2009年01月17日

神仏は妄想である 215

藤見紀雄氏の、般若心経の思想、という著書から、多く刺激を受けて、それを紹介している。私は、今まで、このように、般若心経を、読む者を知らない。

ただし、これは、あくまでも、般若心経という経典の思想であり、その解説である。

釈迦仏陀が、そのように、語ったと、藤見氏も、言うが、実は、釈迦仏陀は、そんなことを、語ってはいない。
何故なら、釈迦仏陀当時に、それほど多くの語彙は無かった。
初期仏典の、ダンマパダなどを、見れば、どうでもいいような、ことが、書かれている。要するに、寝惚けた言葉の羅列である。しかし、釈迦仏陀が行為したことにより、人々は、釈迦仏陀を慕い、釈迦仏陀は、このようなことを、また、このように、説きたかったのであろうが、あると、断定されて、経典が出来上がった。

つまり、多くの人によって、仏教という思想、宗教が作られていったのである。

それを、釈迦仏陀という、権威、無形の権威を、掲げて、それぞれが、教えを立てていったのである。

だから、仏教の教義は、ある見方、例えば、キリスト教神学などから見れば、滅茶苦茶に、見える。

勿論、キリスト教神学というものも、多く、ギリシャ哲学の借り物である。
オリジナルとしては、罪の羅列であろう。
信者を支配するために、膨大な罪の意識になるものを、作り上げたのである。

さて、それを、前提に、藤見氏の、解説を、もう少し紹介する。

釈迦牟尼の思想というのは社会の中で最も恵まれない人達の福利を永続的に保証することにありました。しかしバラモン教の社会においてはそのような思想や倫理観は異端でした。人々は福利の保証されている人達の既得権の永続性が維持されることを秩序の基本に置いていたのです。
藤見

釈迦仏陀の思想は、バラモン教の序列の原理に、反することだった。
しかし、釈迦仏陀は、序列の原理を廃止して、対等の原理を社会に、実現しようとした。

序列の原理は、カースト制のような世襲の階級の序から、長幼の序、性別の序、人種の序、貧富の序、地位の序などの、様々な差別を生み出す原因があることを、発見したという。

序列の原理は、広く流布された情報のよって、形成された観念の中の心象である。
更に、この、序列の原理を守ろうとするのは、権威主義となる。

権威主義はそれぞれの社会の体制が提供する情報を素直に受け入れて心象を形成している具体的な知識を豊富にもった人間によくみられる傾向です。
藤見

そして、権威主義は、画一性の原理と、一体になり、異端者を排除しようとするのである。更に、この、画一性の原理を進めると、全体主義になる。

自由主義とは、多様性の原理により、様々な選択を希望できる思想を言う。

様々な社会には、様々な思想と、倫理観がある。だが、多くの人は、様々な倫理観があるとは、考えられないのである。

イスラム社会、アラブ諸国の、倫理観を、日本人は、真実理解できないということを、知らないと、似ている。
また、イスラエル、パレスチナ問題なども、然り。

民族と宗教が、一体になった、倫理観というものを、日本人が理解するには、逆立ちしても、無理なのである。
大二次世界大戦の、国家神道というもので、解釈も出来ない。
あれは、一時的な、狂いである。
戦争が、終わり、伝統としての、神道に戻った。
勿論、今でも、国家神道の悪夢に、うなされていると、信じ込む者もいるが、大半は、強迫神経症である。


「アノクタラサンミャクサンボダイ」という仏陀の「覚り」が語られるまでには「空」について語られ菩薩が「顛倒夢想」から遠く離れ「涅槃」に至るまでが語られてきました。このようにこれまでに語られた内容の中に「無上正等正覚」とはどのような概念かを考察するヒントがあるのです。先ず観自在菩薩は「五蘊皆空」と見極めたとき理知を確立したのです。つまり人間の活動は全て観念と一体だということから倫理観や理性的な倫理性の要請を受けて理知が確立されたのです。また菩薩が「顛倒夢想」から遠く離れたのも、仏陀が「アノクタラサンミャクサンボダイ」を得たのも共に確立された理知に依るところでした。これらを振り返ると結局は倫理の問題になるのです。
藤見

その、倫理とは、諸悪莫作衆善奉行、つまり、悪いことをしない、良い事をする、である。

だが、これは、非常に抽象的であるから、具体的現実を、この言葉と、照合するために、現実を抽象化しなければならない。

藤見氏は、この作業を、帰納といい、更に、抽象的な倫理観を実現するために具体化することを、演繹という。
帰納と、演繹という、論理上の作業が的確に行われることが、現実の社会に、倫理を実現することになる。

この作業が、的確に、行われないと、建前と、現実が乖離して、倫理の崩壊を招くのである。

藤見氏は、この、具体性から抽象性へ、また、抽象性から具体性への的確な変換をする知恵が、無上正等正覚だと、推測する。

これについては、これ以上詮索しない。
空の思想、空とは何かということを、書いている。

ただ、言えることは、既存の仏教思想や、このように、般若心経というものを、説くというのは、精神論のみでは、成り立たないということである。

釈迦仏陀の、平等の教えというものを、後世の人々が、真剣に、考えて、経典の中で、議論しているのである。

単なる、精神論であれば、それは、現実生活に、少しの、慰めを与えるが、生きるという、実際的行為の中に、釈迦仏陀の、教えは、生かされないということである。

バラモンの社会で、人間平等を、掲げるということは、とてつもなく、大変なことであり、それは、死を賭けた教えでもある。

何故、人間は、平等なのかということを、般若の思想、大般若経は、語る。
般若心経は、その心臓部だといわれる。

空の思想は、精神論ではなく、現実主義、そして多様な社会に、合わせて、空の思想を、実現するものであろうとの、願いがある。

それならば、神仏は妄想ではなくなる。
神仏が現実に生きることになる。
そこでは、神仏とは、勿論、人間のことである。


藤見氏の、アノクタラサンミャクサンボダイの記述を、私は、カタカナにしている。



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神仏は妄想である 216

ただいま、法華経を見ている。
その中で、空というものが、出て、空の思想を、竜樹から見て、更に、空を、説くという、般若経の心臓部といわれる、般若心経について、書いている。

また、法華経に戻るが、今一度、空の思想と、釈迦仏陀の思想というものを、別な角度で、見ることにしたい。

一体、仏陀は、何を知り、何を観て、そして、何故、生き方指導を開始したかである。

そのために、インド思想史も、俯瞰しつつ、書いている。

「嘘をついてはいけない」「人の物を盗ってはいけない」といった善悪、正不正には、はっきりとした理由がある。しかもそれは、倫理学や道徳哲学を専門に勉強しないと分からないような複雑で難解なものではなく、単純で明快なものである。そして、人々はそれを分かっていないのではなく、はっきり意識していないだけで実はどこかでそれに気づいている。だからこそみんな「嘘をついてはいけない」「人の物を盗ってはいけない」と本気で思うのであり、道徳や善悪・正不正の区別が人間社会にあまねく存在するのはそのためである。

ではその理由とは一体何か。
それはずばり、利害損得である。
内藤淳 進化倫理学入門

進化倫理学とは、聞きなれない言葉であり、学問である。

対象をその「外」から客観的に観察・分析するというのは、科学的態度の基本である。まさにそのことから、従来より科学の中心は、物理や天文といった自然現象を人間が観察・分析する自然科学であったわけだが、最近ではわれわれの外にあるそうした現象にとどまらず、人間自身の行動や心理を対象にした人間科学が大きく発展している。
内藤淳

そこでは、人間の行動や、思っている動機、理由の背後にある、意識していない心の働きが存在する。
思考や行動が、それらを基にして、生じているということを、様々な実験や観察により、明らかにする学問であるという。

私は、宗教の時代が、終わり、このような、進化倫理学の時代がくると、予想する。

人間科学であり、それは、十分に思索に耐えられるものである。

近年は、人間行動進化学という、分野が、成果を上げている。
それは、生物進化の観点から、その過程で、人間が、いかなる心の働き、行動パターンを、発達させてきたかということ。
生物として、人間が、共通に持つ基本的性質とは、どういうものかを、研究している。

その中でも、人間の道徳性というものが、重要な研究テーマであり、それを、扱う研究が、進化倫理学と、呼ばれる。

進化倫理学に基づいて独自の発想でこの問題を考えたとき、その答えが人間ひとりひとりの「利益」の中に見えてくる。これは、言い換えれば、道徳に「利益」という客観的な根拠を見出すということで、これまでの倫理学ではなかなか答えが見つからなかったこうした問題に、新しい角度から光を当て、独自の見方を提示しているところが、新しい学問分野としての進化倫理学の大きな特長である。
内藤淳

人文、社会科学、自然科学、更に、文系、理系という、枠組みを超えて、人間や社会の問題を考えるという。
分野横断的な、視点を持つ学問として、注目すべきである。

それはまた、宗教の終焉を示す、学問とも、成り得る。

ここで、少し、寄り道して、この学問について見ることで、釈迦仏陀の、観たものを、より深く理解したいと、思う。

人間というものは、そもそも、利己的な存在であるとの、主張が、この、進化倫理学のテーマである。

利己的というと、わがままだとか自分勝手だとか、それ自体で「悪い」イメージがあるので、こうした表現をすると、それだけで「人間の性質はもともと悪なのだ」という受け取り方をする人がいるかもしれない。しかし、自分の利益に向けて行動すること自体は善でも悪でもない。
内藤淳

利己的であるのは、人間が、進化によって、地球に生まれた生物であることから、極めて自然なものである。
進化というのは、個々の生物が、自分の遺伝子を次の世代に残す中で、そのため、プラスになる、特徴や性質が、子孫に受継がれることで、起こること、明確である。

生物が、成功裏に、自分の遺伝子を残すということを、包括的、適応度の向上という。適応度とは、専門用語であり、すなわち、利益のことである。

面白いのは、自分の遺伝子を残すことと、種の保存とは、別物であるということ。
生物は、種の保存本能を持たないのである。

進化の過程で、生物に受継がれるのは、自分の遺伝子であり、種という、集団全体を残すための、性質ではないというのである。

種の保存という、考え方は、一種の信仰に似る。

種の保存という、本能は、生物の間に、進化しないのである。
実に、真っ当な、考え方である。

自己犠牲のみに、生きれば、種の保存は出来ないのであるから。

そして、更に、
進化は別に「弱肉強食」でも「優勝劣敗」でもないし、進化倫理学は、競争を擁護する思想とは違う。社会進化論というのは、単なる競争主義の価値観を、進化に関する誤った知識に当てはめて提示したもので、人間行動進化学や本書で論じる進化倫理学とは別物である。
内藤淳
というのである。

進化と進歩とは、違うものである。
劣った者が、淘汰されることで、世界が良くなる、発展するという話は、人間行動進化学からは、出てこない。

これは、非常に、興味深い学問である。
進化した、生物である、人間の精神と、心というものを、再度、確認しつつ、眺めることができる。

更に、釈迦仏陀が、観たものを、進化倫理学というもので、解決することが、出来るのである。

やたらめったら、理解不能な、言葉の数々を取り上げなくても、実に、よく分かる、話なのである。

宗教は、学問の領域に入らないが、人間観察と、その進化の過程から、考察したものは、学問足りえるのである。


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2009年01月18日

神仏は妄想である 209

釈迦牟尼が人々に伝えようとした事柄は既存のバラモン教の教義とは余りに違う内容をもっていましたから、釈尊御自身もそれを他の人に伝えることを躊躇われたという言い伝えがある程です。人間は一旦頭や心の中に知識や考え方を形成してしまうと、現実の状況が大きく変化しない限り、それまでの知識や考え方と全く異なる情報を拒否しようとする性質をもっているのです。
藤見紀雄

バラモンから、ヒンドゥーへと、受継がれて、今もそれが、残っている最大の、カースト制について、仏陀は、真っ向から、否定する考え方を得た。
それが、平等である。

生まれながらに、人間が差別されることはない。人は、行為によって、成るものになるのである。
それである。

バラモンの教えは、当時の人の常識であるから、当然、仏陀の考えたもの、見出したものは、拒否される可能性が、高い。高過ぎるのである。

仏陀は、それを躊躇した。
それは、経典では、梵天が、現れて、説教せよと、仏陀に言ったことになっているが、創作である。
梵天とは、魔界のモノである。
それからして、経典は、創作の産物であることが、解る。

釈迦仏陀は、空というものを、発見したと、藤見氏は言うが、果たして、そうなのかは、明確ではない。ただ、仏陀によって、空の思想が、触発されて、生まれたと、考えることは出来る。

その理由は、
仏教の経典は最初はパーリー語によって記述され、その後、サンスクリット語に書き改められたと伝えられています。しかし何分にも最初の経典が作成されたのは釈尊がこの世を去られてから四百年も五百年も経った後のことでしたから、古くからの文字として遺されている資料にさえも釈尊が否定されたはずのバラモン教の教義などが何時の間にか混じり込んでしまっているように思われます。
藤見

バラモンの教えも、当然に混じるはずである。

不立文字という言葉があるが、これは、言わず語らずという意味ではない。
言葉にして、伝えることが、出来ないという意味でもない。

要するに、それぞれの地域や、それぞれの時代に合わせて、明確な概念が伝えられなければならないという意味である。

禅は、不立文字と、言っても、語るは、語るは、一番、煩いくらいに、文字にしているのである。
アレは、上記とは、別物である。

単なる、格好つけである。
語りきれないものがあると、嘯いているのである。

そして、最も、曖昧な、悟りというものを、目指しているという、お馬鹿さである。

禅の、修行者に、自殺者が多いということは、あまり知られていない。
何年座っても、悟れないと、嘆いての、自殺であるから、やり切れない。
そんなものは、あまりせんよと、誰かが、言えば済むことなのであるが、誰も言わない。

ただ、その行為の中に、悟りと、表現する姿があるということ。
悟り、悟ったという、お化けは、この世にも、あの世にも、無い。

悟ったと、言う者は、精神を病んでいるのである。

仏陀は、ただ、観たのである。
何物も、掴めないということを。
この世のものは、何も、つかむことが出来ない。

それは、空気を掴むのに、似る。
空気は、あるのだが、では、空気を掴めといわれると、掴めないということを、仏陀は、観たのである。

空気は、確実にあるのに、それを、掴むことが、出来ないのは、何故か。それでは、人間の生も、死も、掴むことは、出来ない。
老いも、病も、掴むことが、出来ない。

アララっ、何一つ、掴むことが出来ないものに、右往左往して、生きている。
そんな、暇なことを、考えて、更に、観た。

皆、掴めないのであると。

更に、確実なことは、地面に足をつけているということだけ。しかし、その地面も、何時、如何なることで、崩れるかもしれない。
アララッ、どうしましょう。

本当に、阪神大震災の時、皆々、まさかと思ったと言う。
新潟の地震の際も、まさかと、思ったと言う。
皆、起こってから、まさかと、思ったという。

そして、気づいた時は、家は流されて、村は、陥没して、アララッである。
更に、人生、何もかも、失ったと思う人もいる。

何一つ、決定していることは、無い。
仏陀は、それを、観た。

要するに、現実というものを、観た。

そこで、藤見氏は、

では何が釈迦牟尼の思想の根幹であったかというと教義の全ては「諸悪莫作衆奉行」という倫理観から出発しているのです。
と、言う。

悪を行わず、善を行うことである。

実に、簡単明瞭である。

ところが、暇な人がいて、悪とは、何か、善とは何かと、考える。結果、膨大な、仏教経典が、出来た。
もっと言えば、行うとは、何か。
そして、どのように行うか。
行う時の心は、どうするのだ。
とやれば、キリが無くなる議論になる。

あの、糞暑い、南インドで、竜樹は、暑さのために、頭をやられて、とんでもない、提言をはじめたのである。


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神仏は妄想である 217

人間も、他の生物と同様に、究極的にはこうした意味での利益獲得に向けて動く「利己的」な存在である。
内藤淳

人間の最大の、脳の進化もまた、生存、繁殖のプラスにならないのに、他の身体器官と同じように進化したのは、それが、人間の利益にかなうがゆえに、進化したと、考える。

人間の脳の、進化は、集団生活の中での、社会関係に対応する必要性から、進化したと、考えられている。
つまり、自然環境を相手に、複雑で、流動的な人間関係への対応、その中での、利害調整の必要性のためである。

つまり、社会関係に対処するために、言語コミュニケーション能力を含め、知性や理性を持つことが、利益にかなったからであるとする。

脳は、自分の利益のために、行動しているのである。

そこで、釈迦仏陀の、求めた、布施行為という、利他の行為は、いかなるものなのかということも、進化倫理学では、十分に考えられている。

結論を言えば、利他行為も、利己的行為なのであるということだ。

それを、説明するために、進化倫理学入門を、利用する。

さて、果たして、人間の行動は、理性で、行動しているのか。

説明をしていると、タラタラして終わらないから、どんどん、結論を書いていくと、人間の行動原理は、つまるところ、快、不快である。
そして、その快、不快には、利益が反映しているというのである。

われわれは基本的に自分が生存・繁殖する上で利益になるものに対して「快」を、不利益なものに対して「不快」を感じるようにできている。
内藤淳

エーッ、そんなことは、無いと言うのは、キリスト教信者であろう。特に、熱心な、クリスチャンは、否定するはずである。
ところが、彼らの、本音は、不快なことであろうと、つまり、不利益なことであろうと、信仰による理性によって、行動すると、思いこむ。
その心は、その、不快で、不利益なことをすることで、実は、最大の快である、天国という国が、保証されていると、信じ込むことである。

それは、最大の、彼らの利益である。
彼らは、人のためにと、行動しつつ、実は、自分が、天国に入いることのために、信仰の理性で、行動すると、思っている。
実に、偽善であるが、そう、信じている。

人類は、利己的でなければ、生き延びていないし、また、進化もしていなかった。つまり、滅びていたのである。

人間の行動は、その「快」を志向し「不快」を回避することで生ずる。(理性的ではなく)感情や感覚によって行動が決まるこの過程は、われわれに、自分の利益に向けた行動を自然に起こさせる仕組みになっている。こうした仕組みを通じて、人間は、自分でいちいち利害損得を考えていなくても、意識しないまま自分の利益に向けた行動をとる。言ってみれば、われわれは、自分の利益に向けて動くように「できている」のであり、自らが意識している以上に「利己的」な生き物である。
内藤淳

ただ、その副作用にて、後天的に、非利益的、反利益的な情報が、インプットされることで、自分の利益に、反する行動が生じる場合がある。
しかし、そうであっても、元にある、内面の、仕組み自体は、利益確保に向けた、構造と、機能を有していて、そういう仕組みを誰もが、備えているという点では、人間が、基本的に、利益に向けて動くという、原則は否定されないのである。

宗教が説く、利他行為というものも、進化倫理学では、徹底して、自分の利益に、集約して、理解できることになる。

あの、一見して、論じる、空、中論、因縁等々も、それ程、複雑怪奇にして、語る必要も無い。

これを、学べば、竜樹などは、大悪党だったことが、解るというもの。

また、それらの、太鼓持ちたちを、一網打尽にすることが、できるのである。

釈迦仏陀の行為も、極めて、利己的な行為であることが、解るのである。

更に、解脱とか、悟りというものも、こけおどしのようなものであることも、である。
まして、仏教の天上界という、魔界に生まれることもない。

実に真っ当に、人間として生きて、人間として、死ぬことができるのである。

そして、人類は、それを、目指して生きてきたのである。
仏などという、化け物に、なる必要は、毛頭無いのである。

内藤氏は、利他行為を、大きく四つに、分けて考える。
第一は、血縁者に対する、利他行為。
第二は、自分と特別な関係にある、人間、夫、妻、恋人などである。
第三は、友人、知人、同僚や、近所の人といった、一定の関係にある人たち。
第四は、見知らぬ人、不特定多数の人に対するもの。これが、多く宗教で、言うところの、利他行為である。

その一つ一つを、取り上げて、実に、理解しやすく、解説している。
入門書であるから、実に、気を配るのである。

その中から、私は、興味深いところを、抜粋して紹介する。

それは、実に、地味な観察である。
進化の過程の観察から、一つ一つの、人間の行動を、じっくりと、観察して、出来上がったものである。
理系の観察方法である。

そこには、文系のロマンは無い。
そして、科学であるから、ロマンはなくてもよい。
その後で、ロマンの必要な人は、付け加えればいいのだ。

そういう意味で、宗教を捉えれば、実に、歪なロマンであるということだ。
性格の悪い、意地悪な、ロマンである。
更に悪いのは、妄想を肥大化させて、現実の世界を見る目を、曇らせ、果ては、人間を、廃人としてしまう程の、威力を発揮する。

実に、宗教では、救われない。
つまり、人間のあるべき姿を、破壊し尽くすのである。
それが、妄想なのであるから、救われないというのである。

この世にも、あの世にも、救いというものは無い。
あるはずが無い。
救いというものも、妄想であるからだ。


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2009年01月19日

神仏は妄想である 218

血縁者や配偶者を助ける行動は、愛情からなされているのだから「利己的」行動とは言えないのではなく、愛情によってなされるがゆえに「利己的」行動なのである。
内藤淳

親の子に対する、愛情行為が、無償の愛であるという、観念とは、進化倫理学から見れば、無償でもなんでもない、利己的行為だというのである。
愛情がある、だからこそ、利己的であるという。

進化倫理学の愛情の定義とは、
われわれは、血縁者や特定の異性に対して愛情を抱き、そこで相手のために行動することを「快」に感じる。そうやって「相手のため」の行動が喚起されることで、われわれは、子どもの世話をするのが損か得か、病気の妻を助けるのが損か得かをいちいち考えるまでもなく、「自分という遺伝子を共有する相手の生存・繁殖可能性を高める」「配偶パートナーを獲得・維持する」という利益に向けて行動できる。これらの面で「自分の利益」にかなう行動を、自ら自然に自動的に起こさせる機能を果たし、そのために人間が進化させた感情作用が愛情である。
内藤淳
ということになる。

神や仏というものの、慈悲を親の愛に喩えることが、嘘だったということ。

この自然環境で、生きてきた人間は、そんなに甘くないのである。

仏教で説く、利他行という行為も、自然と意味の違うものになってくる。

奉仕活動や、ボランティア活動という、あたかも、慈善なる活動も、意味が、全く違ってくる。
宗教家が、行うそれらの、行為は、すべて、作為がある。
彼らは、無償の行為などできない。
出来るはずがない。
何故なら、その行為は、信仰によると、信じているからである。
つまり、その信仰、具体的に言えば、宗教の、布教という利己的目的が、厳然としてあるのである。

それらを、一切、見せない行為であっても、彼らの拝む神というものを、布教しているのである。

決して、無償な行為ではない。

例えば、全く布教の姿勢を、見せずとも、彼らは、所属する宗教から、信徒から、称賛され、支援を受けるのである。
更に、それを、宣伝用に使用される。
どこが、無償であろうか。

血縁者や異性への愛情は、基本的に人間に共通する先天的・遺伝的性質で、「自分の利益」の確保に向けて進化の中で人間が発達させた、そのための「装置」になっている。
内藤淳

そこで、問題になるのは、
では子どものいない夫婦や同性の恋人同士でも利他行動がなされるのはどういうわけなのか。パートナーへの利他行動が子どもを作り育てるためなら、そういうカップルの間では利他行動がなされる理由がなくなってしまう。しかし、実際には、子どものいない夫婦や同性の恋人などでも利他行動は盛んになされており、それはここで言う利益では説明できない。こうした疑問が、ここでの議論に対して浮かんでくる。
内藤淳
となる。

そこで、内藤氏は、
その説明をする。

ここで問題にしている人間の愛情やそれに基づく利他行動も同じで、こうした感情作用は、それを持つことが「遺伝子を残す」上で利益的だったために、それを生じさせる遺伝子が先祖以来受継がれて、(遺伝的障害などがない限り)われわれみんなに備わった。その上で、そうやって生まれた人間ひとりひとりが現実の一生を生きていく中では、配偶パートナーが獲得できなかった、子どもを作る機会がなかった、作ろうと思わなかった、異性ではなく同性に魅力を感じた、といったケースも生じうるし、実際そういう例はわれわれの周りに多々ある。しかし、愛情という感情作用を生じさせる遺伝子は、そういう人も含めて人間に生まれながらに備わっているのであり、・・・・その作用は消えるわけではない・・・
同性愛などが遺伝的要因から生じている場合でもそうで、だからといって愛情や知性を生じさせる遺伝子がその人から失われるわけではない。
内藤

利他行を、行じるという、宗教の、その様を、じっくりと、観察するが、いい。

空、中道、縁起、そして、利他行、慈悲の行為といわれるもの、何も、宗教によるものではなく、それは、進化によるものであり、なおかつ、それは、実に利己的なものなのであるということ。

他者のために、生きる時、私自身も、輝くのである。
人を幸せにするために、生まれてきたのである。
一人でも、多くの人を、幸福に導くことが、神の教えなのです。

等々、耳障りのことを、喧伝する宗教というもの、それは、人間の進化の賜物を、勝手に、利用しているに過ぎない。
ただ、それを、読んで、感動と、納得するという、アホは、多い。
そして、洗脳され、騙される。
騙されたまま、死ぬという、不幸である。

聖書では、新約になってから、神の愛を、無償の愛、アガペーと読んだが、旧約聖書の神は、嫉妬と怒り、裁きの神である。

新約の、アガペーの神の愛も、契約によってなる。
信仰宣言をして、成るものである。
信仰宣言をしなければ、その神の愛には、与れない。
つまり、無償の愛などというものは、嘘なのである。

主イエスは、善人の上にも、悪人の上にも、太陽の光は、与えられると言う。
その通り、信仰する、しないに、関わらず、太陽の光は、誰もが、享受できる。

ただ、与えるというものは、この世の、自然のみである。
古代の人、それを知っていた。
だから、太陽を崇敬した。
太陽を拝した。
それで、十分だった。

それでは、人類愛にまで、広がる、互恵的利他行動というものを、見てみる。
互恵的利他行動というものも、進化によって、得たものであり、何も、神仏による、教えなどではない。
人間が、生きるために、身につけた進化の過程であり、成果なのである。


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2009年01月20日

神仏は妄想である 219

互恵的利他行動について、書く前に、以前、神は妄想である、を書いた、ドーキンスの著書を紹介した時に、宗教がなければ、道徳は、行われないのかという、所を、読み直して欲しい。

人間の行為は、進化により、成り立ってきたのであり、宗教の教えによるものではない、ということを、明記すべである。

互恵的とは、与え合うということである。
これを、宗教では、実に利用して、神や仏の教えを説く。
しかし、それは、進化の過程で、人間が見につけてきたものである。

互恵的利他行動とは、一言で言えば「ぼくの背中を掻いておくれ、ぼくは君の背中を掻いてあげる」という原理(リチャード・ドーキンスの表現)で表すことができる。・・・・
背中のかゆみぐらいならたいした得ではないと思う人がいるかもしれないが、これがたとえば「背中についた害虫や寄生虫を取ってあげる」になれば生存・繁殖に大きくプラスである。それ以外にも、食べ物を交換する、喧嘩の助太刀をし合うなど、互恵的利他行動にはさまざまなパターンと利益がある。そのため、仲間と集団で生活する動物で、その中の「誰が誰か」を識別する能力を持ち、また、それぞれの相手との過去のやりとりを記憶する能力がある種では、互恵的利他行動を行う性質が進化する。
内藤淳


人間の場合は、特に、他の動物以上に、それが顕著である。
生存と、繁殖に、重要な意味を持つのである。

人間の場合は、他人の関与がまったくないまま自分だけでなにかの資源を入手することは少ない。財の多くは、自分が持っているもの労力と引き換えに、誰かと交換して得るものだし、(「市場」がそうした資源交換の場であることは言うまでもない)、狩りや農作業などの生産活動のほとんども、仲間と共同で、互いに協力し合う仲でなされる。自分ひとりで裏庭に畑を作って作物を育てたという場合だって、道具や衣服は店で買ったものだったり誰かにもらったものだったりする。
内藤淳

純粋に、相手を思う気持から、友人や知人に利他行為をする場合も、自分の利益に、それは向けられてないし、意識しないが、それも、互恵的利他行動として、自分の利益に、向けてなされる。
それは、人間は、自分に利他行為をしてくれる人に対して、好意を持ち、その感情から、相手に対して、積極的に、利他行為で、互恵関係を、築くのである。

われわれは。適切な互恵関係の相手を選び、そこで利他行動を交換して、「自分の利益」の確保を自然に行っているのである。
内藤淳

人間の感情というものも、互恵関係に、起因する。

われわれの感情は、周囲の人との間で互恵関係を構築・維持することに向けてーー自分に利他行動をしてくれそうなに相手と積極的に関係を結んで利益を確保し、そうでない相手は遠ざけて不利益を回避するようにーー作用している。
内藤淳

それを、人は、意識していないのである。
背景にある、利益を意識せずに、感情のみを、自覚して、行動しているのである。

友情や、感謝という気持、感情も、自分の利益に、結びついていると、思っていないが、そういう対人感情自体が、利益のために、人に備わっていると言う。

それでは、見知らぬ人に対する、利他行為は、どうなのであろうか。
要するに、見返りを期待しない、行動である。

例えば、私は、戦争犠牲者の追悼慰霊をするついでに、知らぬ国の知らぬ子供や、人に衣服を差し上げている。
何の、得にもならない。
また、慰霊という行為も、何の得にもならない。

実際、沖縄、渡嘉敷島の、集団自決の場所に、慰霊に出掛けた時、案内し、車の運転をしてくれた、女性から、何の得にもならないのに、どうして、されるのですかと、尋ねられた。

さて、私も、それを、私自身に、尋ねたい気持になった。

しかし、互恵的行動を知ることで、理解した。

やはり人間は「自分の利益」が見込めなくとも純粋な利他行動をするのだと思えるかもしれないが、それは人間同士の互恵関係を直接的なものだけに限定した考えからである。人間社会が間接的な互恵関係を含んで成り立っていることを踏まえれば、こうした行動も結局は「自分の利益」につながっていることが分かる。
内藤淳

それが、リチャード・アレクサンダーによる、間接互恵の理論、である。

「間接互恵」とは、自分が、誰かにした利他行動の「見返り」が、その相手から直接でなくとも、第三者を介して別な形で返ってくることをいう。これはたとえば、商売における「評判の利益」を考えてみると分かりやすい。
内藤淳

周囲に対し、自分の利他的性質が広まり、それが、評判や、人間評価になるというものである。

こうした「評判」が得られると、「私」は、今後、周囲の人と幅広く互恵関係を築けるようになる。
内藤淳

他者から互恵関係を結んでもらうには、「こちらに積極的に利他行動をしてくれる人」と思われることが絶対の条件であり、そういう「評判」を得ている人は、周囲の人と互恵関係を築く可能性が広がる。そして、そうやってたくさんの人と互恵関係を築けるなら、こちらが相手から利他行動を受ける機会も増えて、結局それは「私」の利益になる。
内藤淳

つまり、
他者への利他行動は、将来、周囲の不特定の人たちから「見返り」を得るための「投資」なわけで、そのために必要な「よい評判」を確保する意味でも、他者に積極的に利他行動をすることは、われわれ自身の利益につながっている。
内藤淳

知らない人に対して行う、利他行為は、間接互恵のネットワークの中で、自らの、利他性質を広告して、互恵関係の可能性を、広げるという意味で、自分の利益になるというのである。

それは、また、利益の無意識化であると分析する。

実に、真っ当な、考え方であり、人間観察の、最たるものである。

利他行動を、宗教では、最も、大切で、それだからこそ、人間というもの、信仰というものが、生きているのであると、説くが、実は、進化で得たものなのである。

利他行などと、大袈裟に言うが、元からあったものであるし、そのカラクリが、分かると、宗教という、教えなどに頼らずに、利他行為を行える。

それを、慈悲の行為と、称賛するほど、世の中は、甘くない。
慈悲行を、大乗仏教は、掲げるが、あの、七面倒な、論議は、何のためなのか。

中道、縁起、そして、そこから、慈悲の行為が、という発想は、頭が、イカれているのである。

進化倫理学では、良心を、利益の無意識化という。

更には、思いやりの心、というのである。

私が、何故、戦争犠牲者の追悼慰霊をして、更に、それを知らせる、チラシなどを配布するのかは、平和を考えるには、戦争を知らなければならない。その、きっかけになればと、思う。

更に、衣服支援も、そのついでに行い、それは、皆さんが、不必要であるというものを、頂いての行為である。

自分は、純粋に、そのように、思うが、それが、利益の無意識化であると、分析されても、驚かない。

更に、その行為は、自分のためのものという、意識があり、誰にも、知らせず、行ってもいいのだが、それでは、もったいないのである。
その情報を伝えることで、何か、世の中に、貢献できればいいと、思う。
これも、利益の無意識化である。

次に、善悪という観念を、人間は、どのような進化の過程で、作り上げてきたのかを、見る。

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2009年07月17日

神仏は妄想である 206

竜樹の説いたことは、何か。また、何を説きたかったのか。

そこで、別の角度から、検証するために、定方晟氏の、空と無我、という、本を参考にする。
この方は、東大フランス科卒業で、フランスに留学し、バリ大学で、インド哲学を学ぶという。フランス文学などを、学んだ人が、多く、仏教思想を学ぶというのは、何かと、興味深いのである。

竜樹は、「行く」という動作はないと主張する。というのである。

かれは、このことを主張するにあたり、動作の存在を過去、現在、未来の三時にわたって検討する。過去に「行く」という動作はない。過去の動作はすでにおわっているから。未来に「行く」という動作はない。未来の動作はまだおきていないから。ここまではだれもが納得するだろう。しかし、ナーガールジュナは、現在にも「行く」という動作はない、とつづける。
定方

実に、解りやすい説明である。

そして、続ける。
かれはそのことを「行きつつあるときにも行くことはない」という表現で述べる。なぜ「(行きつつあるとき)(行くこと)はない」のか。理由はこうである。(行きつつあるとき)という時間の設定は、それ自身のうちに(行くこと)を前提として含んでいる。これは論点先取りの誤謬である、と。だから「行きつつあるとき行くこと」はありえない。


現在とはなんだろう。時間とはなんだろう。ものから独立し、ものを受けいれようと待機している時間があるのだろうか。時間はものがあって初めて存在する。厳密にいえば、運動するものがあって初めて存在する。地球の自転、公転、歯車の回転、原子の運動などがあって初めて、時間が存在する。「行くこと」があって現在が存在する。ナーガールジュナは第十九章「観時品」でのべている。「ものがなければ時間は存在しない」と。


人は、運動を時間的継続のものだと、捉える。
それは、体験から出たものにすぎない。
時間というものは、人が反省、振り返った時に、現われるというのである。

竜樹は、「行くものは行かず」という、フレーズを何度も、繰り返す。
それが、竜樹の、核なのである。

行くものは行かずという、訳を、クマーラジューバは、西暦409年に、去者則不去、とした。

サンスクリット語では、動詞「行く」の語幹に、その動作を行う主体を表す言葉を、加えている。
そこで、サンスクリット語を、「行くものは行かず」と訳しても、妥当であるという。

漢訳の「去る者はすなわち去らず」というのも、問題ない。

そこで、定方氏は、日本語訳である「行くものは行かず」で、話を進める。

行くものが行くということが
どうしてありえよう
行くことなしに
行くものはありえないのだから

「行くものは行く」という考えには、「行くもの」と「行く」とは二つの独立した事象であるという前提が含まれている。したがって、「行くもの」はそれ自体のうちにすでに「行く」を含んでおり、あらためて「行く」と結び付けられる必要はない。「行く」ことをしない「行くもの」など、そもそもありえないのだから。
だから「行くものは行く」とい立言には、「行く」が二重に存在するという矛盾が生じる。このことはつぎのげにのべられている。

もし行くものが行くというならば
二つの「行く」が存在する結果になる

第一は「行くもの」と呼ばれうるゆえんの「行く」であり、第二は「行くもの」がおこなう運動としての「行く」である。そしてまた二つの「行く」があるならば、二つの「行くもの」が存在するというおかしな結論が生じるだろう。なぜなら、「行くもの」なしに「行く」ことだけがあることは不可能だから。このことは第六げにいわれている。

二つの「行く」があるならば
二つの「行くもの」が存在する結果になる
なぜなら、「行くもの」なしに
「行く」ことはありえないからである

定方氏は、竜樹の、言語の本質をするどく洞察した議論であると、いう。

あらゆる現象は、それ自体分割できない全一なものである。しかし、言語で表象しようとすると、われわれはまずそれを主体と動作に分割し、あらためてそれを結合するという手続きをとらねばならない。その結果、「行くもの」(主語)が「行く」(述語)という言表が成立する。

以上、定方氏の、解説である。

理論と、論理の違いを、考えてみるのも、手である。

仏教には、ものに、実体性がないということを、徹底して、議論し、人に説いた。
それが、空、縁起、中、無自性などである。

竜樹は、それを突き詰めて、説いたということだ。
更に、言葉の限界に挑戦した。

何度も言うが、当時は、論争の時代である。

定方氏は、更に、
無我を悟るには心を探求するよりも言語を探求するほうが効果的であることも、かれの言語批判は教えてくれる。かれは言葉を一種の虚構とみたが、そのことを説明するためにかれが頼るのは飽くまでも言葉である。かれは言葉でみちびけるところまで人をみちびく。そして、どの方角に真理があるかを指し示す。かれは言葉の限界を知る合理主義者、すなわち、徹底した合理主義者である。
定方

これに、反論する、大乗仏教の理解者達が、大勢いると、思われる。

言葉を、一種の虚構とみた、そして、合理主義者である。

端的に、言葉を、ロゴスとして、神に変容させた、キリスト教とは、絶対的に、対立するほど、言葉の、虚構性を、見たといえる。

そこでは、兎に角、信じて、仏の家に投げ入れてなどという、詭弁は通用しないということだ。

伝える手段は、言葉である。
その言葉の限界を、徹底して、身につけるべきである。

ところが、日本人は、言霊という、とてつもない、虚構を持つに至った。それは、感受性である。
言わず語らずの、姿勢、つまり、言挙げせずという、伝統である。
さあ、困った。

兎に角信じて、お任せして、云々という、言葉のみで、邁進した。そうすると、自ずと、理解される、解ってくる。
悟りは、言葉で、表現出来ないものだ、云々。

しかし、禅の世界では、言葉で、悟りを伝えるという、アレッおかしいと思うことをする。

要するに、ミソも糞も、一緒にして、仏の道を、論じる。
更に、漢語に迷う。

ひねくれ者、偏屈者の、竜樹にしてやられるのである。

空、縁起、中道という、ものが、同一であると、聞いて、日本の仏教愛好家が、どれだけ理解しているのか。

それでは、不本意ながら、空を、徹底的に説く、皆様、お好きな、般若心経を、少し見ることにする。

ちなみに、三蔵法師で有名な、玄奘訳である。


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2009年08月06日

神仏は妄想である 195

もう少し、インド思想史の仏教を見る。

空の実践としての慈悲行は現実の人間生活を通じて実現される。この立場を徹底させると、ついに出家生活を否定して在家の世俗生活の中に仏教の理想を実現しようとする宗教運動が起こるに至った。
中村元

その、代表的な、経典が、維摩詰所説経である。ゆいまきつしょせつきょう
維摩詰という在家の資産家が、主人公となり、出家者たる、釈尊の弟子たちを論破して、追及し、畏敬させ、その後に、真実の真理というものを説いて、彼らを指導するという、作り話である。

その、究極の境地を、言葉では、表現できない、不二の法門として、維摩は、沈黙を持って、教えたという。

明らかに、大乗仏教の、小乗を貶める創作である。

その後も、在家の運動を讃える、経典が著される。

それらを、釈尊が、肯定するという、筋書きである。

更に、華厳経が、著される。

事事無碍の、法界縁起の説に基づき、菩薩行というものを、説く。
菩薩行には、自利と利他の二つがあるが、菩薩は、衆生救済という目的が、自利であるから、自利は、即、利他ということになるというものである。

この経典では、菩薩の修行の段階を、十段階に分けて、十地という説にいたる。
第六地のところで、十二因縁を説き、善財童子という者を、主人公に、五十三人の元に教えを乞い、最後に、普賢菩薩の教えを受けて、究極の境地に達するという、創作である。

更に、浄土教の誕生である。
これは、法然、親鸞、浄土宗で、触れたので、省略する。

ただ、念仏によって、死後、極楽に生まれるということで、それでは、現世とは、どういう意味を持つものかという、議論がなされたという。
兎に角、議論の議論をし続けたようである。

そして、
大乗仏教徒は小乗仏教徒を極力攻撃しているけれども、思想史的現実に即していうならば、仏教の内の種々の教説はいずれもその存在意義を有するものであると言わなければならない。この道理を戯曲的構想と文芸的形式をかりて明瞭に表現した教典が法華経である。
中村元

更に、中村元は、
ところで種々の教えがいずれも存在意義を有するのは何故であろうか。それらは肉身の釈尊の所説ではない。
と、明確にしている。

それは、久遠の仏という、意識である。
時間的、空間的限定を超えた、絶対者、諸法実相の理である、仏という、存在であると、認識したからである。

勿論、妄想である。

更にである。
インド、民衆の、本生譚から、取り入れた、人である釈迦仏陀は、永遠の昔に悟りを開いて、衆生を教化してきた存在として、位置づけたのである。
人間、釈迦は、単なる方便であるという、誇大妄想である。

そうして、仏身論というものが、急速に展開する。

法華経の態度が、更に、発展して、大般涅槃行などという、仏教以外の、異端説といわれるものも、取り入れての、経典創作が行われた。

仏教の所説を理解する上で、インド思想史は、欠かせないものである。
それは、仏教というものが、インド思想史において、様々に変転していく過程を見ることで、仏教という、宗教に至る過程が、理解出来るからである。

そして、それは、思想として、認識するが、宗教としての、価値ではない。
また、更に言えば、インド思想史は、思想即宗教という、形になっていったという、ことが、理解出来る。
宗教の成り立ちを知る上で、必要な、教養である。

つまり、宗教とは、作り上げて行くものなのである。

その支持者が、信者となり、信徒となり、次第に、組織化され、更には、建物を建てて、職業宗教家の発生である。

在家信仰活動も、結局は、職業宗教家というものを、生み出したのである。
この、矛盾に、彼らは、答えない。
何故か、既得権益というものを、持つに至ったからである。

建物を建てて、信徒を要すれば、物質的に、豊かになる。今で言えば、金が集まる。それでは、やめられない。そして、堕落以上の、体たらくであり、もはや、その、主である、仏教ならば、釈迦仏陀の、教えは、無に等しい。
ただ、暇な者が、作り上げた、小理屈、屁理屈に、準じて、のうのうとして、教団、教派というものに、甘んじているのである。

更にである。
そこから、新しい団体を作り出して、教祖の、自己顕示欲が、満たされ、それに、集まる者どもが、甘い汁を吸うために、教祖を、祭り上げるという、寸法である。

信者に、段階を設けて、教師や、布教師などの、称号を授けて、更に、教団を太らせる。そこには、高邁な理想などない。世俗まみれである。

政治に関与するに至っては、もはや、手のつけられない、集団になる。
更に、政治家も、それらに、媚を売り、票を集める。
新興宗教の数々に、入信して、票を集める政治家もいるほどである。

商売の基本である、貧乏人から、広く金を集めるという、方法を地で行くのが、それである。

信徒から、集めた膨大な、金で、資産を増やし、果ては、結局、子々孫々に譲り渡す手配をする。

それは、世俗の家系よりも、甚だしく、劣るものである。
こうして、宗教というものが、成り立つ過程を知るのである。
彼らは、何一つ、確定したものを、提示しない。
すべては、人の妄想の故のもの。
それを、金に変換していて、平気である。

宗教により、心が、救われるということは、有り得ない。もし、そうだとするならば、それは、皆々、勘違いである。
勘違いのまま、死に、勘違いのまま、霊として、浮遊するという、悲劇である。
これを、悲惨と言う。

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