2008年10月19日

神仏は妄想である 179

仏教以前のインドについて、俯瞰する必要がある。

大乗仏典の、根拠無き、誇大妄想を知る上でも、必要だと、思えるからだ。

インドは古来幾多の民族の活動舞台となり、そこで多数の民族の文化が栄えたのであるが、インド文化形成の主動的地位を占めて来たものはアーリヤ人である。インド人の用いる主要な文化語はほとんどすべてアーリヤ人の言語に由来するものである。
中村元 インド思想史

ここで、アーリヤ人の言語に由来する、ということが、重要である。

それでは、アーリヤ人の前は、どうだったのか。
西暦前3000前より、発生し、それから、前2000年にかけて、インドには、インダス文明が起こり、その文明の担い手、つまり、ある一民族が一定の都市計画の元に、都市を建設していたということである。

この文明は、広く、西暦前1500年頃まで、続いたと言われる。

インダス文明とは、何か。
この文明の文字の解明が、未だされていないという。
ただ、後世のインド民間信仰と密接な関係があると、推測される。
それは、地母神である、シヴァ神の像の原型らしいもの、性器崇拝、樹神、動物崇拝が、確認されている。

特に、牝牛が、崇拝の対象だった。それは、今でも、続いて、インドでは、平然と、牛が、街中を、闊歩している。

更に、禅定、沐浴も、行われていた。
しかし、寺院や、祭壇などは、無い。祭具というのも、見つからないようである。

アーリヤ人とは、信仰を異にしていたことは、確かである。

アーリヤ人が、インドに侵入して来た時、インドには、ムンダ族という、民族が北部インドに、生存していたことが、確認されている。

現在も、ムンダ族は、インド奥地に生存しているが、一般インド人よりも、生活程度が、低く、差別待遇を受けている。

さて、アーリヤ人の、敵対者は、ドラヴィダ人であった。
しかし、鉄を使用した、アーリヤ人に征服されたのである。

この、ドラヴィダ人は、守護神として、女神を崇拝し、性器崇拝、蛇神、そして、樹木崇拝も、行っていた。
この、習慣が、実は、インドに後々まで残ることになるのである。

アッサム、ベンガルの一部、ナーガランドには、蒙古系の種族が住み、彼らも、一般インド人とは、異なる習慣を持つ者である。

アーリヤ人は、西洋人と同じ祖先に由来する、人種である。
原住地は、コーカサスの北方地域であったとする、説が有力である。

彼らは、遊牧民として生活していた。
家畜の名称に関して、インド・ヨーロッパの諸言語に、類似性が認められるという。
ただし、穀物の名称には、それが無い。

西方に向かった者は、ヨーロッパに定住して、諸民族となる。
東方に向かった者は、西トルキスタンに数世紀定住して、その一部が、東南に進み、イラン人となる。
東南に進んだ者は、西北インドに入り、五河地方を、占領した。インド・アーリヤ人である。これが、西暦前、13世紀末といわれる。

その彼らが、前1000年頃までに、リグ・ヴェーダの、宗教を起こしたのである。
リグ・ヴェーダは、インド・ヨーロッパの、最古の文献である。
インド、最古の文献とも、言われる。

リグとは、讃歌、ヴェーダとは、知恵、転じて、バラモンの聖典となった。

アーリヤ人は、野蛮である。更に、武器と、戦術に勝れて、原住民である、ドラヴィダ人らを、征服し、駆逐してしまうのである。

原住民は、アーリヤ人の下に、隷属し、インドにおける、最下の、位置に置かれた。
だが、まだ、今に至る、カースト制までには、至らなかった。

当時の、アーリヤ人は、血縁関係、言語、宗教の、自覚はあったが、部族間の、政治的統一性は、無い。
つまり、統一国家なるものは、存在しない。

さて、リグ・ヴェーダである。
今日に至るまで、それは、暗唱によって、伝えられるという、驚異である。
前、1000年から、800年頃に、編纂されたというが、作製は、1200年から、1000年である。

アーリヤ人は、家庭の祭壇に、供物を捧げ、更に、大規模な、祭祀を行っていたという。

リグ・ヴェーダの宗教観は、多神教である。

神々の多くは主として自然界の構成要素・諸現象あるいはそれらの背後に存すると想定された支配力を神格化して崇拝の対象としたのである。
中村元

天神、太陽神、暁紅神、雷神、暴風神、風神、雨神などなど。
これらの、神々に対して、神話が発達することにより、それが、擬人化されて、独自の性格、性行が、与えられ、次第に、自然現象とは、関連なく、固定されていった。

例えば、インドラとは、理想的戦士である。後の、帝釈天と呼ばれるもの。
サラスヴァティーとは、西北の河の名前であるが、女神と、崇められて、財と富みの神とされた。後の、弁財天である。

更に、定住することによって、自然界の、関係はなくなり、抽象的観念による、神観念が、起こったのである。

抽象的観念である。

これが、後に、宗教という、観念を生むことになる。

要するに、人間の勝手な観念である。
この抽象的観念に、おいて、人生を意味付けするという、思考法が、現れた。
それが、宗教観念である。

私の指摘は、そこにある。

抽象的観念による、宗教とは、抽象的である。

何一つ、確定したものは、無い。

リグ・ヴェーダの後に、哲学思想の、萌芽である。
当然、変だと思う人が、現れる。

無いものを、在るとする、考え方を、おかしいと思う人である。

空想の産物を、崇拝しては、おかしいと、気づくのである。

一気に、飛躍すれば、空想の神や仏というものを、崇拝するのは、おかしいと、気づく人である。
つまり、妄想であると、気づく人である。
私も、その一人である。



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2008年12月15日

神仏は妄想である 180

リグ・ヴェーダに対する、懐疑論者が現れ、それにより、哲学的といえる思想の芽生えがある。

最初は、神々の個性が曖昧である、区別が判然としない。
更に、神々は一つの神の、異名にほかならない。

ただ一つのものが、広がりて、この世のすべてとなりぬ

そして、懐疑論者は、多くの人はいう、インドラは存在せずと。誰かれを見し。われらは誰をか讃えん、である。

恐ろしき神につき人は問う、かれはいずこに在りやと。人は答えていう、-――かれは存在せず。

そして、思索がはじまった。

神々を超越した、根源的な世界の原理についてである。

リグ・ヴェーダの中にも、哲学讃歌とよばれるものがあり、世界原理を想定して、多様な現象世界を成立させるものを、説明しようとしている。

おおよそ、二つに分けられた。
一つは、宇宙創造であり、一つは、出生を司るもの、である。

中でも、特徴的なものは、祈祷主神の登場である。
ヴェーダの、ブラフマンを司る神として立てられたものが、世界創造神にまで、高められた。
そして、万有の唯一なる主宰者となるのである。

リグ・ヴェーダの神が、一神教であるが、原人は、汎神論である。

原人は、千頭、千眼、千足あり、既存、未存の一切である。
四分の三は、天にあり、不死である。
神々が、かれを犠牲獣として祭式を行うと、讃歌や、祭祀が生じ、馬、牛、羊など、畜類が生じ、その口からは、バラモンが、その両腕から、王族が、両股から庶民が、両足から、奴隷が生じた。
太陽は、その眼から、インドラとアグニ、火の神とは、口から、風神は呼吸から生じた。臍の緒から天空が、頭から、天界、足から、他界、耳から方位が生じた。

有にあらず、無に非ざるもの、として説く讃歌において、汎神論は、頂点に達した。
そして、天地創造を行い、神々も、宇宙の展開より後に、現れたという。

そして、更に、言葉を、最高原理とする、思想も現れた。
ことば、は太初において、原水から生じたものである。
あらゆる神々の保持者である。
自分が、欲する者を、バラモン、仙人、賢者とも為す、という。

ことばの、本性は、経験的知覚の領域を、超越して、見つつある多くの人々も、実はことばを、見ざりき。聞きつつある多くの人々も、これを聞かずと、ある。

未来生を見れば、肉体は死とともに滅びるが、霊魂は不滅である。
その楽土は、死者の王、ヤマの支配する王国であり、最高天にあるとする。
後に、このヤマは、仏教の、閻魔、夜摩天となる。

天界に達するためには、祭祀を行わなければならない。
他人に対する布施、特に、バラモンに対する、布施が称賛される。
種々の誓いをたもち、苦行を行うべきである。

悪人に対する、死後の審判は、未だ、不明瞭である。

明確な、地獄の観念は、説かれていない。

上記、これが、後々に、カースト制を、生む基盤になるのである。

西暦前1000年頃から、アーリヤ人は、ジャムナー河と、ガンジス河の、中間の肥沃な平原を占領した。

司祭者を中心とした、氏族制農村社会を、確立し、孤立的、閉鎖的な経済生活を営み、バラモン教の文化を完成させるのである。

後の、インドに広範囲に渡り、影響を及ぼすことになる。

職業は、世襲制になり、四姓の制度が成立する。
バラモン、王族、庶民、隷民である。

更に、後世になると、多数のカーストが成立し、異なる階級の間では、結婚や、食事を禁止され、若干のカーストは、不浄とされた。
バラモンは、以後、三千年あまり、インド文化を、保持する。

悪名高いバラモン教の、カースト制である。

更に、ヴェーダが発展し、聖典製作が行われる。
リグ・ヴェーダは、勿論、サーマ・ヴェーダとは、歌詠の集成である。ヤジュル・ヴェーダは、祭詞の集成。アタルヴァ・ヴェーダは、呪詛などの、集成である。これが、後に、密教に混合される。

更に、各ヴェーダに、付随するものとして、ブラーフマナ、アーラニカ、ウパニシャッドが出来る。
上記を、総括して、広義の、ヴェーダとなし、天啓文学を人間の著作とは、見なさず、それは、永遠の存在であり、聖仙が、神秘的霊感によって、感得した啓示としている。

西暦前1000年から、西暦前500年までに、順次作製された。

作製したのは、人間であり、人間の創作である。

それぞれについて、説明していると、次に進まないので、以上にする。
この、ヴェーダ成立後の頃、釈迦仏陀が、歴史に登場する。

更に、釈迦仏陀と共に、多くの思想家も登場する。
ヴェーダの宗教が、単なる、迷信であると、判定する者も、現れた。

新しい時代の、動きに、唯物論者、懐疑論者、快楽論者、運命論者等々が、現れるのだ。
更に、出家して、禅定をする者も、多数。

この時代に、現れた人々を、沙門、「つとめる人」と称した。
当時は、言論統制など無い故に、何を言っても、殺されるということがなかった。

ただし、この時代に、現れた諸説は、インド一般では、異端とみなされる。
それは、ヴェーダを否定したからである。
当時、その代表的な人物が、六人いたことで、六師と呼ばれた。

勿論、釈迦仏陀の、集団も、異端の一つであった。

ここでも、一つ一つを、説明していられないので、特徴的なことを、挙げる。

サンジャヤの懐疑論である。
来世が存在するか
もしもわたくしが「あの世は存在する」と考えたのであるならば「あの世は存在する」とあなたに答えるであろう。しかしわたくしはそうだとは考えない。そうらしいとも考えない。それとは異なるとも考えない。そうではないとも考えない。そうではないのではないとも考えない
彼は、常に、意味の把握できない、曖昧な答弁をして、確定的な返答をしなかった。
ここで、形而上学的問題に対する、判断停止の思想が、はじめて、明らかになったという。

当時、インド、マガダの首都、王舎城に住み、釈迦仏陀の、二大弟子である、サーリープトラと、モッガラーナも、サンジャヤの弟子だった。
後に、同門250名を、引き連れて、釈迦仏陀に帰依する。

ここで、面白いのは、仏教と共に、発展した、ジャイナ教である。

六師の一人、ニンガタ・ナープッタである。
ニンガタとは、彼より以前に、古くから存在した宗教の、一派の名である。
彼が、この一派に入門して、悟り、その説を改良し、ジャイナ教が成立した。

ちなみに、悟りを得てから、偉大なる英雄、マハーヴィラと、尊称された。

この、ジャイナ教の、伝説である。
彼が、世に現れるまでに、23人の、救世主が現れ、第23祖を、パーサと呼び、マハーヴィーラは、24祖に当たるという。

正統バラモン系以外の宗教として、仏教と共に、発展した。

特徴的な考え方は、相対主義である。
事物に関して、絶対的、あるいは、一方的な判断を下しては、いけないというもの。
事物は、実体、または、形式という点から見ると、常住であると言い得る。同時に、状態、内容という点から、見ると、無常であると言い得るという。
すべては、相対的に言い表し、相対的に解するべきである。

不定主義、つまり、相対主義である。

さて、このジャイナ教の、上記の伝説などは、大乗経典に影響を、与えたと思われる。

要するに、仏教、初期仏教と共に、次第に、教義として、成立してゆく様を、見ることなのである。

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2008年12月16日

神仏は妄想である 181

原始ジャイナ教を見ることにする。

当時、様々な思想が対立し、争っていた。
マハーヴィーラは、その中で、事物に関して、絶対的な、あるいは、一方的な判断を下してはならないと、教えた。

事物は、様々な立場から、多方面にわたって、考察すべきである。

もし、判断を下す場合は、或る点から見るという、制限をするべきであると。

例えば、事物は、実体、または、形式という点から見ると、常住であると言い得る。
状態、内容という点から見ると、無常であると、言い得る。
すべては、相対的に、言い表し、相対的に、解するべきである。

これを、見方といい、ジャイナ教は、不定主義、あるいは、相対主義と、言われる。

マハーヴィーラは、ヴェーダ聖典の権威を、否定し、更に、バラモンの祭祀は、無意義、無価値であると、主張した。
そして、祭祀における、獣を殺すことを、罪であると、言い切るのである。
また、階級制度に、反対した。
合理主義的立場に立ち、あらゆる人間が、あらゆる時、あらゆる所においても、奉るべき、普遍的な法、ダルマがあると、主張した。

生き物は、生き物を、苦しませる。見よ、世間における大いなる恐怖を。・・・・・
かれらは無力なる弱き身体もと破滅に趣く。

マハーヴラは、この苦痛から、解脱するために、形而上学的考察を開始する。

宇宙は、大別して、霊魂と、非霊魂から成るとする。
霊魂は、地・水・火・風・動物・植物の六種に存する、六種の霊魂がある。
それは、物質の、内部に想定される、生命力を実体的に、考えたものである。

非冷酷は、運動の条件と、静止の条件と、虚空と、物質との、四つであり、霊魂と合わせて数えるときは、五つの実在体とする。

非常にすぐれていることは、或る場合は、時間を一つの実在体と考え、六つを、想定する。

時間というものを、哲学すれば、ノーベル賞ものである。
いまだに、時間というものを、人間は、把握していない。
それは、魚が、水に生きるということを、知らないように、人間も、時間というものを、知らないのである。

人間は、時間の実在を知覚することは、出来ないのである。
私が救いというものを、唱えるならば、時間の実在の知覚を、言うだろう。

生命は、時間という、空気の中に浸り、空気という、媒体に取り込まれて、生きているという、実感を感じ取れないでいる。

この、空気は、水とでも、風とでも、何とでも言っていい。

あらゆる、哲学、思想なるもの、そして、学問全般、宗教でさえ、時間というものを、知覚できないでいる。

時間を超越するという、宗教の悟りというものは、ヒステリーである。
単なる、妄想である。

さて、続ける。

虚空は、大空所である。
この中に、他の諸々の実在体が存在する。
時間は、単一にして、永遠であり、空間的拡がりを有しない。
物質は、無数に、存在し、多数の物体を構成し、場所を占有し、活動と下降性を有する。

物質は、原子から構成されているが、原子は、部分を有せず、分割し得ず、また、破壊することもできない。

原子それ自体は、知覚され難いものであるが、それらが、集合して、現実の知覚され得る、物質を形成する。

世界というものは、これらの、実在性によって、構成され、大初に、宇宙を創造したり、あるいは、支配している主宰神などは、存在しない。

人間の身体が、活動し、身・口・意の、三業を現ずると、その業のために、微細な物質が霊魂に、取り巻いて付着する。
これを、流入と言う。

その、微細な物質が霊魂を囲んで、微細な身体を形成し、霊魂を束縛し、霊魂の本性を、覆っている。

これを、繋縛 けばく、と呼び、これにより、諸々の霊魂は、地獄、畜生、人間、天上の四迷界にわたって、輪廻するという。

業に、束縛された、悲惨な状態を脱し、永遠の寂静に達するために、一方では、苦行によって、過去の業を滅ぼし、他方では、新しい業の流入を防止して、霊魂を浄化する。
そして、本性を、発現させるというものである。

これを、制御といい、それを、実行するには、出家して、修行者になり、一切の欲望を捨てて、独身の遍歴、遊行生活を行うことを、勧める。

この、修行者を、比丘と称し、托鉢乞食の生活を行うのである。

多数の戒律があるが、特徴的なものは、不殺生、真実語、不盗、不淫、無所有である。

不殺生は、特に重大な、戒律だった。
生き物は、命を愛するものである、ゆえに、命を傷つけることは、最大の罪悪である。

無所有というのは、徹底して、一糸もまとわない裸体で、修行する者もいた。

後に、白布をまとうことを、許される、白布派と、裸体のままの、裸形派に分かれる。
保守的な、裸形派は、なんと、断食による、死が、極度に称賛される。

修行に当たり、自己力のみを頼り、一切の、救済者、救い主を期待しない。

上記、あるところまでは、受け入れられるが、極端に行く着くところが、受け入れ難い。

同じ時期に、釈迦仏陀は、極端を嫌い、中道の道を説く。

余談であるが、三蔵法師玄奘が、天竺に渡った頃は、まだ、ジャイナ教の修行者がいて、
面白い修行法をしている者多数と、その、旅日記に書いている。

ところが、仏教と、共に、ジャイナ教も、インドでは、壊滅する。
それは、共に、殺生戒があるからである。
殺しをしない。

殺しをする、宗教が、台頭してくると、彼らは、殺されたのである。

それでは、この信者は、どのように、行為したのかを、見ることにする。

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2008年12月17日

神仏は妄想である 182

神はいない。
何ら、救済者の存在を期待しないという、ジャイナ教である。

修行により、業の束縛が解かれ、微細な物質が、霊魂から離れる。それを、止滅と呼ぶ。

その結果、罪悪、汚れを滅ぼした、完全な智慧を得た人は、「生も望まず、死をも欲せず」なのである。

つまり、現世も、来世も、願うこと無しである。

この境地を、解脱、寂静、ニルヴァーナと、呼ぶ。
身体の壊滅とともに、完全な解脱が、完成するというのである。

その後、成立した、解脱観には、身体が死すると、解脱した霊魂は、本来有する、上昇性を発揮して、上方に向かい、世界を脱して、非世界に至る。そして、霊魂は、本性において現れて、絶対の安楽が得られると、なる。これが、真の解脱である。

私の解釈を、すれば、宇宙の外に出るということである。

上記は、すべて、観念である。

これは、大乗仏教に大きな影響を与えた。
微妙に相違は、あるが、非常に大乗に近いものがある。
釈迦仏陀の教えにも、近い。

さて、その信者である。

厳重な修行は、在家信者の行うことの出来ないものである。
信者は、因果応報の理を信じ、高僧の教えに従い、道徳的、正しい生活をすること。
それによって、死後、神々の世界に達して、楽しい生活が出来るという。

ただし、在家の信者にも、不殺生戒の厳守を要求する。
信者は、農業あるいは、一般的に、生産に従事せずに、職業として、商業を選ぶ。
従って、ジャイナ教は、商業、特に、金貸し、販売に従事することになる。

正直で、信用もあり、富裕層に内に入った。
19世紀まで、インド資本の、過半数は、インド人口の、0,5パーセントにすぎない、ジャイナ教徒の手中にあったといわれる。

ジャイナ教は、宗教と、資本主義の、関係において、問題提起する、インド最初の、事例であると、いわれる。

それでは、初期、原始仏教、つまり、釈迦仏陀は、いかなる方法をとったのか。

ゴータマは、当時の思想界において、本質的に相容れない種々の哲学説が、互いに相対化し、矛盾し、抗争している事実を注視し、反省した。「或る人々が「真理なり、真実なり」というところのその、「見解」をば、他の人々は「虚偽なり、虚妄なり」という。かくのごとく、かれは異なれる見解をいだいて、互いに論争をなす」しかし人がいずれか一つの哲学説の立場から離れて、この思想史的現実を、客観的・通観的視点から眺めるならば、それらは互いに対立・抗争しているという点において、いずれも相対的・一方的である。
中村元 インド思想史

そして、釈迦仏陀が、取った行動は、結局解決しない、形而上学的問題についての、論争などに、関わらない。
更に、無意味である、無意義であるとして、論争に加わらないのである。

かれは一つの立場に固守して他の者と争うことがない。かれは種々の哲学説がいずれも特殊な執着にもとづく偏見であることを確知して、そのいずれにもとらわれず、みずから省察しつつ、内心の寂静の境地に到達しようとした。かれはみずから真実のバラモン「つとめる人」沙門となる道を説くのだと標榜していた。仏教はどこまでも人間の生きるべき道を明らかにしたのであり、この道またはきまりを法、ダルマとよんだ。
中村元

大乗仏典が、書かれて以降、上記にある、当時の思想界のような、状態になる。
仏教に関してである。

それを否定した釈迦仏陀の、仏教が、そのようになるという、皮肉である。

これが、唯一の、これが、真理である、これが真実である、等々である。
しまいに、仏典の一つを、もって、真理ありだの、甚だしくは、仏典の一説を持って、これが、唯一の道などと、ほざくのである。

何度、繰り返してもいいと、思うので、釈迦仏陀の、原始仏教を、もう少し見る。

その前に、私は、釈迦仏陀という、釈迦族のことを言う。
仏陀が、出た、釈迦族は、仏陀の目の前で、滅ぼされている。

つまり、仏陀が、そのまま、城にいれば、確実に殺されていた。
出家をしたことにより、仏陀は、その滅びから、免れている。

誰も、このことを言わないので、言っておく。

滅ぼされる因縁のある、釈迦族に生まれたのが、釈迦仏陀である。
確かに、二度、仏陀は、その軍勢を止めている。しかし、三度目は、止められなかった。
何故か。
かれ自身の、因果の法で、解釈すればいい。

生老病死は、苦であると、観たのである。
生まれることも、老いることも、病気になることも、死ぬことも、苦である。
つまり、人生は、苦であるということである。

苦とは、自己の欲するがままにならないこと、であるという。
ということは、生まれたことも、思うに任せなかったということである。つまり、生まれたくなかった。
これに対して、私は、きっぱりと、明らかに言う。
人は、生まれたくて、生まれてきた。
生まれたことが、苦である、思うようにいなかかったというのは、傲慢不遜であり、釈迦仏陀も、悟れなかったという、こと、明々白日である。

私は、10歳の年、夏のある日、明確に、生まれたくて、生まれてきたと、感得した。
それは、悟りか。
悟りでもないでもない。私の感性である。

人生は、私の欲するままにならないものである、ということである。
つまり、成功したなら、それは、嘘である。
欲するままに、ならないのが、人生なのである。

何一つとして。

そのように、人生を捉えるのである。

さて、ここで、下世話な話である。
私の父が、七十を過ぎて、癌になった時、私は、病室で、父に、父さん、そんなに生きなくてもいい、こんな世の中に、長くいることはないと、言った。周囲の人は、騒然とした。
また、唖然としたようである。
一日でも、長く生きてと、言うと、思ったようである。

父は、お前が、本当のことを言うから、俺は、目が覚める。そこで、もう少し、生きることにしたと、言うのである。
俺は、生きてみる、と。
そうして、82歳まで生きた。

「ああ短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死ぬ。たといさらに長く生きるとしても、また老衰のたるに死ぬ」
上記は、仏陀の言葉であるが、本当は、お笑いである。
仏陀が言ったというから、神妙になるが、実に、お笑いである。

癌が完治した。それでも、人は、死ぬ。

父さん、10年長く生きたところで、どうなるものでもないと、私。
お前が、見舞いに来ると、目が覚めると、父は、言う。

俺は、生きると、三度も、手術を受けて、生き延びた父は、矢張り、死んだ。
本当に、十年長く生きてしまった。

そして、その、10年長く生きて、一番恩恵を受けたのは、父ではなく、私であった。

季節ごとの、海や山の幸を、私は、定期的に送ってもらい、いつも、食卓には、北の他の食べ物があった。

早く死んでも、いいものをと、思い、見ていたが、あらまーと、生きて、最後に、静かに、くたばった。

人生は、苦である。
そう、釈迦仏陀は観た。
それは、仏陀の観たものである。

人それぞれ、観るものは、違う。
喜怒哀楽。
それから、一つ取り出して、人生は、喜びである、怒りである、哀しみである、楽であると、言ってもいい。
お好きな方を、どうぞ、である。

釈迦仏陀も、
私に言わせれば、死ぬまでの、暇潰しをしたのであり、それも、また、良きことである。

あまり、力まない方が、身のためである。

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2008年12月18日

神仏は妄想である 183

釈迦仏陀の、生きていた、2500年前は、文字がなかった。
人が人へ、思いを伝える手段は一つ、口伝えである。

言葉は、音波となって、相手に伝わり、そして、言葉は消滅する。
聞き逃したり、忘れると、それっきりである。
聞いて覚えるという、作業が、思想を伝達する、唯一の道だった。

釈迦仏陀の教えは、そういう状態の中で、師匠と弟子によって、受継がれ、伝えられていった。
伝言ゲームである。

もし、誰かが、一度間違うと、そのまま、次に伝えられる。
誤りだと、気づかないままである。

丸ごと暗記しようとする、弟子たちの、緊張感は、堪らないものだったと、察する。

更に、釈迦仏陀が、来ていると、知れ渡ると、何日も、歩いて、釈迦仏陀の元に、話を聞きに来る。
一度聞いた教えを、一生かけて、咀嚼した人もいるだろう。

何度も、釈迦仏陀の言葉を、反芻するうちに、何事かに、気づくのである。その、気づきを、悟りというなら、理解する。
そして、それは、その人だけのものである。
悟りは、その人による。

現代は、文字も、映像も、ありとあらゆるものが、保存できる。
当時のことを、想像するのは、至難の業である。

更に、多くの情報に、晒されて、我を、見失うこともある。
しかし、そこに、最初で、最後だという、危機感はない。
いつかと、思いつつ、人生を過ごす人もいる。

情報の価値判断をするのは、誰でもではない、私である。

文字に記録することが、できるようになって、私は、聞いたと、経典を書くようになる。

ここで、重大なことは、それを、書くという人の行為である。
書くという、行為には、作為が生ずる。
更に、である。書かれたものを、どのように受け入れるかということでも、その言葉は、分離する。

文明は、進化したと、判断する場合と、堕落したと、判断する場合がある。

耳で聞いた言葉を、反芻して、我が物とすることが、それを、書くということは、一つの堕落である。

記録されたものだけが、正しいと言う、恐ろしい、独善にも、陥る。

書かれたものに、釈迦仏陀の、息遣いが、書かれることは、ない。

更に、書かれたものを、解釈するという、堕落が生まれる。
その、堕落が、論争を生む。
釈迦仏陀は、自分の言葉で、人が、論争するなどとは、考えてもいなかったであろう。
釈迦仏陀の言葉は、釈迦仏陀、生存によって、保たれ、その、寂滅によって、終わった。

初期仏典でさえも、釈迦仏陀の言葉の、切れ端である。
寝惚けたような、言葉の羅列が、続く。
そして、繰り返しである。
それは、伝えた者たちが、繰り返し、反芻したからである。

暗唱するために、唱えるとい行為が、生まれる。

大乗仏典に至ると、読経するという、行為自体が、信仰行為となるという、堕落である。
言葉にして、観念にするという行為は、釈迦仏陀の、教えと、真っ向から、対立する。

釈迦仏陀は、行為することを、伝えたのである。
人は、行為によって、成るものに成ると語った。

文字にせよとは、言わない。

修行者の、行為によって、釈迦仏陀の教えが、込められる。
つまり、行為、所作である。

理屈は、無い。
その行為、所作に、込められる、釈迦仏陀の教えなのである。

それを、小乗として、差別する、大乗の、大きな誤りは、甚だしい。

日本の伝統である、神道、この場合は、古神道であるが、所作しかない。
行為、所作によってでなければ、その奥の心が、解らない。
しかし、理屈を、好む者たち、所作の、煩雑さを嫌い、言葉を、欲して、神道には、教義が無い云々という。

伝統には、教祖も、教義も無い。
あるはずがない。
伝統なのである。

村祭りで、盆踊りをする。
意味は無い。
しかし、それを、始めた先祖たちには、深い意味があった。
なき先祖たちと、一緒に踊るというのである。
亡き人の霊を、呼んで、共に、踊って過ごすという。
それを、供養という言葉で、表すと、堕落する。

行為のみで、その意味を成しているという、伝統というものも、大切さをこそ、伝えて知らせるべきなのである。

様々な、民族の儀式に、長年に渡り、培ってきた、先祖たちの深い思いを、観る。

そこに、余計な言葉は、無い。
言葉で、語り尽くすという、宗教というものは、皆々、嘘である。

行為によってでなければ、その心は、表せない、知ることはない。

盆踊りに、参加してみて、はじめて、解ることがある。
見ていては、解らない。
見よう見まねで、子供たちが、踊りを覚えて、参加するようになり、先祖の思いを、感得する。
そこに、言葉は、無い。
ある訳が無い。

行為の中に込められた秘密があるのである。

拍手を打ち、深く礼をする。という、行為の中に、自然に対する畏敬の思いを、起こし、更に、その自然に隠れた先祖たちに、対するという、心である。

神とか、仏という、観念によって、成り立った神や仏ではない。

深く感じ入るものに、対する所作、行為によってでしか、解らないのであると、先祖たちは、気づいていた。

日拝という、太陽を拝する行為に、意味を、云々と、つけなかった。
誠のものには、言葉を使用してはいけないと、心得ていた。

夜の闇の中で、朝の太陽の光は、そのまま、命の元だった。
それを、理屈なく、そのまま、拝する。
なんと、見事な行為、所作であろう。

言葉は、行為を、補足するために、最低限使用されるものである。

言葉巧みな者を、注意して見なければいけない。
大半が嘘である。
いや、何一つ、誠が無い。

誠は、行為によって、成就する。

まこと、まアこオとオ、とは、真ん中の事である。
真事である。
しかし、しんじつと、読むと、誤る。

真実と読めば、それだけで、しんじつというものが、解ったと、錯覚する。
太陽を拝して、はじめて、まこと、ということが、解る、感じることが、できるのである。


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2008年12月19日

神仏は妄想である 184

法華経に、限らず、鎌倉仏教、つまり、日本の新興仏教の始祖たちが、言う、兎に角信じること、という、呆れた、自己放棄、それを、禅では、放下、ほうげ、ともいう、姿勢を、説くのである。

今、ランダムに、本棚に手を伸ばして、創価学会の法華経の解説という本の、箇所を、読む。

諸仏の智慧が南無妙法蓮華経の智慧なら、その智慧に入る門はまさに信心以外にありません。南無妙法蓮華経の智慧を自分のものとするには「以心代慧」「以信得入」といわれるように、自己の浅はかな見識や智慧を捨てて、大聖人の御図顕された御本尊を信ずる以外にないのです。そして、この「信じる」ということがまさに難解難入なのです。

難解難入、なんげなんにゅう、である。
非常に難しいというのである。
信じなければ、智慧を得るのは、難しいというのである。
そして、信じることが、難しい。一体、信じるということを、何と心得ているのだろうか。

この、蒙昧は、計り知れない。
信じてしまえば、また、信じさせれば、後は、簡単に、騙せる。
どんな、無理難題も、信じた者は、行為する。
その一つが、金集めである。

浄土宗、浄土真宗、曹洞宗、日蓮宗などなど、その信徒を見れば、寺に言われた通りに、金を出す。出さない信徒は、除外される。

地獄の沙汰も金次第という、言葉があるが、あれは、寺のことを、言ったものである。
金を出さなければ、救いもないのである。

その証拠に、戒名なる、実に不思議な、金集めの方法がある。
全く、意味は無い。

私は、戒名についての、資料を徹底的に調べた、また、それを、肯定する者の、本も読んでみた。
全く、こじ付け、妄想の、様々である。

釈迦仏陀は、一切、そのようなことを、言わない。
まして、在家に対して、仏弟子に、云々などとは、言わない。
呆れて、物も言うことが、できないのである。

浄土宗、浄土真宗は、死後に、阿弥陀の世界に行きます。それで、救われますというのが、前提で、戒名なる物を、つける。
死後、どこに行ったのかは、誰も解らない。特に、坊主は、解らない。
何せ、その宗祖も、霊界の何処にいるのか、解らないという、様、ざまである。

勿論、霊界に、阿弥陀の世界、極楽などという、妄想の観念の世界は、無い。ある訳が無い。

霊界の相は、百人百様である。

さて、続ける。

信ずることができればそのまま智慧に代わるにもかかわらず、それが人間、とくに現代人にはなかなかできないのです。なかでも二乗、現在でいえば学者、評論家、芸術家などの知識階層は最も「信ずる」ことのむずかしい階層です。

どうであろうか、この、独断と、偏見、そして、独善の有様。
平然として、このように書けるという、それこそ、難しい階層であろう。
信じて、救われない階層なのである。

信ずることができれば、そのまま智慧に代わる・・・
誠、救いようがないというのは、このことである。
信ずれば、それが、智慧に代わる、だと。
つまり、思い込めば、それが、智慧だというのである。
アホも、ここ、ここに至ると、手がつけられないのである。

さらに、
それは、自己の習得した学問的な知識(声聞)に固執し、また社会や人生に対する自分なりの直感的な悟り(縁覚)を絶対のものとし、それを信じているからです。さらに、人間の知的活動には、それがひとたび開始されると、つぎからつぎへと展開して止まることを知らず、ついには知的活動を生み出した当の主体(生命)を遠く離れて、おおよそ主体とは関係ない孤立したものになるという恐ろしさをはらんでいます。そこからはみずみずしい生命の躍動は発揮されず、社会や他人に対する人間的な温かい関心も生まれるはずがありません。

どうであろうか、この蒙昧を。

これは、全く逆であろう。
主体を、信仰に明け渡して、それで、主体、つまり生命が、躍動するものだろうか。
信仰により、単に、催眠術に陥るということを知らない、暴論である。

彼らは、人間的な、温かみを持っているのか。
信徒同士、更には、信徒にすべく付き合いのある人には、温かいが、敵に対しては、冷酷無残、更には、激しい迫害をする。

彼らが、大聖人という、日蓮の言葉である。
いかなる大善をつくり法華経を千万部読み書写し一年三千の観道を得たる人なりとも法華経の敵をだにも・せめざれば得道ありがたし
というのである。

法華経の敵を、攻め抜かなければ、得道、仏の得を得られないのである。

人間的な、温かみがあるのは、知的活動を続けて、その人間としての、儚さと、小さき者であることを知る、人間の知性であり、理性であり、感性である。

どこに、みずみずしい生命の躍動が、信仰から、発せられるのか。
勘違いの、躍動であり、妄想、自己暗示、自己催眠の、躁的躍動であろう。

勿論、私は、それを、否定するものではない。
貧しく、日々の生活に追われて、息のつく暇もない生活をしている者が、教会のミサに出て、神の、主イエスの、信仰に満ちて、神に愛されている私という、勘違いを、信じ込んで、生きられるならば、何も、言うべきことはない。

その、知能で、やっとこさっとこ、生きられるのも、信仰ゆえである。

私の、祖母も、阿弥陀さんのところに、行くことが、救いだった。
それを、私は、笑わない。

宗教ではなくても、人は、何かを心に抱くのである。
心の、置き所というものを、誰もが持つ。

更に、続ける。
本当の知識階層とは、逆説めいていますが、人間の知的活動、その結果としての知識の累積に対する空しさを知り、人間の力を越えたより大なる実相への畏敬の念を失わない人といえるでしょう。つまり、時間的には無始無終、空間的には宇宙大の森羅万象を貫く根底の法理を知るための方便として学問や芸術を位置づけられる人こそ真の二乗といえるのです。
もっとも、究極的には南無妙法蓮華経を信ずる以外に真の二乗はありえないわけですが、声聞・縁覚階層に対する確固たる眼をもってもらいたいがゆえにあえて述べるのです。

日蓮が、仏教というものを、知らないという、証明は、幾つもあるが、題目という、御本尊を、受持し、題目を唱える以外に、仏になる道は、無いと、断定したことは、余りにも、愚かであり、情けないのである。
それを、教学として、学ぶという、愚行を繰り返す、諸々の、お馬鹿たちである。

仏教としても、間違いが、多すぎる。
あれ程、凄まじく、仏の教えを求めたら、通常だと、天竺に向かうはずである。何故、行かなかったのか。
日蓮は、何故、天竺を目指さなかったのか。
それを、解明すれば、彼の、誤りが解る。

上記、結局、持ち出すのは、宇宙大の森羅万象を貫く、根底の法理という。
根底の、法理などということばを、どうして口に出せるのか。
更に、実相という言葉である。

どこに、何の根拠があるのか。
何も無い。
ただ、信じることだというのである。

日蓮は、折伏という行為を主にしたが、誰も相手にならないのである。
自己陶酔、強迫的人格障害である。

気違いに、誰も、手出しは、出来ない。
それを、受継ぐ、日蓮宗その他、諸々である。

真っ当な感覚を、持つものは、そこに近づかない。
知能レベルの低い者、それらの、小難しい言葉の数々に、何やら、知った気になるという、お粗末さである。

文盲多く、知的レベルの低い鎌倉時代だからこそ、その時代性だからこそ、通用したのであり、この時代では、錯誤としか、言いようが無い。

法然、親鸞の、説教も、皆々、知的レベルが低く、あの、寝惚けたような、お話を、聞けたのである。

遠いところに、阿弥陀様という、仏様がいらしてねー
そこに、行くためには、ねー
念仏をねー
一度だけでも、唱えるとねー
阿弥陀様の、極楽にねー
行けるんだよー
である。

それを、小説を書けなくなった、有名作家などが、後押しして、何やら、命に別状の無いことを、書き付けて、その本が売れているというから、益々、救いようが無い。


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2008年12月20日

神仏は妄想である 187

大乗仏典の、法華経を見ている。

ここで、それを、仏教であるという人には、何も言うことが無い。しかし、初期、釈迦仏陀の、仏教というものを、見ることで、釈迦仏陀の、教えというものを、知りたいと思う人に、インド思想史から、見た、初期仏教というものを、紹介する。

仏教の実践的認識の最初に当面した問題は、人生の苦しみということであった。人間はどこにあっても、またいかなるものにたよっても、苦しみから脱することはできない。
中村元

生も苦しみ、老いも苦しみ、病も苦しみ、愛せざるものに逢うことは、苦しみ。愛するものに、離れることも、苦しみ。欲するものを、得ざることも、苦しみである。
五つの執着による、苦しみであり、苦しみとは、自己の欲するがままにならないこと、なのである。

それでは、それらが、何故、苦しみなのか。
それは、すべてが、無常であるからだと、考える。

上記、これも、観念となる。

無常だから、苦しいのである。
何故、仏陀は、そのように考えたのか。
それは、一つの、考え方である。

無常だから、楽しいのであると、考えることも、できたはずである。
ここに、仏陀の、病理がある。

青年、釈迦仏陀は、抑鬱症であったと、判断する人は少ない。
釈迦仏陀を、人間から遠い存在、更に、神格化するほどまで、高めたものは、何かということである。

鬱病の人は、すべてが、悲しみに彩られる。
瑞々しい、生命感覚を、持てないのである。
そして、それは、病である。

十歳くらいまで、子供は、いつも、シータ波という、脳波を出しているから、いつも、楽しく、わくわくして、生きている。
それが、成長するにつれて、シータ波が、後退して、脳に、複雑なシナップスが、現れてくる。それは、思考によってである。

その、思考は、言葉によってなる。

進化の過程で、子供のシータ波が、後退するようになっていったとすると、本来は、古代の人は、シータ波によって、生きていたと、考えられる。
それは、いつも前向きに生きるということである。

毎日毎日が、新しい発見であり、楽しくてしょうがないという、生命感覚に溢れていた。

しかし、脳が、複雑化するにつれて、人間は、抑鬱という脳の状態を、現してきた。
物を考える力が、そうさせたのか。
思考することで、人は、その精神に、翳りを帯びた。

宗教というものを、見詰めていると、次第に、人間の根本の心理状態というものを、見詰めるようになる。
本来は、何も意味の無いことであるが、そこに意味を、見出そうとするのである。

釈迦仏陀の憂鬱も、それであった。
一体、生きるとは、人生とは、何かである。

時代は、それから、2500年を経て、更に、その欲求が強くなった。
物事のカラクリと、物事の意味づけを、知りたい、知らなければ、生きていくことが、難しい。
更に、人間を超えたモノという、存在を、創作して、更に、理屈を、作り上げて、せめても、抑鬱の人生に、幻想でも、妄想でも、それに、託して生きたいと思うようになる。

本来は、意味の無いことにも、あたかも、意味あるが如くに、意味を見出す。

それは、人間の大脳化ゆえのことである。

仏陀は、そこからの、安心を得るには、何にも捕らわれないこと、執着しないことであると、説いた。
執着しなければ、つまり、忘れて生きれば、いいのである。
それを、説明するために、精神構造なども、分析して、受、想、行、識、などと想定し、諸行無常と、判断した。

しかし、それは、釈迦仏陀に、必要だったことであり、他の人には、必要ないことかもしれない。
この世の、相というものがあるならば、それは、百人百様に、見えるし、解釈もできる。

更に、霊能という、能力でさえも、百人百様の、様がある。

物質的なものは、色、それは、無常である。無常であるものは、苦である。苦であるものは、非我である。非我なるものは、我が物ではない。これは、我がアートマンではない。
と、仏陀が、考えた。

それは、たった一つの、考え方である。

だが、アートマン、我を否定するのではない。倫理的行動のよりどころとしての、アートマン、我というものを、承認していた。
故に、仏陀の、臨終の言葉は、
自己、アートマンに頼れ。法に頼れ。自己を燈明とせよ。法を燈明とせよ。
である。

人間の理法を実践するところに、真の自己が具現されると、考えたのである。

実に、明確で、単純素朴な、実践的生き方を、説いたといえる。
それに、後世の人々が、理屈をつけ始めた。
仏典というものが、出来上がると、更に、その仏典を解釈する、暇潰しが、行われた。更に、日本では、鎌倉時代に、個人の妄想により、甚だしく、逸脱した、仏陀の教え解釈が、拡大した。

そして、それが、組織になると、もう、手がつけられないのである。

弱さを知る人間は、弱さのままでいいとは、考えずに、妄想でも、何でも、力強く生きたいと、欲するべく、集団、そして、宗派なるものが、登場する。

これは、釈迦仏陀をはじめとする、思考の、自己の思考を試み者たちからの、堕落である。

それが、信じるという行為である。
信じるということは、思考停止状態を作る。

それらは、教えられた、教義を、人に説くのである。
信じているからという、理由だけである。
自分が、考えて、出したものではない。
ただ、信じただけである。

これは、迷いである。

信じるという行為が、迷いであるということ、明確である。
それは、実践し、自分が、考えたことではない。

その、教えの中に、我を、嵌めて、嵌めこんで、我というものの、意識を、失わせての、自己陶酔という、自己不在の、行為だからだ。

様々な、宗教の人の話を、聞かされると、そこには、本人の意思も、思考も、思索も無い。ただ、教えられたことを、繰り返すのみであり、更に、それを、信じない者は、悪であると、考えるのである。

これで、学んだ、言葉の数々を持って、我は、知っていると、完全に狂いを、演じる。

大乗仏教で、教えるところのもの、更に、日本の新興仏教の開祖たちの、考え方をもって、それを、ただ、信じているというだけで、堂々と、論じる様は、完全に迷いである。

何故なら、何一つとして、言葉によって、明らかにされるものは無いからである。
言葉は、仏教的言い方をすると、方便である。
もっと、極端な言い方をすれば、それらは、嘘なのである。

嘘も、方便も嘘である。

それでは、何か本当だろうか。
それは、無意味であるということだけだ。
何一つとして、確定した意味などというものは、この世には無い。
天地が、滅びれば、すべてが、滅びるに決まっている。
思索の足しにするという意味で、宗教は、存在する。
信じるモノではない。


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2008年12月21日

神仏は妄想である 186

五濁の悪世 ごじょくのあくせ

方便品第二の終わりに、庭野は、五濁の悪世について書いている。

功濁というのは、時代が長くたったために起こってくる悪です。世の中も、同じ状態が長く続くと動脈硬化を起こしていろいろな弊害が起こる。だから、ときどき新鮮な空気を吸い込まなければならないのです。

こんな寝惚けたことを、平然として言う。時代は、いつも新鮮である。
そして、いつも、激動である。
動脈硬化などを、起こしている暇はない。

つまり、一つの物の見方である。そのように、見るということである。
まして、悪世、この世は、悪い世の中だという、観念を持つこと自体が、病気である。
後で、法華経の教えは、悟ればこの身がすなわち仏であり、この世がすなわち寂光土であるという。つまり、この世が、極楽になるという、言い方をする。
極楽は、我々の日常生活にあるのだと言う。
こうして、宗教家というものは、幻を語り、信者から、搾取する。

第二の煩悩濁というのは、字のとおり、煩悩(迷い)のために人間がみんなつまらない行いをするようになること。犯罪の横行はこのゆえです。

この人、何を言っているのだろうか。
犯罪の横行など、いつの時代も、あった。
今にはじまったことではない。

一番、つまらない、行為を繰り返しているのは、自分たちであろう。
自然に、人を裁いていることに、気づかないという、愚かさである。

第三の衆生濁というのは、人びとの性質が違うところから起こってくる争いです。もともとはひとつの生命で貫かれているということを知らず、表面の相違にとらわれて、それぞれが自我を主張するために、対立が起こり、家庭の中や社会が不和になる状態です。

これ程、愚かな、考え方もない。

性質が、違うということが、個性であり、それが楽しいのである。
意見の相違を、話し合いによって、解決するからこそ、人間であることの、醍醐味がある。

対立の中世界など、進歩も、発展もない。

いやいや、そんなことではなく、もっと、根本的な、生命原理であるというだろう。
法華経を信ずる者、その生命原理とやらを、知っていると、思い込むから、手がつけられない。
生命原理は、法華経など、いらないと、知っている。

第四の見濁というのは、ものの見かたがそれぞれちがうために起こる世の中の乱れです。みんな自己本位の狭いものの見かたをすめたに、くいちがいが起こってくるのであって、みんなが仏の教えのような正しいものの見かたをするようになれば、自然と争いのない平和な世界ができるはずです。

ここまでくると、アホとしか、いいようがない。

物の見方が、何故、自己本位と、決め付けられるのか。
皆が、仏の教えの正しい者の見方をすること。それは、全体主義であろう。
独裁政治と同じようなことを言う。
更に、争いのない、平和な世界が、出来ると、これまた、寝惚けたことをいう。
日本だから、このアホ振りも、通用する。

また、知能程度の低い人には、通用するが、このような、解釈に、頷いている者が、何人集っても、世界が、平和になることは、無い。

そこまで、言うならば、仏教発祥の地、インドに行き、それを、高々と掲げてみるがいい。
インドの仏教徒は、カーストの外にあり、つまり、カーストにも属さずに、最下層の貧民として、生きている事実である。

アホ、馬鹿も、極まれりである。
日本という、安全地帯にいての、この解釈、ほとほと、呆れる。
確か、この人は、世界宗教者会議というものを、提案したはずである。
何の役にも立たない、会議である。

宗教者が、手を結んで、何か一つでも、有意義なことが、出来たか。
そんなことは、一切無い。
この、平和ボケは、この人の、ボケ具合であろう。

最後の、命濁には、呆れて言葉も無い。

第五の命濁というのは、人間の命が短くなるために、人びとの考えることなすことが、目前の利益や、すぐの効果の現れるようなことばかりを追って、コセコセしたものになり、そのために世の中にみにくいゴタゴタが絶えず、ゆったりしたところのない状態です。これも、みんなが人間の永遠の生命ということに目を覚ましさえすれば、必ず救われることなのです。

人間の命は、長くなって、久しい。
目先の利益や、すぐに効果の現れるようなことばかりを追って、というが、それを、しているのは、その人の団体であろう。
現世利益を、求める人の群れ。
信仰を得てから、このように、変わりました。奇蹟が、起きましたという、布教雑誌を出して、まさに、目先の利益、すぐに効果の現れることを、求める人の群れである。

解りやすいということでは、評価するが、書いていることが、大嘘である。

死んでからでないと極楽へは行けないのではない、仏はわれわれの心の中にある。極楽はわれわれの日常生活の中にあるという、教えが、法華経の教えと言う。

念仏は、死後、極楽へ行くための、方法であるという、念仏宗を、暗に批判している。と共に、法華経の、正しさを説いているように、見受けられるが、逆効果である。

こんな、おめでたい、現実遊離した、教えが、正しいも何も無い。

完全悟る
大きな歓喜
自分も仏に成る

このように、説いた、この人は、仏になり、極楽に行ったのでしょうか。
霊界には、極楽という、次元も、質もありませんが・・・

この人は、法華経解釈によって、益々、妄想性を甚だしくして、自分が、何をやっているのか、解らなくなったようである。
毎日が、妄想の中で暮らせたという、幸せである。

会長先生と、信者に尊敬され、
死後は、開祖として、讃えられる。

ヒステリーの開祖の、霊友会から、野心を持って出て、教団を創り、開祖になり、と、最も、世俗的生き方をした。
世俗にまみれたのである。

その証拠が、本部の建物である。

人を騙すには、目に見える物が、必要である。
教えより、本部伽藍を建てて、信者を、撹乱させた、罪は、重い。

仏に代わって、私が、判定する。
未だに、三次元と四次元の隙間で、法華経を論じているのが、関の山である。
その、蒙昧に、気づいていないという、悲惨である。

また、日蓮を通しての、法華経解釈であるから、その蒙昧は、甚だしい。
何せ、六道から、声聞界、縁覚界、菩薩界の修業も、題目を唱えることで、超えてしまい、仏界に至ると、信じ込んだのである。

インスタントの、仏界に至る方法であるが、全く、誤りである。

要するに、日蓮自体が、仏教、釈迦仏陀の、教えを知らないのである。

自縛という、境地から、逃れられなかった、日蓮を見習えば、皆、この人のように、独善と、世の中から、遊離したことを、平然として、書き連ねるのである。

チベット民族や、ミャンマーの僧侶たちが、殺されても、平然として、何の行動も、起こさなかった。
小乗は、滅びて善しなのであろう。

それで、仏の命の、教えなどと、ほざいている様、あはれ、である。
身の危険の無い、日本では、どんな妄想を語っても、安全である。
あはれ、である。

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2008年12月22日

神仏は妄想である 188

原始仏教の団体を、サンガと称する。
サンガとは、政治的には、共和制体制であり、経済的には、組合である。

出家した、男性は、比丘、女性は、比丘尼、在家信者の男性は、優婆塞、うばそく、女性は、優婆夷、うばいと、称した。
勿論、中心は、出家者である。

ゴータマは、出家の清い自由な生活を賛美した。
在家の愛欲の生活から、離れ、独身となり、人里はなれた、大樹の下、塚の間に坐し、または、山々の洞窟に住み、静かに禅定を楽しむ。
衣服として、三衣、さんね、をまとうだけである。
飲食物、衣服を獲得して、貯蔵することを、禁じた。執着を起こすことのないようにである。

他者に対する態度は、尊重する、軽視しない、争わない、怨まない。

実にこの世において怨みにむくいるに怨みをもってしたならば、ついに怨みのやむことなし。怨みをすててこそやむ。これは永遠不変の法である。

一切の衆生に対して、慈悲の行為を、強調した。

一切の生きとし生けるものに対しても無量の慈しみのこころを起こすべし。

こういう修行を実践した修行僧は煩悩を滅ぼしつくし、憂をはなれ、心は静寂に帰し、この世をも来世をも願うことがない。
中村元

この世も、来世も、願うことなしというのである。
要するに、生まれてこなくても、いいのである。
生まれてきたことが、苦しみの元なのである。

人々は、互いに、助け合って生きるべきである。

曠野の旅の道連れのごとく、とぼしきなかよりわかち与うる人は、死せるもののあいだにあって滅びず。これは永遠の法である。

更に、階級的区別に反対し、人間平等を掲げる。

世に名とし姓として挙げられるものは、ただことばにすぎず

仏教団体は、共和制政治を、模したものであった。

史実としての、仏教教団の、あり様である。

これで、解る通り、生き方指導である。
そこには、妄想は無い。

更に、それは、ゴータマという人間にとって、必要な、生き方であったということである。

愛欲の生活から、離れない生き方もある。
インドでは、愛欲の充実を、計る、カーマスートラ、ラティマンジャリー、アナンガランガ、ラティラハスヤという、四つの、代表的な、性愛の手引書がある。

愛欲から離れる生活を、清い生活であるとは、一つの観念である。
性愛という、生き方もある。

ただし、それにも、捕らわれないことだという、説が、出るのだが。
要するに、性愛を、徹底的に楽しむが、それにも、捕らわれないのである。

20世紀にも、インドから、性愛を元にした、悟りの教えが、ピッピーを通して、アメリカ、そして世界に広がったことがある。
勿論、それ以前からも、ある。

煩悩即菩提という、へんてこりんな言葉遊びで、性愛肯定する、仏典の創作もある。

理趣経という、真言密教の、経典にも、ある。

初期、仏教の、有様を、見れば、ゴータマ・ブッダという、人間が観た、人生が、そのようであったということである。

超越した何者かを、置くのではなく、己の心に、焦点をあてて、心の平安を、説いたのである。
その言葉の多くは、インドの言葉の世界による。

彼らが、拝んだものは、仏、法、僧、である。
仏になった人、そして、法という、ダルマ、普遍的事実、そして、修行する僧である。

インド思想史を、俯瞰しつつ、法華経、更に、大乗仏典というものを、見詰めてゆくと、それらが、歴史的事実から、離れたものではないということが、分かる。
つまり、人間の生活の、文化的水準に合わせ、更に、複雑な言葉の、成り立ちにより、言語化されてゆくという、ゴータマの考え方である。

それが、記録されるという、自体になり、更に、教えが、飛躍したものになってゆくのである。

人間の創造力であり、妄想力である。

自然の中で生きていた頃の、人間と違う有様が、見えてくる。
それは、都市化である。
都市化が、人間の精神を、複雑なものに、仕立て上げる。

自然を、凌駕したかに見える時代に入ると、俄然、人間の創造力は、妄想力は、威力を発揮する。

イメージを、言語化することで、無いものが、在るもののごとくに、なってゆくのである。

精神を作るものは、言葉である。
他人に話せば、語りになり、己の中で、行えば、思考、思索になる。
言葉の世界のあり様が、精神のあり様となる。

複雑な精神は、複雑な言葉を生む。

更に、言葉が、独り歩きして、言葉による、教化がはじまる。それが、宗教である。
人間の精神活動の一つである。
すべてではない。

何にも、捕らわれてはいけないというならば、それらの言葉にも、捕らわれてはならないのである。

実は、人生を苦、として観た仏陀は、人間の大脳化、大脳の進化によるものだとは、気づかなかった。

大脳の進化が、苦と感じる根本だということである。
しかし、進化を否定することは、出来ない。
後戻り出来ないほど、人間の脳は、進化したのである。

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2008年12月23日

神仏は妄想である 189

釈尊が阿含経などの小乗教において強調したことは、人間の苦悩の原因はもろもろの執着にあるということであり、それゆえ苦悩を脱却するには、いっさいの執着を断ち切る以外にはないということでした。
その根拠として、諸行無常、諸法無我などの法を説いたのです。諸行無常とは、すべのものは時間の経過とともに徐々に変化し、いつまでもそのまま止まっていないという法であり、諸法無我とはすべてのものは相互に関係しあって存在しているゆえに、人間の目に確かなものとして映るものはすべて仮の存在にすぎないことを説いた法です。
創価学会 妙法蓮華経方便品第二の解説

日蓮宗、及び日蓮正宗も、同じである。

しかしよく考えると、人間からいっさいの執着がなくなったら、はたして人間らしい味のある人生を送ることができるでしょうか。生活に、仕事に、家庭に、趣味に執着があればこそ人は行き続けることができるのです。
そのように考えれば、釈尊の阿含経の教えは、一歩間違えば人間否定、人間の生きる意味の抹殺にもなりかねません。
と、続ける。

更に、
現実に、阿含経の教えをそのまま実践した声聞、縁覚の二乗たちは、人里離れた人間味のまったくない山林で二百五十戒、五百戒などと呼吸ひとつ満足にできない戒律を設けて、自身を束縛したものですから、悟りはおろか、みな、枯木のようにやせ衰え、辛うじて己が生命を維持するに精一杯の状態であったのです。それは二乗たちが、阿含経を釈尊の方便の教えであるとこを理解できず、真実の教えと錯覚したからです。

二乗というのは、小乗である。
大乗仏典は、徹底的に、二乗、つまり、小乗の人々を馬鹿にして、更に、貶めて、経典を、創作した。

真意は一乗に導くところにあったことは、方便品の説法で示されるのです。

つまり、一乗とは、大乗である。
説法が示されるというが、釈尊、釈迦仏陀が、説法したのではない。
作者が、そのように、創作したのである。

後で、大乗仏典の、歴史的成立過程を見る。

さて、この本文を、私たちの立場で読むと、まず「吾成仏してより巳来」の「吾」は、いうまでもなく日蓮大聖人、すなわち人法一箇の御本尊をさし、「巳来」とは久遠元初巳来、すなわち無始無終をさすのです。

したがって、本文の意味を文底から述べると、末法の御本仏日蓮大聖人は、無始無終の久遠元初から、種々の因縁、種々の比喩をもって広く言教を演べ、無数の方便を説いてきたのです。

更に、進めて、読むと、結果的に、
ここに、釈尊の仏法と日蓮大聖人の仏法との根本的違いがあるのです。
と、なる。

日蓮宗系は、皆、そのように考えるのである。
すべて、大乗仏典からの、焼き写しであり、勝手な解釈、勝手な思い込みである。

日蓮が、辿り付いた地点は、日蓮の、強迫性人格障害、妄想症による、苦悩であり、それを、何とか、法華経から、引き出して、文底というような、創作を行わなければならなかったことである。

弟子たちが、どんどんと、御本尊を布教し、更に、寺、伽藍を創り、新興宗教系は、建物を創り続けたのも、執着を良く生かしたのであろう。
その凄まじい執着は、甚だしいものである。
信徒、会員から、金を引き上げて、組織を拡大し、更に、金を引き上げて、膨らませているのである。

釈迦仏陀の、仏法と、日蓮の仏法の、根本的違いであるという、妄語には、呆れる。

大乗教は、大半が、日本にしか残っていない。
その、日本仏教の、僧たちの、生き方と、それでは、小乗が伝えられた、ビルマ、タイ、ラオス、ベトナム、台湾などの、仏教の僧たちと、比べてみるとよい。
どちらが、釈迦仏陀の、教えを実行、実践しているかである。

堕落は、共にあるが、小乗の僧たちの方が、実に真っ当である。
つまり、釈迦仏陀の仏法が、生きている。
大乗の、日本仏教は、世俗まみれである。

更に、である、日本仏教の僧たちは、職業としての、僧職であり、宗教ではない。宗教的でもない。
葬式を主にする、職業である。

釈迦仏陀の、出家というものからは、遥かに遠い。

更に、驚くべきことは、知見波羅密という、迷いの此岸から、さとりの彼岸に到達した状態を意味する言葉、更に、そのための、修行法である、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の、六つの六波羅密というものを、題目、御本尊のみで、クリアーできると、教えた、日蓮の狂いは、計り知れない。

日蓮のことを、如来として、認識するという、仰天であるから、手がつけられないのである。

真の方便の智慧と、本仏としての知見波羅密とをことごとく具足しているのが、日蓮であるというのだ。

更に、大きな誤りは、大乗仏典の、釈尊を持ち出して、釈尊の説法であるという、甚だしい勘違いである。
鎌倉時代ではない。
もう、大乗仏典が、いかにして、書かれたかということが、明確に、解っているのである。

日蓮の、時代ならば、それが、真実であるという、認識だったが、現代、そんな認識は無い。

ハリーポッターと、同じように、創作なのであるという、事実である。

釈迦仏陀は、人は行為によって、成るといった。
見て見よ、日本の仏教愛好者の、面々の姿を。

江戸三代将軍、家光の政策による、檀家制という、既得権益に、浸り、のうのうとして、仏の教えなるものを、説いているが、一切の行為は無いに、等しい。

人を見たら、奪うことばかりを考えている、僧という存在に、仏の教えというものは、皆無である。

もし、清く正しく、生きている。また、修行を続けて、世のため、人のためにと、思い込んでいる、僧侶がいたならば言う。
世の中の、最低の人間である。

人間の、尊さは、蒔いて、刈り取り、漁をしている人、そして、物を作り出す人である。
そのほかは、在っても無くてもいい。
その下の下に、僧侶というものがある。

つまり、僧侶とは、恥ずかしい存在であるということだ。
しかし、彼らは、恥ずかしいという、感性さえも皆無なのである。つまり、救いようが無い者である。
最も、迷う者、である。

人間は、黙っていても、死ぬ。
宗教の妄想がなくても、死ぬ。
死ねば、霊になる。
ただ、それだけのことである。

存在に、救いなどというものは、無い。
存在していること、それが、救いという言葉を、使いたいのなら、そのように言う。

救いようのない者に、救われたと信じる信者は、本当に、哀れである。
これを、あはれ、という。

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