成仏することのほうが、かえってむずかしくなっていると想われるのだが、・・・・


ここ、ここに至ると、仏教経典というものの、いかがわしさというものが、顕著である。

鎌倉仏教は、即身成仏できるという、安心を与えるだけで、即身成仏することは、放棄してしまったと思われると、桐山氏は、言う。

私は言う。
それ以前に、即身成仏するという、経典を書いた者たちの、意図は、何だったのか、である。

そして、何故、人間は、人間ではなく、超越したかのように思える、即身成仏を目指す必要があるのかということである。

インド思考の、遊びに、乗せられたのである。
更に、それを、中国にて、徹底的に、味付けして、妄想逞しく、行法を完成させたと、思わせた。

つまり、騙しである。
こけおどしも、ここまで来ると、詐欺である。
スーパーマンのお話を、読んで、スーハーマンになるべく、努力するという、幼児の遊び心と、変わらない。

まとめて、言えば、空海の、密教が、高度な修行体系を作り、鎌倉仏教の開祖たちは、ハウツーものの、仏教を、作り上げたといえる。

兎に角、信じる者は、騙されるということ、である。

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2009年07月20日

神仏は妄想である 249

あの真言密教の即身成仏法には、遺憾ながら欠陥がある。致命的な欠陥が二つあるのである。あの法をあのまま何千遍、何万遍修しても、即身成仏は不可能であろう。何故か?
桐山

私は、密教、特に、空海が発見発明したところの、密教の、批判と、嘘偽りを書いている。そこで、現代に、その体験者としてある、桐山氏の、密教入門を使い、解説している。

実は、空海については、まだまだ、色々な角度から見るために、準備している。

何故か。
空海は、日本の仏教の、基礎を作った一人である。
他宗にも、大きな影響を与えた、と、共に、彼は、天皇を、その祭壇に平伏すことを、願った、野心家である。

唐から、帰国しても、空海は、すぐに、都に入ることを、許されない。
それは、彼の資格は、留学生であり、二十年間、唐に留まって、修学することが、義務づけられていた。
修学期間を、大幅に短縮して、帰国することは、重罪に値するものである。

朝廷は、空海が、持ち帰った、仏典の目録を見て、その業績を認めたのだが、処遇に困惑し、暫く、筑紫に留めざるを、得なかったのである。

空海は、二年で、帰国した。
それに、比べられるのが、最澄である。

最澄は、正式な手続きを踏んだ、入唐である。
たった、一年と少しで、帰国している。

最澄の目的は、天台の教えを、受け継ぐことにあった。
唐に入ってすぐに、天台の教えを、授けられ、更に、禅、密教の教えを、学ぶ。が、果たして、その短い期間に、習い修めることが、できるか、である。

しかし、多数の経典と、若干の密教法具などを、携えて、帰国した。

帰国した、最澄は、法華一乗の教えを、確信をもって、説いたのである。

天台法華宗である。

法華経が唯一というのは、何も、日蓮だけではない。
最澄も、誤魔化されてしまったのである。

しかし、法華経には、即身成仏の修する方法が無い。

それで、また、話は、元に戻る。

それは先ず第一に、あの成仏法は、仏になることを教えながら、仏というものの本体をはっきり明示していないのである。仏というものの本体が漠然としているのである。
桐山

法華経には、龍女成仏が、書かれていて、その資格、能力を説いていて、具体的である。しかし、それも、方法に関しては、その具体的方法が無いのである。
桐山氏も、それを、指摘する。

真言密教の成仏法は甚だしく観念的である。かつ抽象的であって、仏とはこれだという率直明快な提示がない。仏のさとりの内容らしいものは説こうとしているのだが、肝心のところは、「言説不可得」といって逃げてしまっている。
桐山

仏になるどころではない、せいぜい、仏になったつもりになるだけである。
桐山

私も、同じである。

一体、仏とは、何か、である。

法華経の、方便品第二には、
諸仏の智慧は甚深無量なり。その智慧は難解難入なり
如来の知見は広大深遠なり。無量・無碍・無所畏・禅定・解脱・三昧あって深く無際に入り、一切未曾有の法を成就せり
である。

解釈で、どうにでもなるもの。
実に、馬鹿馬鹿しい言葉遊びである。

兎に角、形容して、形容して、深遠なりと、言うのである。
呆れる。

子供騙しも、いいところである。
それを、あたかも、知る如くに、説くという、仏教家であるから、詐欺師といっても、いい。

何も無い、空虚なところを指して、あそこには、こんな、大きなモノがあります。それは、とても、恐ろしいモノです。
そんな、按配である。

インド人の、言葉遊びの、罠に嵌っているのである。

もう一つは、漢訳の罠である。

すべての、大乗経典には、上記のような、説明以外に、仏を言うものは無い。

そこで、登場するのが、大日経である。

そこでは、釈迦仏陀の教えなどない。
何せ、教主が、大日如来である。

勿論、架空の存在である。

ただ、その訳が、日、なのである。
太陽である。

迷妄愚痴の暗黒を、太陽の光、それを、智慧とする、で、照らすというのである。

原始宗教の大元は、太陽信仰である。
インドも、それに漏れず、である。
ゆえに、太陽を、日を、以って、新しい宗教を拓いたと見る事が出来る。

密教では、愛も慈悲も、完全なる智慧の中にあると、観たのである。
それが、大日如来である、絶対の智慧そのものを、身体としているという。
ここに至ると、一神教に似る。

そうすると、太陽に成れとは、言わない。
一切智を得るというのである。

一切智を得るとは、超人になるということである。

人間は、人間以外のものには、ならないのであるが・・・

大日経にも、金剛頂経にも、それを、体得する、方法が、提示されているという。

桐山氏は、確信して言う。
おわかりであろう。密教の修行の、究極の目標は、この一切智を獲得することにあったのである。密教の即身成仏とは、この一切智を自身の上に完成することなのである。
桐山

そして、獲得すると、大日如来と、同じであり、即身成仏を、完成するのである、と言う。

大日経典は、大乗経典の後に、出来上がったものである。
今までの、経典には、無い、奇想天外なことを、書いて、人を騙すのである。

密教は、鎌倉仏教など、どうしようもない、堕落だと言うのである。
ただ、念仏、ただ、題目では、どうしようもない、と。

では、一切智とは、何かということになると、待ってましたと、ばかりに、説明が始まる。

それは、五つの智慧から、成りますという。

面倒だか、一々、それを、書いてゆくことにする。

それにしても、神仏に、嵌る人は、言葉遊びが、好きである。
ああでもあり、こうでもある、つまり、こういうことであり、ああいうことであり、そして、仏に成るのである。

まだまだ、馬鹿馬鹿しい話は、続くの、です。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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