2008年10月10日

神仏は妄想である 169

仏というものは、いいかえれば「宇宙(人間をひっくるめた)の真理」です。太陽、星、人間、動物および植物、その他あらゆるものを存在させ、動かし、生かしている根本原理、あるいは宇宙の根本の力といってもいいでしょう。ですから、この宇宙ができてからこのかた、ずっと仏は宇宙のどこにも満ち満ちておられるわけです。そういう意味の仏を「本仏」といいます。

いいかえれば、「本仏」は「宇宙の真理」にほかならないのですから、だれであろうと、なんであろうと、スイッチを入れて、自分の生きかたの波長を「宇宙の真理」の波長に合わせさえすれば、たちまちそこに「仏」があらわれるのです。すなわち、わたしどもの心や体をおおっていた暗黒が消え去って、生き生きとした本来の生命の光が内から輝きだしてくるわけです。そうならないはずは絶対にありません。そして、それがほんとうの救いなのです。
庭野


何の根拠の無いことを、ここまで言えるという、狂いである。
心や体をおおっている暗黒という、観念。そして、生き生きとした本来の生命という、観念。さらに、絶対にありません、という観念。
極めつけは、それがほんとうの救いなのです、と、言い切る、恐るべき蒙昧の観念である。
それが、皆、法華経によるということ、である。

本当の救いと、言えるほどの、信念という、妄想の観念を、法華経から得たというのである。

この人は、何が、それほど、恐ろしかったのか。
自分が、死ぬことが、恐ろしかったのか。

膨大な大乗の、理屈は、ただ、死を恐れたゆえに、生まれたものか。


序品
オーン、すべての仏陀と菩薩たちに敬礼したてまつる。すべての如来、独覚、聖なる声聞たちに、また過去、未来、現在の菩薩たちに敬礼したてまつる。
広大な教えの経の王であり、最高の真実の道理にはいるための教えであり、大きな道であるところの「正しい教えの白蓮」を人々のために私は語ろう。
大乗経典 法華経

そして、世尊が、霊鷲山で、精舎にいた時に、説法された様子が書かれている。
はじまりは、わたくしは、このように聞いた、という、書き出しである。

釈迦の直接の弟子から、小乗で、阿羅漢となった、まだ菩薩に至らない境地のもの。大比丘衆、一万二千人がいたという。
さらに、大人大士、つまり、大きな志を持った人。天、竜、夜叉、その他の、鬼神や、動物もいる。
天とは、天上界にいるもの。竜は、海の底にいるもの。夜叉とは、空中を飛んでくるもの。人間に害を与えるといわれる、鬼神、地を這う虫類まで。

天地万物を、平等に済度するためである。
済度とは、救うということである。

出家者だけではなく、在家の修行者から、国王、王子、家来から、国民まで、ありとあらゆる階層の人が、詰め掛けていたという。


そして、そのときに、世尊の毛の渦から一条の光明が放たれた。その光は東のほうに向かって一万八千の多くの国土に流れ、その光でそれらすべての仏陀の国土―――アヴィーチ大地獄から最高の存在界にいたるまでーーーがはっきりと見え、それらの仏陀の国土にある六種の境涯のなかにいる衆生たちが見えた。
大乗経典

ここでは、仏陀、世尊と呼ばれる人たちが、数多くいるということである。

そして、そこで、最初に口を開いたのが、弥勒大菩薩であるという。
マイトレーヤである。
これが、曲者。全くの架空の存在であるが、仏滅後、この世を救うために、現れるという、弥勒菩薩である。

私は、このように聞いたと言って、壮大な妄想を展開するのである。


仏は、けっして人間だけを悟りに導こうというのではなく、天地の万物すべてを平等に済度しようという広大な慈悲をもっておられるのです。さればこそ、人を食う鬼でさえ、説法の席につらなることが許されているのです。また、他教の神々を排斥することもなさいませんので、みんな仏の話を聞くために集まっています。このことも、たいへん意味深いことです。
庭野

他教の神々とは、神々をも、下に置いたということである。
つまり、仏という地位が、最高位であるということ。

しかし、決して、日本の神と呼ばれる、天照る神や、八百万の神は、いない。

それらが、世尊の足元に、ひれ伏して、帰依の心をあらわし、供養するという。
供養とは、仏に感謝することだと、いう。

大知恵を、得て、すべての物事をはっきりと、見極める力がある、菩薩たちがいる。

この、大というものを、何にでもつける。
大勝利、大成果、大、大、大である。
大知恵とは、知恵と、どのように違うのか。

知恵とは、どのような意味か。
知とは、すべてのものの、違っている点を見分ける力。
恵とは、その違いを知る力であるという。

恵とは、すべてのものに、共通する真理を、見出す力であるという。

そして、それにより、違うものでも、仏性というものを、宿している。つまり、皆々、平等に仏になれるのであるという。

無明や老、病、死などのために苦しみあえいでいるのに対して、「十二因縁」の教えをもって、まるで夕立が暑さに苦しむ人々を生き返らせるように、その苦しみを除いてやる。ここまでが、小乗の教えであって、それから、いよいよ大乗の教えを説くのだとあります。
庭野

小乗は、そこで、止まっている。
次に、大乗の教えを説くというのである。
つまり、大乗こそ、真の教えなのであるという、段取りである。


大乗経典の、大芝居が始まる。

ある人は、小乗は、仏教ではないという。大乗が仏教なのであるという。
勿論、それは、絶対主観である。
更に、である。仏陀も、救えなかった者たちを救うために、この世に生まれてきたと、平然として言う様は、妄想の極みである。

仏教の教えを、端的に言えば、簡単である。
この世に、生まれないことなのである。
生老病死を体験するという、この世に、生まれない。
要するに、転生輪廻を体験しないことが、最高の救いなのである。

だが、この考え方は、何も、仏教のものだけではない。
後で、インド思想を書く時に、取り上げる。

子供が、親に、何故、私を生んだ。
生んでくれとは、頼まなかったと、口答えする様子がある。
その時点で、親子は、地獄である。

命を、大切にしているように言うが、仏教は、絶対生命軽視の思想である。
何度も言うが、生まれたことが、悪いのである。

それは、釈迦仏陀、以前の、バラモン、ヒンドゥーの教えの、継承である。
輪廻しないこと。
それが、最高の救い。

生まれたからこそ、生老病死というもの、体験し、様々な、思いを体験する。
生まれたからこそ、七転八倒して、生きられるのである。

自殺を止める思想は、仏教には、ないが、あるがごとくに言う。
大嘘である。
生きていなければ、いいのである。

ところが、彼らに言わせると、生きていなくても、悟りを得なければならないのであると言う。

悟りというものは、妄想である。
ちなみに、仏教の言う天上界というのは、魔界に他ならない。
と、私も、妄想を、かましてみる。



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2008年10月11日

神仏は妄想である 170

さて、人間は、生まれた人間のことである。
六道輪廻を、生きているという。

六道、六趣ともいう。
それは、六の苦しみであるという。

地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、である。
地獄とは、心が怒る状態。
餓鬼とは、貪り欲張る心の状態。
畜生とは、知恵のない状態。
修羅とは、自分本位に考える、自分に都合よく考える心。
人間とは、それらの、心を持ち、良心によって、それらを、ある程度を抑えることの出来る、心。
天上とは、歓喜の世界。仏の世界ではなく、肉体や、感情の喜びの世界であり、何事かあれば、地獄や、餓鬼の世界に戻るという。

人間の心の中は、それらを、繰り返すというのと、それを、ぐるぐると、回って、生まれ変りを、繰り返しているというのである。

こうして六趣を輪廻している衆生を見たら、菩薩たちは大慈悲の心を起こしてその世界から救い出してやることを志さなければなりません。そのためには、まず一切のものごとを深く知らなければいけないのです。
と、世尊が、言うと、庭野は、書く。

ところが、衆生の性癖にも、欲望にも、かぎりないほどさまざまな種類があり、またさまざまなお願いごとがあるのですから、それに対する説法もかぎりないほどさまざまな説きかたをしなければなりません。説法のしかたが無量だから、したがって教えの内容も無量でなければならないのです。
庭野

その、数限りない教えの元は、唯一つの法から、起こってくるという。
それが、真理である。

真理とは何か。それは、すべてのものの区別を超越した本性(無想)です。あらゆるものは、仏性をもっている点において平等なのです。それこそが、真理なのです。ものごとの実相なのです。菩薩のみなさん、この真実を悟ることによってひとりでに起こってくる慈悲というものは、必ず功徳の明らかなもので、よく衆生の苦しみを抜き、さらに進んで楽を与えるのです。ですから、この「無量義」の法門を学べば、まっすぐに仏の悟りを得ることができるのです。
と、庭野が、訳す。

実に、解りやすく、訳している。

だが、実に、主観的であり、信じる以外に無い。
帰依する以外にない。

六道輪廻を、繰り返すというのは、単なる、観念であろう。
さらに、人間の感情を、悪であると、言い切るのである。

性癖にも、欲望にも、数限りない種類がある。当たり前である。百人百様の人間の様である。
それに対する、説法も、無量であれ。
教えの内容も、無量であれ。

その、元は、唯一つの真理から出る。
真理とは、区別を超越した、本性、無相であるという。

更に、あらゆるものは、仏性をもっている点において、平等だという。

それが、法華経に書かれてあるから、真実であるという。
信じるしかない。

この単純明快な、考え方で、解決する人間の人生ならば、世話は、無い。
そんな、単純なものではない。

彼、世間の保護者は法を説かれたが、それはすぐれた“限りなき説示”(無量義)という経典で、これを名づけて“広大な大乗教”と呼ばれ、それを彼は幾コーティもの生命あるもののために解き明かされた。
大乗仏典 法華経訳

要するに、小乗に対する、大乗の教えの、正当化を測るというものである。

同じ、仏教でも、小乗と、大乗の、戦いのあり様である。
小乗は、不足した教えであり、大乗は、それを、超えてあるものという。

大乗の教えが、出始めた時、様々な議論が起こり、議論された。
忘れてはならないのは、それ以前にあった、インド哲学や、バラモン、ヒンドゥーの、教えである。
その他諸々が、加味されて、議論が起こったのである。

思想としての、仏教が、出来上がりつつあったと、いえる。

兎に角、議論好きの、インド人である。
三蔵法師玄奘が、天竺のナーランダに出掛けた時に、議論の議論を戦い、第一になっている。
議論に負けると、その場を去るという、何とも、へんちくりんな、討論の様である。

宗論を戦わせるという、事態は、日本にもあった。
面白いのは、信長が、キリシタンの司祭と、日蓮宗の僧侶を戦わせて、僧侶が、負けたという話である。

仏の上の、神の存在であるから、負けないだろう。
いやいや、神々は、仏の下である。
それでは、天地創造の云々かんぬんとなると、僧侶は、たじたじする。
仏教では、天地創造に関して、曖昧である。

その、宇宙の真理である、元が仏ならば、天地創造は、いかなるように、行われたのか。
キリシタンは、旧約聖書により、神による、天地創造を、語る。

具体的に、仏教の天地創造は、語られない。

お話を、作った方が勝つのである。
要するに、創作してしまった方が、勝つ。

妄想三昧の者が、勝つのである。
それが、宗教というものである。
更に、法華経に、分け入ってゆく。


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2008年10月12日

神仏は妄想である 171

これで「無量義経」は終わっているのですが、もう一度このお経の要点をひっくるめて申しますと、「すべての法は「無想」というひとつの法から出ている」ということです。人間の命をはじめてとして世の中すべてのものごとは、まことに千差万別で、生じたり、消えたり、移り変わったり、さまざまな状態を現しています。われわれの心は、その差別や変化によってまどわされ、苦しんだり悩んだりするのですが、もしわれわれがものごとの表面に見える差別や変化に目もくれず、その奥底にある「差別を超越した真の姿」を見とおすことができれば、われわれは、普通の社会生活をしていながらも、なにものにもとらわれない自由自在の心境に達することができるというものです。
庭野

この人の、功績は、実に、優しく、解りやすく、説いているということである。評価する。

無想とは、実相である。
実相は、真理である。

この人は、宗教家であるから、なにものにもとらわれない、自由自在の心境に達することが、出来たのであろう。
そう、思うしかない。

このような、解りやすいものを、読んで、解ったと思う、会員がいるのである。
少しばかり、気が休まる程度なのであるが、それを知ることもない。

言葉の観念を知るというだけで、人は、解ったと、錯覚する。
言葉は、魔物である。

実に、宗教の言葉の数々は、そのように、人を観念漬にする。

私も解りやすく言う。
食って、寝る場所の確保で、一日を費やす人に、この言葉の数々に、説得力があるのだろうか。
更に、この教えによって、自由自在の心ではなく、その教えに、雁字搦めになり、他の考え方を、受け入れない、受け付けない人になって、いくことを、知っているのだろうか。

更に、この教えによって、会員からの、布施や、寄付で、あれほどの、大伽藍、本部ビルを建てて、このような、説教をしているというのが、理解できない。

特に、頭の悪い会員であれば、他に対する許容が無いために、とんでもない、議論を人としてしまうのである。
無用な、宗教議論である。

更に、自分と、同じように、会員になることを、勧める。

それ以外の、考え方を知らないから、真理であると、言われると、真理は、一つと、人に強制するのである。頭が弱いからである。

真理が一つなどとは、一体誰が言ったのか。
事実は、一つであり、その解釈が、多数あるということは、理解するのに、真理が一つと言われると、ハイそうですか、となる。

真理は、人の数ほどあるものである。

無想、実相世界というものが、あるのかどうか・・・
ある、教団は、実相世界を、霊界としている。
そちらが、本当の世界であり、こちらは、現象世界であると。
それも、よい。

だから、実相世界に、合わせるという、考え方の、おかしさに気づかない。
転生輪廻を、繰り返しているというが、この、時代、この世に生まれたのは、紛れもなく、私のみであり、転生の魂の記憶があろうが、今の私の意識以外に無いのである。

ところが、その意識は、何ほどのものではない。故に、正しい教えを、信じることであるという。
確かに、この意識は、何ほどのものではないが、しかし、今、その、何ほどのものではない意識で、生きている。
その、何ほどのものではない意識によって、生きるということを、実感しているのである。
それを、否定して、何か別の意識、つまり、正しい教えというものに、自分を預けてしまう。

それは、単なる拘りである。

私も、妄想をかますが、題目だけを、唱え続ける、霊界という次元もある。
そのレベルが、どこかは、知らない。
ただ、題目だけを、唱え続けているのみである。

勿論、念仏だけの次元もある。
宗教の信者が、作る霊界は、実に、奇妙である。
ただ、拝み、祈り続けている。

三次元と、四次元の隙間にあり、それらが、三次元の宗教団体の、背後に憑く。

浮遊する、霊団と、こちらの宗教団体との、不協和音が、不気味に響く。

大乗経典が、書かれた時期、仏陀の教えが、混血する時期でもある。
バラモン、ヒンドゥー、インド哲学、その他諸々。

要するに、グローバル化したのである。
奇想天外な、法華経のお話は、それらに、大きな影響を受けた。
更に、どうでも、解釈出来る、下地が出来たのである。

仏陀も、如来も、数限りなく、存在するということを、書き始めた時期である。
マイトレーヤという、弥勒菩薩なる、魔物も、出て来たのである。

釈迦仏陀、滅後に、気の遠くなるような、後で、この世を救うという、魔物の、菩薩である。

この世を救うとか、この世の人を、救うという言葉が、観念となり、本当に、救いというものが、あるような、錯覚に、陥る。
この、救いというものは。皆が皆、仏になるということである。

10歳くらいまで、子供は、いつも、シータ波を出している。故に、いつも、楽しい。それを超えると、大人の脳に、近づく。すると、シータ波が、抑制されて、次第に、ハイテンションで、いられなくなる。
成長とは、そのように、沈む心、感情を得る時期である。

シータ波を出している、子供たちは、いつも、救われている。
つまり、シータ波を出すように、勧めるのが、その、教えであろうか。

同じリズムを、繰り返していると、シータ波が、出ることもある。
題目も、念仏も、あらゆる、繰り返しの祈りの、言葉がそうである。

特異な、シータ波が出ると、それは、エクスタシーである。
特に、ヒステリー気味の人に、それは、起こる。
唱え続けて、エクスタシーを、得る人は、ヒステリーである。

人の脳は、実に、複雑になっている。
そこに、更に、潜在意識である。

その、潜在意識は、実に、素直である。
ゆえに、表面意識が、信じて、行う行為を、素直に受け入れる。すると、潜在意識には、それを、そのまま、受け入れる純粋さがあり、それが、真実であると、確信を与えるようになる。

信仰の確信は、潜在意識が、そのようになることである。

人を嫉妬すると、潜在意識は、嫉妬という、感覚を、素直に受け入れて、今度は、自分に対して、嫉妬という感情を出すのである。
つまり、人を嫉妬すると、潜在意識は、嫉妬という感情を素直に持ち、我が、物事に、成功すると、成功したという、我に嫉妬を、向ける。
それにより、成功しても、何か不安を抱くのである。

幸せ感覚を、得られない人は、そのように、嫉妬の感覚を、潜在意識に植えつけているのである。

おわかりだろうか。
そこで、その不安を、鎮めるために、宗教という、安心立命の、言葉の観念を、欲するのである。

すると、今度は、その言葉の観念を、潜在意識に植えつけて、あたかも、それが、自分の本心から出ているように、思わせる。
これが、信仰の確信である。

人類の言葉の、発生過程を、検証すると、それが、よく解るのである。
言葉を、作ると、それが、在るものと、信じるのである。
神も仏も、然り。

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2008年10月13日

神仏は妄想である 172

妙法蓮華経とは、サッダルマ・ブンダリーカ・スートラという、梵語である。
これに帰依するというと、ナムという言葉が入る。

ナム・サッダルマ・ブンダリーカ・スートラとなる。
南無妙法蓮華経である。

このお経の題名ほど内容全体の深い意味を短いことばでいい表したものは、おそらく他にはないだろうと思います。
庭野日敬

この漢訳は、クマラジューである。

漢訳された、題目を、唱えて、何事かあると思う、その理屈が知れない。
愚かしくて、話にならないのである。

つまり、「法」と「仏」はおなじものであり、いいかえれば、「仏」と「仏のはたらき」すべてが「法」ということばで表されるのです。ですから、「法」というものはこの上なく尊く、とうていことばではいい表せないような深い意味をもっているので、「妙」ということばで形容してあるわけです。
庭野

妙である、法ということである。

蓮華とは、蓮の花のこと。
インドでは、この世で、最も美しいとされている、花であるという。

それは泥の中に咲きますが、しかも泥に染まらずいつも清らかです。このことは、「人間は俗世「泥」の中で生活しながら、それに染まることもなく、とらわれることもない美しい生活、自由自在な生活ができる」というこのお経の根本思想をそのまま表しているのです。
庭野

そのように、庭野さんは、認識するというのである。

この世を、どのように、捉えるかということである。

釈迦仏陀も、インド当時の、バラモン、そしてヒンドゥーの教えとなる、転生輪廻を受け継いで、この世、娑婆世界に生まれないことが、救いであると、説く。

要するに、消滅の思想である。
この世に、存在しないことが、最上の救い、幸せなのである。

この方は、俗世の生活に、どっぷりと、浸りきり、宗教法人として、最も、世俗的な、団体を、創設したのである。
一体、何を寝惚けたことを、言うのかと、思う。

言うことと、やっていることが、逆であろう。

美しい生活、自由自在な生活など、本人がしていないのである。
世俗まみれである。

そこまで、言うならば、そのように、生きれば良い。
しかし、それからが、大乗の理屈である。
衆生を救うというのである。
一人が、そのような生活をするのは、小乗である。
大乗は、救われていなくても、衆生を救うという、願を立てて、信仰するのである。そして、一人でも、仏、法の救いを、説いて回る。

日本人の、バランス感覚が、勝れている例を、上げる。

徳川時代後半の、富永仲基 とみながかなもと、である。
仏教の経典がすべて、釈迦の教えであると、信じられていた時代に、大乗仏典の膨大な経典は、釈迦本来の教えとは、直接関係のないことを、証明している。

釈迦の語る言葉は、弟子たちによって、種々に解釈され、更に、新しい解釈を、加えて、更に、当然のことに、新しい解釈が、加わり、それが、正しいという、風潮が出て来る。

このように、付け加えによって、原始仏教から、大乗仏教の諸派が、現れてきたという経緯を、理路整然と解き明かしたのである。

漢訳大蔵経などは、西暦初期の頃に、編まれたとされる。
つまり、千七百年もの間、貴ばれてきた、教義の基本文献を、疑うという発想が、日本には、すでに自然発生していたのである。

更に、徳川時代では、石田梅岩という者が、独自の倫理運動を、起こして、石門心学というものを、提唱している。

心学では、各人が心を持っている。その心を、磨くのが大事である。
心を高めるならば、神道でも、仏教で、儒教でも、何でもよいのだ、という。

つまり、教義、ドグマより、心を、上位に置くという、バランスである。

ちなみに、西洋史における、心学と似るのは、ルネサンスである。
説明は、省略する。

それは、共に、宗教よりも、人間というものを、大事にするというものであり、それこそ、ヒューマニズムという言葉の、本質なのである。

日本では、西洋より、早く、その人間主義、啓蒙主義というものが、起こったのである。

その、さきがけを、織田信長が、行った。
信長は、比叡山焼き討ちを、行った。1571年、亀元2年である。
そして、長島や、越前の一向一揆を討ち、最後には、本願寺を、攻め落とした。

簡単に言うならば、彼らは、政治の世界に介入したからである。
宗教が、政治の世界に介入すると、どうなるのかは、イスラムを、見れば解る。

信長は、世界にさきがけて、それを知る者だった。

政治に関与せず、発言も行動もせず、教えだけを、伝える、宣教師を、保護したことは、有名である。

信長の前で、宣教師と、最もキリシタンを、嫌った日蓮宗の、僧、日乗とが、宗論論争をして、負けた時に、刀で、宣教師に切りつけた。その時、信長は、宗教論争は、議論で、行うべきで、武器を、用いるべきではないと、止めている。

これで、解ることは、一神教に似る宗教は、他の一切の、宗教を認めず、それらを、消滅させようとする。
それが、激しくなれば、民族浄化などという、惨劇になる。

信長は、宗教が、政治に介入しない限り、どんな宗教が、何を言っても、構わないという、姿勢を、いつも、示した。

一向一揆などは、信仰集団が、大名を追い出し、領地を、支配しようとした。そんなことを、宗教に許せば、日本は、戦国時代のままで、いなければならない。
信長は、それを知っていた。
更に、それに続く、秀吉、家康も、そうである。
それに対しては、実に、バランスがよく、日本の宗教に対する、態度、対応、処置が、そこで、決まったといってよい。

政治に関与しなければ、為政者は、宗教に寛容であるという、実に理想的な、為政者の見本を、示したといえる。

つまりそれは、宗教に対する、相対化を、日本人は、身につけていたということである。

心学に、戻れば、心が一番なのである。
そのために、どんな宗教を、各人が信仰しても、良いとする、実に、理想的な、宗教観である。

それが、日本の宗教に対する態度である。
神棚を儲け、仏壇に拝しても、何も問題がないのである。

西洋史と、共に、それらを、検証すると、よく解るが、それは、このエッセイの主旨ではないので、省略する。

宗教の相対化、つまり、啓蒙主義とも、言われるものを、日本人は、自然に身につけていたということである。

政治に関与する、絶対的権威は、認めないという、思想である。
更に、日本には、天皇という、無形の権威が存在したことが、理想的だった。
何度も言うが、国家幻想を、支える、天皇という、無形の権威である。

天皇は、実に、政治に関して、無力に帰して、武家社会に、政治を、任せたのである。
こんな、王室、皇室の存在は、世界のどこにも、無い。
武器を、持たない、王など、どこにも、いない。

現在、日本の天皇は、テンノウという、世界語になり、海外では、大変敬意を、払われる存在である。
それほどの家系は、世界のどこにも無いからである。

鎌倉仏教からの、新興宗教の開祖や、それ以後の教祖や、代表などなどは、妄想、妄語の存在であり、世界からは、相手にされない。
ただし、金を使い、ばら撒いて、世界の何者という、恥知らずもいるが。


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2008年10月14日

神仏は妄想である 173

法華経が、奇想天外な、創作であるというのが、最初から出て来る。

最初は、尊者の名前が、延々とあり、次に、菩薩である。
ちなみに、その菩薩たちは、後、一度、この世に生まれるという。

例えば、文殊、観音、薬王、弥勒などは、菩薩大士と呼ばれる。

面白いのは、インド魔界の面々である。
グハ神、ヴァルナ神、インドラ神と、それらをも、菩薩である。八万の菩薩という。

神々の、帝釈天、持国、多門、自在、大自在、ブラフマー神、一万二千の、ブラフマー神に属する、天子たちであるという。

更に、八龍王である。それは、幾百、幾千、コーティもの多くの従者を引き連れている。

更に、魔界の阿修羅までも、登場させる。

最初から、嘘話です、というようなものである。

それらの、インドの神々、つまり、リヴ・ベーダなどの、神をも、登場させての、壮大なスケールであるが、そうすればするほど、嘘になることを、知らない。

結果、仏教は、バラモンや、ヒンドゥーを飲み込んだかのように、見えるが、その逆である。

今、インドでは、仏教は、跡形も無くなり、ヒンドゥーの中の一人の神として、釈迦仏陀がいるのである。

上記に挙げた、菩薩や神々は、当然、日本にも、入り込んで、無用な、信仰を得ている。

そして、全く、架空の、更に、魔界の極めつけを、象徴する、弥勒菩薩が、語り始めるのである。

ああ、如来はこのような奇跡を、偉大な瑞相としてお示しになった。それには、いったいどんな訳があるのであろうか。世尊がこのような偉大な瑞相として奇蹟をなされたのは、何ゆえなのか。世尊は三昧にはいっておられる。そして、このような稀有であり、思いも及ばないこれらの偉大な奇瑞、神通力による偉大な奇蹟が、あらわれたのである。私はその意味をたずねたいのだが、いったいだれに問うたらよいのか。そのばあい、だれがいったい、この意味を解明する能力があるのであろうか。

と、弥勒が言う。

インド人も、びっくりの、誇大妄想の話が展開される。

奇蹟というものを、一番嫌った、釈迦仏陀である。
それが、堂々と、奇蹟を現し、その意味は、何かと問うという、仰天である。

数えられず、まったく数えきれず、広大で、計り知れず、考えも及ばず、推量を超えた劫の過去世に、いやそれよりもさらに遠い以前にあったことですが、まさにそのとき「月と太陽と燈明とするもの、日月燈明と呼ばれる、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来が、この世に出現されました。そのかたは、知と行をかねそなえ、善逝であり、世間をよく知り、この上なきものであり、調練されるべき人々をよく調御するものであり、神々と人間との師であり、仏陀であり、世尊でありました。
中央公論社 大乗仏典

仏の教えを聞いて、迷いのない心を得たいと願うものには、四諦の法を説いて生老病死という人生の苦しみにとらわれぬ心と、人生の変化におどろかぬ心がまえを説いてくださいました。また、びゃくし仏も求めるものには十二因縁の法を説き、もろもろの菩薩のためには六波羅蜜を説いて、最高の智慧にまで導かれました。
庭野

四諦とは、苦諦、集諦、滅諦、道諦である。

苦諦とは、仏の教えを、聞かない人は、この世の全てが、苦しみであるというもの。

集諦とは、人生苦が、どうして、起こるのかを知ること。

滅諦とは、人生苦を、消滅された後の、安穏の境地。
それは、釈迦仏陀が、悟った、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の、三大真理であると、する。

道諦とは、日々の修行である。

苦諦から、集諦へ、そして、道諦から、滅諦へである。

要するに、人生というものを、どのように、捉えるかということである。

諸行無常とは、諸行は、この世のすべての現象であり、それが、無常、つまり、変化するということである。

諸法無我とは、
この世の中のすべてのものごとは、必ずほかのものとつながりがあるもので、全然他と切り離されて孤立しているものはない」ということです。
庭野

我というものは、他によって、我になるという、考え方をしても、よい。
我として、単独では、我は在り得ないのである。

涅槃寂静とは、涅槃は、無という意味もあり、死を意味する言葉であるが、また、迷いが無いという、状態をも言う。
寂静とは、迷いを無くし、人生苦というものが無い、平穏、安定した、状態、生活ということである。

涅槃寂静の境地に至るには、諸行無常を悟り、諸行無我を行うということである。

更に、八正道という、考え方と、六波羅蜜という、考え方をもって、その境地に至るというのである。

八正道には、見、思、語、行、命、精進、念、定、がある。

六波羅蜜は、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の、六つである。

これらの、説明は、省略する。
要するに、ものの考え方であり、生き方指南である。

私は、これに、異を唱える者ではない。
それを、一つの基準として、生きることも良いことだと、思う。

ただ、それは、己だけのものであり、人に説いて、強制するものではないということ、である。

仏教を、知り始めて、その気になると、人に説く人がいる。
勿論、アホである。
自分が、それを、実行して生きればいいのである。
何の問題も無い。

更に、それを持って、論戦するなどとは、愚の骨頂である。

私も、時々、その被害を受ける。
迷惑なのは、新宗教系である。
大半が、日蓮宗、密教系である。

こちらは、もう、30年以上も、それらの、経典を読み、学び、更に、検証して、私のモノを、考えているのである。

初歩程度の知識を、披露して、得意になる様は、呆れて、物も言えない。

S苑、S会、更に、訳の解らない、研究会や、同好会等々である。

本人は、知ったという喜び一杯なのであろう。平然として、説くのである。勿論、何も知らない。知ったと、確信、信じているだけである。
何となれば、その人の行為を、見れば、すべて解る。
要するに、自分の尻を拭けない者が、他人の尻を、拭くというのである。
万事休す。

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2008年10月15日

神仏は妄想である 174

その最後の日月燈明仏は、大ぜいの人びとに対して大乗無量義経を説かれ、そしてそれが菩薩の道の教えであることと、仏はいつでもその教えがひろまるようにと念じて守っていらっしゃることを説かれましたが、説法を終わられると、大衆の中にじっとすわって三昧におはいりになりました。
庭野

これは、小乗との、完全決別である。
大乗が、勝れているということを、言うのである。

菩薩という言い方は、大乗の言葉であり、小乗では、羅漢という。
羅漢より、菩薩が、勝れているというのである。
小乗否定である。

大乗の始まりは、釈迦仏陀を慕い、ストゥーバ信仰をしていた、在家の人々と、小乗の専門的知識を、持った僧たちとの、合体である。

小乗の僧たちは、教えの観念に、七転八倒し、釈迦の教えを、自分たちのために、使用した。在家の信者や、大衆に対する、行為行動をするという、感情が薄かったといわれる。

仏滅後、500年を経ると、そのような状況になっていたのである。
しかし、小乗は、陸路を通り、ビルマ、タイへ、そして、チベットへと、伝播していった。
現在も、東南アジアは、小乗仏教を持って、仏教という。


弥勒よ、そのとき、その集まりにたくさんの菩薩があって、法を聞こうと待ち望んでいましたが、この不思議な光を見て、みんなそのわけを知りたいと思いました。その中の一人に妙光という菩薩がありました。日月燈明仏は、やがて三昧から立ち上がって、妙光菩薩にむかって話かける形をとって、「妙法蓮華」という教えをお説きになったのです。
庭野

それは、六十万年の間、説法が続き、それを、また、聞いていたという。
六十万年でも、百万年でも、いいのだが、要するに、膨大な時間という意味である。
インド人は、そのような表現が好きである。


同じ名前で、おなじはたらきをなさる如来が、二万人も次々に出てこられるのですが、如来とは「真理から来た人」という意味ですから、絶対者すなわち仏というのと同じ意味です。つまり、仏の別名です。その仏が二万人も同じはたらきをし、同じ形でお出ましになるというのです。その最後の仏が「妙法蓮華経」という教えをお説きになった、そして、その説法は六十万年もつづいたのに、ほんの短いあいだのように思えた。―――こういう不思議な話が、どんな意味を含んでいるかは、おぼろげながらわかってもらえることと思います。
庭野

不思議ではなく、作為のある、作り話であるということ、だ。
つまり、法華経の正当性を、示す。
法華経こそ、仏陀の教えであるというもの、だ。

最後の仏が、法華経を説くというのである。
完全に、狙っているのである。
法華経第一主義である。

そして、この人は、仏を、絶対者であるとしている。
勿論、多くの仏がいるが、絶対者として、書くことは、それなりの、作為がある。
一神教的である。

法華経を、読み込み、理解を深めると、法華経による、大乗仏教こそ、仏教であると、確信する。
更に、小乗は、仏教にあらずという、極みに至る。
経典作者の、思う壺である。

私が、三蔵法師玄奘を、調べて、小説にした時、あえて、玄奘の辿り着いた、教えを書くことを、しなかった。ただ、玄奘の行為のみを、書き続けた。
実は、玄奘は、大乗のユガ経の教えを、求めていたことが、解っている。

行く先々で、小乗の僧たちに逢うが、その度に、大乗の経典を、学ぶ必要は無いと言われる。しかし、玄奘は、自分の疑問を、晴らすために、天竺に向かう。

天竺の、仏教最高学府、ラーナンダにて、小乗はもとより、大乗を学び、更に、外道の教え、バラモン等々の、インド哲学も、学び尽くす。

唐に帰国して、膨大な、経典の訳に取り掛かるのである。
その大半が、日本に来ている。

玄奘は、大局的に、仏の教えというものを、見渡していた。
小乗も、大乗も、見渡して、仏教というものを、解釈した。
そこでは、すべて、方便であるという、結論に行き着いた。
何故、経典の翻訳に、後の人生を、賭けたかというと、後世の人のためである。後世の人が、仏教を学ぶために、翻訳に賭けた。
本人は、はっきりと、自分は、学を求めていたが、禅定や、他の修行法を、為していないと、告白している。

その最後の様は、実に謙虚であった。
だが、唐では、法相宗という、宗派を立ち上げている。
ただし、当時は、宗派というものの、意識は薄い。どの派閥にいても、他の派閥の教えを、学ぶことが、出来た。それは、日本の仏教も、そうである。
空海によって、それが、制限された。
空海は、他の宗派の者は、許さないという、姿勢を取った。

さて、法華経である。
そのようにして、最後の教えと、絶対者である、仏が、説いたということである。


いよいよ入滅のときの近づくのをお知りになった釈尊は、後世の人類のために、八十年のご生涯に得られた中でいちばん大切な遺言をしておきたいと心をお決めになったことが、ここに最後の日月燈明仏の姿をかりてまざまざと表現してありますが、実伝によると、釈尊の肉体は、病気と老齢のために、非常に衰弱しておられたということです。
庭野

八十年の生涯ではない。
七十九年の生涯である。この、一年の差に、実は、重大な意味がある。
一年早く、亡くなっているのである。

さまざまと表現したのは、釈迦仏陀ではなく、後々の、創作者である。
実伝によると、云々とは、寝惚けている。
実伝ではない。

釈迦仏陀の、遺言は、真理の法を求め、我が身を、頼めという言葉である。
この世の法則の、あり様を、見て、我が身を頼むことであり、仏という妄想に、浸るなということである。

法華経を、深読みして、それが、真実だと、思う者、多数。
大乗の人は、方便として、法華経を説いたというのである。
たが、嘘も方便というのではない。
嘘は嘘である。
事実は、事実である。

真理の法というのは、この世の、つまり、宇宙の秩序と法則のことを言う。
そして、人生の、あり方である。
その、在り方は、百人百様であること。

絶対者を置いて、それに対して、座するということではない。

以後、勝手な解釈、勝手な、妄想にて、法華経が、一人歩きするのである。
法華経が、悪魔に好まれるというのは、どのようにでも、解釈して、好き放題に出来るからである。

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2008年10月16日

神仏は妄想である 175

巧みな方便。
中央公論 大乗仏典

方便品第二
法華経

方便とは、正しい手段という意味である。
嘘も方便は、嘘であり、本当の方便は、本当である。

腐っても鯛であり、腐ってサンマにならない。
方便とは、臨機応変である。相手に合わせて、説明するという行為になる。
それは、正しいことを、伝える手段であるということだ。

しかし、では、正しいと判定するものは、何か。
この世に、正しいというものが、あるのか。
事実としてのものはあるが、正しいという、価値判断の出来るものは、あるのか。

太陽は、正しいのか、正しくないのかを、考えない。
太陽は、在って在るものである。

宗教の蒙昧は、正しいという判断を、妄想に委ねるのである。
正しいと、信じ込めば足りる。

正さというものも、相対であり、その都度変化する。すると、それは、正しくないという。変化すると捉える方が、正しいと、諸行無常というが、教えは、相対化しないのである。

だが、そこで、方便という、実に巧みな、技を使い、撹乱させる。

仏は、すべてのものごとのほんとうの姿をはっきりと見とおしておられる方ですから、その智慧は非常に奥深くて、かぎりないものです。たいへんむずかしくて、その智慧を習うことはなかなかのことです。一切の声聞「学習主義者の修行者」やびやくし仏「縁覚すなわち体験主義者の修行者」などがとうてい知ることのできるものではありません。
庭野

平然として、書くが、これが、法華経の最大の罠である。
つまり、声聞や、びやし仏などは、とうてい知ることの出来ないものであるというのは、小乗の修行者のことである。

小乗の修行者、つまり、初期仏教団の否定である。

シャーリープトラよ、正しいさとりを得た尊敬されるべき如来たちが深い意味を秘めて語られことばを知ることは、容易ではない。それはなぜであるか。如来たちはみずから明証である法を、いろいろ巧みな方便と知見によって、すなわち原因や理由や喩えや根拠やことばの解釈や教理の設定によって、説き明かすからである。

そして、それはそれぞれに応じた巧みな方便を用いて、それぞれがちがったことに執着している衆生たちを解脱させるためである。

シャーリープトラよ、正しいさとりを得た尊敬されるべき如来たちは、偉大なる方便と知見との最高の境地に達せられている。

彼らは執着なく、障害のない知見を有し、仏陀としての十の力、四つのおそれなき自信、十八の仏陀に特有な性質、五つの機能、五つの能力、七つのさとりを助ける部分、禅定、解脱、三昧、等至という、未曾有の特性をそなえ、種々の教えを説くのである。

中略

シャーリープトラよ、如来が知る法を、如来こそが如来に対して説かれるのである。あらゆる法をすべて、シャーリープトラよ、如来こそが説くのであり、あらゆる法をすべて如来のみが知るのである。
大乗仏典

そして、世尊が、延々と、詞を述べるという、段取りである。

たとえ、お前のような賢者たちで十方の世界が満ちており、またそれ以外に私の声聞たちがいて、そのものたちで同じように全世界が満ちているとして、彼らのすべてがいま一つになって、善逝の知を考察したとしても、これらすべてが総がかりになっても、私にある無量の仏陀の知をそのまま知ることはできない。
大乗仏典

この、知ることが出来ない。わからないであろう。
つまり、小乗の否定なのである。

更に、仏陀の言葉に疑問を、投げ掛け、ついには、そこを立って去ってしまうという、小乗の皆々、それを、仏典は、こう書く。

そこで、世尊は、尊者シャーリープトラが三たびにわたって説法を懇願するのを知って、尊者シャーリープトラにこう言われた。
いまや、シャーリープトラよ、お前は三たびまでも如来に懇願した。このように懇願しているお前に、どうして私が説かないであろうか。だから、シャーリープトラよ、正しく聞きなさい。よく心のうちに思いなさい。私はお前に説くであろう。
大乗仏典

世尊がこのことばを告げられるやいなや、そのとき、その集会にいた、思いあがっている増上慢五千人の、比丘、比丘尼、信男、信女が席を立って、世尊の両足を頭にいただいて敬礼して、その集会所から去っていった。なんとなれば、思いあがったものはその昔の善くない行為のために、まだ得ていないものを得たと思い、まだ理解していないものを理解したと思っているからである。彼らは自分に欠陥のあることを知らないで、その集会所から出ていった。世尊はまた、無言でそれを許された。
大乗仏典。

要するに、シャーリープトラ、つまり、仏陀の、智慧一番の弟子といわれた者を、出汁にして、更に、初期修行者たちを、このように扱うことで、小乗の者たちを、判定したのである。
それは、彼らは、思いあがり、得ていないものを、得たと思い、理解していないものを、理解したと、思っている。
自分の欠陥を知らないという。

このような、でっち上げの話に、小乗の修行者たちを、当て嵌めて、断定したのである。

徹底した、小乗の否定である。

大乗仏典は、小乗の否定により、成り立つ。
それが、特に、法華経の特徴であるといえる。

法華経を、読み込み、理解したものは、すべからく、仏教とは、大乗であり、小乗は、仏教ではないという、蒙昧を言う。
小乗を、否定して、大乗が成り立つという、矛盾を、感じないのである。
小乗を、否定すれば、大乗も、否定される。
なんとなれば、小乗の教え、行為があって、大乗という、新しい考え方があるのである。

ところが、こうなってしまえば、大乗のカラクリが読めて、その魂胆が、どのようなものであるかが、よく解るのである。

初期、釈迦仏陀の弟子たちも、自分たちの下に置くという、大乗の者である。

そして、とんでもない、壮大な物語、法華経を創作した。

更に、である。
実に、くどい。
繰り返し、繰り返し同じ言葉を重ねる。

舎利佛よ、いままで述べたことをひっくるめていえば、普通の人間では想像することもできない、いままで誰も達したことのない最高の真理を、仏はすっかり悟られたのです。
庭野

釈迦仏陀の弟子、舎利佛を、登場させて、語らせるという、手である。
普通の人間、最高の真理。

読み流していれば、気づかないが、普通の人間とか、最高の真理という言葉、実に、曖昧であり、模糊である。
曖昧模糊という。

最高の真理というものもあるのだろう。
普通の人間ではない人間も、いるのだろう。

延々と、くどく、反復して、書き進める経典の、真実とは。
単なる、小乗の否定であり、大乗の肯定である。

得ていないのに、得たと思い、理解していないのに、理解したと思うという。
確かに、多々そういう人はいる。
私も、その一人である。
しかし、私は、得たとは、思わない。理解したとも、思わない。
知らないことは、知らないのである。
そして、知らないことが、多いと、知る者である。

自己否定を、徹底的にさせて、弱ったところに、教義を、埋め込むという、宗教の、手口は、十分に解った。
信じ込めば、事足りる。
信じさえすれば、思うツボである。
そして、骨まで、しゃぶられる。

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2008年10月17日

神仏は妄想である 177

只今、法華経を読んでいる。

大乗仏典である。
そこには、小乗仏教との、区別化を徹底して行っている。
小乗では、救われないのだということを、繰り返し言う。
それを、あたかも、釈迦仏陀の教えのようにである。
全くの、創作である。

更に、インド魔界の神々も、取り入れて、ごちゃまぜにして、仏の最高位を、言う。
そのための、理屈の世界は、甚だしい程のものである。
それを、また、勉強して、その気になるという様、呆れて、物も言うことが、出来ない。

言葉の、定義を、知れば、知ったと思い込む。

すべての物事の、現象は、性質があり、相、性、体、それらの、働きを、力、作、どういう原因、因、どういう条件で、縁、どういう結果、果、を生み、結果の後の、報、が残る。
この法則によらずに、ないものはない。
相、性、体、力、作、因、縁、果、報、そして、それらを、ひっくるめて、本末くきょうとう、というのである。

十如是が、展開して、三千大世界が、登場するというのである。
一念は、その三千世界に、至るのである。

これは、言葉遊びである。

哲学というのであれば、一つの哲学である。
しかし、これが、宗教、つまり、拝む対象となることが、おかしい。

人間は、このような、理屈がなくても、生きられる。

確かに、釈迦仏陀は、因果の法を、教えた。しかし、それが、大切なことではなく、心を、いつも、一定の静かさに保ち、静かに息をして、静かに、心の動きを、見詰めて、生きることを、指導した。
それが、いつの間にか、とんでも、屁理屈の世界に、展開されているという、始末である。

上記の言葉を、もってして、世界のカラクリを、説明するのは、認めるが、そうではないこともあると、言っておく。
理屈の無い世界もある。

そして、仏の下に、インド魔界の神々を従えるという、狂いは、如何ともし難い。
神々の世界は、仏の下の世界であり、云々である。
それを持って、日本の神というものを、観念化した、仏教の誤りは、甚だしい。

日本には、彼らの言う神観念はない。

日本には、カムと呼ばれる、祖先霊の総称である、この世に実在した、この世に生きた、祖先の総称である、皇祖皇宗と呼ばれる、霊位を、カムとして、拝したのである。
その、カムは、隣の神々をも受け入れて、共に、奉ることを、許した。

神武天皇も、最初に皇位に就いて、地場にあった、諸々の、族たちの、奉るものを、すべて、奉って、政を、はじめられた。
政治を、そのまま、政、まつりごと、とするのは、日本のみである。

奉り事が、日本の政治である。
祖先霊の崇敬を、もってして、すべてが、はじまるのが、日本という国である。
そこに、理屈は、無い。

教義も無い。

その、祖先霊を、自然のもの、すべてに、自然を持って、自然を拝して、祖先霊への、崇敬を、行ったのである。

想像、妄想の神々とは、全く違うのである。
日本には、想像の神観念は皆無である。

そして、それが、伝統である。

もし、因果の法で、見れば、釈迦仏陀の、釈迦族は、釈迦仏陀の目の前で、滅ぼされている。何故か。これも、釈迦が、悟りを得ていない証拠である。

まだまだ、釈迦が、悟りを得ていない、証拠は、ある。

釈迦仏陀は、救いなどを、説いてはいない。
生き方指導をしたのである。何度も言う。

法華経が、魔境を作るのは、その屁理屈にある。
勿論、キリスト教の教義なども、魔境である。
宗教に、屁理屈がつくものは、すべて、魔境であり、それを、説く者も、魔界の者である。

大乗経典を、読んで気づくのは、この経を読めば、とか、この経を、人に伝えれば、とか、兎に角、経典の、読経と、人への推奨を説くのである。
経典に、功徳があるという、言い方は、大乗経典の特徴である。

正に、魔界からのものである。
人間に、あたかも、そうであるかのような、屁理屈を、教えて、その言葉に、絡めて、縛り付けるという、やり方は、魔物のすることである。

古代、太陽信仰の時は、そんなものは、一切無い。
意味の無い、世界を生きていても、十分に生きられたのである。

そこに、あえて、意味を、つけるという行為は、如何なることであるのか。

支配と、搾取以外の何物でもない。

インド仏教の保護者として、名高い、アシュカ王は、その後半は、滅びている。
更に、あの、シルクロードを席巻した、仏教信仰も、イスラムに乗っ取られている。

三蔵法師玄奘が、天竺に、旅した時代も、すでに、仏教が、退廃して、見るも無残になっていた。

何故か。
何ゆえか。
因果の法である。

一番知らなかったのは、仏教徒であるという、アホ振りである。
今では、インドでは、カースト制の下に、仏教徒は、置かれて、最下層の生活を、余儀なくされている。
それを、どのように、仏教徒、仏教愛好家たちは、見るのか。
因果の法であろう。

その、因果の法に照らして、日本を、見るがいい。
世界でも、有数の国になっている。
その、平和も、経済力も、豊かさも、である。
因果の法である。

祖先霊を、御祭りし、祖先霊を拝してきたゆえではないか。

それが、末法であり、仏の法が廃れた故であるという、屁理屈を、捏ねているのである。
悪あがきも、いい加減にである。

因果の法である。

更に、現象が、そのようになるのならば、その、現象学により、仏教の衰退を、分析するがいい。

中国仏教は、どうした。
因果の法である。
見る影も無い。

それでは、小乗仏教を保持した、国々は、どうか。
後進国として、あっても、仏教精神は、生き残っている。

因果の法である。

ビルマ、タイ、ラオス、ベトナム、カンボジア、小乗の国である。
あれほどの、共産主義に、襲われても、人々は、信仰を持ち続けて、生き抜いてきた。
因果の法である。

信教の自由の国、日本にて、大乗仏教などと、吠えても、知れたもの。
更に、未だに、法華経経典を、もって、その屁理屈を持って、仏法などという、アホ振りを晒しているのも、日本の新興宗教である。
つまり、原始信仰も、更に、真っ当な、感覚の、信仰さえも、持てないでいる。
精々、教祖の、悪魔憑きの霊能力の、下に付き添っているのである。

それが、導き出す霊界なるものは、魔界のことである。
つまり、インド魔界に飲み込まれているのである。

人生に意味など、無いのである。

物事のカラクリを、知っても、詮無いことである。

釈迦仏陀の言葉にも、病にある人に、病の説明をするより、手当てをせよという言葉がある。勿論、医療の知識を、持っている人に、手当てを受けることが、最良である。

実際、釈迦仏陀は、医療行為も、行っている。

百の言葉より、一つの行為であること、明々白日である。

意味の無い人生でも、十分に生きられるのが、人間の強さである。

花が咲き、花が散ることに意味は、無い。ただ、自然のあるがままに、委ねて、花は咲き、そして散る。人間も、同じことである。

神も仏も、人間の創造の産物である。
あるのは、祖先の霊位のみである。
実に、神仏は、妄想である。

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神仏は妄想である 176

やめよう舎利佛、これを説明してみても、わかるはずがない。なぜなら、仏がきわめられたその真理というのは、この世に類のない、普通の人間にはとうてい理解することのできないものであって、ただ仏と仏とのあいだだけで理解できる真理なのです。だから、仏にならなければわからないのです。
庭野日敬

仏典にさえ、このような、無明、蒙昧なことを、書くのである。
普通の人間には、到底理解出来ないという。仏と仏で、理解出来るというのである。

勿論、特別な世界のこと、専門的なことならば、専門家に適わないが、この真理という、主観的なものを、云々して、理解できるものではないという。
それでは、法華経を、掲げる人や宗派、団体の人々は、理解したのであろうか。

きっと、理解していると、思い込んでいるのであろう。

何せ、仏陀も、救えなかった人々を救うために、生まれてきた人であるという、仰天することを、言う人もいる。
この場合の、救うという言葉は、何を意味しているのか、解らない。
救いというものが、あるのだと、思い込むのであろう。

さて、続ける。

その真理とは、この世のすべてのものに通ずる真理です。すべてのものごとが「現象」としてそとに現れるときのすがたや性質(相、性、体)はどんなものか、それらのもっている力やはたらき(力、作)はどうであるか、その性質や力が互いに作用しあって変化してゆくのに、どういう原因(因)が、どいう条件(縁)によって、どういう結果(果)を生み、その結果のあとにどういうことがら(報)が残るかという法則です。また、その法則は、形あるものにも、ないものにも、一切のものにあるのであって、この法則によらずに存在しているものはひとつもないということ(本末究意等)です。
庭野

法華経の訳である。

如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究意等

十如是という。物事のカラクリであるという。

この十如是が、展開した「一念三千」という考えこそ、仏の述べられた「真理」そのものであるといえるのですが、いまここでそれを詳しく説明するのは、世尊もご心配なさったように、理解しにくいかもしれないし、理解に混乱を生ずるといけませんので、ずっとあとにまわし、そこで徹底的に説明することにいたします。
庭野

実に、解りやすく、説明している。

そして、学習主義の教え、体験主義の教え、更に、大衆を救うことによって、救われるという、行動主義の教え、それが、つまり、大乗の教えという。
それは、皆、方便であるということ。
仏の方便力の偉大さ、なのであると、いう。

学習、体験主義は、小乗である。
行動主義が、大乗なのである。

衆生との、区別を、はっきりとつけて、更に、小乗の者を、増上慢として、裁くという、手法である。

大乗に言わせると、小乗の人は、解っていると、思っているという。
自分は、知っていると、思い込んでいる、それを、増上慢と、呼ぶ。
慢心一杯の者という、意味である。

大乗仏教は、多くの人によって、実に、巧みに教義が、練られていった。
それは、認めることが出来る。が、小乗を、否定しまっては、大乗も、否定することになるということに、気づかない。何故なら、小乗という、初期釈迦仏陀の、集団によって、起こったものであり、そこに、実在の釈迦仏陀がいたのであり、大乗経典の、仏なるものは、架空の、妄想の存在である。

どうして、このようなことになったのか。
それは、小乗の人々によるものでもあった。
その世界に、閉じこもってしまったが故に、釈迦仏陀の教えを、慕う、在家の信者の人々が、新しい釈迦仏陀の教え運動を、始めたのである。
そこに、一部、小乗の僧も、駆けつけた。

それからが、大乗のはじまりである。

釈迦仏陀の、教えを、飛躍させて、この法華経のように、壮大な物語を、創作する。更には、教義である。
それは、上塗りし、上塗りして、作られていった。
そこに、インド思想も、上塗りされて、とんでもない、誇大妄想に至ったという、経緯がある。

お話だから、何とでも、書ける。
更に、教義にしたいことを、経典にして、書く。
嘘の上塗りを、重ねて、ここまで来た。

釈迦仏陀の、言葉など、初期仏教経典に、僅かに、残るだけになった。
それも、寝惚けたような、言葉の羅列である。

それを、いいことに、大乗仏教は、それそれと、教義を上塗りし、とんでもない、菩薩や、如来を、作り上げて、堂々と、仏陀の教えと、掲げた。
そして、今、釈迦仏陀の地には、仏教というもの、廃れて久しい。

その、何とでも解釈のつく、大乗仏教を、もって、日本の仏教もある。ただし、仏教といえるのか、どうかは、解らない。
仏教というものが、そのようなものであれば、仏教なのであろう。

さて、仏教の定義とは、何か。
釈迦仏陀という、実在の、人物が、説いた人の、教えというならば、大乗仏教とは、言うことが、出来ない。
新興宗教である。

新興宗教仏教というのであれば、いたしかたない。

日本には、宗派、または、宗旨というものがある。

天台、真言から、浄土、法華、等々は、まさに、新興宗教である。
それ以前の、奈良の仏教がある。
南都仏教である。

南都の仏教、奈良の寺は、檀家を置かない。
故に、拝観料で、やっと、維持している様子。
葬式も、行わない。つまり、仏教の僧が、葬式を、取り仕切らなかったということが、わかる。

天台以降の、宗派は、今は、葬式専門である。
大乗の教えも、行わない、大乗仏教になって、久しい。

行動主義の、仏教と、掲げたが、行動も、しない。
安穏として、檀家、信徒、信者から、搾取して憚らない。

釈迦仏陀の、教えは、どこに行ったのかと、誰も問わない。

実は、大乗の者、大乗経典、その教え、教義が、嘘であると、薄々知っているのである。

阿弥陀仏など、いるはずがない。
南無阿弥陀仏などとは、嘘である。

南無妙法蓮華経と、唱えても、なんともならんと、知っている。
ただ、唱えると、そのテンポで、少し元気になったつもりになる。

真理の教えとあらば、仏典を、取り出すまでもない。

そのまま、真理の姿を、伝えるとよい。

ところが、それが、曲者で、宗教のデパートのように、仏教も使い、神道や、その他の、宗教の教義を使い、果ては、インド魔界の神々を、使い、様々な信宗教や、研究会を、立ち上げて、宗教経典を、盾に、新しい宗教を、興すという。

信徒、信者、会員は、皆々、喜んで、搾取されるという、カラクリである。

オウム真理教という、セクト、カルトの集団になることが、すぐに出来るという、寸法である。
宗教関係に、武器を、持たせると、騒乱が絶えないのである。
どんな、穏健な、宗教団体も、武器を、持たせたら、危ない。
何故か、それが一番だと言うのである。
他は、間違い。
人間の、盲点を衝くのが、宗教のカラクリであるる

盲点とは、一度信じると、信じ込んで、排他的、非寛容を、身につけるからである。

要するに、宗教は、人間破壊の何物でもない。
宗教で、救われる人以上に、宗教で、人間破壊される人の方が、圧倒的多数である。

何せ、こんな、私の、チンケなエッセイにさえ、命懸けで、挑む者がいる。
教祖、代表、教え親に、心酔して、我を忘れる。

あはれ、である。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第4弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月18日

神仏は妄想である 178

「諸仏如来は菩薩を教化したもう」
と、おっしゃったのです。「仏は菩薩だけを教化されるので、声聞や縁覚は、仏の弟子ではないぞ」というわけですから、なんだか「仏は一切衆生を悟らせるためにこの世に出てきたのだ」ということばと矛盾があるようですが、よく考えてみると、そうでないことがすぐわかります。

中略

さて、「仏は菩薩を教化したもう」ということばの真の意味は、「自分だけ悟って、それでいいと思っているうちは、ほんとうの悟りではないぞ。ほかの大ぜいは悟っていないが、自分だけは悟っているのだという気持ちは、大ぜいと離れた気持だ。大ぜいと溶けあっていない、孤独な気持だ。まだ「我」の気持が残っていて、「諸法無我」の境地にはいっていない。だから、ほんとうの悟りではないのだ。自分も悟り。みんなも悟る。自分も救われ、みんなも救われる。みんないっしょに救われなければ、ほんとうに救われたことにはならない―― このことがわかったときこそ、ほんとうに悟ったといえるのだ。解脱したといえるのだ」ということなのです。
庭野

この、傲慢な考え方が、大乗仏教というものである。

声聞や、縁覚とは、小乗の人々である。
それらは、自分だけの、悟りと、救いを求めているというのである。
それこそ、宗教の基本なのであるが、それを、大乗は否定する。

あろうことか、皆を、悟らせ、皆を、救うというのである。

私も、他も、悟り、救われる道が、大乗であるという。
だから、余計なお世話、余計な、言動、余計な妄想を、吹き込むのである。

何度も言うが、大乗経典とは、釈迦仏陀の言葉ではない。
皆々、勝手に、創作したものである。

「我」の気持が、残っていて、諸法無我の、境地に至っていないという。
一体、人間を、何だと、心得ているのだろうか。

だから、あんたも、大乗仏典を信じて、悟りを得なさいと、勧めて、はいそうですかと、他の宗教の人が、返事をするだろうか。
また、私というものを、いつも、考えて行動している人、生きている人が、はいそうですかと、答えるだろうか。

実に、傲慢、偏狭、独善である。

そして、大乗の人は、小乗の、つまり、釈迦仏陀の、弟子まで、登場させて、従わせるという、架空のお話を、作るのである。

それとおなじように、自分が悟ろう、救われようとばかり思っているうちは、舎利佛のような大智慧者でも、仏の悟りのほんのすぐ近くまできていながら、その間にある小さいようで大きい溝がどうしても跳び越せない。ところが「大衆といっしょに救われるところにほんとうの救いがある」ということがわかったとたんに、パッとその溝が跳び越せるのです。
庭野

大衆と、一緒に救われるという、妄想である。

大乗仏教の、誤りが、これで、解るのである。
人を、教化、きょうけ、しようとする、傲慢は、甚だしいのである。
仏弟子の、智慧第一の、舎利佛でも、悟りのすぐ近くに来ていながら、小さいようで、大きな溝があり、悟っていないという、作り事である。

これで、大乗仏教というものが、小乗仏教、初期仏教、更に、釈迦仏陀の、弟子たちさえも、否定していることは、明白である。

親を、否定して、子供が成り立つものか。

それを、もって、大乗は、悟らなくても、まず、布教であると、誰彼なく、教えを伝導していった、過程がある。
皆で、悟り、皆で、救われるという、おめでたさ、である。

それを、象徴する、この法華経が、心ある、霊能力者によって、悪魔の経典と言われる所以がある。

インド魔界の、神々を、守護に置き、悟りという名の、魔界の、世界に引きずり込むという、手はずである。

釈迦仏陀は、魔界の存在に、十分気づいていたが、それらに関しては、沈黙していた。必要ないことだからである。
つまり、心静かに、冷静に物事の推移を、見詰めていれば、自ずと、それらのことが、解ると、知っていたからである。

また、死後の世界に関しても、沈黙を持って対処した。
更に、成仏などという言葉も、使わない。
一切の、妄想を、嫌った。

今を、生きることに、専念することであると。

更に、屁理屈の言葉の世界も、嫌った。
初期仏典も、装飾してある。もっと、素朴なものだった。
言葉の羅列を、嫌った。

ここで、少し話を転じてみる。

釈迦族は、モンゴロイドである。
弟子たちの多くは、インドに、侵入してきた、アーリア人が多い。
この、アーアリア人たちが、バラモン、そして、カースト制の、ヒンドゥーを作り上げた。

大乗経典も、アーアリア人が大半である。
サンスクリット語が、ドイツ語に、翻訳されやすはずである。
言語体系も、似ている。

明治期から、徐々に、西洋の仏典訳が、入ってきた。
それは、特に、小乗系のもの、多数。
次第に、それに、影響を受け始めた、日本仏教と、仏教学者たちである。

それを、嘆く者がいるが、日本の仏典も、元は、漢訳である。
最初は、漢訳によって、仏教というものを、学んだ。

もし、明治期の、西洋からの、仏典による、揺らぎがあるとするならば、それよりも、大きなものは、宗教学である。

西洋の宗教学の定義により、すべての、宗教行為を、判断するという過ちを、犯したことである。

仏典の、訳に大差は無い。
宗教概念に、大差はある。

日本の伝統を、神道という、宗教の枠で、捉えたことである。
更に、古神道に至るまで、その宗教観念で、測ったことである。
これは、実に、過ちであった。

ユダヤ人のユダヤ教が、ユダヤ人の伝統である如く、日本の神道も、伝統である。

ユダヤ人の、自己統一性が、旧約聖書であるように、日本人の、自己統一性も、神道、及び、古神道である。

ユダヤ人は、ユダヤ教を、宗教ではなく、伝統としているはずである。

キリスト教は、その旧約聖書を、キリスト以後から、借用して、新約聖書を加えて、宗教を、立ち上げた。
そして、イスラムも、旧約聖書を、借用して、イスラム教を、立ち上げた。

大乗仏教は、小乗、初期仏教を、借用して、宗教を立ち上げた。

伝統は、所作を、もって、善しとする。
ユダヤ教人も、ユダヤの所作を、持って当たる。

日本の神道も、所作を、持って当たる。

ただ、神道のいう、魂振り、魂鎮めという、鎮魂法は、釈迦仏陀という、涅槃の境地と、同じである。
ただし、インド魔界の、霊的想念は無い。

釈迦仏陀、古神道も、所作によるという、明確さがある。
つまり、行為なくして、有り得ないということ。

言葉の羅列ではないのです。
行為、所作によるから、こそ、そこに、言葉に出来ない、意味を、意義を、そして、言葉を超えたものを、感得するのです。
それは、言葉に出来ないもの。

瞑想を、語る者が、いれば、嘘です。
悟りを、語る者がいれば、嘘です。
唯一を、語る者がいれば、嘘です。
真理を、語る者がいれば、それも、嘘です。

大乗仏典は、方便でと言いつつ、嘘八百を書いて、更に、名言、迷言を、沢山書いて、膨大な、妄想を、積み重ねて、今に至る。


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