2009年07月01日

神仏は妄想である 230

ただ今、庭野日敬さんの、新しい法華経の解釈という、本を読んでいる。

とてつもなく、驚くべきことが、書かれてる。
勿論、それも、法華経から出ていることである。

その前に、もう一度言うが、法華経は、漢訳されたものである。
クマラジューバによって、漢訳された。
その時に、どのように手が入れられたのか、である。

法華経の重大な部分にも、彼の手が入っている。

妄想の経典から、更に、訳した者の、妄想が、入り混じるということである。

たとえば、経典を読誦すれば、仏の教えが深く心に植えつけられ、魂が清められますから、もともと読経ということは自分自身の成道のためにする行であります。ところが、これを祖先の霊前において行えば、自分が受けるべき功徳を祖先に「ふり向ける」ことになります。祖先の霊の成仏をたすけることになります。だから、亡き人の霊前で読経することを回向というのです。
庭野日敬

自分の魂を清めるということについては、主観的なものなので、いいとして、祖先の霊を、成仏させることができると、断言する何物も無い。

すべて、人間の行為は、自業自得に、尽きる。
因果応報である。

子孫の読経により、祖先が、仏に成るということは、決して無い。

それならば、釈迦仏陀の、考え方と、真っ向から、対立する。

あなたが、したことの、報いは、あなたが、受けのである。
それを、誰も、介入できない。

更に、驚くべきことは、

しかし、回向はけっして亡き人に対してばかりするものではありません。その本義からいえば、生きている人びとに対して行ってもさしつかえないどころか、もっと意義のあることといえましょう。すなわち、われわれ人類全体の幸福を念じながら読経をすれば、自分が受けるべき功徳を人類全体に「ふり向ける」ことになります。
庭野日敬

これが、宗教団体の手である。

あたかも、それが、世界人類の幸福に、関わるかのように、指導する。
そして、妄想の、どつぼに、嵌める。

世界人類が幸福でありますように
と、掲げる、宗教団体がある。

彼らの言う、世界とは、どんな世界なのか。
キリスト教徒の言う世界とは、どこの、世界なのか。イスラム教徒の言う、世界とは、どこの世界なのか。

イスラム教徒、キリスト教の対立の、激しい場所に、行ってみるがいい。
相手を、殺しても、いいのである。

どこに、人類の、幸福があるのか。
それは、宗教の無い、世界である。

一つの、宗教観念により、世界は、いつも、乱れ、戦い、不幸である。
それを、知ってのことか。

あまりの、認識不足である。

更に、話を、もっと、レベルを下げて、人のために、読経して、された相手が、具合が悪くなるということを、知ってのことか。

ありがた迷惑である。

読経は、人間として、もっとも大切な法の功徳を他へ布施するという。
それは、大変な、自己犠牲であるとも、いう。


布施の中でも、もっとも、尊い行為が、読経だというのである。

この人は、読経、つまり、お経の暗誦のために、はじまったという、読経の歴史を知らないらしい。

経典を、読むとは、覚えるために、はじめられた行為である。

それが、いつしか、経典のために、経典を読む。つまり、その経典こそ、正しいものであるという、作者の意向を実行するものとなったのである。
法華経こそ、仏が、説いた、最後の教えであるという、喧伝をするために、功徳があると、人に、喧伝するために、唱えさせたものである。

法華経を、奉ずる、どこの、宗教各派も、当初は、集団催眠のようになり、おかしくなる人が続出した。つまり、霊が憑いたという、やつである。
狐や、蛇の霊から、先祖の霊まで、続々と出た。

それを、読経によって、収めることが、出来たと、信じた。また、その様を見て、信じ込んだ者もいる。

人間の潜在意識を、少し開くと、とんでもないものが、出てくる。
説明できないゆえに、霊だと、信じる。

特に、ヒステリーの女などは、完璧に、嵌る。

法華経を、唱えて、霊もどきを、引き出す集団は、実に多い。

自作自演の演技であるが、霊であると、信じるのである。

祖先の霊を回向すると祖先の霊が成仏する。そうすれば、かならずその功徳は自分の身に返ってくるのです。それだけ業が消滅するからであります。
庭野日敬

上記、恐ろしい、考え方である。

読経をすると、祖先の霊が、仏になるというのである。
ここまで、無知蒙昧であると、手が付けられない。

釈迦仏陀は、一言も、そのようなことを、言っていない。
我が身のことは、すべて、我が身が引き受けるのである。

ちなみに、霊というものは、ただ、思い出すだけで、十分に、満足する。
そして、我が身の、行ったことに対する、我が身の決算は、我が身がすると、知っている。

霊界という世界があるならば、そこは、ただ、想念の世界である。
他の一切は、関わりが、持てない世界である。

法華経を唱えている人が、行くべき、霊界は、法華経を唱えて、迷っているもの達の、霊界である。
決して、釈迦仏陀の、霊界には、行かない。

釈迦仏陀の、霊界に行くには、釈迦仏陀にならなければならい。つまり、妄想ではなく、行為によって、釈迦仏陀になることなのである。

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2009年07月02日

神仏は妄想である 231

分別功徳品第十七を、見ている。

これは、われわれが心の底から仏の無量寿を信解 しんげ することができたとき、達しえられる境地を説いてあるのです。仏がいつも霊鷲山におられるのを見ることができるというのは、自分の現在住んでいる所にいつも仏さまがいらっしゃることを確信するようになるという意味です。そして、自分の周囲ではいつも仏の教えが説かれているのだということを、如実に感じ取ることができるのです。
庭野日敬

そのように思いなさい。までは、解る。

また、娑婆世界がそのような美しい国土に見えるということは、信仰がそこまで達すれば、娑婆世界がそのままで浄土となるという意味です。
庭野

これは、全く、全体主義である。
更に、為政者に、都合の良い教えである。

どんなに、支配されても、信仰が深ければ、この世が浄土に見えるという。

ミャンマー・ビルマの独裁政権の中で、人々は、篤い信仰を持つ。持たざるをえない。
しかし、それは、信仰というより、篤い祈りは、逃避である。現実逃避なのである。

如何ともし難い、政治に、無力であることを、諦めて、信仰によって、幻想を抱くしかない。

悪徳政治家が、宗教を推奨するのは、目に見えてる。

生かさず殺さず、民衆は、宗教の、妄想に浸っていれば、足りるのである。

現実の世界に、目覚めてもらっては、困る。

実に、馬鹿馬鹿しい。

更に、庭野は、続ける。

仏の教えによって、心がつねに法悦に満たされておれば、この現実の世界が楽しくて楽しくて仕方のない所に一変するのです。どこを見ても美しく、だれを見ても菩薩に見えるのです。すなわち、その人の表面のみにくさを突き抜けた奥の奥にある平等の仏性を見ることができるのです。
庭野

全く、嘘である。

平等の仏性など、ありはしない。
これは、最澄の、その教えを受けた、中国の仏教思想である。

誰もが、仏性を有するという教えである。
一見、耳さわりがいいが、こんな馬鹿なことはない。

これも、支配者には、もってこいの思想である。

どんなに、現実が、哀れで、惨めでも、信仰により、楽しくて楽しくてならないと、言わせるとは、何という、傲慢な考え方であろうか。

だから、共産主義も、宗教と同じく、信仰させるのである。
主義というものに。
二つは、同じ根から出るものである。

宗教は、アヘンであるが、主義もまた、アヘンである。

それによって、どれだけの人の命が、失われたか。

ホロコースト、ユダヤ人大量虐殺を言うならば、何故、共産主義と、宗教による、大量虐殺を言わないのか。

そこに、目くらましがある。

この人は、法華経を説いているつもりだが、大変重大な、幻想と、妄想を説いているとは、知らない。

更に、経典を訳して
如来の滅後に、もしこの教えを聞いて、疑ったりそしったりすることなく、素直にありがたいという心を起こしたならば、もはやそれで真実の信仰を得たものと知るがよろしい。

ということだ。
呆れて、物も言えない。

疑うな、信ぜよ。
この蒙昧により、どれほど、多くの人が、迷い、その死後も、迷い続けているか、知れない。

それで、この人は、仏になったのだろうか。
今、一体、どこにいるのか。

立正佼成会という、宗教団体を立ち上げて、成功者と呼ばれた。
信じられないのである。

勿論、法華経を信奉する、団体は、多い。
霊友会や、創価学会、その他、諸々。

法華経は、悪魔に至る道である。

我を失い。仏という、妄想に身を委ねるとは、人間として、完全に誤っている。

人間は、人間であり、死後も、人間の霊である。
決して、仏という、化け物には、ならない。

釈迦仏陀は、人間であった。
抑うつ症の、欲望希薄、神経過敏の人間だった。

だから、静かに生きるべく、心を見つめて、生きた。
釈迦仏陀は、外の世界を説いたのではない。
内の世界を見つめたのである。

それを、内道という。
内道、心のあり方である。
何か、超越した化け物を信じろとは、決して、言わなかった。
法、つまり、物事の有り様を、頼りに、わが身を頼めである。

物事の有り様を、真実とか、真理というのは、勝手である。
信じるべきは、我が心である。
その心には、仏性という、妄想があるのではない。
その心には、人間性というものがあるのである。

頼りは、人間性である。

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2009年07月03日

神仏は妄想である 232

宗教は、迷いである。
いかに、古典である、経典を解釈しようが、迷いである。その成立過程を、俯瞰してみるだけで、十分に、創作であることが、解るのである。

更に、様々な考え方の一つであり、その実践も、死ぬまで、暇つぶしである。

私は、宗教的行為の、実践を否定しない。
そのようにしか、生きられない人もいるからである。

しかし、それを、人に強要したり、人に説くということに、誤りがある。

何故、教祖や、開祖は、己一人で、実践し、己一人で、それを捧持して、よしとしないのか。

単なる、顕示欲の強い霊が、現れて、我は、天の将軍なりとか、我は、観音菩薩とかと、言うことを、即座に信ずるというのも、アホらしいが、更に、真っ当に、それに対処して、その言うことを、人に伝える。

これは、実は、姿を変えた、自己顕示欲である。

更には、宗教に似つかわしくない、野望である。
それは、実に、見事な人間のみに、備わった、精神的欲望である。

支配欲という。
神仏を利用して、我を拝ませ、我に、従わせるという、支配欲。

空海は、天皇を我が支配下に置くべき、加持祈祷を持って、病気治しなどをした。
治るも、治らないも、その時代は、知識も、医学の方法もない。

信じさせれば、足りる。
そして、未だに、信じさせれば足りるという方法をもって、信者を獲得する。

宗教は、伝統に成り得ることは、決して無い。

すてべは、伝統が先である。
伝統から、宗教が、後についてくるという場合は、ある。


宗教による、教学、教理、という教えを学んで、少しばかり、賢くなったと思うのは、馬鹿の証拠である。

小難しい言葉を、知って、賢くなったと、思う、学問お宅に、似る。

神や仏は、妄想であるから、いくら、想像力を逞しくして、妄想しても、よい。
限りなく、妄想を膨らませて、蜃気楼を作る。
更に、馬鹿馬鹿しいのは、救いという、曖昧な、言葉と、その定義である。

一体、何から、救われるのか。

人間は、大脳化によって、他の動物以上に進化した。
この、大脳化が、宗教という妄想を、編み出したといえる。
そして、思想、信条もである。
更に、主義というものも、である。

主義というものによらなければ、人間は、生きられなくなった。
実は、嘘である。

人間は、何によらずとも、生きられる。

私という、妄想によってのみでも、生きられるのである。

神によって、我は有るというものも、仏の世界に、我は有るというものも、すべて、妄想である。

人間は、大脳化によって、絶対孤独というものを、得た。
それに耐えられないゆえである。

大脳化によって、絶対孤独に耐えられないがゆえに、妄想を、編み出すものである。

どんなに、気を許す、相手、今流に言えば、愛しても、人は、孤独から、開放されないのである。

その孤独は、絶対なのである。

たった、一人でいるということに、耐えられない。が、ゆえに、宗教は、発展生成してきた。

私は言う。
神仏は妄想であり、人は、絶対孤独である。

死ぬことで、その孤独を開放することも、開放されることもない。
輪廻転生、それも、孤独である。

日本、神話の独り神なり、というのは、正しい。
独り神とは、そのまま、人間のことである。

独りなのである。
それを、教える宗教はない。
つまり、あなたの、神や仏は、私の神や仏と、違うということである。

百人百様の、神や仏が在る。

それに、気づくとき、人は、その孤独に、戦慄する。
それでも、孤独なのかと。

私は言う。
だから、人は、家族、兄弟、友人、知人、更に、誰かと、一緒の、会合に、付属したいと。
残念ながら、それは、嘘である。

どこにも、所属できないのが、人間の、常であり、定めである。

私は、絶対孤独で、私以外の、人の、思いというものを、想像する意外に無い。
それを、私は、救いという。

人の思いを、想像する、少しは、理解する、もう少し、考えるという、それが、宗教でいうところの、最後の、救いである。

要するに、宗教という、妄想はなくて、よい。
伝統があれば、人は、生きられるのである。
そして、伝統の別名は、神話である。
神話は、創作であるという、純然たる証拠がある。

ものの、言われというものを、伝統と言う。
言い伝えである。
民族という、共同幻想は、そこにあり、それで、人は、十分に生きられる。

神話が、崩壊してしまうと、人間は、狂う。

仏陀の修行は、私の神話というものを、築くためのものであった。
仏陀は、見事に、仏という、オリジナルを築いたのである。

要するに、孤独に耐えられたのである。
自己同一性というものを、仏陀は、試みて、成功したのである。

絶対矛盾の自己同一ではない。
こんな、言葉遊びをするのは、禅のアホどもである。

脳が、矛盾したら、人間は、生きられない。
馬鹿馬鹿しいのも、程が有る。

禅の高僧が言う。
朝から、晩まで、いや、24時間、禅なのですと。
アホらし。

それで、糞小便垂れ流して、作ることも、採ることも、捕ることもせず、のうのうとして、信者から、大枚を得て、言葉遊びをする。

クリエイティブなことは、何一つ無い。
死んだ方が、増しだ。

こういうのを、糞でも、食らえというのである。

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2009年07月04日

神仏は妄想である 233

法華経は、オウムのように、繰り返し、繰り返し、この経典の、功徳と、読経、そして、伝えることの、貴さを語る。

作者の、強迫神経症である。
繰り返しは、ノイローゼの特徴である。
カウンセラーは、ノイローゼの人の同じ話を、三回まで聞いているが、四回目に、カウンセラーが、それを、繰り返して、話すのである。そして、共感したことを、伝える、感じさせる。

大衆を騙す時には、同じ話、スローガンを、何度も何度も繰り返す。
馬鹿な大衆は、それで、やられる。

見宝塔品第十一にある、六難九易というものを、みる。

六難
仏の滅後の悪世において、法華経を説くことは、困難なことである。

仏の滅後に法華経を自分で書いたり、人に書かせたりすることは、困難なことである。

仏の滅後の悪世のなかで法華経を少しでも読むことは、困難なことである。

仏の滅後に法華経をたもち、一人のためでも説くことは、困難なことである。

仏の滅後に法華経を聴聞し、その意味を質問することは、困難なことである。

仏の滅後によく法華経を受持することは、困難なことである。

以上。
仏の滅後とは、釈迦仏陀、滅後であるから、釈迦仏陀の死後である。
そうして、手続きを、踏んで、更に追い詰める。
日本で、追い詰められた者は、日蓮である。

勿論、自己顕示欲の強い日蓮であり、我が、我がの、日蓮である。

どこかの、巨大日蓮宗系の、新興宗教の、名誉会長も、そのようである。
毎日、世界のどこかの、大学の名誉教授や、名誉何とかを、貰って、悦に入る。
しまいに、ガンジーと同じ聖者であると、名のある人に言わせて、悦に入る。

日本人で、ここまで、世界に恥を晒した者は、今までにない。

更に、仏法を名乗り、仏意仏勅の団体と掲げる様、哀れである。
自己申請が、通るのなら、誰もが申請する。
数が多いというだけで、この馬鹿馬鹿しさである。

そうかと、思うと、永遠の仏陀などと、悪魔の霊の言葉を、書き付けて、霊言などと、掲げる新興宗教の教祖が、政治団体を作るというから、呆れる。
これも、数が、揃えばこその、話である。

これほど、日本人が、言葉遊び巧みな者どもに、振り回された時代は無い。

それでは、既成仏教教団の僧侶が、建て直しを叫んでも無理。
仏教は、崩壊、死滅の運命である。

葬式仏教といわれても、満足に、葬式を行えないのである。
読経された、霊は、皆々、浮遊しているという、有様。
その、読経する、僧侶も、自分が行くべき、霊界を知らない。

もし、マジに、極楽に行くと、思う僧侶がいたならば、私は言う。
永遠に、舌を抜かれる、レベルの霊界が、精々である。

地獄も、極楽も、霊界には無い。

まして、天国など、あろうはずがない。

六難である。
わざわざ、六難と名付けて、法華経を他の経典から、引き離す企み。
悪魔の経典と、言われるだけある。

要するに、法華経とは、それほど、凄いお経なのです、である。

九易を、見ると、そその目的が、よく解る。

法華経以外の無数の緒経を説いても、まだ困難なこととするには足らない。

須弥山の他方の仏土に投げ置いても、まだ困難なこととするには足らない。

足の指で大千世界を動かして他国に投げても、まだ困難なこととするには足らない。

有頂天に立って法華経以外の無量の経を説いても、まだ困難なこととするには足らない。

手に虚空の世界をつかんで遊行しても、まだ困難なこととするには足らない。

大地を足の爪の上にのせて梵天に昇っても、まだ困難なこととするには足らない。

乾いた草を背負って大火に入って焼けなくても、まだ困難なこととするには足らない。

八万四千の法門、十二部経をたもち、人のために演説して聴衆に神通力を与えても、まだ困難なこととするには足らない。

無量の衆生に阿羅漢果を得させ、神通力を具えさせても、まだ困難なこととするには足らない。

以上。

阿羅漢果とは、悟りである。

日蓮は、この魔力に、まんまと、引っかかり、死身弘法の覚悟をして、度重なる、受難にも、めげず、法華色読という、体で、法華経を読むという、妄想に駆られて、活動した。その、きっかけとなる、部分である。

難を受けたくて、しょうがないという、変質的性格である。

いたぶられれば、いたぶられるほど、快感を感じたのである。

後世の人、彼を賞賛するが、彼の病理に気づいてはいない。
鎌倉時代は、自虐を好む、僧侶多数。
時代性である。

そして、誇大妄想。
我、日本の棟梁たらんと、高らかに、声を上げる。

狂いも、ここまで来ると、狂いとは、考えられず、ただ、その、精神的狂いのエネルギーに、人が巻き込まれる。

今でも、霊能力などという者、大半が、狂いの波動、エネルギーで、人を巻き込むのである。
おめでいたと、言えば、おめでいたが、死ぬまでの、暇を潰せないがゆえに、妄想に浸る。

その、妄想の手引きが、僧侶はじめ、働きたくないが、金が欲しいという、輩である。

天国、極楽、地獄に、煉獄などと、妄想を展開し、アホを、騙して、広く金を集めて、ぬくぬくとして、旨い物を食い、セックス三昧、ゴルフ三昧、果ては、レジャーである。

これほど、社会に役に立たないモノはないのだが、政治家は、票になるから、神妙に、彼らを持ち上げる。

信じさせれば、こっちのもの。

ホント、信じられないのである。

六難九易という教学を、覚えて、賢くなったと、信じるアホも、アホである。

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2009年07月05日

神仏は妄想である 234

ただ今、法華経を書いている。
ちなみに、私は、そのために、日蓮宗系の雑誌なども、取り寄せている。

その一つ、身延の日蓮宗の、機関紙を取っている。

既成宗教の、断末魔が、聞えるのである。
何から何まで、売るという。

面白いのは、ご本尊である。
それも、売る。
その、チラシの中に書かれてある言葉を、見て、笑った。

核家庭を狙う新興宗教などの勧誘に我が家が代々信仰していることを示したい

という文句である。
たかだか、600年程度で、たいそうな、宗教だと、思っている、愚かさ。彼らも、新興宗教である。

お経本は、一人一人に一冊携帯しましょう

そして、お香から数珠、写経道具から、何から何まで売る。
会員から、信者から、取れるだけ取るという精神である。

あの、身延山に、日蓮が、入って、死に物狂いの生活をしたことなど、忘れているのであろう。
ぬくぬくとして、生活している。
修行といっても、厳寒の海に、漁をする漁師のようでも、秋の実りのために、辛苦する、農業のようでもなく、ことさら、修行している様を、見せるという、アホ、馬鹿、間抜け振り。

捕ってみよ、育ててみよ、作ってみよ、と、言いたい。

嘘八百を人に語り、御仏の、云々という、馬鹿馬鹿しさ。
御仏に会うこともなく、知らない、御仏を、語るという、愚かさは、幾度か、死んでみなければ、分からないだろう。

その機関紙も、寝ぼけたことばかりを、書いている。
一体、自分たちを、何様だと、思っているのか。

歴史的建物で、足りる。
もう、役目は、済んだ。

ちなみに、私も、法華経を読経する。
代々の日蓮宗の信徒の、相談を受けたりすると、そのような事態になることがある。

毎日、お経を上げているという、奥さんがいて、お経の意味は知らないが、朝、仏壇に読経するという。
霊的に事柄が多くて、云々との、相談などの場合は、同調して、私も、読経する。

亡くなっても、家にいるという、霊的存在であるから、次元を移動しなければ、ならない。そのための、礼儀として、読経する。

浄土宗系のお経は、長く、くどいので、南無阿弥陀仏で、済ます。
私の、実家が、浄土宗であるから、慣れたものである。

曹洞宗は、まだいいが、真言宗になると、バラモンをやっているようで、気が重い。
加持祈祷、いつまでやっているのだろう。
大半、浮遊霊が、集う。

真っ当に、太陽を崇敬して、日拝をして、よろしい。
それで、十分である。
全く、お天道様があって、生きられるのだから、理に適っている。
一秒でも、太陽が消えると、皆、死滅する。

釈迦仏陀のように、夕日を拝しては駄目。
朝から昼間の太陽である。

仏教が、陰なのは、釈迦仏陀が、夕日を拝したからである。
エネルギーが、引っ張られる太陽を拝して、陰に傾く。
その点、かむながらの道、日本の伝統は、朝日と、昼間の太陽を拝するのみ。

清き、直き、明き心という、おめでたい、少し、能天気な、陽であるから、楽しい。

生きること自体、陰であるから、能天気の太陽崇敬の方が、いい。

ただし、陽気暮らしを勧める、天理教のような、邪霊、悪霊の類の、霊の話を、真っ当に信じているのは、実に危険である。

どこから聞いてきたのか、霊も、言うものである。
我は、何々であるぞと、出る霊に、碌なものは無い。

ましてや、金神様など、泡を吹く。
それを信仰しているうちに、金神様が、憑いて、大本教の出口ナオが、お筆先を書くという、哀れ。
人間とは、寂しいものである。

孤独の極みが、そのような、霊媒をさせる。

更に、自己顕示欲が、拍車をかける。

どれほど、文明が進化、発展しても、人間は、迷う。特に、宗教に迷う。更に、宗教は、心を扱うという。

見事な、知識人が陥るのは、キリスト教である。
えっ、死ぬ前に、カトリックの洗礼を受けたの、ということに。

死ぬのが怖かったんだねーーーーである。
安心したいと、悪魔の神に帰依するという、段取りである。

面白いのは、宗教を渡り歩くという人。
改宗を繰り返しているのである。
その度に、買った物を、ごっそりと、捨てる。

話を戻す。
身延の日蓮宗を信仰していた、ある、真面目な、おばさんがいた。
いつも、病気がちであり、夫も寝たきり。
どうしても、腑に落ちない。
毎朝の、お勤めをして、信仰深いのである。
私に、相談に来た。
すべてのもの、身延に返しなさい。
拝むな、を、勧めた。
拝んで、苦を呼び込んでいたのである。

一人で、小さな花屋を切り盛りしていた。
素直な人で、私の言うとおり、すべてを、返した。
そして、挨拶に来た。
すっきりしました、と。

そういう例もある。
拝めば、拝むほど、どつぼに嵌まる。

一度、花屋に出向いた。
今は、何もしていません。ただ、一生懸命働いています。
それで、いい。

心だに 真の道に かないなば 祈らずとても 神や守らん
菅原道真

真っ当に生きていれば、関わる霊位が、守るのである。


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2009年07月06日

神仏は妄想である 235

観世音菩薩普門品第二十五

観世音と訳したのは、クマラジューである。
観自在と訳したのは、玄奘三蔵法師である。

観音様といえば、知らない人がいないほど、有名である。

観音はインドのバラモン教やヒンドゥー教の神々を次々に仏教の内に取り込み、仏教の教化に役立てる役割を演じた・・・
奈良康明

観音信仰は、中国から、日本にかけて、大きな流れとして、現世利益、幸福追求の信仰を占める。

駒澤大学教授 吉津氏は、
教学中心の仏教観からだけでは現世に生きる、人生の支えになる実践はでてこない。
と言う。

つまり、お化けの様な、化け物が必要だということである。

有名なお経の、内容は、無尽意菩薩が、観世音菩薩の、名前の由来を尋ねるところからはじまる。

仏は、
多くの衆生が苦しんでいる。彼らが観世音菩薩の存在を知り、一心に観世音の名前を唱えれば、観音は、ただちに、あらゆる手段を尽くして、苦悩から、解脱させてくれる。だから、その菩薩の称名を得たのだ、と、答える。

更に、観音の力は、火災、水害、海難事故、殺害、悪鬼、捕縛、盗難、淫怒痴の苦しみ、子産みの願望に際して、観音を供養し、名前を称えれば、必ず願いが成就し、災害から、免れるというのである。

釈迦仏陀が、もっとも、嫌った行為である。

自分を誰かに預けるという、行為を、釈迦仏陀は、嫌った。
しかし、法華経になると、堂々と、観音に頼れという。

観音は、三十三の化身をもって、教化するというのである。
仏になったり、魔物の、帝釈天、バラモン、夜叉、比丘、比丘尼、女性などなどである。

兎に角、ありがたいのである。
鎌倉時代ならば、理解するが、現代では、お話である。

ドラエモンや、アンパンマンと、変わらない。

勿論、信じる者は、救われるのだろうが、あまりにも、お粗末である。

ちなみに、私も、観音経は、唱える。
ゴロがいい。

相手が、仏教徒の場合は、とても、喜ぶ。
その程度である。

マジに、観音様などを、信じたら、本当の釈迦仏陀の、仏教、つまり、仏の教えではなくなる。

ここで、先の、吉津教授の教えを、みる。
法華経の教えのポイントは一乗と方便にある。教学的には一乗真実三乗方便を天台や華厳が主張し、三乗真実一乗方便を唯識仏教が説くともいう。私は法華経の原意は一乗と方便が対立するものではないと考える。二乗や三乗の教え、あるいは人天乗の卑近な教えであってもすべて一乗真実への方便として位置付けられる。

上記の意味は、分からなくても、いい。
生きるために、必要のない知識である。

彼らは、食うために、それらを調べて覚え、学生に教える。
ただ、それだけである。
それ以外の意味は無い。

相手のことを顧みず、自己の不満から生きる意欲まで無くして自殺や犯罪に走る事例の多い現代の状況の中で、相手の身になって考える、発言する、そして行動することが求められている。そこでは、この応現も学ぶべきである。
吉津

つまり、観音のように、身を変じて、相手の身になって、考えることなどと、説教する。

観音を持ち出さずとも、そんな説教は、いくらでも、言える。

ここに、宗教学者や、宗教家、更に、宗教の信者、太鼓もちの詭弁がある。

その本人が、自己の不満から、観音経を持ち出して、腹いせのような、説教をしているのである。

簡単に、自己の不満から、自殺をして、犯罪に走るという、その、根性が分からない。自分を、何様だと、思っているのか。

自殺や、犯罪は、そんな簡単なものではない。

どんなに、小難しい言葉を、覚えても、この通り、どうしようもないことを、言って、終わる。

理想的詭弁である。

観音経も、そうである。理想的詭弁で、人を惑わす。

他を理解することが、他を説得する前提である。観音様の応現の姿勢に通ずる。人間関係の根底にこれを活かせば、私たちお互いが潤滑油になり、少しは住みやすい世の中になるのではなかろうか。
吉津

どうであろう。この程度の、認識である。

この人にとっては、世の中が、住みやすいかどうかなど、関係ないのである。
痛くも、痒くもない。
大学教授で、食べて行ければいいのである。
そして、宗教家というモノも、然り。

観音様が、憑いたという、自称霊能者などがいるが、無いモノが、憑くわけが無い。
笑う。

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2009年07月07日

神仏は妄想である 236

観音経から、観音様という、実に、身勝手な存在を作り出す、人間の想像力は、凄いと、思う。

真実、観音様に、助けられたと、信じる人もいる。
勿論、助けてもらえなかった人の方が、圧倒的に多い。

妄想を心の、より所とする、時代は、終わったし、妄想の産物で、安心する、時代精神も、終わった。

子供時代に、サンタクロースを信じて、楽しんだ時代から、大人になり、それが、親の心遣いだったと知る。そして、大きな夢を、与えてくれた、親に感謝する。
そして、今度は、自分も、子を持つと、親と同じように、子に、サンタクロースを演じる。

サンタクロースっているの、と、親が問われると、いるよ、と、答える。
いずれは、そんなモノは、いないと、知る時がくる。

遅かれ、早かれである。そうして、子供は、成長する。
想像力を、高めることは、創造力の、原動力にもなる。
そういう時期が、必要であり、あって、よいのである。

いい年をした、大人が、観音様云々ではないだろう。
また、観音様を利用した、説教を聞かなくても、道徳教育は、十分に出来る。
進化倫理学の、ところを、再度、読んでもらいたい。

あらゆる、宗教的妄想の産物は、必要ないのであり、釈迦仏陀も、それを、最も、嫌った。

我の、吐く息、吸う息を、知れ。
呼吸を整えることによって、心を整えるのである。
心は、呼吸に表される。

今、何故、悲しむのか、怒るのか、嘆くのか・・・
その、心を様を、しかと、見つめよ。

釈迦仏陀の、行は、ただただ、内省であった。

相手に対する、感情が、起こる、心というものを、見つめよ、である。
それは、相手に怒るのではなく、我が心の、迷いを、相手に投影して、怒りを表している。本来は、その怒りの元は、我が心にある。

兎に角、冷静に、我が心を、見つめ続けること。

それを、日本では、すべて、所作として、残した。
語りではなく、所作の中に、それを、隠した。

立ち居振る舞いの、所作に、釈迦仏陀という、心のあり方を、見つめる方法を、持ったのである。ゆえに、すべての、行に、道と、名づけた。
武道も、芸道も、すべて、道という上にあると。

その道の先には、かむながらの道がある。
漢字で書けば、唯神道である。
ただ、かみの、みちである。

言霊にすると、
かアむンなアがアのオみイちイ
である。

それは、化け物になる道ではなく、人間の道である。

ちなみに、神という観念は、欧米の、インドの、中国の、それぞれ違うものである。

日本には、カムの感覚であり、観念は無い。

命、みこと、とは、人間のことであり、優れた人間を、命、尊と、奉るのである。
日本の神とは、人間のことである。

ある、病気治しの、新興宗教では、仏界を超え、神界を超えて、ついに、素の大神の居場所に、直結する、道が開けたと、喧伝する。
仏界も、神会も、彼の観念である。

法華経で言えば、仏の下に、神の世界がある。
仏が、上である。

それも、観念である。

そんなものは、無い。
あるのは、次元の違いである。

勿論、次元の違いがあるというのも、観念である。

次元の違いと、言葉にすると、解った、気になるから、不思議である。
次元の違いなど、知る術も無い。

さて、最後は、この、法華経の最後は、陀羅尼というものを、見る。
第二十六である。

サンスクリット語をそのままにした、呪文である。
アニ・マニ・マネ・ママネ・シレ・シャリテ・シャミャ・シャビタイ・センテイ・センテ
というように、その、音のままである。
総持、そうじ、と漢訳された。

解説は、二人の菩薩、薬王・勇施菩薩、二人の天王、毘沙門天・持国天、十羅殺女、鬼子母神が、法華経を説く者、法華経を受持する者、法華経を始業する者を、守護することを、誓うとある。

特に、鬼子母神と、その子らは、自分たちに、従わない者、つまり、法華経を邪魔する者には、頭が七つに割れ、あたかも、父母を殺すような、罪を得ることになると、脅す。

そして、釈尊、つまり、仏陀は、法華経の行者を守護する、功徳は、さらに大きいと、伝え、羅殺女を、励ましたとある。

呪文は、バラモンの、得意技である。
釈迦仏陀が、最も、嫌った、呪文である。
どうして、ここにきて、釈迦仏陀が、呪文を奨励するのか。

日蓮系の行者は、これを、霊祓いに、利用する。
霊に憑かれたと、思い込んだ者に、この、陀羅尼を唱えて、鎮めるというもの。

見世物としては、面白い。
また、行者の得意とするところである。
つまり、傲慢不遜である。

密教系と、日蓮宗系が、多く、そのようなことをするのは、バラモンの流れである。

毘沙門天や、持国天などは、インド魔界の、神のうちにある。

冗談ではない。
魔界のモノを利用して、猿芝居を演ずるということになる。

勿論、彼らは、それを、知らない。知る術も無い。信じるからである。

インド思想史を、俯瞰した通り、仏典の編纂の様子も、理解出来た。

更に、インド思想史を、見ることにする。

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2009年07月08日

神仏は妄想である 237

釈迦仏陀、滅後、約千年を経る頃である。

グプタ王朝は、五世紀末に、衰微し、崩壊する。
480年頃より、フン族が侵入し、インド文化を破壊する。

533年、フン族は、ヤショーダルマン王に破られる。
しかし、しばらくインドは、分裂状態に陥った。

その後、ハルシャ王が現れて、北インド一帯を統一する。
だが、王が死ぬと、また、分裂状態に陥る。

カナウジに、プラティハーラ王朝、デカン高原には、チャールキヤ王朝と、南端の、バッラヴァ王朝が、主要なものだった。
その王朝により、南インドには、現存する、巨大な、ヒンドゥー寺院が、多数作られる。

また、ビハール、ベンガルでは、パーラ王朝や、セーナ王朝が統治した。

その頃、タントラと共に、真言密教が栄えるのである。

チベットへ密教が入ったのも、パーラ王朝の統治下の地域から。

その他、諸地域には、幾多の王朝の交代が、十世紀、十一世紀に、イスラムが入るまで、続く。

この時代、476年の、西ローマ帝国の、滅亡により、西方との貿易が、衰退し、インドの貨幣と、ローマとの、貨幣価値が、消滅して、インドにおける、貨幣の統一も、破れ、貨幣経済が、衰退する。

それは、商業資本の没落と、萎縮をもたらし、インドの、停滞する農業に基礎をおく、政治、文化勢力が、伸張することになる。

問題は、商業資本に、支持されていた、仏教と、ジャイナ教が、衰退し、バラモンと、ヒンドゥー教が、広く受け入れられるようになることである。

哲学に関しても、前時代に、成立したものが、継続的に、発展したのに、留まる。

仏教と、ジャイナ教は、時に、迫害されたり、寺領を没収されたりもした。

そのため、仏教では、民間信仰を取り入れたりし、密教が、盛んになったのである。

学問では、バラモン教哲学により、研究されるようになる。

自然、仏教の教義の中に、バラモンや、ヒンドゥーの影響が、出てくる。
これを、見逃すと、仏教を、見誤る。

この頃の、バラモン教、ヒンドゥー教の発展を見ると、変化なく、すでに成立した、諸学派が、それぞれの学説を、固持していた。

この時の、ヴァイシェーシカ学派が、面白い。
慧月という者が、勝宗十句議論というものを、著した。玄奘が訳している。

十句とは、六句義のほかに、普遍的、特殊なるものとして、可能力、無能力、無というものを、提案した。

彼は、有性のみに、限り、特殊を極限における、特殊として、中間を、置かなかった。
この、有性とは、仏性と、玄奘は、解釈している。

可能力は、実体・性質・運動が、その結果を生じさせる能力であり、無能力は、それのないこと。そして、無である。無とは、この時代から、独立の原理として、認められた。

無としては、四つの、種類が、立てられた。
未生無
あるものが、現在はまだ、生起していないこと。未来の有である。
己滅無
あるものが、すべてに、滅びてしまった。現在は無いもの。過去の有である。
更互無
二つの異なるものの間において、互いに、他のものではないこと。
畢意無
絶対にありえないこと。

無に関する、思弁は、後世のインド論理学に、多大な影響を与え、発展させた。

おわかりのように、何も、無は、仏教の、専売特許ではない。

彼らから、仏教が影響を受けたとも、いえる。

これは、インド数学の世界からも、影響を、受けたり、与えたりしている。
ゼロは、無であるという、発見である。

さて、ヴェーダーンタ哲学の、一人を、見ると、非常に、仏教に似た、記述がある。
ドラヴィダによると、個我は、最高我と同じ種類である。
あたかも、火から花火が出るように、最高我から、つまり、ブラフマン、主宰神から、分かれて、身体、感官などの、密林に進入した。

それは、国王の元から、連れ去られて、猟師の子として、育てられた王子である。それが、自己の、本性である、王子という、意識を取り戻せば、王の元に、戻って、王子となるというもの。

諸々の個我は、親に従うべき、主宰神に背いて、存在しているゆえに、生死輪廻の、苦しみを受けるが、覚醒して、主宰神を信仰するならば、そのまま、主宰神の恩寵のうちに、存在するというもの。

人間本来、仏性を持つものである、などという、思想は、そこからも、伺える。
更に、すべては、仏の姿の、変化であるというもの。

勿論、仏教からも、彼らに影響を与えた。

一つは、ヨーガ・ヴァーシシタである。
ラーマヤナに、基づいた書であるが、世界は、神の意思によって、動くものではない。必然に支配されている。
それは、実は、意に基づくものである。
世俗の、生活から離れるべきではないと、主張する。
伝承説や、布施、寺院の儀礼によってではなく、自分自身を証することによって、解脱するというものである。

次に、いよいよ、密教というものが、起こる背景と、それを、見ることにする。


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2009年07月09日

神仏は妄想である 238

釈迦仏陀在世当時、更に、原始仏教教団においては、世俗の呪術密法行為は、禁止されていた。いや、厳禁である。

大乗仏教は、しかし、部分的に、それを、取り入れた。
何故か。
堕落である。

それは、陀羅尼としての、経典である。

西暦四世紀頃から、呪術だけを説く、教典も製作されることになるのである。

その、呪句を、真言、マントラとも、呼ぶ。

真言陀羅尼を読誦して、それにより、心を統一し、諸々の、仏を供養するという。
更に、それを、いかに、念誦するか、いかに供養するかということの、規定も、行われた。

方形、円形の壇に、仏を安置して、祭祀を行うのである。
この、護摩壇といわれるものは、ヴェーダの祭祀法を受けている。

その、壇を、曼荼羅と呼び、後に、大日如来という、化け物を、創造する。

その、大日如来を中心にして、仏の図を作り、曼荼羅という、奇妙な図を、創造して、意を得るという、堕落である。

そして、恐ろしく、愚かな、印契という、手指の形を作り、その気になったのである。

その印を、手指で作り、その仏になるという、漫画である。
それが、華厳経の哲学と、結びついて、一つの宗教体系が、作られた。それが、秘密仏教、密教といわれる。

開祖は、竜猛、りゅうみょう、である。
西暦、600年頃。

七世紀半ばの、西南インドで成立した、大日経の説く、胎蔵界曼荼羅、そして、七世紀末に、東南インドで成立した、金剛頂経の説く、曼荼羅を、金剛界曼荼羅と、称する。


この、密教は、730-1175年頃の、パーラ王朝の統治下において、盛んになった。

調べてゆくと、仏教とは、全く関係ないのである。
新しい宗教体系である。
ただ、バラモンの影響大であり、華厳経からの哲学を取り入れているということでの、仏教とするには、あまりにも、雑である。

新興宗教である。

密教においては、根本の仏を、創造の産物である、大日如来におく。
更に、その、大日如来が説いた教えが、密教というから、頭が、おかしくなりそうである。

釈迦仏陀という、実在の人間が、説いた、教えを、仏法というのだが、違う。
大乗仏教からは、釈迦仏陀ではなくなる。
すべて、創造の産物を、創作して、語らせるのである。

また、密教は、大乗仏教とも、違うという意味で、金剛乗、こんごうじょう、と、称するのである。

実に、閉鎖的なのが、魔的である。

秘密の教団であり、特有の、複雑な儀礼を創作し、人は、師について、教えを受け、その秘儀によって、灌頂を受けて、一人前である。
灌頂とは、頭の上から、水を注ぐ儀式である。
キリスト教の、洗礼に似る。

水を振り掛けるというのは、原始宗教行為でも、数多く、確認される。
それは、命の水を受けるという、原始的感覚によるものであり、この、密教の灌頂とは、意を異にする。

更に、インド魔界の、従来の仏教にはなかった、神々も、登場させるという、段取りである。

要するに、すべての、インドの宗教のモノを、取り込み、それも、大日如来の化身であるとする。
まるで、ゴミ箱のように、民間信仰も、取り入れて、大曼荼羅を構成させるという、呆れた、行状である。

大乗仏教を、屁のようにあしらうのは、六波羅蜜という、修行実践などしなくても、衆生は、本来、仏性を宿している。ゆえに、諸仏を、念じて、陀羅尼を唱え、密教の特別な儀式にあずかることにより、容易に最高の境地に達する。そして、仏になるというものである。

日蓮が、題目により、六波羅蜜を超えるという、感覚に近い。
共に、釈迦仏陀の、教えには、全く関係の無い、外道である。

即身成仏という、誇大妄想の極みを、唱えるのである。

生きたまま、仏になるという、妄想である。
つまり、仏という、化け物になるということである。

更には、現世の、幸福、快楽を承認する。
人間の、情欲、煩悩は、克服されるものではなく、抑圧もされないという。
それは、尊重されるべきであると。
不純な、愛欲を、一切衆生に対する、慈悲にまで、高めればよいのである。

ここには、古の日本の伝統である、欲望は、恵みであるという、純真な、かむならがのみち、の、考えとは、全く違う。

要するに、密教創設は、インドすべての、思想を包括して、その、魔界の神々までも取り込み、バラモンを超えて、人を、支配しようとする、限りなく、激しい、支配欲が、見られる。

煩悩を、肯定する思想は、当時の俗信に対する妥協と、卑猥な儀式を取り入れる危険性があったと、中村元は、言うが、危険性ではなく、危険だったのである。

インドには、古くから、性愛の手引きが、多くある。
それらをも、肯定して、取り込む作戦である。

結果、一部の、密教の信徒は、男女の性的結合を絶対とする、タントラの儀式の影響をも受けて、左道密教を、立ち上げた。
インドラブーティが、創始者といわれる。
九世紀以後盛んになったが、儀式の中に、性的享楽を、取り入れることで、それ自体の解体を、促したのである。

インドには、周期的に、そのような、セックス賛歌の団体が、生まれる。
ピッピーに、歓迎された、インドの、宗教団体が、アメリカで、盛んになったこともあるが、結果は、崩壊した。

世界の和尚といわれた、バグワン何とかという者の、著書は、決して、何を言っているのか、解らないものである。
寝ぼけた、説教を繰り返す、魔物である。

この、密教を、種に、真言宗、真言密教を立てたのが、稀代の詐欺師、空海である。

内道である、釈迦仏陀の、教えとは、全く関係のない、魔物、魔界の手引きである。

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2009年07月10日

神仏は妄想である 239

日本の密教を批判する場合、空海の、著書を批判するのが、易しい。しかし、それは、大変な難しいのである。

原文を書いて、それをまた、現代語訳しなければならない。それで、空海の求めたところを、求めたという、阿含経を掲げて、阿含宗なるものを、立ち上げた、桐山靖雄の、密教入門を使用する。

真言密教と称する、空海の真言宗は、死に絶えている。
勿論、本人たちは、まっとうに、密教を行じていると、信じている。
役立たずである。

ところで、わが国で普通「秘密仏教」あるいは「密教」という場合は、それは、シナを経て伝えられ、日本的に組織化され、体系化されて展開した真言宗密教、あるいは天台宗密教をさす。されは、インドにおいて八世紀初頭までに栄えた初期と中期の密教を基盤とするめものであるが、いまここでとりあげる秘密仏教は、それら日本の密教だけを対象とせず、それらの日本の密教を超えてインド密教の原点にさかのぼり、密教の秘密の教法を究明しようとするものである。
桐山靖雄

真言、天台と、並ぶべくの、意気であるから、この、試みと、追求欲求は、理解する。

わが国では、密教とは仏教の堕落した形態であり、ヒンドゥー教と混合して外道化し左道化した仏教であるという見かたが、いまなお尾を引いているようである。しかし、こういう、密教を異質物として仏教の中から極力疎外しようとする傾向は、実は、十九世紀におけるヨーロッパ人の学問的な嗜好に由来するのである。すなわち、イギリス、ドイツをはじめとするヨーロッパの初期の仏教研究の主流は、パーリ語仏典を中心とした原始仏教にその重点が置かれた。そうして、かれらは、かれらの宗教にみいだされない合理性を原始仏教の中に発見し、その倫理性とともに高く評価した。
桐山靖雄

これが、明治期から、日本の大乗仏教を堕落させた、原因だとも、言われる。
つまり、学者が、ヨーロッパの、仏教学を取り入れてしまったゆえであると。

しかし、これは、実に良い刺激だった。
その以前は、原始仏典など、読むこともなかったのである。

少なくても、それにより、原始仏典を読み、更に、原始仏教の、考え方を知る手掛かりになった。

それゆえ、大乗の精神が、歪めれた、云々という、アホがいるが、歪められる程度の、大乗仏教であったといえる。

ただし、
しかし、もっとも残念なことは、シナ化、あるいは日本化した仏教をきらって、ヨーロッパの仏教学によってインド仏教を研究しようとした日本の仏教学者たちが、ヨーロッパの学界のこういう傾向をそのまま受け入れてしまったことである。
桐山

それは、時代性であり、時代精神の表れである。

桐山氏は、密教の偏見に対しての、論述であるが、私は、当時の、学者が、それを、取り入れたことで、更に、仏教を知る、よすがになったと、思う。
それは、大変に良いことだった。

原始仏教に、重きを置いた、イギリス、ドイツの仏教学者によって、原始仏教の、姿が、見えたのである。

それを、元に、日本の大乗仏教の批判がなされたことは、理想的である。
しかし、それだからといって、日本仏教は、何も、変化せず、変容することもなかった。従って、ヨーロッパの、仏教学に、学者が、傾倒しようが、どうでもいいことである。

学者は、学者である。
宗教家は、宗教家である。
共に、同じ穴の狢である。

学者は、学生から、金を得て、宗教家は、信徒から、金を得る。

別段、命に別状無し。

原始仏教、それを、引き受ける上座部仏教を、大乗仏教は、蔑視して、小乗仏教と、称した。
大乗こそ、本来の仏教である、云々。
そして、妄想の大乗経典を、掲げて、消滅した。
完全に消滅したのである。

その、発祥の地に、今、仏教は、存在するか。
インドでさえ、日本人の、僧侶が、新たらしい仏教として、布教活動をしている、始末である。
勿論、カースト制の強い意識のある、インドで、その反動により、仏教徒が、多くなっている。だがしかし、法律では、カースト制は、無くなったが、根強くインド人の意識にあり、仏教徒は、カースト外として、甚だしい、差別の中に生きているのである。

それでは、上座部仏教の流れを汲んだ、小乗は、どうだろうか。
その形は、それぞれだが、タイ、ラオス、ミャンマー、ベトナム、カンボジアと、東南アジアにて、生きている。

大乗が、生きているというか、のさばるのは、日本のみである。
中国仏教も、壊滅した。

もし、江戸時代の、キリシタン禁止が無く、徳川家光が、檀家性を起こさなければ、日本の大乗仏教も、壊滅している。

先祖代々の土地と、墓などの、譲受から、檀家制度が生きていて、嫌でも、継ぐことになっているのである。

そこに、胡坐をかいて、のうのうと、大乗仏教、更には、鎌倉時代に出来た、名ばかりの、新興宗教である、鎌倉仏教の宗派として、生き続けて、生き恥を晒している。

作物の、肥料にもならない、教義を掲げて、人を救うというから、仰天するのである。

誰も、成仏することなしの、日本の大乗仏教である。
教祖、開祖は、誰ひとりも、成仏したとは、言わなかった。言えなかった。

即身成仏したという、空海は、今でも、生き続けていると、妄想を信じる僧たちによって、死後も、化け物にされたままである。

空海は、あの山に、留め置かれて、気の毒とは、信者たちは、考えない。
甚だしいのは、四国巡礼である。
同行二人と、空海と、共に歩くというもの。
それで、人生駄目にする人、多々いる。

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