2009年01月01日

神仏は妄想である 190

インド精神史から、仏教を更に、見る。

ゴータマの死後、その教えは、諸都市の王侯、商工業者の帰依を受けて、マガダ国中心として、東部インドに伝播した。
特に、ここで、アショーカ王の絶大な援助、保護がある。

アレキサンダー大王が、西インドに侵入したのは、西暦前327年である。
諸所に、都市を建設したが、部下の将兵たちが、それ以上の行軍を拒んだだめ、王は、軍勢を引き連れて、インダス川を下り、西方に帰還して、前323年に、バビロンで、客死している。

当時、ガンジス川平原における最大勢力は、マガダ国であった。
ナンダ王朝の下にあったが、西暦前317年、同国の青年、チャンドラ・ドラグプタによって、王朝が覆された。
近隣諸国を併合して、マウリヤ王朝を創設した。
更に、西北インドから、ギリシャ人の軍事精力を一掃し、侵入してきた、シリア王、セレウコス・ニーカトールの軍隊を撃退し、インド全土を、勝伯する。
インド最初の大帝国を、築き上げるのである。

アショーカ王は、その孫である。
在位年限は、前268年から232年に渡る。

彼によって、マウリヤ王朝は、絶頂に達した。
インド史上空前の強大な、国家権力を持って、重要な、諸事業を成し遂げた。

余談であるが、インド古来からの、人生の目的は、法と、実利、愛欲と、解脱という、四つの、ものである。
この、ベースを持って、インド思想を、眺めるべきである。

アショーカ王の、政治については、省略する。
彼は、その、心情から、世界中の人間の守るべき、普遍的な法というものを確信して、法と、呼び、ゴータマの教えに帰依することになる。

戦いによって、多くの罪無き民衆、野獣を殺傷したことを、恥じた。
そこで、熱烈に、宗教的心情を吐露して、日月の存する限り、守るべき理法があるとして、国王といえども、一切の衆生からの、恩恵を受けていると、考えた。
彼は、政治は、債務の返還、それは、報恩の行為という行に他ならないと、判断した。

従来のインド人たちの、祭祀、呪術法は、無意義なものであり、仏教に帰依することを、説いた。
しかし、熱烈な仏教信徒であったが、他宗を排斥するということは、無かった。
更に、保護し、諸宗派、宗教の提携を勧めたのである。

彼は、国際的にも、理想の政治を、呼びかけて、西洋にさえも、仏教の影響を与えたのである。

その政治は、理想的なものであった。
アショーカ王の政治理念を、現代の政治家も、学ぶべきこと、多々ある。

その、アショーカ王は、仏にゆかりのある土地に、塔や、石柱を建てて、自らも、巡礼に出るほどだった。

そこで、保護された、仏教は、どのように発展したのか。

その頃の、ゴータマに対する態度は、在世中に真理を体得した覚者として、尊敬され、死後も、弟子たちの人格的感化を受けていたが、次第に、ゴータマ個人の記憶が、薄れるにつれて、独特の、仏陀観が、現れてきた。

つまり、理想化され、特別な偉人、超人であると、認識するようになる。

当時のインド人の、理想的偉人である、三十二相、八十種好の、特徴を備えた者として、認識され始める。

更に、心に、特殊な能力を持つ者、十力、四無畏、三念住、大悲の十八共仏法というものを、備えている。
現実の歴史的存在が、神格化されていった。

更に、ここに、大乗仏典などが、書く、かかる偉大な人間は、今の修行は、今のものだけではなく、過去の多数の生涯におけるものだという、仏陀の前世に関する、本生譚というものが、創作されるようになった。

それらは、元来、中央インドのガンジス川流域で、古くから民衆の間で、行われてきた、教訓的寓話であった。

それを、採用して、仏陀の前世を、創作し、前世と、結びつけて、仏陀の過去が、語られるようになるのである。

この、寓話は、一般民衆を仏教に帰依させ、道徳的にも、宗教的にも、非常に貢献したという。

仏教の隆盛と共に、仏陀本人、そして、弟子たち、聖者たちの、遺骨、遺品に対する崇拝が、盛んになる。

それらを、埋葬している場所には、塔が建ち、塔の周辺には、多数の、彫刻などが、作られた。
だが、その時は、まだ、仏像崇拝は、起こっていない。
多数の、彫刻にも、仏陀像は、彫られていない。

それらの、多くは、寄進により、商工業者と、農村の資産家が多い状態で、王族、武士、農民たちは、いない。

教団という形も、少しづつ整ってゆく。
教理を記した、経典は、説法の形をとりつつ、部分的に、編纂された。
それを、日常的に、読誦するという、行為も行われ始めた。

最も、特徴的なことは、上座部と、大衆部に、分裂することである。

仏滅後、百年後の頃、ヴァッジ族の比丘が、十事を主張し、そのため、教団の内部に、婦紛争が起こる。

十事とは、従来の戒律の細かな規定を無視して、十種の新しい規定を掲げたのである。
上座長老たちは、会議を開き、十事を、非法であると、決議した。
そして、その後、上座長老たちは、七百人の会議を、開き、経典の結集を行ったのである。

これに対して、この会議に、承服しなかった、進歩的改革派の、比丘たちが、一万人を集い、彼ら自身の結集を行った。

更に、彼らは、旧来の教団に対して、独立を宣言し、大衆部を、樹立したのである。
これが、後の、大乗仏教といわれる、ものである。


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2009年01月02日

神仏は妄想である 191

本格的に、仏教教団が、分裂したのは、西暦前180年頃に、マウリヤ王朝が、将軍プシヤミトラに、滅ぼされてからである。

インド史上空前の、大国家を建設したマウリヤ王朝であるが、中央集権化を徹底させえず、更に、経済的統制力が、弱く、アショーカ王没後に、急速に、勢力を失っていた。特に、経済的な基盤を薄弱にしたのは、仏教教団に対する、多大な荘園を与えたことだったといえる。

インド全体は、再び、分裂状態に陥った。

プシヤミトラは、シュンガ王朝を創ったが、仏教を弾圧し、バラモンの祭祀を復活させた。
次のカヌーヴァ王朝も、バラモンだった。
二つの王朝は、ガンジス川流域を支配していたに、留まる。

西北インドには、ギリシャ人の諸王が、幾つかの王朝を成立させた。
中でも、最も有力だったのが、メナンドロス王であり、アフガニスタンから、中部インドまでを、支配下に置いた。
大半の王は、ギリシャの神々を信仰したが、メナンドロス王は、密かに、仏教を信奉したという。
ナーガセーナ長老に師事し、教義に関する対話が、ミリンダ王の問い、という、書物で残されている。

ギリシャ人に続いて、サカ族が、侵入してきた。
サカ王朝の最初は、マウエースである。
自ら、諸王の王と、称した。

更に、パルチア族が侵入する。
そのアゼース王朝は、北西インドを支配した。

彼らは、ギリシャの神々を信仰した。ただ、インド的観念により、法を守る王と、称していた王が多いという。

東南インドでは、カリンガ国のカーラヴェーラ王が、勢力を広げて、転輪聖王と呼ばれた。
彼は、すべての宗教を崇敬し、諸宗派の神殿を建てたが、特に、ジャイナ教を保護した。

当時の、一般の信仰対象は、聖樹崇拝、星辰崇拝、竜神崇拝が、盛んだった。
更に、井戸を掘り、貯水池を作ることが、功徳があるとして、重要視されていた。

バラモン教は、依然として祭祀を行い、ヒンドゥー教の神々も崇拝された。
この頃は、宗教的、哲学的な、詩篇が数多く作製されたという。叙事詩、マハーバーラタとして収められてある。

だが、一番の活動は、仏教だった。
そして、ジャイナ教である。

この当時の、仏教の崇拝の対象は、釈尊である。
そして、過去七仏の、崇拝も行われた。

特徴的なのは、舎利の崇拝である。
多数の、ストゥーバが建てられ、それと共に、仏の足跡、菩提樹、法輪、夜叉までも、崇拝されたという。

インドのあるゆる階層に渡って、信仰されたようである。
更に、ギリシャ人や、サカ族の人などからも、崇拝された。

それでは、当時の、仏教の修行者は、どのように生活していたのか。
僧院に住む者が多くなり、その僧院は、いずれかの、部派に属すことになっていた。


アショーカ王の時代に、上座部と、大衆部の二派に分裂したが、その後、約百年の間に、大衆部系統が、細かに分裂した。
次いで、その後の、百年の間に、上座部系統が、細かく分裂する。

ここで、キリスト教の、分裂と比べると、相違点が解る。
カトリックから、その聖職者だった、ルターによって、新教、プロテスタントが、出たが、その、プロテスタントは、細かく分裂してゆく。

新教は、細かく分裂する要素が大きいのである。
それは、解釈の仕様で、如何様にでもなるからである。
権威というものを、置かなければ、また、否定すれば、幾らでも、分裂が、可能である。

仏教の、分裂は、凄まじく、教義が、多数、教えには、様々な、習慣や、風俗が取り入れられるという有様になる。

それらは、推測するしかないほど、分裂したのである。

上座部と、大衆部との、二つを、根本二部と呼び、枝末十八部と、合わせて、小乗二部と呼ぶ。
上座部系統は、西暦前100年頃に、分裂が完了したといわれる。

恐ろしいのは、各部派は、それぞれ、自派の教説を権威づけるため、正統であることを示すために、各派ごとに、それぞれの立場から、従来の経典を、編纂し直したのである。

ここに、経蔵と、律蔵が、成立した。

更に、各派が、争い、釈尊の、教えの教説に対する、反省究明が行われ、教説の、説明注釈、整理分類、諸説の矛盾を突く努力がされたという。

その結果が、アビダルマと称され、その総論を、論蔵と称する。
経蔵、律蔵、論蔵とを、総称して、三蔵と呼ぶ。

部派の中で、最も、有力だったのは、上座部の説一切有部である。
略して、有部である。

一切が実有なりと説く部派、である。
一切とは、一切の法、五蘊、十二所、十八界という、それぞれの、見方における、法の体系の意味を表す。

詳しい説明は、省略するが、経量部という、部派は、面白い。
経典のみを典拠として、有部の所説を批判的に改めたという。
そこでは、過去、現在、未来という、転生輪廻を認めず、現在実有・過去無体といい、現在のみが実在であり、過去と未来は存在しないとした、説を唱えたのである。

有部等その他の、仏教思想は、衆生は煩悩に促されて、諸々の行為をなして、身・口・意の三業をつくる。
その、果報として、苦を享受している。
苦とは、惑・業・苦の三道である。

迷いの結果として、現れている世界は、有情世間、物理的自然世界である、器世間である。
生きるもの各自の、姿は、業のもたらしたものであるが、物理的自然世界も、多数の過去の業が、重なり、積もったものであるとする。

その、器世間は、成・住・壊・空の四劫によって、循環する。つまり、物理的自然世界は、成立し、存続し、破壊され、空無に帰するという、四つの長い期間を経過して、その後また、空無の中から、成立して、四つの時期を経過し、この過程を繰り返すというものである。

苦しみからの、離脱は、煩悩が起こらないようにしなければならない。
諸々の煩悩が起こるのは、諸々の法が働き、その作用が現れていることであり、故に、諸々の法の働きを停止、静止しなければならない。
そのために、一切の、欲望を制して、執着を離れ、戒律を守り、禅定を行って、諸々の法の本体を観て、諸々の法の真相に通達することである。

法の真相を観ずる智慧には、特殊なすぐれた力があると、考えた。

修行の境地に達した人を、阿羅漢と呼ぶ。
そこに、到達するには、幾生涯をかけて、修行しなければならないのである。

多くの部派では、人格的主体の実存を認めなかったという。
しかし、主体の無い輪廻というものは、常識的に極めて、理解が困難である。
そこで、若干の部派では、仏教の伝統的な、無我説の立場を保持しつつ、何らかの主体を想定するに、至った。

上記の、小乗に対して、大乗は、仏の超人性・絶対性を強調し、菩薩の美徳を強調して、心性は、本浄なりと、説き、過去未来は是れ無、現在は是れ有なり、と唱えた。

小乗の阿羅漢は、大乗では菩薩となるのである。

この時期の、大乗は、思想形成の過渡的状態である。

要するに、作られていく思想である。
生活指導の、釈迦仏陀の行為と、言葉が、とんでもない、思想に展開してゆくということである。


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2009年01月03日

神仏は妄想である 192

ジャイナ教も、仏教教団に、負けず、民衆に盛んになった。
中央、東南インドにかけて、教祖、マハーヴィラが信仰の対象となる。

舎利崇拝が、行われたのは、仏教と、同じである。
ストゥーバーの崇拝も同じく、その近くには、寺院が建てられ、在家信者たちは、そこに、多くの、祀堂、奉納堂、貯水池、給水所、遊園、柱、石版などを、寄進した。

更に、ジャイナ教も、細かく分裂する。

西暦200年前後から、マイトリ・ウバニシャドが、従来のウパニシャドの諸思想を、包括、継承するとともに、新しい思想的発展を示している。

厭世観から発し、身体を不浄なものとして見て、肉体と精神の関係を、問題とした。
アートマンは、微細なもので、不可取、不可見であるが、その一部分によって、ひとりでに身体の中に入っている。

それを、人は、プルシャと呼ぶ。
純粋精神が、いかにして、物質と結合したかを、創造神話を借りて、説明する。

更に、内我と、元素我との、二種のアートマンを想定し、元素我を、捨てて、我と融合することによって、解脱が得られるとした。

それに至る方法として、ヨーガの修行を規定している。

ウパニシャドと称する文献は、その後も、多数作られた。
実際には、200以上伝わるという。

その中で、後に作られた、ウパニシャドでは、六種に分類される。

純ウパニシャド、ヨーガを説くウパニシャド、隠遁遍歴を説くウパニシャド、ジヴァ神の崇拝を説くウパニシャド、性力派の影響のあるウパニシャド、ヴィシュヌ神の崇拝を説くウパニシャドである。

そして、インドのみならず、広く、東南アジアに、影響を与えた、叙事詩、マハーバーラタと、ラーマーヤナは、同時期に、成立した。

マハーバーラタは、哲学思想を説く。
これは、バラタ族の戦争を語る大史詞という意味で、18編10万の詩句により、付録として、ハリヴァンシャ約16000の詩句を持つ。

それは、仏教興起よりも、以前に行われた大戦争に関する物語が、語り継がれて、逐次集成されつつ、西暦前200年から、西暦後200年の間に、おおよそ出来上がり、西暦400年頃に、現在の形に成ったといわれる。

戦争を主にして、その他の、神話、伝説、物語を含め、当時の、法律、政治、経済、社会体制を知るうえで、無尽蔵の資料を提供するものである。
また、当時の、民間信仰、通俗哲学も、伝えるという。

ここで、驚くべきことは、釈迦仏陀の、教えと、同じことを言うのである。

叙事詩の本筋に登場するのは、すべて武人であり、バラモンは単に、介在的人物として、扱われている。更に、バラモンの優越性に対する反抗が、認められる。

中には、バラモンが、叡智ある猟師から、哲学、道徳に関する教示を受け、人の尊さは、身分や、儀式、学問によるものではなく、行いの如何によると、説かれる。


他方、現世否定的な厭世主義、消極的な無活動を尊ぶ、隠遁主義も、説かれる。
後代に成立した部分には、バラモン尊重の態度が、強く示されるのは、作為あるものである。

叙事詩の神話では、梵天、ヴィシュヌ、シヴァの三大神が、特に崇拝されている。
それぞれが、最高神を競うという。

また、世界の各方角を守護する神として、八つの世界守護神が、立てられた。
また、新たに、軍神、スカンダ、これは後に韋駄天となる。そして、愛神カーマなどが、現れた。

この叙事詩は、後の、サーンキャ哲学の前段階とする、多くの説が、説かれている。

マハーバーラタから、一編だけ取り上げるとしたら、インド精神を表現するものは、バガヴァッド・ギーターだと、中村元は、言う。

バニタ族の戦争は、クル国の百人の王子と、バーンドゥ王の五王子との間に行われた戦いである。

彼らは、互いに従兄弟同士であるという、骨肉の争いなのである。

バーンドゥの一人の王子、アルジュナは、その運命を嘆き、悲しみ、乗り物の御者である、クリシュナに向かい、悶々と、その情を訴える。
この、クリシュナこそ、最高神、ヴィシュヌ神の化身である。

クリシュナは、怯むアルジュナを激励して、躊躇なく、戦場に赴くべきであると、告げる。

汝の本務のみを見よ。決して戦慄することなかれ。何となれば武士族にとっては、正義の戦いよりも善きものは存在しないからである。

義務を果たすためには、一切を放棄するのである。

汝の専心すべきことはただ行動のうちにあり、決して結果のうちにあらず。行動の結果に左右せらるることなかれ

義務のために、義務を尽くすこと、それが、思想として、明確に表示されたのである。

アルジュナは、クリシュナの話を聞いて、戦いの意義を知る。しかし、彼は、なお、陰影が残っていた。
そこで、クリシュナは、最高の人格神、ヴィシュヌの信仰の、救済を明かす。

この書においては、ヴィシュヌ神は、ブラフマンおよび、最高我と同一視されている。世界の大主宰神であり、クリシュナは、その化身である。

個々の我は、最高我から、現れたものであり、最高神の一部である。
最高神は、最上の人として、人格的に、表象されている。

最高神は、一切の生類に対して、恩寵を与え、救済を行う。故に、この、最高神に対する熱烈な信仰は、最上の行為である。

我は一切の生類に対して平等でなり。我に憎むべきものなく、また愛すべきものもなし。されど信仰心をもって我を拝するものあらば、かれらは我の中に在り、また我もかれの中に在り。

ひとえに我に帰依すべし。我、汝を一切の罪悪より解脱せしむべし。汝、憂うることなかれ。

この神は、善人を救済するがため、悪人を絶滅させるために、それぞれの時期に、権化のかたちをとって、生まれる。彼に、信仰帰依するならば、悪人でも、救われる。

熱烈な信愛によって、最高神の恩寵にあずかり、最高神の本性を知るならば、輪廻の世界を脱する。解脱したものは、最高神と、本質を同じくする。

アルジュナ王子は、それを知り、我が覚悟は定まった。疑惑は、去ったと、戦場に赴き、偉功を立てた。

以上、物語であるが、それが、インドの精神史に、強く生きている。

最高神の恩寵により、すべての人が救われる。
すべての、宗教の元である、救いというものが、ここにもある。
そして、これらは、物語として、書かれるものである。

人は、生きるに、物語が必要なのである。
人は、物語によって、生きると、言い換えてもいい。

奇想天外、創造力逞しい物語は、人を生かしてくれる。

宗教は、その物語を一つ提供するのである。
宗教が、神話から、抜け出たのは、人間の支配欲からのものである。

物語という、空想の中で、かろうじて、生きられるのが、人間であり、それは、人間の大脳化ゆえのものである。

どれ程、進んだ科学でも、物語の中から抜けられないのである。
何となれば、すべては、決して、明らかにされないからである。

知ることによって、知らないことの、世界の広さを感じ取るのが、人間の、脳の働きである。

故に、信仰と帰依という、思考停止の状態は、生きているとは、言い得ないのである。
それは、物語に生かされているのである。

物語を作れる人は、教祖になれるとでも、言う。
それは、如何様にでも、創作することが、出来る。また、妄想することが、出来る。

ある神社には、決して、見てはいけないという、ご神体があった。
熱心な氏子たちによって、その神社は、手厚くお祭りされていた。
ある夜、一人の若者が、その、見てはいけないといわれる、ご神体を、どうしても、見たくなり、一人深夜、社の奥に入り込む。
いよいよ、ご神体の、扉を開けた。
そこにあったものは、石ころ一つである。

えっ、石ころ、と言ったのか、どうかは、解らない。
若者は、その石ころを、じっーーと見て、更に、目を凝らして見て、矢張り、単なる石ころである。

しかし、若者は、その石ころに、手を合わせて、その場を去った。そして、いつものように、皆と、その神社を、変わらず信仰したのである。

ここに、私の解釈は、差し挟まないことにする。

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2009年01月04日

神仏は妄想である 193

私は、インドにおける、身分制度、カースト制について、現在でも、機能していることに、実に不可解な思いである。

その、カースト制が、いつ頃に、確定したのか。おぼろげに、そのような身分というものが存在しても、時代の趨勢により、消滅し、人間平等のうちに立つのであるが、インドでは、未だに、それが、健全として、機能しているという、驚きである。

男と女とは、区別であり、差別ではないが、人間を差別するという、思想的基盤というもの、どこにあるのか。

それが、確定し、明確に機能し始めたのは、クシャーナ帝国時代であると、いえる。

朧なものが、より明確にされた。

クシャーナ族は、月氏族の一つである。
西暦25年頃、クシャーナ族の族長である、クジューラ・カドフィセースが、月氏の四つの部族を支配し、60年頃より、西北インドを攻略した。

その子の、ウェーマ・カドフィセースは、その帝国を拡大し、その後、カニシカ王が、インドに侵攻して、北インド全体を支配し、更に、中央アジア、イランまでに、及んだ。
アショーカ王以来の、大帝国が、出現した。
それは、三世紀半ばまで、続く。

帝国は、領土が、広大であったのみならず、シナ・ローマとも、政治、経済、文化的交渉があり、西北地方に、ギリシャ文化の影響を受けていたことから、東西の文化を包括し、融合させ、種々の文化的要素を併合した。

例えば、ギリシャ、ローマの天文学の影響から、インド古来の天文学が、変化し、新たな、天文学が起こる。
芸術では、ガンダーラ地方に、ギリシャ彫刻の影響を受けた、仏教美術が、起こる。

それが、土着するにつれて、インド古来の習慣、風俗に同化してゆくのである。

更に、クシャーナ諸王は、種々の宗教を認めていた。
ただし、クシャーナ王朝では、王が神的称号を用いていたということが、特徴である。

そして、社会変動に応じて、氏族制度の、秩序の儀準となっていた、律法経典、ダルマ・スートラが、拡大改編されて、マヌ法典として、大法典が、作成された。

ここに、カースト制の、根拠が、明確に示された。
バラモンが、最高位である。
そして、王族、庶民、最下層のシュードラである。
それぞれの、具体的な、道徳も、定められた。

最も、特徴的なことは、女性の地位である。
以前の、インドよりも、低下したのである。

それぞれの、カーストの女性は、男に、従属するものとして、扱われた。

更に、従来の、法典では、国は、国王のものであるという意識があったが、国家は、国王とは、別物として、解釈された。
しかし、王は、今まで以上に、権威ある者、神の代理者としての、地位を持つことになる。

バラモン教による、国王は、国王としての務め、王法というものが、ある。
専制君主の、神聖化、神秘化である。

勿論、最高位の、バラモンの策略である。

上記の、身分制度が、現在まで、行き続けているのである。

さて、カニシカ王は、仏教に帰依したといわれるが、クシャーナ王朝は、一つの宗教として、認めていただけである。

また、南方の諸王朝は、仏教に帰依し、保護したが、公には、バラモン教を奉じていた。

ただし、バラモン教と、並ぶ勢力は、あった。

当時の、仏教は、上座部仏教である。
大衆部系もあったが、いずれも、保守系、伝統仏教である。
いわゆる、小乗系である。

そして、仏教に対する、寄進は、多かった。
寺院には、広大な土地や、莫大な金銭が寄進され、土地から得る金銭の半額は、寺院のものとなり、現金は、組合制の中に組み込まれて、それらは、貸付され、利息を得ていた。

個人として、莫大な財産を所有する比丘も、現れた。
つまり、釈迦仏陀の、教えた、仏教というものの、堕落である。

衣一枚のみという、質素な生き方ではない。
莫大な財産を持ち、彼らは、教義と、経典の、制作に取り掛かるのである。

保守系仏教各派の比丘は、その社会基盤を得て、安穏とした生活を送ることになる。そして、議論の議論を、積み上げてゆくことになる。

最も、巨大な、集団である、説一切有部では、多数の、アビダルマ論書が制作された。

それらの、書籍は、省略する。

さて、北方、西方インドでは、サンスクリット語の、使用が盛んになる。
サンスクリット語の、仏教詩人も、現れる。

しかし、一般仏教徒は、依然として、俗語を使用していた。

更に、この時代の仏教の特徴は、大乗仏教の、宗教運動である。
小乗仏教という言葉は、大乗の者達が、蔑称として用いた言葉である。

保守系仏教、つまり、歴史的ゴータマの直接の教えに従う経典を、用いて、伝統的教理を忠実に、保存していたが、大乗仏教は、新たな経典を、創作したのである。

そこでは、ゴータマは、歴史的人物ではなく、理想的存在、超越的存在として、表されている。

この、大乗仏教運動は、最初は、民衆の間から、起こったものである。
信仰の純粋で、清きことを、誇りとし、寄進などの財産などは、持たない。

この時期から、経典の読誦を、最も、尊い行為、功徳のあるものとしたのである。
経典の、読経は、ここからはじまる。

そして、大乗の信徒は、小乗の、世俗を離れて、莫大な財産に依存し、瞑想、坐禅、煩雑な教理研究に没頭する、彼らを、激しく、攻撃することから、歩みを始めたのである。

要するに、分裂である。

巨大宗団は、分裂する。
では、バラモンは、何故、分裂しなかったのか。
それは、国家を、取り込んで、その最高地に存在したからである。

思想集団は、分裂を繰り返すのである。

次に、大乗仏教が、どのように、ゴータマの教えから、逸脱して行くのかを、見る。
インド思想史を、俯瞰することによって、大乗仏教の、成り立ちが、理解出来る。
膨大な、創作の、仏典を作る下地は、インド文化の、更に、物語文化の、故である。

仏教では、新興勢力であるが、インド文化からは、保守である。
要するに、インドの、思想体系に、準じたものである。

日本の、お馬鹿な、仏教愛好者が、大乗は、民衆運動だというが、何のことは無い。単に、インドの物語文化によって、生まれたものであり、それは、インドにのみ、通用する。

結果、インドの、大乗は、ヒンドゥーに飲み込まれて、久しい。


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2009年01月05日

神仏は妄想である 194

上座部仏教に対して、大乗仏教は、何と、新たな経典を創作した。
そこに現れる、仏陀は、歴史的人物ではなく、理想的存在として、描かれる。

更に、大乗の徒達は、初期には、一切の物を、所有しなかった。
民衆の間から、起こった運動である。
といえば、聞えはいいが、その経過を見ると、とんでもない、化け物に、発展してゆくのである。

初期の頃は、どの団体でも、理想を掲げて、それなりに、納得する、活動を展開するが、次第に、物を所有するようになる。
堕落である。

大乗の徒達は、創作した、経典の、読誦を、最も功徳があると、それを、勧めた。今に至るまで、そのようである。

大乗は、利他行を強調する。
つまり、人のためである。今で言えば、ボランティア活動に近い運動である。
慈悲の精神というものを、高く掲げたのである。

そして、生きとし生ける者、すべてを救うという。
自分が、彼岸に達する前に、まず他人を救うという。
それを、行う人を、菩薩と、呼んだ。

誰でも、衆生済度の誓願を立て、実践する者は、菩薩である。

ここに、大きな落とし穴がある。

その、菩薩行は、凡夫には、中々出来ないことであるから、諸仏、諸菩薩に、帰依して、その力によって、救われ、その力によって、実践するという、妄想を育てた。

信仰の対象は、超人的な仏陀であり、三世十方に渡って、無数に、多くの諸仏の出世、その存在を証明するという、蒙昧に陥ったのである。

仏の中でも、アクシュ仏、阿弥陀仏、薬師如来などが、熱烈な信仰対象となった。
勿論、架空の存在である。

更に、菩薩を作り出した。
弥勒、観世音、文殊、普賢菩薩である。

諸仏、諸菩薩に対する信仰は、多数の仏像を生む、きっかけを与えた。
像を拝むという、行為が、起こった。

それは、中央インドの、マトゥラーと、西北インドの、ガンダーラ地方が主として、仏像制作を行った。
マトゥラーは、インド美術の伝統であるが、ガンダーラは、ギリシャ美術の影響が強い。

大乗の、教化法は、民衆の精神的素養、傾向に、適合するように、された。つまり、迎合である。
そして、現世利益というものを、打ち出した。
仏、菩薩を信仰すれば、多くの富み、幸福が得られるというものである。

特に、重要なことは、バラモンの得意技である、呪術を用いたことである。
これは、効いた。
ところが、これが、大乗仏教を堕落させる、大きなポイントになったのである。

呪術とは、陀羅尼と、言われる文句である。
空海などが、それを、密教として、特に、強調して使用した。

それでは、経典は、どのように創作されたのかといえば、それ以前に民衆の間で、語られていた仏教的説話を元に、更に、以前の仏典から借用し、戯曲的構想の形を取りつつ、その奥に、深い哲学的思索を、忍ばせるかのように、作られたのである。

宗教的文芸作品である。

ここで、改めて、文芸作品であることを、明確にする。

そして、あらゆる、宗教経典は、文芸作品であり、そこから、逃れ得ないものであるということ。

つまり、如何様にも、解釈可能である。

キリスト教の、プロテスタントが、分派を、重ねたのは、それである。
聖書解釈の、都合で、如何様にでも、解釈出来ることから、新派が出来た。
どんどんと、好き勝手に、キリスト教を、名乗られるのである。

それに、似たのが、鎌倉仏教である。

日本の、大乗仏教は、中国思想が、加味されて、更に、複雑奇怪な、化け物のように、姿を変えた。

大乗仏典の、根本的思想は、空観である。
一切諸法、つまり、あらゆる事物が、空であり、それそれが、固定的な実体を有さないという、考え方である。

それは、考え方であり、真理であるというものではない。
真理といえば、妄想である。

原始仏教においても、世間は、空であると、説かれたが、般若経典では、その思想を更に、進めた。

玄奘訳の、大般若波羅密多経は、一大読み物である。

当時の、小乗、説一切有部等が、法の実有を唱えていたのに、対して、それを攻撃するために、更に、否定的に響く、空という、観念語を、般若経は、繰り返す。

それは、固定的な法という、観念を抱いては、ならない。
一切諸法は、空であるという。

一切諸法は他の法に条件づけられて成立しているものであるから、固定的・実体的な本性を有しないものであり、「無自性」であるが、本体をもたないものは空であると言わねばならぬからである。そうして、諸法が空であるならば、本来空であるはずの煩悩などを断滅するということも、真実には存在しないことである。
中村元

それを、体得することが、悟り、無上正等覚、むじょうしょうとうかく、であるとする。

その他に、悟りは無いという。

これを、突き詰めてゆくと、自分が衆生を済度すると思えば、それは真実の菩薩ではない。救う者も、救われる者も、空である。
救われて到達する境地も、空である。
身相をもって、仏を見てはいけない。
あらゆる相は、皆、虚妄である。
諸々の相は、相ではない。
それを知ることで、如来を見るという。

如来には、所説の教えは無い。
衆生を導く目的を達したならば、捨て去られるものである。

この、実践的認識を、智慧の完成という。
布施、持戒、忍辱、精進、禅定の、五つと、六波羅蜜という、六つの完成を得るというのだ。

与える、戒めを守る、耐え忍ぶ、務めに励む、静かに瞑想する。
という、五つの完成によって、六波羅蜜という、六つの完成に至るというのである。

諸仏、諸菩薩を対象にした信仰形態は、どうなったのか。
それらも、空ではないか。

仏教愛好者たちは、この、空観というものに、翻弄されて、無いものを、在るものと、思い込み、錯乱してゆくのである。

また、在るものを、無いものとして、認識するという、逆転作用に、迷い続けているのである。

勿論、死ぬまでの、暇を潰すというなら、何も言うことは無い。

大乗仏典は、次々に、新しい経典を、創作して、楽しい遊びに、没頭してゆく。
あること、無い事、自由自在に、お話を創り続けて、今に至る。

人間とは、実に、愚かなものである。
架空のお話に、一喜一憂するという、少女趣味を、地で行く。

仏教は、思春期の少女のためにある。

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2009年01月06日

神仏は妄想である 196

2009年2月12日の、朝日新聞夕刊に載った、仏教系大学、花園大学教授である、佐々木閑氏の、日々是修行という、エッセイの一部から。

しかしそもそも釈迦の仏教は、信仰で成り立つ宗教ではない。仏教でも「信じなさい」とは言うが、それは、「釈迦の説いた道が、自分を向上させることに役立つ」という事実を「信頼せよ」という意味である。仏教の「信」とは、信仰ではなく信頼なのだ。この違いは大きい。
信仰とは、「絶対者に正しい存在がこの世にいる」と考えて、その前に自分のすべてを投げ出し身を任せることである。だから神や超越者に救いを求める宗教では、信仰が何より大切な原動力となる。一方、釈迦は絶対者の存在を認めなかったから、そこに信仰の対象というものがない。すべてを任せれば救ってくれる、そういう者はどこにもいないのである。

上記、実に、真っ当な感覚である。
仏教大学に、このような、真っ当な感覚を持つ先生がいることが、それこそ、救いである。

釈迦は、絶対者の存在を認めなかったとは、目から鱗であろう。
それを、釈迦を絶対者に仕立て上げた、大乗仏教というものが、いかに、誤りであるかということ。更に、である。
菩薩や、如来などの、神もどきを、沢山作り上げたということである。

それそこ、信仰の対象を、創り続けたのである。
勿論、釈迦仏陀も、その一人となった。

釈迦の教えには、信仰の対象というものがない、と言い切るのである。
その通りである。

すべてを任せれば、救ってくれるという、者は、どこにもないと言うことも、真っ当である。

それは、他力でも、自力でもない。
それこそ、知恵である。

更に、続けると、

釈迦自身は、普通の人間だ。ただ常人よりもすぐれた智慧があって、「超越者のいない世界で、生の苦しみに打ち勝つ道があること」を独力で見つけ出した。そしてそれを私たちに教えてくれた。だから私たちは、その道を信頼する。釈迦という人物を信仰して、「助けてください」と祈るのではない。釈迦が説いた、その道を「信頼して」、自分で歩んでいくのである。だから、釈迦が完璧な絶対者でなくても少しも構わない。道を信頼する気持があれば、それだけで仏教は成り立つのである。

それだけで、仏教は成り立つのである。
在家信仰を推し進めた、大乗は、これを、幾度も、読むことである。

更に、日本大乗仏教の、愛好者は、僧侶に、師事せずとも、我が身で、釈迦の教えた道というものに、歩み出せばよい。

この、考え方は、多分に、中国思想の匂いがするが、釈迦の教えは、実に、それに近いのである。
老荘思想も、絶対者を置かない。

絶対者を想定すると、妄想は、実に楽々である。更に、お任せするという、安心、あんじんという気持が、心地よい。

主よ、と呼びかける、キリスト教徒は、それだけで、酔いしれる。甚だしい場合は、涙を流す。その救いに預かっていると、信仰しているからだ。
アッラーも、そうである。
ユダヤ教徒も、同じく、全能の神である、主を、信仰する。そして、更に、それが、民族神であるから、やり切れない。

佐々木氏は、信仰と信頼の違いは、大きいと言うが、違いではなく、全く別物である。

帰依するという言葉ほど、上手い言葉は、無い。
絶体絶命の淵に立ち、帰依をするという、心境は、迷いの最高潮である。
それこそ、悪魔の誘いである。

人間として、立つという意識より、優れたものはない。
信仰者の、心理は、幼児心理学で、足りる。
更に、児童心理学を学べば、更に深まる。

宗教の心理は、その程度なのである。

ただし、言っておくが、だからといって、目に見えない世界を、軽んじる者も、甚だしく、愚かである。

唯物論というものは、実に、深いもので、単なる、唯、物ではないはずである。
その、物を、存在せしめている、目に見えない働きというものを、知っての、唯物論である。

見えるものは、見えないものによって、成り立つということを、知らなければ、表だけの、化け物である。

簡単に言えば、樹木には、見えない根があるということ。

見えるものしか、信じませんと、簡単に言う人には、注意しなければならない。
更に、聞えるものは、聞えないものに支えられてある。
聞えないものがあるから、聞えるものを、認識できるのである。

仏教にて、ぐだぐだと、説く言葉は、単なる、パズル遊びに等しい。
こうだから、こうで、だから、こうなり、そして、こうなって、更に、こうなるのである、という、言葉遊びに嵌ると、抜けられなくなる。
それが、信仰病である。

屁理屈、小理屈である。
それを、智慧だと、勘違いして、没頭するのは、学問が足りない故である。

そんな言葉遊びをしていても、どうにもならない。
ただ、どうにかなっていると、信じきるのみである。

ネズミが、クルクルと、輪を回るのに、似ている。
堂々巡りである。
しかし、その堂々巡りで、人生が輝くと、思い切るのである。そして、更に悪いのは、その暗示効果で、事が、上手くいっていると、思うことである。

信仰で、勝ったとは、迷いである。
信仰で勝つことなど、有り得ない。
それは、自己暗示の力である。

奇蹟というような、事態は、悪霊の関与するところのものである。
釈迦が、最も嫌ったのは、それである。
奇跡的な事柄を、特に嫌った。

生まれて、生きることだけでも、奇蹟なのに、それ以上の奇蹟を、求めて、どうする。
太陽が、東から出て、西に没することが、奇蹟である。それ以上の奇蹟はいらない。

事は、奇蹟ではなく、成る様になったのであり、それは、そうなるべくして成ったものである。

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2009年01月07日

神仏は妄想である 197

そこで、シャーリプトラよ、如来はこうも考えるのである。「私には知力がある、神通力があると考えて、もし(適切な)方法によらないで、これらの衆生たちに如来の知力や(四種の)おそれなき自信などを私が教え聞かせたとしても、これらの衆生はその教えによっては(輪廻から)出離することにはならないであろう。なぜならば、彼ら衆生たちは五欲の楽しみに執着し、三界の歓楽に執着し、生・老・病・死・愁苦・悲嘆・苦悩・憂悩・惑乱から解脱せず、(それらによって)焼かれ、煮られ、熱せられ、さいなまれているからである。軒も屋根も朽ち果て、(苦悩の)炎に包まれた家にも似た三界から逃れ出ないならば、これらの人々はどうして仏陀の知を享受することになるであろうか」と。
中央公論 大乗仏典 法華経1より

火宅三界とは、有名である。
この三界において楽しんでいるお前たちは、五欲の楽しみをともなった愛欲に焼かれ、熱せられ、さいなまれている。
と、認識したのである。

燃え盛る家にも似た、三界の中にあって、低級な色形、音声、香り、味、触れられるものに、喜びを見出しては、ならない。

この世を、このように、捉えるということである。

ここまで、現実世界、この世を、徹底して、否定するという、根性は、如何なるものか。

延々と、口説く如くに、これらの、話が続くのであるから、相当に、強迫性神経症の持ち主であろう。

くどいほど、説き続けるというのは、魔的である。

釈迦仏陀は、神通力などを、最も嫌った。
それが、如来は、神通力を持ち、衆生に説くが、衆生は、火宅三界にいて、解らないという。

これが、曲者である。

如来という、架空の存在を作り上げて、焦点を誤魔化すのである。
人の心を支配する時、その絶対性を、説く。
帰依させれば、こっちのものである。

衆生は、火宅三界に在るという、認識は、どこからのものか。
インド魔界からのものであろう。

インドの性愛の手引書などを持ち出すまでもない。
快楽というものを、罪の意識に、持ち上げるなどとは、低級な、聖書のやり口と、同じである。

人間の欲望を、救われない理由とする、その根性は、何か。
人の心を、支配したいという、欲望である。

一体、自分達が、どうして、生まれてきたのかを、知らない。
男女の性の交わりから、生まれたのである。それを、否定するのであるから、いい加減にしろということだ。

庭野日敬さんは、それを、
この物語を終わられた世尊は、と書く。
世尊とは、釈迦のことか。
それならば、嘘である。
釈迦仏陀が、語ったのではない。
作者が、語ったのである。

実在の釈尊お一人だけのことでないのはもちろんです。「わたし」というのは、つまり「仏」ということ、「仏」とは、「真理を悟ったもの」なのですから、「真理を悟ったものにとっては、全宇宙がその人のものだ」という大宣言なのです。

法華経の、愛好者は、実に、大という文字が好きである。

宣言では、足りなくて、大宣言という。
創価学会の、言葉の多くは、皆、大がつくという、アホさ加減。
大勝利、大躍進、大信心、大感動、何でも、大をつけて、信者を、鼓舞させる。それに、単純に迷うから、世話がない。

つまり「無我」になるのです。小さな「我れ」をすてるのです。そして、全体に生かされている「我れ」を発見するのです。

言葉遊びの巧みなこと、呆れる。

更に、
すると、「我れ」は宇宙全体にひろがってゆきます。「無我」こそ「宇宙はわがもの」に通ずるひとつの道なのです。そうなると、われわれの心はまことに自由自在です。何ものにもとらわれず、思うようにふるまっても、することなすことがすべて人を生かす行為になってしまうのです。それこそ、仏の境地にほかならないのです。
と、言うのである。

そうして、立正佼成会という、立派な宗教を創り、更に、立派な建物を、建てて、仏の境地とは、笑わせる。
勿論、彼のみだけではない。
すべての、宗教というもの、同じである。
大伽藍を建てて、平然として、仏の境地というものを、説くという、アホさ加減である。

それで、自由自在ならば、何もいらない。
野山に入り、宇宙と一体になって、死ぬまで、生きればいい。
しかし、彼らの、言い分は、衆生を救うというから、堂々巡りである。

何せ、説いた、本人が、仏になったのかどうかは、すべて、自己申告である。

私も、仏であると、大宣言できるのである。
悟りも、自己申告である。
私も、悟ったと、言える。
しかし、一体、何を、どのように悟るのか。

それに関しては、一切の発言は無い。

甚だしいのは、本当の中道を行くなどいう、輩である。
本当の中道など、どこにもない。
もし、中道という、道があるならば、中道とは、百人百様の道である。

更に、仏というならば、それも、百人百様である。
更に、神というものが、在るならば、それも、百人百様である。
これが、事実である。

仏の真理というものは、大嘘である。
真理という言葉は、観念でしかない。

庭野さんは、
真似ごと(方便)からでもはいらなければ、ほんものには達しられないのです。お経を読むのも、説法を聞くのも、静かに考えるのも、人のためにつくすのも、すべて「我」を捨てて全体に溶けこむための修行だといってもいいでしょう。これが「和」の精神です。たとえ一日に一時間でもいい、こういう修行をつづけてゆけば、わずかずつでも仏に近づいていけるのです。そして、いつか仏になれるのです。それを思えば、ほんとうに大歓喜が心の底から湧いてくるではありませんか。
と、言う。

突然、和の心という言葉が出て来る。
不思議である。
和という、精神活動は、仏教の中には、特に、大乗の中には無い。
和を求めていれば、修行など出来ない。

現実逃避の思想を、ここまで、語り得るというのは、魔物の仕業である。

この人は、「我」を捨てるということを、どのように、説明したのか。
一切の説明は無い。

我を捨てて、無我になって、行為することを、言うとしたら、無我とは、何かということになる。

我が、単に無我になるだけで、何も変わっていないということに、気づいていない。

無我という、我であることに、気づかないのである。

大乗の空観は、無我も、空とするものである。

我を捨てて、無我になったということは、我を忘れて行為しているということか。
それならば、欲望に身を任せて、欲望に没頭すれば、我を忘れて、無我に成れる。
セックスは、正に、彼の言う、無我の境地であろう。

要するに、いくら、説明しても、仏の真理というものは、語れないのである。
それは、そういうものが無いからである。
真理というものは、この世にも、あの世にも無いのであるから、どんなに、言葉を尽くしても、語りきれないのである。

語りきれないから、真理だという、アホもいるが。


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2009年01月08日

神仏は妄想である 198

法華経、比喩品第三の終わりには、驚くべきことが、書かれている。

十四のほう法と、仏罰である。
ほう法、ほうぼう、とは、法華経を説いてはいけないという、人間の種類であり、更に、法華経を誹謗中傷することを言う。

その十四である。
驕慢 これは、わかっていないのに、解ったと思い込むこと
以下は、文字が難しいので、内容だけを書く。
怠けたり、余計なことに心を奪われていること
物事の表面だけを見て、根本を知ろうとしないこと
肉体と物質の欲にとらわれていること
何でも、自己流に解釈して、大切な点を理解しないこと
そんなことは、有り得ないことだと、浅はかな考えから、お経を信じないこと
この教えに対して、顔をしかめる、すなわち、反感を表すこと
このお経の真実を疑い、ためらう心を起こすこと
誹謗 このお経の悪口を言うこと
このお経を、読んだり、書いたり、持つ人を軽蔑すること
善いことなのに、憎らしく思うこと
善いことなのに、それに対して妬み心を起こすこと
善いことなのに、それに対して、恨み心を起こすこと

庭野氏の、解説で、ここに上げた。

第一の、解っていないのに、解ったと思い込むこと、は、正に、法華経の信者のことである。

どうであろうか、ここまで、気を回して、この経典に帰依すること、信じさせることを、説いているのである。

それに対する、罰がまた、酷いものである。
庭野氏は、仏は、罰を与えるものではない。それは、その人自身の心が、そのように罰のような、状態になると、言うが、後で、訳された、罰を、転写する。

どこの、世界でも、解っていないのに、解ったと思う者はいる。
何も、法華経ばかりではない。
しかし、先回りして、あたかも、法華経を信じない者は、解っていないのに、解ったと思う者として、判断するという、傲慢極まりない、定義を立てている。

この、一つ、一つを見ると、結局は、法華経を信じない者は、誤りであるということになる。

実に、巧みであるが、実に、また、愚かでもある。

見え透いている。

さらに、広大な(大乗の)経典を受持して、けっして他(の教え)を喜ぶことなく、他(の教え)からの詩は、たとえ一詩たりともうけることがない、そのような人に、お前はこのすぐれた経典を説け。
大乗仏典 法華経より

これは、イスラムの影響であろうか。
大乗の教えのみを、受持して、他の教えを、喜ぶな、であるから、つまり、他の教えに帰依するな、信ずるなであり、こうなると、一神教の、唯一の神と、同じ論調になる。

第十一から、第十四までの、言葉が、ふるっている。
軽善、憎善、嫉善、恨善である。
きょうぜん、ぞうぜん、しつぜん、こんぜん、である。

つまり、善いことなのに、軽蔑し、憎らしく思い、妬み、恨むことを言う。

一体、ここまでの、独善とは、如何なることか。
更に、である。この経典に、皆々、やられてしまったのであるから、唖然、某然である。

日蓮が、一神教の如くに、法華経を説いた信仰というものが、理解出来る。
読み込めば、法華経に、取り込まれて、我を滅してしまう。
この、滅するとは、無我の境地でもなく、空観などというものではなく、単なる、大いなる、迷いである。

彼らは、法華経を奉じない者が、迷いにあるというが、それは、逆である。

それの、仏罰は、長いので、次に転写するが、現代の、差別用語の羅列である。

第六の、不解、ふげ、とは、自己流に解釈して、大切な点を理解しないとあるが、それでは、自己流に解釈しないこととは、何かと、言えば、法華経流に、解釈すること、つまり、法華経が一番正しい教えであることを、認めるということであり、その他の、考え方は、一切、認めないということである。

これでは、宗教戦争が、終わらない訳である。

イスラムの、スンニ派と、シーア派は、同じイスラムでも、対立し、テロ行為を、互いに続けている。
どうしたら、彼らを理解出来るのかと、私は、考える。
スンニ派になり、シーア派になって、そこに入り込んで、理解するしかない。

イスラムを、どのように、法華経の愛好者達は、理解するだろうか。
簡単である。
間違った教えを、信じているからだと、言うであろう。
すると、今度は、法華経愛好者と、イスラムが、戦うことになる。

何故、宗教というものが、他を排斥し、攻撃し、その教えというものを、真理であると、信ずる、または、考えるのかといえば、それが、迷いだからである。

神道系の、霊的能力者が、法華経は、悪魔の好む経典であると、看破したのは、正に、釈迦仏陀の、教えから、遠い、排他的、非寛容の教えだからである。

更に、釈尊という、釈迦仏陀に似せた、仏という存在者を置いて、語らせて、撹乱させたからである。

実在の仏陀ではなく、久遠の仏、久遠の仏陀というものを、創り上げた。

日蓮宗系は、釈迦仏陀の、仏法ではなく、日蓮の仏法が、優っているというのである。
つまり、久遠の仏は、日蓮であるという、極めつけである。

全くもって、話にならない。
それでは、仏法というものを、利用せず、何故、日蓮神として、奉じないのか。
そこに、彼らの、ずる賢さがある。

既成の、仏教という、権威に、あやかり、人々を騙すに、手間が省けるからである。

漫画宗教の、幸福の科学の、総裁も、宗教とは、今までの宗教の上に、更に、進化して、真理を説くものだというような、詭弁を弄する。

仏罰があるならば、彼らこそ、仏罰を、受けるに、相応しい。

実在の、釈迦仏陀を、出汁にして、言いたい放題である。
その、釈迦仏陀の権威を利用しての、自己顕示欲の、宗教創設である。

本当に、真理というものが、あるならば、それを知るということは、この世の物などに、一切、囚われることなく、無一物で、在るはずである。

しかし、見よ。
豪華絢爛たる、伽藍を創り、その生活は、高額所得者の、それである。

それを、信じられるものだろうか。

真っ当な、感覚を持つならば、彼らの、生活に、その教えが、実在するであろう。

国家転覆を計った、あの、おぞましき新興宗教の教祖は、美食の毎日だったという。
自分が入った、風呂の残り水を、信者に売るという、錯乱を起こして、平然としていた。
彼を、宗教家、及び、宗教愛好者は、批判できるだろうか。

更にである。

妄想、甚だしき、教えというもので、お金を集める、宗教家というものを、信じられるだろうか。

地獄の沙汰も、金次第とは、宗教の、あり方を言うのである。

アホでも、高額献金をする者は、その上席に座るという。

はっきり言うが、神仏は、妄想である。
妄想でないモノ、それは、今、目の前にいる、人である。
その人と、関係して、人生というものが、展開される。
決して、神や仏ではない。

事実は、歴然としている。
大切なものは、今、目の前にいる、人である。

私は、今、目の前にいる人に、何が出来るのかと、考えることが、生きるとこであると、思う。

それ以外は、単なる、妄想、詮無いことである。

宗教の、迷いと、蒙昧は、目に余る。


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2009年01月09日

神仏は妄想である 199

頑固な人々や、高慢な人々や、正しい修行をしない人々に、お前はこれを説いてはならない。愚か者たちは常に愛欲に酔いしれていて無知であるから、説かれた教えをあしざまに言うであろう。

仏陀の導きとして常に世の中に確立されている私の巧みな方便を誹謗し、眉をひそめて乗り物を捨て去る、このような人がこの世でうける果報が、いかにきびしいものであるかを、お前は聞け。

私がまだこの世にいるあいだにせよ、完全な涅槃にはいったのちにせよ、このようなこの経典を誹謗し、あるいは比丘たちに対して過酷な振る舞いをして彼らがうける報いを、いまや私に聞け。

そして、いよいよ、その、報いの、記述が、はじまる。

これらの愚か者たちが人間としての生を終えてから住んでいるところは、一劫が満ちるあいだ、阿鼻の地獄である。そののちさらに中劫のあいだ、彼らは幾度も死んでは再びそこへ落ちていく。

死んで地獄から去ったときでも、そののちはさらに畜生に生まれてさまよい歩き、まったく弱々しい犬や野牛となって、他のものたちの遊び道具となる。

そのばあい、彼らは、私が最高の菩提を得たひとを嫌悪しながら、色は黒く、斑点があり、腫瘍ができ、身体中がかゆかったり、毛がなかったり、まったく無力であったりする。

彼らは生命あるもののあいだにあっていつも嫌われ、土くれを投げられ、打たれ、泣き叫び、あちらでもこちらでも棒で脅かされ、飢渇に悩まされ、身体はやつれはてている。

仏陀の導きを謗った彼ら愚かな心の持ち主は、さらにラクダになったりロバになったりして、重荷を運びながら鞭や棒でたたかれ、食べ物の心配で思いわずらっている。

さらにはまた、彼ら愚か者たちは、片目でチンバで醜い野干となり、村の子供たちから土くれを投げつけられたり、叩かれたりしていじめられる。

その愚か者は、さらにそこから死んで生まれ変わると、五十ヨージャナにも等しい長い身体の生き物となり、愚鈍でばかで、ただのたうちまわっている。

彼らはこのような経典を誹謗したことにより、足のないもの、胸で這うものとなったのであり、幾コーティもの多くの生き物に噛まれて、非常に激しい苦痛を受ける。

更に、続くのである。
しかし、これほどまでに、誹謗する者に対する、恐ろしい、罰を用意するという、作者の、強迫的観念を、私は、すでに、地獄だと言う。
ここまで、想像できるということが、凄いのである。
そこまで、人を脅して、この経典に、帰依させたいと思うのは、何か、である。


私のこの経典に信を起こさない彼らは、人間の身体を得たときでも、手足が麻痺したり、チンバであったり、セムシであったり、片目であったり、愚鈍であったり、卑賤な生まれであったりする。

このような、記述から、差別意識が、強く起こったのである。
これは、現代の、障害者のことである。
ダウン症の子供などのことを言う。
障害を持って生まれた者を、差別するのである。

この仏陀の菩提を信じない彼らは、世間で信用されず、彼らの口からは腐った臭いが噴出ししていて、その身体にはヤクシャや魔物が乗り移る。

いつも貧困で、弱々しく、他人の召使となって走り使いにこきつかわれる。彼らには病気などの苦痛が多く、よるべもなしに世渡りをする。

中を省略して、

ツンボ、思慮なき者などの、言葉が多い。

さらに、ガンガー河の砂の数のように多くの幾千・コーティ・ナユタもの劫のあいだ、彼は愚鈍な存在としてあり、肢体も不完全である。経典を誹謗することによる結果は、このように禍があるものである。

彼にとっては、遊園地がそのまま地獄であり、屋敷は悪趣の世界に等しい。そこに住んでいる彼には、ロバや野猪や野干や狛が常についている。

たとえ人間の身体を得たとしても、彼は盲目や聾唖や愚鈍なものとなり、いつも貧乏で他人の使用人となる。そのとき、これら諸悪の報いで、彼は飾られている。

以上、長く引用したが、まだまだ、延々と続く。
実に、くどい、記述である。

くどい、つまり、悪魔的である。

宗教家の、くどさは、魔的なものなのである。

一体、何を目的に、この法華経というものが、書かれたのか。
非常に、文芸的ではあるが、非常に、稚拙でもある。

書かれた当時の、状況を、見つめる必要がある。
しかし、この経典によって、更に、多くの妄想が、生まれたのである。

ここで、話を少し、変える。

例えば、この経典を、信奉する者、帰依する者たちが、どのような、神経の持ち主であるかということである。

教え込まれて、法華経の信者になると、まず、偏狭で、愚鈍になる。
排他的で、非寛容になる。
更に、その思い込みは、甚だしいものがある。

ここに、私が相談を受けた、ある新興宗教の信者の話がある。
巨大教団の信者である。勿論、法華経を掲げて、広宣流布するという。

その、ある地方幹部の男が、サラ金からの、借金まみれで、その妻の、姉からの相談である。
その、借金のすべての、金を、妹のためにと、工面したという。
そこで、その男の反応である。
お礼もそこそこに、諸天善神の守護であり、法華経の功徳であると、言ったというから、姉は、空いた口が、塞がらない思いをした。

250万という、その人にとっては、大金を用意したのである。
それを、法華経の功徳であると、思い込む、愚鈍さは、計り知れない。
それを、行為したのは、その妻の姉である。
法華経の功徳ではなく、その姉の、協力、更に、金を工面した努力である。

信仰者というものは、そのように、勘違いが、甚だしく、愚鈍である。

法華経を、誹謗する者が、そのようになるのではなく、法華経を、信奉した者が、そのようになるという、逆転を、誹謗する者として、書いているのである。

更に、ここには、生まれによっての、差別の羅列である。
これが、衆生を救う大乗の教えといえるのか。

脅し、賺し、更には、こけおどしである。

この、蒙昧は、計り知れなく、更に、妄想まみれである。
真っ当に読んで、理解すると、頭が、イカれる。

この、経典により、どれほど多くの人が、蒙昧かつ、愚鈍、そして、妄想のうちに、死ぬことになったのかは、計り知れない。


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2009年01月10日

神仏は妄想である 200

中央公論社 法華経1
第四章 信への志向
これは、経典では、信解品第四となる。

その中の最初を写す。

私たちは実に、齢を重ねた老人であり、高年のものであって、この比丘の僧団のうちでは長老とみなされましたが、老いぼれてしまって、われわれは涅槃に達したのだと思い、そして、世尊よ、私たちは怠惰なために、この上ない正しいさとりに対しては、それに立ち向かう力もなく、それに向かって精進努力もいたしませんでした。

このように、釈迦仏陀の、弟子たちに、語らせるという、段取りである。
彼らがいないことを、いいことに、彼らを登場させて、反省させるという、創作である。
呆れる。
更に、続ける。

世尊が法をお説きになるとき、長いあいだ、世尊も座っておられるし、私たちもその説法に列席しております。そのようなときにも、世尊よ、長いあいだ座って、長いあいだ世尊にお仕えしていると、私たちの身体や手足は痛み、節々も痛んでまいります。それゆえ、私たちは、世尊よ、世尊が法をお説きになったとき、「すべてのものは実体がなく(空)形相がなく(無相)、欲求の対象でもない(無願)」ということは明らかに知りましたけれど、これらの仏陀の特性についても、仏陀の国土の荘厳についても、あるいは菩薩の自由な活躍(遊戯神通)についても、如来の自由な活躍についても、私たちはそれらを得たいという欲を起こしませんせんでした。それはなぜかと申せば、世尊よ、私たちはこの三界から逃れて出で涅槃を得たと思っており、また耄碌しているからです。

これは、仏陀の弟子に対する、甚だしい、侮辱である。
更に、初期、仏陀の弟子達を否定しているのである。

涅槃を得たと思っており、耄碌していると、言わせるのである。


それゆえ、世尊よ、私たちは、他の菩薩に対して、最高の正しいさとりについて教えたり、戒めたりもしたのでありますが、しかも、世尊よ、私たち(みずから)はそのこと(すなわち最高の菩提)について、一度もそれを欲する心を起こさなかったのです。そのような私たちが、世尊よ、いま、世尊から親しく、声門たちもこの上ない正しいさとりが得られるであろうと予言されるのをうかがって、私たちは驚嘆の念をいだき、未曾有の思いをし、また大きな利益を得ました。世樽よ、今日、突然、このような以前にうけたまわったことのない如来のおことばを聞いて、私たちはりっぱな宝を得ました。世巽、計り知れない量の宝を得たのです。探しもせず、望みもせず、考えもせず、求めもしなかったこのようなりっぱな宝を、世噂よ、私たちは、得たのです。このことは、世尊よ、私たちにははっきりしています。

それから、延々と、その話に関する、例え話が続くという、段取りである。

これは、魔物である。
魔界関与のものである。

これほどの、創作をもって、初期仏陀の、弟子達、及び、仏陀までも、否定するかのような、創作などは、どう考えても、魔物としか言い得ない。

要するに、仏陀の初期の教えを、否定しているのである。
それによって、涅槃を得たと、勘違いしていたというのである。

勿論、涅槃にしろ、悟りにしろ、皆々、自己申告や、師匠が認めるものである。

今でも、俺は、神の代理だとか、神そのものだとか言う、アホが、詐欺をしている。
天の声を聞いたという、アホは、最後まで、天の声だと、言い張ったから、もう、病院に入るしかないが、一見普通であるから、監獄に入っている。

俺は、と、名乗れば、それで、いいのである。

禅の世界も、印可を受けて、はい、悟りましたと、やる。
大嘘の世界である。

印可を与えた者も、悟りなく、受けた者も、悟り無く、一体、印可とは、何か。
大嘘なのである。

法華経に戻ると、まさに、魔界関与である。
こんな、大嘘を、経典として、掲げる神経が、知れない。

それを、真実だと、信じてしまった皆々、あはれ、である。
更に、今でも、この創作の経典を、信奉して、勝手気ままに、解釈して、悦に入る者多数。

更に、大乗こそ、仏教であるという者多数。
そう、大乗仏教ではなく、大乗教でいい。
実在の仏陀ではなく、久遠でも、真理でも、何でもいいから、仏陀、それは、神であると、掲げて、やればいいのである。

宗教というものは、妄想であるから、勝手な解釈で、如何様にでも、好きなように、教えというものを、作られる。

真如苑という、新興宗教は、真如密などといい、密教から出ているように、見せて、教祖一族を、拝ませているという、仰天である。
どこにも、仏教などない。
大般涅槃経などという、法華経より、更に悪い偽経典を、掲げて、これが、仏陀最後の、教えとやっているのだから、世話がない。

信じられないほどの、愚昧、蒙昧である。
更に、それを、信じ込むアホの面々である。

化け物一族を、拝み、死んで、教団本部の上空に、集うという、アホ振りは、救いようがないという。

更に、教団を、守護しているのは、千年の修行をした狐、天狐、てんこ、というから、呆れて、ものも言えないのである。

信者は、せっせと、教団の教えに従い、友人、知人から、500円で、供養する、お金を集める。
つまり、商売の基本である、広く、貧乏人から、金を集めるということを、実行している。

私は、この教祖が、貧乏人は、創価学会へ行けばいい、こちらには、金持ちが来ればいいと、聞いた。

教団は、狐の巣である。

そのように、仏典を利用して、宗教を立ち上げる者多数。そして、騙される者、多数。
本当に、人間とは、救われないものである。

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