2009年01月11日

神仏は妄想である 201

さて、四人の大声聞、だいしょうもん、が、長者窮子のたとえ話を語る。
つまり、放蕩息子の話である。

大長者の息子に生まれたが、幼い時に、家を逃げ出して、放浪する。そして、晩年になり、父の家に戻り、そこで、父親が、息子を使用人として使い、次第に、目覚めてゆく息子を見て、最後に、親子であることを、名乗り、息子は、父の家を継ぐ者となるという、おきまりのお話である。
聖書にも、同じ話がある。

大長者は、仏であり、放蕩息子は、衆生であるという、段取りである。
それを、釈迦仏陀の、直弟子に語らせるという、段取り。

四人の声聞は、この話を語り終わると、世尊に向かって、この大富長者はすなわち仏であり、この子どもはわたくしたちです。―――といって、自分たちが小さな悟りに満足していたのを、いろいろと心を用いて大乗の教えまで導いてくださった仏の慈悲と方便力を、そのたとえ話に一々あてはめて申し上げます。
庭野日敬
更に、庭野の語るところを、読むと、
現在の世の中はまったく五濁、ごじょく、の悪世ですけれど、このくだりを読むと、わたしたちの胸には人間に対する希望がほのぼのと湧いてきて、じつに明るい気持になります。
衆生は仏の門の前に立っても、仏が自分の父であるとは知らないのですが、仏は、あれはわが子だとちゃんと知っておわれるということも、意味深いことです。仏はいつもわれわれのそばにおられる。真理はどこにも満ち満ちている。そしてわれわれが仏を見だすことを待っておられるのです。心のスイッチさえいれればいいというのは、このことです。
と、言う。

放蕩息子は、父親の元で、糞を除く仕事を、20年間していたという。その糞除きの仕事を、小乗の修行とする辺りは、本当に、小乗を蔑むものである。
それを、煩悩を取り除くことだと、言う。
それを、見た父親が、取りたいものがあれば、何でも、取りなさいと言う。しかし、自分は使用人であり、卑屈な根性が抜けきれないので、主人の財宝が、みな自分のものであると、知ることもない。
それを、二乗根性、つまり、小乗根性が抜け無いと言う。
しかし、いよいよ仏が入滅される直前に「法華経」を説かれて、「仏と衆生は親子であるぞ。一切衆生は仏になれるのだぞ」という大宣言をされるにおよんで、はじめて「ああ、そうだったのか」とおどろき、かつ思いもしなかった財宝(仏の悟り)が確実に自分のものになるのだということがわかって、大歓喜したわけです。
庭野
というように、大嘘話を、書くのである。
庭野氏は、「自分も仏になれるのだ」「自分はこの宇宙と一体なのだ」ということを、いつも自分にいいきかせましょうと、言う。すると、ある一定期間、それを一心に繰り返して、他のことを考えないでいると、それが、つまり三昧に入ったことだ、と言う。
三昧とは、悟りの境地である。

すると、なんとなく、そんな気持に、なってくるという。
「自分は仏の子である。だから宇宙の相続者である。宇宙そのものが自分である。だから、宇宙は自分の思うとおりになるのである」
と、思え、であるから、暗示である。
生長の家の、生命の実相という本も、似たようなことを、言う。
我は神の子である。天地一切のものと、和解が成立して、天地一切のものとなる。
そのように、自分に言い聞かせる。つまり、自己暗示をかけると、何と、そのようになるのである。

こういうのを、勝手にしなさいと、言う。
人様に、迷惑をかけないのであれば、何をどのように、思い込んでもいい。
しかし、その先がある。
それを、人に告げ知らせよ、である。
自分だけが、仏になるのではない。それを、人に伝えて、人も、仏にするのである。
公宣流布である。
他人の「解」を深め、自分の「信」を高める行為。それを、功徳というから、いい気な者である。
自分の信仰体験を人に語ることが、大切であるようだ。

極めて、個人的な、情緒である、信仰体験を、人に語るという、神経が、解らない。
裸を人様に、晒して、どうする。

信仰体験とは、実に恥ずかしいものであるということが、理解出来ないで、恥曝しである、自分の姿を、知らないのである。
涙ながらに、その体験を聞いていると、背筋に寒気が走る。
実に、面白いのは、A教団でも駄目だった。B教でも駄目。そして、C教でも、救われなかったが、この教団にて、救われたのですという、アホ、馬鹿、間抜けがいる。

昔、信仰から抜けた人の相談を受けたが、不思議なことに、次に拝むものを求めるのである。
入信の相談も、信仰破棄の相談も、改宗の相談も、多く聞いた。
しかし、拝むことを、止められないのである。
宗教を渡り歩いて、教祖になる人もいる。
兎に角、神事が好きなのである。いや、仏事か。

拝むという、行為を否定する、何物も無い。それは、それで、十分に意味あることである。それによる、生きる謙虚さであれば、言うことは無い。
何度も言うが、極めて個人的な行為である。
面白いのは、まだまだ、奥があり、それは、そうそう、易々と、教えられるものではないという、文句で、会員を、引き付け、引き伸ばすものである。

密の法華経などという者も、現れて、法華経にまつわる、迷いの数々は計り知れない。

西行が、伊瀬に参った時に、
何事の おわしますをば 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる
と、歌った。
畏敬の念に、打たれたのである。
シュバイツァーも、生命の畏敬に、感じた一人で、その活動を、止められなかった。
人様の、畏敬の念を、他者が、云々する何物も無い。
星空を見上げて、深い、畏敬の念を、感じるということは、通常の神経を持つ人ならば、大いに有り得ることである。

月をこそ 眺めなれしか 星の夜の 深きあはれを 今宵知りぬる
建礼門院右京太夫の歌である。
今までは、月を見て過ごして、それを歌ってきた。しかし、今夜の星空は、何か。今までにない、深いあはれを、感じさせる。
右京太夫の、極めて個人的な心境である。
それに、他者は、介入出来ない。
これは、おそらく、妄想ではないものである。
それを、神仏に、置き換えてしまっては、堕落する。
人生を賭して思う、思い。感受性である。
それを、妄想とは、言い難い。



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2009年01月12日

神仏は妄想である 202

日本における、法華経の推移を、俯瞰してみる。

まず、最初に、法華経を取り上げたのは、後に、聖徳太子といわれた、厩戸皇子である。
厩戸皇子に関しては、実在性があるが、聖徳太子という人物には、実在性が無いという、研究もある。

一時期、蘇我馬子が、蘇我王朝なるものを、掲げた時に、摂政として活動したのではないかとも、言われる。
丁度、推古天皇の頃である。
だが、厩戸皇子は、大和朝廷に政権を戻すべくの働きをしたのかもしれないが、不確かである。
確かなことは、大化の改新によって、蘇我家が、滅んだということである。

さて、厩戸皇子が、法華経を掲げて、それを講義した事実がある。
その書き物もある。

新しい国家体制を、考えた厩戸皇子から、始まったというのが、根本的な受け入れ体制を作り上げた。

そして、聖武天皇、その皇后である、光明皇后は、奈良の東大寺を総国分寺として、国分寺、国分尼寺を、全国に配置した。
国分尼寺は、懺悔滅罪の寺とされて、法華経読誦が、行われた。

更に、平安期、最澄は、桓武天皇の志により、還学生として、唐に渡り、中国天台第七祖、並びに、行満から天台宗を受けて、帰国後、年分度者という割り当てを受けて、比叡山延暦寺にて、円、密、戒、禅の四宗融合の総合的仏教を、発信した。

その、法華経信仰の隆盛は、平安貴族の法華経讃仰に、大きな影響を与えた。

法華経講義の、天台大師の三大部を、紫式部や、清少納言が、諳んじるほどの、教養を持っていたと、言われる。

更に、平清盛は、厳島神社に、平家納経三十三巻を収めて、平家の繁栄は、イザナギ島大明神の加護によるものと、報恩のために、見事な装飾を施した、特別に漉いた紙に、写経し、更に、絵を添えて、各巻を著わした。

それは、藤原道長以来の、法華経信仰が、継承されたものである。

その他には、天台宗寺院として、創建された、多武峰や、宇治平等院などと、大きな広がりを見せた。

鎌倉時代に入ると、道元によって書かれた、正法眼蔵に引用される文献の中でも、法華経が圧倒的に多い。それは、最澄・天台大師の解釈によったことが、認められる。

更に、日蓮によって、決定的に法華経信仰の、最盛期が訪れる。

ただし、日蓮門下は、法華経のみを、正しいとして、他を排斥するという、激しい信仰態度で、臨んだために、その激しい信仰に生きる者も、多く出た。

室町期に入っても、そのような人物が出たのである。

そして、江戸時代になると、独特の優雅な文化を生み出した、法華町衆、本阿弥光悦、尾形光琳などが、象徴的である、文化的活動がある。

臨済宗、曹洞宗の禅僧の間にも、法華経への、深い関心が見られる。

江戸期の、白隠禅師などは、四十二歳の時に、一夜、法華経を読むうちに、コオロギの声を聞いて、大悟を得たといわれる。
良寛なども、法華経に影響されたといわれる。

近現代に入り、宮沢賢治の、法華経信仰が、有名である。

更に、作家、岡本かの子によって、解かれた、観音経なども、有名である。
私も、それを、読んで大いに、感銘を受けた。

法華経信仰を鼓舞する、多くの書物は、限りなく、研究書も、限りなくある。

訳書としては、世界各地に所蔵される、サンスクリット原典を集大成とした、立正大学法華経文化研究所の、梵文法華経集成十三巻が、ある。

法華経から出た信仰では、何と言っても、観音経から出た、観音信仰が、広く一般の人に、普及している。

だが、何度も言うが、法華経が、創作の経典であることである。
上記の人たちも、それを知る者がいたはずであるが、それを、事実の教えとして、掲げた。また、実在の教えと、勘違いしてしまった人が多い。

作られた、教えである。
とても、文芸的な作品である。

それ以上のものではない。
つまり、法華経を拝むものではない。
法華経は、読み物である。

それでは、更に、インド思想史から、仏教の変転の様を、俯瞰する。

大乗仏教に大きな影響を与え人物は、空の思想を哲学的に基礎づけた、ナーガールジュナ、竜樹である。

彼は、南インドの出身で、仏教のみならず、他の宗教にも、精通していたといわれる。

彼は、後世の仏教に、大きな影響を与え、八宗の祖師と、崇められる。

彼の思想を、中間派と呼ぶ。
その、中論という書において、有部の法有の考え方を含め、何らかの意味において、多数の実体的原理を想定する、諸々の哲学思想を、批判し、論破している。

もし、法有の立場で、概念、あるいは、本質のようなものを、実体視するならば、現象界の変化の成立している、所以を説明し得ないことになる、と、主張するのである。

時間規定を受けていて、しかも、実体的本質を有するものは変化することが、できない。
つまり、まず己に去ったものは去らない。また未だ去らざるものも去らない。己に去ったものと未だ去らないものとの両者を離れた今去りつつあるものもまた去らない、というのである。

しかし、現実の経験世界においては、生滅去来の変化が成立している。したがって、諸法そのものは、実有ではあり得ない。空であり、無自性でなければならないと、する。

更に、竜樹の説を、見てゆく。

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2009年01月13日

神仏は妄想である 211

「さとり」という概念も「悟り」と「覚り」では異なり、現代の仏教を研究する人達の多くは「悟り」と書いて「煩悩から解放されて解脱する」という概念で仏教の思想を説明しています。これに対して「覚り」は「真理あるいは摂理を発見する」という概念によるものです。これらの違いは仏教観を分けるところで「悟り」が個人の内面に凝縮されるのに対して「覚り」は社会の状況を改善するための思想に発展するのです。
藤見紀雄

上記を、基本に考えると、日本の大乗仏教とは、実に曖昧模糊であり、小乗ではないが、小乗を踏んでいるようであるし、しかし、大乗経典を掲げるし、本当のところは、本人達も、よく解っていないのではなかろうとか、思うのである。

藤見氏は、言葉の概念ということで、こうして明確にした。
私は、それに対して、納得するが、後で、批判する。

更に続ける。

仏教の思想を「悟り」と解釈するとき、その先には「涅槃寂静」の境地があり温厚にして円満な人格が形成されるという訳です。しかし「覚り」の方はただ独り、温厚にして円満な人格を形成すれば良いというものではなく、社会から不安や禍をなくすための提言によって実践されるところです。釈尊の「さとり」を「悟り」の概念によって「涅槃寂静」の世界に導くか「覚り」という概念によって「角を立てる」のかは大変な違いです。
藤見

最初の大乗の人々は、上座部の人々を、それでは、仏陀の教えを、人々に伝えることは、できないし、更に、自分達のものにしてしまい、広がりを持たない。ゆえに、我等が、仏陀の教えを、伝導しようとして、始まった、民衆的運動である。

それが、どうしてしまったのか。
上座部を、小乗と、侮蔑していたのだが、結局、大乗仏教、日本仏教も、今では、糞の役にも立たないのである。

つまり、侮蔑していた、小乗の、やり方と、同じところに帰着したのである。

更に、その教えなるものも、霧散して、今では、亜流、外道の葬式仏教、形骸化した、仏教、伽藍の仏教になっている。
既得権益に、浸って、利益追求の商売に成り下がり、地獄の様である。

要するに、話にならないのである。

このようなことから現代では「さとり」は「悟り」と書いて「煩悩から解放されて解脱する」ことを仏教の本道としています。しかし「ブッダ・仏陀」という原語が「覚者」と漢訳されていることからも察することができるようにシッダールタの「さとり」は「覚り」だったのです。
藤見

覚りは、仏陀の感受性により、摂理を発見する。
そして、この、摂理を、ダルマ、漢訳では、法とされた。
ダルマは、仏法のことである。

仏法である。

幾つかの、巨大新興宗教教団は、この仏法という言葉を、多々使用する。
しかし、法華経を掲げ、更に、日蓮という者が、作り上げた教えによっての、仏法を語る。
法華経の中から、すべての、仏陀の、教えを導き出そうとする。

日蓮が、勘違いしたように、題目さえ唱えれば、上座部の修行を超えるという、蒙昧である。

唱題さえすれば、仏陀の「覚り」を得られると、思い込む。
甚だしい、外道振りである。
外道とは、その名の通り、外の道である。内道ではない。釈迦仏陀の道は、内道である。

更に、紙に書いた文字を、本尊、曼荼羅、などと、とんでもない、勘違いをして、仏法を行じていると、思い込むのである。

釈尊の「さとり」を「悟り」と解釈するとき釈迦牟尼の思想は社会の現実から離れ、雲の上の幻想へと祭り上げられて、理性の対象から消えてしまうのです。釈尊を釈迦牟尼と呼ぶときの「牟尼」というのは「思想家」のことですから、少なくとも釈尊を釈迦牟尼と呼ぶときには釈迦の思想を理性の対象として理解することが求められます。このとき雲の上の幻想では情緒の対象にしかならないために釈迦牟尼の本意も祈願も眼に入らなくなってしまうのです。
藤見

ちなみに、悟りの中の、解脱という概念は、仏陀以前からあったもの。
古代インド、つまり、バラモン教によるものである。

最初は、仏陀も、その解脱を目指して、進んだ。しかし、その苦行から離れて、その、感受性により、観たのである。
その観たものは、解脱ではなく、因果関係の摂理である。

それまでの、バラモンの悟りとは、別物である。
そして、それを、現実世界に実践するための、思想である、般若、知恵である。

要するに、日本の仏教は、文盲時代の人々に、仏の教えと、救いということで、語っていた時代から、何も、進歩発展していないのである。

つまり、堕落である。
更に、江戸時代の、徳川三大将軍、家光によって、成立させた、檀家制というものに、腰を下ろして、その、権益だけに、浸った。

為政者が、作った制度に、甘んじて、ただ、惰性によって、宗教団体の、利益のみ追求するという、化け物になったのである。

人を騙す手口は、一人前であるが、釈迦仏陀の、思想を追い求めることは、幼児以下である。

勿論、彼らは、追い求めているというだろうが、それは、単に、同じ場所を、ぐるぐると廻る、ネズミのような行為であった。今も、然り。

実際に現代の日本の仏教観では芸術的な表現によって情緒を振り動かすことはあったとしても現実の世界には何の影響も与えることもありません。しかし釈迦牟尼の本意は人々にある「空」の内容の中に釈尊の「覚り」と同じ思想を形成することによって、全ての人が安心することのできるような福利の保証が現実の社会に実現することを祈願されたのです。
藤見

福利厚生という言葉がある。
社会システムにあるものだが、これを、我が身のことと、他者のこと、更に、その関わりまでに、広げて考えることの出来る人、それが、釈迦仏陀の道を歩む。

人々にある「空」の内容に釈尊の「覚り」と同じ思想を形成することのできる、福利の保証が、実現すること。

そこで、再び、空というものについて、追求する。

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2009年01月14日

神仏は妄想である 204

中論の主要テーマは、運動である。

まず、すでに去ったもの(己去)は、去らない。また未だ去らないもの(未去)も去らない。さらに「すでに去ったもの」と「未だ去らないもの」とを離れた「現在去りつつあるもの」(去時)も去らない。

ひねくれ者、偏屈者の、竜樹が、否定の否定の、否定を論じるという様。

面白いのは、その前の章での、

もろもろの縁の一つ一つのうちにも、またもろもろの縁がすべて合したうちにも、その「縁の」結果は存在しない。もろもろの縁のうちに存在しないものが、どうしてもろもろの縁から生じうるであろうか。

そして、最後の段で、

それ故に、結果は「縁が変化して現われ出たもの」ではない。また「縁でないものが変化して現われ出たもの」なのでもありえない。結果が無いのであるから、どうして「縁」と「縁でないもの」とがありえようか。

この、南インドの仏教が、日本仏教の大元となるのである。
こんな、ひねくれ者、偏屈者の、思想が、日本仏教の、大元である。

現在去りつつあるもの」のうちに、どうして「去るはたらき」がありえようか。「現在去りつつあるもの」のうちに二つの「去るはたらき」はありえないのに。


更に、続ける。

「去りつつあるもの」に「去るはたらき」が有るならば、二種の去るはたらきが付随して来る。「すなわち」「去りつつあるもの」をあらしめる去るはたらきと、また「去りつつあるもの」における去るはたらきとである。

中村元氏の、注釈では、
すなわち、もしも「去りつつあるものが去る」というならば、主語の「去りつつあるもの」の中に含まれている「去」と、新たに述語として付加される「去」と二つの「去るはたらき」が付随することになる。
と、ある。

二つの去るはたらきが付随するならば「さらに」二つの「去る主体」(去者)が付随する。何となれば、去る主体を離れては去るはたらきはありえないから。

もしも「去る主体」を離れて「去る作用」が成立しえないのであるならば、「去る作用」が存在しないのに、どうして「去る主体」が存在しえるであろうか。(それゆえに「去る作用」は存在しない)

まず「去る主体」は去らない。「去る主体でないもの」も去らない。そうして「去る主体」でもなく、「去る主体でもないもの」でもなくて、「両者とは」異なったいかなる第三者が去るであろうか。

まず、「去るものが去る」ということが、どうして成立しうるのであろうか。「去る作用」なしには「去る主体」は成立しないのに。

「去るものが去る」と主張する人には、「(去る作用)がなくても(去る主体)がある」という誤った結論が付随して起こることになる。何となれば(去る人)がさらに(去る)というはたらきを認めているからである。

もしも「去る人が去る」というならば、二つの去る作用があるということになってしまう。すなわち、その「去るはたらき」にもとづいて「去るもの」とよばれるところのその「去るはたらき」と、「去るもの」である人が去るところのその「去るはたらき」とである。

こうして、延々と、くどく、否定の否定の否定を、繰り返して、撹乱させるという、段取りである。

すでに去ったところに去ることはなされない。未だ去らないところにも、去ることはなされない。いま現に去りつつあるところにも、去ることはなされない。どこにおいて、去ることがなされるのであろうか。

未だ去らない働きのうちに、去る働きがあろうかというのである。
それは、すでに去ったもの、いま現に去りつつあるもの、未だ去らないもの、が、区別出来ないのであるという。

ホント、ご苦労なことである。

要するに、現実の経験世界において、生滅去来の変化がある。従って、諸法そのものは、実有では有り得ない。
つまり、空であり、無時性である、なければならないというのである。

この、現象界にあっては、個々の相は、互いに他の相との対立、依存関係によって、成立している。
いかなるものも自己に対して、否定的に対立することを前提とし、更に、否定的対立者を否定することにおいて、成立しているというのである。

故に、諸々の事物、諸法というものは、それ自体、不可得であり、空であるというのだ。

何らかの、概念をもって、述語することは、出来ないのだ。

否定的にのみ、表現され得るのである。

諸々の事物の本性は、空であると、観ずる絶対的立場を、究極の真理とし、立場として、これに対して、諸法のあらゆる、世間一般の人、諸々の哲学者が、執着する、相対的立場を、日常の真理の立場という。

竜樹は、二種の真理を認めていた。
そして、すべては、空であるから、実践が可能であり、もし、空でなければ、我々が、目標を目指して、努力することも、不可能であるとするのである。

つまり、否定の極限を言う。

この空の、理法を、竜樹は、縁起であるという。
それは、あらゆるものが、互いに依存しあって、起こっているということであり、それは、諸法実相とも称し、また、無我とも、同義だという。
また、この理法は、相対的に対立している諸概念のうちの、いずれか一方に執着しないという意味で、中道とも、称する。

それで、竜樹の考え方を、中観派と呼ぶ。

空であり、縁起であり、中道であり、それは、真理であるというのだ。
竜樹によれば、涅槃とは、有でも、無でもなく、空である。

更に、輪廻と、涅槃とは、如何なる区別も存在しない。涅槃を特別の境地が、実在すると考えるのは、凡夫の迷いであるという。
繋縛もなく、解脱もなし、と、観ずるところに、解脱があるという。

繋縛と解脱とがあるというとき、そこには、束縛があるのである。

諸法が無自性、空であるとは、如来も、空であるということになる。

当時の諸派に対して、徹底抗戦したことは、理解出来る。その弟子で、あまりの激しさに、殺された者もいる。

仏は、議論、戯論を超越して不壊なものなのに、仏を、議論、戯論する者は、それに害されて、如来を見ず、ということになる。

これは、当時の仏教諸派に対しての、とてつもない、思想的対決だったと、思える。

ただし、竜樹に対する、理解度や、その解釈に関して、それぞれの、考え方であり、本当に竜樹の思想を、伝えたのかというのは、別である。

要するに、私が言う、それも、妄想である、という、言い方をしたのかもしれない。

空ではない、妄想である。
つまり、仏とは、妄想である。
無いものを、在るものだと、仮定しての、議論は、戯れであろう。

これは、私の独断である。
しかし、竜樹は、真理だと、言う。ここに、竜樹の迷いがある。
真理というものは、この世にも、あの世にも、無い。
あると思うのは、妄想である。

今でも、空、縁起、中道に関して、諸々の説があり、皆、語る者、真理だと、言明する。

哲学的思考は、何の根拠の無い。
人間の、大脳化ゆえの、言葉の遊びである。
その根拠は、大脳化である。
脳が死滅すれば、それらも、霧のように、消えてしまう。

大乗仏教の、大成者である、竜樹の思索は、その死によって、生滅した。今は、その残骸を、惜しみつつ、何やら、愛好家たちによって、受継がれている。そして、勝手な解釈と、勝手な思いにより、人を騙す手立てにされている。

如来の本性は、世界の本性であるというが、世界に本性など無い。
宇宙のどこを探しても、本性などは無い。

あるのは、進化である。
この世も、あの世も、進化している。
つまり、諸行は無常なのである、と、基本に帰る。

ただ、一つだけの、救いのようなものがあるのは、それにより、慈悲行の実践が出来るという、ことである。

それでは、仏教愛好家たちは、慈悲の行為を、行っているのかといえば、日本仏教の愛好家たちは、慈悲の行為など、何処吹く風、宗教商売繁盛で、盛んである。

竜樹も、慈悲の行為などしなかったが、少しは、まともだったと思える。

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2009年01月15日

神仏は妄想である 214

般若心経の中に、是故空中無色 無受想行識という言葉がある。
ぜこくうちゅうむしき むじゅうそうぎょうしき

是故とは、このような、理由によってという意味。

問題は、空の中は、無色であり、更に、受想行識も、無であるという。

ここでの、無というのは、どういう意味か。
無という言葉を、存在しないと、捉えると誤る。
無という言葉は、仏教では、存在しない、何も無いという意味ではない。

この、無とは、普遍的ではない。絶対ではないという意味である。

または、変化するもの、無常なものという、意味での、無である。

多く勘違いする人は、無は、無であると、理解する。
だから、無にもなれず、空にもなれずという、おかしな気分になるのである。

無という言葉を、何も無いと理解すると、それは極めて、釈迦仏陀の教えを、歪めることになる。
更に、無とは、有と対立するものである。

無受想行識が、無、つまり、無いものであるとすると、全てが、どうでもよいことになり、仏陀の教えも、崩壊する。

また、そうであれば、釈迦仏陀も、単なるお遊びの行為となる。

色、受、想、行、識という、五蘊は、存在し、そして、それは、移ろうものなのである。
五蘊は、移ろうもの。

更に、般若心経では、無智やく無得と、空の説明をする。
五蘊皆空と見極めたことにより、パンニャーバラミーターという、智慧、または、理知を確立する。

「空」と人間の活動の一体性や「空」はただ情報の影響を受けて形成されるだけで自性もなければ絶対性もないことが本当に理解されなければ理知が確立されないためです。
藤見紀雄

無限界乃至無意識界
むげんかいないしむいしきかい

無限界とは、眼、げん、と、その感覚対象である、色の関係という意味での、界である。
無意識界の、界も、意識と法の関係という意味である。

眼耳鼻舌身意という、六根によって、知覚され、成り立つ心象が、客体ではなく、知覚することは、個々の主観であることを、言うのである。

知覚とは、観念と一体になり、そこで、観念の中に、変わることのない摂理や、普遍性がないということ。しかし、五蘊が、皆空であることは、人間が観念から、離れて暮らすことは、出来ないのである。

更に、人は、新しい情報を得て、揺らぐ。

変わることのない、摂理や法則は、あるのか。

不生不滅 不垢不浄 不増不減
空の中には、それらが無い。
法の中にしかないのである。

法、ダルマを知覚する意識が、曖昧であれば、摂理や法則を知ることはできない。

般若、パンニャーの思想では、煩悩を離れる、解脱するというのは、怪しげな行為にしかならない。

「般若」の思想とは世俗の社会の中で生活をしながら世俗の社会を浄化することです。そしてこれが大乗仏教の本分とするところです。
藤見

安易な座禅で陶酔状態で落ち込んで解脱したなどと勘違いしたのでは救われることはありません。
藤見

仏教では浄化された社会を「浄土」と呼びます。つまりこの浄土の建設こそ大乗仏教の本来の目的です。浄土を死者の住む世界にすり替えてしまった日本の伝統的な仏教界の罪は大きいと言わなければなりません。日本の伝統的な仏教界が本道を取り戻すためには死者との関わりを断つ以外にないのですが、現代の日本の伝統的な仏教界が死者との関わりを断てば何も残らないといった状態です。
藤見

私の言いたいことを、直接的に言うので、ありがたい。
その通りである。
つまり、大乗仏教などとは、名ばかりなのである。
成立の過程からして、名ばかりであったとも、言う。
インド魔界からの、影響は、甚だしいものがある。

更に、藤見氏は、続ける。

また仏教を研究していると称する学者達の仏教に関する解説もその多くは雲の上の御伽噺の域を出ることはありません。もちろんそれは文字に書かれている資料から引用された解説ですから学問としてはそれで成り立つのに違いありません。しかし資料があるからそれが釈迦牟尼の思想に違いないかと言いますと必ずしもそうとは言えないのです。仏教の研究家の間では早い頃から偽経が問題にされていました。
藤見紀雄

多くの仏教解説は、単なる、感動物や、お涙頂戴物も、多く、更には、小説を書けなくなった作家から、売れない作家、果ては、ゴロツキ物書きまで、参入して、甚だしい、仏教花盛りを演じる。

仏教学などとは、学問にするのが憚られるものである。
宗教を、学問とすることに、誰も、文句を言わないのが、不思議である。
勿論、学問の定義もあるだろうから、その定義が、広く、底抜けに広ければ、宗教も、学問の内に入るのだ。

私は、妄想学として、講義をすれば、足りると思う。

仏教を主にした、学者などという者、単なる、生業であり、それ以下でも、それ以上でも、無い。

口先三寸とは、よく言った。占い師と、同じ土俵である。
笑う。
大いに、笑う。


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神仏は妄想である 213

釈迦牟尼の思想においては「話すこと」も「身体を使って働くこと」もその価値を同じ重さに置いているのです。これは「話すこと」によって権益を提供したり、また権益の侵害をすることがあるのは「身体を使って働くこと」によって権益を提供したり、また権益の侵害をすることがあるのと同じ影響力をもっているからです。
藤見紀雄

大切なことはそれぞれの本分を通して他者に権益を提供しているか否かが問われなければならないのです。

現代の社会では「話すこと」は、それが職業として成り立つことによってのみ価値が認められるという状況の中で「話すこと」の内容が商品化されてしまいました。このため「話すこと」が商品的な価値が有るか無いかということが重要になり、その「話すこと」の内容が人々に権益を提供するものであるか、人々の権益の侵害するものであるかという視点が失われてしまったのです。このため現代では「話すこと」を職業としている人達が真剣に人々に権益を提供する目的で情報を提供していることは稀で、大抵は人々に受け入れ易い情報を提供することで手軽に報酬を得ようとする人間が増えました。このような情報には結果的に人々の権益を損なう情報も少なくありません。仏教に関する情報にしても歴史的な資料のある範囲においては古い時代に比べれば明らかにされるようになってきました。しかし釈迦牟尼の思想そのものは却ってベールを掛けられて神秘的な教えであるかのような説明が多くなってしまったのです。
藤見

上記は、批判である。
そして、批評であり、評論である。

もう、死に体の、日本仏教愛好者たちの言う、釈迦仏陀の、教えでは、時代を、更に、次の時代を生きられないのである。

神仏というものは、妄想であるが、釈迦仏陀の教えは、妄想ではなく、オリジナルの思考法なのだということ。

ある、法華経の解説者が、その集まりの名前の霊界を作って、法華経講義をする。
勿論、その代表が、何を、どう言っても、構わない。
また、会員が納得して、入会し、金品を支払っても、問題がない。

そして、そこに、会員の心の権益が、あるというのなら、更に問題は無い。
釈迦仏陀は、人々が、平等に、権益に預かることを、教えたのである。

法華経を奉じる、それぞれの、新興宗教の派閥が、どれ程、激しい、批難合戦をしているのかを見れば、彼らは、単なる、烏合の衆としての、集いであり、社会的に、何の権益をも、人々に提供しないのである。

一見、ボランティア、奉仕活動などで、それを示しても、それは、会員増強と、会員増大のための、方法である。
方便でも、決して無い。

釈迦仏陀は、己のみ、仏陀であるとは、言わなかった。
人は、皆、仏陀、すなわち、覚った者になるのだと、言う。

であるから、般若心経に登場する、観世音菩薩、または、観自在菩薩は、総称なのである。

菩薩とは、サンスクリットの、ボーディーサットゥバから、そのまま、菩提サッタと漢訳したものである。

菩薩は、菩提と、サッタの、二つの語の、概念が必要である。

菩提とは、生きている人間の、想い、情念であり、想念である。
更に、希望とか、期待という、心の状態を表す。

それでは、菩提を弔うという、言い方の中にある、死者に対する、所作というものは、実は無いのである。
正確には、故人の、想い、想念、期待を、引き受けることである。

仏教で言う、死後の世界とは、生きている人間が、現実に即して、生きることであり、死後の世界、端的に言えば、極楽などという、夢の世界は無いということである。

人間が、死んだ後で行く、霊の世界というものは、仏教の思想には無いものである。

その人間が生前に生活をしていた世界での言動が、その人間の死んだ後にまで、その人間が生前に生活をしていた世界の後に遺された人々の生活に様々な影響を及ぼすということについて「死後の世界」と呼んでいるのです。このような「死後の世界」に対しての概念が曖昧なことを好いことにして商売をしている宗教団体の罪は深いものがあります。
藤見

浄土三部経の、世界は、無いということになる。

釈迦仏陀は、死後の世界については、一言も、発言していない。
また、神通力を得た、弟子の、目連に対しても、それを、使用することを、禁じたのである。何故か。生きるに必要ないことだからである。
それは、余計な邪念になることが、解っていたのである。

サッタとは、どのような意味であるか。
衆生とか、全ての生き物という説明があるが、ここでは、人間であると、限定して考えるべきである。

つまり、菩薩とは、目的のために、想念や、情念を注ぐ人という、意味になる。

菩薩は、人間以外のなにものでもない。
更に、生きている人間のことであり、死んだ人間、あるいは、空想、妄想の、化け物のことではない。

この求道者である「観自在菩薩」の課題は「社会の動向を在りのままに把握すること」ということです。このように困難な課題を持ち続けることは常人にはできることではありません。しかしそれが「菩薩」と呼ばれる所以ですから、そのことを理由にして「観自在菩薩」を固有名詞と説明するのは間違いです。この「観自在菩薩」は「社会の動向を在りのままに把握すること」に情念をかけているという姿勢をもった人間であると説明しなければなりません。
藤見

この、心的状態は、どのような観察も自己の頭や心の中にあることの影響を受けないで心象を形成することはできないという、当たり前の、状態に、達した者なのである。

理知とは物事を丁寧に視たり聴いたりした上で、丁寧に考察や思考を積み重ねる裡に形成される心象であり外からの情報に接しただけで形成され蓄積された心象である具体的な知識とは質の異なる心象です。
藤見

どのような情報でも情報の受け手の側に興味や関心がなければ「観自在」や「観世音」など思いも及ばないことです。
と、藤見氏は、言う。

更に、観察する行為には、主観と、客観という、姿勢がある。

客観とは、観察の客体という意味で、日本語に訳された言葉である。
そして、観察の主体という意味として、主観という日本語に、訳された。

藤見氏は、
客観という名辞が何時の間にか「観察の客体」という意味から離れて「観察という行為の在り方に対しての評価」のための言葉として使われているのは問題です。
と、言う。

物事を、ありのままに観るには、主観によっているということを、明確にしなければならない。
これに対して、客観的に観るとは、錯誤が形成されることになる。

丁寧に、観察した後、丁寧に、考察することで、課題を深める。
この姿勢こそ、観自在菩薩であり、それは、哲学者に欠くことのできない、思想家としての、基本的姿勢である。

以上、藤見氏の、論を見た。

大般若経という膨大な、経典のエキスをまとめた、般若心経であるが、空の思想を考える上で、取り上げた。

竜樹の、空の思想が、この経典から、影響を受けている。
さらに、竜樹は、それを言葉の限界まで、突き詰めたと、考える。

それでは、もう一度、空と、無について、考察する。


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神仏は妄想である 205

竜樹の中論が、空を説いているということは、書いた。
その仲間達は、つまり、中観派の人たちは、空性論者と、自ら称していた。

では、この、空とは、何かである。

古来から、空は、無とか、虚無と解されやすい傾向がある。
中観派を、攻撃する人たちは、空を、無と、同一視して、中観派は、一切を否定して、虚無を説いたのであるから、虚無論者であると言われた。

このように、空を、無とすると、中観派は、仏教を破壊する邪説ということになるのである。

例えば、その反対者の意見である。

もしもこの一切が空であるならば、生も滅も存在しない。聖なる四つの真理の無いことが汝に付随して起こる。

聖なる四つの真理が存在しないから、完全に熟知すること「知」、「煩悩を」断ずること「断」、道を修得すること「修」、「ニルヴァーナを」直接体得すること「証」はありえない。

それが無いが故に四つの果報は存在しない。結果がないが故に結果としての状態もなく、また目標に向かって進むこともない。

法ならびに僧がないが故にどうして仏がありえようか。このように空を説くならば汝は三宝をも破壊する。

と、色々ある。

竜樹は、それに、
ここにおいてわれらは答えていう。―――汝は空における効用(動機)・空「そのもの」および空の意義を知らない。故に汝はこのように論争するのである。

つまり、竜樹の空を、無と、捉えての批判であるから、平行線である。

空が、無の意味ではないとすれば、どのように、解すことが出来るのか。
空性とは、縁起の意味である。
空とは、縁起せるという意味である。
不空とは、縁起せざるの意味である。

どんな縁起でも、それをわれわれは、空と説くのであるという。

縁起空という言葉も、出来るのである。

縁起と空あるいは、不生などとは互いに、反対の概念なのではなく、実は同一の概念なのである。

ここで、少し話を変えるが、日本の仏教経典は、漢訳されたものを、使用しているということである。つまり、漢訳できない言葉もあり、それは、訳者によって、考案された言葉ということになる。

後で、触れることになるが、天台の空観は、中国からのものであり、インドの空観ではないのである。

クマラジューが、訳した、衆因縁生法という訳語は、衆「多く」の因と縁によって生じられるという意味に訳しては、いけないといわれる。

業は、縁によって生じられたものではないということになる。
しかし、中論では、ありとあらゆるものは、業も縁起せるものである。それ故に、縁によって生じたものと、縁起した、とは、区別して考えるということだ。

縁ってを、原因によってと、解することは、中観派には無い。
それでは、縁起というものを、どのように解釈していたのか。

縁起とは、相依性、相互依存の意味である。

行為によって行為主体がある。またその行為主体によって、行為がはたらく。その他の成立の原因をわれわれは見ない。

行為と、行為主体は、互いに相依って成立している。
つまり、Aによって、Bがあり、Bによって、Aがあるということになる。

相互依存以外の、縁起は無いということである。
他の小乗は、様々な解釈が、行われた。
例えば、十二支が順を追って時間的に、生起することを、関係としていた。また、時間的生起関係と、解していた。

しかし、中観派は、これらと、峻厳として、対立したのである。

縁によって、起こることは、時間的生起関係によって、成ると、解されていたことが、中観派によって、法と法との、論理的相関関係を意味するものとなった。

浄に依存しないで不浄は存在しない。それに縁って浄をわれらは説く。故に浄は不可得である。

不浄に依存しないで浄は存在しない。それに縁って不浄をわれらは説く。故に不浄は存在しない。

浄は、あくまでも浄であり、不浄ではなく、また、不浄は、どこまでも、不浄であって、浄ではない。
両者を混同することは無い。
しかし、浄と不浄が、それぞれの本質を持つならば、浄は不浄を離れても存在し、不浄も浄とは、独立に不浄として存在することになる。

だが、浄も不浄も、ともに自然的存在の「ありかた」であるゆえに、独立に存在することは、不可能である。

古代インド人が、問題としていたことは、自然的存在の領域ではなく、法の領域である。

であるから、浄は不浄によって、浄であり、不浄は、浄によって、不浄である。両者は、独立して存在しないものである、ということになる。

認識対象があれば、認識方法があり、認識方法があれば、認識対象がある。

相互依存で無いものは無いということである。

それが、縁起であり、空である。

何であろうと縁起して起こったものではないものは存在しないから、いかなる不空なるものも存在しない。

面白いのは、
もしも、ニルヴァーナが有「存在するもの」であるならば、ニルヴァーナーはつくられたもの「有為」となるであろう。何となれば無為である有は決して存在しないからである。

ニルヴァーナーというものも、仏というものも、皆、因縁に属しているのである。

この中観派の、思想を、最も、受継いでいる日本の宗派は、華厳経を奉じる、華厳宗である。

ただ、華厳宗は、中国において、唱えられたものである。
しかし、中論を、取り入れているのである。

もう一つ、竜樹の考え方が、ジャイナ教にも、あり、これは、両者が、何らかの、交流、または、関係を持っていたのではないかということだ。
他宗教であるから、論争は、行われていたはずであるから、ジャイナ教にも、近い考え方があったのであろう。

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2009年01月16日

神仏は妄想である 207

般若心経について、書く前に、確認しておきたいことがある。

インド人は、ゼロという数を発見した、民族である。
その、ゼロの発見で、数学というものが、飛躍的に発展したこと。
そして、その、ゼロという言葉は、空という言葉と、同じであるということ。

さて、空とは、無ではないと、書いた。
無とは、有に対する、対立したものである。
空と、無とは、一緒ではないこと。

であるから、中国思想の、無の思想と、ごちゃごちゃにしないこと。
中国思想の、無の思想は、別物である。

それが、禅宗によって、曖昧になり、老荘思想によって、解釈されるという、仰天を起こしてしまい、老荘思想の、禅思想ということにまで、至り、今は、もう、整理のし様がないほどになっている。

禅なのか、老荘思想なのか、解らないということである。

更に、老荘思想は、日本人の自然観というもの、更に、自然感覚というものを、おおきく、捻じ曲げてしまったということも、言っておく。

漢籍によって、大きな知的刺激を受けたが、冷静に、日本の心というものを、考えると、老荘思想など、物の数ではない。

信濃なる 千曲の川の さざれ石 君踏みては 玉とひろわん
万葉集

この、一つの、歌で、老荘の自然観というものは、超える。

頭で、捏ね繰り回した、言葉遊びは、日本には無い。
物があり、人があり、そして、心が、あった。
言葉だけが、単独にあるような、思想というものは、日本には、無い。

ちなみに、釈迦仏陀も、頭で、捏ね繰り回した説教を繰り返したのではない。

更に、これから死に行く人に、般若という、知恵の空を、語った訳ではない。

元々釈迦牟尼の思想というのは雲の上の思想でもなく、神秘的な思想でもなく、線香の匂いのする思想でもありません。極めて現実的な人々の福利が永続的に保障された社会を建設するための提言です。
藤見紀雄 般若心経の思想

更に、付け加えれば、霊能者たちが、読経して、霊を出したり、霊を払ったりするようなものでもない。

更に、ハウツー物で、理解して、般若心経とは、などという、甘いものでもない。

勿論、誰が、どのように、それを、解釈しようと、勝手である。
しかし、それは、その人のことであり、その人の、問題意識であり、その人のみに、言えることで、他の人には、全く意味の無いということもある。

空が、縁起であり、中道であるとは、数学のゼロの意識である。
すべては、ゼロが、基点になったのである。

般若心経を、理解するもっとも良い手立ては、数学を、学べばよい。

それから、もう一つ、余計なことを、言えば、解らないものは、解らないでよいのである。
解った振りをするのが、一番悪い。
空も、無も、解らないのであれば、解らなくていい。
それでも、死ぬ時は、死ぬ。

それから、真理などという、化け物は、この世にも、あの世にも無い。

ただ、あえて言えば、この世も、あの世も、進化だけがある。
進化が、真理だといえるのかと、問われれば、私は、知らない。
だが、知らなくても、そのうちに死ぬ。

私が、確実に、解っていることは、確実に、死ぬということだけである。

後は、死ぬまでの、暇潰しをしていると、それだけである。

先の、藤見さんが書く。
「般若」という思想は先に、「空」という言葉の概念を理解しなければ納得することのできない思想だからです。つまり、「空」の理解は「般若」を理解するための必要条件だということです。

般若心経の「空」というのは「情報」と大きな関わりをもっています。いや「情報」というものがなければ般若心経でいう「空」は存在しないのです。
藤見

このように、般若心経を、見た人を知らない。
今までは、へんちくりんな、言葉遊びに始終するものばかりであった。

例えば、もっとも、理解しやすいような、耳障りの良い、空の説明を、抜粋する。

目に見える物質は色だ。水は太陽に照らされ、気体となって蒸発する。それは目に見えない物質だから空だ。
水から蒸発して、天高く上がっていった水蒸気は、やがて雲になる。雲が集まって、気温や気圧という条件がととのったとき、水蒸気は雨となって地上に降り注ぐ。
雨は目に見える物質だから色だ。地上の雨は集まって谷川は集まって大河となり、やがては海に帰ってゆく・・・
「うーむ。そうすると、水は色であるが空でもある。だから色は空に異ならずか。
それなら人間の肉体だって、死ぬと火葬されて灰になる。つまり空になるけれども、ふたたび空から生まれてくるんでしょうか」
「そうとも。空は水や肉体ばかりでなく、すべて形あるものの根源だ。いや、すべての生命の源だな。いうなれば空は生命の蔵だよ。

上記、誰の本かは、書かないが、この程度で、ああそうかと、思わせる、詭弁である。
よく解る、般若心経入門であるだろうが、これは、単なる精神論である。

嘘ではないが、本当でもない。
言葉の手品である。

この調子で、解説が続き、解った気になるのである。
一体、現実の世界を、何と心得ているのか、である。

何故、繰り返し、この、般若、つまり、智慧というものを、多くの人が、考え込み、様々に解釈してきたのか。

鎌倉時代に、文盲の人々に、絵を描いて、地獄の様を、教えたようなもの。

文字は、読めても、解らない人を、解った気にさせるもの。
解らないことは、解らなくていいのだという、思想、姿勢が無い。

解る者は、解説しなくても、解るのである。
話して解る人は、話さなくても、解るものである。

教えの、説得は、無用なのである。

それでは、私の姿勢は、何かと、問われれば、ゼロも、妄想であるということを、書いている。
神仏は妄想である。のである。

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2009年01月17日

神仏は妄想である 215

藤見紀雄氏の、般若心経の思想、という著書から、多く刺激を受けて、それを紹介している。私は、今まで、このように、般若心経を、読む者を知らない。

ただし、これは、あくまでも、般若心経という経典の思想であり、その解説である。

釈迦仏陀が、そのように、語ったと、藤見氏も、言うが、実は、釈迦仏陀は、そんなことを、語ってはいない。
何故なら、釈迦仏陀当時に、それほど多くの語彙は無かった。
初期仏典の、ダンマパダなどを、見れば、どうでもいいような、ことが、書かれている。要するに、寝惚けた言葉の羅列である。しかし、釈迦仏陀が行為したことにより、人々は、釈迦仏陀を慕い、釈迦仏陀は、このようなことを、また、このように、説きたかったのであろうが、あると、断定されて、経典が出来上がった。

つまり、多くの人によって、仏教という思想、宗教が作られていったのである。

それを、釈迦仏陀という、権威、無形の権威を、掲げて、それぞれが、教えを立てていったのである。

だから、仏教の教義は、ある見方、例えば、キリスト教神学などから見れば、滅茶苦茶に、見える。

勿論、キリスト教神学というものも、多く、ギリシャ哲学の借り物である。
オリジナルとしては、罪の羅列であろう。
信者を支配するために、膨大な罪の意識になるものを、作り上げたのである。

さて、それを、前提に、藤見氏の、解説を、もう少し紹介する。

釈迦牟尼の思想というのは社会の中で最も恵まれない人達の福利を永続的に保証することにありました。しかしバラモン教の社会においてはそのような思想や倫理観は異端でした。人々は福利の保証されている人達の既得権の永続性が維持されることを秩序の基本に置いていたのです。
藤見

釈迦仏陀の思想は、バラモン教の序列の原理に、反することだった。
しかし、釈迦仏陀は、序列の原理を廃止して、対等の原理を社会に、実現しようとした。

序列の原理は、カースト制のような世襲の階級の序から、長幼の序、性別の序、人種の序、貧富の序、地位の序などの、様々な差別を生み出す原因があることを、発見したという。

序列の原理は、広く流布された情報のよって、形成された観念の中の心象である。
更に、この、序列の原理を守ろうとするのは、権威主義となる。

権威主義はそれぞれの社会の体制が提供する情報を素直に受け入れて心象を形成している具体的な知識を豊富にもった人間によくみられる傾向です。
藤見

そして、権威主義は、画一性の原理と、一体になり、異端者を排除しようとするのである。更に、この、画一性の原理を進めると、全体主義になる。

自由主義とは、多様性の原理により、様々な選択を希望できる思想を言う。

様々な社会には、様々な思想と、倫理観がある。だが、多くの人は、様々な倫理観があるとは、考えられないのである。

イスラム社会、アラブ諸国の、倫理観を、日本人は、真実理解できないということを、知らないと、似ている。
また、イスラエル、パレスチナ問題なども、然り。

民族と宗教が、一体になった、倫理観というものを、日本人が理解するには、逆立ちしても、無理なのである。
大二次世界大戦の、国家神道というもので、解釈も出来ない。
あれは、一時的な、狂いである。
戦争が、終わり、伝統としての、神道に戻った。
勿論、今でも、国家神道の悪夢に、うなされていると、信じ込む者もいるが、大半は、強迫神経症である。


「アノクタラサンミャクサンボダイ」という仏陀の「覚り」が語られるまでには「空」について語られ菩薩が「顛倒夢想」から遠く離れ「涅槃」に至るまでが語られてきました。このようにこれまでに語られた内容の中に「無上正等正覚」とはどのような概念かを考察するヒントがあるのです。先ず観自在菩薩は「五蘊皆空」と見極めたとき理知を確立したのです。つまり人間の活動は全て観念と一体だということから倫理観や理性的な倫理性の要請を受けて理知が確立されたのです。また菩薩が「顛倒夢想」から遠く離れたのも、仏陀が「アノクタラサンミャクサンボダイ」を得たのも共に確立された理知に依るところでした。これらを振り返ると結局は倫理の問題になるのです。
藤見

その、倫理とは、諸悪莫作衆善奉行、つまり、悪いことをしない、良い事をする、である。

だが、これは、非常に抽象的であるから、具体的現実を、この言葉と、照合するために、現実を抽象化しなければならない。

藤見氏は、この作業を、帰納といい、更に、抽象的な倫理観を実現するために具体化することを、演繹という。
帰納と、演繹という、論理上の作業が的確に行われることが、現実の社会に、倫理を実現することになる。

この作業が、的確に、行われないと、建前と、現実が乖離して、倫理の崩壊を招くのである。

藤見氏は、この、具体性から抽象性へ、また、抽象性から具体性への的確な変換をする知恵が、無上正等正覚だと、推測する。

これについては、これ以上詮索しない。
空の思想、空とは何かということを、書いている。

ただ、言えることは、既存の仏教思想や、このように、般若心経というものを、説くというのは、精神論のみでは、成り立たないということである。

釈迦仏陀の、平等の教えというものを、後世の人々が、真剣に、考えて、経典の中で、議論しているのである。

単なる、精神論であれば、それは、現実生活に、少しの、慰めを与えるが、生きるという、実際的行為の中に、釈迦仏陀の、教えは、生かされないということである。

バラモンの社会で、人間平等を、掲げるということは、とてつもなく、大変なことであり、それは、死を賭けた教えでもある。

何故、人間は、平等なのかということを、般若の思想、大般若経は、語る。
般若心経は、その心臓部だといわれる。

空の思想は、精神論ではなく、現実主義、そして多様な社会に、合わせて、空の思想を、実現するものであろうとの、願いがある。

それならば、神仏は妄想ではなくなる。
神仏が現実に生きることになる。
そこでは、神仏とは、勿論、人間のことである。


藤見氏の、アノクタラサンミャクサンボダイの記述を、私は、カタカナにしている。

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神仏は妄想である 216

ただいま、法華経を見ている。
その中で、空というものが、出て、空の思想を、竜樹から見て、更に、空を、説くという、般若経の心臓部といわれる、般若心経について、書いている。

また、法華経に戻るが、今一度、空の思想と、釈迦仏陀の思想というものを、別な角度で、見ることにしたい。

一体、仏陀は、何を知り、何を観て、そして、何故、生き方指導を開始したかである。

そのために、インド思想史も、俯瞰しつつ、書いている。

「嘘をついてはいけない」「人の物を盗ってはいけない」といった善悪、正不正には、はっきりとした理由がある。しかもそれは、倫理学や道徳哲学を専門に勉強しないと分からないような複雑で難解なものではなく、単純で明快なものである。そして、人々はそれを分かっていないのではなく、はっきり意識していないだけで実はどこかでそれに気づいている。だからこそみんな「嘘をついてはいけない」「人の物を盗ってはいけない」と本気で思うのであり、道徳や善悪・正不正の区別が人間社会にあまねく存在するのはそのためである。

ではその理由とは一体何か。
それはずばり、利害損得である。
内藤淳 進化倫理学入門

進化倫理学とは、聞きなれない言葉であり、学問である。

対象をその「外」から客観的に観察・分析するというのは、科学的態度の基本である。まさにそのことから、従来より科学の中心は、物理や天文といった自然現象を人間が観察・分析する自然科学であったわけだが、最近ではわれわれの外にあるそうした現象にとどまらず、人間自身の行動や心理を対象にした人間科学が大きく発展している。
内藤淳

そこでは、人間の行動や、思っている動機、理由の背後にある、意識していない心の働きが存在する。
思考や行動が、それらを基にして、生じているということを、様々な実験や観察により、明らかにする学問であるという。

私は、宗教の時代が、終わり、このような、進化倫理学の時代がくると、予想する。

人間科学であり、それは、十分に思索に耐えられるものである。

近年は、人間行動進化学という、分野が、成果を上げている。
それは、生物進化の観点から、その過程で、人間が、いかなる心の働き、行動パターンを、発達させてきたかということ。
生物として、人間が、共通に持つ基本的性質とは、どういうものかを、研究している。

その中でも、人間の道徳性というものが、重要な研究テーマであり、それを、扱う研究が、進化倫理学と、呼ばれる。

進化倫理学に基づいて独自の発想でこの問題を考えたとき、その答えが人間ひとりひとりの「利益」の中に見えてくる。これは、言い換えれば、道徳に「利益」という客観的な根拠を見出すということで、これまでの倫理学ではなかなか答えが見つからなかったこうした問題に、新しい角度から光を当て、独自の見方を提示しているところが、新しい学問分野としての進化倫理学の大きな特長である。
内藤淳

人文、社会科学、自然科学、更に、文系、理系という、枠組みを超えて、人間や社会の問題を考えるという。
分野横断的な、視点を持つ学問として、注目すべきである。

それはまた、宗教の終焉を示す、学問とも、成り得る。

ここで、少し、寄り道して、この学問について見ることで、釈迦仏陀の、観たものを、より深く理解したいと、思う。

人間というものは、そもそも、利己的な存在であるとの、主張が、この、進化倫理学のテーマである。

利己的というと、わがままだとか自分勝手だとか、それ自体で「悪い」イメージがあるので、こうした表現をすると、それだけで「人間の性質はもともと悪なのだ」という受け取り方をする人がいるかもしれない。しかし、自分の利益に向けて行動すること自体は善でも悪でもない。
内藤淳

利己的であるのは、人間が、進化によって、地球に生まれた生物であることから、極めて自然なものである。
進化というのは、個々の生物が、自分の遺伝子を次の世代に残す中で、そのため、プラスになる、特徴や性質が、子孫に受継がれることで、起こること、明確である。

生物が、成功裏に、自分の遺伝子を残すということを、包括的、適応度の向上という。適応度とは、専門用語であり、すなわち、利益のことである。

面白いのは、自分の遺伝子を残すことと、種の保存とは、別物であるということ。
生物は、種の保存本能を持たないのである。

進化の過程で、生物に受継がれるのは、自分の遺伝子であり、種という、集団全体を残すための、性質ではないというのである。

種の保存という、考え方は、一種の信仰に似る。

種の保存という、本能は、生物の間に、進化しないのである。
実に、真っ当な、考え方である。

自己犠牲のみに、生きれば、種の保存は出来ないのであるから。

そして、更に、
進化は別に「弱肉強食」でも「優勝劣敗」でもないし、進化倫理学は、競争を擁護する思想とは違う。社会進化論というのは、単なる競争主義の価値観を、進化に関する誤った知識に当てはめて提示したもので、人間行動進化学や本書で論じる進化倫理学とは別物である。
内藤淳
というのである。

進化と進歩とは、違うものである。
劣った者が、淘汰されることで、世界が良くなる、発展するという話は、人間行動進化学からは、出てこない。

これは、非常に、興味深い学問である。
進化した、生物である、人間の精神と、心というものを、再度、確認しつつ、眺めることができる。

更に、釈迦仏陀が、観たものを、進化倫理学というもので、解決することが、出来るのである。

やたらめったら、理解不能な、言葉の数々を取り上げなくても、実に、よく分かる、話なのである。

宗教は、学問の領域に入らないが、人間観察と、その進化の過程から、考察したものは、学問足りえるのである。


posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第5弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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